世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(32)

2010-11-30 10:39:16 | Weblog

海城蓋平と遼陽のほぼ中間地点に位置し、交通の要衝であり清国にとっても重要拠点であった。
蓋平は営口から50km~60kmほど渤海の遼東湾沿いに南下した河口に位置する。海城の攻略は12月1日に第1軍の第3師団に命令が下され、酷寒の凍結した大地に悪戦苦痛するが1894年12月13日に海城を占領することが出来た。しかし蓋平現在の蓋州)には2万の清国兵が健在であったため、海城は背後から攻撃される恐れがあった。そのため乃木中将率いる乃木混成旅団に蓋平を攻めさせ、年が明けた1895年1月10日激戦の末、これを占領し蓋平城に入城することができた。清軍の死者450人、馬匹、小銃、大砲など大量に放棄されていた。日本軍の死者36人、負傷者298人であった。

1894年10月24日に第1軍が鴨緑江を渡河し、九連城(丹東市の一部)を攻略し始めて清国領を占領して以来、11月21日苦難の上第2軍が旅順要塞を陥落させ、そして第1軍が12月13日に海城を平定し、年が明けた1895年1月10日には蓋平を平定し、遼東半島の主要拠点を手中に収めることに成功したのである。残るは、威海衛に立て篭もる北洋艦隊となる。しかし清国は要衝の海城を取り戻そうとしていた。

1月17日、1月22日、2月16日、2月21日、2月27日と5回にわたり、それぞれ1万から2万に及ぶ兵力で清国は海城に攻め込んできたが、そのいずれもがかなりの被害を受け日本軍に撃退された。

さて次は威海衛の攻略である。威海衛には北洋艦隊の残存艦艇が存在し、清国の重要な海軍基地である。そのため、第2軍司令官大山巌大将は、連合艦隊司令部と調整後、12月20日艦砲射撃の援護の下、山東半島の先端に上陸する。そして1月30日、日本軍は戦死54人、負傷152人を出しながらも、威海衛の南岸要塞を占領する。翌日1月31日には北岸要塞も無血占領を果たし、2月2日までにはその他の拠点も制圧し威海衛湾の山東半島の軍事拠点は全て日本側の手に落ち、北洋艦隊を包囲することが出来た。しかし北洋艦隊の残存艦艇はまだ健在で、「定遠」は30cm砲で攻撃を続けていた。そのため陸上からの砲撃では埒(らち)があかず、海軍の応援を得て、1895年2月5日日本海軍は威海衛湾への水雷艇攻撃を敢行し、「定遠」を大破させ、「来遠」「威遠」を撃沈、2月9日には「靖遠」を沈めた。この間日本軍は連合艦隊の艦砲射撃と、占領した砲台からも砲撃を加えた。そのため清の陸兵やお雇い外国人は丁汝昌提督に降伏を求めた。降伏を拒否していた丁汝昌も日本軍の攻撃に対して如何ともし難く、服毒自殺をし定遠艦長、陸兵指揮官も相次いで自決し降伏した。2月15日に降伏調印が行われ、2月17日に、清国陸兵全てが日本軍の前哨線外に解放され、鹵獲艦船から商船「康済号」をはずし、伊東祐亨(すけゆき)連合艦隊司令長官は、最大の礼遇を持って丁汝昌の亡骸を、そして清国海軍将兵1,000余名とお雇い外国人を清国へ送り返した。このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在もフェアプレイ精神の例として日露戦争の上村彦之丞提督と共に各国海軍の教本に掲載されていると言う。丁汝昌の遺骸がジャンク船で運ばれることを聞いた伊東が、商船を開放しそれで運ばせたものであった。連合艦隊の各艦の半旗の中、合砲に送られて丁汝昌の亡骸は威海衛を去っていったのである。また清の将兵を助命したことは当時としては類を見ない厚遇であった。

威海衛の戦い」により、海上からの輸送の安全が確保されたことにより、この酷寒の大地での陸上輸送に頼らなくても良い状況となったが、酷寒での戦いはある意味凄惨を極めた。当時の陸軍はしっかりとした冬季装備と厳寒地での正しい防寒方法を持っていなかった上に、装備も貧弱で軍夫には軍靴は支給されていなかった。兵士もぞうりを履くことが多く凍傷が多発したと言う。その艱難辛苦はいかばかりか。
(続く)
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日韓併合100年(31)

