『トゥルー・グリット』をTOHOシネマズ六本木で見てきました。
(1)ことさらな西部劇ファンでもなく、またコーエン兄弟の作品に通じているわけでもないため、本作品についての事前の情報など何もなしに、ただ『ヒア アフター』のマット・デイモンが出演しているというので映画館に行ってみたところ、案に相違してなかなか良い出来栄えの映画でした。
一つには、父親の仇・チェイニー(ジョシュ・ブローリン)を追って、主人公らの一行がインデアン居留区の森の中に分け入っていくのですが、つい最近見たタイ映画『ブンミおじさんの森』で描き出される親密性の濃い森とどうしても比べてみたくなってしまいます。
タイ映画の森では、様々の精霊が入り乱れ、過去も現在も未来も混在しているようで、人間が生まれ出てくるところであると同時に、帰るべきところにもなっています。まさに、現在生きている人々と一体になっているファンタジー豊かな場所といえるでしょう。
ところが、本作品の場合には、父親の仇を追う14歳の少女マティ(ヘイリー・スタインフェルド)、彼女が雇った保安官コグバーン(ジェフ・ブリッジス)、それに別途の理由でチェイニーを追うラビーフ(マット・デイモン)が、森に分け入っていくと、すぐに高い樹木に吊るされた男の死体に遭遇しますし、住民のインディアンとかクマの毛皮を被った怪しげな歯科医にも出会います。なにより、チェイニーを匿っている悪党ネッド達が巣食っているのです。
本作品の森は、決して人間が本来的に居着くようなファンタジー溢れる場所ではなさそうです。
それに、時期が冬なのでしょう、木々の緑は少なく、時折降雪も見られ、とても『ブンミおじさんの森』のように、王女が池でナマズと契るといった雰囲気ではありません!
とはいえ、無数の星が散りばめられている夜空を森の外に広がる草原の上に見かけると、精霊が飛び交ってもおかしくないのでは、とも思えてきますが。
こうした光景に対するのが、仇のチェイニーを追う少女マティが出発点とした西部の町・フォートスミスの有様でしょう。随分と賑わっている西部の町という感じですが、映画では、特に司法に関する場面が2つ描かれます。
一つは公開処刑であり、その際、3人の死刑囚のうち2人は最後の言葉を許されるものの、最後のインディアンの死刑囚は、問答無用に吊るされてしまいます。
もう一つは、裁判所です。丁度、保安官コグバーンが証人として証言をしている最中ながら、奥の方には陪審員席に陪審員たちが座っている光景が映し出されます。
こんな光景がアメリカの原点なのかなという気にさせられます。
こうした森と町とを背景にして少女マティらの一行3人がチェイニーを追跡します。
マア西部劇のお定まりとはいえ、なかなか緊迫感のあるいいシーンを見ることが出来ます。
山場となるのは3つの場面でしょう。
一つは、テキサス・レンジャーのラビーフが悪党ネッドら4人組と対峙する場面。とはいえマット・デイモンは、相手の投げ縄に捕まってしまい窮地に陥りますが、山の上から様子をうかがっていた保安官コグバーンの銃撃によって助かります。
もう一つは、保安官コグバーンが悪党4人組と対峙する場面。悪党ネッドの銃撃で倒れた馬の下敷きになって、ジェフ・ブリッグスはあわやとなるものの、今度は山の上にいたラビーフのカービン銃によって悪党ネッドは倒されます。
二つの場面の間に、川に水を汲みに来たマティがチェイニーと出くわすシーンがあります。マティはチェイニーを銃で撃つも、かすり傷を負わせただけ。逆に、そばにいた4人の悪党らに捕えられてしまいます。
こうして見ると、映画の山場はいずれも、中心的な登場人物が一人ずつ多数と対峙する場面になっているように思われます。
更に言えば、多勢に無勢の窮地を救いだす者が毎回山の上にいるという設定も、面白いと思われます。3番目の例では、捕まったマティを救うために、コグバーンは向い側の山の上に遠ざかりますが、その間に、ラビーフは、密かに悪党らのいる山を背後から登り、チェイニーに殺されかけたマティを救いだすのです!
