『ゴダール・ソシアリスム』を吉祥寺バウスシアターで見てきました。
(1)映画館に出かけるまで
同映画館では、「ゴダール・ソシアリスム上映記念」として「特集:ジャン=リュック・ゴダール」と銘打ち、3月5日~18日に全部で7本のゴダール作品を上映することとしていました(1本は短編)。クマネズミは、大昔、今回上映された『勝手にしやがれ』(1960年)と『気狂いピエロ』(1965年)を見て大層面白いと思ったものの、その後の難解とされる作品は、敬して遠ざけ見てはおりません。
でも近くの映画館で「特集」されるのですから、この機会を逃す手はありません。小手調べに映画『右側に気をつけろ』(1987年)を見て大体の雰囲気を掴んだところで、最新作の『ゴダール・ソシアリスム』(2010年)に挑んでみようと考えました。
ですが、その計画は前半だけで破綻してしまいました。それも、『右側に気をつけろ』の余りの難解さに辟易して挫折(実際はそのとおりです!)しただけであればまだしも、『ゴダール・ソシアリスム』上映日直前になり、3月11日の東日本大震災によって映画館が全館閉鎖となってしまいました。
これでは手の打ちようがありません。
としたところ、なんと19日より営業再開され、この「特集」も1週間遅れで上映されるとの告知が、映画館のHPに掲載されました。
内心は大震災のせいで見たいものを見ることができなかった、残念至極などと言い訳しようかなと思っていたところ、逆にこうなると最新作を見ないわけにはいかない気になってしまいます。
という次第でバウスシアターに行ってきました。
(2)“ゴダール鑑賞3原則”
この「特集」を知ってから、「かろブッチ」さんが作成されているブログ「かろうじてインターネット」に本作品を取り上げている記事があることがわかり、ちらっとのぞいてみました(「かろブッチ」さんのブログの記事はどれも、映画を理論的な視点から実に鋭く分析されていて、いつも大変勉強になっています)。
そしたら、同記事には、「鑑賞する際に、あまり意識しすぎて頭こんがらがってしまわないように、以下の3つを心がけ」、「出来るだけ気楽に楽しく本作を鑑賞し」た、として次の項目が記載されているではありませんか!
「(イ)ゴダール監督作品という肩書きにビビらない。
(ロ)考えずに見る。
(ハ)眠ければ寝る。」
(3)『右側に気をつけろ』
それくらい簡単なことならクマネズミにもできそうだと思い、まず『右側に気をつけろ』で実践してみようと思い立ちました。
なにより「かろブッチ」さんは、「『右側に気をつけろ』が持っていたようなキャッチーな魅力」とおっしゃっているのですから、きっと何とかなるのではと思ったところです。
ですが、惨敗でした。
だって、ゴダール自身が映画に登場し、ドストエフスキーの『白痴』を読みながら、まるでムイシュキン侯爵であるかのように振る舞うのですが、「夕方までに映画を作って、首都に持ってくれば、昔の罪は赦される」といった電話がかかってきて、彼がフィルムの入った缶を手にして飛行機に乗ったりするものですから、これはなんだか面白そうだなと思ったのも束の間。引き続いて、わけのわからない男女がレコーディングしているシーンが長々と入り込みます。また、誰だか分からない人物が登場し、なんだか誰かの戯曲からの引用のようなセリフを話し、そして……、と進むうちに猛烈に眠気に襲われてしまいました。
「かろブッチ」さんは、上記“ゴダール鑑賞3原則”の(ロ)に関して、「一つ一つのショットに対する思考は早々に諦めて、無数のショットと音の流れから感じるものを掴めれば」いいとおっしゃっていますが、そうする間も有らばこそ、(ハ)に突入してしまったという具合(注1)。
さらに(ハ)に関して、「かろブッチ」さんは、「眠いときに寝るのも一つの鑑賞方法」と実に優雅に構えていらっしゃるところ、実際に眠ってしまうと、ブログの記事どころではなくなってしまいます(“ゴダール分からない派”に組みしようにも、眠ってしまえば、分からないのは何なのかが把握できないのですから!)!
(4)“ゴダール鑑賞3原則”への追加
こんな体たらくを演じてしまったのは、おそらく“ゴダール鑑賞3原則”の(イ)の意味合いを取り違えてしまったせいでしょう。そういう原則ならば、見る前に当該作品に関する一切の情報を遮断して、白紙でもって臨むべきではないか、と考えてしまったのです。
でもそんなことをしたら、何が何だか訳が分からなくなってしまうのは、火を見るよりも明らかなことでした!