2010-11-29 11:58:46 | Weblog

さて日清戦争はまだまだ続いている。

第2軍が花園口に上陸(10/21)して旅順に迫っている時、1894年10月24日第1軍は先遣部隊が鴨緑紅の渡河を開始し、10月25日早朝本隊も渡河を開始、敵砲台への攻撃を開始した。初めて清国の領土に攻め入ったのである。各陣地での清国軍は頑強な抵抗を示したが、日本軍の攻撃を支えきれずに九連城方面に後退する。九連城(くれんじょう)は、鴨緑江沿いにある町であり、当時清国軍の拠点のひとつとなっていた。今は丹東市の一部になっている。清国はこの鴨緑江沿いに将兵3万人余、大砲90門を配置し、さらに平壌からの敗走兵約1万人ほどが配置されその攻略にはかなりの困難が予想されていた。しかし翌日10月26日早朝攻撃すべく九連城に向かうと、清軍は恐れをなしてすでに逃走していた。そのため日本軍は九連城を無血で制圧し、初めて清国領土を占領することとなった。そしてさらに補給線確保のため鴨緑江の河口付近の要衝を占領する。そして清国軍の撤退を確認し主力部隊の攻撃が中止される。これが『鴨緑江作戦』である。

そしてこの少し前、1894年7月23日日本軍が景福宮を占領し、開化派を中心とした政権を誕生させていた。そして開化派政権は7月27日に改革を司る軍国機務処を設置し、中国の年号の使用中止、科挙や封建的身分制の廃止、奴婢の廃止、人身売買の禁止、そして財政改革等を矢継ぎ早な実施していた。これを『甲午改革』と言い、親日派官僚集団によって行われたが、自発的改革と言うところまでの強い動きとはならずに、結局は戦後になって、三国干渉などによる親露派の勢力に潰されることになる。

そして日清戦争の直接的の口実となった甲午農民戦争東学党の乱)の首謀者の全ホウ準は、1894年10月に『斥倭斥化』(日本も開化も排除)をスローガンに、再度蜂起する。これは親日派政権に対しての大院君(高宗の父)の、ある意味、反乱であった。大院君はひそかに東学の主だったものに密使を送り扇動を命じていた。しかし農民軍は近代的な訓練を受けた日本軍の敵ではなかった。これを東学の『第2次蜂起』と言う。大院君は東学に対して数十万で大挙して漢城を攻め、平壌の清軍と共に南北からに日本軍を挟み撃ちにして、日本軍を駆逐する策であった。このことは1894年9月15日の『平壌の戦い』(11/16,NO.23参照)によって得た多数の書類で証明されている。そのため国王、大院君らはこのことを認めて謝罪するのであるが、ことほど左様に千年否、千五百年属国根性が強い朝鮮だったので、自国民の力では到底開化独立はかなわなかったことであろう。そして日本の保護がなければ、当の昔に中国かロシアの属国に成り下がっていたことであろう。朝鮮の半分は、現在は中国の属国の状態になっていることを見れば、そのことは十分に有り得ることなのである。また、全ホウ準は1895年初頭に囚われの身と成り、漢城(ソウル)で処刑されている。

次に遼寧省の地図を示す。これは次のURLより引用している。
http://beijinging.zening.info/Liaoning/index.htm

1894年10月にはいると講和を仲裁する話が列強の間から出てきた。また11月には清が講和の交渉の申し入れの話もあった。しかし清国側には北洋艦隊はまだ威海衛に現存し、海城方面には兵を増強しつつあった。このため講和条件がすこぶる悪化することを嫌った伊藤博文首相と陸奥宗光外相は海城威海衛の攻略作戦(山東作戦)を決定した。
(続く)
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日韓併合100年(30)

2010-11-26 10:13:48 | Weblog
アメリカの新聞に掲載された内容は以下の通り。

1. 清兵は軍服を脱ぎ捨て逃亡
2. 旅順において殺害された者は、大部分上記の軍服を脱いだ兵士であった。
3. 住民は交戦前に逃亡していた。
4. 逃亡しなかった者は、清から交戦するように命令されていた。
5. 日本軍兵士は捕虜となった後、残虐な仕打ちを受け、それを見知った者が激高した。
6. 日本側は軍紀を守っていた。
7. クリールマン以外の外国人記者達は、彼の報道内容に驚いている。
8. 旅順が陥落した際捕らえた清兵の捕虜355名は丁重に扱われ、二三日のうちに東京へつれてこられることになっている。



アメリカの新聞には、上記のNO.7を省いたものが1894年12月17日・18日の両日に掲載された。弁明そのものは虐殺があったことを肯定しつつも、やむを得ざる理由があったと述べ、さしたる虐殺はなかったとするものであった。陸奥が直接アメリカの新聞に弁明するというやり方は、アメリカ側から好感を持って迎えられた。・・・・・とWikipediaは述べている。

