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世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(184)

2011-10-30 03:21:30 | Weblog

よくぞ言ってくれた(http://www.tamanegiya.com/nonbee15.5.html)
5月31日土曜日雨 ×××
http://www.sankei.co.jp/news/030601/0601sei002.htm

 自民党の麻生太郎政調会長は今日の東大・五月祭での講演で、支那や朝鮮から批判される歴史認識問題について「歴史認識を一緒にしようと言っても、隣の国と一緒になるわけがない」と述べ、根本的解決は困難との見方を示したそうです。自国の英雄が、隣の国にとったら大悪人という事はよくある話です。チンギスハーンなどもそうでしょう。

 また、麻生氏はかつて南朝鮮を訪問した時のエピソードとして「創氏改名は(朝鮮人が)名字をくれと言ったのがそもそもの始まりと言ってやりあったら、年寄りの韓国人があなたのおっしゃる通りだと言った」と紹介した。

 日本が統治時代に大学をつくったことなども指摘し「こちらも正しいことは歴史的事実として述べた方がいい。日本の戦後の外務省、政治家が怠ってきたことだ」と強調したそうです。
さんざん言われてきたことですが、日本程当時の朝鮮のことを思って政治をおこなった国はありません。
逆恨みもいいとこでしょう。当たり前の事をいってどこがわるいのでしょう。
まあ、この正常な発言に対してすぐに南朝鮮のマスコミと日本の反日マスコミのバカがいろいろ騒ぐでしょう。
・・・』 なお、「・・・sankei.co.jp/news/・・・」のニュースはすでに削除されてアクセスできない。



この件は、Wikipediaの「麻生太郎」(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%BA%BB%E7%94%9F%E5%A4%AA%E9%83%8E#cite_note-40)にも記載されているので、一読されるとよい。


「創氏改名」は、当然法律によって行われたものであったが、1939(S14)年11月10日・朝鮮総督府政令第19号で、朝鮮民事令11条の第3次改正が発布され、1940年(S15)皇紀2600年を寿ぎ2月1日の紀元節の日を以って、台湾人と朝鮮人に対して「この目出度い日を祝い、希望者は日本式の氏名に変えることを許す」と言うものであった。

先に挙げた
「創氏改名の真相」(http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/0311.html)
によれば、「」なる人物が、「この創氏改名は徴兵制の導入が目的であった」などと暴論を吐いているようだあるが、そんなこととは全く関係がなく上記のように麻生太郎氏の言っているように、そのような希望が強くあったので「希望者はどうぞ」と言うものであった。だからこの「創氏改名」はあくまでも「任意」で、自己申告制であった。だからかなりの朝鮮人が申告していないのである。

「宮田節子」なる人物は、1958/3月の早稲田大学文学部史学科の出身で、卒論が朝鮮の独立運動といわれる「3.1運動」がテーマだった関係上、熱心に史料探しに奔走し東京丸の内ビルの「友邦協会」にて「阪谷文書」を発見する。友邦協会はかつて総督府の高官たちの集まるところで、阪谷文書は大蔵次官であった阪谷芳郎が1919/5~6月に朝鮮各地を回り資料収集したものであった。そして当時友邦協会に詰めていた穂積真六郎(朝鮮総督府の殖産局長だった人物)と「朝鮮近代史料研究会」を立ち上げて、1959/1~1962年の4年間にわたって朝鮮総督府の高官・官僚などを実際に呼んで朝鮮総督府の研究を続けたという。彼女の研究姿勢には誠に頭がさがると言うものであるが、ただひとつ残念なことは、彼女の基本となる依って立つところが間違っているのではないかと感じられるところである。それは、朝鮮総督府たるものが全くの独善的植民地政策を実施する行政機関である、と言う確信から出発していたのではないか、と思われたからである。だからあたかも低脳な朝鮮人の言う「七奪」があったということを前提に、ものごとを進めているのではないかと言う風情が(小生には)感じられるからである。

それは、かつての総督府の高官たちが、この研究を通じて「日本の同化政策の矛盾が自ずと明らかになるにも拘らず」、「基本的には彼らは過ちを犯したとは考えていなかった。朝鮮に対してはよい仕事をしたと言う自負心をもっていた。」と言う感慨を持っているからである。

彼女は現在学習院大学東洋文化研究所客員教授であり、ここには当時集めた膨大な史料や研究結果を収めた「友邦文庫」があり、彼女は多分今でも各地に呼ばれて講演などを行っているようで、日本の朝鮮統治に対する間違った考えを普及させないよう願いたいものである。(「ハンギョレ・サランバン」宮田節子インタビューhttp://blog.livedoor.jp/hangyoreh/archives/985344.html)

さて其の創氏改名の届出は、そのため1940/2月から4月まだの3ヶ月間では、わずか7.6%にすぎなかったが、多分もろもろのキャンペーンを実施したのであろう6ヶ月後には、322万戸の80%に上昇している。この届け出た80%の家はその家族全員が届け出た氏、例えば「金川」なら金川と創氏されたのである。これを「設定創氏」と言い、届け出なかった残りの20%は法律でその戸主の姓が「金」なら全員「金」と言う「氏」と定めたのである。これを「法定創氏」と言う。しかしながらこの20%の人たちはそのまま朝鮮名を使用していたため、学校や軍隊、炭鉱などで朝鮮名の人物が数多く存在し、そのことを日本政府も認めていたのである。例えば洪思翊(こうしよく)日本陸軍中将や朴春琴衆議院議員などは設定創氏はしていない。

(続く)
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日韓併合100年(183)

2011-10-29 16:12:10 | Weblog

「創氏改名とは何か」(http://www.asahi-net.or.jp/~fv2t-tjmt/daijuunidai) によれば、次のような説明が載っていた。

