『Somewhere』を吉祥寺のバウスシアターで見てきました。
(1)映画を制作したソフィア・コッポラ監督については、少し前にDVDで見たことがある『ロスト・イン・トランスレーション』(2003年)が、東京を舞台にした大変興味深い作品だったこともあり、今回の作品にも期待したところです。
実際に見てみると、期待にたがわず、なかなかよくできた映画だなと思いました。
とはいえ、問題がないわけではないでしょう。
まずは、長回しがとても多く使われている点があげられるでしょう。
たとえば、冒頭のシーンでは、主人公のジョニー(スティーヴン・ドーフ)がフェラーリに乗り、けたたましい爆音を鳴り響かせながら、野原の周回コースのようなところを何度も何度も繰り返し走り回るのです。
また、ジョニーは、宿泊先のホテル(ハリウッドにあるシャトー・マーモント)に戻って自分の部屋に入ると、二人の若い女性が演じるポールダンスを暫くの間じっと見ています(折りたたむことの出来るハンディなポールを持ってきて、部屋の中で演じます)。彼女たちは、別に服を脱いでいくわけでもなく、ただ単にポールに手をかけてグルグル回ったりするだけで、ジョニーの方も、ベッドで寝ころびながらそれをじっと見つめるにすぎません(このポールダンスは2回ほど映画に登場します)。
さらにジョニーは、離婚した妻レイラの元にいる娘クレオ(エル・ファニング)と一緒に過ごせる週末に、スケートリンクに出かけて、娘のフィギュアスケートを眺めるのですが、この場面も長く続きます。クレオは、まだそんなに上級の技術を身に着けておらず、従って回転ジャンプなど出来ないわけで、これも単調にぐるぐるリンクを滑って回るだけながら、それをジョニーは観客席から静かに眺めています。
このように、一見すると余り特徴のない退屈さを感じさせる長回しが、本作品では多用されています。
ただ、それがこうも繰り返し使われると、見ている方もそれには何か意味が込められているのだなと推理しはじめます。
おそらくは、超有名映画スターであるジョニーの生活の空虚さ・単調さといったことが反映されているのでしょう(どの長回しも、描き出されるのは、どれも円運動をするものばかりですから。一回転すれば、また元の地点に戻ってくるにすぎません!)。
そして、そうに違いないことは、以降の様々な場面を見ていくうちに、見る方も次第にわかってきます。
でも、言うまでもないことながら、事態はそんなに簡単には進行しません。
前から予定されていたのでしょう、ジョニーが出演した作品がイタリアで賞を受けることになり、急遽ミラノに飛ぶことになります。クレオを養育しているはずの前妻が家を空けなくてはならないというので、ジョニーは仕方なしに、クレオを伴ってイタリアに向かうことになります。
ただ、このイタリアでの有様は、実にゴージャス(何しろ、隣室に屋内プールが設けられている豪華な部屋を宿泊先としてあてがわれるのですから!)、かつ愉快なもので、それまでこの映画の基調を形作っていた重苦しさとは対極にある感じです(注)。
でも、やはりそれは一時の気分転換にすぎません。ジョニーの内面の空虚さは広がってくるばかりです。フェラーリをぶっ飛ばしても、女性と様々に付き合っても、「自分には何もない」という思いが募ってきます。
と言って、何の趣味もないのかというと、どうやら音楽には造詣が深いようです。クエオと一緒にロック・ギターを弾いたりしますし、バッハのゴールドベルグ変奏曲のアリアをピアノで弾いたりします。ただ、いずれも中途半端のレベルで、演奏する自分の心が癒されるまでには到達していない様子です。
