世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日本近代化の流れ(16)

2016-11-30 00:00:00 | Weblog

(14)
日本は朝鮮への兵員や物資の輸送のため制海権の確保に躍起となっていた。次の相手は清国北洋艦隊である。

しかし平壌の戦いの翌日1894年9月16日の夜中1時頃、陸兵4000人の輸送船団を護衛して、北洋艦隊が朝鮮平壌に向かった。1894年9月17日任務を終え鴨緑江河口付近にいた北洋艦隊と、索敵中の連合艦隊は夫々の煙でお互いを発見する。

北洋艦隊は戦艦「定遠」「鎮遠」を主力とする12隻、日本連合艦隊も「松島」「厳島」「橋立」の三景艦他3隻の本体と通報艦2隻、「吉野」「浪速」「高千穂」「秋津洲」の第一遊撃隊の高速巡洋艦など12隻。

日本艦隊は遊撃隊と本隊とに分かれ、高速を利用して北洋艦隊を挟み込む戦法を取り、北洋艦隊を追い詰めていった。そして戦闘開始30分で「超勇」「揚威」が沈没し、「済遠」が旅順に遁走してしまった。そして「致遠」も沈没する。日本本隊の旗艦「松島」も戦艦「定遠」「鎮遠」2隻の集中砲火を浴び、速射砲の大半が破壊された。そのうちに「経遠」が炎上、沈没そして「広丙」も沈没し、「定遠」「鎮遠」も多数の被弾を受けその戦闘能力を奪われていた。そして日没にまぎれて北洋艦隊は旅順港に逃げ込み黄海海戦は終了する。日本連合艦隊は、旗艦巡洋艦「松島」、巡洋艦「比叡」、仮想巡洋艦「西京丸」砲艦「赤城」の4隻が大破している。

黄海開戦鴨緑江海戦とも言う)はかろうじて日本軍の勝利に終わるも、日本連合艦隊の旗艦「松島」が大破したため追撃戦を断念している。「松島」の3等水兵の三浦虎次郎が「鎮遠」の砲撃に重症を負うも、「いまだ沈まずや定遠は」と戦況を心配したという。これは軍歌『勇敢なる水兵』に一節である。そして明治天皇御自ら『黄河の大捷』という詞を残している。

この結果、黄海をはじめ朝鮮近海の制海権を日本側が掌中に入れ、日本から朝鮮への戦力の輸送をはじめ我が陸海軍の作戦は極めて有利に進むこととなった。

(15)
そして、1895年4月17日、午後0時20分、下関の春帆楼での第6回会談で日清講和条約は記名調印された。これが『下関条約』であり、下関の通称だった「馬関」をとって馬関条約ととも呼ばれ、中国では現在でも「下関条約」のことを「馬関条約」と呼んでいる。

(16)
下関条約の第1条は、「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。因って右独立自主を損害すべき朝鮮国より清国に対する貢献典礼等は将来全くこれを廃止すべし。
となっており、朝鮮の独立を清国に認めさせるものであった。この貢献典礼等の廃止により、朝鮮からの中国への貢女(宮廷慰安婦)の提供は禁止されたのである。

如何に日本が「朝鮮の独立を希求し、清国と戦ったか」と言う事が判るものである。

この結果一応朝鮮の清国からの独立が認められ、朝鮮は日本が保護することになり、ロシアなどの列強からの侵略からは防御できることになる。「眠れる獅子」の国・中国(清国)を破り、日本も国際社会へのデビューを華々しく飾ったのであった。
(続く)
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日本近代化の流れ(15)

2016-11-29 00:00:00 | Weblog

(10)
日本の最後通牒とは、『豊島沖海戦http://ww1.m78.com/sib/hoto%20battle.htmlによると、次のように記述している。

豊島沖海戦は日本の宣戦布告8月1日以前の7月25日におきているのである。詳細にいえば、日本は7月19日に清国に「今より5日を期し、適当な提議を出さねば、これに対し相当の考慮をおしまず、もし、この際(朝鮮への)増兵を派遣するにおいては『脅迫』の処置と認む」と警告した(五日猶予付き最後通牒

(11)
ちなみに7月14日の日本の最後通牒に接した李鴻章は牙山の清軍に平壌への海路撤退を命じたが、それが困難なため増援のために派遣した清国兵の一部を乗せていたのが高陞号であった。
その5日間とは7月19日から7月24日までの間なので、7月25日高陞号の撃沈は紛れもなくすでに戦争中のことなのであった。

かくして日清戦争は開始されたのである。次に日本軍進路図を示す。


上図は『日清戦争』http://ww1.m78.com/sib/sinojapanese%20war.html
の『営口の風俗』http://ww1.m78.com/sib/eikou.htmlより、引用しているが、今は削除されている。

