世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(42)

2022-08-31 00:00:00 | Weblog

海幸彦は「漁労」、山幸彦は「狩猟」を生業としており、『(天照大神は)粟・稗・麦・豆を畑の種とし、稲を水田の種とした。』と日本書紀にも書かれているように(8/11,NO.29)、縄文の伝統を象徴している神なのである。

事実、邇邇芸命は天照大神より、高天原の稲の種を授かり葦原の中つ国に広めよ、言付かっているのである。しかも邇邇芸命は、名前の「ニニギ」が示すように、稲穂がにぎにぎしく成熟することを意味している、と言う。
次のものを読まれるとよい。ただし、古事記には稲の種を持たせたということは、書かれていないようだ。

邇邇芸命の名前から容易にわかる、と言うことか。



邇邇芸命(ににぎのみこと)
【高天原から天下った天照大神の孫神】

概要

天孫降臨神話の主役で、天照大神が高天原で栽培した神聖な稲穂を携え、父神の天忍穂耳神(あめのおしほみみのかみ)に代わって地上に天降って、日向(宮崎県)の高千穂の峰に降り立った。そこで見そめたオオヤマヅミ神の娘のコノハナサクヤヒメ神と結婚し、海幸彦、山幸彦(ホオリノ命:初代天皇の神武天皇の祖父にあたる)など三柱の子をもうけた。

古事記には本名を天邇岐志国邇岐志天津日子番能邇邇芸尊(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)、日本書紀では天津日子火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)とある。ニギシは豊富なことを表す饒(じょう)を意味する。

ヒコヒコは日の神の御子が空高く照り輝くことを意味し、ニニギは稲穂がにぎにぎしく成熟することを意味している。つまり、この神につけられた長いな名には、天から降った神聖な稲種が立派に成長し、やがて豊かに実る、という意味が込められている。その様子こそ古代の人々がこの神に託したイメージである。ニニギが降り立つ姿というのは地上における稲種の起源を象徴している。

弥生時代以来、稲作農耕を基盤とする社会では、生活の糧をもたらしてくれる稲種を非常に神聖なものととらえ、人々はそこに宿る霊を神として崇め、春秋の季節ごとに必ず祭を行うようになった。そうやって毎年毎年、稲の精霊が豊かな実りをもたらしてくれることを願ったのである。

邇邇芸命(ににぎのみこと)とは、そうやって人々が祀り、毎年新しい生命力を宿して誕生してくる稲種の霊だったのである。

また、稲の神と同時にもう一つ天孫降臨神話に象徴されているのが、高天原と地上をつなぐ特別な神としての機能である。その機能とは、皇室の祖神である天照大神の孫(天孫)として地上に降臨し、歴代の天皇の祖先神になったという点で、そこから天孫降臨神話が、天皇家の日本統治を正当化する理論的な根拠を示す神話であるといわれているのである。

その、天皇家の有名な宝物として、邇邇芸命(ににぎのみこと)が高天原から地上に降りるときに、天照大神から授けられた、八咫鏡、草薙剣、八坂の勾玉がある。いわゆる三種の神器と呼ばれるもので、皇位継承のときに天皇の位を示す重要なシンボルである。

そもそも三種の神器というのは、稲穂の神である邇邇芸命が、地上で活動するための助けになるように天照大神が授けたものであが、鏡は太陽に光を映すものであり、古代において農耕の守護神である太陽神を祀る最も重要な祭器だった。

つまり、太陽神である天照大神の御霊代(みたましろ:神霊な依り代)である。草薙剣は、スサノオ命が八岐大蛇の退治で獲得した宝剣で、蛇は田の神、水の神とも関係の深い水神、龍神であり、稲作と密接に関係する。最後に八坂の勾玉は、イザナギ神が高天原の統治権の象徴として天照大神に授けたもので「古事記」にはその名が「御蔵板挙(みくらたな)の神」とある。

これは神聖な稲種が収納される蔵に祀られる神のことであり、稲種を守り翌年の豊穣をもたらす機能を持っていると考えられる。

別名・別称

天邇岐志国邇岐志天津日子番能邇邇芸尊(あめにぎしくににぎしあまつひこほのににぎのみこと)、日本書紀では天津日子火瓊瓊杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)など

神格  稲穂の神、農業神

性別  男神

神徳  五穀豊穣、畜産、国家安泰、家内安全、厄除け、富貴栄達など

備考  

邇邇芸命(ににぎのみこと)が地上に降り立った地という伝承が残る場所は、古くから各地にあったようで、「風土記」にも天孫の御陵とされる場所がいくつか登場している。よく知られるのは、宮崎県臼杵郡の高千穂岳(国見岳)と、宮崎県と鹿児島県の境にある霧島三塊の高千穂峰である。とくに霧島の麓には、天孫から四代にわたる直系の神々とその妃神を祀る霧島神宮があり、降臨伝承地として有力視されている場所の一つである。

https://www.wabito.jp/邇邇芸命(ににぎのみこと)/
(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(41)