なお、マット・デイモンの存在も面白いなと思いました。『インビクタス』でもそうですが、どうも彼の役柄は、その人柄を反映しているためなのでしょうか、真っ直ぐなものになりがちです。ですが、今回の作品の場合、チェイニーを追うテキサス・レンジャーながら、その話す内容は大袈裟すぎてコグバーンに信用してもらえず、また悪党ネッドらの仕打ちで舌を損傷していながらも喋りまくる様はユーモラスな感じを与えます。でも、最後には、危ぶまれた銃の腕前をいかんなく発揮して、持ち前の真っ直ぐさを観客に印象付けるのですが。
(2)そして、ジェフ・ブリッジスです。
本作を観る前に、彼がアカデミー賞主演男優賞を獲得した『クレイジー・ハート』のDVDをたまたま見たのですが、今回の作品と何となく類似するものを感じました(その前には、評判が芳しくない『ヤギと男と男と壁と』を見ましたが、これは異色過ぎます)。
なにより、酒浸りの様がカントリー・ミュージシャンのバッド・ブレイクと保安官コグバーンとで共通しています。もちろん、現在61歳のブリッジスが演じるのですから、両者とも年格好はほぼ同じくらいでしょう(バッド・ブレイクは57歳の設定)。
そして、バッド・ブレイクは、地方新聞の記者のジーン(マギー・ジレンホール)を愛するようになるところ、保安官コグバーンも、毒蛇に噛まれたマティを必死になって助けようとします。
結局のところ、バッド・ブレイクもジーンと別れざるをえなくなり、またコグバーンも、家に戻るマティと別れます。マティが25年ぶりにコグバーンから手紙をもらって、その所属する「ワイルド・ウエスト・ショー」を訪ねて行った時には、彼の死に目に会えませんでした。
言うまでもありませんが、バッド・ブレイクは最近のミュージシャンですし、コグバーンは19世紀末の保安官ですから、時代設定や職業などいろいろ違っています。
でも、時期をおかず出演した二つの映画でこうも類似するところがあるというのも、大層興味深いことだなと思います。
(3)1点くらいは問題点を挙げてみたいと思います。
クマネズミは、映画のラストはあまり評価いたしません。
ハリウッド映画の特色の一つなのでしょうが、登場人物のその後を必要以上に描き出してしまうのです(この点については、『わたしの可愛い人』についての記事(2)でも触れたところです)。
本作品も、毒蛇に噛まれたマティをコグバーンが救えるかどうか、人の住む小屋の明かりを見つけたところでThe Endとし、あとは余韻に任せれば十分なのではないでしょうか?
ところが、劇場用パンフレットに掲載されている映画評論家・瀬戸川宗太氏のエッセイには、「本国アメリカで新作『トゥルー・グリット』が前作と比べ、極めて評判がよいのは、演出の巧みさもさることながら、原作により近いからである」とあります。
ですが、前作とされる『勇気ある追跡』(1969年)によって、主演のジョン・ウェインはアカデミー賞主演男優賞を獲得したわけですし、なにより瀬戸川氏はエッセイの冒頭で、「ハリウッド製西部劇ファンの圧倒的人気を博した」とも記していて、実際のところがどうなのかよくわかりません。
マアそれはさておき、同氏が、前作のラストでは「ジョン・ウェイン扮するコグバーンは元気はつらつで、マティ・ロス役のクム・ダービーも右手を包帯で吊っている程度である」と述べているので、DVDを見てみますと、確かにその通りです。
これに対して、本映画のラストでは「大人に成長したマティが姿を見せるが、この描写は原作の叙述に従ったもの」であり、「物語を原作のトーンで首尾一貫させるためには、このくだりを避けて通ることはできない」と同氏は述べています。
ですが、主役が保安官コグバーンである本作品について、主人公がマティである「原作のトーンで首尾一貫させる」とはどのような意味合いなのでしょうか?