そこで、本命の『ゴダール・ソシアリスム』を見るに当たっては、“ゴダール鑑賞3原則”にもう一つ加えてみることにしました。
すなわち、「(ニ)事前に知ることのできる情報は、なるべく収集の上、目を通しておく」。
幸いなことに、本作品に関しては、バウスシアターの窓口で、劇場用パンフレットをかなり前もって購入することができました。それも、在り来たりのものと違い、実に盛りだくさんな内容なのです。例えば、ストーリーの概要(「かろブッチ」さんがブログに掲載されている「"allcinema online"より抜粋」よりズッと詳しいもの)のみならず、「シナリオ採録」とか「ゴダール/インタビュー」なども含まれています。
(5)「シナリオ採録」
特に、堀潤之・関西大学文学部准教授による「シナリオ採録」の出来栄えは素晴らしく、90近くの訳注を頼りにすれば、本作品に何とか斬り込みをかけることができるかもしれないと、儚いながらも期待を持たせます。
たとえば、映画の冒頭近くで、ハイファ(イスラエル北部の都市)出身のレベッカという女性が、「私はいかなる民族も好きではない。フランス人も、北米人も、ドイツ人も、ユダヤ人も黒人も」とオフで話します(P.13)。
訳注6によれば、これはユダヤ人政治学者ハンナ・アーレントの書簡にある言葉。なぜユダヤ人がユダヤ人を嫌うのか理解し難いところ、ユダヤ神秘主義のショーレムが彼女の『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳、みすず書房)〔ユダヤ人狩りに協力したユダヤ人の存在を明らかにしました〕を批判したことに対する応酬とのこと。
そういう注釈があれば、レベッカによるオフの台詞、「誰もが、上が存在しないように振る舞うことができる。だが、今や、悪い奴らが真剣だ」(P.14)とか、「(英語で)生きるべきか死ぬべきか、(フランス語で)ユダヤ人として。ええ、そう言われました。両親に。でもそれで?言葉だけでは決して十分ではない」(P.16)とかの声が間を置いて映画から流れるのですが、全然分からないわけではない感じがしてきます。
(6)映像と音響
とはいえ、ゴダールの作品に関しては、十分なシナリオがあればそれだけで済むというわけのものではなさそうです。
昨年末に刊行された平倉圭著『ゴダール的方法』(インスクリプト)では、この映画冒頭の15分間の映像と音響について、次のように述べられています(一部省略してあります)。
「海面。波がスクリーンを覆う。風の激しいノイズ。船上の霧。断片的な会話。スクリーンに向かって踊る人々の背。群れをなす魚。「会話」する猫たち。戦闘機の墜落。話し合う男女の背後で窓ガラスに女がぶつかる」(P.8)。
上記の「シナリオ採録」では、当然のことながら、会話の部分は採録されているものの、映像や音響については十分には触れられていません。しかしながら、一般には、映像(さらには音響)こそがゴダール作品の要とされているようです。
とすると、冒頭のこの様々の映像も何かを訴えているのかもしれません(注2)。
例えば、「話し合う男女の背後で窓ガラスに女がぶつかる」映像は、実際のところは、“フランスのジェ-ムズ・ボンド”といわれるマルビエ(本人が出演)とコンスタンスが話しているレストランの窓ガラスに、“白いワンピース姿”のアリッサ(スペイン内戦で失われた黄金の謎の鍵を握る人物・ゴールドベルグの孫娘)がぶつかります。この映画の第1章とされる部分で中心的な役割を果たす人物が3人も登場するのですから、きっと重要なシーンなのでしょう。
ですが、クマネズミの歩みは、そこでハタと止まってしまいます。
(7)「かろブッチ」さんのレビュー
ところで、「かろブッチ」さんのブログ「かろうじてインターネット」においては、本作品について、次のように結論的に述べられています(注3)。
「ゴダールは、21世紀に誕生したデジタルの自由な映画概念が古い映画の概念を葬りさる様を、民主主義が産み出した自由がやがて民主主義を滅ぼすこととリンクさせて描こうとしたのではないだろうかと感じたそれが「YouTube時代」におけるゴダールの「映画」における回答なのではないだろうかと考える」。
こうした「ゴダールが表現していきたいもの」を映画から抽出する際の「かろブッチ」さんの手際は誠に素晴らしく、得られたテーゼには十分に説得力があると思います。
ただ、ゴダールは、言葉に回収されてしまうようなテーゼ(「民主主義が産み出した自由がやがて民主主義を滅ぼすこと」)を伝えるべく映画を作成したのだろうかという疑問も、同時に湧き起こってきます。このテーゼが正しいとしても、それは主にシナリオレベル(映画の中で話される言葉や字幕)から得られるもの(注4)であって、映像それ自体から得られるものとは何か異なるのではないか、とも思えてきます。
それに、「民主主義が産み出した自由がやがて民主主義を滅ぼすこと」自体は、昔から民主主義が抱える自己矛盾として随分議論されてきたテーマですから(注5)、いまさらゴダールがどうしてそんなことを訴えるのかな、という気にもなります。いったいゴダールは、そうしたテーゼに今時点で何を新たに付け加えようとするのでしょうか?そのためには、こうした映画内容が最適な伝達手段となるのでしょうか?