2022-08-30 00:00:00 | Weblog

猿田彦が天孫降臨を導いているが、「国譲り」でもフツヌシを案内していることから、フツヌシと猿田彦は緊密に関係し「息栖神社」に祀られている神は猿田彦の家系であろうとしても辻褄が合うものである(P114)。

このようにして、無事に鹿児島の霧島近辺に上陸した邇邇芸命の一行は、

ここに詔(ノ)りたまはく、「此地は空国(カラクニ)に向ひ笠沙の御崎にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照国なり。かれ此地いと吉き地」と詔りたまひて、底つ岩根に宮柱太しり、高天の原に氷ぎ(千木の事)高しりてましましき。

ここに仰せになるには、「ここは痩せた所なので更に笠沙の岬まで来た。ここは朝日も夕日もよく照るところで、よい所だ」と仰せになり、地に石の土台を作り立派な柱を立て千木を高く上げて宮殿を建てた。


と言うことで、邇邇芸命は、高千穂から笠沙の御崎まで来て、宮殿を建てて暮らすことになる。

笠沙の御崎は、8/24のNO.37の地図を参照されんことを。


常陸の国とは、「日立ち」つまり「日が上がる」ところを意味する「常世の国」と言われていることと、「日の昇る方向」東方に何か理想郷があると考えられていたことと大いに関係がある。(小生の感覚では)自分たちが元居たところこそが常陸の国にあったのではあるが、そのことを忘れてしまうほど、それほど長い間、邇邇芸命達は薩摩半島の笠沙の御崎で暮らすことになる。

それほど長い間とは、常陸の国から来たにも関わらず、そのことを忘れてしまい、自分たちのいた国が「常世の国」と言われる日が昇る理想の国と考えられてしまうほどの長い期間、笠沙の御崎に居たと言うこと。

神倭伊波礼𨫤吡古命(かむやまとひわれひこのみこと)の誕生まで四世代となるわけで、天孫は、その間笠沙の御崎で力を蓄えられていたことになる。
𨫤吡は当て字で、正しくは口へんは田である。

さて、天津𨫤日高日子番能邇邇藝能命(あまつひこひこほのににぎのみこと)は笠沙の御崎で、美しい娘と出会い名を尋ねると、「大山津見神」の娘で「木花之佐久夜毘売」(このはなのさくやひめ)と答える。

「大山津見神」はイザナギ・イザナミが神生みで最初に生んだ十神の末の男女が生んだ山の神であり、高天原系の正当な家系・血統であることを示すことになる。

ニニギノミコトは大山津見に娘との結婚を申し込むと、大山津見は喜んで姉の「石長比売」(いわながひめ)と共に、たくさんの献上品を添えて送ってきたが、姉の石長比売はたいへん醜かったために、送り返してしまう。

大山津見はたいへん恥に思って、次のように伝えます。

「石長比売をお使いになれば、天の神の御子はたいへん長寿に栄えるでしょう。木花之佐久夜毘売一人であれば、天の神の御子の寿命は木の花のようにもろくなるでしょう。」

と言うことで、天皇の寿命は短く神の存在から、普通の人間と同じになったことを示すことになる。

この逸話は、天孫降臨の後の時代が、高天原の天津神が、葦原の中つ国の国津神としての存在に移っていったこと、そういう時代になっていったことを示しているものである、とその書のP142には書かれている。

そして木花之佐久夜毘売は一夜で妊娠したので、ニニギノミコトは「(自分の子ではなくて)国つ神の子ではないか」と疑う。そのため木花之佐久夜毘売は次のような手を打つことになる。

「もし国つ神の子であれば無事ではないでしょう。天の神の子であれば、無事でありましょう。」と言って、戸口のない粘土で塗り塞いだ家にこもり、火をつけて出産する。

火の中でも子は無事に生まれ

長男が 火照命(ホデリ)・海佐知毘古(うみさちびこ)、海幸彦
次男が 火須勢里(ホスセリ)
三男が 火遠里命(ホオリ)・山佐知毘古(やまさちびこ)、山幸彦
    またの名を天津日高彦穂穂出見尊(あまつひだかひこほほでみ)

三つ柱の子が生まれるのであるが、以後次男のホスセリは何も語られない。
以後の話は長男の火照命(ホデリ)と三男の火遠里命(ホオリ)の話となってゆく。有名な海彦・山彦の物語である。
(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(40)

2022-08-29 00:00:00 | Weblog

邇邇芸命たちは、次のようにして海にこぎ出でていったものである。

『彼ここに天の日子番(ホ)の邇邇芸命、天の石位(イハクラ)を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、陵威(イツノ、勢いよく)道(チ)別(ワ)き道別きて、天の浮橋に、浮きじまり、反り立たして、筑紫の日向の高千穂のくじふる峰に天降りましき。』