「 朝鮮人の姓は、周知のように結婚しようが何しようが変わることがない、というのが古来の慣習である。それは朝鮮の「姓」が父系の血縁関係を示すもので、「姓」が違うということはその関係がないことを意味し、「姓」を変えるということはそれを否定することを意味している。だから朝鮮人の家庭では、結婚した女性は嫁ぎ先とは血縁がなく、また自分の出自の父系一族とのそれを否定できないから、「姓」を変えることはない。従って例えば金さんという家があったとしたら、祖母は朴さん、母は李さん、兄嫁は鄭さん、妻は張さん、長男の嫁は呉さん、次男の嫁は崔さん‥‥というような具合に名前が違ってくる。
 そこで、一つの家の中で法律上の名前の違う人が存在するというのを、日本風に家族名として「氏」を持て、そしてその「氏」はその家で決めて届け出よ、というのが創氏改名令の趣旨である。


朝鮮国内をそれなりに管理するには、家族単位で韓国人を把握する必要があるのは、自明の理である。誰の子供かも、なかなか解りづらいようでは困るのである。社会構成管理上どこの子かわからなかったり、両親は誰かわからなかったりすることは、非常に厄介なことであったろう。この子は誰が面倒を見ているのか、又はこの老婆の家族は誰なのか、それなりに簡単に理解できるほうがはるかに安心である。これが上記のように同一家族でも、名前(氏名)が違ってくると甚だ厄介なことは想像がつく。簡明な戸籍が必要なのである。

「創氏改名の真相」(http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/0311.html)によれば、朝鮮では男系による血族集団制であるという。即ちその発祥地ごとに血族集団をつくっていたという。その発祥地を本(又は本貫)と言い、その発祥地(本貫)の中でそれぞれ血族集団があった。それぞれの血族集団を分ける言葉が、であった。そのため同本同姓での結婚は禁止されていたという。さらに「姓不変」が原則であった。そのため創氏改名では、「姓を変える」のではなく、新しく「氏」をつくるということとなったのである。だから朝鮮固有の本貫である「姓」を変えるのではなく、新しく家族単位の「氏」をつくったのである。

だから朝鮮・韓国の現在の教科書で、「日本は朝鮮人の大切にしていた姓を奪った」などと、ほざいているようだが、そのような事実は全くなかったのである。朝鮮人の好きな姓はそのままにして、その下に家族単位に氏を作るのである、だから創氏なのである。



更には、黄文雄氏の「韓国は日本人がつくった」によれば、

創氏改名のきっかけとなった理由のひとつに、満州に移住した朝鮮人からの要求や嘆願があったことは、あまり知られていない。・・・
日韓合邦当時、満州には約150万の朝鮮人がいた。彼らは絶えず漢人から圧迫され、搾取され、農奴に近い生活を強いられていた。やがて朝鮮人狩りが起こる。朝鮮人をもっとも嫌ったのは張作霖で、「満州には朝鮮人をひとりも入れさせない」と息巻いていたほどである。この朝鮮人迫害は、漢人・韓人たちの満州資源争奪の争いを助長した。
このような歴史背景下にあった朝鮮人にとって唯一の救いは、当時五強のひとつであった大日本帝国の臣民になることだった。唯一、中国人に対抗できる切り札であったため、朝鮮人たちはすすんで創氏改名を強く要求したのである。日本こそが、朝鮮人にとって合邦国家の民族の誇りであり、中国人に対抗できるただ1つの勢力だったのだ。

だから1931年の満州事変以後、関東軍が関東州(遼東半島一帯の租借地)から北上してきたのをもっとも喜んだのは朝鮮人だった。彼らはいたるところで日章旗を掲げ、関東軍を歓迎し、日本人として集まって日本国民としての誇りと意識を強く持っていた。日本国民になれば漢人にいじめられることもない。満州事変以後は、農民だけでなく、反日ゲリラもつぎつぎと武器を棄てて日本側へと転向したのだ。


2003年(H15)5月31日の東大五月祭で、当時自由民主党政調会長であった麻生太郎氏は、「21世紀日本の国家運営」と言う講演を行っている。その内容は次のようなものであった。

(続く)
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日韓併合100年(182)

2011-10-28 11:27:35 | Weblog

朝鮮では、朝鮮の近代化のために学校建設に邁進した初代統監の伊藤博文、初代朝鮮総督として寺内正毅はハングルを広め、目賀田種太郎は朝鮮の財政と貨幣の整理や近代的土地調査を実施し、農業をはじめ朝鮮近代化の基礎を作り、第7代朝鮮総督となった宇垣一成は農村振興運動を展開し、朝鮮を飢餓から救い近代化へと導いている。そして朝鮮産業革命の祖といわれる野口遵は朝鮮北部に水力発電所を沢山作り興南の地に重化学コンビナートを作っている。

朝鮮の発展には、多くの日本人が関与している。李氏朝鮮では到底近代化は叶わなかった。しかし、日本が朝鮮に関わったために、朝鮮はわずか36年で、それを成し遂げている。その裏には数多くに日本人が居たのである。しかし朝鮮人は、このことを一切無視しているばかりか、恩人であるべき日本人と日本を次のように貶めている。


韓国における反日教育の実態


反日教育の画像「真実探求」より
http://ameblo.jp/japan-bear/image-10590033531-10638479044.html


多分これは中学生位の生徒が描いた絵であろう。ここには韓国の低脳な精神的にもかたわとなっている子供らが描いた、日本を貶めるような、このような絵画が羅列されている。朝鮮・韓国人は、戦後、人の形をしているが内実は、すべて出来損ないのかたわになってしまっている。是非確認されるとよい。

韓国政府は、いまだに「韓国は日本人がつくった」ことを隠蔽して、韓国人がつくったと捏造を教えている。これらを見れば、朝鮮(韓国)人が世界の中で最劣等民族に属することが判るであろう。

「真実探求」(http://ameblo.jp/japan-bear/entry-10597270199.html)のブログを見れば、このことがよくまとめて記載されているので、是非ご一読願う。



そろそろ「日韓併合100年」も終盤に近づいてきた。

韓国・朝鮮人は、「日帝36年」間には、「七奪」があったと、日本を糾弾している。

この捏造した歴史を、学校教育では金科玉条の如く、もともと欠陥のある低脳なワッパに達に教え込んでいる。だから上記のような精神薄弱的な絵画しか描けなくなっているのであろう。だから韓国社会は、ますます低俗化していっている。

