世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日本は侵略国家ではありません。(11)

2008-12-31 11:42:30 | Weblog

第15節-→NO.36ヨーロッパと日本)を参照のこと。
要旨
(日本は古い歴史と優れた伝統を持つすばらしい国である。そして歴史的事実を偏見なく見てゆけばそのことかよくわかる。それが輝かしい日本の歴史を取り戻すことになる。)

日本の古い歴史と優れた伝統を守る為には、今のような「アメリカのポチ」ではダメである。「日本を守る有能な番犬」でなければならない。そしてアメリカと対等に集団的自衛権を行使する国とならなければならない。自国を守る為に正々堂々と憲法9条の廃棄を公約に掲げて、平和国家として邁進する決意をマニフェストに掲げて選挙戦を戦う政党や人物が現れれば、きっと上位当選を果たすことが出来るであろう。ナチスドイツの興亡を思い起こすかもしれないが、そうならない為にも憲法9条の改定と核武装への道を真剣に話し合うことが必要である。それでも日本は正しい道を歩むことが出来るものと信ずる。そうでなければ日本の国益は守れない。

(追録)
第5節~第7節の解説時に記載すべきことだが、

第8節で義和団事件講和議定書に言及しているが、この第6条により、清国は列国に総額四億五千万両(当時のお金で、六億三千三百万円)の賠償金を利子をつけて39年にわたって支払うことになる。日本の取り分は、そのうちの7.7%だった。日本は全てを中国に還元した。1923年4月に「対支文化事業特別会計法」を施行し賠償金をこの会計に帰属させ、中国における教育、文化、衛生、福祉などの文化事業・学術事業などに用いることにした。これらの事業で中国にまいた種はすこぶる大きい、とは黄文雄氏の「近代中国は日本がつくった」に記載されている。この解説はそれを引用している。

北京ではまず、図書館と人文科学研究所、そして上海では自然科学研究所を設置したが、現在の「中国科学技術院」はこの図書館と人文科学研究所が合体した物である。

1902年京師大学堂が創建され、多数の日本人教員の手で開設され、創設期にあってはその日本人教師の手で指導・運営されていた。そして1909年の校舎の新設設計にも日本人技師が招かれている。そしてその後「北京大学」と改称され郊外へ移転している。

そして特筆に価する貢献は、師範学校における新たな教育者の養成であった。そして日本の女学校の良妻賢母教育の導入がはかられ、女学堂、女子師範学堂が設立されている。当然日本の女性教員が招聘され、単身異国に赴き中国子女の教育に尽くしたのである。

このような「中国の日本化」を欧米諸国は嫌った。中国への勢力扶植を急ぐ欧米諸国からは、中国の教育界を握る日本が煙たくてならなかった。特に中国への勢力扶植に出遅れた米国は、カネに物を言わせて中国進出に力を入れた。そして日本人排斥運動を起こしている。1907年6月の「NY・デイリー・トリビューン」紙などは「日本人教師は無能だ。中国人は日本人教師を望んでいない」などの論説を掲げ、外国人の登用と各地にミッション系の学校の設立を呼び掛けた。こうして中国各地に、カネに物を言わせてミッション系大学を設立してゆく。独力で学校を設立するだけの財力がなかった日本とは対照的である。「精華大学」は米国留学予備校の精華園の後進と言う。

更に日本の漢字が19世紀末に伝わり、中国で広範に使用されることとなる。明治時代には、日本にない概念が多数移入されたがそれに対する言葉がなかった。そのため日本人は西洋文化を摂取するために、外国語の対訳語として20万個の日本語の単語が作られてゆく。これらの近代的な概念と新造漢語が日本から中国へ伝わっていったのである。

例えば「中華人民共和国」の「人民」も「共和国」も、更には「社会主義」の「社会」「主義」も、また「改革開放」「現代化」などの「改革」「開放」「化」などは全て日本人が作り、中国に伝播した言葉なのである。
(続く)
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