海の浮橋を渡ると、浮島があり、そこにまっすぐに立って行って」そして
「天の八重多那雲を押し分けて、」とは、「押し寄せる数々の波を乗り越えて

そして、猿田彦を水先案内人として、関東・鹿島を船で発ち、「陵威(イツノ)道(チ)別(ワ)き道別きて、」 (勢いよく海の道を踏み分けて進み)太平洋沿岸を陸伝い、島伝いに西に進み、猿田彦の本拠地の伊勢を経由して、九州に上陸することになる。

猿田彦は伊勢で分れたことになっているようだが、邇邇芸命の一行は九州の「鹿児島」に上陸する。上陸したところは、錦江湾(鹿児島湾)の突き当り、霧島市の西に隣接する「天降り川」に船を乗り入れて上陸した、とその書のP91には書かれている。

鹿島・鹿児島といい、天降り川と言い、しかも鹿児島には「諏訪神社」が多いことからも、邇邇芸命一行の鹿児島上陸の証拠と言える。「諏訪神社」は「国譲り」で武御雷(タケミカヅチ)に降参した大国主命の子・タケミナカタを祀る神社で、鹿児島の地も(出雲同様に)邇邇芸命の配下になったことを示すものであろう(P92)。

邇邇芸命の一行は相当の大軍事船団であった。先にも紹介した五部族のお供を従え、天の忍日の命と天つ久米の命と言う武神を先頭に、「くじふる峰に」天降りましき、と言うことになる。天忍日命大伴氏天久米命久米氏となり、いずれも大和政権の軍事を司ることになる一族である。

また香取神宮の「香取」は、日本書紀では国譲りの段で、「楫取」(かじとり)と記されている、とその書のP114には書かれているように、船と大いに関係があり、「息栖神社イキス」の祭神は「アマノトリフネ」と言う船の神様なのだ、とその書のP86~87には書かれているように、「天孫降臨」とは高天原(鹿島浦近辺)から鹿児島への大航海であったとしても間違いがないものである。

事実、香取神宮にほど近い縄文遺跡の栗山川流域遺跡群から、同時代比較で倍の規模を持つ全長7.45mのムクノキ製の丸木船が出土しているのである(P88~89)。



https://voxy4wd.blogspot.com/2013/02/blog-post_7.html

多古町ウォーキング

昨日は大雪予報が出ていましたが、この地域では雪は降らず雨で終わった一日でした。今日は一転暖かい日になり、たまには違うところでと、二人で多古町ウォーキングをしてきました。車で15分ぐらいの多古町にある道の駅多古に車を置いて、そばを流れる栗山川沿いの遊歩道からスタートしました。

川沿いからたんぼ道へ、そして町の中心区域にあるコミュニテイプラザ内で展示されている「栗山川流域遺跡群出土丸木舟」を見てきました。約5500年前(縄文時代前期末)にこの地域で出土したこの丸木舟は、全長7m45cm 幅64cm~75cm 深さ30cmもあり、ほぼそのままの形で出土した貴重なものだそうです。丸木舟としては最も古いランクに入るようですが、この丸木舟で縄文人が何人も乗って櫂で漕ぎ漁をしていた様子を想像すると、そんな時代にタイムスリップしてみたくなります。遺跡の勉強もしながら、又道の駅多古まで戻った約1時間半の多古町ウォーキングでした。

『私の一年365日』 より、借用した。
私の一年365日: 多古町ウォーキング (https://voxy4wd.blogspot.com/2013/02/blog-post_7.html)
(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(39)

2022-08-26 00:00:00 | Weblog

アマ(メ)ノトリフネ」の神は、「鳥之石楠船神」(とりのいわくすふねのかみ)と言われている神で、古事記の「伊邪那岐」之神と「伊邪那美」之神が生んだ35柱の神々の中の一柱の神様です。

鳥が飛ぶように早い、固い楠材でつくった船の神で、神の乗る船をつかさどる神、或いは船そのものだと、その書のP86~87には書かれているが、この船の神はかなりの活躍をした神で、「国譲り」の際には武御雷神・タケミカヅチの神に随行し国譲りを成功させている。

縄文・弥生時代には、船は主要な唯一の移動手段だったのです。

縄文時代の中期には、伊豆諸島の神津島から黒曜石が船で盛んに伊豆半島まで運ばれていた。それほど船は頻繁に使われていたものである。

と言うよりもホモ・サピエンス達が旧石器時代に日本列島に渡ってきたときには、海を渡って来たのである。だから、当然航海術を、彼らはわきまえていたことになる。当然それよりも後の時代の縄文時代にも、縄文人たちは航海術をわきまえていたものである。

この時代、縄文や弥生の時代には、船や航海をつかさどる神様が居て当然なのである。

詳しくは小生のブログ「日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(51) (59)」 (2020.10.06、10.16)などを参照されるとよい。


