世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(11)

2010-10-29 00:12:27 | Weblog

以上ざっと朝鮮を中心とした東アジアの歴史状況を見てきたが、朝鮮が清朝を中心とする冊封体制から離脱するには、日清戦争下関講和条約締結1895年まで待たねばならなかったのである。

朝鮮の地位は、中国の属邦の中でも最も低く、下国の中の下国であった。例えば天朝の朝賀の席では、千官が赤色の礼服を着ていたのに対し、朝鮮の使臣だけは黒色の丸首の衣である。また、琉球の使臣は駕籠に乗って宮廷に入るのに対し、朝鮮の使臣は駕籠に乗ることを禁じられていたと、ユンキムの『渓陰漫筆』に書かれている。そして、李朝時代の臣民は琉球以下の扱いを受けていたと嘆いている。これは黄文雄氏の『韓国は日本がつくった』の一文である。中国は尖閣諸島を盗むために琉球はもともと中国の属国であった、などとも言い触らしている様だが、このことを見ても琉球は中国からは独立した地区であったことがよく分かる。

読者諸兄は、牡丹社(ぼたんしゃ)事件と言う言葉をどこかで耳にしたことがあることと思う。これは、1871年(明治4年)12月、琉球宮古島の島民69人が台風のため台湾東南海岸の八搖湾に漂着し、台湾先住民のパイワン族の村・牡丹社の住民に襲撃を受け日本の臣民54人が殺害された事件である。

(注)八搖湾の搖は、正式にはテヘンでなく王ヘンである。バツヤウと読む。

このため時の明治政府は、清国政府にその賠償を求めた。しかし清国は台湾は「清国の管理がなされていない未開の地(化外ケガイの地)」として、この要求を突っぱねた。そのため台湾は「無主の地」とみなし、琉球住民殺害の報復として1874年(明治7年)4月、台湾蕃地事務都督に任命された陸軍中将西郷従道は、3600の兵を率い、軍艦で出兵した。日本西郷軍の牡丹社征伐は、戦死者はわずか12人であったが、現地の風土病のマラリアのために525人もの犠牲者を出して終了した。

清は当然日本の台湾からの撤兵を要求したが、日本は清国の台湾領有は「蕃地(居留地)」に及ばないことを主張し、これを拒否した。内務卿の大久保利通は、台湾は「化外の地」として、清国政府の領有と主権を認めなかった。この交渉は1874年(明治7年)10月に英仏両国の公使の仲介により、「日清両国間互換条約」が調印される。これにより清国は、賠償金として50万両(75万円)と琉球の日本帰属を認めたのである。しかしその代わり台湾の全島の清国の領有を日本が認めたのであるが、しかし乾隆帝時代に編纂された正史・『明史』の「外国伝」には「鶏龍国(台湾)は日本に属する」とはっきり記されていたのであるから、台湾は日本領であると主張しても良かったのである。以上は黄文雄氏の『捏造された日本史』(日本文芸社)の冒頭に記されているものの概略である。

尖閣諸島は中国領などと主張したら、「尖閣も台湾も日本領だ」と主張しようではないか。
(続く)
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日韓併合100年(10)

2010-10-28 09:55:22 | Weblog

まったくもって朝鮮という国は、下劣で属国根性丸出しの国であると言うことがよく分かる。今もってその根性は、全く変わっていない。

中国では、元の衰退に伴い1351年には紅巾の乱か起こり、1356年から1362年にかけて高麗は紅巾賊に侵入される。更には1350年ごろからは倭寇にも盛んに苦しめられる。そのため倭寇や紅巾賊などとの戦いの中から力をつける武将たちが現れ、その中の一人李成桂が、クーデターを起こし高麗王を倒して、1392年自ら国王に即位する。ここに高麗は滅び、「李氏朝鮮」が建国される。李成桂は女真族出身と言われ、高麗時代には女真、漢、渤海その他異民族が多数帰化しており、官僚や武人として朝鮮文化などに多大の影響を与えたと言われている。

中国での紅巾賊の反乱の中からは、貧農出身の将領朱元璋は南京を根拠に長江流域を統一し、1368年にを建国している。李成桂は即位後すぐに明に朝貢し、権知(クオンジ)高麗国事としての地位を認められるが、明から国号変更の要請を受け「朝鮮」と「和寧」の2案を提案し、「朝鮮」を指示され「権知朝鮮国事」(朝鮮王の代理の意、執政)に封じられる。国号を朝鮮とすることは許されたが、朝鮮国王と言う印璽は下賜されずしかも「権知朝鮮国事」は銀印であった。「漢倭奴国王(漢の倭の奴の国王)」は金印であったが、朝鮮のものは銀印である。これは属国の証なのである。そして独自の暦の使用は許されず天朝の年号、すなわち中華の暦を使用し「正朔(暦)を奉じ」ていたのである。いわゆる喜んでその統治に服していたと言うことなのである。そして念願の金印を宗主国の明から賜ったのは第2代恵帝(在位1398年~1400年)の時代であったと言う。

1402年明の永楽帝が即位する。永楽帝の死後と次の子、孫の二代が明の最盛期であったが、15世紀から16世紀にかけては、モンゴルからの進攻や中国沿岸部を倭寇が脅かすようになり、北虜南倭(1520年代~1590年代)と言われる混乱の時代となる。1583年には今の満州の女真族のヌルハチが明から独立して後金を建国(1616年)している。

