世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(104)

2011-06-30 10:16:27 | Weblog

6/10、小村外相は、大統領勧告と日本の受諾回答を発表させた。日本国民は「露国乞和」と解釈し舞い上がった。

6/11、長岡外史は早速陸海軍首脳にサガレン(樺太)攻略の緒準備に取り掛かったが、各首脳とも積極的推進には程遠く、四方八方手を尽くさざるを得なかった。そして海軍軍令部次長の伊集院五郎中将に緒準備の依頼を行ったところこれまた煮え切らなかった。しかし伊集院はこのことを東郷大将に意見を求めたところ、「それらは日本にとって急務で必要な作戦であり、連合艦隊はいつでもよい」との返事をもらった。

その頃ワシントンではドイツ大使ステンブルクが、大統領と面談し皇帝ヴィルヘルム2世の意見を伝えていた。

「ロシア皇帝は講和条件次第では、談判を打ち切る。だから大統領が日本の要求を査閲してくれ」と言うロシア寄りのものであった。もちろん大統領は聞き置くだけであった。

6/12、御前会議で「日本海海戦戦闘報告」が奏上された。その後、首相、外相、陸相、海相、参謀総長(陸軍)、軍令部長(海軍)の6人が別室で樺太行きが検討され、サガレン攻略は中止となってしまった。

長岡外史は「老人たちの糞用心では乾坤一擲の壮挙は出来ぬ・・・と心臓の鼓動が止るまでに憤慨した」のであった。しかしそれでも諦めなかった。満州軍総参謀長児玉源太郎大将に助けを求めた。

6/14、長岡の許に満州の児玉より暗号電報が届く。

講和談判を有利にするには更に積極的作戦をせよ、と言うものであった。「これが為には、サガレンに兵を勧め、事実上之を占領し、ウスリーに向かっても前進を継続し、又満州軍の方面に於ては、準備出来次第、猶予無く地歩を進め、成し得れば尚ほ一大打撃を与ふる如くすること、甚だ緊要なりと信ず。敢えて卑見を具申す。児玉自署す」と言うものであった。

自署と言うことは、必要なキーマンには伝達して欲しい、と言うことを意味する。長岡は早速ガリ版で、「首相、外相、陸相その他手の届く限り」に配布した。そして桂首相にも今回同様の電報を打つよう依頼した。

6/15、軍・政の連絡会「木曜会」で、児玉電が話題となった。小村外相が力説した。清国が講和を申し込んだのは、首都北京を攻撃されると言う脅威を受けたからであり、ロシアは海軍が撃破されたとは言え日本はいまだロシア領には踏み入っていない。講和を有利に進める条件は次の四つであるが、まだひとつしか達成していない。

(1)ロシア満州軍主力の撃破
(2)北韓作戦の実施
(3)樺太島の占領
(4)三億円の外債の新募、これだけが決まっているのみ。

これまでではロシアは講和には乗ってこない。(1)は無理でも(2)(3)はやれると児玉大将言っている。それだけやって講和に望むべきだ。

(続く)
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日韓併合100年(103)

2011-06-29 11:54:19 | Weblog

ドイツはフランスが動き出したことに対抗心を燃やし、ロシア海軍が壊滅したことに安堵し、ロシア海軍の再建にドイツ経済が潤うことを願って、ロシアをある程度のレベルに置いておきたかっただけであった。そこには日本国の視点はいささかもなかった。

6/4、ルーズベルトは駐米ドイツ大使ステンブルグを呼んで、ドイツ皇帝の送ったと言う書類の中身を問いただした。その内容は、平たく言うと「ロシアに有利な講和内容となるように、米大統領を使おう。」と言ったものであった。そのため大統領はあらぬ期待を持たれぬ様に直接ニコライ2世に、自分の立場を伝えることにした。

6/5、ルーズベルトは駐露米国大使のG.マイヤーに「日露直接に和平交渉したらどうか」と伝えさせた。

6/6、自称トロッキーなるロシア人がロシア政府の対日「平和条件」なるものを、駐オーストリア公使の牧野伸顕に持ってきた。

その内容は、

・賠償金を支払い、サガレンを割譲するが、
・満州、遼東半島からは兵は引かない。ただし同規模の日本軍の駐留は出来る。
・日本は朝鮮から撤兵すること。

と言ったまったく非常識な内容のものであったが、その書類はロシア政府の正式書類であった。ロシアは明らかに朝鮮を我が物にしようとする強い意志が認められた。

6/7、ルーズベルトはロシアからの回答が遅れていることに苛立っていた。金子堅太郎との昼食会では、ロシアを一日でも早く講和の席に着かせるためには、「サガレンに出兵して、速やかに占領してしまったらどうか」とまで、大胆な発言をして、金子を驚かせた。