その小生のブログの(59)2020.10.16)の一節を次に掲載しておく。

・・・・・
さて10月06日のNO.51で、ホモ・サピエンスの日本への渡航ルートを次のように示している。
(1) 対馬ルート、朝鮮半島から対馬を経て北九州へ渡るルート。航海術が必要。

(2) 沖縄ルート、台湾から琉球列島を北上するルート。これも航海術が必要。

(3) 北海道ルート、シベリア大陸からサハリン、北海道と南下するルート、全て陸上ルートであるが、北海道から本州島へは航海術が必要となる。

このうち古本州島に直接渡ってくるルートは、(1)の対馬ルートである。

しかも古本州島には、3万8000年~3万年前の遺跡442も存在していると記録されていることからも、日本列島への最初の渡来ルートはこの(1) 対馬ルートであろう。

しかもこの3万8000年前の対馬の両側には、約40kmほどの海が存在していた。このことは既に述べておいたが、そのため、日本列島へ渡ってくるには、船が必要だったことになる。船と言っても一人や二人乗りの簡単なものではなさそうだ。当時としてはそれなりに、民族の大移動だったのではないのかな。

彼らは優秀な航海者だった訳だ。

伊豆七島の神津島と当時は陸続きであった恩馳(おんばせ)島から、黒曜石を調達していたことが知られている。

3万8000年~3万7000年前の静岡県の井出丸山遺跡、からは神津島で採取された黒曜石が見つかっている。この事からも彼らが、後期旧石器時代から、優秀な航海者であったことが分かる。この神津島(恩馳島)産の黒曜石は、東京都や神奈川県の遺跡からも数多く出土していると言う(P139)。・・・・・

(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(38)

2022-08-25 00:00:00 | Weblog

上の地図によると、薩摩半島の西の出っ張りに「笠沙崎」と言う地名がある。これが古事記に言う「笠沙の御崎」である。当然韓国Koreaなんぞが近くにあるわけではなく、ここは不毛の「空国」なのである。

古事記によれば、日向の高千穂のくじふる峰に降りて
からこの「笠沙の御崎」まで来たことになる。かなりの距離である。


それにもまして、高天原(関東地方・茨城県)から九州の高千穂の峰までの方が相当遠い距離となる。どのようにして移動してきたのであろうか、と言う疑問が湧いて来るものである。

高天原から一足飛びに九州が舞台となってしまっている。出雲と言い、高千穂と言い、高天原からは相当遠い所となる。

何故このような遠い所に、敢えて、ゆく必要があったのであろうか。

これこそが大陸から侵略されかねないという、危機意識のなせる業なのである。西日本が危ない、と言う国際感覚が強かったということである。

だから、邇邇芸命の天降りの様子は先にも挙げておいたが、古事記には次のように表現されている。

彼ここに天の日子番(ホ)の邇邇芸命、天の石位(イハクラ)を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、陵威(イツノ、勢いよく)道(チ)別(ワ)き道別きて、天の浮橋に、浮きじまり、反り立たして、筑紫の日向の高千穂のくじふる峰に天降りましき。

(そして天の忍穂の耳の命と天久米命の二人が大刀や弓を持って先導した。)

・・・  』

古事記~天孫降臨 原文対訳 - 古典を読む (jimdofree.com)
https://classicstudies.jimdofree.com/古事記/上巻-第五部/天孫降臨/)

によれば、現代語訳は次の通り。武田祐吉氏による現代語訳としている。

そこでアマツヒコホノ邇邇芸命に仰せになって、天上の御座を離れ、八重立つ雲を押し分けて、勢いよく道を押し分け、天からの階段によって、下の世界に浮洲があり、それにお立ちになって、遂に筑紫の東方なる高千穂の尊い峰にお降り申さしめました。

と訳されている。

これによると明かに、天・空から下界に降る様を読んでいる。

しかしながら先にも言及しておいたが、高天原は関東地方で、今の「鹿嶋市」や「香取市」の近辺で、利根川や霞ケ浦の下流域で鹿島浦に近接している地域が、その中心地であったわけで、海上交通の要衝でもあったようだ。

だから、田中英道著「天孫降臨とはなんであったか」(勉誠出版)では、このことを次のように書かれている。


・・・天の浮橋に、浮きじまり、反り立たして、・・・』の天アマ(メ)・は「」ではなくて「」のアマである、としている。

そうすると、「天の浮橋」は、「海の浮橋」となり、上記の霞ケ浦の下流域の状況とうまくマッチすることになる。

その書(P86)には次のように書かれています。

ですから、この部分は「海の浮橋を渡ると、浮島があり、そこにまっすぐに立って行って」とすることが出来ます。そう考えると、いよいよ現実的な実態が見えてきます。

海と言うと、その交通手段は「」と言うことになりますが、船と言うと、鹿島神宮の南、香取神宮の東には、「息栖神社(イキス)」があります。この神社の祭神は「アマノトリフネ」と言う船の神様なのです、とその書のP86~87には書かれています。
(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(37)

