世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(11)

2024-04-30 00:00:00 | Weblog

(8) 間違いの8、旅順第一回総攻撃失敗の後”要塞戦の正攻法である坑道掘削 

  作戦をとらなかった”は間違いである。p166~167 

  1904.8.30の作戦会議で第二回総攻撃では坑道掘削作戦が採用されて、要 

  塞外壁爆破により各堡塁を攻略した。 

  龍眼北方堡塁、水師営堡塁、ナマコ山を占領しロシア軍艦を砲撃したこと 

  を、司馬遼太郎は無視している。 

   

  「ついでながら要塞攻撃については、すでににフランスのボーバンが樹立 

  した大原則があった。 

  先ず、攻撃側が、攻撃用の砲台を構築することであった。この思想はすで 

  に日本では戦国期にあり、付城と言われ、城攻めの露偉人と言われた豊臣 

  秀吉が、織田家の一武将のころからさかんにこの方法を用いた。 

  ボーバンの戦術では、その攻撃用砲台をつくるだけでなく、歩兵の生命を 

  まもるために並行豪を掘る。それによって外壁を地下から爆破する。そ 

  れによって外壁を占領し、次いで胸墻(きょうしょう、胸の高さほどの盛り 

  土)を爆破し、しかるのちに突撃態勢に入るのが原則であり、この当時世界の陸 

  軍における常識になっていた。 

  「それ以外に方法はない」 

  と、ボーバンは断言していたし、欧州における多くの先例がそれを証明し 

  ていた。 

  もっとも、乃木軍はこの「正攻法」をとらなかったわけではない。不徹底 

  ながらも第二回総攻撃はこの正攻法を併用したということはすでに触れた 

  。塹壕を掘ったり、またさまざまな方面から敵の堡塁に向かって坑道を掘 

  ったりしたが、しかしロシアは要塞を守る戦いにかけては世界一と言うべ 

  き戦闘技術を持っており、この程度の幼稚な行動作戦に対しては適切な手 

  を打ち、妨害し、このためあまり功を奏さなかった。」 

  (文藝春秋社「坂の上の雲」三,S46年第15刷 P230~p231) 

 

  などと史実に反したことを書き連ねている。と「ロシア破れたり」には 

   書かれている。 

 

  ちなみに龍眼北方堡塁はNO.10の地図、日露戦争-旅順要塞攻略戦 

  ③(sakanouenokumo.com)で、水師営の右側にあり、ナマコ山は水師営の 

  左下に位置している、様だ。間違っていれば、どしどし訂正願う。 

 

  またP堡塁も奪取に成功している。P堡塁は一戸兵衛第六旅団長自ら切り 

  込み、死守に成功した堡塁である。そのため一戸堡塁と命名されている。 

  この一戸堡塁は、先の絵で「望台」の傍・右上に位置する堡塁である。 

  ともかくも、ロシア堡塁はそれなりに日本軍に奪取されていたのである。 

 

 

日露戦争-旅順要塞攻略戦② (sakanouenokumo.com) より。 

   

 第一次総攻撃に失敗した第三軍は攻撃方針を強襲から正攻法へ切り替え、各堡塁への坑道掘削作業を開始した。九月十九日、第9師団は龍眼北堡塁と水師営南堡塁への攻撃を行い、翌日にこれを占領。一方、第一師団は海軍からの要請に応じて十九日から二○三高地を攻撃したが、苦戦を強いられ二十三日に撤退した。
 この攻撃が行われる数日前に達子房身に二十八サンチ榴弾砲が到着。二十二日に準備が整い、三十日から敵陣地に対する砲撃を開始する。 

 

 そして十月下旬、坑道掘削をほぼ終えた第三軍司令部は第二次総攻撃の実施を決定した。十月二十六日、攻城砲部隊による砲撃を開始。三十日から突撃を開始した歩兵部隊は一戸堡塁などいくつかの敵陣地を奪取した。一方、東鶏冠山北堡塁などの永久堡塁に対しては外壁の一部爆破には成功するが、攻撃は頓挫。各部隊で損害が続出したため、乃木は三十一日に攻撃中止命令を下した。 

 

日露戦争-旅順要塞攻略戦② (sakanouenokumo.com) 

www.sakanouenokumo.com/ryojunkouryakusen2.htm
 

 

「坂の上の雲」では、 

 