そして、1592年文禄元年)と1598年慶長3年)の豊臣秀吉の朝鮮征伐などがあり、明と李氏朝鮮の連合軍が豊臣秀吉遠征軍と戦っている。

李氏朝鮮親明背金外交を展開したため、1627年に後金に全土を侵略され、後金にも服属する。丁卯胡乱と言う。

そして後金は1636年には国号をとする。

そして1636年には清への服従と朝貢、明への出兵をを求められる。これを拒否した朝鮮は再度清軍に侵入され(丙子胡乱)、明との断行、清への服従、朝鮮王子を人質、莫大な賠償金を取られ、三度跪き、九度頭を地にこすり付ける礼をし、清皇帝を敬う恥辱を味合わされる。この清との服属関係は日清戦争の下関条約が締結されるまで続いたのである。

このため明の財政は破綻し、各地で反乱が起き、清の進攻も激しさを増し、明の農民出の李自成の軍に北京を占領され、1644年に明の皇帝は自殺しに明は滅亡する。

同年、明の遺臣の要請により清(後金)は李自成を破り、北京に入関し中国支配を開始する。清は明を破った李自成を討伐し円滑に明の後を継いだため、漢民族からも好意的に受け入れられた。

1681年に、康熙帝は、雲南、広東、福建の三藩の乱を鎮圧し、1683年には台湾を制圧する。そして、北モンゴル、チベット、東トルキスタンなどもその支配下に置いた。しかしこれらの地域は間接統治で、緩やかな関係であった。

その大清帝国も1840~42年アヘン戦争ではイギリスに大敗し、衰退の道を辿(たど)ることとなる。その属国の朝鮮においておやである。
(続く)
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日韓併合100年(9)

2010-10-27 10:51:34 | Weblog

更には高句麗の領土が満州の一部と遼東半島、朝鮮半島の北半分を領有していたため、中国と韓国の間で論争が起こっている。高句麗は中国の一地方行政府であるとの中国の主張に対して、韓国は、三国時代として百済、新羅、高句麗と同じ位置に三国が存在していたのになぜ高句麗だけが中国の地方政権か、また当時中国には一貫して中央政府と呼べる統一王朝などは存在していない、などと反論している。そして韓国は、莫大な予算を投じてシンクタンクを設立させ、高句麗は中国の地方政府ではなく朝鮮の正当な一国家だったと論争を吹っかけ、世界各国のメディアなどに意見広告を出し、官民合わせて抵抗している。

そのうちに尖閣諸島などを中国に盗られてしまいかねない対応をしている菅、仙石の民主党内閣とはその決意に大きな差があり、菅首相や仙石菅防長官は、大馬鹿で韓国人の爪の垢でも煎じて飲んで、大いにこれらの事実を学んでもらいたいものだ。('10.10.20記載)


さて倭軍に攻められた百済は397年百済王の息子を人質として倭国に送り、国交を結ぶ。度々攻め込まれていた新羅も402年に倭国に王子を人質として差し出している。それまで新羅は高句麗に救援を求めていたが、新羅と国交を結んだ倭国は404年に高句麗の帯方郡(現在の北朝鮮南部)まで攻め込んだが、高句麗軍に撃退されている。

新羅は564年に中国の北斉、568年には南朝の陳にも朝貢して、冊封を受けている。そして紆余曲折はあるものの、以後新羅では中国との宗属関係を維持して行くことになる。

冊封(さくほう)とは、称号・印章などを授けることにより「天子」と近隣諸国の長とが名目的な君臣関係(宗属関係、宗主国と属国の関係)を結ぶ外交関係のこと、とWikipediaに書いてある。


さてその中国は、581年が興り、600年には日本から聖徳太子により遣隋使が送られている。隋は高句麗に4回も攻め入るが、すべて撃退されている。このため隋の滅亡が早まったと言われている。

その隋も、618年に取って代わられている。唐の太宗は2回、更に高宗は3回も高句麗に遠征軍を派遣したが、いずれも高句麗は負けることがなかった。このため高句麗は百済と同盟を結び、当時唐と同盟関係にあった新羅を攻めた。新羅は唐に援助を頼み、そのため唐は、660年に高句麗と友好関係にあった百済を攻めて滅ぼしてしまった。百済と友好関係にあった倭国は人質であった百済王子と共に兵を派遣し、663年(天智2年)倭国・百済遺民連合軍は、唐・新羅連合軍と朝鮮半島の白村江(はくすきのえ)の海・陸の会戦で大敗し、半島から手を引くこととなった。そして668年、唐・新羅連合軍は高句麗の都の平壌を攻め、高句麗王らは捕虜となり、高句麗は滅亡する。このとき多数の高句麗人が日本に亡命したと言う。狛、高麗(こま)などの名称はその名残であろう。

しかし、670年から唐に占領されていた百済領の支配権をめぐり、新羅は唐と対立し争い676年に唐軍を朝鮮半島から追い出し、旧高句麗領の南半分(半島北部分)をあわせて朝鮮半島をほぼ統一した。これは「統一新羅時代」と呼ばれている。

このため唐と新羅は仲が悪くなったが、このとき満州・遼東半島付近には「渤海国」があった。唐はこの渤海と696年に戦端を開き、新羅に援軍を頼み新羅の渤海への攻撃により、唐と渤海は和解が成立する。この功績により、新羅735年唐より冊封を受けて鴨緑江以南の地の領有を唐より正式に認められた。そして唐の律令制度を取り入れ、新羅独自の年号を廃止し、唐の年号を用い更には先祖伝来の姓や名までも中華風に改めている。この間新羅は日本にも朝貢し良好な関係を保っていた。