(8)クマネズミの見立て
しかしながら、こんなことを申し上げるだけでは、「かろブッチ」さんがなされた事柄に対して単に難癖を付けただけにすぎないでしょう。
そこで、誠にいい加減でお恥ずかしい限りですが、クマネズミの見立てを申し上げることと致しましょう(注6)。
本来ならば、上記(5)に引っ掛けて、ゴダールはこの映画で「ユダヤ人問題」を様々に取り上げたかったのだと言いたいところです(注7)。
なにより、この映画の第3楽章「われら人類」では、たとえば、「強制収容所で痩せこけた死体を引きずっている映像と、その上に「ユダヤ人」「ムスリム」の文字」という場面があるのです。
というのも、「シナリオ採録」の訳注によれば、強制収容所で、最も衰弱した者が、隠語で「ムスリム」と名付けられていたことに、ゴダールは1970年代から注目してきたとのことですから(注8)。
とはいえ、ゴダールが本作品で「ユダヤ人問題」を取り上げていると言ってみても、何をどのように料理して何を言いたいのか、皆目見当がつきませんから、ほとんど意味がないでしょう。
ここは大人しく、フェリーニ監督の『そして船は行く』(1980年)ではありませんが、陸地で囲われ閉ざされた感じのする地中海(黒海も含めた)の中を、さらに船という密閉された容器でもって辿る(エジプト、パレスチナ、オデッサ、ギリシャ、ナポリ、バルセロナを)ことによって、民族間の激しい争いを描きつつも、それらの間でのコミュニケーションをなんとか図ろうとする試み、とでも言わざるを得ないのかな、と思っています。
でも、仮にそうだとしても、ゴールドベルグが関与するという黄金強奪事件の位置づけはどうするのかとか、第2楽章の意味がどこにあるのか分からないではないか、といった様々の問題が噴出してしまうでしょう。
マア仕方ありません、何か提示するとしたらそんなことしか思いつかないのですから!
それに元々、こうしていくら言葉を並べ立てても、ゴダールの影のホンの僅かな部分でさえも踏むことが出来ない感じがしてくるのです。
(9)更に先へ
この先に歩を進めるための一つの光明は、上記に引用した平倉氏による『ゴダール的方法』に見出せるかも知れません。
何しろその著書において平倉氏は、「ゴダールの映画それじたいを分析の方法とすること」、すなわち、「音と映像によって音と映像を試行する方法」、「ゴダールの方法でゴダールを分析すること」をやってみようというのですから(P.12)。
そうであれば、平倉氏の著作に取り組むに如くはありません。
といっても平倉氏は、冒頭のこの様々の映像をばらばらに解して、一つずつ言葉を使って解明するのではありません。むしろ、「そこには即座には言語化できない連鎖の系がある。ばらばらなものたちは、持続する緊張のなかで不確かなまとまりを作り出している」のであり、そうした「脱結合と結合の操作のうちに、ゴダールの「思考」がある」のであって、「その「思考」の論理をつかまえること。それが本書の課題である」としています(P.8)。
さあそうであれば前に進みましょう。
しかしながら、その後は申し訳ありませんが、平倉氏の著書を読んで十分に咀嚼できた上でとさせてください(注9)。
ただ、平倉氏も、最終的にはやはり言葉を使っているようなのです(その結果が、310ページを超える分厚い著書に結実しています!)。
としたら、ここは更に更にもう一歩進んで、ゴダールの映像は、何らかの映像を使うことによってしか分析したり語ることはできないのではないか(それを「分析」とか「語る」といえるかどうかも疑問ですが)、と言ってみたらどうかという気にもなってきます。
でもそんな大それたことは、言うのは簡単ですが、実際にどうやればいいのか途方に暮れてしまうところですが(あるいは、別の映画作品を制作して、ゴダールの作品にぶつけてみるということなのでしょうか?)。
(10)評論家・蓮見重彦氏は、本作品について、次のように述べています。
「驚くべきは、この作品にみなぎっている不気味なまでの若さだ。HDカムで撮影された映像と音響はかつてない鮮度で神経を刺激し、地中海のうねりは海神ポセ イドンの怒りを、耳を聾する風音は風神アネモイの吐息を、男女の表情はロゴス=真理を直裁に画面に招き入れる。そんな瞬間を映画で体験したこともなかったので、誰もが映画生成の瞬間に立ち会っているかのように興奮するしかない」。
「その主題は何か。ヨーロッパである。ギリシャ以来の文明をはぐくんできた地中海、といってもよい。あるいは、それなくしては西欧が成立しがたい「傲慢さ」だといえるかも知れない」。
「傲慢さを批判できるのは自分だけだといっているかのようなゴダールは、傲慢な映画作家なのだろうか。それとも、語の純粋な意味での自由闊達な個人なのだろうか」。
また、中条省平氏も、次のように述べています。
「かつてのゴダールならば、どこかに完璧な陶酔を誘うイメージを挿入し、「映画」の喜びを感じさせたものだが、ここにはそうした配慮はもはやない。世界の危機的な現状が完結した映像美による自己満足をゆるさないのだろう」。
さらに、本文でも引用した「シナリオ採録」の作成者・堀潤之氏は、次のように述べています(注10)。
本作品は、「『映画史』以降のゴダールの作品で、まぎれもなく最も力強く、ラディカルで、密度の濃い作品である」。
「「フィルム」によって「社会主義」を振り返る、あるいは来るべき「社会主義」を展望すること。「フィルム」によって「社会主義」と表裏一体の「資本主義」を撃つこと。あるいは、この「フィルム」こそが「社会主義」そのものにほかならないと強弁すること」。
「1990年代以降の作品に色濃く漂っていたメランコリーをすっかり払拭したかにみえる本作は、その兇暴さを孕んだ若々しい苛立ちによって、間違いなく新境地を切り開いている」。
(注1)本文の(6)及び(9)で取り上げた平倉圭著『ゴダール的方法』の用語を使えば、「失認」の割合が90%以上ということになるのでしょうか!
