半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

Eテレ:むのたけじ

2015年10月17日 | 自分の時間
ETV特集「むのたけじ 100歳の不屈 伝説のジャーナリスト 次世代への遺言」というのを観ました。

どこかでお名前は聞いたことがあるのですが、初めてどういった方なのか知りました。

むのさんは一般的に「戦時中、本当のことを書いてこなかった新聞記者としての責任をとって、新聞記者を辞めて、その後、独自の新聞を立ち上げたジャーナリスト」として有名な方です。

秋田の小作人の息子で、小作料だけでは食っていけないから親は荷物の運搬などで小銭を稼ぎながら日々暮らしていたそうです。

小さい頃は荷車に載せられながら両親の姿を見て育ったそうですが、3才の時点で「うちの両親はこんなに苦労している一方で、まわりの役人や商人が楽して稼いでいるこの社会は何かおかしいんじゃないか?」と思ったのがジャーナリストになった原点だそうです。

成績は優秀でしたが、小作人の子が高等学校などには行ける時代ではなかったそうです。
でも、先生の推薦もあり、外語学校に進学。
その後、自由に動いていきたいという思いから報知新聞の記者に。

そして朝日新聞に移り、日中戦争勃発後、従軍記者として戦地に赴いたところ、国民党も共産党もシナ全土で日本を受け入れるという意思はなく、最後の1人まで日本と戦うという意思を感じたそうですが、そういったことを記事にするわけにはいかず、中国の風土・紀行文を書かざるをえなかったそうです。

その後、今のインドネシアに赴くと、オランダの植民地で圧政に苦しんでいた人々は日本人による解放をとても喜んでいることを知ると同時に、新しいジャワの市長について、知り合いの軍人から日本人であることを聞いたので、それをすっぱ抜き掲載。

本国で朝日新聞は2面の小さい欄での紹介だけだったが、アジア各国では「日本の侵略意識が表に出てきた」と大々的に1面に載り、軍部から呼び出しを暗い「機密事項を公にしたのはお前か!」と脅しを受けたそうです。

また、時の権力者の東条英機に何とかして会ってみたいと思い、当時、東条さんがどうもかつぜつが悪いのは入れ歯が上手くないという噂を聞き、そんなことを記事にしてみたら、東条さんに呼び出されて激怒されたが、インタビューは出来なかったそうです。

そういったことを続けながら、書きたいことを書けない記者時代が続いていたわけですが、8月15日を向かえ、「今までやってきたこととは、これからは全部変わる。このまま続けられない」と純粋に思い、退社。

「自分の土台から作り直そう」と故郷に帰り、「たいまつ」という名の新聞を立ち上げたそうです。

「たいまつ」を数十年続けた後、全国各地に講演会で飛び回り、今年で100歳になったわけですが、戦後70年ということで、更に色々なところに呼ばれ、「若い子たちへ伝える責任」と「若い子たちの行動から感じる希望」をうもちながら、今でもお元気です。

ジャーナリストとしての立ち位置はぶれることなく、論理もおしゃべりも明瞭でキレキレ。

100歳になってもなおここまできちっとした発信が出来ていることに驚きを感じるとともに、やっぱり100の教訓、薀蓄より、「生き様」が一番、学びになるな~と思った番組でした。
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