旅順要塞への第二回総攻撃は、むろん第一回ののように単純な突撃では 

なかった。火砲をもって十分にたたいておくという「正攻法」を併用し、 

そのうえで突撃した。この突撃は、いたずらに人間を敵のぺトンに投げつけるだけに終わった。 

(文藝春秋社「坂の上の雲」三,S46年第15刷 P230上段終わり 

 

しかもその乃木軍はその攻撃法を変えず、第二回の総攻撃を遣った。同じ結果が出た。死傷四千九百人で、要塞は微動だにしない 

(文藝春秋社「坂の上の雲」三,S46年第15刷 P229上段始め 

 

  と書いているが、この指摘は事実とかけ離れていると「ロシア破れたり 

  には書かれている。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(10)

2024-04-26 00:00:00 | Weblog

「ロシア破れたり」(P150)には、「奉天会戦で日本陸軍は、ロシア軍機 

  関銃五十六挺を上回る二百五十六挺を戦線に投入して、勝利した。すなわ 

  ち日露戦争で、ロシア軍は旧式のマキシム機関銃を使用し、日本陸軍は新 

  式のホチキス機関銃を改良した保式機関銃を使用したのだ。両者を見比べ 

  れば明らかだが、手先の器用な日本人が改良した保式機関銃の方が、ロシ 

  ア郡のマキシム機関銃よりなんとなく優美(?)である」と書かれてい 

  いる。 

 

  明治日本軍は日清戦争では、このマキシム機関銃を使ったが、性能が良く 

  ないので、ホチキス機関銃を四挺購入してこれを改良して日露戦争の2年 

  前の1902(M35)年に保式機関銃として大量生産したものである、とこの 

  前の部分には書かれているものである。 

 

  史実と異なったことは、「坂の上の雲」と言えども、というよりも「坂の 

  上の雲」だからこそ、書いてはいけないのである。 

 

(7) 間違いの7、旅順第一回総攻撃で”小塁一つぬけなかった”は間違い 

  である。p152~153 

   旅順総攻撃はM37.8.21の午前4時に命令が下った。日本軍は果敢に突撃 

  するも、ことごとく撃退され8.22の午前5時に退却命令を発した。しか 

  しわずかに生き残った生存兵が、爆薬を銃眼に押し込んで爆破し、金沢第 

  七連隊の生き残り70名が敵塁内に踊りこみ、金沢第三十五連隊の残兵が 

  応援に駆けつけて、盤龍山堡塁を占拠し日章旗を掲げた。…と「ロシア 

  破れたりのP152には書かれているが、「坂の上の雲」では小塁一つ 

  ぬけなかった”と次のように書かれている。 

   

  「乃木軍がいよいよ第一回総攻撃をはじめたのは、八月十九日からであっ 

  た。…・・この攻撃が、弱点攻撃をもって対要塞戦の原則とするにもかかわ 

  らず、もっとも強靭な盤龍山と東鶏冠山をえらび、その中央を突破して全 

  要塞を真二つに分断しようというほとんど机上案にちかい作戦をたて、実 

  施した。この実施によって強いられた日本兵の損害は、わずか六日間の猛 

  攻で死傷一万五千八百人という巨大なものであり、しかも敵に与えた損害 

  は警備で、小塁ひとつぬけなかった」 

        (文藝春秋社「坂の上の雲」三,S46年第15刷 P224

 

  しかし、「小塁一つぬけず」云々は、もちろんウソである。ともかくも乃 

  木軍は、重要堡塁の盤龍山を占領したのである。 

   ・・・・・と「ロシア破れた」のP153には書かれているのである。 

 

 

  参考までに「旅順要塞図」を次に載せる。 

日露戦争-旅順要塞攻略戦③(sakanouenokumo.com)  

https//www.sakanouenokumo.com/ryojunkouryakusen3.htm 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(9)

2024-04-25 00:00:00 | Weblog

 「坂の上の雲」では、旅順攻撃の失敗は伊地知にあるとして、次の様に 

  書いている、と「ロシア破れたり」のP138~139には書かれている。 

 

   乃木希典は東京を発つとき、 

  「死傷一万人で落ちるだろう」 

  と見た。その程度しか旅順をみていなかった。それを基準として攻撃法を 

  決めた。むろん、参謀長の伊地知幸介の頭脳から出たものである。 

  (文藝春秋社「坂の上の雲」三,S46年第15刷 P228  

 