(12)
この豊島沖海戦が海上での日清戦争の最初の主要な戦いであったが、その陸戦は『成歓の戦い』(せいかんのたたかい)であった。またの呼び名を牙山の戦いと言い、この牙山こそ高陞号が清国兵を運び込もうとした先なのでであった。

1894年7月28日牙山を攻めるべく出発した日本軍のうち、混成第9旅団歩兵第21連隊は翌早朝3時20分に待ち伏せ攻撃を受け松崎直臣大尉他が戦死し、日本軍最初の戦死者となる。ラッパ手木口小平二等卒(初伝は白神源次郎一等卒であった。)も敵の銃弾に倒れ、死んでもラッパを放さなかった(と言う逸話が伝えられている)。これは「安城の渡しの戦い」である。日本軍は慣れない土地でしかも夜間行軍であったため、行軍中に不慮の死を遂げる兵たちもいた。事前準備が必要なことを痛感させた戦いでもあった。

清軍は戦闘には不利と判断し牙山より東北東18kmの有利な成歓駅周辺に主力部隊を配置していたが、日本軍は7月29日深夜左右から攻撃を仕掛け午前8時過ぎには敵拠点を制圧し、程なく牙山も占拠する。日本軍戦死者88人、清国軍死者500人前後と言う。

両軍のおおよその兵力は、清国軍3,800人、日本軍3,000人だったと言われている。ここに7月25日の高陞号の撃沈がなければ、清国軍は1,100人の増員と14門の大砲、更には大量の弾薬が追加供給されていたことになり、日本軍は大敗していたかも知れなかったのだ。天祐と言うべきか、と感謝の気持ちを忘れてはならないが、日本側は当然清国の出方を考慮して、連合艦隊を派遣していたので、ある意味高陞号(こうしょうごう)の撃沈は必然的な出来事であった。

(13)
1894年8月、清国軍は平壌(ピョンヤン)に1万2千名の兵を終結させていた。日本軍混成第9旅団は9月15日に攻撃を開始した。午後遅く平壌城に白旗が上がる。これが『平壌の戦い』である。
(続く)
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日本近代化の流れ(14)

2016-11-28 00:00:00 | Weblog

それではその豊島沖海戦(ほうとうおきかいせん)は、どのような経過で戦われたのか。


(1)
1894年7月25日早朝、日本海軍第一遊撃隊巡洋艦吉野(4216t,15cm4門)、秋津島(3150t,15*4)浪速(3709t,26*2)は、朝鮮北西岸豊島沖で清国巡洋艦済遠(2440t,21*1)、広乙(1000t,12*3)の2隻と遭遇する。

(2)
戦闘後広乙は沈没、済遠は逃亡。この追跡戦の最中に、吉野と浪速は、清国軍艦操江と英国商船旗の高陞号(こうしょうごう)に遭遇する。

(3)
浪速の艦長「東郷平八郎」大佐は臨検を実施する。 短艇で高陞号に乗り込んだ士官は、清国兵1,100名、火砲14門、弾薬多数が満載されていることを確認する。

(4)
拿捕に応じなかったため東郷は高陞号の撃沈を決意し、”短艇送り難し、直ちに船を見捨てよ”と最後の信号を送る。そして「危険」を意味する信号旗”B旗”を掲揚する。

(5)
そして、浪速は砲撃と魚雷攻撃で高陞号を撃沈する。清国兵1,000名以上が死亡し、イギリス人船長以下3名を救助する。

(6)
高陞号を撃沈されたイギリスの対日世論は沸騰し、東郷艦長の処罰と日本政府への損害賠償を要求したきた。

(7)
しかし当時イギリスを代表する国際法学者のジョン・ウェストレーキとトーマス・アースキン・ホーランドの両氏がタイムス紙へ「東郷艦長の取った決断と行動は戦時国際法のいかなる条文に照らしても全く正当である。」と投稿すると、批難は一気に沈静化する。

(8)
更には沸騰した英国世論に対して、日本側は積極的に情報を開示し、救助した英国船長の証言などから、事の次第が判明。東郷艦長が2時間半の長きにわたり説得を試みた末、国際法に則り、予告信号を出して砲撃していることが判明し、国際的に納得したことも大きく寄与している。

東郷平八郎はイギリスに留学して、国際法を修めていたので、東郷の取った処置には非のうちどころがなかったのであった。中国漁船衝突事件(2010.9.7)のビデオの公開を最後まで拒否していた当時の民主党政権のやり方と比べても、雲泥の差がある。

(9)
またこの事件は高陞号が清国兵を満載していたことにより、中国側が事前計画にもとづいて、天津条約背馳し、日本の最後通牒を無視し朝鮮領海内を突破し、牙山に大兵を集中させつつあったことを全世界に暴露した。これによって、中国がこの戦争において侵略者であることを示した事件でもあった。天津条約によれば朝鮮に派兵する場合には通知することが義務付けられている。