なお、同書によれば、「認知限界と想起の不確実性のために、私たちの映画経験にはたえず不確定性がつきまとう。知覚され、想起された映画は、実際の映画とは決して一致しない」とのことです(P.14)。
(注2)本作品の予告編は、なんと本編を高速で回して4分間に圧縮したものです。そこで、YouTubeで見ることのできるものを一時停止をかけながら見ていくと、なんとか映像の流れくらいは把握することができます!
(注3)「かろうじてインターネット」の当該記事においては、「映像の羅列による結論をゴダールは提示してくれない。「映画はきちんと終わる」という概念すら、これで破壊されてしまう」とされながらも、そのことが逆に、「かろブッチ」さんが導かれた結論的なテーゼを補強するかのような構成になっているように思われます。
(注4)言うまでもありませんが、「かろブッチ」さんが映像分析を行っていないわけではありません。ただそこでは、個々の映像を言葉を用いて読解されているのであって、平倉氏の様に、映像をひとまとめにしてその「連鎖の系」を探るといったことまで行われているわけではありません。
(注5)モット言えば、本来的に民主主義と自由主義とは別物である、という点はサテ置くとしても、民主政の原点とされるアテナイにおいては、僭主政が非常に恐れられていたわけですが、長谷川三千子氏の『民主主義とは何なのか』(文春新書)によれば、それは両者が本質的に近いが故であって、近代においては、僭主が「あるいはロベスピエールとして、あるいはヒトラーとして出現してきたのではなかったか?」と同書において述べられているところです(P.89)。
(注6)『トスカーナの贋作』についての記事の(1)で申し上げたのと同様に、内容はともかく何であれ、この映画が作り出すゲーム空間に参加してみようとの意気込みによるだけに過ぎません。内容的には別段これでオシマイにする必要はなく、この映画のDVDを見たり、様々のレビューを読んだりして、書き換えるなり膨らますなりしていけばいいのでは、と思っています。
(注7)『ゴダール革命』(筑摩書房、2005年)を著わしている蓮見重彦氏も、「どうやらゴダールは、自分はユダヤ人でないけれども同時にユダヤ人でありたいという驚くべき夢、同時に二つのものでありたいという夢を持っているのです。自分はユダヤ人ではない、しかし私は同時にユダヤ人であり、ユダヤ以上にユダヤ人的であるということを、ゴダールがこの21世紀に入った二本〔『愛の世紀』と『アワーミュージック』〕ではっきりと示しているのです」などと語っているくらいなのですから。
(注8)この意味の「ムスリム」(der Muselmann)については、イタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンも、『アウシュヴィッツの残りのもの』(上村忠男訳:月曜社、2001年)の第2章において注目しているところです。
(注9)とはいえ、冒頭の章から、たとえば、ドゥルーズは出てくるは(「本書は特に、現在に至るまで決定的な影響力を持ち続けているジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』のゴダール論を繰り返し批判の訴状に乗せる」P.20)、ヒューム(『人間本性論』)への言及はあるはで、早くも挫折気味なのですが。
それはともあれ、本書の序章の「2方法」で記載されている具体的な分析方法のうちの「(1)映画を(擬似的に構成された)「編集台」で分析すること」に従えば、とにかく『ゴダール・ソシアリズム』のDVDが販売されなければ話にならないようです。
(注10)同氏作成のブログ「les signes parmi nous」には、「『ゴダール・ソシアリズム』関連資料」という実に興味深い記事が5回にわたって連載されていたり、また「覚書」の連載も始められたりしています。
★★★☆☆
(1)映画館に出かけるまで
同映画館では、「ゴダール・ソシアリスム上映記念」として「特集:ジャン=リュック・ゴダール」と銘打ち、3月5日~18日に全部で7本のゴダール作品を上映することとしていました(1本は短編)。クマネズミは、大昔、今回上映された『勝手にしやがれ』(1960年)と『気狂いピエロ』(1965年)を見て大層面白いと思ったものの、その後の難解とされる作品は、敬して遠ざけ見てはおりません。
でも近くの映画館で「特集」されるのですから、この機会を逃す手はありません。小手調べに映画『右側に気をつけろ』(1987年)を見て大体の雰囲気を掴んだところで、最新作の『ゴダール・ソシアリスム』(2010年)に挑んでみようと考えました。
ですが、その計画は前半だけで破綻してしまいました。それも、『右側に気をつけろ』の余りの難解さに辟易して挫折(実際はそのとおりです!)しただけであればまだしも、『ゴダール・ソシアリスム』上映日直前になり、3月11日の東日本大震災によって映画館が全館閉鎖となってしまいました。
これでは手の打ちようがありません。
としたところ、なんと19日より営業再開され、この「特集」も1週間遅れで上映されるとの告知が、映画館のHPに掲載されました。
内心は大震災のせいで見たいものを見ることができなかった、残念至極などと言い訳しようかなと思っていたところ、逆にこうなると最新作を見ないわけにはいかない気になってしまいます。
という次第でバウスシアターに行ってきました。
(2)“ゴダール鑑賞3原則”
この「特集」を知ってから、「かろブッチ」さんが作成されているブログ「かろうじてインターネット」に本作品を取り上げている記事があることがわかり、ちらっとのぞいてみました(「かろブッチ」さんのブログの記事はどれも、映画を理論的な視点から実に鋭く分析されていて、いつも大変勉強になっています)。
そしたら、同記事には、「鑑賞する際に、あまり意識しすぎて頭こんがらがってしまわないように、以下の3つを心がけ」、「出来るだけ気楽に楽しく本作を鑑賞し」た、として次の項目が記載されているではありませんか!