そして780年以降王位継承争いが激しくなり、反乱が頻発し、892年に地方に後百済901年後高句麗が建国され「後三国時代」と為る。そして918年後高句麗の武将王建が後高句麗王を追放して高麗を建国する。935年には、後三国を統一して「高麗」が朝鮮半島の統一国家となる。

この時中国は五代十国の戦乱時代が終わりに近づき、960年によって統一される。すると高麗は宋に朝貢している。

北方民族では926年に契丹民族のが渤海を滅ぼし、度々高麗に攻め入っていた。百年近く続いた高麗への侵攻も1020年には講和が成り、高麗は契丹の遼にも朝貢することとなる。遼はその後1125年女真族の金に征服されると、翌1126年には高麗は金にも朝貢する。このとき中原から南中国には南宋が存在していたが、に取って代わられる。1230年以降からモンゴル帝国の元のチンギスに朝鮮半島は徹底的に荒らされる。結局1259年高麗はモンゴル帝国に服属する。平定したモンゴルのクビライは、1274年(文永の役)1281年(弘安の役)の2回、高麗・蒙古連合軍として九州北部を襲った。元寇である。これは高麗の忠烈王が元に日本進攻を盛んに働きかけたことから始まったものである。「高麗史」には、そのような記述がある。そのことにより忠烈王が、半島に駐留する元軍を後ろ盾にして、自身の政治基盤の強化を図ったものと見られている。
以後高麗は元王朝に取り込まれ、元の完全な属国となる。
(続く)
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日韓併合100年(8)

2010-10-26 10:53:12 | Weblog

中国の歴史書の「史記」には、
紀元前11世紀頃殷王朝の一族の箕子(きし)が朝鮮に渡り「箕子朝鮮」を開国した、と記されている。丁度この頃中国では、殷王朝が周の武王に滅ぼされている。

そして前漢の時代、反乱に失敗した燕王の臣下であった衛満が朝鮮に亡命し、前194年に箕子朝鮮を追放して「衛氏朝鮮」を建国する。

前108年漢の武帝が衛氏朝鮮を滅ぼし、満州から朝鮮北部に「四郡楽浪郡、玄菟郡、臨屯郡、真番郡)」をおく。『漢書』地理志(誌にあらず、地理の分野と言った意味)に、「楽浪海中倭人分為百余国以歳時来献見云、”それ、楽浪海中倭人有り。分かれて百余国と為る。歳時を以て来り献見すと云ふ。”」とあるのは、ご存知のことであろう。これは1世紀初頭のことである。
これは、http://kon.main.jp/jdat/dat/kofun/knjyo_1.htmを参照している。

そして前2世紀から4世紀にかけて、朝鮮の南部には「三韓馬韓、弁韓、辰韓)」が存在している。朝鮮半島の南部は、と呼ばれていた。

そして、紀元前37年には、漢の四郡のあった満州南部から朝鮮南部まで領有することとなる「高句麗」が誕生する。313年には楽浪郡が高句麗に滅ぼされている。高句麗は北方のツングース民族による国家である。355年には、遼東半島を占領した北燕に攻め込まれて、朝貢することになる。この時から中国より冊封される事となった。冊封とは、自分の地位を認めてもらうことにより、認めてくれた国の属国となる事を言う。

346年百済356年新羅が興り、高句麗と共に4世紀から7世紀までの「三国時代」となる。

369年には、倭軍は新羅をを破り、半島南端の加羅(任那)に進出する。391年には、百済、新羅と戦いこれを破り、臣民とする。(広開土王碑

この頃(369年から562年、Wikipediaによる)朝鮮半島南部先端に任那が存在していた。倭国の支配地域とされている。そしてこの朝鮮半島南西部地域には13基の前方後円墳が発見されており、更には糸魚川周辺からしか産出されないヒスイの勾玉が同時に多数産出されていることからも倭(大和)国の勢力が確実に及んでいたことも事実であろう。

さらに宋書倭国伝によると、451年宋の文帝は、倭王済(允恭天皇か)に「使持節都督・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事」の号を授けたと言う。また、487年には、宋の順帝は、倭王武(雄略天皇か)に「使持節都督倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事安東大将軍倭王」の号を授けたと言う。

広開土王碑は、1880年(明治13年)頃に清国の集安(中国吉林省集安市)の農民により発見された。これは、高句麗の第19代の好太王(広開土王)の業績を称えた碑文であり、付近には大王陵がある。1881年には清国サイドにより拓本が作成された。1884年には日本陸軍砲兵大尉の酒匂景信氏が拓本を作成し、参謀本部に持ち帰り解読した。(酒匂本

広開土王碑の倭の進出を記述した辛卯年条391年)の解釈を次に記す。

そもそも新羅・百済・は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・加羅・新羅を破り、臣民となしてしまった。」(ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%96%8B%E5%9C%9F%E7%8E%8B%E7%A2%91)