そしてその後ロシア皇帝の返事が、駐露米国大使マイヤーからの急電で届く。大統領の提案を受諾する、と言うものであった。

6/8、大統領は金子堅太郎を呼び、日本の過大な要求は他の世界列強からは同情されないだろう。ロシアの財政は全く逼迫している、と述べ、賠償金の要求は控えるべきだ、と依頼している。そして大統領は日露両国へ講和会議の開催を正式提案する。

6/8米国時間は日本時間6/9である。大統領が、日露両国政府に講和会議提案の公文書が伝達される。日本政府は喜んだ。日本は直ちに正式受諾回答を行う準備を整え、談判地はチーフーを提案するとした。

そして参謀次長長岡外史は、総長室で「米国から講和会議提案があり、受諾した」ことを聞きびっくりする。まだサガレンを占領していない。その旨提案すると、枢密院議長・元老伊東博文と参謀総長・山県有朋元帥の2人とも「準備できており、外交の妨げにならなければやってよい」との許可を受け、長岡外史は欣喜雀躍した。トロッキーからはロシアはサガレンを割譲する気があると聞き、ルーズベルトは早くサガレンを占領せよと言うし、ニコライ2世はサガレンが占領されないうちに講和会議を開きたいと言うし、これらの情報が長岡の耳に入っていれば、ここまで樺太攻略は遅くならなかったことであろう。情報は必要な人物に届いてこそ価値を生むものであり、どのような価値があるかは夫々政治家が鋭く判断せらるべき物であろう。とにかく情報の伝達が悪かった。どこか気が抜けていたことであろう。

(続く)
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日韓併合100年(102)

2011-06-28 00:29:25 | Weblog

(1)日本海海戦に負けたので、ロシアも和平を考慮せざるを得ない。
(2)和平交渉は、日本としては日露直接行う必要がある、考えている。
(3)しかしそのためにも中立者の「友誼的斡旋」が必要であり、
(4)ついてはルーズベルト大統領に、日本から頼まれたのではなく個人の考えで乗り出したとして、講和の斡旋をしてもらいたい。
(5)交渉斡旋の手続きなどは大統領に一任する。
(6)ロシア側を動かすのに、日本の更なる軍事行動は必要と考えるか、聞きたい。

と言ったものであった。この段階では奉天(満州)で勝利し、日本海(海戦)でも日本は勝利している。しかしロシア側の領土は「寸土」たりとも失っていないので、講和への圧力にはなりにくいのであった。

この高平公使は、日露開戦一ヶ月と言う早い時期に、有名な評論誌「The North American Review」(1904/3月号)に「Why Japan resists Russia」(ロシアの満州併呑は日本の死活問題である)と言う論文を寄稿している。更には、雑誌「World Work」4月号に「What Japan Is Fighting For」でも論陣を張り、「日本は近隣諸国の独立や領土に介入しない」と主張し、金子堅太郎('11/1/12,NO.54参照)と共にロシア側の米国世論獲得攻勢に対抗し米国世論を日本びいきになびかせている。
http://www.mofa.go.jp/mofaj/press/pr/pub/geppo/pdfs/06_1_2.pdf  を参照のこと。


然るに司馬遼太郎の「坂の上の雲6」(文芸春秋刊)の70頁では、高平小五郎を外交官に必要な経綸の能力が無かった、と酷評しているが、これは司馬遼太郎一流の「空想」であろう。したがって「坂の上の雲」は、検証しながら読む必要がある。

日本軍はロシア領には一歩たりとも入っていないことに、陸軍参謀本部参謀次長長岡外史少将は、気が気ではなかった。なぜなら、そのために「戦闘に勝ちて戦争に負くる恐れあり」だったからである。