「(イ)ゴダール監督作品という肩書きにビビらない。
(ロ)考えずに見る。
(ハ)眠ければ寝る。」
(3)『右側に気をつけろ』
それくらい簡単なことならクマネズミにもできそうだと思い、まず『右側に気をつけろ』で実践してみようと思い立ちました。
なにより「かろブッチ」さんは、「『右側に気をつけろ』が持っていたようなキャッチーな魅力」とおっしゃっているのですから、きっと何とかなるのではと思ったところです。
ですが、惨敗でした。
だって、ゴダール自身が映画に登場し、ドストエフスキーの『白痴』を読みながら、まるでムイシュキン侯爵であるかのように振る舞うのですが、「夕方までに映画を作って、首都に持ってくれば、昔の罪は赦される」といった電話がかかってきて、彼がフィルムの入った缶を手にして飛行機に乗ったりするものですから、これはなんだか面白そうだなと思ったのも束の間。引き続いて、わけのわからない男女がレコーディングしているシーンが長々と入り込みます。また、誰だか分からない人物が登場し、なんだか誰かの戯曲からの引用のようなセリフを話し、そして……、と進むうちに猛烈に眠気に襲われてしまいました。
「かろブッチ」さんは、上記“ゴダール鑑賞3原則”の(ロ)に関して、「一つ一つのショットに対する思考は早々に諦めて、無数のショットと音の流れから感じるものを掴めれば」いいとおっしゃっていますが、そうする間も有らばこそ、(ハ)に突入してしまったという具合(注1)。
さらに(ハ)に関して、「かろブッチ」さんは、「眠いときに寝るのも一つの鑑賞方法」と実に優雅に構えていらっしゃるところ、実際に眠ってしまうと、ブログの記事どころではなくなってしまいます(“ゴダール分からない派”に組みしようにも、眠ってしまえば、分からないのは何なのかが把握できないのですから!)!
(4)“ゴダール鑑賞3原則”への追加
こんな体たらくを演じてしまったのは、おそらく“ゴダール鑑賞3原則”の(イ)の意味合いを取り違えてしまったせいでしょう。そういう原則ならば、見る前に当該作品に関する一切の情報を遮断して、白紙でもって臨むべきではないか、と考えてしまったのです。
でもそんなことをしたら、何が何だか訳が分からなくなってしまうのは、火を見るよりも明らかなことでした!
そこで、本命の『ゴダール・ソシアリスム』を見るに当たっては、“ゴダール鑑賞3原則”にもう一つ加えてみることにしました。
すなわち、「(ニ)事前に知ることのできる情報は、なるべく収集の上、目を通しておく」。
幸いなことに、本作品に関しては、バウスシアターの窓口で、劇場用パンフレットをかなり前もって購入することができました。それも、在り来たりのものと違い、実に盛りだくさんな内容なのです。例えば、ストーリーの概要(「かろブッチ」さんがブログに掲載されている「"allcinema online"より抜粋」よりズッと詳しいもの)のみならず、「シナリオ採録」とか「ゴダール/インタビュー」なども含まれています。
(5)「シナリオ採録」
特に、堀潤之・関西大学文学部准教授による「シナリオ採録」の出来栄えは素晴らしく、90近くの訳注を頼りにすれば、本作品に何とか斬り込みをかけることができるかもしれないと、儚いながらも期待を持たせます。
たとえば、映画の冒頭近くで、ハイファ(イスラエル北部の都市)出身のレベッカという女性が、「私はいかなる民族も好きではない。フランス人も、北米人も、ドイツ人も、ユダヤ人も黒人も」とオフで話します(P.13)。
訳注6によれば、これはユダヤ人政治学者ハンナ・アーレントの書簡にある言葉。なぜユダヤ人がユダヤ人を嫌うのか理解し難いところ、ユダヤ神秘主義のショーレムが彼女の『イェルサレムのアイヒマン』(大久保和郎訳、みすず書房)〔ユダヤ人狩りに協力したユダヤ人の存在を明らかにしました〕を批判したことに対する応酬とのこと。
そういう注釈があれば、レベッカによるオフの台詞、「誰もが、上が存在しないように振る舞うことができる。だが、今や、悪い奴らが真剣だ」(P.14)とか、「(英語で)生きるべきか死ぬべきか、(フランス語で)ユダヤ人として。ええ、そう言われました。両親に。でもそれで?言葉だけでは決して十分ではない」(P.16)とかの声が間を置いて映画から流れるのですが、全然分からないわけではない感じがしてきます。
(6)映像と音響
とはいえ、ゴダールの作品に関しては、十分なシナリオがあればそれだけで済むというわけのものではなさそうです。
昨年末に刊行された平倉圭著『ゴダール的方法』(インスクリプト)では、この映画冒頭の15分間の映像と音響について、次のように述べられています(一部省略してあります)。