そして海外の論調も次第にこの旅順虐殺事件のようなものは戦争ではつき物であって、欧米でも例がないわけではないという風に変化していった。そしてアメリカとの条約改正は、翌年1895年2月5日にアメリカ上院で批准され、同時に旅順虐殺事件も終焉していったのである。ちなみに下関条約は、4月17日に締結されている。しかし上記の弁明には、清国兵の日本兵への陵辱の具体的な事実は述べられていない。軍服を脱いだことには当然言及しているが、この身体への陵辱の具体的な事実もしっかりと伝えるべきであったろう。そうすれば世界からの理解はもっと早く得られたものと思う。だから、中国漁船衝突のビデオなどはさっさと公開したらよかったのである。

ちなみに「生きて虜囚の辱めを受けず」と言う戦陣訓は、この旅順での日本兵捕虜の身体への清国兵の陵辱を見た山縣有朋が「このような残虐な仕打ちを受けるなら、捕虜になったら死んだほうがましだ」と慨嘆したと言う。山県有朋はこの戦いを指揮した第一軍の司令官(11/22,NO.26参照)であった。この陵辱された日本兵を見た山県有朋の心境はいかばかりであったことか。この「生きて虜囚の辱めを受けず」をネットで検索してみると、大半のネット記事ではこの事実に言及されていない。その代わり日本軍の悪しき習性のような言い回しが多いことにはびっくりする。こんな馬鹿な不勉強な日本人が多いことに驚くと共に、日本の先達を冒涜していることに怒りを感じ日本の先行きの暗さに慨嘆せざるを得ない。この山県有朋の慨嘆は、小生のブログ'07.10.3北京オリンピック(5/6)」でも言及しているので、是非参照願いたい。中国人のチベットやウィグルへの残虐な仕打ちを見るに付け、この手の中国人の行為は中国人の本性から出ているものであろう。なんといっても中国人は自分の子供を殺してその肉で客人をもてなす国柄なのであるから。これも小生のブログ'08.2.17の「中国・虚妄のプロパガンダ(6/8)」を参照願う。

2010年9月7日中国漁船の日本巡視船への体当たり事件の、民主党政権の処理の仕方の拙劣さは、目を覆うばかりである。いかに明治の先達の日本を思う気持ちの重たかったことか。事件の内容を知るにつけ、そのことをつくづくと思い知るのである。この一割でも、菅・仙石にあれば、中国漁船衝突事件も、もっと日本側に利するように使えたのであり、レア・アースの輸出規制などを中国は発動出来なかった筈である。だから菅・仙石のような輩を非国民というのである、本当に頓馬な仙石よ。

(続く)
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日韓併合100年(29)

2010-11-25 10:58:25 | Weblog

中国人の日本人に対するこのような残虐な行為は、この後何度も繰り返されている。

例えば小生のブログの'07.5.8の『中国の対日特殊工作(スパイ)』、'07.5.11の『通州事件』、更には'08.2.15の『中国・虚妄のプロパガンダ』にも概略が記されている。更には中国が宣伝する「南京大虐殺記念館」に関する『でたらめ』は、'07.6.6~6.9の『南京大虐殺の虚構宣伝と胡錦濤の秘密工作に騙されるな』に詳しく記されているので、そちらも参照願う。中国という国は、いくら経済大国となり文化的にも世界一の大国となったなどといっても、相変わらず馬賊・匪賊の習性が抜けきれていない国なのである。というよりも馬賊・匪賊そのものの国なのである。注意するに越したことはない。だからノーベル平和賞などといってもどこ吹く風なのである。それがあの国のあり方なのである。日本はよっぽど自国の安全保障に留意しないと、いつの間にか身ぐるみはがされてしまうことになる。特に民主党政権は、そこらへんのガードが甘いことこの上ない。もっと日本国民は自国の安全保障に留意する必要があるのである。子供手当てなんぞに騙され、丸め込まれて、民主党に投票したことが大いなる間違いのもとだったのである。要は国民もそれ以上に馬鹿だった、ということ。もうひとつ追加すると、原爆を2発落とされたからといって原爆の防御機能そのものまでも拒否してしまうということには、この弱肉強食の世界の中では、日本を(反対に)滅亡に導いてしまうことになる可能性が高い。日本は核武装して中国、ロシアの脅威から自国を守る必要がある、というものである。