映画は映画として制作されるはずのものであって、たとえ原作に基づく作品であろうとも、必要な改変であればどんなことも許されるのではないかと思われます。
要すれば、ジョン・ウェインの前作にしても、ジェフ・ブリッジスの本作にしても、同じ土俵の上にあって、原作とは無関係に映画の出来栄えとして比較すべきでしょう(注)。
ソウした観点から、クマネズミは、ラストシーンに関しては前作を支持したい(もっと言えば、前作のラストの前あたりでジ・エンドとするのであれば)と思います。
(注)誠につまらない点で恐縮ですが、ジョン・ウェインは左目にアイパッチを付けているところ、ジェフ・ブリッジスは右目です(髭の有無も目立ちますが!)。
この点について、ジェフ・ブリッジスは、「Film.com」のインタービュー記事において、どっちがgoodなのかフィーリングで決めただけのこと、と述べています。
ただし、この記事に拠れば、原作ではアイパッチのことは何も触れられてはいないそうです!
(4)映画評論家の評判は、総じてよさそうです。
渡まち子氏は、「決して華やかな作品ではない。だが、神話的ともいえる旅を繰り広げ、自らの手で正義をもぎとる少女マティの強い心が見るものの胸を打つ秀作だ。淡々とした後日談が泣かせるもので、本作が復讐劇やロードムービーであるだけでなく、奇妙な友情の物語だったことが分かる」として80点をつけています。
福本次郎氏は、「少女を演じたヘイリー・スタインフェルドの圧倒的な存在感が、むさくるしいオッサンばかりの西部劇の世界に凛とした美しさをもたらして」おり、映画は、「結局、純粋に「正義」を執行できるのは自分や自分の身内が理不尽な目にあった者の復讐心だけという、正義の本質を見事についていた」として80点もの高得点を与えています。
中野豊氏も、「キャスト・スタッフ・製作陣の三役揃い踏みの、今年観ておきたいウェスタン映画の逸品です」として85点をつけています。
★★★★☆
象のロケット:トゥルー・グリット
(1)ことさらな西部劇ファンでもなく、またコーエン兄弟の作品に通じているわけでもないため、本作品についての事前の情報など何もなしに、ただ『ヒア アフター』のマット・デイモンが出演しているというので映画館に行ってみたところ、案に相違してなかなか良い出来栄えの映画でした。
一つには、父親の仇・チェイニー(ジョシュ・ブローリン)を追って、主人公らの一行がインデアン居留区の森の中に分け入っていくのですが、つい最近見たタイ映画『ブンミおじさんの森』で描き出される親密性の濃い森とどうしても比べてみたくなってしまいます。
タイ映画の森では、様々の精霊が入り乱れ、過去も現在も未来も混在しているようで、人間が生まれ出てくるところであると同時に、帰るべきところにもなっています。まさに、現在生きている人々と一体になっているファンタジー豊かな場所といえるでしょう。
ところが、本作品の場合には、父親の仇を追う14歳の少女マティ(ヘイリー・スタインフェルド)、彼女が雇った保安官コグバーン(ジェフ・ブリッジス)、それに別途の理由でチェイニーを追うラビーフ(マット・デイモン)が、森に分け入っていくと、すぐに高い樹木に吊るされた男の死体に遭遇しますし、住民のインディアンとかクマの毛皮を被った怪しげな歯科医にも出会います。なにより、チェイニーを匿っている悪党ネッド達が巣食っているのです。
本作品の森は、決して人間が本来的に居着くようなファンタジー溢れる場所ではなさそうです。
それに、時期が冬なのでしょう、木々の緑は少なく、時折降雪も見られ、とても『ブンミおじさんの森』のように、王女が池でナマズと契るといった雰囲気ではありません!