「海面。波がスクリーンを覆う。風の激しいノイズ。船上の霧。断片的な会話。スクリーンに向かって踊る人々の背。群れをなす魚。「会話」する猫たち。戦闘機の墜落。話し合う男女の背後で窓ガラスに女がぶつかる」(P.8)。
上記の「シナリオ採録」では、当然のことながら、会話の部分は採録されているものの、映像や音響については十分には触れられていません。しかしながら、一般には、映像(さらには音響)こそがゴダール作品の要とされているようです。
とすると、冒頭のこの様々の映像も何かを訴えているのかもしれません(注2)。
例えば、「話し合う男女の背後で窓ガラスに女がぶつかる」映像は、実際のところは、“フランスのジェ-ムズ・ボンド”といわれるマルビエ(本人が出演)とコンスタンスが話しているレストランの窓ガラスに、“白いワンピース姿”のアリッサ(スペイン内戦で失われた黄金の謎の鍵を握る人物・ゴールドベルグの孫娘)がぶつかります。この映画の第1章とされる部分で中心的な役割を果たす人物が3人も登場するのですから、きっと重要なシーンなのでしょう。
ですが、クマネズミの歩みは、そこでハタと止まってしまいます。
(7)「かろブッチ」さんのレビュー
ところで、「かろブッチ」さんのブログ「かろうじてインターネット」においては、本作品について、次のように結論的に述べられています(注3)。
「ゴダールは、21世紀に誕生したデジタルの自由な映画概念が古い映画の概念を葬りさる様を、民主主義が産み出した自由がやがて民主主義を滅ぼすこととリンクさせて描こうとしたのではないだろうかと感じたそれが「YouTube時代」におけるゴダールの「映画」における回答なのではないだろうかと考える」。
こうした「ゴダールが表現していきたいもの」を映画から抽出する際の「かろブッチ」さんの手際は誠に素晴らしく、得られたテーゼには十分に説得力があると思います。
ただ、ゴダールは、言葉に回収されてしまうようなテーゼ(「民主主義が産み出した自由がやがて民主主義を滅ぼすこと」)を伝えるべく映画を作成したのだろうかという疑問も、同時に湧き起こってきます。このテーゼが正しいとしても、それは主にシナリオレベル(映画の中で話される言葉や字幕)から得られるもの(注4)であって、映像それ自体から得られるものとは何か異なるのではないか、とも思えてきます。
それに、「民主主義が産み出した自由がやがて民主主義を滅ぼすこと」自体は、昔から民主主義が抱える自己矛盾として随分議論されてきたテーマですから(注5)、いまさらゴダールがどうしてそんなことを訴えるのかな、という気にもなります。いったいゴダールは、そうしたテーゼに今時点で何を新たに付け加えようとするのでしょうか?そのためには、こうした映画内容が最適な伝達手段となるのでしょうか?
(8)クマネズミの見立て
しかしながら、こんなことを申し上げるだけでは、「かろブッチ」さんがなされた事柄に対して単に難癖を付けただけにすぎないでしょう。
そこで、誠にいい加減でお恥ずかしい限りですが、クマネズミの見立てを申し上げることと致しましょう(注6)。
本来ならば、上記(5)に引っ掛けて、ゴダールはこの映画で「ユダヤ人問題」を様々に取り上げたかったのだと言いたいところです(注7)。
なにより、この映画の第3楽章「われら人類」では、たとえば、「強制収容所で痩せこけた死体を引きずっている映像と、その上に「ユダヤ人」「ムスリム」の文字」という場面があるのです。
というのも、「シナリオ採録」の訳注によれば、強制収容所で、最も衰弱した者が、隠語で「ムスリム」と名付けられていたことに、ゴダールは1970年代から注目してきたとのことですから(注8)。
とはいえ、ゴダールが本作品で「ユダヤ人問題」を取り上げていると言ってみても、何をどのように料理して何を言いたいのか、皆目見当がつきませんから、ほとんど意味がないでしょう。
ここは大人しく、フェリーニ監督の『そして船は行く』(1980年)ではありませんが、陸地で囲われ閉ざされた感じのする地中海(黒海も含めた)の中を、さらに船という密閉された容器でもって辿る(エジプト、パレスチナ、オデッサ、ギリシャ、ナポリ、バルセロナを)ことによって、民族間の激しい争いを描きつつも、それらの間でのコミュニケーションをなんとか図ろうとする試み、とでも言わざるを得ないのかな、と思っています。
でも、仮にそうだとしても、ゴールドベルグが関与するという黄金強奪事件の位置づけはどうするのかとか、第2楽章の意味がどこにあるのか分からないではないか、といった様々の問題が噴出してしまうでしょう。
マア仕方ありません、何か提示するとしたらそんなことしか思いつかないのですから!