しかし中国は何事にも大げさに言い触らす習性があると見えて、被害者を葬った「万忠墓」という墓には「一万八百余名」と記されているという。しかし、各種の証言は次の通り。

・ 有賀長雄『日清戦没国際法論』・・・・・500名
・ 『タイムズ』(1894.11.28)・・・・・200名
・ 『ニューヨーク・ワールド』(1894.12.20)・・・・・2000名
・ フランス人サブアージュ大尉『日清戦史』(1901年)・・・・・1500名


これはWikipediaよりの引用であるが、正確な史料もなく戦死者か虐殺者かの区別もはっきりしないという。日本兵の死体への陵辱された跡を見せ付けられれば、多分誰でも激高したであろうことは理解できるし、しかも市街戦もあり、逃げ隠れた清国兵の掃討時には巻き添えで民間人も犠牲になったこともあろうと推測される。これも清国兵が軍服を脱ぎ便衣兵としてゲリラ戦を仕掛けてきたことから致し方ないことである。中国の言うように「一万八百余名」でなく、「一万八千余名」であれば、それは喜ばしい限りである。この世から中国人が少なくなればなるほど世界は平和となろう。南京大虐殺記念館の30万人も虚構の数字であるように、この数字も白髪三千丈の類の反日プロパガンダの一種なのである。

しかし日本は「不平等条約」の改正を悲願とし、この戦争を「文明戦争」と呼び、清側の態度に関わりなく戦時国際法を絶対遵守することを国内外に宣伝してきていたので、マスコミのこの種の批判に頭を悩ました。日本批判が高まる中、伊藤博文は政府として正式な弁明をすることになり、弁明書を発表した。それは、陸奥宗光により、アメリカの各新聞に掲載された。その内容は次の通り。

(続く)
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日韓併合100年(28)

2010-11-24 11:18:50 | Weblog

旅順は天然の良好で清国屈指の軍港で北洋艦隊の母港でもあった。日清戦争で日本に割譲されたものの、1895年4月23日ロシア、フランス、ドイツの三国が「遼東半島は清国に返還すべし」との勧告により、清国に返還されている。これが三国干渉である。その後ロシアが進出しロシアの租借地とし、ロシア東洋艦隊の根拠地としてロシアの軍港・要塞として堅固な軍事拠点となってしまった。そのため日露戦争では、旅順港攻略に多大な労苦を費やざるを得なかったのである。
ことほど左様にロシアと言う国も、全くもって信用ならざる国である。

現在の旅順は人口21万人の大都市となっているが、日清戦争当時でも大都市であった。推測するに人口10万人くらいの大都市であったであろう。そこを清国は軍港を守るために要塞化していた。その旅順を日本軍は攻めた。日本軍1万5千人、守る清国軍1万3千人1894年11月21日総攻撃を仕掛ける。清国軍の士気は低く堅固と思われた旅順要塞は僅か1日で陥落してしまう。日本側の損害は戦死40名、戦傷241名、行方不明7名。これに対して清国軍の戦死は4,500名、捕虜600名余り。攻略はこの通り問題なかったが1894年11月28日英国の『タイムズ』(The Times)が、次のように報道した、「旅順陥落の翌日から四日間、非戦闘員・婦女・幼児などを日本軍が虐殺した」と。ヨーロッパで国際法を学び法律顧問として日清戦争に従軍していた有賀長雄は、戦闘による巻き添えにより民間人が被害にあったことを示唆したという。小生はこの「翌日から四日間」と言う期間と清国軍1万3千人、戦死4,500名と言う数字に着目したい。更にこの花園口から金州城の戦いの過程では、多くの敗残兵旅順に逃げ込んでいる。だから実際にはこの清国兵は2万を超えていたのではないかと、確信している。だから旅順市街には多くの清国兵が隠れていたものと思われる。この中国清の敗残兵が、旅順に進駐した日本兵を攻撃したことであろう。だから日本軍は中国敗残兵たちと小競り合いをせざるを得なかったのである。その過程で清国民間人が犠牲になったのである。だからこれは日本軍にすれば正当防衛名のであり、何も非難される筋合いのものではない。これを『旅順口虐殺事件』と言われているが、12月12日にアメリカの新聞『ニューヨーク・ワールド』の記者クリールマンが次のように報じたことで問題化した。

日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を大虐殺した。無防備で非武装の住民達が自らの家で殺され、その体は言い表す言葉もないくらいに切り刻まれていた』と。