2022-08-24 00:00:00 | Weblog


その前に邇邇芸命が天孫降臨を次のように記して(2018.10.01,NO.35)、韓国はKoreaの韓国ではない、と記した。


かれここに天の日子番ひこほの邇邇芸ににぎの命、天の岩位いわくらを離れ、天の八重多那雲を押し分けて、稜威いつの道わき道別きて、天の浮橋に、浮きじまり、そりたたして竺紫つくしの日向ひむかの高千穂の霊じふる峰たけに天降あもりましき。
・・・・・・・・
ここに詔たまわく、「此地ここは韓国に向ひ笠沙の御前みさきにま来通りて、朝日の直ただ刺す国、夕日の日照ひてる国なり。かれ此地ここぞいと吉き地ところ」と詔りたまいて、底つ岩根に宮柱太しり、高天の原に氷椽ひぎ高しりてましましき。



ここでもう一度、韓国(からくに)がKoreaの馬韓国ではないことを記したいと思う。

これも「先の書」の126頁からその解説があるので、説明してみよう。

ここは韓国に向かい、笠沙の御崎に真っ直ぐに道が通じていて、朝日のまともに指す国であり、夕日の明るく照る国である。ここは真に良い所だ。」が、その口語訳であるがどうも韓国の意味が解らなかった。

先の書では、日本書紀を引用して次のように述べている。

日向の襲の高千穂の峰にお降りになった」、「痩せた不毛の地を丘続きに歩かれ、良い国を求めて吾田国の長屋の笠沙御崎にお付きになった

日本書紀にはこのように書かれているとしている。即ち「韓国」は「痩せた不毛の地」なのである。

更には(岩波の日本書紀には)「そ宍シシ空国を、頓丘ヒタオから国まぎ行去トワりて」と書いてある、と言う。

その意味は「もともと少ない背中の骨の周りの肉すらないような、荒れて痩せた不毛の地をずっと丘続きに良い国を求めて歩かれて」と言う事であった。

火山灰土のシラス台地は農地に適さない何もできない「カラの国」と言う意味なのであり、そのため「邇邇芸命は笠沙御崎に行った」のである。

この古事記の「韓国」とは「空国むなくに」がもともとの意味(字)であり、「空」を「むな→から」と呼んだ結果、いつの間にか「からくに韓国」と当て字されていってしまったのである。と当時に「韓国岳」は「空国岳」がもともとの意味(漢字)であり、「不毛の土地にある山」という意味が本来のものである。

北九州の向かいに朝鮮半島があり、現代では韓国が存在しているので、その韓国と向き合っているとあさはかにも理解してしまったものと思われる。

当時は朝鮮半島の南岸には韓国は存在していなかった。狗邪韓国と言う倭人の国がが存在していたのであるから、このことは以前にも述べておいたのでご承知のことと思うが、「韓国」とはKoreaではなくて「からくに空国」が正解であり、これだと正しく意味が通ずるのである。

まあ、丁度今の韓国はまさに「からくに空国」であるので、その昔からKoreaのことを「空国からくに」とはよく言い当てたものである、とは言い過ぎでもなかろう。


次に神武関連の九州地図を掲げる。




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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(36)

2022-08-23 00:00:00 | Weblog

太陽神である天照大神と日高見国のリーダーである高御産巣神タカミムスヒノカミ の関係は、邪馬台国の「卑弥呼」とその「男弟」の関係に、なんとなく似ているように小生には感ずるものであるが、

それはともかくとして、ニニギノミコトは天降ってゆくと「天の八衢(やちまた、八つ辻)」で、猿田毘古(さるだひこ)が守っているので通れずにいる。天照大神とタカミムスビの神は、あの天の岩戸から天照大御神を誘い出すのに成功した天の宇受売(ウズメ)の命を派遣して、事なきを得る。

こうして安全が確認されたので、


ここに天児屋(アメノコヤネ)命、布刀玉(フトダマ)命、天宇受売(ウズメ)命、伊斯許理度売(イシコリドメ)命、玉祖(タマノオヤ)命、併せて五伴の緒オをあかち加えへて天降らしめたまいき。
ここにその招おぎし八尺珥勾玉(ヤサカニノマガタマ)、(八咫)鏡草薙剣また常世思金神、手力男(タジカラノオ)神、天岩門別を添え賜ひて詔りたまはくは、「これの鏡は、もはら我が御魂として、吾が御前を猅いつくがごと(ヌカズクガゴトク)、斎祀(イノリマツ)れ。次に思金神は、御前(ミコタチノ)の事を取り持ちて、政(マツリゴト)をしたまへ」とのりたまひき。



このお供の五部族は、夫々

中臣連ナカトミノムラジ(天児屋命)
忌部首オインベノビト(布刀玉命)
猿女君サルメノキミ(天宇受売命)
作鏡連カガミツクリノムラジ(伊斯許理度売命)
玉祖連タマオヤノムラジ(玉祖命)