この節の冒頭で言及した中国の甲午戦争(日清戦争)勃発120周年を記念した行事で宣伝していた「甲午戦争(日清戦争)は日本による侵略戦争であり、中国は不平等条約を結ばされた。だからこの歴史を鑑として、歴史的悲劇が再び起こらないように気を付けるべきだ。」というものは明らかに捏造である。それは日本の侵略戦争などと言うものではなく、反対に中国による日本への侵略戦争であったのである。

端的に言うと、日清戦争は朝鮮を独立させるための戦争であった。朝鮮が特にロシアの手に落ちると、日本は直接ロシアの脅威にさらされることになる。それを日本は恐れたのである。イギリスも極東におけるロシアの進出を恐れていたのであるが、そのため日本は朝鮮の独立、近代化を切に願っていた。それには、先ずは中国(清国)からの隷属状態から、朝鮮を抜け出させる必要があったのである。そんな時に、中国(清国)の条約を無視した傍若無人な行動に、日本の堪忍袋の緒が切れたのである。

如何に歴史的事実を知ることが大切なことであるか、がお判り頂けたことと思う。
(続く)
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日本近代化の流れ(13)

2016-11-25 00:00:00 | Weblog

7、明治19年1886年8月1日、清国の日本威嚇と長崎事件勃発(清国北洋艦隊が日本に威嚇訪問、長崎に上陸した清国兵が交番を襲撃し双方に死傷者を出す。

清国海軍の北洋艦隊は、ロシアのウラジオストックを訪問した後、艦艇修理を名目に1886年(明治19年)8月1日長崎に入港させている。定遠、鎮遠、済遠、威遠の4隻である。定遠と鎮遠は、清国がドイツから購入した装甲戦艦で7,300トンの巨艦であった。その時の日本海軍の最大艦は、「高千穂」でその半分の3,700トンであった。これは明らかに清国の威嚇のための示威行動であった。更に8月13日には上陸した水兵達が遊郭で暴れだし警察官とお互いに抜刀して切りあう乱闘を起こし、双方に死傷者を出している。更に15日には、前日の士官の監督の下に上陸すると言う協定に反して300人の水兵が上陸し、武器を持ち交番を襲撃しそれぞれに死傷者を出している。

この清国の定遠、鎮遠による砲艦外交に対抗する軍艦として、1888年に三景艦・松島、厳島、橋立(4,200トン級)を起工している。1892年(明治25年)4月に就役しているが、主砲は定遠の30.5cmより大きい32cm巨砲一門の、非常に背伸びしたものであった。日清、日露戦争ではそれほどの働きは出来なかったという。

ちなみに1891年(明治24)には、定遠、鎮遠をはじめとする清国北洋艦隊の6隻が、一応親善目的で更に日本を訪問している。7月の横浜港には清国軍艦6隻のほか、日本の軍艦も6隻が停泊していた。その6隻を次に列挙する。

定遠(7,430t)、鎮遠(7,430t)、経遠(2,850t)、来遠(2,850t)、致遠(2,300t)、靖遠(2,300t)

これに対して日本側は、

扶桑(3,718t)、高千穂(3,650t)、浪速(3,650t)、高雄(1,760t)、葛城(1,476t)、大和(1,476t)
、であり日本人がこれを見て驚愕したであろうことは想像に難くない。

このように中国(清国)は、朝鮮では日本人婦女子を陵辱し多くの日本人を虐殺し、日本に対して威嚇を実行しているうえに、更に北洋艦隊を訪問させて日本を威嚇し続けていたのであった。清国の砲艦外交は清国兵の狼藉にもつながり、長崎事件をひきおこした。当然、日本人の反清感情は極限にまで高まっていた。そんな状況下で朝鮮に農民の反乱が発生した。


8、明治27年1894年3月29日、朝鮮に甲午農民戦争(東学党の乱)が勃発(東学を信仰する農民たちが反乱を起こしたため、朝鮮は清国に援軍を要請する。中国は天津条約に反し無断で増援派兵したため日本は交戦状態に入る。豊島沖海戦1894.7.25

壬午軍乱の翌年の1883年頃から農民の反乱が各地で起きていたが、1894年(明治27)2月15日に全羅道(朝鮮半島南西部)での民衆の反乱に対して、朝鮮政府はその反乱は東学に責任があるとして東学の弾圧を始めた。

西学(キリスト教)に対して東学とは民族宗教の一種で、瞬く間に農民に支持され各地に広がった。3月29日には東学党が全羅道で蜂起し国政の改革を唱え、更に支持する農民を巻き込み全国的な内乱へと発展していった。政府軍はこの反乱を鎮圧することが出来ずに、閔氏政権は、清国に援軍を要請する。これを甲午農民戦争(東学党の乱)と言う。