これは西洋人の白人至上主義という人種差別根性の成せる業であろうと思われるが、日中戦争中に『マンチェスターガーディアン』の上海特派員ハロルド・ティンパーリの『戦争とは何か』も全く同様な作り話であった。彼は国民党中央宣伝部の顧問であった。真実は次の通りである。日中戦争での「南京攻略」時に国民党軍が軍服を脱ぎ「便衣兵」として民間人の振りをして日本軍に襲い掛かり日本人を殺戮した。そのため日本軍は反撃したのである。旅順口虐殺事件は、この事件と同じ構図であろうと確信している。南京の件は、小生のブログ「南京大虐殺の虚構宣伝と胡錦濤の秘密工作に騙されるな」('7.6.6~)や「日中戦争は中国共産党が引き起こしたものだ」('07.7.4~)を参照願いたい。

民間人の振りをした清国兵が殺されたことや巻き添えとなった民間人は存在したであろうが、虐殺と言われる旅順口虐殺事件は実際にはなかったのであるが、中国はこのことをも反日教育に使っている。いくら中国が戦略的互恵関係だとか誤魔化しを言っても、絶対に信用してはならない。

これに類した事例は現在の中国共産党政権にも存在する。今年の2010年9月7日に発生した尖閣諸島での中国漁船の日本巡視船への衝突事件である。中国に非があるにも拘わらず、中国共産党政府は日本政府に対して、何重にもわたる恫喝をしてきたではないか。現在の中国は世界一の暴力装置を有しているため、それを背景とした脅しである。清国はそれほど実力がなかったために、騙しの手練手管を施してきたのである。根底にあるその根性は同じものである。

この『旅順口虐殺事件』の事の興りは、次のような経過を辿っている。

旅順陥落に伴い、第2軍司令部は乃木希典少将率いる歩兵第1師団に市内探索と掃討の任務を命じた。先の『土城子の戦闘』(11/23,NO.27参照)では死者11名、負傷者37名を出す苦戦を強いられたが、その戦闘などでの日本軍戦死傷者の生首が鼻や耳などをそがれた状態で、道路脇の柳や民家の軒先に吊るされていたり、体を切り刻まれて放置されていたのである。中には息のあるうちに切り刻まれた兵士もいたことであろう。これを見た日本軍は、当然激高せざるを得なかった。しかも清国兵は軍服を脱ぎ捨てて「便衣兵」としてに日本兵に歯向かってきた。いわゆるゲリラ戦を挑んできたのである。だから民間人の姿をした清国兵の死体もかなり存在していたのであり、巻き添えで死んでいった民間人も多くいたことは推察に難くない。しかもこの掃討作戦は、旅順要塞への攻撃と連動して行われていた。だから市街戦と攻城戦が平行で行われていたのである。従って旅順市街の掃討作戦中は、市街でも清国兵(や便衣兵)は戦意喪失していいなかったのであり、激しく抵抗してきていたのである。だから市街戦では民間人の犠牲者も数多かったものと思われる。更に戦闘が一段落すると、日本軍は各家ごとに人数を把握し、便衣兵ではないので殺すな、などと茶番とも思われるような貼紙を貼らなければならなかったのである。

(続く)
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日韓併合100年(27)

2010-11-23 11:48:34 | Weblog

日本はなぜこれ程までして清国と戦ったのか。それは朝鮮のために戦ったのである。すべてが日本のためだけではなかったのだ。朝鮮が中国の千年属国のままであれば、当時の世界情勢からして中国(清国)は列強の餌食となり、千年属国の朝鮮はロシアか他の列強の植民地とされ更にその国の奴隷属国になりさがり、日本にも直接その圧力が掛かってくることになってしまう。日本はそのことを心底から心配していたのである。朝鮮がしっかりとした独立国にならなければ、日本の独立も危うい。切羽詰った状況に立たされていたのである。だから当時の日本の為政者は、敢然と朝鮮の独立のために立ち上がったのである。菅・仙石内閣は、頓馬でも、是非勉強してこのことを、理解しなければならない。こういうことを知りもせず理解もせずに、単に「謝罪談話」を出せは「えらい」とか「今風」とか思われるであろうと曲解(きょっかい)している菅・仙石内閣のアホらしさは許せないのである。まことに以て日本を貶めている。

日本が朝鮮のために清国と戦っているのであるから、朝鮮は当然日本に協力しなければならない。1894年(M27年)8月26日に、『大日本大朝鮮両国同盟約』を結んでいる。