の祖神となっている。

この五柱の神のほかにも三柱の神が共に天降りされているが、いずれも天の岩屋で活躍されていた神々達である。この三柱の神は、五十鈴の宮(伊勢神宮)に祀られている。

そして「三種の神器」と言い、「八咫鏡を自分(天照大御神)と思って祭祀を執り行え」と言ったご指示は、日高見国が「祭祀を中心とした国」であることを示し、法律を作り軍隊を持って国を治めるという趣旨の国ではまだなかったことを示している、とその書の83頁には書かれているが、これこそ「日高見国」の縄文時代のことを背景としていることであることをしっかりと示しているものであろう。

三種の神器の現在の所在場所は次の通りである。

八尺珥勾玉(ヤサカニノマガタマ)、皇居御所 剣璽野の間

(八咫)鏡、伊勢神宮内宮

草薙剣、熱田神宮




このようにニニギノミコトは天照大神の孫であり、日高見国の統治者の地位にあり、更には西日本も統治することを意図したもので、日ノ本の正当な統治者であることを表現したものである。ニニギノミコトの四代目、アマテラスからは五代目の「神日本磐余彦尊」(かむやまといわれひこのみこと)、神武天皇の統治の正当性を形作ってゆくことになるのである、とその書のP85には書かれている。


先に猿田毘古(さるだひこ)と天宇受売(ウズメ)命のやり取りを述べたが、その時に猿田毘古が、ニニギノミコトたちがの行く先を「筑紫の日向の高千穂の槵触峰」 (つくしのひむかのたかちほのくしふるたけ、霊力ある尊い峰)と伝えている。


彼ここに天の日子番(ホ)の邇邇芸命、天の石位(イハクラ)を離れ、天の八重多那雲を押し分けて、陵威(イツノ、勢いよく)道(チ)別(ワ)き道別きて、天の浮橋に、浮きじまり、反り立たして、筑紫の日向の高千穂のくじふる峰に天降りましき。

(そして天の忍穂の耳の命と天久米命の二人が大刀や弓を持って先導した。)

ここに詔(ノ)りたまはく、「此地は空国(カラクニ)に向ひ笠沙の御崎にま来通りて、朝日の直刺す国、夕日の日照国なり。かれ此地いと吉き地」と詔りたまひて、底つ岩根に宮柱太しり、高天の原に氷ぎ(千木の事)高しりてましましき。

ここに仰せになるには、「ここは痩せた所なので更に笠沙の岬まで来た。ここは朝日も夕日もよく照るところで、よい所だ」と仰せになり、地に石の土台を作り立派な柱を立て千木を高く上げて宮殿を建てた。)と言ったところか。


上記のものは、下記のURLを参考にしているが、
https://classicstudies.jimdofree.com/古事記/上巻-第五部/天孫降臨/
カラクニは、「韓国」となっているが韓国Koreaでは話が合わないので「空国」とした。

この件は小生のブログ「邪馬台国とはなんぞや?(57)」(2018.10.31)などを参照されるとよいが、次に念の為そのNO.57を載せておく。。
(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(35)

2022-08-22 00:00:00 | Weblog

「天孫降臨」の事の次第は、「古事記」によれば次の通りである。
田中英道著「天孫降臨とはなんであったか」(勉誠出版)のP73~74による。


ここに天照大御神高木の神の命もちて、太子正勝吾勝勝速日天の忍穂耳の命に詔りたまはく、「今葦原の中つ国を平けをへぬと白す。かれ言よさし賜へるまにまに、降りまして知らしめせ」とのりたまひき。


(現代語訳)
そこで天照大御神、高木の神のお言葉で、太子正勝吾勝勝速日天の忍穂耳の命に仰せになるには、「今葦原の中つ国は平定し終わったと申すことである。それ故、申しつけたとおりに降って行って治めなさるがよい。」と仰せになりました。

(注1)
高木の神とは、高御産巣神タカミムスヒノカミ で、「天地初発之時」にその高天原に成り出でた三柱の神の二柱目の神のことである。呼び名が変わっている。
(注2)
太子(ひつぎのみこ)正勝吾勝勝速日(まさかあかつかちはやひ)天の忍穂耳の命(あめのおしほみみのみこと)は、アマテラスとスサノオのウケヒにて生まれた五柱の神の一柱である。アマテラスの勾玉などをスサノオがかみ砕いて吹き捨てた息の中から生まれた神なので、一応アマテラスの長男と言うことになっている。


これは当ブログのNO.28、'22.8.10 で述べた「宇気比ウケヒにて子を生みましょう」とアマテラスとスサノオが、天の安の河原で「邪(ヨコシマ)
な心」のあるなしを神に判断してもらう時に作り出した神である。