これには馬鹿な朝鮮人学者達は異論を唱え、大日本帝国陸軍による改鼠・捏造があったと主張した。そして本来の意味は、次のようだと主張した。

百済新羅はそもそも高句麗の属民であり朝貢していたが、やがては辛卯年以降には朝貢しなくなったので、王は百済・倭寇・新羅を破って臣民とした。

この意味は、好太王の華々しい活躍を述べるという碑文の構成からしても、おかしいものと看做されており、その後、2005年6月23日に 酒匂本以前に作成された墨書が中国で発見され、その内容が 酒匂本と同一であることが判明した。更には、1881年に作成された現存最古の拓本と 酒匂本とが完全に一致していることが発表され、これにより改鼠・捏造説完全に否定された。しかし韓国ではいまだに上記の間違った解釈が支配的であるという。だから韓国は馬鹿な国なのである。その馬鹿な国に竹島を占領されている日本こそ大馬鹿な国なのであろう。
(続く)
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日韓併合100年(7)

2010-10-25 11:30:39 | Weblog
さて、「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス」 とは、1894年(明治27年)7月から1895年(明治28年)3月にかけて戦われた「日清戦争」の日清講和条約(「下関条約」)の第1条の条文である。なぜ下関条約の第1条に「朝鮮国の独立自主」何ぞが明記されていたのか。それは、このことがこの日清戦争の日本にとっての最大の目的だったからである。

当時の世界情勢を見ると、清国はイギリス、フランスなどの列強に蹂躙され、更にロシアはアジアの権益を狙って南下を続けていた。

この50年程前の1840年11月から始まり1842年8月に終結したアヘン戦争は、イギリスの圧倒的な勝利で終わったが、このことは「眠れる獅子」と言われた清国が「張子の虎」であることを世界に示すこととなった。これに伴いイギリス南京条約を結び、多額の賠償金と香港を割譲させ、広東から上海までの5港の開港を認めさせ、更には治外法権、関税自主権の放棄、最恵国待遇をもぎ取っている。そしてフランス、アメリカ、ロシアなど列強も次々と清国と不平等条約を結び、租借地を増やしていった。(2008.9.12,靖国神社に参拝しよう、を参照のこと)

この不平等条約の形態は、その後の日本の徳川幕府との和親条約、修交通商条約などとして、日英、日米、日仏、日露、日欄などとの間で結ばれることとなった。世に言う1858年前後に調印された不平等条約である。この不平等条約の改定は明治政府の悲願であったが、日露戦争に勝利してようやく改定することが出来たものである。(2008.10.14,ヨーロッパと日本(5)を参照のこと)

そしてロシアは、満州及び朝鮮半島への勢力拡大を目指して1890年にシベリア鉄道の建設に着手していた。そしてウラジオストックからハバロフスクまでのウスリー鉄道は1897年に完成する。すなわちシベリア鉄道は朝鮮半島の間近まで延び、ロシアは朝鮮半島を勢力化におくべく当時の李朝朝鮮と接触していた。朝鮮がロシアの勢力下に入れば日本の独立は極端に脅かされることとなり、明治政府の緊張は極度に高まった。

当時李朝朝鮮清国の属国であった。李朝朝鮮は清国以上に退廃、衰退、混乱していた。清国としても列強から圧迫され朝鮮に手を差し伸べる余裕はなかった。もしこのまま朝鮮が清国の属国のままで推移すれば、朝鮮も列強の手に落ちることは火を見るよりも明らかであった。その朝鮮に触手を伸ばしていた筆頭がロシアであった。そのためにも日本は朝鮮を清国から開放して、独立国として世界に認めさせることがどうしても必要と認識していた。このことは日本の国益にもかなう悲願とも言うべきものであった。

しかし清国は日本を仮想敵国と想定し、朝鮮半島の支配を宗属関係から保護属邦関係へと強化し、日本を威嚇していた。朝鮮の独立を目指していた日本に対して、清国は軍隊を朝鮮に送って常駐させ、実権を握っていた摂政の大院君(李朝末期の高宗李太王の実父)を逮捕連行し、3年間にわたって抑留までしている。

このときアメリカ政府は、「朝鮮は清帝国の従属国家であり、半島における何世紀にもわたる封建的国家としての支配は、清国によって承認された」と、その属国関係を認めている。
中国朝鮮商民水陸貿易章程」(1882年9月調印)には、朝鮮の宗属関係について、「古代から属国であるので、清国政府とのすべての問題における交通の規範は固定されており、変更の必要はない」とまで記してある。
これが当時の国際常識であり、現代の韓国人学者が当時の中国との「友好・同盟関係」などと主張するのは、非常識で全くの荒唐無稽そのものなのである。

このように朝鮮清国の属国であり黄文雄は朝鮮のことを千年属国と言っているが、朝鮮はいつから中国の属国となったのか。

それには朝鮮の歴史を紐解いてみる必要がある。

(続)
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ブログ・テーマ一覧

2010-10-17 22:35:32 | Weblog
今までに掲載したブログのテーマの一覧を載せる。

'07.4.30に最初のブログを載せているが、このNO.1からNO.31('08.10.29~)までのブログのテーマ(題名)とその概要は、下記のブログで紹介している。

2008.12.21掲載の「日本は侵略国家ではありません。(3)」

したがって、NO.32から現在掲載中のNO.48までのブログのテーマとその概要を次に載せよう。


NO. 初掲載    テーマ               概要
32.・'08.08.07~8/8・五輪直前、中国官民衝突相次ぐ・中国では住民の不満と不安が充満している。

33.・'08.08.13~8/14・五輪最中、中国官民衝突相次ぐ・権力者への強い憎しみも力で抑える。

34.・'08.08.22~9/4・映画「靖国」に物申す・サンフランシスコ平和条約では中韓は門外漢、戦犯や靖国神社に発言する権利はない。心安らかに、靖国に参拝しよう。