とはいえ、無数の星が散りばめられている夜空を森の外に広がる草原の上に見かけると、精霊が飛び交ってもおかしくないのでは、とも思えてきますが。
こうした光景に対するのが、仇のチェイニーを追う少女マティが出発点とした西部の町・フォートスミスの有様でしょう。随分と賑わっている西部の町という感じですが、映画では、特に司法に関する場面が2つ描かれます。
一つは公開処刑であり、その際、3人の死刑囚のうち2人は最後の言葉を許されるものの、最後のインディアンの死刑囚は、問答無用に吊るされてしまいます。
もう一つは、裁判所です。丁度、保安官コグバーンが証人として証言をしている最中ながら、奥の方には陪審員席に陪審員たちが座っている光景が映し出されます。
こんな光景がアメリカの原点なのかなという気にさせられます。
こうした森と町とを背景にして少女マティらの一行3人がチェイニーを追跡します。
マア西部劇のお定まりとはいえ、なかなか緊迫感のあるいいシーンを見ることが出来ます。
山場となるのは3つの場面でしょう。
一つは、テキサス・レンジャーのラビーフが悪党ネッドら4人組と対峙する場面。とはいえマット・デイモンは、相手の投げ縄に捕まってしまい窮地に陥りますが、山の上から様子をうかがっていた保安官コグバーンの銃撃によって助かります。
もう一つは、保安官コグバーンが悪党4人組と対峙する場面。悪党ネッドの銃撃で倒れた馬の下敷きになって、ジェフ・ブリッグスはあわやとなるものの、今度は山の上にいたラビーフのカービン銃によって悪党ネッドは倒されます。
二つの場面の間に、川に水を汲みに来たマティがチェイニーと出くわすシーンがあります。マティはチェイニーを銃で撃つも、かすり傷を負わせただけ。逆に、そばにいた4人の悪党らに捕えられてしまいます。
こうして見ると、映画の山場はいずれも、中心的な登場人物が一人ずつ多数と対峙する場面になっているように思われます。
更に言えば、多勢に無勢の窮地を救いだす者が毎回山の上にいるという設定も、面白いと思われます。3番目の例では、捕まったマティを救うために、コグバーンは向い側の山の上に遠ざかりますが、その間に、ラビーフは、密かに悪党らのいる山を背後から登り、チェイニーに殺されかけたマティを救いだすのです!
なお、マット・デイモンの存在も面白いなと思いました。『インビクタス』でもそうですが、どうも彼の役柄は、その人柄を反映しているためなのでしょうか、真っ直ぐなものになりがちです。ですが、今回の作品の場合、チェイニーを追うテキサス・レンジャーながら、その話す内容は大袈裟すぎてコグバーンに信用してもらえず、また悪党ネッドらの仕打ちで舌を損傷していながらも喋りまくる様はユーモラスな感じを与えます。でも、最後には、危ぶまれた銃の腕前をいかんなく発揮して、持ち前の真っ直ぐさを観客に印象付けるのですが。
(2)そして、ジェフ・ブリッジスです。
本作を観る前に、彼がアカデミー賞主演男優賞を獲得した『クレイジー・ハート』のDVDをたまたま見たのですが、今回の作品と何となく類似するものを感じました(その前には、評判が芳しくない『ヤギと男と男と壁と』を見ましたが、これは異色過ぎます)。
なにより、酒浸りの様がカントリー・ミュージシャンのバッド・ブレイクと保安官コグバーンとで共通しています。もちろん、現在61歳のブリッジスが演じるのですから、両者とも年格好はほぼ同じくらいでしょう(バッド・ブレイクは57歳の設定)。
そして、バッド・ブレイクは、地方新聞の記者のジーン(マギー・ジレンホール)を愛するようになるところ、保安官コグバーンも、毒蛇に噛まれたマティを必死になって助けようとします。
結局のところ、バッド・ブレイクもジーンと別れざるをえなくなり、またコグバーンも、家に戻るマティと別れます。マティが25年ぶりにコグバーンから手紙をもらって、その所属する「ワイルド・ウエスト・ショー」を訪ねて行った時には、彼の死に目に会えませんでした。
言うまでもありませんが、バッド・ブレイクは最近のミュージシャンですし、コグバーンは19世紀末の保安官ですから、時代設定や職業などいろいろ違っています。
でも、時期をおかず出演した二つの映画でこうも類似するところがあるというのも、大層興味深いことだなと思います。
(3)1点くらいは問題点を挙げてみたいと思います。
クマネズミは、映画のラストはあまり評価いたしません。
ハリウッド映画の特色の一つなのでしょうが、登場人物のその後を必要以上に描き出してしまうのです(この点については、『わたしの可愛い人』についての記事(2)でも触れたところです)。
本作品も、毒蛇に噛まれたマティをコグバーンが救えるかどうか、人の住む小屋の明かりを見つけたところでThe Endとし、あとは余韻に任せれば十分なのではないでしょうか?