  「有能無能は人間の全人的な価値評価の基準にならないにせよ、高級軍 

  人のばあいは有能であることが絶対の条件であるべきであった。かれらは 

  その作戦能力において国家と民族の安危を背負っており、現実の戦闘にお 

  いては無能であるがためにその麾下の兵士たちのすさまじい惨禍へ追い込 

  むことになるのである。 

 

   乃木希典の最大の不幸は、彼の作戦担当者として参謀長伊地知幸介が選ば 

   れたことであった。乃木に選択権があったわけではない。陸軍の首脳がそ 

  れをえらんだ。…(文藝春秋社「坂の上の雲」三,S46年第15刷 P226) 

 

  「ともあれ、旅順の日本軍は、『老朽変則の人物』とひそかにののしら 

  ている参謀長を作戦頭脳として悪戦苦闘の限りをつくしていた。一人の人 

  間の頭脳と性格が、これほどの長期にわたって災害をもたらし続けるとい 

  う例は、史上に類がない。 

  その間、日本国家を上げて恐怖し続けていたバルチック艦隊が、すでにロ 

  シア本国を出港してしまっていた。… 

  (文藝春秋社「坂の上の雲」四,S46年第15刷 P14) 

 

  「伊地知が、結局はおそるべき無能と頑固の人物であったことが乃木を不 

  幸にした。乃木を不幸にするよりも、この第三軍そのものに必要以上の大 

  流血を強いることになり、旅順要塞そのものが、日本人の血を吸い上げる 

  吸血ポンプのようなものになった」… 

 

  要するに司馬遼太郎は、伊地知ひいては乃木を無能・愚将とののしり、両 

  人の顔に泥を塗るために、『坂の上の雲』という小説を書いたとしか、私 

  にはおもえない。・・・・・とも「ロシア破れたり」(P139)には書いているの 

   である。 

 

  そしてこの後に、先に述べておいた「井口省吾評」(「自分の失敗は…) 

  が続くのである。 

 

(6) 間違いの6、”盤龍山堡塁の占領は四挺の機関銃のおかげ”であるが 

  乃木は機関銃を知らなかったと書いている。p148~149 

   (2)でも述べているが、乃木は『ロシアの堡塁から聞こえてくる連続射撃 

  音を聞いて、「あのポンポン言う音はなんじゃ」と幕僚に聞いたところ、 

  あれはマキシムであります、と幕僚が答えた。・・・「ああ、あれがマキ 

  シムか」と、乃木は初めてのその音を聞いた』と「坂の上の雲」には書か 

  れているが、これも話を面白くするための真っ赤なウソである、と書かれ 

  ているが、実際の歴史である以上、このように話を面白くする必要は微塵 

  もないのである。嫌味としか思えない。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(8)

2024-04-24 00:00:00 | Weblog

(4) 間違いの4、「坂の上の雲」には、南山陣地攻略の趣旨が述べられていな 

  い。P132 

   「南山陣地攻略により、補給基地である大連港を確保し、ロシア軍を遼 

  陽と旅順に分断して作戦目的を達成した」ことには固く口を閉ざすのであ 

  る。ただ、「一個連隊ぶんの死傷者を出しただけであった」と「坂の上 

  の雲」には記されている。 

  結局は、砲艦「鳥海」「赤城」の艦砲射撃で勇気づけられた奥保鞏の第二 

  軍は突撃して、南山陣地を陥落させ分断に成功しているのである。 

 

ちなみに朝鮮半島の西の渤海に突き出ている遼東半島の地図を載せる。 

この先端に旅順があり、次に大連、金州と日露戦争の激戦地が続く。 

遼東半島の先には山東半島が突き出ている。奉天は今の藩陽。 

https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=/ZRKv16k&id=95512FAA338740759C8824BE04B607541BF10780&thid=OIP._ZRKv16kHLpL8MTGZNfaUwHaG4&mediaurl=https://www.jacar.go.jp/nichiro/img3/ryoto.jpg&q=遼東半島%20地図&ck=4EB2B513CF849B1E8E8B43FA02B63A8D&idpp=rc&idpview=singleimage&form=rc2idp 

 

(5) 間違いの5、乃木軍参謀長の伊地知幸介少将を”‥・恐るべき無能と頑固 

  の人物”で書かれているが真っ赤な嘘である。p136~140 

      伊地知は薩摩藩の出身である。陸軍幼年学校から明治8年に陸軍士官学校 

  へ入校し、M12年に最優勝で卒業している。そのため陸大へは進まずに、 

  M13年にはフランスへ留学し、M17年には大山遣欧使節団の随員として派 

  遣され、そのままドイツに留学しモルトケの指導を受けている。陸軍士官 

  学校同期の井口省吾は、当時作戦本部長で少将であったが、「実は「自 

  分の失敗は部下の責任、部下の戦功は自分の戦功」という自分本位の男だ 

  った。』と伊地知氏は正反対の性格の持ち主として、「ロシア破れたり」 

  のP140には書かれている。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(7)