長岡外史は、樺太占領を以前より主張していたのである。しかし日本海海戦が終了するまでは、誰にもこの主張は注目されなかった。特に海軍は敵の逃走艦への警戒や各艦艇の修理や補修が必要との理由で、何かと乗ってこなかった。

ロシアも、まだ自国領土を少しも占領されていないので講和などに乗り出す気はさらさら無かった。

しかしロシアの周りの国が少しずつ動き出していた。ドイツのヴィルヘルム2世とロシアのニコライ2世はウィリーとニッキーと呼び合う中であった。そのドイツがロシアの険悪な国内状況を憂慮して、早く和平を進めるべきだとニッキーに書類で勧告したと言う。

そして1905/6/3に駐米ドイツ大使S.ステンブルクをして、ルーズベルト大統領にそのことを伝えて、暗にルーズベルトに和平の斡旋をするよう依頼させた。ドイツの意図は、明らかに独善的であった。何がどうあれ、ドイツは日本に対してあの「三国干渉」をした国である。

(続く)
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日韓併合100年(101)

2011-06-27 11:18:24 | Weblog

Theodore Rooseveltセオドア・ルーズベルト)は、1901/9/14、ウィリアム・マッキンリー大統領が暗殺されたことをうけて、42才と10か月と言う若さで副大統領から大統領に就任している。そのため第26代大統領となったT.ルーズベルトの29期めの任期は、1901/9/14~1905/3/4までであった。
そして30期の1905/3/4~1909/3/4の任期中の1905/2/22~3/10に奉天会戦が戦われている。大統領はこの奉天戦で日露戦争の一定の目途が付いたものと感じていた。まだ日本海海戦(5/27~28)が戦われていないが、その前に講和が成立すればそれなりに有意義ではないかと考えていた。しかも、自分の仲介で日露の和平が実現すれば自己の指導力も急進し、しかも次期大統領選挙にも有利と考えていた。そのため3月中頃には日露両政府へ和平の斡旋を試みたのであるが、状況が状況であったため、両国より、ものの見事に拒絶されている。満州ではクロパトキンに代わったリネウィッチが意気軒昂であり、バルチック艦隊はノシベを3/16に出港したばかりであった。日本軍はまだロシア領への進軍は出来ていない。'11/6/13,NO.91参照のこと。

そのため大統領は日露の艦隊戦がこの戦争の勝敗を決するものと考え、この艦隊決戦を待って本格的な仲介をすることにした。それと言うのも、「日本が講和の意向を持っていることをロシアが知れば、それはバルチック艦隊が近づいたために日本が恐れをなしたためであろう」とロシアが思うからであると言うことを、日本の駐米公使に語っている。要はルーズベルトは心から日本に親近感を抱いていなかったからである。更には「ロシアの軍艦は殆どが自国製であるのに対して、日本軍艦は全て外国製である点からも日本海軍が劣勢であると見るべきこと、日本艦隊がロシア艦隊を外洋に迎撃できないのも劣勢の証拠になること、などを指摘して推断した」と大統領は予測している、と「日露戦争6」(児島襄)には記述されている。

要は日本は決戦を避けてほどほどに戦って海軍力を温存して講和をはかるべきだ、と言う考察なのである。大統領はさる書簡の中で、「要するに、米国の国益と政策の対象として当面は日本の立場を支持するが、心情としては同じ白人種のロシア人を好む」と言うようなことも記述していると言う。

しかしいまや日本艦隊がバルチック艦隊を完璧なまでに打ち負かしている。そしてT.ルーズベルトは、先に述べたように「日本連合艦隊」の完全勝利に、度肝を抜かれ神経昂進して公務まで放り出している。日本政府は、いよいよ、ルーズベルト大統領に和平の斡旋を依頼することになる。

1905/5/31、外相小村寿太郎は駐米公使高平小五郎に、大統領に申し入れるよう次のように訓令した。

(続く)
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日韓併合100年(100)

2011-06-24 11:30:17 | Weblog

(※)ウラジミール湾は、ウラジオストクの東、北海道の積丹半島の西約400kmのロシア沿海州の日本海に面している軍港である。地図で見ると、オリガという都市のすぐ北20~30kmに位置する湾である。
現在は、ロシア海軍の攻撃型原子力潜水艦の基地である。2008/11/10の夜に、この湾近くで攻撃型原潜「ネルバ」が、死者20名、重傷者21名と言う事故を起こしている。幸いにも原子炉の事故ではなかったが、現在は日本海など日本の周辺海域には、ロシア・中国の原潜がウヨウヨしている。危ないと言ったら、この上ない。