35.・'08.09.10~9/28・靖国神社に参拝しよう・大東亜の使用をGHQは禁止した。大東亜戦争は東亜(全アジア)の植民地を、西欧列強より解放する戦いであったから。

36.・'08.10.09~12/10・ヨーロッパと日本・日本は、如何にして、明治維新を成し遂げていったのか。そこには神代の時代から連綿と続く天皇制と、江戸時代に完成され、強化された「さむらい魂」があったからである。

37.・'08.12.19~'09.1.13・日本は侵略国家ではありません。・田母神俊雄航空幕僚長は、アパグループ主催の第1回『「真の近現代史観」懸賞論文』に「日本は侵略国家であったのか」で応募し、2008年10月31日、最優秀藤誠志賞を受賞した。その内容は、'08.11.3の朝日新聞の社説の言葉を借りると次の通りだが、与党、政府を巻き込んだ大論争を巻き起こした。
「わが国は蔣介石により日中戦争に引きずり込まれた被害者」
「わが国は極めて穏当な植民地統治をした」
「日本はルーズベルトの仕掛けたわなにはまり、真珠湾攻撃を決行した」
「わが国が侵略国家だったというのはまさに濡れ衣である」---。
しかし、これは正論である。

38.・'09.01.30~3/9・バラク・フセイン・オバマ大統領・オバマはその大統領就任演説で、三つの事柄を、その政策の柱に据えると述べた。核の脅威、地球温暖化、テロの防止の三つの事柄に対しては、中国と共に手を打つと述べている。その中には、同盟国である日本への配慮は微塵も見られない。そのために日本は生存を掛けて、第四のパラダイムシフトを敢行しなければならない。それは、「日本が自主的な核抑止力を構築して自主防衛をして、中国の侵略を阻止して、国際社会で生き残ること」である。日本は早急にこのパラダイムシフトを成し遂げなければ成らない。

39.・'09.3.26~3/28・WBC・侍JAPAN(正・続)

40.・'09.3.16~9/30・尖閣諸島問題・中国は、'80年代後半に地理的国境と戦略的国境と言う2つの国境概念を確立した。9/10のブログ参照。戦略的国境は国家の総合力・軍事力で維持すれば、地理的国境は拡大できると定義している。更に'92年には領海法を制定し、勝手に尖閣諸島の領有を表明した。そして中国人民解放軍が尖閣諸島を防衛する権利を有すると主張した。また'86年には海軍発展戦略を発表し、航空母艦の保有を宣言している。'09年の国慶節の軍事パレードはそれらの成果発表の場となった。
また、'05.4月の中国中央軍委拡大会議で軍長老の遅浩田は、台湾の武力解放のみか、米国打倒・日本殲滅を主張し核爆弾で日本を殲滅せよと主張している。中国の軍国主義・侵略主義の面目躍如と言ったところであるが、日本は、本当に、安穏としていてはいけない。'09.8/12のブログでは日本国憲法の改定案を示しているので参照願う。

NO. 初掲載      テーマ        概要
41.・'09.10.14~'10.1.30・国慶節に思う。・'09.10/1の中国建国60周年の軍事パレードは、対日米戦争の準備が完了した事を内外に示した。そのため中国は戦争へまっしぐらに進んでいる。CO2の排出削減なんぞは知った事ではない。然るに痴呆の鳩山は25%削減を約束してしまった。日本はそのため排出枠を中国から購入することになる。これこそ隠れた中国向けのODAとなる。小沢は中国の結託して天皇陛下までもを、取り込もうとしている。習近平も日本篭絡を企んでいる。要注意だ。

42.・'10.1.3~1.6・正月雑感・蓮舫議員の「2位ではダメなんですか。」2位ではだめなんです。北京大学に留学した蓮舫に騙されるな。米国のプレゼンスが無くなれば尖閣諸島なんぞはすぐに中国に取られてしまう。

43.・'10.2.18~4.1・小沢資金問題・小沢はゼネコンから違法な献金を受けていた。その献金で世田谷の土地を購入した。しかし政治資金収支報告書には、それらは記載されずに複雑な資金手当てを施して、隠蔽した。それらは小沢の了解の下に作られたものだが、秘書ら三人は知らぬ存ぜぬで検察をてこずらせている。

44.・'10.3.16~8.31・番外編・プリウス急加速問題
'10.3.16~3.25・レクサスの暴走問題で米議会は豊田社長を公聴会に召喚した。米国の狙いは、GMをも凌駕したトヨタを潰す事である。暴走の原因は人為的なものであった。
'10.4.15~6.10・しかしアメリカは電子スロットルシステムの欠陥であると、したくて仕方ないのである。悪徳弁護士やマスコミまでまで動員して、トヨタつぶしに走っている。NASAやNASにまで動員して電子制御システムの欠陥を探しているが、欠陥は発見されていない。しかしNASAはそのことを隠していた。そしてトヨタはテスラと提携したが、電気自動車はトヨタをどう変えてゆくのであろうか。
'10.8.20~8.31,10.7・オバマはUAWや大企業からの献金で大統領となった。そのための恩返しの為にGMなどを国有化した。オバマの経済政策は完全に失敗し、雇用不安が増大している。そしてUAWなどを助けるためにもトヨタつぶしを図っているのである。

45.・'10.6.13,14、9/16~10/2・続岡田監督に物申す。・韓国戦に立て続けに2連敗、代表監督自体を申し出る。それでも南ア大会では予選を突破し、世界から熱狂された。しかし岡田の目標はベスト4ではなかったか。それを忘れてもらっては困る。