2024-04-23 00:00:00 | Weblog

(1) 間違いの1、”重砲を送れ”はありえない。p124~124 

  日本軍(奥保鞏大将の第二軍)は、重砲などの重量兵器を揚陸させ 

  るために、塩大澳に上陸し大連港を確保すべく、錦州城と南山陣地を攻 

  める事になる。しかし金州・南山要塞が堅固なることを知り、大本営に 

  「重砲を送れ」と要請したと、「坂の上の雲」には書かれているが、その 

  書には・・・ 

  「そんなバカな話はありようもない。金州・南山を落として大連港を確保 

  しない限り、重砲などの重量物の揚陸は困難なのだ。金州・南山の戦いは 

  、その重砲などの揚陸ができる大連港を確保するために、戦っているので 

  ある。」、と「坂の上の雲」の間違いを指摘している。 

 

(2) 間違いの2、”日本歩兵は機関銃を知らなかった。”は真っ赤な嘘。
   p126~127 

   金州城、南山要塞には機関銃が装備されており、総攻撃の日本軍はことご 

とくなぎ倒されてしまう。その書「坂の上の雲」では「--敵は機関砲と 

  いうものを持っている。と言うことが、日本軍の将兵が等しく持った驚異 

  であった。日本歩兵は機関銃を知らなかった。・・・」と書かれているが 

 「しかし奥第二軍は、ロシア機関銃十挺にたいして、四十八挺の機関銃を 

  持っていた。・・・」のであり、「日本歩兵は、機関銃を知らなかった 

  との記述は全くの誤りであると「ロシア破れたり」には記載されている。 

  これは司馬遼太郎の不勉強と言うよりも、何か悪意を感じてしまうので 

  ある。

 

(3) 間違いの3、”ロシア側従軍作家の見方”で書かれている。p128~129 

   この露軍「南山陣地」攻略においては、ロシア側の攻撃は激烈を極めて、 

  次の様に「坂の上の雲」には表現されている。 

  『緻密な火網を構成している敵の機関銃が、前後左右から猛射してきて 

  、虫のように殺されてしまう。それでも日本軍は、勇敢なのか忠実なのか 

  、前しか知らぬ生きもののようにこのロシア陣地の火網の中にはいってく 

  る。入ると、まるで人肉をミキサーにかけたように粉々にされてしまう」 

  と描き、戦場に斃れた戦死者の姿を、「人肉をミキサーにかけたようにこ 

  なごなにされてしまう」と表現した。 

  この表現には「共に戦った戦友への愛や、国のために戦って斃れた同胞の 

  無念への共感など、全く感じられない」と「ロシア破れたり」には書か 

  れている。 

これはまさしくロシア軍陣地からの視点であり、「これではまるでロシア 

  側従軍作家の見方ではないか。日本の国民作家とは、とても言えまい。私 

  は一人の日本人として、強い疑問を感じる。」と「ロシア破れたり」には 

  書かれている。 

  司馬の「坂の上の雲」には、祖国防衛戦争としての視点が全く感じられな 

  いのである。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意 (6)

2024-04-22 00:00:00 | Weblog

ロシアの極東における鉄道敷設状況を、関連事項と共に列記してみる。 

 

 

1877.4.24~1878.3.3 露土戦争、露とオスマントルコとの戦争、露が勝利。 

1878.3.3 サン・ステファノ条約で露が地中海への出口を確保するが、英国の 

     横やり(ベルリン条約、'78年6~7月)で阻止される 

1891.5.11 露皇太子ニコライが巡査津田三蔵に切り付けられる。 

1894.7.25~1895.4.17 日清戦争、日本の勝利で終結。下関条約 

1895年4月23日 三国干渉、日本に割譲された遼東半島(大連旅順等)を返還 

         せよと、露・独・仏が迫り、やむなく日本は放棄する。 

1897年 ウスリー鉄道、ハバロフスク--ウラジオストク 

1898年 シベリア鉄道、オビ--イルクーツク 

1900年 義和団事件・北清事変、ロシア満州に派兵、駐留。朝鮮に触手。 

1901年 東清鉄道、ハルビン--グロテコボ(綏芬河の東のポグラニチヌイ) 