内容は「朝鮮を清国の属国から開放するため日朝は協力する」と言うもので、わずか3カ条の盟約である。その内容を以下、意訳して示す。


第1条
 この盟約は清兵を朝鮮国より撤退させて、朝鮮国の独立自主を強固にし、日朝両国の利益を増進することを目的とする。

第2条

 日本国は清国に対し攻守の戦争を遂行し、朝鮮国は日本軍の進退及びその食糧準備に、出来得る限りの便宜を提供すること。

第3条
 この盟約は清国との平和条約が締結されるまで続くものとする。

と言ったところだ。

日清戦争下の日本と朝鮮(3)』 http://f48.aaa.livedoor.jp/~adsawada/siryou/062/resi064.htmlを参照されると良い。

次に「遼東半島」の花園口に位置を示す。これは
『keizai report.com』
http://www3.keizaireport.com/report.php/RID/104431/「海外トピックス」  http://www.fukuoka-fg.com/tyosa/201002/kaigai.pdf
より引用している。



矢印の集まるところが花園口でその先端に大蓮、最先端が旅順である。その旅順の渤海湾に面するところに金州城がある。


さて旅順要塞の攻略は、9月25日に編成された第2軍が実施することとなった。第2軍は海軍と調整し、1894年(M27年)10月21日、花園口に上陸する。花園口は旅順と丹東市を結んで中間点の海岸に位置している。上陸作戦は現地地形に疎く時間を要したが、敵の攻撃もなく上陸を果たす。そして敵を蹴散らしながら遼東半島の先端の旅順に向かう。そして遼東半島の渤海湾側の金州城を攻略し旅順に迫った。金州城は東西600m、南北760mの長方形で、高さ6mのレンガ城壁で囲まれていたが、城門を破壊し攻め入ると敵は浮き足立ち算を乱して逃げ惑う状態となり、11月6日の昼過ぎには完全に金州城は平定されてしまった。多くの清国兵達旅順へ逃げ込んだ。しかしこれで金州城の西南50kmの旅順の攻略への準備が整うこととなった。この花園口上陸から旅順攻略戦では秋山好古少佐引きいる騎兵を中心とした復州街道支隊は、その尖兵として目覚しい働きをしている。しかし11月18日、秋山は全騎兵750名を集め捜索騎兵隊として、水師営西方の高地の偵察に向かい砲6門を持つ6000人の部隊と遭遇し、緒戦だったため士気にかかわるとして敢然と攻撃を開始したが、衆寡敵せず戦死者を出し戦場を離脱せざるを得なかった。この退却劇は「秋山少佐の豪勇」と言われた見事な退却であった。この『土城子の戦闘』は日本軍の敗北であったが、この秋山軍の奮闘に恐れた清国軍は翌日の日本軍の攻撃に内紛を起こし、あっけなく攻略されている。
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日韓併合100年(26)

2010-11-22 00:27:37 | Weblog

大捷とは大勝利のこと、大勝のことである。

日清戦争黄海海戦
http://ww1.m78.com/topix-2/battle%20of%20yalu.html

によれば、旅順港に逃げ込んだ北洋艦隊は陸上から包囲されて威海衛に逃げ帰った。そして日本海軍の水雷艇攻撃と地上からの攻撃により全面降伏させた。

ちなみに定遠は1895年(M28年)2月5日、日本水雷艇の夜襲により雷撃を受け擱座し、砲台として戦闘を継続していたため、9日日本軍は陸上から攻撃した。そのため捕獲を避けるため10日に自沈した。自沈した定遠は翌年引き上げられ、福岡県太宰府市には定遠の艦材を使った「定遠館」と言う記念館が出来ている。そして鎮遠は日本海軍に鹵獲(ろかく、敵の物を分捕る)され日本海軍に編入される。日露戦争の黄海海戦、旅順港攻略戦、日本海海戦にも参加し、1911(M44年)に除籍、解体されている。以上Wikipediaを引用している。

日清戦争 概説2
http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai/kindai-nissin2.html

によれば、清国北洋艦隊は5隻が沈没、6隻が大中破、死傷者1,000名となっている。これに対して日本連合艦隊は、大中破4隻(松島、比叡、赤城、他)、死傷者240名と言う結果だった。

この結果、黄海をはじめ朝鮮近海の制海権日本側が掌中に入れ、日本から朝鮮への戦力の輸送をはじめ我が陸海軍の作戦は極めて有利に進むこととなった。

黄海海戦に勝利した日本軍の次の標的は、旅順要塞の攻略である。そのため1894年(M27年)9月25日第2軍を編成している。司令官は大山巌大将である。ちなみに 成歓の戦いなどを戦った部隊は第1軍で、司令官は山縣有朋大将であった。

第1軍は第3師団と第5師団で構成されていたが、第2軍は第1師団、第2師団、第6師団で構成された。

(続く)
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日韓併合100年(25)