清国公使は日本外務大臣陸奥宗光に対して「朝鮮国王の要請に応じ属邦保護のため出兵する」旨6月6日に通告する。陸奥宗光は「朝鮮は清国の属邦とは認めず」と抗議し、駐清代理公使の小村寿太郎は清国政府に「公使館保護のため日本軍も出兵する」ことを翌6月7日に伝える(天津条約に準じて通告)。

東学党と妥協した朝鮮政府は日清両軍の撤兵を要請したため、日本は 清国に対して6月15日、「朝鮮の内政改革を日清共同で進める」旨の提案を行うも、清国はそれを拒否する。

更にイギリスが調停に乗り出し、ロシアは日本軍の撤退を要求する。7月9日清国はイギリスの調停案を拒否する。日本はロシアのこれ以上の干渉はないことを察知し、1894年7月11日清の調停拒否を非難し7月12日に閣議決定し、1894年7月14日最後通牒を通知して清との国交断絶を伝える。これに激怒した光緒帝(清国第11代皇帝)も7月14日開戦を決定する。

19日には日本から5日の猶予をもって朝鮮改革案の提起をせよと清国に迫っている。現地では、1894年7月25日には豊島沖の海戦が戦われており、8月1日に日清両国が宣戦布告する。
したがって日本側は朝鮮、清の回答待ちの状態であったため、陸奥宗光は「外交にありては被動者(受身)たるの地位を取り、軍事にありては常に機先を制せむ」と回顧している。
(続く)
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日本近代化の流れ(12)

2016-11-24 00:00:00 | Weblog
6、明治18年1885年、明治19年1886年の第1次、第2次露朝密約事件(不凍港確保狙うロシアが秘密裏に朝鮮と軍事密約を交わす。このため英国は日本に接近、日英同盟の元となる。)

話はアフガニスタンに飛ぶ。1830年代ロシアは南下政策を進め、アフガニスタンに目を付ける。これに対してインドを植民地とするイギリスが反応する。1838年イギリスはアフガニスタンに派兵して
1842年に降伏させる。これが第一次アフガン戦争である。

また1868年から1876年にかけて、ロシア中央アジアへ進出してくる。現在のカザフスタン、ウズベキスタンの地域を、併合することになる。そのためイギリスは1878年11月、アフガニスタンに宣戦を布告する。結局1881年アフガニスタンの王族を相手に、イギリスの保護国となることを認めさせる。この結果アフガニスタンとパキスタンの国境が画定する。これが第二次アフガン戦争である。

結局ロシアはアフガニスタンへの進出の夢はかなわなかったのである。

更には1877.4~1878.3には、ロシアはトルコと露土戦争を戦っている。この戦いに勝利したロシアは、サン・ステファノ条約(1878.3.3)でエーゲ海への出口を確保することになる。これを恐れたイギリスオーストリア・ハンガリー帝国はこの条約に反対した。結局1878/6/13~7/13ベルリン会議でロシアはエーゲ海への出口を失い、ロシアはバルカン半島での南下政策は徒労に帰すことになったのである。

そのためロシア南下政策矛先は必然的に極東に向かう。それが満州であり、朝鮮半島だったのである。

1885年と1886年にロシアは朝鮮と密約をを交わし、朝鮮を軍事的に保護しようとしたが、朝鮮を属国とする清国の袁世凱の知るところとなり破綻する。これを第1次、第2次露朝密約事件である。

イギリスはこのロシアの動きに神経を尖らせ、日本に接近することになる(1894年(M27年)日英通商航海条約)。日本としても朝鮮の動きに神経を高ぶらせることになる。
(続く)
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日本近代化の流れ(11)

2016-11-23 00:00:00 | Weblog

4、明治15年1882年7月、壬午ジンゴ軍乱勃発(大院君ら守旧派の反乱、日本人惨殺される。

江華島条約は開化派の高宗の妃である閔妃(びんぴ)によって結ばれたが、守旧派である高宗の父・大院君はそれが不満であった。1882年7月23日に、大院君らの旧軍兵士らが、漢城に乱入し閔妃一族や政府高官らを暗殺した。

更には日本公使館をも襲撃した。在留日本人を収容した日本公使館は、朝鮮政府の護衛もなく、花房公使以下28名は夜陰に紛れて公使館を脱出せざるを得なかった。そして28名中17名の死者と多数の負傷者を出しながら、辛うじて済物捕へ逃避し小船で漂流しているところを英国測量船に保護され、命からがら長崎に帰還することが出来た。