七奪」とは、主権、国王、人命、国語、姓氏、土地、資源の七つを言い、この日帝36年間で奪っていったと糾弾するのである。

もともと朝鮮は、千年属国であり、主権なぞ無きに等しい国であった。しかも宗主国への朝貢も、はかばかしくなく、少ない状態の国であった。だから朝(朝貢)鮮(少なし)と呼ばれる国であった。鮮の字には、「鮮(あざ)やか、はっきり、あきらか」と言う意味もあるが、「少ないとかまれである」とか言う意味もある。鮮やかではっきりしているということは、「他に何もないからはっきりと見える」と言うことで、何もない、少ないことを意味するのであろう。事実、鮮少(すくない)、鮮哉(すくなすかな)などの字句もある。

朝鮮は紛れもなく、千年この方「中華帝国の属国」であった。中華帝国の「天朝朝貢冊封秩序」にどっぷりと組み込まれ、特に李氏朝鮮の時代には中華帝国にもっとも恭順の態度を示す属国となっていた。もともと355年に燕の国に冊封され朝貢することになった時から数えれば、千五百年以上も属国であった('10/10/26,NO.8参照)。そのためもともと朝鮮には、主権なんぞはなきに等しい国であったものを、1895/4/17日清講和条約の第一条で「清国は朝鮮国の完全無欠なる独立自主の国たることを確認す。」と、日本が朝鮮を中国の清国から解き放ったのである。主権を奪ったどころか、朝鮮の主権を中国に認めさせたのであり、日本が朝鮮に主権を与えたのである。この件は、すでに'10/12/6,NO.35以降で詳述しているのでそれらを参照願う。

次に、1905/11/17に結ばれた第2次日韓協約の第5条を見て欲しい。日本は、どうしようもない李朝皇帝ではあったが、韓国皇室の安寧と尊厳を保持することを保障したのである('11/9/21,NO.157参照)。そして日本の皇室と同待遇に列して厚遇したのである。そのため李王朝は、フランスのブルボン王朝やロシアのロマノフ王朝のような滅亡は免れたのである。もし日本が韓国を併合していなければ、李朝皇帝なんぞはとっくの昔に、断首断頭されていたであろう。しかも主だった人物には日本の華族の地位まで与えたのである。

人命、国語(ハングル)、土地、資源なんぞは、奪うどころかそのすべてを救ってやっている。何をかいわんや、である。

姓氏については、今まで余り述べてこなかったので、ここで少し説明しよう。と言っても小生が詳しく内容を知っている訳ではないが、聞きかじりではなく読みかじりで次にまとめてみたい。

(続く)
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日韓併合100年(181)

2011-10-27 10:44:57 | Weblog

ここら辺の話しは、
NORTH KOREA TODAY 「帝国の遺産」~日本のゼネコンと北朝鮮をむすぶもの
http://www.pyongyangology.com/index.php?Itemid=2&id=354&option=com_content&task=view
を参照願う。


赴戦江発電所(1929年,S4完工)の工事が軌道に乗ると、野口は日本海側の町、興南朝鮮窒素肥料会社を設立(1927年,S2/1)した。そしてその興南に大規模な重化学コンビナートを建設しし、アンモニアの合成、肥料の硫安などが大量生産された。赴戦江発電所の電力は、100%その興南のコンビナートに供給された。そのため日窒は大成功を収め、日窒コンツェルンへと成長したのである。興南は日窒が作った都市と言ってよい。また赴戦江の第二発電所の水車は東芝の前進の芝浦製作所が受注し、以後は水車・発電機のすべてが芝浦製作所製となり、国産技術の向上に役立っている。このときダム建設に従事した施行業者の多くは、西松のように現在はどうも小沢一郎と何かにつけ繋がっている業者のようだ。

「ダイオキシン問題-毒づけ社会でどう生きるか」( http://6242.teacup.com/pyonta/bbs/448 )によれば、これらの発電所やダムはメンテナンスが全く行き届いていないようだと言われている。ダムには土砂が堆積し、タービンや発電機も部品交換や補修が必要であろう。この手の事業に日本のゼネコンの手がどうしても借りたい、と言う事情があると言う。さらには北朝鮮でのウランやレアメタルの開発にも、日本の手を借りたいようだ。だから小沢一郎に、西松や間組から不正献金の疑惑がささやかれている裏には、何かこのようないわく因縁があるやも知れない。小沢は日本の税金で、北朝鮮の発電所の補修やウランやレアメタルの開発の手助けを、やらせたいのかもしれない。菅直人が北朝鮮系の組織に莫大な献金を行っていることも、なにやら胡散臭い感じがする。

朝鮮人なんぞに日本が乗っ取られてなるものか、小沢外国人参政権を強力に推し進めているが、こんなことは絶対に許してはならない。

さらに「NORTH KOREA TODAY」よると、この「朝鮮窒素肥料会社」は現在も、北朝鮮の代表的な化学肥料生産基地(興南肥料連合企業所)の核として動いているという、事になっている。しかし、この企業所は、「第二経済委員会」に所属しており、この「第二経済」とは軍事経済を管轄しているという(第一経済が民間経済、第三経済が金正日ファミリーの経済)。そして第二経済は、米ドルを自国で自由に刷ることができる(偽ドル)ので、けっして破綻はしない。そしてこの企業所は現在、毒ガス生産を行っているという。そして赴戦江発電所は、この毒ガスを生産している興南肥料連合企業所に電力を供給しているのである。だから北朝鮮の利権に関わるということは、必ずや北朝鮮の軍需生産に繋がる事になる。北朝鮮が欲していることは、強盛大国(軍事も経済も)として民生の向上と言いながら先軍政事が基本理念であるから、必ずやどこかで軍事につながるのである。

