しかし話は戻るが、日露和親条約が締結される10か月前には、すでに日米和親条約が締結されていたのである。平和的に交渉していたロシアに対して、米国は威圧的に交渉を行い、日米和親条約は1854年3月31日(嘉永7年3月3日)に結ばれている。この結果「日本は外圧に弱い」との印象をロシアに与えてしまったことになる。「ロシア破れたり」のP18にはそのように書かれている。
尚ロシアとの条約交渉が始まった直後に、安政東海地震が発生して、ロシアの交渉団を運んで来た船の「ディアナ号」が津波に襲われ擱座してしまい、驚いた江戸幕府は修理すべく手を尽くしたが、結局は回航中に沈没してしまう。
このため幕府は資金の一切を負担して、小型帆船を(ロシア人技師と共に)つくり与えた。これによりロシア団一行はアムール河口のニコラエフスクに上陸し、サンクト・ペテルブルグに帰ることが出来た。
これにより皇帝アレクサンドル二世はいたく感激して、幕府に深甚なる謝意を伝えている。・・・と「ロシア破れたり」のP20には書かれている。
と言った塩梅であったのであるが、ロシア交渉団を率いたのは、
ロシア極東艦隊司令長官 プチャーチン海軍中将
同副将 ポシェット中佐
であったが、ポシェットはその後海軍中将に昇進し、更に1874年(M7)に交通大臣に昇格する。すると直ちに「シベリア鉄道建設計画」を発表したのである。
ウラルからウラジオストクに至る壮大な長距離鉄道計画である、とその書「ロシア破れたり」のP20には書かれている。
「日露が良好な関係を維持し、シベリア鉄道東端のウラジオストクから海路で日本と結べば、ロシアは永年の宿敵イギリスを凌駕し世界一の帝国になれる」と、ポシェットは考えていたのである、とその書のP20には書かれている。
・・・ように、ヨーロッパから東アジア、中国・日本へのルートはスエズ運河経由の海路で結ばれており、当時のイギリスが支配していたので、帝政ロシアとしては、陸路で日本と結べは、イギリスに対抗できる物流を確保できると確信していたのである。
このシベリア鉄道計画にはフランスが興味を示して、ロシアに金融支援をして、1891年(M24)2月に計画は決定され5月より着工された。ウラル側からとウラジオストク側(ウスリー鉄道)からとで工事を開始することとなる。
この計画を担当したのが、蔵相セルゲイ・ウィッテであった。ウィッテは金融政策、経済政策などをうまく運営して、ロシアの工業化を推進した。日露講和談判のロシア首席代表でもあった。
「ポシェット構想が前提とした日露友好から、日本を敵視するウィッテ構想へ変更した」ことを意味する。・・・とその書のP35には記されている。
その結果、ウスリー鉄道(ウラジオストク→ハバロフスク)は、1897年に完成している。
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そして東清鉄道全線(ハルビン→ウラジオストク)は、1903年7月に完成し
東清鉄道支線(ハルビン→大連・旅順)は、1904年1月に完成する。
いよいよロシアの極東進出が真実味を帯びてきたのであった。
(続く)
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