さて海戦が始まると、戦場に近い対馬の北部東岸にロシア兵の残兵が漂着しだした。島根県西部の石見地方の現在江津市海岸にもロシア兵が漂着している。沢山の死体も流れ着いている。山口県の萩、豊浦郡阿川村の海岸にもロシア兵の死体やボートなどが漂着した。しかし流れてくるものは全てロシア側ものであり、日本側のものは流れてこない。そのためどうやら日本側が勝っているらしい、ということは村人たちにも想像できた、と「日露戦争7」(児島襄)は述べている。そして流れ着いたロシア兵に対しては、村人たちは総出でロシア兵とは知らずに、何くれと無く世話をした。そして「ロシア兵」とわかっても、村の男女は態度を変えることなく、「戦さしに来てご苦労なことじゃ」と世話を続けたという。古きよき日本の姿がそこにはあった、と微笑んだことであろうがこれは古き物ではなく今の日本にも厳然と存在しているものと思う。東日本大震災で避難所で生活している多くに日本人は、このお互いに助け合い崇(あが)め合う気持ちでこの困難に立ち向かっていることと、根は同じものと思う。それにしても、もう少しマシにならないものかねえ、空き管政権は。


以上見てきたように日本海海戦の結果は、日本の大勝利であった。米国では、長崎の米国領事からの「日本海軍の大勝」の報告電が、5/28に入っていた。大統領ルーズベルトも、なかなか事実とは信じられずにいたが、日本側公報が届くにつれて疑念は一掃され、「神経昂進して、身全く日本人に化し、公務を処理するの念無く、ただ来訪者に海戦の状況を談話して終日を送った」と「日露戦争7」(児島襄)は書かれている。

各国の新聞も一斉に、「日本海海戦」の日本の勝利をたたえ、ロシアの敗北・講和の必要性を論評した。

例えば「ワシントン・タイムス」は「露国の敗北は、文明の凱旋なり」と報道した。これを見るとロシアの外交は世界から疎んじられていたものと思われる。昔も今もロシアは嫌われ者だったようだ。

そして当然と言えば当然であるが、このような風潮は日本政府を喜ばせた。日本はすでに全てを出し切ってしまっている。これ以上大陸の内部に引っ張り込まれた場合、いくら制海権を確保したとは言えジリ貧状態と言うよりも、戦力の枯渇により崩壊の危機に瀕していたのではないかと、感ずるのである。

(続く)
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日韓併合100年(99)