ところが、劇場用パンフレットに掲載されている映画評論家・瀬戸川宗太氏のエッセイには、「本国アメリカで新作『トゥルー・グリット』が前作と比べ、極めて評判がよいのは、演出の巧みさもさることながら、原作により近いからである」とあります。
ですが、前作とされる『勇気ある追跡』(1969年)によって、主演のジョン・ウェインはアカデミー賞主演男優賞を獲得したわけですし、なにより瀬戸川氏はエッセイの冒頭で、「ハリウッド製西部劇ファンの圧倒的人気を博した」とも記していて、実際のところがどうなのかよくわかりません。
マアそれはさておき、同氏が、前作のラストでは「ジョン・ウェイン扮するコグバーンは元気はつらつで、マティ・ロス役のクム・ダービーも右手を包帯で吊っている程度である」と述べているので、DVDを見てみますと、確かにその通りです。
これに対して、本映画のラストでは「大人に成長したマティが姿を見せるが、この描写は原作の叙述に従ったもの」であり、「物語を原作のトーンで首尾一貫させるためには、このくだりを避けて通ることはできない」と同氏は述べています。
ですが、主役が保安官コグバーンである本作品について、主人公がマティである「原作のトーンで首尾一貫させる」とはどのような意味合いなのでしょうか?
映画は映画として制作されるはずのものであって、たとえ原作に基づく作品であろうとも、必要な改変であればどんなことも許されるのではないかと思われます。
要すれば、ジョン・ウェインの前作にしても、ジェフ・ブリッジスの本作にしても、同じ土俵の上にあって、原作とは無関係に映画の出来栄えとして比較すべきでしょう(注)。
ソウした観点から、クマネズミは、ラストシーンに関しては前作を支持したい(もっと言えば、前作のラストの前あたりでジ・エンドとするのであれば)と思います。
(注)誠につまらない点で恐縮ですが、ジョン・ウェインは左目にアイパッチを付けているところ、ジェフ・ブリッジスは右目です(髭の有無も目立ちますが!)。
この点について、ジェフ・ブリッジスは、「Film.com」のインタービュー記事において、どっちがgoodなのかフィーリングで決めただけのこと、と述べています。
ただし、この記事に拠れば、原作ではアイパッチのことは何も触れられてはいないそうです!