1902年 東清鉄道、チタ・満洲里--ハルビン 

1903年1月 南満州支線、ハルビン--大連・旅順 

1903年7月 東清鉄道、グロテコボ--ウスリースク(東清鉄道全線開通 

1904.2.6~1905.9.5 日露戦争 

1904年2月 シベリア鉄道(バイカル湖は鉄道連絡船) 

1905年9月5日 ポーツマス条約、日露戦争終結 

1905年9月 南満州鉄道、長春--大連・旅順、日本に譲渡 

1916年 シベリア鉄道、イルクーツク--ハバロフスク 

 

 

ロシアとトルコはたびたび戦火を交えていたが、この1877~78年の戦争ではロシアがへ勝利し、念願がかなって地中海への出口を確保できたかに見えたが、イギリスなどの横やりでそれが閉ざされてしまう。そのため南下政策のはけ口を極東に求めてきたのであった。ロシアは日本が手に入れた遼東半島を三国干渉で放棄させ、その代わりに自分がその遼東半島を租借してしまう。義和団事件を契機にロシアは露清密約で満州の全域を確保し兵を駐留させ、不凍港の確保を確実にするため、朝鮮に手を伸ばしてきた。その結果が、日露戦争の勃発であった。日本にとっては、祖国防衛戦争でもあった。 

 

そんなさなかでのシベリア鉄道、東清鉄道の建設である。そんな状況下での日露戦争を題材にしたのが、司馬遼太郎の「坂の上の雲」であった。 

 

だから「坂の上の雲」は「祖国防衛戦争」を題材にしたれっきとした歴史小説なのであり、だからこそ史実に忠実であるべきであったのである。 

 

それにして、「坂の上の雲」には悪意がありすぎる。 

 

ロシアが主導した三国干渉以前の1891年には、ニコライ皇太子が日本への漫遊旅行中に、切り付けられる事件があった。 

 

このことはシベリア鉄道が日露の通商に利するというよりも、ロシアの極東への軍事侵攻を想像させるものとも考えられていたものであると同時に、ロシアの南下政策を地中海から満州・朝鮮に転換させるものでもあった。 

 

ロシアは陸続きで、不凍港である旅順・大連の方がより重要なことであった。このことは、ロシアの「対日強硬策」を意味するものである。 

 

さて「坂の上の雲」の間違いに戻ろう。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意 (5)

2024-04-19 00:00:00 | Weblog

しかし話は戻るが、日露和親条約が締結される10か月前には、すでに日米和親条約が締結されていたのである。平和的に交渉していたロシアに対して、米国は威圧的に交渉を行い、日米和親条約は1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に結ばれている。この結果「日本は外圧に弱い」との印象をロシアに与えてしまったことになる。ロシア破れたり」のP18にはそのように書かれている。 

 

尚ロシアとの条約交渉が始まった直後に、安政東海地震が発生して、ロシアの交渉団を運んで来た船の「ディアナ号」が津波に襲われ擱座してしまい、驚いた江戸幕府は修理すべく手を尽くしたが、結局は回航中に沈没してしまう。 

 

このため幕府は資金の一切を負担して、小型帆船を(ロシア人技師と共に)つくり与えた。これによりロシア団一行はアムール河口のニコラエフスクに上陸し、サンクト・ペテルブルグに帰ることが出来た。 

 

これにより皇帝アレクサンドル二世はいたく感激して、幕府に深甚なる謝意を伝えている。・・・とロシア破れたり」のP20には書かれている。 

 

 

と言った塩梅であったのであるが、ロシア交渉団を率いたのは、 

 

ロシア極東艦隊司令長官 プチャーチン海軍中将 

        同副将 ポシェット中佐 

 

であったが、ポシェットはその後海軍中将に昇進し、更に1874年(M7)に交通大臣に昇格する。すると直ちに「シベリア鉄道建設計画」を発表したのである。 

ウラルからウラジオストクに至る壮大な長距離鉄道計画である、とその書ロシア破れたり」のP20には書かれている。 

 

日露が良好な関係を維持し、シベリア鉄道東端のウラジオストクから海路で日本と結べば、ロシアは永年の宿敵イギリスを凌駕し世界一の帝国になれる」と、ポシェットは考えていたのである、とその書のP20には書かれている。 

 