2011-06-23 10:34:41 | Weblog

さてここでバルチック艦隊の損害状況を見てみよう。軍艦名はWikipediaや「日露戦争4」(児島襄)などを参照している。



1.戦艦・スウォーロフ(旗艦)、  5/27 19:27沈没   第1戦隊
2.戦艦・アレクサンドル三世、   5/27 19:00沈没    同
3.戦艦・ボロジノ、        5/27 19:23沈没    同
4.戦艦・アリョール、       5/28 10:55捕獲    同
5.戦艦・オスラビア(旗艦)、   5/27 15:10沈没   第2戦隊
6.戦艦・シソイ・ウェリーキー、  5/28 11:02沈没    同
7.戦艦・ナワリン、        5/27 23:50沈没    同
8.一等巡洋艦・ナヒーモフ、    5/28 9:00沈没    同
9.戦艦・ニコライ一世(旗艦)、  5/28 10:55捕獲   第3戦隊
10.装甲海防艦・アブラクシン、   5/28 10:55捕獲    同
11.装甲海防艦・セニャーヴィン、  5/28 10:55捕獲    同
12.装甲海防艦・ウシャコフ、     5/28 18:10沈没    同
13.一等巡洋艦・オレーク(旗艦)、 後日マニラにて武装解除  第1巡洋艦隊
14.一等巡洋艦・アウローラ、     後日マニラにて武装解除    同
15.一等巡洋艦・ドンスコイ、    5/29 6:00沈没         同
16.一等巡洋艦・モノマーフ、    5/28 14:30沈没        同
17.二等巡洋艦・スウェトラーナ、  5/28 11:00沈没       第2巡洋艦隊
18.二等巡洋艦・アルマース、    浦塩へ逃走   同
19.二等巡洋艦・ジェムチュク、   後日マニラにて武装解除      同
20.二等巡洋艦・イズムルート、   5/30 ウラジミール湾(※)で自爆  同
21.駆逐艦・ブイヌイ、       5/28 16:00沈没       第1駆逐隊
22.駆逐艦・ベドウイ、       5/28 16:00捕獲         同
23.駆逐艦・ブイストルイ、     5/28 11:06沈没         同
24.駆逐艦・ブラーウイ、      浦塩へ逃走   同
25.駆逐艦・グローズヌイ、     浦塩へ逃走  第2駆逐隊 
26.駆逐艦・グロームキー、     5/28 12:43沈没          同
27.駆逐艦・ボードルイ、      ?後日自爆か            同
28.駆逐艦・プレースチャーシチー、 ?後日マニラにて武装解除      同
29.駆逐艦・ベズブリョーチヌイ、  ?沈没か              同
30.仮装巡洋艦・ウラル、      5/27 15:10沈没   随伴艦隊
31.工作艦・カムチャッカ、     5/27 19:00沈没    同
32.輸送船・アナディリ、      後日、本国へ帰還   同
33.輸送船・イルツイシ、      ?沈没か        同
34.輸送船・コレーヤ、       ?武装解除       同
35.輸送船・ルーシ、        5/27 15:10沈没    同
36.輸送船・スヴィーリ、      ?武装解除       同
37.病院船・オリョール、      5/27 15:10捕獲    同
38.病院船・コストローマ、     5/27 15:10捕獲    同


ここでは、34隻の損害としているが、これは輸送艦「コレーヤ」と「スヴィーリ」を武装解除としているのであるが、どちらかは本国へ帰還しているかもしれない。調べ切れていないものである。

いずれにしても浦塩へ逃走できたのは弱小艦の3隻のみであって、日本海軍の完全勝利と言う状況を確認して頂けたことであろう。

マニラで武装解除された巡洋艦隊は、巡洋艦隊司令長官O・エンクイスト少将が、5/27の夕暮れ時に海戦に嫌気がさして、戦線を離脱したものであった('11/6/21,NO.97参照)。

(続く)
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日韓併合100年(98)

2011-06-22 10:41:14 | Weblog

東郷大将率いる第1戦隊は、ロシア戦艦「ニコライ一世」「アリョール」を引率して、19:45に戦場を離れた。上村中将率いる第2戦隊は、巡洋艦「磐手」と「八雲」が装甲海防艦「ウシャコフ」の追跡に派遣されているため、「セニャーウィン」の捕獲作業が遅れた。そして巡洋艦「ドンスコイ」への攻撃も終了した21:35、第2戦隊も装甲海防艦「アブラクシン」「セニャーウィン」を率いて、戦場を後にした。---「日本海海戦」の閉幕であった。

5/3009:00、第2戦隊が「アブラクシン」と「セニャーウィン」を引き連れて佐世保に入港する。
第1戦隊は、浸水の激しい「アリョール」を舞鶴に回航させたため遅くなり、5/3010:30に佐世保に「ニコライ一世」を引率して入港した。

そして、重傷のロジェストヴェンスキー中将を佐世保海軍病院に入院させ、ネボガトフ少将は佐世保海兵団に収容する。

そして総合戦績を次のように報告する。

撃沈=戦艦五→六、巡洋艦五、装甲海防艦一、仮装巡洋艦一、工作船一、駆逐艦三
捕獲=戦艦二、装甲海防艦二、駆逐艦一

このため、軍令部にも海軍省にも大歓声が上がり続けた、と「日露戦争7」(児島襄)は述べている。
そして戦艦「シソイ・ウェリーキー」の撃沈が確認され、戦艦六隻の撃沈となり、バルチック艦隊38隻中合計22隻撃沈・捕獲大戦果となった。そして海軍省は、この戦果集計を8カ国公館に通報した。

ロシア戦艦の8隻は全て、撃沈か捕獲されている。「全世界--が、日本側の戦果の発表を知ると、わきたった。誰もが、ちょうど百年前の「トラファルガー岬沖海戦」を想起した」、と「日露戦争7」(児島襄)は述べている。