いち早く事変を察知した閔妃は、駐屯清国軍の袁世凱のもとに転がり込み、反乱軍を鎮圧し大院君を天津に軟禁する。政権を取り戻した閔妃らは、開化政策から親清政策へと転換する。
その後日本は花房公使を全権として派遣し、済物浦条約を結ぶ。日本は公使館警護のために日本軍を駐留させ、賠償金として5年で50万円を受け取ることになったが、結局は10万円しか支払われなかった。日本は、今からでも残りの40万円を現在の価値に換算して、朴槿恵に請求すべきである。当時の1円=現在の3万円とすると、120億円ほどになろう。これを朴槿恵に請求する必要がある。

この壬午軍乱で死亡した17名の日本人は、語学留学生も含めて全員が、靖国神社に祭られている。ちなみに壬午軍乱で虐殺された日本人の死体は尋常ならざる状態であったと言う。死体は切り刻まれ、頭骨までもが打ち砕かれており、個人の特定ができなかったと言う。日本人と特定したのは、付着する衣類の一部が日本特有のもので、全員の遺体の損壊状況が尋常ならざる状況ですべて共通していたからであった、と報告書にも記載されている。

そして漢城には、日清両国の軍隊が駐留することとなり、2年後の甲申事変へとつながってゆく。


5、明治17年1884年12月、甲申コウシン事変勃発(金玉均のクーデターを袁世凱が鎮圧、清国兵は在留日本婦女子30余名を陵辱殺害し、多くの在留日本人も虐殺された。天津条約

閔妃の親清政策に対して開化派の金玉均らは日本に接触し、近代化を目指すことになる。そして
1884年(明治17年)12月4日に計画は実行され、そのクーデターは成功する。

そしてその日のうちに金玉均を首相とする内閣は国王の稟議を経て成立し、清国への朝貢を廃止するなど決めたが、即座に袁世凱率いる清軍1500人が王宮を警護する日本軍150人を攻め、日本軍とクーデター派は敗退してしまう。漢城市街では清国軍人によって多数の在留日本人が殺され、略奪されている。特に婦女子30余名清国兵に陵辱され虐殺された。そして金玉均らは日本へ亡命する。

その後日本と清国の間に1885年(明治18年)4月18日に「天津条約」が結ばれる。これが甲申事変である。

条約の内容は、
(1)日清両国は4ヵ月以内に撤兵を完了する。
(2)日清両国は朝鮮に軍事顧問を派遣しない。朝鮮は日清両国以外から軍人を招致する。
(3)朝鮮に出兵する場合は相互通知を必要とする。派兵後は速やかに撤退し駐留しない。
(4)日本人殺傷事件を調査し、事実であれば処罰を行う。

そして残った開化派人士やクーデター派の三親等までの親族が残忍な方法で処刑されている。この女・子供を含む近親者への残酷な処刑は、中国・朝鮮への憎悪を福沢諭吉らに呼び起こさせて、福沢諭吉の「脱亜入欧」論を発表させることになり、日本近代化の方向性が定まるきっかけともなっている。そして日本軍の惨敗結果が反省され、後の日清戦争には大いに役立ったと言われている。

言っておくが、この天津条約に違反して、中国(清)が秘密裏に朝鮮に軍隊を出兵させたことから、日清戦争は始まっているのである。それにしても日本軍は駐留清国軍に対抗出来得るだけの戦力を準備しておかなかったことは痛恨の極みである。大いに反省する必要があろう。
(続く)
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日本近代化の流れ(10)

2016-11-22 00:00:00 | Weblog

既に豊島沖海戦は始まっていたがこのようなステップを経て、1894.8.1に日本は清国に宣戦を布告し、正式に日清戦争が開始される事となった。東学党が1894.3.29に蜂起し全国的な内乱へ発展したため、日本は清国に対して朝鮮の近代化の内政改革を提案するも、清国はそれを拒否し極秘に派兵を続けていたため日本が堪忍袋の緒を切ったものである。

さてそこに至るまでの経過を、次に辿ってみる。朝鮮の覚醒を期待する日本が、日本国書受け取り拒否事件で、清国の朝鮮への影響を強く認識したものだが、更に直接清国と関わった事件は、牡丹社事件である。


2、明治6年1873年、牡丹社事件と琉球処分台湾征伐と琉球の日本帰属確定

1609年(慶長14年)琉球は薩摩藩の属国となり、明治の廃藩置県(1871.8.29)で琉球王国は琉球藩となり藩主は華族となった(第一次琉球処分)が、清へも朝貢していた。

1871.12月に宮古島の琉球王国への年貢船が遭難し台湾に漂着、69名中54名が台湾原住民に殺害されるという事件が起こる。その後も同様な事件が起き、日本政府は厳重抗議するが、清国は台湾は「化外の地」(統治の及ばないところ)として、受け付けなかった。