・・・ように、ヨーロッパから東アジア、中国・日本へのルートはスエズ運河経由の海路で結ばれており、当時のイギリスが支配していたので、帝政ロシアとしては、陸路で日本と結べは、イギリスに対抗できる物流を確保できると確信していたのである。 

 

このシベリア鉄道計画にはフランスが興味を示して、ロシアに金融支援をして、1891年(M24)2月に計画は決定され5月より着工された。ウラル側からとウラジオストク側(ウスリー鉄道)からとで工事を開始することとなる。 

 

この計画を担当したのが、蔵相セルゲイ・ウィッテであった。ウィッテは金融政策、経済政策などをうまく運営して、ロシアの工業化を推進した。日露講和談判のロシア首席代表でもあった。 

 

ポシェット構想が前提とした日露友好から、日本を敵視するウィッテ構想へ変更したことを意味する。・・・とその書のP35には記されている。 

 

その結果、ウスリー鉄道(ウラジオストク→ハバロフスク)は、1897年に完成している。 

https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=Q8y4y8Ts&id=FCB0BD49F03C5A38BC4CC2F32E6AAC37112E6722&thid=OIP.Q8y4y8TsImd4h37rxXwVQwHaK-&mediaurl=https%3A%2F%2Fwww.kajima.co.jp%2Fgallery%2Fkiseki%2Fkiseki27%2Fimages%2Fimg27-01b.jpg&exph=587&expw=396&q=東清鉄道+地図&simid=608010603500304750&form=IRPRST&ck=C266514A8F4250CCCB2F027215F932DC&selectedindex=21&itb=0&ajaxhist=0&ajaxserp=0&vt=0&sim=11 

 

そして東清鉄道全線(ハルビン→ウラジオストク)は、1903年7月に完成し 

東清鉄道支線(ハルビン→大連・旅順)は、1904年1月に完成する。 

 

いよいよロシアの極東進出が真実味を帯びてきたのであった。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(4)

2024-04-18 00:00:00 | Weblog

(以降は、小生の次のブログを参照願いたい。 

200827(24)、200828(25) 日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。 


 

少しわかりにくかったかもしれないが、要は、司馬遼太郎こと福田定一は、 「日本人の起源は朝鮮半島から南下してきた人類である」と言うことを言いたいらしいのであるが、何を血迷ったか、これは真っ赤な嘘,間違い、偽造である。 

 

朝鮮半島では、BC1万年からBC 5千年の間は、ほとんど人が住んでいなかったのであり、朝鮮の年表ではこの間は空白になってるのである。この時期は、日本では縄文草創期に当たっている。そのため縄文時代から日本人が沢山朝鮮半島に渡っていたのである。 

 

朝鮮では、縄文土器の一種である豆粒文土器が発掘されている(縄文人骨も発掘されている)ので、この土器を使う縄文人が、朝鮮半島に渡って暮らしていたということである。 

 

 

かなり横道にそれてしまったが、これで、司馬遼太郎こと福田定一の「偏見・独断、悪意」の一端が理解できたものと思う。だから司馬こと福田は朝鮮人だったのではないか、と言われても仕方がないのである。 

 

さて話は、「日露戦争」に戻ろう。と言っても、司馬遼太郎の「坂の上の雲」での間違い探しである。 

 

これは冒頭でも述べているように、鈴木壮一氏著の「ロシア破れたり」(毎日ワンズ)で発表されている「坂の上の雲」に書かれている嘘と欺瞞・虚構を、ここで述べてみたいと思っているのである。 

 

先ずは、当時の極東、日本とロシアの関係に言及しておこう。 

 

もともと日露関係は、江戸末期から明治初期の頃は良好であったが、国境がどのように定められていったか、確認したい。 

 

安政東海地震(1854年12月23日、嘉永7年11月4日→途中安政に改元) 

(1)日露和親条約(1855.2.7、安政元年12月21日・下田にて) 

      ・択捉(エトロフ)島・日本領と得撫(ウルップ)島・ロシア領 

       の間に国境線 

      ・樺太は両国民混在の他とした。 

 

(2)樺太・千島交換条約(1875.5.7、明治8年) 

           ・ウルップ島から占守(シュムシュ)島までの千島列島を日本領  

        (択捉島以南はもともと日本固有の領土) 

      ・樺太はロシア領とする。 

 

(3)日英同盟(1902.1.30、明治35年) 

(4)日露戦争1904.2.6~1905.9.5、明治37,8年戦役 

 

(5)ポーツマス条約(1905.9.4、明治38年9月5日・日本時間) 

      ・樺太の北緯50度以南を日本に割譲(南樺太 

      ・朝鮮半島の優越権、南満州鉄道・同付属地の日本へ割譲 

      ・遼東半島南東部の租借権を日本へ譲渡 

      ・日露両軍の満州からの撤退 

      ・沿海州沿岸の漁業権を日本に与える。 

 

(6)ソ連対日参戦(1945.8.11~9.5) 

            ・南樺太、千島列島、北方領土・四島(エトロフ、クナシリ、ハボマイ、シコタン) 

  •         をソ連が占領する。返せ、北方領土!千島列島も! 