46.・'10.6.23~7/26・年央雑感・6/13「はやぶさ」が小惑星「イトカワ」に着陸して、更に見事地球帰還を果たした。これには世界初の新技術が沢山盛り込まれていた。しかし蓮舫などの民主党の仕分けの結果、次の新技術開発の予算はゼロとなってしまった。帰化中国人たちは日本を弱めようとしているのではないかと、注視・監視していないと大変なことになる。

47.・'10.8.2~8.4・おのれ!孫正義・孫正義の白い犬のお父さん犬で、「日本」と黒人を侮辱しているCMを流している。孫正義は帰化朝鮮人である。朝鮮では白い犬とは、「この犬やろう」と言う最大の侮蔑の言葉なのである。

48.・'10.8.9~・日韓併合100年・韓国は「日帝36年の七奪」と批判するが、全く逆で、日本は朝鮮に対して、七恩を施していたのである。七つとは、1.国王2.主権3.生命4.土地5.資源6.国語7.姓名である。日本は破綻まじかな李朝朝鮮を、日韓合邦により救ったのである。そのため朝鮮は清の属国から解放され、近代化への基礎を築くことが出来たのである。


(終り)
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番外編・プリウス急加速問題(62)

2010-10-07 22:20:42 | Weblog
これは8/31のNO.61からの続きである。

さて小生がこのブログを開始しようと思い立った発端のひとつとなった大きな事件は、あのマーク・セイラー事件である。この事件は2009年8月29日にカルフォルニア州サンディエゴで起きた。トヨタのレクサスブランドのES350が暴走して一家4人が死亡した事件だ。詳しくは2010.5.11の当ブログNO.28を参照願いたいが、トヨタはその遺族側とこの9月17日に和解したとアメリカでも報じられた。トヨタも同社の広報担当者が遺族側と和解したと明らかにしている。

トヨタ側も相当の和解金を支払ったのであろうが、小生にはいまだに解けていない疑問が存在している。なくなられたご家族の皆さんには深い哀悼あの意をささげたいか、もちろん分厚いフロアマットを提供したディーラーも悪いのではあるが、交通警察官であった方はレクサスが暴走し始めた時に、なぜギアをニュートラルにしなかったのか、エンジンキーをオフに回さなかったのかが、疑問なのである。このことはいくら探しても(小生の調査能力にも非常に限界があるが)、それに関するニュースは見つけることは出来なかった。トヨタもこのことは言いたくて仕方がなかったことであろう。しかしそれを言ったらまとまる話もまとまらなくなる、と言うことで言及はしなかったことであろう。




p123トヨタ、米加州の死亡事故で和解 警官一家の遺族と
2010年9月18日(土)12:59 共同通信

 【ロサンゼルス共同】昨年8月に起きたトヨタ自動車のレクサスの急加速による衝突事故で、死亡した米カリフォルニア州の警官一家の遺族がトヨタを相手に損害賠償を求めた訴訟は17日までに、和解が成立した。ロサンゼルス・タイムズ紙(電子版)が伝えた。事故では4人が死亡。警官は事故直前、運転しながら緊急通報。事故に至るまでの通話が米テレビで放送され、トヨタの安全問題が注目されるきっかけになった。
http://news.goo.ne.jp/article/kyodo/world/CO2010091801000383.html




p124トヨタ、遺族側と和解=レクサス急加速事故―米
2010年9月18日(土)18:03 [時事通信社]

 【ニューヨーク時事】昨年8月に米カリフォルニア州サンディエゴで、トヨタ自動車の高級車「レクサス」が急加速して一家4人が死亡した交通事故の損害賠償をめぐる訴訟で、トヨタと遺族側が和解したと、同社広報担当者が18日までに明らかにした。
 和解金額など詳細に関してはコメントを拒否しているが、米紙ロサンゼルス・タイムズによると、遺族側は1000万ドル(約8億6000万円)の支払いを求めていた。

 この事故では、非番の地元警察官が運転する「レクサスES350」が高速走行中に急加速。車中から助けを求める緊急通報の模様が米メディアを通じて大々的に報じられ、一連の大規模リコール(回収・無償修理)や、豊田章男社長の米議会公聴会出席につながった。
 
http://news.goo.ne.jp/article/jiji/business/jiji-100918X880.html



アメリカのごろつき新聞やマスコミ、更にオバマ(と言ってもNHTSAだが)までもが、盛んにトヨタの電子制御装置の欠陥ではないかと言った風潮で大々的に宣伝し、挙句の果てにはNASAまで動員して調査をしたのであるが、いまだにその電子制御装置の欠陥は見つかっていない。正式調査はまだ公表されていないが、中間報告は「欠陥はみつかっていない」と出ている。この件に関しては、2010.8.24~25のNO.54,NO.55を参照願いたい。

日本はアジアでは最初に近代化を果たした国である。欧米諸国の中では誠に異彩を放つ存在である。長身の大柄な白人の中でひとり小柄な日本人が並んで立っている。G7などでは新聞にそのような写真がよく載っていた。そんな中では、日本は自分で自分を守ってゆくことがもっとも重要な課題なのである。このところ中国の台頭が著しいが、その中国に対しては最もあらゆる面での日本の安全保障の確保が必要となっている。オバマはトヨタを潰そうととかかって来ていることを見ても、本当にアメリカは日本を守ってくれるか大いに疑問である。いかに自分で自分を守ることが必要であるかが、分かると言うものである。