トラファルガー沖海戦は、1805/10/21にスペインのトラファルガー岬の沖で戦われた、英国と仏・西(スペイン)連合艦隊との海戦であり、ナポレオン戦争最大の海戦であった。

当時イギリスは海上を封鎖し、ナポレオンのイギリス本土上陸を阻止していたが、ナポレオンはフランス・スペイン連合艦隊33隻で、ホレーショ・ネルソン提督率いるイギリス艦隊31隻に戦いを挑んだものであった。ネルソンは、仏・西連合艦隊の列に二列で突っ込むと言う戦法で仏・西艦隊の分断を図り、撃沈1隻、捕獲破壊18隻と言う大勝利をもたらした。しかしネルソン提督は仏狙撃兵に銃撃され「私は義務を果たした」と言って息を引き取っている。このトラファルガー沖海戦では、ナポレオン戦争の帰趨を決するまでには至らなかった。ナポレオン戦争の帰趨は、1815年のワーテルローの戦いでナポレオンが敗れた結果、決している。だから、日本海海戦の勝利は、トラファルガー沖海戦よりも、ずっとずっと重大な意味を持ちトラファルガーなどとは比べられないほど大きいものなのである、と小生は確信している。トラファルガー岬はジブラルタル海峡を出たところの大西洋に面するスペイン南端にある岬である。

ネルソンの戦果は、19/33=58%であったが、東郷の戦果は、武装解除艦も含めると33/38=86%でネルソンの五割り増しの成果であり、トラファルガー沖海戦と比べられては、東郷大将や日本海軍がかわいそうである。

ちなみに、「日本海海戦」とは東郷大将が命名したものである。

(続く)
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日韓併合100年(97)

2011-06-21 13:11:45 | Weblog

そして巡洋艦、駆逐艦を含むバルチック艦隊の全57隻中、ウラジオストクを目指すことが出来たのは(まともに動ける船は)、たったの15隻になっていた。即ち上記の主力と言われた5隻と4隻の巡洋艦、6隻の駆逐艦の15隻だけとなっていた。しかしこれらの艦船は、浦塩には辿り着くことは出来なかった。

即ち、戦艦「アリョール」、戦艦「ニコライ一世」、装甲海防艦「アブラクシン」「セニャービィン」「ウシャーコフ」、(巡洋艦戦隊に編入された装甲巡洋艦「モノマーフ」は、5/28,14:30沈没している。)
それに、一等巡洋艦1隻、二等巡洋艦3隻、駆逐艦6隻 だけであった。

またロシア駆逐艦2隻は対馬南方に向かい、巡洋艦隊主力の3隻は五島列島沖をマニラに向かって逃走してしまっている。

しかしこの状態は、鬱陵島に向かっている我が連合艦隊にも、また、当のバルチック艦隊自身にもわかっていなかった。連合艦隊の第1、第2戦隊は鬱陵島の南南西約55km地点を航行していた。5/28の朝は「天気晴朗にして、前日来の蒙気払うが如く、清澄望遠に適す」状況であった。しかしお互いに、あたり一面見渡す限り波立つ海原が続いていた。そしてお互いに「不安」に駆られていた。

しかし、5/28、05:04、巡洋艦「厳島」が、数条の煤煙を認める。そして、05:25敵艦隊を視認する。ネボガトフ少将率いる「第3艦隊」と「アリョール」の5隻である。敵は戦艦2隻と戦艦クラスの装甲海防艦3隻である。'11/6/15,NO.93で説明しているように巡洋艦隊が、戦艦と対戦するには誠に不利である。09:35先行した第2戦隊も第1戦隊が到着するまで、監視を続ける、と言っても距離1万m。しかもネボガトフ隊の5隻は全て手キズを負っている。09:45日本の主力艦隊12隻のほか、巡洋艦隊、駆逐艦隊にも囲まれている。10:36「春日」の試射に伴って第2戦隊が一斉に砲撃を開始する。
しかし10:37ネボガトフ少将は降伏を決断し、旗艦「ニコライ一世」は「降伏」の万国信号旗を掲げて降伏の意思表示をするも、機関停止をしなかったために砲撃が続けられた。「三笠」からの「停船せよ」の信号で、10:53ようやく機関停止させ、10:55ネボガトフ隊は降伏した。