そこでもう一つの問題も浮上してきます。すなわち、ジョニーは、自分の抱える虚しさの余りの大きさから、涙を流しながら前妻のレイラに電話をかけるのです。「自分には何もないんだ、こっちに来れないか、また一緒にやっていかないか」とレイラに向かって話しかけます。
でも、それはあまりに身勝手というべきでしょう。
自分の方では、行き当たりばったりにドンドン女を引っ掛けているくせに、それに虚しさを感じると、元の奥さんに泣き言を言うのですから、やってはいられません。
ただ、そう言ってしまうと彼も逃げ場がなくなってしまうでしょう。
それに、逆に、自身の中に大きな空洞を抱え込んでいるからこそ、女性を渡り歩くのであって、なにもそうして楽しみたいからというわけでもなさそうなのです(ポールダンスの女性を部屋に呼んでも、あまり楽しそうにダンスを見ているわけでもありませんし)。
おそらく、ジョニーの心の空虚さは、前妻のレイラが仮に戻ってきたとしても、消えることはないでしょう。
となると、最後のよりどころは娘のクレオ。
確かに、イタリアなどでクレオと楽しい一時を過ごしはします。
ですが、それだって彼女には学校生活があったり、友人と過ごす時間の方が長いでしょう。現にそのクレオも、学校のキャンプに参加せねばならず、ついにはジョニーは一人きりになってしまいます。
それに、たとえクレオがキャンプに行かなくとも、すぐに大きくなって独り立ちし、親元から離れてしまうのですし!
ラストでは、ジョニーはフラーリを走らせて、単調にまっすぐに道路が続くだけの草原で車を放棄して一人とぼとぼと歩きだします。どこに向かって歩いていこうというのでしょうか?それでもどこか(somewhere)があるに違いありません。
この作品にはもう一つ問題があるように思われます。
すなわち、心にポッカリと大きな穴が開いて何もそれを埋めることが出来ない状況というのは、これまでも散々文学等で取り上げられてきており、この作品は、単にそれらの長いリストにもう一つ名前を連ねただけではないか、という点です。
確かに、主人公が超売れっ子のハリウッドスターであるとか、フェラーリを乗り回すとか、娘がフィギュアスケートをするとかの点では、新奇性があるかもしれません。ですが、それは取り替えのきく外観だけのことであって、基本的なところを見てみれば、旧態依然たるものがあるようにも考えられるところです。
ただ逆に、そう言ってしまうと身も蓋もない話になってしまい、むしろ現代人の有様を少しでも真正面から捉えようとすれば、どんな作品であっても、多かれ少なかれ現代人の心の空虚さを描かざるをえないのではないか、とも思われてきます。
そしてこの作品は、むしろ、そういった面をことさら大きく捉えようとしている点に面白さがあると言えるのかもしれません。
としたら、フェラーリを投げ出してsomewhereに向かって歩いて行くジョニーを温かく見守っていこうではないかと言ってみたくもなってきます。
なお、主人公を演じるスティーヴン・ドーフは、オフのスターだったらこんな感じになるのだろうなと見る者を納得させるような雰囲気を、実にうまく作り出していると思います(『パブリック・エネミーズ』に出演していたのですが、あまり印象に残っていません)。
(注)イタリアでジョニーは、イタリア放送局のアナウンサーからのインタビューを受けます。その際、質問に対して一言二言で簡潔に答えるにもかかわらず、長々とイタリア語に翻訳されて放送されてしまいます。ソフィア・コッポラ監督の前々作『ロスト・イン・トランスレーション』には、ビル・マーレイに日本人演出家が長々指示をするものの、通訳が一言二言で済ませてしまうシーンがありますが、これはそのシーンと逆の意味で通じるものがあって、非常に面白いなと思いました。