小沢一郎を始め、日本のゼネコンなどの企業は、けっして北朝鮮の甘言に乗せられてはいけないし、乗ってはいけない。


野口遵は、1940(S15)年に脳溢血で倒れた後、全財産の3千万円を寄付し、2千5百万円で(財)野口研究所を設立し、化学工業の発展に寄与している。残りの5百万円は朝鮮人子弟の教育のために朝鮮総督府に寄付され、朝鮮奨学会として朝鮮の地から4万人の奨学生を巣立たせている。

病に倒れた時、野口は側近にこう語ったという。

「古い考えかもしれんが、報徳とか報恩ということが、おれの最終の目的だよ・・・化学工業で今日を成したのだから、化学方面に財産を寄付したい。それと、朝鮮で成功したから、朝鮮の奨学資金のようなものに役立てたい」と。

「朝鮮産業革命の祖・野口遵」(http://www2s.biglobe.ne.jp/nippon/jogdb_h18/wing1109.html)より。


野口遵の業績を知るにつけ、台湾発展の基を作った明石元二郎大佐や八田与一土木技師や後藤新平を思い出す。明石と八田は嘉南平野を肥沃な大農地とする大灌漑事業を完遂し、八田与一の「八田ダム」は当時世界一となっている。また後藤新平は、台湾のインフラを整備し、上下水道を整備し衛生管理を広めている。彼らは今も台湾の人たちに敬愛され、明石も八田も、死後台湾の地に手厚く葬られ、台湾の人たちは銅像やお墓まで立てて祀っているという。

しかし朝鮮では、どうであろうか。

(続く)
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日韓併合100年(180)

2011-10-26 13:13:21 | Weblog

黄文雄氏によると、朝鮮総督府は、営林署を設立して、森林保護令、幼齢林育成、造林補助、病害虫駆除、森林組合や林業試験場の整備、地方官庁職員の増員などを次々と実施していった。そして1924(T13)年には、国有林区の調査事業が完了している。そしてその国有林を無償で漸次民有林としていったのである。けっして日本が森林を奪っていったのではなく、その逆で、次々と植林を進め森林を創っていったのである。

そして[http://www2s.biglobe.ne.jp/~nippon/jogbd_h10_2/jog056.html]によれば、「朝鮮総督府は1911年からの30年間で、5億9千万本の植林を行った。朝鮮全人口の一人当たり約25本と言う膨大な数である。
内村鑑三の日記には、ある朝鮮人から日本人が毎年沢山の有用樹木の苗木を植えていることを感謝する手紙をもらって非常にうれしかったと書いている
」と記されている。

そして植林による禿げ山対策とともに、1907年よりソウル近郷の砂防工事から始まり、全国規模で実施された。1919年には朝鮮半島の大河川の流域調査が実施され、1933年から1942年の10年間で、15万ha以上の砂防工事が実施され、砂防のために5億6千万本を植栽し、工事の総額は4,274万4千円を費やし、工事人員は延べ5,385万4千人と言う大事業となったのである。

そのため半島恒例の洪水は減少し、水田面積も1910年の84万7千町歩(約84.7万ha)から時代は上記の年代よりは早いが、1928(S3)年ごろには162万町歩(約162万ha)に倍増したのである。だから米も増産され朝鮮の人口も倍増できたのである。(黄文雄氏、「韓国は日本人がつくった」より)

この河川工事の過程で、朝鮮総督府は大規模な水力発電所を建設し、総合的な国土開発を推進していったのである。

朝鮮半島では地下資源が豊富である、などの噂があったが実際に朝鮮総督府が調べてみると、これが真っ赤な嘘で、地下資源にはほとんど見るべきものはなかった。唯一利用できる資源といえるものは、「」しかなかったと言っても過言ではなかった。そのため朝鮮総督府は、水力発電を利用して総合的な国土開発に着手した。

現在の北朝鮮北部には、中朝国境を流れる鴨緑工へ向かって、数多くの川が流れている。北朝鮮の北部中央よりやや東側に長津(チャンジン)、そのすぐ東北に赴戦(プジョン)の町がある。そこにそれぞれ川が流れている。その赴戦江(ふせんこう)が長津江(ちょうしんこう、チャンジンガン)と合流して鴨緑江に流れ込んでいる。さらにはこれらの川の東には、虚川江(きょせんこう)が鴨緑江に流れている。これらを堰き止めて、日本海側への急峻な地形を利用して、日本海側へ水を落として発電所をつくることを考えた。長津湖は長津江ダムによって堰き止められた人造湖であり、赴戦湖も赴戦江を堰き止めてつくられた人造湖である。

「日本は朝鮮半島に何を残したか-終戦後半島に残った資産」http://blogs.yahoo.co.jp/success0965/7316198.html によれば、


この計画を最初に思いついたのは、電気技師の森田一雄氏と土木技師の久保田豊氏です。大正13(1924)年、両氏は朝鮮半島の5万分の1の地図を見ながら、「鴨緑江の水を逆方向の日本海側に落とせば、巨大な電力が得られるのではないか」、と考えました。朝鮮半島の東側の急勾配に着目した発想でした。
この計画を大手電気化学工業の日本窒素肥料社長、野口遵氏に持ち込んだところ、野口氏も賛同し、その資金援助によって朝鮮北部の電源開発がスタートしました。



野口遵(したがう)氏は、Wikipediaによれば、日窒コンツェルンを一代で築いた「電気化学工業の父」とも「朝鮮半島の事業主」とも言われている実業家で、旭化成、積水化学工業、積水ハウス、信越化学工業の実質的な創業者である。1896年に帝国大学工科大学電気工学科(現東京大学工学部電気工学科)を卒業、1906年に曽木電気を設立し、鹿児島県大口に曽木水力発電所を開く。これが日本窒素肥料をはじめ上記の企業の前身となる。1924年に朝鮮半島進出を決め、2年後に朝鮮水力電気、朝鮮窒素肥料の2社を設立している、と記述されている。野口は当時、イタリアから「空中窒素固定法」の特許を買っていたが、それには莫大な電力を必要とした。そのため日本では電力が不足し、この特許をもてあましていたところに森田と久保田は、朝鮮での水力発電の話を持ち込んだ、と言うわけであった。