(4)映画評論家の評判は、総じてよさそうです。
渡まち子氏は、「決して華やかな作品ではない。だが、神話的ともいえる旅を繰り広げ、自らの手で正義をもぎとる少女マティの強い心が見るものの胸を打つ秀作だ。淡々とした後日談が泣かせるもので、本作が復讐劇やロードムービーであるだけでなく、奇妙な友情の物語だったことが分かる」として80点をつけています。
福本次郎氏は、「少女を演じたヘイリー・スタインフェルドの圧倒的な存在感が、むさくるしいオッサンばかりの西部劇の世界に凛とした美しさをもたらして」おり、映画は、「結局、純粋に「正義」を執行できるのは自分や自分の身内が理不尽な目にあった者の復讐心だけという、正義の本質を見事についていた」として80点もの高得点を与えています。
中野豊氏も、「キャスト・スタッフ・製作陣の三役揃い踏みの、今年観ておきたいウェスタン映画の逸品です」として85点をつけています。
★★★★☆
象のロケット:トゥルー・グリット
このラストは中途半端だと思いました。
ヘイリー・スタインフェルドの存在感が印象的で
素晴らしかったです。
私的には
ラスト コーエン兄弟らしくて 嫌いじゃなかったです
確かに、山の上にいた人物からの攻撃によって事態が好転するといった場面が多いですね。
これはこの作品に限らず、西部劇のお約束的なものなんでしょうか。
アイパッチの位置は気がつきませんでした。うっかり・・・
想い出して下さい。本作はマティの回想で幕を開けます。これは彼女の回顧録です。真の主役は映画においてもマティです。彼女の回想で始まった作品が彼女の回想で終わるのは至極当然のことです。
片腕となり相変わらず気丈なマティの顔には幸薄き人生の年輪がしっかりと刻み込まれています。コグバーンとラビーフとの再会も叶わず、彼女は独身のまま人生を終えようとしています。
あの短い淡々としたエピローグで観客は愛すべきマティの哀しい後半生を知り、彼女もまた復讐の対価を払ったことを知るのです。
去り行く彼女の後姿に重なる讃美歌「とこしえの御腕に抱かれて」の歌詞も意味深です。コグバーンは彼女の永遠のヒーローであり、思い出のなかのヒーローなのです。
運命のいたずらと過ぎ去る時の流れに翻弄される人生のはかなさを、切なくしみじみと感じさせるこのエピローグ無くして本作は有り得ないと私は思っています。
確かに、この映画は、「マティの回想で幕を開け」るのであり、また全体は「彼女の回顧録で」あり、そうだとしたらあるいは「真の主役は映画においてもマティ」なのかもしれません。
でも、そう一方的に決めつけなくとも構わないのではないでしょうか?
たとえ、「彼女の回顧録」だとしても、その中でコグバーンやラビーフの思い出を語っている部分を大写しにしたのだと捉えれば、コグバーンが主役であっても一向に構わないと思いますし、マティの最後まで映画で描かずとも十分なのではないでしょうか(この場合は、マティは狂言回しの役割を担っていることになりますから、最後の場面を殊更描く必要がなくなるわけです)?
ブログ本文でも申し上げましたが、映画評論家・瀬戸川宗太氏がいうように、「物語を原作のトーンで首尾一貫させるためには、このくだりを避けて通ることはできない」のでしょうが、何も映画は原作通りに仕上げる必要など毛頭ないのではと思っております。
ですから、「ごめんねジロー」さんのように最後の「エピローグ無くして本作は有り得ない」とはクマネズミは考えておらず、むしろそんな余計な物はない方がこの映画はスッキリと終わることが出来たはずではないかと思っています。
映画の解釈は人それぞれですので、仰る通り決め付けるような言い方は不適当ですね。この映画には思い入れが強く、ついむきになってしまったようです。
狂言回しを使いその思い出のなかの登場人物を主役にするという作劇法ももちろん承知しています。
しかし、本作にはマティが無事に助かってメデタシ、メデタシで終わってしまってはいけないドラマの根幹たるテーマがあります。
冒頭のマティのモノローグの最後にこういうセリフがあります。
You must pay for everything in this world, one way and another. There is nothing
free except the grace of God.
