このようにして新興国アメリカは老舗スペインの太平洋、大西洋の植民地の全てを分捕ってしまった。このためスペインは凋落の一途を辿り、ポルトガル・スペインと言った一時を謳歌した帝国は、新興国家アメリカに覇権を奪われていき、反対にアメリカの興隆が始まるのである。アメリカはキューバ、プエルト・リコを手に入れ、そしてフィリピンなど太平洋上の島々を侵略して、アメリカの内海としてしまった。ハワイもそのひとつである。
ハワイのカメハメハ大王を、ご承知の方も多いことと思う。1810年にハワイを統一した大王である。
カメハメハ王朝はれっきとした独立国であった。1840年代には、ハワイで最初の憲法を発布し、内閣、議会、裁判所を持つ立憲君主制の国家であった。そして明治以来日本と友好関係を結んでいた。1881年には当時のカラカウア王が世界一周旅行の途中日本に立ち寄り、日本としても始めての元首訪問であり丁重にもてなした。たいそう感激されたことはもちろんのこと、もともと親日家であった王は、娘のカイウラニ王女のお婿さんに日本の皇族を迎えたいと言う婚姻を申し込むほどであった。この世界旅行の目的には、アメリカの圧力を如何にして逸らそうかと言う外交旅行でもあった。そしてハワイの伝統文化を残す活動も起こしているし、これらの行動でハワイのナショナリズムは徐々に復興していった。しかしハワイはアメリカとの貿易が盛んであり、砂糖をアメリカに関税なしで輸出しておりアメリカ資本のプランテーションが急成長をしていた。そのためアメリカの商人たちが沢山ハワイに入り込んでいた。そのため日本に接近するハワイ王朝に対して、大いに危惧を抱くようになり、アメリカ商人たちは「ハワイ連盟(ハワイアンリーグ)」と言う秘密結社を作ることになる。彼らは、1887年に武力を背景に王党派の政府要人を無理やり辞任させ、カラカウア王を孤立させ無理やり憲法を改正させてしまう。
この1887年に成立した憲法はベイオネット憲法と呼ばれている。ベイオネットとは銃剣のことで銃剣で恫喝されて出来た憲法と呼ばれている。この憲法は閣僚の任免は王の権限では出来ず、欧米生まれの在住外国人に限って選挙権を認める、などという滅茶苦茶なものであったため、翌1890年の総選挙では王党派が大勝する。しかしカラカウア王は病に倒れサンフランシスコで療養し結局は帰らぬ人となってしまう。そのため、カラカウア王はアメリカに毒殺されたのではないかと、まことしやかに囁(ささや)かれている。まあそんなところであろう。
これは「カラカウア王」(http://www.legendaryhawaii.com/monarch/mon06.htm)を参照している。
1891年、カラカウア王の妹のリリウオカラニが王位を継ぎ、兄の遺志を継ぎ王の権利を取り戻し「ハワイ人のためのハワイをつくる運動」を起こす。これに対してアメリカは「ハワイ連盟」を「合併連盟」に格上げさせて対抗する。そして1893年1月、合併連盟は米軍艦ボストンから武装兵を上陸させホノルルの町や政府建物を占領する。そのためリリウオカラニ女王は明治天皇に救援を求め、明治政府は1893年2月23日と28日に東郷平八郎艦長の巡洋艦「浪速」と「金剛」をホノルルに入港させる。当時、パールハーバーは「ベイオネット憲法」によりアメリカが専有使用権を獲得していたが、アメリカ側へは強い圧力となり、混乱や白人の略奪を阻止することになった。この時ハワイには、25,000人の日本人移民がおり、邦人移民の生命・財産を守るためでもあった。しかし当時わが国はまだアメリカと戦火を交えるだけの力がなく、結局は何も出来なかった。ハワイ議会も白人系が多数を占め女王は監禁され、止む無く女王が退位しハワイは1894年には共和国となってしまう。そしてそれをいいことにアメリカは1898年7月にハワイを侵略し主権をアメリカ合衆国に委譲させ、1900年4月にハワイ領土併合法が公布されてしまう。そして1959年(昭和34年)に50番目の州となってしまったのである。(これは先に紹介した「アメリカの太平洋侵略」などを参照している。)
「ねずきちの ひとりごと(アロハ・オエ)」(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-406.html)も、是非参照願いたい。ここら辺の事情に詳しい。
(続く)