(2)本作品は、ジョニー役のスティーヴン・ドーフと、娘のクレオ役のエル・ファニングとで作られていると言っても過言ではないでしょうが、そうなると、最近見た『トゥルー・グリット』のヘイリー・スタインフェルドと比べてみたくなってしまいます。
年齢の点では、 ヘイリー・スタインフェルドが14歳で、エル・ファニングが11歳と随分と近いものの、これまでの経歴の点では、前者は短編映画2本に出演しただけであるのに対して、後者は幼いときから超売れっ子子役でした。
役の点からすると、マティが実年齢と同じ14歳であり、またクレオも13歳とほぼ同じですが、マティの武器が大人顔負けの度胸であるのに対して、クレオの方はフィギュアスケートなど多彩な才能を持っているようです。
そして、マティは毒蛇に噛まれて腕を一本失ってしまいますが、クレオの方も頼りにしていた母親に捨てられてしまったようなのです。
マア類似点と相違点とがあって、どちらが良いか比べても意味はないかもしれず、ここは両者とも実に適切にキャスティングされているとして、彼らをそれぞれ選び出したスタッフの確かな目を賞賛すべきでしょう。
(3)映画評論家の意見は分かれるようです。
渡まち子氏は、「センチメンタルなのにどこか乾いた空気が、ソフィア・コッポラならではのテイストで、それは自伝的要素の強い本作でも強く感じられる」。主人公とその娘の「二人がかけがえのない時間を過ごす様子が、切なくもいとおしい。なんだかヘンテコなイタリア旅行、午後のまどろみ、たわいないおしゃべり。キャンプに持っていく持ち物を決めるだけでも楽しくてたまらない。さりげない感情のうつろいを、センスのいい音楽にのせてスケッチするのがいかにもソフィア・コッポラらしい」などとして65点を付けています。
他方で福本次郎氏は、「連綿たる間延びしたシーンと緊張感に乏しい演出は、時間の流れをリアルに再現してはいるが、感情の起伏に乏しく平板な印象は禁じえない」、「カメラはあえてジョニーの内面に踏み込もうとはせず、不器用な彼の行動を見守るばかり。そこからはユーモアもペーソスも感じられなかった」として40点しか与えていません。
ただ、福本氏の「「連綿たる間延びしたシーンと緊張感に乏しい演出」との評は、この映画のキモを見ていないのでは、としか言いようがありません。
★★★☆☆
象のロケット:Somewhere
(1)映画を制作したソフィア・コッポラ監督については、少し前にDVDで見たことがある『ロスト・イン・トランスレーション』(2003年)が、東京を舞台にした大変興味深い作品だったこともあり、今回の作品にも期待したところです。
実際に見てみると、期待にたがわず、なかなかよくできた映画だなと思いました。
とはいえ、問題がないわけではないでしょう。
まずは、長回しがとても多く使われている点があげられるでしょう。
たとえば、冒頭のシーンでは、主人公のジョニー(スティーヴン・ドーフ)がフェラーリに乗り、けたたましい爆音を鳴り響かせながら、野原の周回コースのようなところを何度も何度も繰り返し走り回るのです。
また、ジョニーは、宿泊先のホテル(ハリウッドにあるシャトー・マーモント)に戻って自分の部屋に入ると、二人の若い女性が演じるポールダンスを暫くの間じっと見ています(折りたたむことの出来るハンディなポールを持ってきて、部屋の中で演じます)。彼女たちは、別に服を脱いでいくわけでもなく、ただ単にポールに手をかけてグルグル回ったりするだけで、ジョニーの方も、ベッドで寝ころびながらそれをじっと見つめるにすぎません(このポールダンスは2回ほど映画に登場します)。