オリジナル・ポスターにも以下のようなキャッチ・コピーがあります。
Punishment comes one way or another
因果応報。これがこの作品のテーマです。
マティはチェイニーに父親殺しの代償を払わせようとします。この世で無償なのは神のご加護だけだと信じて。しかしこの教えは復讐を遂げ殺人を犯したマティも負うべきものです。正に因果応報。マティは片腕を失いその気丈な性格もあり独り身で人生を終えようとしています。これが彼女に与えられたPunishmentです(本来はチェイニーを撃った後、穴に落ちて死ぬ運命だったのでしょうが)。
9.11以降よく叫ばれる暴力の連鎖、憎しみの連鎖ということを示唆しようとする意図も製作者にあったかも知れませんが、いずれにしてもこの映画は根幹部分からハッピーエンドを否定しており、マティもまた責めを受けるエピローグがあってこそこのドラマは首尾一貫完結するのだと思います。
もちろんこれは私の解釈ですから、そもそも他人に押し付けるようなものではありません。但し、エピローグで大きな感動を味わった私としては、是非こういう解釈の仕方もあるのだということをご理解頂き、よりこの作品を楽しんで頂ければと思いコメントをした次第です。
勝手な意見を長々と失礼いたしました。
さて、「決め付けるような言い方は不適当」とおっしゃるところ、「因果応報。これがこの作品のテーマ」とか、「いずれにしてもこの映画は根幹部分からハッピーエンドを否定」とのおっしゃりようが、まさに「決め付けるような言い方」に該当するのでは、と思います。
むしろ、文学作品とか映画作品といった創造的な行為によって作られたものは、無数のテーマの集合体ではないでしょうか?その中には、制作者が考えたものもあるでしょうし、読者や観客など受け手が読み取ったもの、感じ取ったものもあるでしょう。
そして、それらの間には優劣とか上下など存在しないのでは、とクマネズミは考え、従って、映画を見て統一的な一つのテーマを探し出すことに意味を見出してはおりません(受験時代の「この文章の主題は何か10字以内で答えよ」との現国問題を思い起こしてしまうせいでもありますが)。
逆に、映画に何か重いテーマを見出して、それで全体を統一して見るのは、無数のテーマで覆われているはずの映画の創造的な面を見ないことになってしまうのではないでしょうか?
単なる無意味な例示にすぎませんが、例えば、この映画は、「森」と「夜空」との対比を描きだしたものと捉えてはどうでしょうか、あるいはPunishmentとおっしゃるのなら「公開処刑」と「私刑」との対比、西部劇だとするなら1人と4人との対決とか山の「上」と「下」との対決、といった様々の観点から捉えることが出来るのではないでしょうか?
そういう多様な味方が出来るのに、「ごめんねジロー」さんは、どうして「因果応報」などというありきたりの観点(別にこの映画を見なくても、皆が普段から重々承知していること)を中心に据えて、そこから全体を統一的に捉えようとされるのでしょうか?
とどのつまりは、日常よく分かっているはずの事柄をこの映画にも見出すに過ぎず(復習効果しかありません)、そんなことなら、何も時間を掛けて映画など見るまでもないのでは、と思ってしまいます。
クマネズミは、「首尾一貫完結」した映画を見ても、それは制作側の横暴ではないかと感じて、何も「感動」はいたしません。仮に、この映画がそうした作りになっているとしたら、★は一つしかつけられないことでしょう!
「よりこの作品を楽し」むためには、むしろ、この映画にどんな革命的な要素が潜んでいるのか、世の中を変革する手がかりとなるようなものの見方が何かないのかと、気持をもっとオープンにして見ては如何かと思うのですが(かくいうクマネズミも、なかなか出来ないことなのですが)?
映画が無数のテーマの集合体とする前半部分、オープンな気持ちで映画を観ようという最後の部分については全く同感です。「そういう多様な見方が出来るのに~」から「何も「感動」はいたしません」までの部分については意見の相違があるようです。
残念ながら私の周りに本作を観た者がおらず(今、会う人ごとに観るよう薦めていますが)、今回あなたのような映画をきちんと鑑賞し、自分の言葉に落とし込めるような方と本作を語れたことは、私としては大変有意義でした。ありがとうございました。
次回はお互い意見の合う作品で語り合いたいものですね。
ともすると分かったような書き方をしてしまいがちなのですが、実のところは、我が身を省みて毎度冷や汗ものなのです。
だって、「内心」にせよ何にせよ、「決め付けるような言い方」を先ずしてみなければ、一歩たりとも書き進むことなど出来ませんからね!
といった台所事情なもので、これに懲りずに、オカシナ箇所、見解が異なる箇所(無数にあることでしょう!)についての異議とか、その他どんなことでもどんどんご指摘いただければ幸いです。そのためのブログなのですから。
どうかよろしくお願いいたします。
をご覧下さい。
それにしても、マティ・ロスを演じたヘイリー・スタインフェルドは凄いですね。