天孫降臨」とある様に、天の忍穂の耳の命が降臨するのであれば、天孫ではなくて「天子降臨」となるのであるが、実際には、天の忍穂の耳の命の子を降ろしたいと申し上げたのである。母は高御産巣神タカミムスヒノカミ の娘の萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめ)である。

先にも言及しておいたが、タカミムスビは高天原の政治的なリーダー、トップに位置する人物であり、天照大神に次ぐような家柄であったものと思われる。


今までの古事記の神話の話の中では、「国譲り神話」については詳しくは述べてはいないのであるが、出雲系の勢力圏は「信濃の国の諏訪の湖」まで広がっており、そのあたりが高天原系勢力と出雲系勢力の境界であったようで、高御産巣神タカミムスヒノカミ により派遣された武御雷神タケミカズチノカミ が大国主命の子・タケミナカタを降参させたのが「信濃の国の諏訪の湖」であったと言うことで、関西や安芸、山口、四国・九州などは「葦原の中つ国」には含まれていなかったのではないのかな。だから、「神武東征」の話が成り立つのであろう。

そのため「今葦原の中つ国は平定し終わったと申すことである。それ故、申しつけたとおりに「日高見国以西の国を平らげるために」降って行って治めなさるがよい。」という意味であるとその書のP77には書かれているので、「天孫降臨」には、重大な意味があったのである。

単に、今ある「日高見国」を統治しなさいよ、と言う意味ではなかったのである。

これには中国の戦国時代が始まった紀元前五世紀から紀元前221年の秦の始皇帝の統一、紀元前206年の漢王朝の成立と、日本への影響は計り知れないものがあったはずである。中国の拡大政策のため、周辺諸国は相当脅威を感じていたはずである(P78~80)。

日高見国も、その状況は難民などからも情報入手していたからこそ、西日本が危ないと危機感を募らせたのであろう。

だから、太陽神である天照大神の子供の天の忍穂耳の命に、リーダーである高御産巣神タカミムスヒノカミ が(西日本平定のために)降臨を命じたのである。

そして実際に「降臨」したのは、天の忍穂耳の命高御産巣神タカミムスヒノカミ の娘の萬幡豊秋津師比売命(よろずはたとよあきつしひめ)の間にできた瓊瓊杵尊(邇邇芸命、ニニギノミコト)を降臨させることになったのである。
(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(34)

2022-08-19 00:00:00 | Weblog

もちろん「高天原」とされる関東地方、なかんずく常陸の国を中心にたくさんの旧石器時代の遺跡は存在している。その書のP50には、「常陸伏見遺跡」他2、3の遺跡の名前が載っている。

先に指摘しておいた「鹿島神宮」や「香取神宮」のある辺りは、この高天原の中心地であったのではないのかな。

小生のイメージとしては、常陸の国から東京湾岸一帯が「高天原」であったものと想像している。そして「葦原の中つ国」は、中部、北陸、関東甲信越、東北の各地方を網羅していたものと思われる。いわゆる東日本である。

ついでに言うと、この日高見の国と大和地方が一体となり、日本国となりやがては九州(倭国、邪馬台国など)も併合されていったものと思っている。

その過程が、天照大神の子である天の忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)と高御産巣日神の娘との間に出来た瓊瓊杵尊(邇邇芸命、ニニギノミコト)を、葦原の中つ国の主として地上に卸す話ではないのか。

いわゆる「天孫降臨」である。


先にも書いておいたが、高御産巣神タカミムスヒノカミ は、国譲りの際に出雲の大国主命のもとに、武御雷神タケミカズチノカミ と経津主神フツヌシノカミ を派遣して、見事平和裏に、国譲りを成立させていたものであり、葦原の中つ国は既に天つ神の支配下になっていたのである。

その葦原の中つ国、いわゆる日高見の国を具体化させる動きとなるものであると、小生には思えるのである。

そしてそれと同時に、皇孫スメラミコトの血筋の説明ともなっているのものである。

神社本庁のH.Pageには、次のように書かれている。


天孫降臨は、皇室の御先祖が高天原から天降り、この国を豊かなそして平和に収められていく様子を語り伝えるものです。




天孫降臨


天照大御神さまは、孫の瓊々杵命ににぎのみことに三種の神器さんしゅのしんきである八咫の鏡やたのかがみ・八坂瓊曲玉やさかにのまがたま・草薙剣くさなぎのつるぎを授け、豊葦原水穂国とよあしはらのみずほのくにを高天原たかまのはらのようにすばらしい国にするため、天降るように命じました。