2010-11-19 13:49:19 | Weblog
どらぼた庵』http://kouzuke.s11.xrea.com/
というホームページに『日本のうた講座』というコンテンツがある。そこには「明治維新」「日清戦争」「日露戦争」に関する解説とそれらに関する『日本のうた』が紹介されている。そして「黄河の大捷」はラッパのメロディと共に歌詞も載せられている。是非ご一読願う。

『日本のうた講座』
http://kouzuke.s11.xrea.com/nippon/kouza/kouza.html

『日本のうた講座』の「2時間目、日清戦争」のPart2にこの『黄河の大捷』がある。http://kouzuke.s11.xrea.com/nippon/kouza/kouza22.html

是非ご一読願う。

なお御歌と曲だけなら次のホームページ『黄河の大捷』を参照すれば直接見られる。
http://www.d1.dion.ne.jp/~j_kihira/band/midi/kokai.html

念のため歌詞を下記する。


『黄河の大捷』

明治天皇 御歌
作曲:田中 穂積
著作権:消滅(詞・曲)

一、
頃は菊月半ば過ぎ
我が帝国の艦隊は
大同江(たいどうこう)を艦出(ふなで)して
敵の在処(ありか)を探りつつ

二、
目指す所は大孤山(たいこさん)
波を蹴立てて行く路(みち)に
海羊島のほとりにて
彼の北洋の艦隊を

三、
見るより早く開戦し
あるいは沈め又は焼く
我が砲撃に彼の艦(ふね)は
跡(あと)白波と消え失せり

四、
忠勇義烈の戦(たたかい)に
敵の気勢を打ちひしぎ
我が日の旗を黄海の
波路(なみじ)に高く輝かし

五、
いさおをなして勇ましく
各艦共に挙げ競う
凱歌は四方(よも)に響きけり
凱歌は四方に響きけり

明治二十七年九月十七日
広島大本営にて

……明治27年9月17日、清の北洋艦隊を撃破した「黄海海戦」は、
日本全国に大きな喜びをもたらした。当時広島の大本営にあった
明治天皇までが、この詩を発表したほどである。

(続く)
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日韓併合100年(24)

2010-11-18 11:53:09 | Weblog
日本は朝鮮への兵員や物資の輸送のため制海権の確保に躍起となっていた。と言うのも清国の北洋艦隊は持久戦を狙い戦力の温存をはかって、なかなか威海衛から黄海へ出てこなかったからだ。

威海衛は山東半島の先端に位置し、渤海海峡に面しており、丁汝昌率いる北洋艦隊の母港である。1898年にはイギリスの租借地と成るが、イギリスの東洋艦隊の基地としての不適切(湾口が広すぎる、後背地がない)なために重要視されなかった。

しかし平壌の戦いの翌日1894年9月16日の夜中1時頃、陸兵4000人の輸送船団を護衛して、北洋艦隊が朝鮮平壌に向かった。9月17日任務を終え鴨緑江河口付近にいた北洋艦隊と、索敵中の連合艦隊は夫々の煙でお互いを発見する。北洋艦隊は横列陣をとり、連合艦隊は単縦陣で激突する。北洋艦隊は船首に設けた衝角(しょうかく、船首を敵の船腹にぶつけて突き刺すもの)を、日本艦の横腹にぶつける戦法を取った。しかし日本連合艦隊は速力に勝り、しかもより速い巡洋艦4隻、「吉野」、「浪速」、「高千穂」、「秋津島」の第一遊撃隊(坪井航三司令長官)が先行し、伊藤すけゆき連合艦隊司令長官の本体6隻(「松島」「厳島」「橋立」「扶桑」「千代田」「比叡」)が続き、速力が勝ったため接近戦とはならず、完全な艦隊同士の砲撃戦となった。このほかに赤城(623t)西京丸(木造船4100t)が通報艦として参加した。連合艦隊では三景艦の4278tが最大の艦であった。

これに対して清国北洋艦隊は、戦艦2隻「定遠」「鎮遠」(7335t)、「来遠」「経遠」(2900t)、「靖遠」「致遠」「済遠」(2300t)、「平遠」(2100t)、「超勇」「揚威」「広甲」「広丙」(1350t~1000t)のお互い12隻の軍艦が接近していった。そして距離5,800mで定遠の30cm砲が火を噴いた。ここに「黄海開戦」の火蓋が斬って落とされた。