これより前、5/28
07:20、戦艦「シソイ・ウェリーキー」を捕獲する。しかし後刻、浸水により沈没する。
07:50、巡洋艦「ナヒーモフ」捕獲。
09:00、巡洋艦「ナヒーモフ」沈没。
そして
11:02、戦艦「シソイ・ウェリーキー」沈没
11:06、巡洋艦「スウェトラーナ」沈没。
11:06頃、駆逐艦「ブイストルイ」かく座
12:43、駆逐艦「グロムキー」沈没
14:50、ネボガトフ隊の捕獲作業を開始する。すると、装甲海防艦「ウシャコフ」が北上してくるのを発見し、捕獲作業を中断した巡洋艦「磐手」と「八雲」が追跡する。
17:30、降伏勧告するも従わず、「ウシャコフ」との砲撃戦が開始される。後刻沈没。
16:00過ぎ、駆逐艦「ブルヌイ」自沈
17:15、駆逐艦「ベドウィ」降伏。この駆逐艦には「ブルヌイ」から移された重傷の司令長官ロジェストヴェンスキー中将が乗っていることを知り、「ベドウィ」の捕獲を担当した駆逐艦「漣サザナミ」艦長相羽恒三少佐は驚いた。
18:10、装甲海防艦「ウシャコフ」沈没
21:10、巡洋艦「ドンスコイ」大破。
5/29,早朝、巡洋艦「ドンスコイ」自沈
(続く)
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日韓併合100年(96)

2011-06-20 15:19:33 | Weblog

1905/5/27,18:00過ぎ、日没が迫り視界が狭まった。「日露戦争5」(児島襄)は次のように述べている。

この時刻には、戦闘はだれ気味になっていた。
連合艦隊は、戦艦「オスラビア」のほか仮装巡洋艦「ウラル」と運送船「ルス」を撃沈し、旗艦「スウォーロフ」及び工作艦「カムチャッカ」を大破した。また他の艦船にも損害をあたえ、仮装巡洋艦「佐渡丸」「満州丸」は、それぞれ病院船「アリョール」「カストローマ」を捕えて、対馬に連行中であった。


連合艦隊にも、それなりに砲弾を受け被害を受けていた。修理のため戦列を離れるもの、やむを得ず基地に帰還するものなどが出ているが、日本艦隊の戦意は衰えていない。そしてロジェストヴェンスキーは、ウラジオストクへの行くことを命じ、その指揮権を第三戦隊司令官のネボガトフ少将に譲っている。

バルチック艦隊は、北から東郷の第1戦隊に、南からは村上の第2戦隊に挟撃されている。
18:33、東郷の第1戦隊の攻撃を受け、戦艦「ボロジノ」の被害が増大する。

19:00、「戦艦アレクサンドル三世」が沈没する。工作船「カムチャッカ」沈没。乗組員合計64人が山口県の見島、と越ケ浜に漂着している。
19:13、距離が離れたので「三笠」は砲撃を中止する。
19:23戦艦「ボロジノ」沈没。
19:27、戦艦「スウォーロフ」は、水雷艇の攻撃により、ようやく沈没する。

19:55、9時間ぶりの夕食、そして全艦に鬱陵島への集合を命ずる。三笠の被弾数は32発、他の第1、2戦隊の艦船は平均8発、死者73人、負傷者313人と記載されている。まずは日本側の「大勝」である、と述べている。鬱陵島は朝鮮半島中央部・日本海側の沖合いの島であり、バルチック艦隊の浦塩行きをここで待ち伏せして、全滅させるつもりなのである。そのためにも、連合艦隊は夜も眠らない。駆逐艦21隻、水雷艇36隻による夜戦を指示する。

駆逐艦は300tレベル、水雷艇は100tレベルの小艦艇であり、船体が折れんばかりの荒れた海での航行には相当苦労している。そして闇夜の中で攻撃中の水雷艇同士が衝突して、3艇が沈没している。雷撃攻撃は敵艦に肉薄攻撃し、脇目も振らずに退避しなければならないので、戦果は不明だ。しかし後ほど判明した戦果は大きかった。