なお久保田豊氏は、1914(T3)年に東京帝国大学土木工学科を卒業し、内務省で河川改修工事に従事し、やがて水力開発に傾注し野口の下で上記の朝鮮の電力事業開発にのめりこみ、彼の手がけた鴨緑江の水豊発電所(1941年完成、70万kw)は当時ダム体積で世界一を誇った。地図で見ると、新義州から60~70km北東に水豊(すいほう、スプン)の町があり、大きな湖がある。これが70万kw(10万kw×7基の発電機)の水豊ダムであろう。黒四ダムが33万5千kwであることからして、この水豊発電所の馬鹿でかいことがわかるであろう。これらの電気は今では中国からの援助の見返りに半分は中国へ送られているというが、残りの半分の電気でも朝鮮の経済に役立っていることであろう。ただしメンテナンスが行き届いていないため、効率はとても悪くなっているという。久保田は後に日本工営株式会社をつくるが、これらの日本が北朝鮮に残した莫大な資産は、日本に返還されるべきものである。
「久保田 豊」 http://www6.plala.or.jp/guti/cemetery/PERSON/K/kubota_yu.html )
「北朝鮮は日本に補償を要求できない」 http://wwwi.netwave.or.jp/~tn-mgm/kita.htm )を参照のこと

森田一雄氏は、その時、早川電力を退職した直後で、知人に勧められて朝鮮の水力発電の可能性を調べ始めた。そして土木コンサルタント事務所を開いたばかりの久保田豊の事務所を訪ねたのであった。森田は日窒の野口とは、東京帝国大学時代の同級生であったので、資金援助を得るために野口に話しを持ち込んだのであった。

(続く)
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日韓併合100年(179)

2011-10-25 10:17:30 | Weblog

一寸長くなるが、朝鮮に渡った日本農民の苦労を語っているものを、「韓国は日本人がつくった」の中から、次に引用したい。

朝鮮には数千年の歴史があり、土地には固定した地主がすでに存在していたため、新田開発はかなり困難であった。それもあって、日本農民が朝鮮で開拓した農地は、後に言われるほどの良田ばかりではなかった。大河の遊水地で交通不便、さらに少々の塩害がある地を開墾地として開拓したケースも少なくない。

例えば江西干拓事業では、3500町歩(約3150ha)の干潟や沿岸草生地、李完用の一族から買った黄海道東部(平壌の東の山地か)の山地にある高原地帯などを開拓していた。それらはもちろん、地味不良で有機物に乏しく、灌漑用水も上がらず、水田にもならない不毛の地であった。
日本人はわざわざ朝鮮に行って、こんな不毛の地を耕していたのだ。それなのに、東拓を含めた日本の農業移民が、朝鮮半島の美田、良田を強奪したなどとはよくも言ったものだ。美田を専有していたのは、ほかでもない朝鮮人自身である。

日本人は、朝鮮の農民が一顧だにしなかった不毛の地を開墾し、僻地の干拓を行っていたのだ。交通不便な地に行く場合は、汽車から降りると家族全員で牛の背に乗り、荷物を牛車に載せて遠く離れた土地まで延々と行く。行った先に待っているのは、耐乏生活と厳しい農地開拓である。

この日本人の地道で真面目な努力によって、朝鮮半島は数千年の農業国家では考えられないほどの農業革命を経ることができたのである。それもこれも、すべて日本人の手によって実現したことなのだ。



このようにして日本人と日本は、朝鮮を飢餓から救ったのだ。現在でも朝鮮は頓馬の集団だ。超のつく頓馬集団だ。日本による統監府、総督府の朝鮮統治が、農業は農業でも、焼畑的な原始的な農業以外にはなんの産業もなく、資源も技術もなかった上に、産業のための人材も実学教育もなかった朝鮮を、わずか36年の内に近代化へと導いたのである。今もって、ただ抽象的に土地を奪った、資源を奪った、人命を奪ったなどと、内容のない中傷ばかりを繰り返す頓馬な朝鮮人にとって、日帝時代に人口と食料が倍増していることを、なんと説明するのか。

先に、'11/10/12,NO.170でも治山治水のことを述べている。朝鮮の山河は、濫伐、討伐などで禿山だらけで崩壊状態であった。冬季の薪のため、さらには李朝時代には食料不足のため、火田民と呼ばれる焼畑をする農民が増え続けていた。そして根っこまで掘り起こして炭を焼いていたと黄文雄氏は指摘している。この炭は根炭と呼ばれ高値で取引されたという。

そのため朝鮮半島は一部を除いて、禿山だらけで洪水と旱魃が頻繁に起きていた。日本では子供に山を描かせれば緑の山を描くが、朝鮮では山は「茶色」に塗られているのが普通であった。

朝鮮総督府は1910/3月に土地調査局を開設し、全国的な規模での土地調査を始めた。この責任者が目賀田種太郎であった。この土地調査は、1910(M43)年から1918(T7)年にかけて、当時のお金で200万円の予算で実施された、と先に説明したが、崩壊した朝鮮の山河を蘇らせる事業も急務であった。

朝鮮総督府初代総督である寺内正毅大将は、そのため、治山治水にもっとも力を入れた。黄文雄氏の「韓国は日本人がつくった」によれば、「朝鮮半島で実際に治水調査がスタートしたのは、1915年(大正四年)からである。具体的には、気象、水位、流量、改修築予定区域の実測調査などに着手した。これは10ヵ年計画の治水事業とされ、予算5000万円で帝国議会を通過した。しかし実際は、1928年までの14年間にも渉って実施されることとなった。

朝鮮半島の森林消失は、日帝が伐採して日本へ持ち去ったためとされることが多いが、史実は逆だ。


朝鮮では大半の山は禿山と化しており、緑の山があったのは交通不便な鴨緑江や豆満江などにしかなかったので、とてもじゃないが、伐採して持ち帰ることなんぞは不可能なことであった。これなども卑屈な朝鮮人の捏造話である。

(続く)
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日韓併合100年(178)