日本艦隊は遊撃隊と本隊とに分かれ、高速を利用して北洋艦隊を挟み込む戦法を取り、北洋艦隊を追い詰めていった。そして戦闘開始30分で「超勇」「揚威」が沈没し、「済遠」が旅順に遁走してしまった。そして「致遠」も沈没する。日本本隊の旗艦「松島」も戦艦「定遠」「鎮遠」2隻に集中砲火を浴び、速射砲の大半が破壊された。そのうちに「経遠」が炎上、沈没そして「広丙」も沈没し、「定遠」「鎮遠」も多数の被弾を受けその戦闘能力を奪われていた。そして日没にまぎれて北洋艦隊は旅順港に逃げ込み黄海海戦は終了する。日本連合艦隊は、旗艦巡洋艦「松島」、巡洋艦「比叡」、仮想巡洋艦「西京丸」砲艦「赤城」の4隻が大破している。

黄海開戦鴨緑江海戦とも言う)はかろうじて日本軍の勝利に終わるも、日本連合艦隊の旗艦「松島」が大破したため追撃戦を断念している。「松島」の3等水兵の三浦虎次郎が「鎮遠」の砲撃に重症を負うも、「いまだ沈まずや定遠は」と戦況を心配したという。これは軍歌『勇敢なる水兵』に一節である。そして明治天皇御自ら『黄河の大捷』という詞を残している。
(続く)
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日韓併合100年(23)

2010-11-16 00:37:14 | Weblog
その内容は、小生の独断と偏見で以下に概略してみる。

『朝鮮国の内乱はその内政に起因している。よってわが国は朝鮮の内政を改良してその根源を根絶させたい。それを実行するには朝鮮との関係が深い貴国(清国のこと)とわが国が共に協力する必要がある。これを貴国に提案するも、これを却下している。その代わりわが国の兵の撤退を促すだけであった。更に英国公使が好意で両国意見が一致するように提案されても、それを意に介さずにただわが国の撤兵を主張するのみ。貴国は事を好んでいると思わざるを得ない。今後生ずる如何なることも、わが国の責任ではなく貴国の責任となろう。』

これがいわゆる清国に対するわが国の最後通牒なのである。

そして7月19日には、次のように『本日より五日間を以て正式案を出さなければ、どうなっても知らないぞ。且つ清国より増兵を派遣することは、日本国はこれを威嚇の処置と看做す。』と伝えているので、その五日間とは7月19日から7月24日までの間なので、7月25日の高陞号の撃沈は紛れもなくすでに戦争中のことなのであった。ちなみに19日に日本大本営は連合艦隊を編成している。(1)を参照のこと。

なお上記の(18)項では『脅迫』としているが、(19)では『威嚇』と表現している。この違いはどちらが正しいか分からないが、どちらにしても意味は同じである。

(20)かくして日清戦争は開始されたのである。


ちなみに7月14日の日本の最後通牒に接した李鴻章は牙山の清軍に平壌への海路撤退を命じたが、それが困難なため増援のために派遣した清国兵の一部を乗せていたのが高陞号であった。
この豊島沖海戦が海上での日清戦争の最初の主要な戦いであったが、その陸戦は『成歓の戦い』(せいかんのたたかい)であった。またの呼び名を牙山の戦いと言い、この牙山こそ高陞号が清国兵を運び込もうとした先なのでであった。

東学党の乱を鎮めるために朝鮮より援軍を求められた清国は、6月8日にはすでに歩兵2,500名、山砲8門を牙山に上陸させ、総勢3,880名になっていた。1894年7月28日牙山を攻めるべく出発した日本軍のうち、混成第9旅団歩兵第21連隊は翌早朝3時20分に待ち伏せ攻撃を受け松崎直臣大尉他が戦死し、日本軍最初の戦死者となる。ラッパ手木口小平二等卒も敵の銃弾に倒れ、死んでもラッパを放さなかった(と言う逸話が伝えられている)。これは「安城の渡しの戦い」である。清軍は戦闘には不利と判断し牙山より東北東18kmの有利な成歓駅周辺に主力部隊を配置していたが、日本軍は7月29日深夜左右から攻撃を仕掛け午前8時過ぎには敵拠点を制圧し、程なく牙山も占拠する。日本軍戦死者88人、清国軍死者500人前後と言う。

1894年8月、清国軍は平壌(ピョンヤン)に1万2千名の兵を終結させていた。そのため日本軍混成第9旅団は9月15日に攻撃を開始した。午後遅く平壌城に白旗が上がる。しかし清国軍は休戦の前に、傷病兵を置き去りにして逃亡してしまった。これが『平壌の戦い』である。
(続く)
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