(終り)
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岡田監督に物申す。(19)

2010-10-02 09:00:43 | Weblog

41サッカー日本代表の新監督ザッケローニ氏、「愚かな選択?」―韓国メディア
2010年09月01日12時03分 / 提供:サーチナ

 サッカー日本代表の次期監督に就任することが決まった、前イタリア1部・ユベントス監督のアルベルト・ザッケローニ氏(57)が31日、東京都内で就任会見を行った。ザッケローニ氏はイタリア人で、これまでイタリア1部リーグ(セリエA)のACミラン、ユベントスなどを率いた人物。

■FIFAワールドカップ2010現地報道写真特集
http://photo.searchina.ne.jp/cnsphoto/view.cgi?d=0100411&p=top

 韓国のメディアも日本代表の新監督に注目しており、過去の経歴などを含めて報じている。
 南アフリカW杯でベスト16に進出し、アジア・サッカーの真価を見せた日本は、その後、岡田武史監督の後任が決まらなかったが、ようやくザッケローニ氏を迎え入れた。 新しく監督を引き受けることになったザッケローニ氏は3バックの信奉者であり、自身の信念を曲げない人物であると紹介している。
 また、次回のブラジルW杯の体制に転換した日韓のサッカーは、同じ戦術を志向しており、その中心は3バックだとし、ザッケローニ氏は、日本代表チームをスリーバックに導く可能性が高い。彼の3バックは世界のサッカーの流れを無視し、すでに古いという指摘もあるが、日本代表チームとは相性が合う可能性もあるとの見方を示している。
 同氏は、ACミラン監督時代の98−99シーズンには、チームをセリエAでリーグ優勝に導いた。しかし、その後、移籍したインテルではスリーバックに固執するあまり、選手と摩擦を起こし、彼の選手掌握力は最悪であると評された。また、その後のトリノFCとユベントスでの成績も低迷した。そのため、イタリアでは近年、その手腕に疑問が持たれている。そのようなザッケローニ氏を新監督に選んだ日本サッカー協会に対して、イタリア現地の人々はインターネット上の各種サイトを通じて「愚かな選択」と指摘していると報じている。(編集担当:李信恵・山口幸治)
http://news.livedoor.com/article/detail/4981241/



どうもザッケローニは一見したところ、協調性があるように見えるのであるが、その実、正反対のようで「一皮むけば独裁者」であると言う。まあやってみなければ判らないって言えばそれまでであるが、ここら辺りが日本サッカー協会の調査対象になっていなかった人物であることの証左であろう。日本サッカーにとって害にならないことを祈りたいものであるが、何はともあれ、2014年のブラジル大会に向けてレベルアップが図られればそれに越したことがないのではあるのだが、厳しい限りであることよ。日本サッカー界に栄光のあらんことを祈る。



42日本代表監督 ザッケローニひと皮むけば独裁者
2010年09月02日17時00分 / 提供:ゲンダイネット

●「口を開いていいのはオレだけ」
 イタリア人指導者のアルベルト・ザッケローニ(57)の代表監督就任会見(31日)の冒頭、大仁副会長が「ザッ“ク”ローニ」と言い間違えてしまい、これには約300人のメディア陣だけでなく、居合わせたサッカー協会関係者も、うつむいて苦笑するしかなかった。
 ともあれ、迷走を繰り返した監督人事はようやく決着したが、ザッケローニで日本サッカーのレベルが上がるのか? そもそも初めての異国暮らしに適応できるのか? 不安が付きまとう。
 ザッケローニには「セリエA優勝(ミランで98―99年シーズン)監督」という勲章がある。しかし、不安材料もある。イタリアのクラブの監督しかやっていないのだ。初の海外が欧州から遠距離の日本で、それも未経験の代表監督である。
 後任選びの責任者、原博実・強化担当技術委員長は「昨日(8月31日)はトンカツを食べた。寿司も好きなようだし、食べ物が大丈夫なら(日本暮らしも)大丈夫じゃないですか?」とアッケラカンとしているが、監督交渉で混乱を招いた張本人の何ともノー天気なコメントと言うしかない。
「ジーコが典型的な例だったが、外国人監督が日本で働く場合、気心の知れた腹心でスタッフを固める。サッカー協会サイドは“連れてくるのは3人が上限”と注文をつけたが、ザッケローニのたっての希望でコーチ、GKコーチ、フィジカルコーチ、さらにマネジャーの4人をスタッフとして雇うことを承諾させられた。この“ザッケローニ・ファミリー”は同じマンションに住み、基本的にいつも一緒に行動する。スタッフは全員が50代。ホームシックにかかるような年ではないにせよ、ファミリーで固まってばかりで日本社会に適応出来ず、仕事どころじゃなくなる危険性もある」(マスコミ関係者)
 ザッケローニの評価は「穏やかで柔和な性格」「腰が低い」「希代の戦術家」「有名選手も若手も分け隔てしない」と好意的なものが多い。原委員長も「(決め手は)最終的には人間性。誠実な性格は日本人に向いている」と会見後に話していたが、そんな太平楽を並べていてもいいのか?
「大半のクラブで主力のスター選手と対立し、それが原因でシーズン途中に解任されたこともあった。ハーフタイムに“この時間に口を開いていいのはオレだけだ”と言い放ったり、尊大な振る舞いを見せることもある」(サッカー記者)
 イタリアの一部メディアは「斜陽の指導者が再浮上するチャンスとして日本代表監督就任は悪くない」と皮肉っぽく報じている。本当にザッケローニで大丈夫なのか、今から心配になってくる。
(日刊ゲンダイ2010年9月1日掲載)
http://news.livedoor.com/article/detail/4984475/
(終り)
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岡田監督に物申す。(18)