それに元々、こうしていくら言葉を並べ立てても、ゴダールの影のホンの僅かな部分でさえも踏むことが出来ない感じがしてくるのです。
(9)更に先へ
この先に歩を進めるための一つの光明は、上記に引用した平倉氏による『ゴダール的方法』に見出せるかも知れません。
何しろその著書において平倉氏は、「ゴダールの映画それじたいを分析の方法とすること」、すなわち、「音と映像によって音と映像を試行する方法」、「ゴダールの方法でゴダールを分析すること」をやってみようというのですから(P.12)。
そうであれば、平倉氏の著作に取り組むに如くはありません。
といっても平倉氏は、冒頭のこの様々の映像をばらばらに解して、一つずつ言葉を使って解明するのではありません。むしろ、「そこには即座には言語化できない連鎖の系がある。ばらばらなものたちは、持続する緊張のなかで不確かなまとまりを作り出している」のであり、そうした「脱結合と結合の操作のうちに、ゴダールの「思考」がある」のであって、「その「思考」の論理をつかまえること。それが本書の課題である」としています(P.8)。
さあそうであれば前に進みましょう。
しかしながら、その後は申し訳ありませんが、平倉氏の著書を読んで十分に咀嚼できた上でとさせてください(注9)。
ただ、平倉氏も、最終的にはやはり言葉を使っているようなのです(その結果が、310ページを超える分厚い著書に結実しています!)。
としたら、ここは更に更にもう一歩進んで、ゴダールの映像は、何らかの映像を使うことによってしか分析したり語ることはできないのではないか(それを「分析」とか「語る」といえるかどうかも疑問ですが)、と言ってみたらどうかという気にもなってきます。
でもそんな大それたことは、言うのは簡単ですが、実際にどうやればいいのか途方に暮れてしまうところですが(あるいは、別の映画作品を制作して、ゴダールの作品にぶつけてみるということなのでしょうか?)。
(10)評論家・蓮見重彦氏は、本作品について、次のように述べています。
「驚くべきは、この作品にみなぎっている不気味なまでの若さだ。HDカムで撮影された映像と音響はかつてない鮮度で神経を刺激し、地中海のうねりは海神ポセ イドンの怒りを、耳を聾する風音は風神アネモイの吐息を、男女の表情はロゴス=真理を直裁に画面に招き入れる。そんな瞬間を映画で体験したこともなかったので、誰もが映画生成の瞬間に立ち会っているかのように興奮するしかない」。
「その主題は何か。ヨーロッパである。ギリシャ以来の文明をはぐくんできた地中海、といってもよい。あるいは、それなくしては西欧が成立しがたい「傲慢さ」だといえるかも知れない」。
「傲慢さを批判できるのは自分だけだといっているかのようなゴダールは、傲慢な映画作家なのだろうか。それとも、語の純粋な意味での自由闊達な個人なのだろうか」。
また、中条省平氏も、次のように述べています。
「かつてのゴダールならば、どこかに完璧な陶酔を誘うイメージを挿入し、「映画」の喜びを感じさせたものだが、ここにはそうした配慮はもはやない。世界の危機的な現状が完結した映像美による自己満足をゆるさないのだろう」。
さらに、本文でも引用した「シナリオ採録」の作成者・堀潤之氏は、次のように述べています(注10)。
本作品は、「『映画史』以降のゴダールの作品で、まぎれもなく最も力強く、ラディカルで、密度の濃い作品である」。
「「フィルム」によって「社会主義」を振り返る、あるいは来るべき「社会主義」を展望すること。「フィルム」によって「社会主義」と表裏一体の「資本主義」を撃つこと。あるいは、この「フィルム」こそが「社会主義」そのものにほかならないと強弁すること」。
「1990年代以降の作品に色濃く漂っていたメランコリーをすっかり払拭したかにみえる本作は、その兇暴さを孕んだ若々しい苛立ちによって、間違いなく新境地を切り開いている」。
(注1)本文の(6)及び(9)で取り上げた平倉圭著『ゴダール的方法』の用語を使えば、「失認」の割合が90%以上ということになるのでしょうか!
なお、同書によれば、「認知限界と想起の不確実性のために、私たちの映画経験にはたえず不確定性がつきまとう。知覚され、想起された映画は、実際の映画とは決して一致しない」とのことです(P.14)。
(注2)本作品の予告編は、なんと本編を高速で回して4分間に圧縮したものです。そこで、YouTubeで見ることのできるものを一時停止をかけながら見ていくと、なんとか映像の流れくらいは把握することができます!