2011-10-24 13:29:46 | Weblog

何はともあれ、上表でもわかるように、朝鮮の人口は1906年980万人→1940年2,295万人と34年間で2.34倍と、倍増どころか、2倍半近くも増えているのである。人口が増えるということは、朝鮮が日本のために飢餓状態にあったなどと言うことが、如何にひどい捏造で、意図的に朝鮮人たちをミスリードしているかを示すものである。

上表における朝鮮における米の消費量が上下しているのは、朝鮮総督府の政策で逆ザヤで米を買い上げて日本などへ輸出していたからである。農民達はそのお金で米より安い雑穀などを買って食料としていたのであり、その差額が更なる儲けとなり生活水準の向上につながり、人口増加となったわけである。そのため日本国内の米は余剰気味となり、度々日本政府と朝鮮総督府とは米の輸出入で衝突している。ある意味日本の農家やサラリーマンの犠牲の上で、朝鮮の農業が蘇(よみがえ)ったのである。これらの逆ザヤは総て日本人の税金から賄われていたからである。ちなみに1941(S16)年の米価設定では、生産者の手取り価格は一石で50円だったのに対し、消費者価格は43円に据え置かれた。この差額は政府が負担している、と黄文雄氏は記述している。この差額は日本人が稼いだ税金から賄(まかな)われたのである。

ここら辺の事情を、黄文雄氏は「朝鮮は日本人がつくった」の中では、さらに次のように述べている。

朝鮮近代史では、輸出による米価の高騰、日本商人による流通の支配、朝鮮商人の従属化、朝鮮農民は正確な米穀の相場を知らずに米穀商人の言い値で売り渡すことを余儀なくされたなどという記述が目に付く。
・・・・・
この「逆ザヤ制度」は、すでに戦前の朝鮮でも施行されていた。つまり、日帝36年の農業政策は、日本国内の農民よりも朝鮮の農民を手厚く保護していたのである。
さて、こうした食糧事情の好転、また前述した衛生事情の良化により、朝鮮半島の人口は次第に増加して言った。
・・・・・
豊かになったがゆえに人口が増えたのであって、日帝が搾取し朝鮮の民を貧困のどん底に陥れていたなら、このような増加などありえるはずもない。食料が欠乏している状態では、子供を増やすことなど考えられないからだ。
また、韓国人が非難するような大虐殺があったというなら、なぜかえって人口が増えているのか説明してもらいたいものだ。



もう一つ黄文雄氏の「韓国は日本人がつくった」に載っている話を紹介しよう。

1908年(M41)に設立された東洋拓殖株式会社は、Wikipediaによれば、大韓帝国と日韓民間資本の共同出資などで設立された日本の国策会社である。この会社は名前が示すように、朝鮮の土地を所有して、日本からの移民の農業開拓を事業とする会社である。東拓は、上記文書によれば、「日本内地の農民を15回にわたって半島に招致し、移民に農地をあてがい、耕作を推進したのである。東拓による移民のいいところは、良田ではなく荒地を移民に与え、不毛の地を耕地に開拓したことであった。

嘘の好きな朝鮮韓国人は、次のように批判しているという。

日帝は植民地政策のひとつとして、朝鮮の土地所有権を明確にするための土地調査事業を行った。しかし、字の読めない人も多く、近代的土地所有の概念もなかった朝鮮農民は、土地の申告をしなかったために、多くの土地は日本人地主の手に渡ってしまった。
これによって、朝鮮最大の日本人地主となったのが東拓である。東拓は、日本国内の食料を確保するために朝鮮米を植えさせ、内地に輸出する産米増殖計画を行った。逆に朝鮮農民は飢え、土地・食料を奪われた朝鮮人は日本本土や中国東北地方へ流出せざるを得なかったのである。


しかし事実はこれと全く反対であった。朝鮮総督府は朝鮮農民を保護するために、東拓には、土地の買収を規制し、さらには国有地の処分においても東拓には譲渡せず、自作農創設として朝鮮小作人に分譲したため、東拓の移民事業は早々に挫折してしまったという。

しかも朝鮮の土地は、黄文雄氏によれば、王田王土が建前で、土地の所有者は両班や地主の手にあり、字の読めない小作人はもともと土地など持ってはいなかった。だから「字の読めない朝鮮農民の手から土地を騙し取った」などと言うことは、真っ赤な嘘で、卑しく意地汚い朝鮮人がつくった捏造なのである。それを、日韓合邦の真実を知らないか、知っていても真っ赤に染まったコミンテルンの手先となって日本を貶めることに快感を感ずる頓馬な朝鮮と日本人学者達が、言っているだけのことなのである。

(続く)
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日韓併合100年(177)

2011-10-21 09:49:15 | Weblog

黄文雄氏の「朝鮮は日本人がつくった」によれば、「宇垣総督のこの農村漁村運動は、総督を始め各地方官署、学校、金融組合、企業諸団体などの全統治機構を総動員した一大運動であった。それは、苦境にある個々の農家を対象とした指導、啓発運動であり、農民の経済更生の実現と日本内地並みの生活向上を推し進める社会建設運動でもあった。」と言うものであった。

Wikipediaでは軍人、政治家として余り評判のよい書き方はされていなかったが、朝鮮総督時代には「内鮮融和を掲げ、皇民化政策を行う。一方で農村振興と工鉱併進政策を推進したが実効性に乏しく、宇垣の次の朝鮮総督の南次郎には農村振興政策は受け継がれなかった。・・・ただし大谷敬二郎によれば、朝鮮人の間で歴代総督の中で「朝鮮人のために尽くしてくれた唯一の総督」と宇垣が高く評価されていたと回顧している。」と記されている。彼は薩長ではなく岡山の出身であったために、それほど評価されなかったかもしれない。

朝鮮に渡った日本の開拓農民は、悪戦苦闘の末その農業精神と農業技術を確実に朝鮮の地に根付かせていった。日本農業の集約農法や養豚、養鶏、養蚕などの多角経営など、改良農法、新式農法などは、朝鮮小作人のモデルとなり次々と朝鮮農業に普及して言ったとも、記されている。
朝鮮では屋外で仕事をする習慣が無かった女性達も、日本農民の老若男女の区別なく家族揃って朝から晩まで暗くなるまで農作業に勤(いそ)しむ姿に影響されて、少しずつ畑作業をするようになっていった、とも記されている。