 

 

(https://note.com/nikolai716/n/n1326e716a08d より) 

 

 

と言った塩梅であるが、だから、現在は日露の国境は定まっていないし、日露関係はよくない、と言うよりもウクライナを見ればわかるように、悪いのである。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(3)

2024-04-17 00:00:00 | Weblog

あとは次のブログを参照願う。 

 

 

人間道場 荒木塾 

司馬遼太郎先生と街道をゆく 8 琵琶湖西岸を司馬先生とゆく 

2020-01-18 13:42:32 

テーマ:ブログ 

司馬遼太郎先生と街道をゆく 8 

この稿では「日本人はどこから来たのであろうか・・・・・・・・・ 

と 自問自答する先生」 

 

 

第1巻 甲州街道 長州路 

1章 湖西のみち 

 

日本民族はどこから来たのであろう 

という想像は 

我が身のことだからいかにも楽しいが 

しかし空しくもある。 

 

考古学と文化人類学がいかに進もうとも 

それが数学的回答のように明快になるということはまずない。 

 

まだ学問としては若いと言える日本語中心の比較言語学の世界になると 

 

今後英才が出てきて 

大きなカギヲ探り当てるかもしれない。 

 

ただしいまは 

まだ茫漠たる段階である。 

 

なにしろどの大学にも国語学者がいるが 

たとえば隣接地の言葉である朝鮮語を同時にやっているという当然の方法さえ 

いまはほとんどおこなわれていない段階なのである。 

 

この稿の読者の中で 

一念発起してそれを生涯のテーマとしてやってみようという青年がいればありがたいのだが。 

 

ここからは 

200826(23)日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。よりの引用である 

 

ふと湖に挟まれた湖西のさびしい道を走りながら 

「日本人はどこからきたのでしょうね」と 

編集部のH氏がつぶやいたのも 

どうせちゃんと答えがあるはずがないという物憂げな語調だった。 

 

しかしこの列島の谷間でボウフラのように湧いて出たのではあるまい。 

 

はるかな原始時代には触れぬほうが利口であろう。 

 

しかしわれわれには可視的な過去がある。 

 

それを遺跡によって 

見ることができる。 

 

となれば日本人の血液のなかの有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたことは紛れもないことである。 

 

その証拠は 

この湖西を走る車の窓の外をみよ 

無数に存在しているではないか。 

 

https://ameblo.jp/ara1418/entry-12567921887.html 

 

となれば日本人の血液のなかの有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたことは紛れもないことである。 

 

 

・・・朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたことは紛れもないことである」などと勝手なことを書いているが、こんなことがまかり通るのか、と馬鹿らしくなる。今まで見てきたように、日本列島人は朝鮮半島なんぞからやって来たものではないし、ましてや大陸からやって来たものではもない。 

 

何時の時代のことかは大切な事であるが、きっとこの滴り落ちてきたと言ったバカげた表現は、縄文末期から弥生初期の「水田稲作を携えて日本列島にやって来た渡来人」を想定したものであろう。 

 

これは( 「街道をゆく! 湖西のみち」・週刊朝日1971 )に載っていたものと言うので、当時としては、このような考え方が一般的であったと思われるので、やむを得ないかも知れないが、それにしてもいかにも幼稚的な迎合的な物言いである。 

 

板付遺跡が1978年(S53)で、菜畑遺跡が1980年(S55)なので、1971年に書かれたものであれば、まだこの事実は解っていなかったので仕方がないかも知れない。しかしながら日本列島にある沢山の遺跡に中に、渡来人の物と思われるものは何一つとしてない、という事は既に分かっていることであり厳然たる事実である。だから単眼的な発想に対して、幼稚的といったのである。 

 

 

さて、最後のつぶやきの「無数に存在しているではないか。」の意味が分からないので、 

(続く)

・・・  

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(2)

