半農半X?土のある農的生活を求めて

「生きることは生活すること」をモットーに都会から田舎へ移り住み、農村の魅力を満喫しながら、日々、人生を楽しく耕しています

昔ながらの煎餅屋、日比谷米菓さん

2020年03月02日 | 仕事の中で

東京のお客さんと面談した後、もう1先、おかげさま農場の「煎餅」をお願いしている足立区の「日比谷米菓」さんに高柳さんと行ってきました。

今の世の中、お煎餅でまともなものは中々ありません。

例えば、調味料でアミノ酸が入っているのは当たり前。

また、原材料でちゃんとしたお米を使っている所も大手ではほとんどありません。

例えば、私が10年ほど前に製造メーカーさんを回っていた時に、ある、浅草の美味しいおかき屋さんがありました。

話を聞いたら「ちゃんとした餅米を使っているから」というのが美味しい理由として返ってきたのです。

逆に言えば、ちゃんと餅米を使っているところは、ほとんど無い、という話でびっくりしたのを今でも覚えています。

また、当時、黒コショウ煎餅というのがブームだったのですが、ある煎餅メーカーさんに聞いたら「今はどこも冷凍された煎餅生地を仕入れて、それを焼いて味をつけるだけですよ」と言っていました。

つまり、外国のお米やクズ米を使って安く「原材料」として、「冷凍煎餅生地」を作るメーカーがあり、それを仕入れて焼き上げて製品にするメーカーがある、という流れですね。

 

そういう意味で、当たり前の材料だけを使って昔のように作る、というのは、味噌でも醤油でもお酒でも、そして煎餅でも、もう希少な時代になってしまったのですね

そして、そんな世界で、昔ながらの煎餅の作り方をやっているところに、高柳さんが自分のお米とゴマ、そして知り合いの醤油を送って、煎餅を作ってもらっているのが「日比谷米菓」さんなのです

高柳さんも実は初めてとのことで、お米を運ぶついでに、ご挨拶にいったら、中を案内してくれました

まず入って「お~」と思ったのが、建物

昔ながら太い梁と柱で出来た工場は、まるで酒蔵を思わせるところで、高柳さんも「なかなか味わいがあっていいじゃないですか」とご満悦

機械も年代ものばかりで、まず、お米を製粉する機械は、昔ながらのベルトむき出しのもので「なかなかもう部品が無いんですよ」とのこと。

米を粉にしたら蒸して練り上げます。

これが1回に1俵必要なので、1俵が最低ロットだそうです。

逆に言えば、このロットで受けてくれる昔ながらの町工場のようなところは、昔はあちこちにあったそうですが、今では有名な草加市近辺でも、もうほとんど廃業してしまったそうです

 

横に置いてある型を発見

こういうのがぐるぐる回って、伸し餅状にした生地をくり抜くんですね~。

それを何日もかけて乾燥させることで、ようやく焼きの工程に入れるそうです。

乾燥も、3日かかるものもあれば、固焼きの煎餅はなんと10日かかるとか

乾燥機は1度変えたそうですが、それ以外のほとんどの機械は、「私が入ったのが57年前ぐらいで、その10年ぐらい前から親父がやっていたから、かなり古い機械をだましだまし使っています」という事でした。

凄いですね~

そして焼きの機械も凄い

焼きの機械は、たい焼きのような型で表裏を10回以上返しながら白焼きにしていくもの。

昔の人の知恵がそのまま目に見える逸品です

そして、白焼きにしたものを、今度は「色付け」という焼きの工程に流していきます。

最初から焼こうとすると上手くいかないそうで、「へ~」と勉強になりました。

最後に、醤油など味をつけて乾燥させて完成という工程。

ざっくりと聞いただけなので、もっと細かな工程はあるのでしょうが、本当に凄いですね~。

ただでさえ「素朴な本来の味がする美味しい煎餅」でしたが、工場を見て、またお話を直にお聞かせ頂き、大ファンになりました

最後にお茶を出してくれたのですが、高柳さんは後で「都会といっても下町というかな、昔ながらのところは農村と同じで、まあお茶でも、いう感じなんだろうな。昔の日本人はみんなああだったんだろうな」と語っていました。

社長さんも高柳さんと同年代と思われますので、恐らく70歳ぐらいではないでしょうか?