さらにジョニーは、離婚した妻レイラの元にいる娘クレオ(エル・ファニング)と一緒に過ごせる週末に、スケートリンクに出かけて、娘のフィギュアスケートを眺めるのですが、この場面も長く続きます。クレオは、まだそんなに上級の技術を身に着けておらず、従って回転ジャンプなど出来ないわけで、これも単調にぐるぐるリンクを滑って回るだけながら、それをジョニーは観客席から静かに眺めています。
このように、一見すると余り特徴のない退屈さを感じさせる長回しが、本作品では多用されています。
ただ、それがこうも繰り返し使われると、見ている方もそれには何か意味が込められているのだなと推理しはじめます。
おそらくは、超有名映画スターであるジョニーの生活の空虚さ・単調さといったことが反映されているのでしょう(どの長回しも、描き出されるのは、どれも円運動をするものばかりですから。一回転すれば、また元の地点に戻ってくるにすぎません!)。
そして、そうに違いないことは、以降の様々な場面を見ていくうちに、見る方も次第にわかってきます。
でも、言うまでもないことながら、事態はそんなに簡単には進行しません。
前から予定されていたのでしょう、ジョニーが出演した作品がイタリアで賞を受けることになり、急遽ミラノに飛ぶことになります。クレオを養育しているはずの前妻が家を空けなくてはならないというので、ジョニーは仕方なしに、クレオを伴ってイタリアに向かうことになります。
ただ、このイタリアでの有様は、実にゴージャス(何しろ、隣室に屋内プールが設けられている豪華な部屋を宿泊先としてあてがわれるのですから!)、かつ愉快なもので、それまでこの映画の基調を形作っていた重苦しさとは対極にある感じです(注)。
でも、やはりそれは一時の気分転換にすぎません。ジョニーの内面の空虚さは広がってくるばかりです。フェラーリをぶっ飛ばしても、女性と様々に付き合っても、「自分には何もない」という思いが募ってきます。
と言って、何の趣味もないのかというと、どうやら音楽には造詣が深いようです。クエオと一緒にロック・ギターを弾いたりしますし、バッハのゴールドベルグ変奏曲のアリアをピアノで弾いたりします。ただ、いずれも中途半端のレベルで、演奏する自分の心が癒されるまでには到達していない様子です。
そこでもう一つの問題も浮上してきます。すなわち、ジョニーは、自分の抱える虚しさの余りの大きさから、涙を流しながら前妻のレイラに電話をかけるのです。「自分には何もないんだ、こっちに来れないか、また一緒にやっていかないか」とレイラに向かって話しかけます。
でも、それはあまりに身勝手というべきでしょう。
自分の方では、行き当たりばったりにドンドン女を引っ掛けているくせに、それに虚しさを感じると、元の奥さんに泣き言を言うのですから、やってはいられません。
ただ、そう言ってしまうと彼も逃げ場がなくなってしまうでしょう。
それに、逆に、自身の中に大きな空洞を抱え込んでいるからこそ、女性を渡り歩くのであって、なにもそうして楽しみたいからというわけでもなさそうなのです(ポールダンスの女性を部屋に呼んでも、あまり楽しそうにダンスを見ているわけでもありませんし)。
おそらく、ジョニーの心の空虚さは、前妻のレイラが仮に戻ってきたとしても、消えることはないでしょう。
となると、最後のよりどころは娘のクレオ。
確かに、イタリアなどでクレオと楽しい一時を過ごしはします。
ですが、それだって彼女には学校生活があったり、友人と過ごす時間の方が長いでしょう。現にそのクレオも、学校のキャンプに参加せねばならず、ついにはジョニーは一人きりになってしまいます。
それに、たとえクレオがキャンプに行かなくとも、すぐに大きくなって独り立ちし、親元から離れてしまうのですし!