さっそく瓊々杵命が高天原に住む天神あまつかみを伴って天降ろうとされると、あやしい光を放つ神さまがいました。

天照大御神さまは不思議に思われ、天宇受売命あめのうずめのみことという女の神さまを遣わしてどうしてそこにいるのかを問わせました。

その神さまの名は猿田彦神さるたひこのかみといい、瓊々杵命が高天原から天降られることを聞き、お迎えにあがったのだと答えました。

そこで瓊々杵命は猿田彦神を先導に、いくえにも重なった雲を押し分け押し分け、日向の高千穂の地に天降られました。

そしてそこに立派な宮殿をお建てになられました。

ある時瓊々杵命は、それは美しい乙女に出会いました。

大山津見神おおやまつみのかみの娘、木花咲耶比売このはなさくやひめでした。

ところが、木花咲耶比売は一夜にしてみごもられました。

命は比売が他の神の児をみごもったと疑いました。

そこで比売は身の潔白さを示すため、戸が一つもない産屋を作り、その中で児を産むことにしました。

もしお腹の児が命の子供でないならば、焼け死ぬであろうといって産屋に火を放ちました。

火はみるまに産屋をつつみましたが、その燃え上がった炎の中で、不思議にも比売は三人の児を生みました。

疑いも晴れ、瓊々杵命と木花咲耶比売は、末永く高千穂の宮で暮らしました。

神話 天孫降臨について

天孫降臨は、皇室の御先祖が高天原から天降り、この国を豊かにそして平和に治められていく様子を語り伝えるものです。

瓊々杵命は天照大御神さまより、高天原の稲を授かり、豊葦原水穂国の人々の食物とするように命じられました。

この神話を私達の祖先は稲作の起源として語り継いできました。
ここからも稲が日本人にとっていかに大切で、神聖な食物であったのかを理解できましょう。

https://www.jinjahoncho.or.jp/shinto/shinwa/story7


と言ったところが、「天孫降臨」のあらましであるが、今少し詳しく経過を追ってみたい。
(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(33)

2022-08-18 00:00:00 | Weblog

実際に、富士山麓に縄文や弥生の連続した遺跡が、見つかっているのであろうか。不勉強ながら小生は、そのような話はそれほどはっきりと聞いたことはないのである。だから高天原の神域としての象徴として、富士山を指定するのであれば納得は出来るのであるが、高天原そのものが富士山麓にあるとすることには、かなりの違和感を感ずるものである。

縄文や弥生の遺跡が多数存在する関東地方こそが、葦原の中つ国こと大八洲国を統治するにふさわしい場所ではなかったのかな、と思うのである。

事実、群馬県のみどり市笠懸街阿左美地内の丘陵の切通しの関東ローム層から、民間の考古学者の「相沢忠洋氏」によって旧石器時代の石器が発見されることによって、日本にも土器を伴わない石器だけの縄文時代よりも古い文化が存在することが証明されたのであるが、その後発掘調査の結果それらの石器群は、約3.5万年前と約2.5万年前のものと判明したのである。

これらを、岩宿Ⅰ石器文化、岩宿Ⅱ石器文化と呼び、岩宿には長い間旧石器時代・先土器時代が続いていたことが分かってきたのである。

その後も続々と旧石器時代の遺跡が発見され、100人程度の集落跡とされる「環状ブロック群」なども発見され、関東地方には石器時代からホモサピエンスが、それなりに定住生活を送っていたのである。

日本では後期旧石器時代の遺跡が、2010年の集計で1万150遺跡存在していると(P50には)書かれているが、日本列島には相当古い時代から人間が住み着いていたのである。ちなみに朝鮮半島では旧石器時代の遺跡は50程度しか見つかっていないので、ホモサピエンスが日本にやってきた主要なルートは、多分北からと南からであったのではなないのかな。

事程左様に、関東地方では古くからホモサピエンス・人間が住み着いていたわけで、高天原には相応しい地域である、と小生は想像しているものである。そもそも、ホモサピエンスたちは太陽の昇るところを目指して日本にたどり着いたのであるから。

ここら辺の事情は、小生のブログ「日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(30~33)」(2020.9.7~10)などを参照願う。


高天原・関東地方からはかなり離れるが、青森県の三内丸山遺跡はWikipediaによれば、約5900~4200年前の大規模集落遺跡で、縄文時代前期中頃から中期末葉のものであるとされている。

この遺跡は「北海道・北東北の縄文遺跡群」として、2021年7月にユネスコの世界文化遺産に登録されているが、これは世界四大文明と同じ時期の文明であり(P25)、そんな意味で、世界五大文明としても良いほどのものである。

また秋田県角館市の「大湯環状列石」は、縄文時代の(中期から)後期の4,000年前の遺跡であり、万座遺跡の環状列石は最大径52m(又は46m)で国内最大のストーンサークルである。野中堂環状列石は直径44mであり、祭祀遺跡、多分他の類似遺跡から推定すると墳墓ではないかと推定されている。
(https://jomon-japan.jp/learn/jomon-sites/oyu)

そして、そのそれぞれに日時計状の組石が存在している。


日時計状組石(野中堂環状列石) 縄文時代後期・4000年前
(https://jomon-japan.jp/learn/jomon-sites/oyu)



IMG_0107日時計状組石1104(レプリカ)
(続く)
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