2024-04-16 00:00:00 | Weblog

(ここからは、 

200824(21)日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。よりの引用である。) 

 

司馬遼太郎は、「龍馬がゆく」、「坂の上の雲」などという名著を多数表しているので、それなりに尊敬に値する小説家と思っていたが、このような幼稚園児的な認識の持ち主だと言うことが分かり、全く以って唾棄すべき思想の一面を持っているのではないか、と言うことが分かった次第である 

 

 

ここにも記述されているように、板付や菜畑の遺跡の発見は、司馬のケンブリッジ大学での特別講演より、7~9年も前のことである。だから縄文時代が「闇の時代」ではないことは、十分に知っていなければならないことであった。 

 

 (ケンブリッジ大学での) 

司馬遼太郎・英国講演    1987年(S62) 英国日本学研究会主催のシンポジウム 

 

板付遺跡の水田遺構の発見  1978年(S53) 講演の9年前に判明  

菜畑遺跡の水田遺構の発見  1980年(S55) 講演の7年前に判明 


大平山元I遺跡出土の土器   1998年(h20) 世界最古の土器発掘、 

                      16,500年前のもの 

 

このように、縄文時代は決して司馬遼太郎の言うような「闇の時代」などではなくて、相当進歩していた時代なのである。決して狩猟採集だけの時代ではなくて、イネも陸稲ではあるが6000年も前から栽培されていたのであるし、土器も世界でも最も早くから使われていたのである。 

 

大平山元I遺跡は別にして、少なくとも板付遺跡菜畑遺跡3,000年前の水田跡が発見されていたことぐらいは、知識として持っていなければならないものであった。縄文時代はだから、決して闇の時代などと確定的に言えるほどの文化の低い時代ではなかったのである。 

 

1998年(h20)になるので司馬の英国講演の後にはなるが、何はともあれ、青森県外ケ浜町の平山元Ⅰ遺跡と言う縄文時代草創期の遺跡から出土した土器は世界最古のものであり、世界最古の弓矢使用となる石鏃も発見されているのである。縄文時代は、文化的にも世界最先端を走っていた、ということである。 

 

また2003年9月のことであるが、中国よりも古い世界最古の漆の器も、北海道などで発見されているのである。約9000年前の縄文時代早期前半のもので、中国河姆渡の漆器は約7500年前のものであったので、それよりも2000年ほども古いものであった。闇の時代などとたわけたことを言うよりも、日本の縄文時代は世界最先端の技術を持っていたと言うことを知っておくべきであった。 

 

・・・・・ 

司馬遼太郎の本名は福田定一と言うそうで、1923年(T12)大阪市生れ。 Wikipediaによれば、1936年(S11)私立上宮中学に入学し、そこで理由は定かではないが中国や朝鮮にシンパシィを抱くようになったようだ。そして今もって、中国や朝鮮なんぞにシンパシィを感ずると言うその神経がおかしいと言わざるを得ないものであるが、司馬遼太郎こと、福田定一はどんな神経を持ち合わせていたのであろうか。福田と聞くと、あの光市母子殺害事件の殺人犯の朝鮮人・福田孝行を思い出すが、福田定一も在日ではなかったのかな、と一瞬思ってしまう。 

 

ここからは 

200825(22)日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。よりの引用である。 

 

だからその書・長浜浩明氏の「日本人ルーツの謎を解く 縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!」(展転社)の冒頭の「初めに」で、次のようなものが紹介されているのであろう。その内容に対して、一寸面食らった次第です。 

 

日本民族はどこから来たのでしようね 

・・・・・・・・・・ 

 

日本人の血液の六割以上は朝鮮半島をつたって来たのではないのか 

 

 

・・・・・・・・・・  

 

 

「街道をゆく! 湖西のみち」・週刊朝日1971 

 

 

1971年のことである様なので、司馬の英国講演の更に前のことであるので、当然板付遺跡や菜畑遺跡はまだ発見されていない。 

 

 (ケンブリッジ大学での) 

司馬遼太郎・英国講演      1987年(S62) 英国日本学研究会主催のシンポジウム 

 

街道をゆく!湖西のみち     1971年(S46) 日本民族はどこから来たのでしょうね 

 

板付遺跡の水田遺構の発見    1978年(S53) 講演の9年前に判明  

菜畑遺跡の水田遺構の発見    1980年(S55) 講演の7年前に判明 


大平山元I遺跡出土の土器   1998年(H20) 世界最古の土器発掘、 

                                             16,500年前のもの 

(続く)

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