大手とは比べ物にならないマンパワーをかけて、手作業でコツコツ焼いている。

だから素性が明らかな材料、安心して頼めますし、美味しい煎餅が出来るのですね。

こういった工場を続けるだけで大変でしょうし、後継ぎも恐らくいないと思われますが、出来るだけ長く続けて頂きたいと心から思いました

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あなたと健康社に行ってきました

2020年03月02日 | 自分の時間

先週も書きましたが、「あなたと健康」、通称「あな健」の東城百合子先生が天に還られました。

知らない方にとっては、「へ~」という事でしょうが、私には代えがたき師のようなものです。

私の師匠といえば、現存し、いつも近くにいて下さる、おかげさま農場の高柳さん。

そして、月刊誌を通じて叱咤激励をして下さっていた東城百合子先生、そして、もう亡くなられてからかなり経ちますが、東城先生の師匠の常岡一郎先生です。

師を持つというのは有難いことです

逆に言えば、師がいない人生というのは、自分が生きていく灯が無いとも言えます。

現存している、していないは関係なく、例えば、昔の人は、お寺や神社などにご縁が深く、その住職や神主さんが偉大かどうかはさておき、その元となる仏教や神道の教えや導きが少なくとも生活に染み込んでいました。

そして、東城先生いわく「昔の日本にはお天道様が家庭にあった」と言います。

このお天道様というのは「太陽」ではなく、「命の源、自然の偉大さ」のようなものです。

私の両親は昭和6年と昭和11年生まれということもあり、同世代に比べれば年配の親でしたから、例えば箸の持ち方がなっていないことで親父に殴られたり、ご飯粒を残すと罰が当たるよ、という事を言われて育ちました。

そういった「食べ物は自然からの恵み、お百姓さんが頑張って育てた有難いもの、だから感謝して食べなさい」といった事が、昔の日本には当たり前にあった、と言います。

そういった導き、師のような存在が無いと、食べ物は栄養素と思いこんでしまいますし、その他も目先の情報、テレビやネットに流された生き方になります。

私もビジネスは頑張ってきましたし、農村に足を踏み入れて「生きることは生活する事」という大きな気づきを得ましたが、具体的な「人はこう生きるべきだ」という事については、高柳さんや東城百合子さんに出会う事で、初めて「師を持てた」という実感を持てるようになり、時折ぶれる心を戻す指針になってきました。

先週末、東城先生のお通夜や告別式があったのですが、私は本を通じてのご縁しか無く、また仕事も入っていましたので、特に行くほどではないな、と思っていました。

ただ、あなたと健康社から駅で数駅のところに仕事がたまたま入ったのです。

東京に仕事が入るなど数年に1度あるかないかの私にとって、「このタイミングでこれもご縁だな」と思い、「あな健」に足を運んでみました。

初めて行った「あな健」は、ご縁が無い人には全く目にもつかない気にもされないであろう奥まったところにあり、本に書いてあった以上の立地の悪さでした。

本に書いてあったというのは、立地の条件が悪いため、次々と借主が手放すほどの奥まった立地、ということでした。

また、借主が「今まで内装工事を3回やったけど上手くいかなかったから、その工事代も合わせて払ってくれ」という良く分からない理屈で、借用権を売る、みたいなことがあり、それも「悪縁を流す」ということで、東城先生が借りた、というところです。

最後は次々と隣のテナントも出ていき、「頼むから買ってくれ」という事になり、購入した物件とのことでした。

本では見たことがある「お料理教室」には何人かの人がお料理をしていて、「健康相談室」などもありました。

そして突き当りが物販をしているお店で、お邪魔した時間がちょうどお昼だったので「いつも、お昼はみんなで作って食べていると書いてあったけど、やっているかな?」と思ったら、男性のスタッフが店内で迎えてくれました。

話しかけたら「今も先生はここに魂となっていると思うんですよ。だから悲しんでいたりしたら、何やっているの!って叱られちゃうので、今まで以上に頑張ります」と明るくふるまっていました。

ただ、やはりお昼時のようで、しばらくするとお店の裏側にいって、みんなで「頂きます」とお昼を始められました。

私も気になっていた本やらお茶やらいろいろ買い、ちょうど出て来た女性のスタッフに話しかけたら、「今日も朝礼で泣いていたスタッフがいたんですが、そんなんじゃ駄目よと言われちゃうから、としっかりしようと言い合っているんです」という返答も。

ここにいるスタッフは日常的に東城先生に会って叱咤激励されてきたんだな~、として愛情を受けてきたんだな~と思うと同時に、魂を残していくというのはこういう事なんだな~と実感しました。

店舗出入り口に立てかけられたお写真です。

そして、お買い物を済ませて外に出る時に、ふと見つけたプランターには「あな健野草園」と書いてあり、様々な野草が鉢に植えてありました。

最初は「なんと小さなみすぼらしい野草だろう」と正直びっくりしました。

というのは、野山に生えているものを知っている者としては、こんな時期に例えばシソを発芽させることはないし、その他の野草も時期的に早いし、出てきているのも小さく明らかに地力不足。

ただ、そう思ったのは1瞬で、すぐに、「逆に、こんな都会でも自然や野草の姿や命を伝えようとして、こういった鉢を並べているんだ」という思いが湧いてきて、ちょっと泣きそうになってしまいました

物件しかり、野草園しかり、体裁など関係ないんですね。

心優先、行動優先、伝える事が大事、という東城先生の「言動一致」のすがで来られたという事を垣間見ることが出来ました。昔の根性ある日本人の生き様は、本当に凄かった、立派だったと思うのです。行って良かった。心に新たな火がポッと灯りました

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