2010-10-01 07:41:23 | Weblog
ここでひとつ提案しよう。今年の「流行語大賞」には「監督代行になって恩返ししたらどうなんだ、岡ちゃん!」を推薦しようではないか。

そしてその代表監督には、イタリア人のアルベルト・ザッケローニ氏(57才)が就任することとなった。アルベルト・ザッケローニ氏は1998~1999年にACミランの監督となり、セリエAでのリーグ優勝をしている。セリエAでリーグ優勝をすることを、イタリアでは「スクデット(scudetto)をとる」と言われているが、スクデットとは「小さな盾」のことであり、優勝したクラブチームはそのユニフォームにイタリア国旗をデザインした盾形のエンブレムを付けることが出来る。イタリア国旗は緑、白、赤の縦三色旗であり、イタリア語でトリコローレ(Tricolore、tricolor米)と呼ばれている。

その後もセリエAでのチーム監督をしていたが、全く鳴かず飛ばずで2009-2010シーズン('09.8.22~'10.5.16)では、ユベントスのチーロ・フェラーラ監督が成績不振で解任された後2010年初めにその後任として4ヵ月間だけ監督として指揮を執った。そして、本人にとっては幸いにも日本代表監督の話が飛び込んできて、2010年8月30日にサッカー日本代表監督に就任することとなったのである。しかしザッケローニ氏は、日本サッカー協会が当初から白羽の矢を立てた人物ではなかった。次の記事を参照願う。




45怪しいザッケローニ新監督の通訳
2010年09月05日17時00分 / 提供:ゲンダイネット

(Photo) ●アダ名は「ミスター100万円」

「えっ! あの人の名前は宮川善次郎なの?」

 サッカー記者の間で驚きとともに注目を集めているのが、ザッケローニ新監督のそばを片時も離れない通訳だ。見た目はイタリア人だが、日本人の父親とイタリア人の母親を持つハーフ。しかし、日本語がまるっきりダメで“デタラメ通訳”が大問題になっている。

 たとえば就任会見の際に「(来年の)アジアカップで何を目指すか?」という質問にザッケローニ監督は「日本は絶対的な主役を演じなければならない」と答えた。

 宮川氏の訳は「3位以内」。さっそく一部スポーツ紙が「自ら設定 アジア杯3位以内」と1面でデカデカと報じた。

「経験豊富なザッケローニが、高いハードルを自ら設定して責任問題に発展しかねないような発言をするハズがないと思ったら、やはりデタラメ極まりない訳だった」(マスコミ関係者)

 ザッケローニ監督が一時帰国する9日までの通訳契約というが、サッカー協会は、どうして宮川氏のデタラメぶりを看過しているのか? 「宮川氏はザッケローニ代表監督就任の仕掛け人なので通訳を“任せざるを得なかった”のです」と某放送関係者が打ち明ける。「イタリア生まれの宮川氏は、トリノ市で会社を経営してセリエA各クラブ、監督、選手のマネジメント業務などに携わっている。宮川氏の仲立ちで某衛星放送がセリエA放送権を獲得したことがあったが、原博実・強化担当技術委員長がテレビ解説を務めていたこともあり、その当時から2人には面識があった」

 実は、ポスト岡田探しに難渋して八方ふさがりだった先月半ばごろ、原委員長のもとに宮川氏から連絡が入り、ザッケローニを紹介された

 そこからトントン拍子で代表監督話が進んだとイタリアでは言われている。
「窮状を救ってくれた宮川氏に頭が上がらず、一緒に来日して通訳も任せて欲しいと言われ、原委員長も協会サイドも断れなかったようです」(前出の放送関係者)

 ちなみに宮川氏は一時期、ユベントスに深く食い込み、日本からのユベントス取材の窓口にもなっていた。

 宮川氏が担当する前は「ユベントスの監督や選手のインタビューは無料だった。ところが、宮川氏は“取材謝礼一律100万円”と言い出し、日本のテレビ局の担当者から《ミスター100万円》と呼ばれていた」(サッカー関係者)

 何ともしたたかな人物にサッカー協会はキンタマを握られてしまったモノである――。
(日刊ゲンダイ2010年9月4日掲載)
http://news.livedoor.com/article/detail/4990079/



この記事を読むと、全く埒外から話があったことになる。日本サッカー協会もこれ幸いと、この話を「渡りに船」とばかりに飛びついたようだ。まあそれなりの監督経験はあるようだが、吉と出るか、凶と出るかはやってみないとわからない、と言ったところであろう。こんな監督選びを見ても、日本サッカー協会には長期戦略が欠けている、と言うよりも長期戦略は全くなかったのではないかと勘ぐってしまう。体よく岡田にも逃げられてしまった訳であるから、日本サッカー協会も落ちたものだ。まあ目の飛び出るような高い給料を払っていることであろうから、ザッケローニ氏には頑張ってもらいたいものではあるが、先行き不安の残ると言うものである。そんなことで、早速韓国メディアはそのことを囃し立てている。もっとも恩を仇で返す朝鮮人なんぞが何を言おうが、頓着しないが。
(続く)
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