(注3)「かろうじてインターネット」の当該記事においては、「映像の羅列による結論をゴダールは提示してくれない。「映画はきちんと終わる」という概念すら、これで破壊されてしまう」とされながらも、そのことが逆に、「かろブッチ」さんが導かれた結論的なテーゼを補強するかのような構成になっているように思われます。
(注4)言うまでもありませんが、「かろブッチ」さんが映像分析を行っていないわけではありません。ただそこでは、個々の映像を言葉を用いて読解されているのであって、平倉氏の様に、映像をひとまとめにしてその「連鎖の系」を探るといったことまで行われているわけではありません。
(注5)モット言えば、本来的に民主主義と自由主義とは別物である、という点はサテ置くとしても、民主政の原点とされるアテナイにおいては、僭主政が非常に恐れられていたわけですが、長谷川三千子氏の『民主主義とは何なのか』(文春新書)によれば、それは両者が本質的に近いが故であって、近代においては、僭主が「あるいはロベスピエールとして、あるいはヒトラーとして出現してきたのではなかったか?」と同書において述べられているところです(P.89)。
(注6)『トスカーナの贋作』についての記事の(1)で申し上げたのと同様に、内容はともかく何であれ、この映画が作り出すゲーム空間に参加してみようとの意気込みによるだけに過ぎません。内容的には別段これでオシマイにする必要はなく、この映画のDVDを見たり、様々のレビューを読んだりして、書き換えるなり膨らますなりしていけばいいのでは、と思っています。
(注7)『ゴダール革命』(筑摩書房、2005年)を著わしている蓮見重彦氏も、「どうやらゴダールは、自分はユダヤ人でないけれども同時にユダヤ人でありたいという驚くべき夢、同時に二つのものでありたいという夢を持っているのです。自分はユダヤ人ではない、しかし私は同時にユダヤ人であり、ユダヤ以上にユダヤ人的であるということを、ゴダールがこの21世紀に入った二本〔『愛の世紀』と『アワーミュージック』〕ではっきりと示しているのです」などと語っているくらいなのですから。
(注8)この意味の「ムスリム」(der Muselmann)については、イタリアの哲学者ジョルジュ・アガンベンも、『アウシュヴィッツの残りのもの』(上村忠男訳:月曜社、2001年)の第2章において注目しているところです。
(注9)とはいえ、冒頭の章から、たとえば、ドゥルーズは出てくるは(「本書は特に、現在に至るまで決定的な影響力を持ち続けているジル・ドゥルーズ『シネマ2*時間イメージ』のゴダール論を繰り返し批判の訴状に乗せる」P.20)、ヒューム(『人間本性論』)への言及はあるはで、早くも挫折気味なのですが。
それはともあれ、本書の序章の「2方法」で記載されている具体的な分析方法のうちの「(1)映画を(擬似的に構成された)「編集台」で分析すること」に従えば、とにかく『ゴダール・ソシアリズム』のDVDが販売されなければ話にならないようです。
(注10)同氏作成のブログ「les signes parmi nous」には、「『ゴダール・ソシアリズム』関連資料」という実に興味深い記事が5回にわたって連載されていたり、また「覚書」の連載も始められたりしています。
★★★☆☆
こんばんは。
いつもこっそり読ませてもらっております。
ご紹介や引用などしていただいて、恐縮です。ありがとうございます。
当ブログの『ゴダール・ソシアリスム』の感想ですが、個人的には「ゴダールを肩肘張らないで気楽に見る」というのが、ゴダールに影響を受けまくっていた10代の頃からの目標だったので、それを意識するあまり逆に浅く考え過ぎた感想文になってしまったことを反省しておりました。
クマネズミさんのおっしゃる通り、映像表現はけっして言葉にできないものだと思っております。
そしてクマネズミさんが行なわれていたように、言葉や理屈で作品の探求をしていったところでいくらでも深追いできて、しかしながらけして、作品の影のほんのわずかな部分すら踏めやしない鬼ごっこを続けているうちに、いつの間にやら迷宮に入り込んでしまう気がします。
ではなぜ映像を言葉に置き換える遊びをしてしまうのか考えると、個人的には映画代1800円を「意味不明」や「つまらない」もしくは「あー楽しかったー」の一言で無駄にしたくないからであったりします。
噛めば噛むほど思考は湧いてくるし、深読みすればどんな映画でも楽しく感じられる。それでこそ1800円という決して安くはない映画チケット代の価値はあるのではないかと。
そしてゴダールの作品はそういった観客の「言葉遊び」を誘っているかのような挑発的な作品を60年間作り続けているように見えます。お前らもっと頭を使えよ、自分の頭で色々考えて映画を楽しく見ろよと。(ゴダール自体もともと評論家であった事が関係しているのでしょうか?)
その点において「気楽に見る」という僕の目標はそもそもなんだか間違っていたなーと、結論を急がずに、クマネズミさんのようにもっと深く深く探求して迷子になったら楽しかったなと、今回の記事を拝見させて頂いて感じました。
ちなみに個人的には本作はイデオロギー的なメッセージよりも「デジタルカメラ・YOUTUBEなどの普及によって変質してきた映像表現」に主眼点を置いて語っている映画だと感じました。
長くなってごめんなさい。
また遊びに来ます。
その時に観たのは「アルファヴィル」「マリア」「ヌーヴェルバーグ」でした。
アルファヴィルにはハマってしまい、今もどこかにアルファヴィルなもの(日常の中のSF、特撮的なもの)がないかとついつい探してしまいます。
『アルファヴィル』は、gooの解説によると「実験的、芸術的、冒険的、半SF」とゴダール自身が言っているそうですから、きっと難解なのでしょうが、折角の情報ですから、クマネズミも探してみることと致します。