この結果何が起こったかと言うと、朝鮮半島の人口が爆発的に増えたことである。朝鮮半島の人口増加は、先の'11/10/5のNO.165で示したが、第2次日韓協約を結んだ翌年の1906年の人口が980万人で、日韓併合後20年経った1930年の人口が1,968万人と、2倍以上の人口増加となっている。これは、人口が増える裏づけとなる食料が、日本人の指導などで増産されたことを意味する。

朝鮮での米の平均収穫量は反当り9斗のみで、日本の反当り平均収穫量(1石6斗)の半分程度しかなかった(日本農務省、韓国土地調査報告)。それなのに1906年から1930年の24年間で人口は2倍以上(980万人→1,968万人)に増えていたのだ。

この間、朝鮮総督府は農業改革も着実に実施していた。朝鮮総督府は、米を略奪するどころか、農業改革、農地改革の一環として奨励金を出し、逆ザヤ制度まで設けて、その質と量とを安定させた。その結果、史上空前の米生産量倍増と言う偉業を成し遂げ、朝鮮半島の人口倍増を支える基盤を作ったのである、と黄文雄氏は続けている。

そして、朝鮮総督府のスタート当時(1910年)、約一千石前後だった米穀収穫量は、18年後の1928年(S3)には1,700万石、1933年(S8)には1,900万石と急伸した。半島の米産は、史上一度も1,000万石を超えたことがなかった。しかし、日韓合邦から20年後の1930年代に入ると、常に2.000万石を突破するようになった。また、1926年(T15)時点では、大豆と雑穀の生産も合邦当初の6割増しに達した、とも述べている。


次に米穀収穫量と人口増加を、今まで示した年代別に示す。上記では1933年は1,900万石となっているが、小生が引用した史料は1,630万石となっているので、1,630万石をつかった。1928年と1933年の人口は比例計算で算出した。

     米穀生産   人口   消費量
1906年         980万人
1910年  1,000万石  1,312万人 
1920年  1,270万石  1,691万人  1.085万石
1928年  1,700万石  1,913万人  988万石
1930年  1,370万石  1,968万人  830万石
1933年  1,630万石  2,066万人  760万石
1940年  1,436万石  2,295万人  1,398万石

米穀生産は、「日本による朝鮮の米収奪のウソ」
http://www.tamanegiya.com/tyousenn-kome-.html


人口は、「植民地統治の検証1」
http://mirror.jijisama.org/syokuminti1.htm


などを参照させてもらっている。読者諸氏も一度、是非これらのURLを訪れるとよい。

更には、つぎのURLも一読の価値があるので、是非訪れてみて欲しい。

「搾取は幻想」
http://www5b.biglobe.ne.jp/~korea-su/korea-su/jkorea/nikkan/sakushu.html

(続く)
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日韓併合100年(176)

2011-10-20 19:56:11 | Weblog

ついでに次のURLも面白く、ためになります。
http://www.youtube.com/watch?v=pq4ZOhiCqOw
http://omoixtukiritekitou.blog79.fc2.com/blog-entry-1198.html


昔から朝鮮では、李承番などと言う超極悪なが排出しているので、こういう頓馬な朝鮮人が出てくることは、日常茶飯事なのであろう。本当に朝鮮の民意が知れると言うこと。

台湾ではその後李登輝総統など立派な人材を輩出している。彼は、台湾の高校から1943/10に京都帝国大学農学部経済学科に進学している。戦後は台湾大学農学部農業経済学科に編入学し、1949年卒業、そして1952年に奨学金を得て米国アイオワ州立大学に留学し、農業経済学を研究し1953年に修士の学位を取得している。さらにロックフェラー財団などの奨学金を得てコーネル大学に留学し、1968年には農業経済学博士号を取得している。その後農業専門家として台湾の発展に尽くし、1978年中華民国第6期総統に任命された蒋経国(蒋介石の息子)に認められ、台北市長に任命され、頭角を現してゆく。1984年副総統、1988年~1990年総統代行、1990年~2000年には第8期、、9期総統として手腕を発揮している。彼は尖閣諸島は日本の領土であると発言したり、靖国神社に関しては「お国のために尽くした英霊を祀り、お参りすることは当然のこと。外国が口を挟むべきではない。」と訪日時には何回か参拝している。靖国神社には戦死した兄が祭られている。


朝鮮にも似たような話しがあるので、一つの例として次に掲げる。これは「日韓併合」 http://www7b.biglobe.ne.jp/~senden97/nikkanheigo1.htmlに記載されている「石原慎太郎東京都知事」の話しである。


 石原慎太郎(作家・東京都知事)

 日本の韓国統治の問題。あれは合法的にやって、しかも世界が是として、べつに外国から文句が出たものではない。しかも、韓国、朝鮮人が自分達で選んだ道である。
 その判断を、ある意味で冷静に評価したのは韓国の朴大統領だった。私も何度かお目にかかった。ある時、向こうの閣僚とお酒を飲んでいて、みんな日本語が上手い連中で、日本への不満もあるからいろいろ言い出した。朴さんは雰囲気が険悪になりかけたとき「まあまあ」と座を制して、「しかしあのとき、われわれは自分たちで選択したんだ。日本が侵略したんじゃない。私達の先祖が選択した。もし清国を選んでいたら、清はすぐ滅びて、もっと大きな混乱が朝鮮半島に起こったろう。もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れて半島全体が共産主義国家になっていた。そしたら北も南も完全に共産化された半島になっていた。日本を選んだということは、ベストとは言わないけれど、仕方なしに選ばざるを得なかったならば、セコンド・ベストとして私は評価している。

 朴さんは「石原さん、大事なのは教育だ。このことに限ってみても、日本人は非常に冷静に、本国でやってるのと同じ教育をこの朝鮮でもやった。これは多とすべきだ。私がその言い例ですよ」と言う。