内外に台湾征伐論が高まったが派兵は決まらなかった。しかし台湾藩地事務都督に任命された西郷従道陸軍中将は、独断で征伐軍3,600名を出動させ、1874年6月3日に事件発生地の牡丹社などを制圧し、占領を続けた。

これにより「日清両国互換条款」が調印され、清国は日本軍の出兵を義挙と認め、遭難民に対する見舞金10万テール、戦費賠償金40万テール、計50万テールを支払い、1874年12月20日までに征伐軍は撤退することとなった。これにより琉球民は日本人となり、琉球の日本帰属が国際的に認められることとなり、また台湾の清国帰属も認められた。そして1879(M12).4.4に琉球藩を廃して沖縄県を設置した。これを「第二次琉球処分」と言っている。

そして日本政府は琉球に対して清との冊封・朝貢関係を禁止したため、清は日本に抗議することになる。


3、明治8年1875年9月、江華島事件勃発(日本軍艦の短艇が江華島より砲撃される。

明治6年には大院君の日本侮蔑の布告を出すに及んで征韓論が盛んになったが、日本政府は交渉を続けていた。と言うのも当時ロシアが朝鮮に目を付けていたからであった。そして1875年(明治8年)5月に釜山で再度政府間交渉がもたれたが、その饗宴の儀で日本大使は隷属国並みの扱いを受けたため日本は軍艦を派遣したが、交渉はまとまらなかった。

軍艦2隻を派遣したのなら釜山を攻撃すべきだった。そうすれば次に説明するようにさらなる日本人の犠牲者を出さずに済んたかも知れない。

しかしその一隻「雲揚」が9月20日に首府漢城(ソウル)に近い江華島沖に投錨し、役人と面談するため端艇で江華島に向かったところその砲台から砲撃を受ける。そのため本艦に取って返し、9月21日砲台に接近し砲撃戦を開始する。そして第三と第二砲台を破壊する。翌9月22日には第一砲台を攻撃し占拠する。

日本軍は場内から大砲36門他多数の戦利品を手に入れ、翌9月23日に戦域から離脱する。そして1876年(明治9年)2月11日に交渉を開始し、2月27日に日朝修好条規(江華島条約)が結ばれる。この条約は日本の安政の五カ国条約と類似しているが、最も特徴的で異なっている点は、その第1条(第一款)に「朝鮮は自主の国であり、日本と平等の権利を有する国と認める。」とある。これは朝鮮が清国の藩属国であることを考慮して特に日本が挿入した一文である。日本は朝鮮を「自主の国」とすることで、清朝の介入をなくそうとしたのである。しかしそれでも朝鮮は清国の属国の地位に甘んずることを選択していた。清朝も朝鮮への冊封体制を強化し始めた。この清国の宗主権を否認することとなり、日清戦争のある意味直接的原因となるものである。そのため結局朝鮮を真に独立させることは、日清戦争を待たねばならなかった。

言ってみれば、この江華島条約は朝鮮を独立国として認めお互いに友好な外交関係を築こうとしたものであるが、このようにいくら日本が頑張って朝鮮の独立を認めても、清国をはじめ世界は朝鮮を清国の属国と認めていた。
(続く)
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日本近代化の流れ(9)

2016-11-21 00:00:00 | Weblog
(2)日清戦争

日清戦争は、今から122年前の1894年(明治27年)7月25日に始まっている。2年前の2014年は丁度120年目であったためかの中国では、盛んに甲午戦争(日清戦争)勃発120周年を記念する行事が、開かれている。

その主旨は、「甲午戦争(日清戦争)は日本による侵略戦争であり、中国は不平等条約を結ばされた。だからこの歴史を鑑として、歴史的悲劇が再び起こらないように気を付けるべきだ。」というものだった。しかもそのことをアピールするかのように、その日に日本人覚醒剤密輸犯を死刑にしている。

これは全くの捏造で事実はすべてその逆であり、原因は中国(清国)による日本への迫害や条約違反であった。これからそのこと、いかに清国からの圧力が強かったかを説明しよう。

1、明治元年1868年、朝鮮の日本国書受け取り拒否事件(征韓論おこる。)

日清戦争へ至る過程は、明治維新にまで遡るのである。

1868年、明治新政府は日本が新しい国となったことを諸外国に通告した。朝鮮にも当然修交したい旨日本国の国書を、当時朝鮮との窓口であった対馬の宗氏を通じて、手渡そうとした。
しかし朝鮮は、日本からの国書の受け取りを拒否した。拒否した理由は、日本の国書がそれまでの江戸時代の形と異なると言う理由であった。具体的には日本の国書に、中国から使用が禁止されている「皇」「勅」「朝廷」などの文字があったからである。