ラストでは、ジョニーはフラーリを走らせて、単調にまっすぐに道路が続くだけの草原で車を放棄して一人とぼとぼと歩きだします。どこに向かって歩いていこうというのでしょうか?それでもどこか(somewhere)があるに違いありません。
この作品にはもう一つ問題があるように思われます。
すなわち、心にポッカリと大きな穴が開いて何もそれを埋めることが出来ない状況というのは、これまでも散々文学等で取り上げられてきており、この作品は、単にそれらの長いリストにもう一つ名前を連ねただけではないか、という点です。
確かに、主人公が超売れっ子のハリウッドスターであるとか、フェラーリを乗り回すとか、娘がフィギュアスケートをするとかの点では、新奇性があるかもしれません。ですが、それは取り替えのきく外観だけのことであって、基本的なところを見てみれば、旧態依然たるものがあるようにも考えられるところです。
ただ逆に、そう言ってしまうと身も蓋もない話になってしまい、むしろ現代人の有様を少しでも真正面から捉えようとすれば、どんな作品であっても、多かれ少なかれ現代人の心の空虚さを描かざるをえないのではないか、とも思われてきます。
そしてこの作品は、むしろ、そういった面をことさら大きく捉えようとしている点に面白さがあると言えるのかもしれません。
としたら、フェラーリを投げ出してsomewhereに向かって歩いて行くジョニーを温かく見守っていこうではないかと言ってみたくもなってきます。
なお、主人公を演じるスティーヴン・ドーフは、オフのスターだったらこんな感じになるのだろうなと見る者を納得させるような雰囲気を、実にうまく作り出していると思います(『パブリック・エネミーズ』に出演していたのですが、あまり印象に残っていません)。
(注)イタリアでジョニーは、イタリア放送局のアナウンサーからのインタビューを受けます。その際、質問に対して一言二言で簡潔に答えるにもかかわらず、長々とイタリア語に翻訳されて放送されてしまいます。ソフィア・コッポラ監督の前々作『ロスト・イン・トランスレーション』には、ビル・マーレイに日本人演出家が長々指示をするものの、通訳が一言二言で済ませてしまうシーンがありますが、これはそのシーンと逆の意味で通じるものがあって、非常に面白いなと思いました。
(2)本作品は、ジョニー役のスティーヴン・ドーフと、娘のクレオ役のエル・ファニングとで作られていると言っても過言ではないでしょうが、そうなると、最近見た『トゥルー・グリット』のヘイリー・スタインフェルドと比べてみたくなってしまいます。
年齢の点では、 ヘイリー・スタインフェルドが14歳で、エル・ファニングが11歳と随分と近いものの、これまでの経歴の点では、前者は短編映画2本に出演しただけであるのに対して、後者は幼いときから超売れっ子子役でした。
役の点からすると、マティが実年齢と同じ14歳であり、またクレオも13歳とほぼ同じですが、マティの武器が大人顔負けの度胸であるのに対して、クレオの方はフィギュアスケートなど多彩な才能を持っているようです。
そして、マティは毒蛇に噛まれて腕を一本失ってしまいますが、クレオの方も頼りにしていた母親に捨てられてしまったようなのです。
マア類似点と相違点とがあって、どちらが良いか比べても意味はないかもしれず、ここは両者とも実に適切にキャスティングされているとして、彼らをそれぞれ選び出したスタッフの確かな目を賞賛すべきでしょう。
(3)映画評論家の意見は分かれるようです。
渡まち子氏は、「センチメンタルなのにどこか乾いた空気が、ソフィア・コッポラならではのテイストで、それは自伝的要素の強い本作でも強く感じられる」。主人公とその娘の「二人がかけがえのない時間を過ごす様子が、切なくもいとおしい。なんだかヘンテコなイタリア旅行、午後のまどろみ、たわいないおしゃべり。キャンプに持っていく持ち物を決めるだけでも楽しくてたまらない。さりげない感情のうつろいを、センスのいい音楽にのせてスケッチするのがいかにもソフィア・コッポラらしい」などとして65点を付けています。
他方で福本次郎氏は、「連綿たる間延びしたシーンと緊張感に乏しい演出は、時間の流れをリアルに再現してはいるが、感情の起伏に乏しく平板な印象は禁じえない」、「カメラはあえてジョニーの内面に踏み込もうとはせず、不器用な彼の行動を見守るばかり。そこからはユーモアもペーソスも感じられなかった」として40点しか与えていません。
ただ、福本氏の「「連綿たる間延びしたシーンと緊張感に乏しい演出」との評は、この映画のキモを見ていないのでは、としか言いようがありません。
★★★☆☆
象のロケット:Somewhere