23:50頃、戦艦「ナワリン」沈没。
5/28,02:30頃、戦艦「シソイ・ウェリーキー」大破。日本海軍の秘密兵器「連繋水雷」による爆発である。ロープの両端に機雷を結んだものを引っ掛けたのである。
その他、巡洋艦「ナヒーモフ」と「モノマーフ」も魚雷を受けて航行の自由を失っている。

この夜襲は、「戦艦一隻撃沈、戦艦一隻及び巡洋艦2隻大破」と言う大戦果を挙げていたのであった。

この段階(5/27の昼から夜)で、バルチック艦隊の戦艦8隻中、5隻が沈没、1隻が大破している。
6月16日のNO.94で述べたバルチック艦隊の主力12隻中、残っているのはたったの5隻であった。即ち戦艦「アリョール」とネホガトフ少将が率いてきた第3艦隊の旧式の4隻のみであった。

(続く)
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日韓併合100年(95)

2011-06-17 14:27:21 | Weblog

丁字に頭を抑えられたバルチック艦隊は、南東に逃げている。そのため両艦隊は並航戦となっている。もっぱら「三笠」のみが被弾し、他艦には殆ど着弾していない。しかし第2戦隊の「浅間」に着弾した12インチ砲弾は、死傷者は無かったものの、舵輪操作を不能にした。

以上と以下は「日露戦争5」(児島襄)を参照している。

14:40、並航戦が続くが、速力を上げ丁字に回頭する。
14:45、連合艦隊の第3、第4戦隊の巡洋艦隊が、バルチック艦隊の背後を襲う。

旗艦スウォーロフは、舵が故障し右旋回を始める。2番艦のアレクサンドル三世が先頭になり北上する。そして被弾し、列外に出る。3番艦のボロジノが先頭になり、被弾する。防護巡洋艦「ジェンチュグ」が「スウォーロフ」の防護から離れて、戦列の先頭へと復帰するために速力を上げて突進する。その姿を「三笠」は捕らえていた。あたかも「三笠」に向かって突進して、近距離にて水雷を発射されることを恐れた「三笠」は、14:57、敵前で左90度に一斉回頭をする。

しかし第1戦隊に続く第2戦隊は回頭しなかった。第2戦隊旗艦の巡洋艦「出雲」の先任参謀佐藤鉄太郎中佐は、「スウォーロフ」の異常に気が付き後続艦隊は直進するので、第2艦隊司令長官上村彦之丞中将に「面舵をとって敵の頭を抑えましょう」と進言する。そして15:00頃第2戦隊は右に舵を切る。「中」が「大」に戦いを挑むのである。戦艦の12インチ(30.48cm)に対して、装甲巡洋艦の8インチ(20.3cm)が挑んだのである。しかし砲撃精度に勝る上村艦隊は、「シソイウェリーキー」と「アレクサンドル三世」に砲弾を浴びせ火災を発生させる。この三笠の指示を間違いと判断し独断専行で、バルチック艦隊を押さえた行動が、「ブラボー、アドミラル上村」と言われたゆえんである。(2010/12/3,NO.33参照)
15:05、三笠の第1戦隊は左90度一斉回頭し、「三笠」が最後尾の単縦陣となり、バルチック艦隊と逆行する形となり、まず三笠がスウォーロフに向け発砲を開始する。
15:10、オスラビア沈没。

しかし第1戦隊とバルチック艦隊は逆方向への航行となりお互いに見失う。バルチック艦隊は第2戦隊に頭を抑えられ、南へ向かっている。そして先頭艦となった戦艦「ボロジノ」は、戦闘を避け、今度は北へ向かって逃走を開始する。

東郷の第一戦隊は間違いに気付き、15:47、一斉回頭をして戻ってきていた。そして北に向かったバルチック艦隊と偶然鉢合わせとなり、東から追いかける第2戦隊と思いかけずに挟み撃ちをする形となる。ここでも東郷はバルチック艦隊と鉢合わせすると言う幸運を得て、北に取り逃がすことにはならなかった。その点でも東郷は、大いに運のよい男なのであろう。

スウォーロフはこの時、17:30頃は攻撃も受けずに単艦で漂っていた。司令長官ロジェストヴェンスキーは頭部他に重傷を負っていた。駆逐艦「ブイヌイ」が「スウォーロフ」に接舷させ、神業で司令長官を移乗させその場を離れていった。

(続く)
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