そのため日本はその説明のために、何度も(明治元年、3年2回、5年2回)大使を派遣したがすべて門前払いを受ける。そして明治6年には大院君が、「日本夷狄に化す、禽獣と何ぞ別たん、我が国人にして日本人に交わるものは死刑に処せん。」という布告を出すに及んで、征韓論が盛んに唱えだされる。

この征韓論をめぐって西郷隆盛など征韓派が論争に敗れ下野することになり、後の西南戦争の原因となる。しかしながら朝鮮は中国の属国であったことから、日本は中国(清国)の存在を意識せざるを得なかった。

これが「明治元年1868年、朝鮮の日本国書受け取り拒否事件」であるが、以後次々と中国(清国)による日本への迫害が、以下述べるように続く。


この日清戦争への道は、この征韓論から次の様な出来事を経ながら、続いていったのである。


1、明治元年1868年、朝鮮の日本国書受け取り拒否事件(征韓論おこる。)

2、明治6年1873年、牡丹社事件琉球処分台湾征伐と琉球の日本帰属確定

3、明治8年1875年9月、江華島事件勃発(日本軍艦の短艇が江華島より砲撃される。)

4、明治15年1882年7月、壬午ジンゴ軍乱勃発(大院君ら守旧派の反乱、日本人惨殺される。)

5、明治17年1884年12月、甲申コウシン事変勃発(金玉均のクーデターを袁世凱が鎮圧、清国兵は在留日本婦女子30余名を陵辱殺害し、多くの在留日本人も虐殺された。天津条約。)

6、明治18年1885年、明治19年1886年の第1次、第2次露朝密約事件(不凍港確保狙うロシアが秘密裏に朝鮮と軍事密約を交わす。このため英国は日本に接近、日英同盟の元となる。)

7、明治19年1886年8月1日、清国の日本威嚇長崎事件勃発(清国北洋艦隊が日本に威嚇訪問、長崎に上陸した清国兵が交番を襲撃し双方に死傷者を出す。)

8、明治27年1894年3月29日、朝鮮に甲午農民戦争東学党の乱が勃発(東学を信仰する農民たちが反乱を起こしたため、朝鮮は清国に援軍を要請する。中国は天津条約に反し無断で増援派兵したため日本は交戦状態に入る。豊島沖海戦1894.7.25
(続く)
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日本近代化の流れ(8)

2016-11-18 00:00:00 | Weblog

何はともあれ、明治維新では、天下の政権は幕府の独裁から朝廷に奉還され、貴族院と衆議院の両院を設けて帝国議会を成立させ、万機を公論で決める仕組みの上で、天皇がこれを統治した。人材の登用もなり、幕府政治から近代化へと一大模様替えを図っていった。幕藩体制から政権が朝廷に奉還され其の運営は維新政府へと返還された。

その中心には天皇制があった。天皇制があったからこそ明治維新が成就できたのである。古の神代の時代から連綿と継承されている天皇制があったればこそ、日本国全体が一致団結できたのである。天皇を頂点として、公卿、諸侯、一般民衆が日本国民として、まとまることができたのである。このことなくしては封建体制から明治近代化への脱皮は難しかったことであろう。

中国では「易姓革命」と言う文化があるため、中国の歴史の継続性はないに等しい。易姓革命とは、「天(あらた)めて、(か)わる」と言うことで、中国の歴史は前政権(前王朝)の否定・打ち壊し、そして現政権(現王朝)の成立となるのである。

その時に大虐殺が行われた。前政権に関与した人間はもちろんの事、その都の住民達も皆殺しにされている。これを現す言葉が「屠城」として中国語に存在する。いわゆる王朝が変わるたびに屠城と言う人民の虐殺が行われている。もっともひどい屠城を受けた都市のひとつが南京なのである。万人塚として骸骨が発掘されるのは、このときの虐殺の跡なのであり、日本軍の虐殺などは存在していないのである。
現代中国では、毛沢東による2,000万人とも3,000万人とも言われる大虐殺が行われている。日本にはこのような文化はない。

このように中国では政権の継続性が殆どなかったため、国民国家としてのまとまりが欠け、近代化が遅れた。そこを西洋諸国に突け込まれた。そのためそこからの影響を日本は、極端に恐れたのである。そこで日本は、支那のすばやい近代化を願って、留学生の受け入れや制度の移植などのあらゆる援助を惜しまなかったのである。


さて話を元へ戻そう。

西暦478年倭王武(雄略天皇)南宋への上表文には次のように記されている。

昔より、祖禰(そでい)自ら甲冑をはき、山川を跋渉し寧処(ねいしょ)に暇あらず。東は毛人を征すること55カ国、西は衆夷を服すること66カ国、渡って海北を平らげること95カ国。王道は融泰であり、土を開き、機をはるかにする。