 「私は貧農の息子で、学校に行きたいなと思っても行けなかった。日本人がやってきて義務教育の制度を敷いて子供を学校に送らない親は処罰するといった。日本人にしかられるからというんで学校に行けた。その後、師範学校、軍官学校に進み、そこの日本人教官が、お前よく出来るな。日本の市谷の士官学校に推薦するから行けといって入学。主席で卒業し、言葉も完璧でなかったかもしれないが、生徒を代表して、答辞を読んだ。私はこのことを非常に多とする相対的に白人がやった植民地支配に比べて日本は教育ひとつとってみても、かなり公平な、水準の高い政策をやったと思う
(日韓併合)
http://www7b.biglobe.ne.jp/~senden97/nikkanheigo1.html


まあ日本で教育を受ければ、朝鮮人でも少しはまともに成長するようだ。


さて公明正大な土地調査からちょっと話しは飛んだが、朝鮮の農民達の覚醒の話に戻ろう。

朝鮮総督府は、「勤労愛好」「自主独立」「報恩感謝」の3目標を掲げて、農民の覚醒を図ったことは前に述べたが、その中心となったのは1931(S6)年から1936(S11)年まで朝鮮総督となった宇垣一成であった。宇垣の推進した農村新興運動は、上からの一方的な農業改革ではなく、農民本位で、農民自身の自覚によって改革を進めると言うものであった。

(続く)
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日韓併合100年(175)

2011-10-19 11:09:52 | Weblog

台湾は、中国と同じ漢民族の国であるが、中国人よりもずっとずっと心が広く、快活な民族である。
1895年末から、台湾は日本の統治下におかれたが、日本は中国人がやったような収奪型の統治ではなく育成型の統治を行い台湾の近代化を図った。台湾人も勤勉によく励んだためアジアの他の国よりもいち早く、近代化したのであった。戦後日本の電化製品や日本文化・アニメや歌、服装などの日本の流行文化への興味が沸き起こり、「日本おたく」(日本や日本文化に好意を持つ人)を意味するハーリー族なる言葉が現れたが、これも単なる偶然ではなく上記のように台湾のために尽くした多くの日本人が居たことと、それを受け止めることにできる立派な台湾民族が居たことがその起源であろう。朝鮮にも立派な日本人が沢山派遣されたが、そんな言葉や概念は生み出されていない。

その代わり、こんな人物なら朝鮮にはウンカの如く存在しているようだ。


韓国で「東日本大震災を祝う」の幕 C大阪が抗議
2011.9.28 12:30

27日、韓国・全州で行われたサッカーACL準々決勝で、スタンドに掲げられた東日本大震災やゆするメッセージ(提供写真・共同)

 サッカーJ1のC大阪が27日にアウェーの韓国・全州で臨んだサッカーのアジア・チャンピオンズリーグ(ACL)準々決勝第2戦で、対戦相手の全北サポーターが東日本大震災で被災した日本をやゆする内容のメッセージを掲げ、C大阪がアジア連盟に抗議文を提出していたことが28日、分かった。
 チーム関係者によると、応援席の幕に日本語で東日本大震災を祝うという文字が書かれていたのを発見し、マッチコミッショナーを通じて掲示をやめさせた。(共同)
http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110928/scr11092812310007-n1.htm

「大地震お祝い」幕で被災者揶揄 韓国・全北がHPに謝罪文「一部ファンのみっともない行動」
2011.9.29 14:25

27日、韓国・全州で行われたサッカーACL準々決勝で、スタンドに掲げられた東日本大震災をやゆするメッセージ(提供写真・共同)
 サッカーJ1、C大阪が27日に韓国・全州で全北と対戦したアジア・チャンピオンズリーグ準々決勝第2戦で、全北のサポーターが東日本大震災で被災した日本を揶揄(やゆ)するメッセージを掲げたことを受け、全北は29日、クラブのホームページ上に謝罪文を掲載した。
 全北は「一部ファンのみっともない行動によって物議を醸したことについて、全北とサッカーを愛するファンに謝罪します」としている。
 27日の一戦では観客席に「日本の大地震をお祝います」(原文のまま)と書かれた幕が掲げられ、C大阪はアジア連盟に抗議文を提出していた。(共同)
http://sankei.jp.msn.com/sports/news/110929/scr11092914270017-n1.htm


まあ、この記事では「一部ファン・・・」としているが、一部どころか「朝鮮人全員のみっともない行動」とした方がよいのでは、と思うよ。サッカーアジアカップカタール大会の「キ・ソンヨン」も同類項だが、朝鮮には本当に猿が多い、次のネットも確認願う。ここには「日本の大地震をお祝います」に関することが沢山出ています。ちなみに「全北」とはKリーグ所属の全北現代モータース蹴球団(チョンブク・ヒュンデ・モータース・チュックダン)であるが、多分こいつらも馬賊・匪賊の類と見られても、致し方ないであろう。

「痛いニュース2チャンネル」
http://blog.livedoor.jp/dqnplus/archives/1666613.html


(「キ・ソンヨン」のサルまねについては、小生のブログ・「ドーハの歓喜」('11/2/11,NO.10~)を参照願う。)


さらに「2002ワールドカップ韓国」で、ググル(google)といろいろなスレッドが見られます。その中で

http://www.youtube.com/watch?v=y--hf4ZYMlM

このユーチューブを見ると、2002年ワールドカップで韓国が上位に進出できた訳が、わかります。韓国朝鮮人選手は相手国の有力選手を、すべからく暴力行為で怪我を負わせて働けないようにし、しかも審判まで買収して上位進出を果たしたのです。
次のようなコメントがついています。

「韓国の悪行の酷さが分ります。
後の韓国内のインタビューで、韓国の監督が、「潰しに掛かった」とお答えしています。これは意図的に行われた事が証明されています。」


次のURLも面白い。
http://nandakorea.sakura.ne.jp/html/wcup.html
http://www58.tok2.com/home/letsgokorea/
(続く)
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