このように日本を統一してゆき、もちろんその間紆余曲折はあったものの、現在の御皇室へとつながっていったのである。

ここに「渡って海北を平らげること95カ国」とあるのは、朝鮮半島にもその昔(神武天皇以降の時代)には、倭王の治める国があったことを示していることに注目する必要がある。


さて、1868年10月23日(明治元年・慶応・4年9月8日)に、明治改元の詔を発し、年号を「明治」と改め、慶応4年を1月1日よりさかのぼって明治元年とした。

明治新政府は、欧米列強の軍事的・経済的圧力に対抗する為に、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指し、矢継ぎ早に改革を断行していったのである。

以後詳しくは小生のブログ「ヨーロッパと日本」(2008.10.9~12.10)を参照願う。
(続く)
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日本近代化の流れ(7)

2016-11-17 00:00:00 | Weblog

さて五箇条のご誓文の第一条の「広く会議を興し万機公論に決すべし」の真意とは、どう解釈すればよいのであろうか。一般的には、単純に現在の民主主義を連想するのが普通であるが、もう少し深い意味があるようである。

http://datas.w-jp.net/theImperialCovenantOfFiveArticles.html(Eternity)に、納得の行く解説がある。それを紹介しよう。→この項は小生のブログ「ヨーロッパと日本」より引用しているが、現在はこのURLは削除されていて、ない。


「広く会議を開催して、政治上の全ての事柄は公の議論を通じて決めようではないか」と言う意味と小生は解釈するが、この思想は、古くは聖徳太子の「十七条の憲法」に既に盛り込まれていると言う。

「十七条の憲法」の第十七条がそれである。「現代語訳」が記載されているのでそれを引用する。

[十七にいう。物事は1人で判断してはいけない。必ずみんなで論議して判断しなさい。些細なことは、必ずしもみんなで議論しなくても良い。ただ重大な事柄を論議するときは、判断を誤ることもあるかもしれない。その時みんなで検討すれば、道理にかなう結論がえられよう。] と言うものである。

ここで言う「道理にかなう結論」と言うモノは、現代の多数決の民主主義とは大いにその趣をことにしている。今の民主主義は、個人の意見をぶつけ合うものであり、個人の意見を押し通すこととなる。そのために多少の妥協や修正も行われるかもしれないが、結局は多数決となり強いものの意見が往々にして通ることとなる。従ってその場合には必ずしも「道理にかなう」モノにはならないこともあろう。

この「万機公論に決すべし」とは、「もっとも理を得た結論を出すための、各人が知恵を出し合って最良の道を共に探る公議(社会全体の議論)公論(公平な議論)」なのである。要するに、議論は個人の利害から離れて、社会全体に対して理にかなったやり方を求めよ、と言っているのである。そういう意味では、利己心をはなれて”公おおやけ”にとって最善と思われる策を論じ合うと言う、現代民主主義を更に発展させたと言うか超越したところに基準を置いているのである。

なお、聖徳太子の「十七条の憲法」の第十条には、この民主主義の考えも述べられていると言う。

また、昭和天皇裕仁ひろひと陛下はこのことを深く理解されていたため、終戦翌年の1946年(昭和21年)1月1日の「新日本建設に関する詔書」(年頭の詔書)に、このご誓文の条文を加えることをご自身でご提案されたのである。

昭和天皇はそのことを次のように述べられている。

それが実は、あの詔書(天皇の意思表示の公文書)の一番の目的であって、神格とかそういうことは二の問題でした。(中略)民主主義を採用したのは明治大帝の思召しである。しかも神に誓われた。そうして五箇条御誓文を発して、それが基となって明治憲法ができたんで、民主主義と言うものは決して輸入物ではないということを示す必要が大いにあったと思います。

この「新日本建設に関する詔書」(年頭の詔書)には、

「・・・朕は爾(なんじ)等国民との間の紐帯(ちゅうたい)は、始終相互の信頼と敬愛とに依りて結ばれ、単なる神話と伝説とに依りて生ぜるものに非ず。天皇を以って現御神(あきつみかみ、天皇を尊んで言った語)とし、且(かつ)日本国民を以って他の民族に優越せる民族にして、延(ひい)て世界を支配すべき運命を有すとの、架空なる観念に基づくものに非ず。・・・」

という文言があり、これが自らの神格性を否定した部分であり、これは昭和21年元旦の各新聞の一面で「天皇の人間宣言」として、紹介されたのである。

「人間宣言」をした昭和天皇は、その後、全国を「巡幸」し、国民の歓迎を受けた。人々は「咽び泣いた。万歳を叫んだ」(戦後最初の侍従長の大金益次郎の著作『巡幸余芳』)のであった。
(続く)
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