世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

邪馬台国とはなんぞや?(72)

2018-11-22 00:00:00 | Weblog

512年には百済からの要請で、任那の4県を百済に割譲したため、新羅が弱体化した任那を取り込もうと動き出したために、527年継体天皇は6万の兵を派遣することになり、筑紫に向かわせた。

しかし筑紫の国造の磐井が、新羅の根回しで反乱を起こし大和の船を悉く沈めてしまった。そのため先ず磐井の乱を収めてから529年に渡海するが、新羅も百済も話し合いに応ずることは無かった。

562年には、任那新羅の手に落ちてしまった。

日本書紀には新羅の暴虐ぶりが表現されている。「神功皇后は新羅に徳を施されたが、新羅は任那の民の肝を割き足を切り、骨を曝して屍を焚き、それでもなんとも思わなかった。・・・新羅の闘将は婦女を悉く生け捕りにして、人目もはばからずその女を犯した」と記す。これは、先の書の288頁の表現である。これは満州から逃げ延びてきた日本居留民に対する朝鮮人の仕打ちと、全く同じ状況であった。朝鮮と言う劣等民族は、時代が過ぎても進歩がないと言う事を、図らずも証明している。

589年、隋が中国を統一し、618年には唐が中国の王朝となる。

百済と高句麗は共同して新羅へ侵攻を開始する。その新羅は中国の唐へ援軍を要請していた。
そのため新羅は、唐のご機嫌とるために国中から美女を集めて唐の皇帝に貢物として贈っていた。

これを受け、高句麗討伐を画策していた唐は、その同盟国である百済への進攻を開始する。そして660年7月百済は滅亡することになる。

その後百済再興の動きが起こり、日本は百済救援に乗り出す。かつて日本が持っていた朝鮮半島の利権を取り戻す狙いがあったものと思われる。中大兄皇子が阿倍比羅夫等を派遣するが、百済王族の内紛が発生し百済軍の士気は低下し、663年8月白村江の戦いで、唐・新羅の連合軍に日本・百済連合軍は完敗する。以後日本は、国内政治体制の強化に専念することになる。

この結果多くの百済人が日本に亡命した、と言われているが、船もなく百済人が虐殺されたわけでもなく、日本に亡命したと言うのは単なる話してあり、そんなことは無かったものと思われる。

その後新羅は668年に、唐の援助も受けて高句麗を滅ぼして半島の統一に成功する。しかしながら統一新羅は、進んで唐の冊封を受けることになる。以後、新羅、高麗、李氏朝鮮と歴史は続くが、いずれも中国王朝の冊封を受け続け、献女外交をつづけそれは日清戦争で日本が清国を打ち破るまで続いたのである。


新羅のこのひねくれた卑劣な対応は、今の朝鮮に受け継がれている。その最たるものが、文在寅である。

このことは先の書は292頁で次のように表現している。

彼らには、新羅、百済、高句麗の人々を助け、受け入れた優しさが通じない。良かれと思って善行を積めば侮られ、付け込まれ、毟られ、犯されることは、古代から近現代に至る歴史が証明している。これらは、歴史を紐解けば誰にでもわかる”史実”であり、私たちは先人の阿鼻叫喚を聞いておく必要がある。
シナや中国も同じであり、今、世に蔓延る歴史認識のまま、彼らと接触することはみすみす罠に嵌まりに行くようなもの、止めた方がよい。だが、何故か犠牲者が後を絶たない。



このブログだけでも、朝鮮・新羅による日本・大和朝廷に対する非礼な行いは、多々見られている。次にそれらを、簡単に列挙しよう。

1. 新羅は、九州の熊襲は連携して、大和朝廷に敵対していた。そのため神功皇后の新羅征伐が、行われることになった。

2. 降伏した新羅王は、毎年朝貢することを神功皇后にやくそくしたため、皇后は新羅王を赦免するが、その後朝貢することは無かった。

3. 新羅王の弟は大和朝廷の人質となっていたが、新羅は嘘の理由で帰国を嘆願。新羅の使者は、だまして人質を逃がしてしまう。

4. 新羅は百済の貢物を奪い、新羅の貢物として大和朝廷に奉ったが、これが判り神功皇后は新羅懲罰派兵を行っている。

5. 新羅が朝貢しなかったため、葛城襲津彦(武内宿禰の子)を派遣するが、新羅のハニートラップに嵌(は)まり、加羅国を攻撃してしまう。応神天皇は兵を派遣し、襲津彦を攻め加羅を取り戻す。襲津彦は自殺する。
朝鮮・新羅は統一新羅となっても、中国王朝(唐、宋、元、明、清)相手に献女外交を続ける。

6. 新羅が任那を侵略しようと動き出したために、527年継体天皇は兵を派兵するが、新羅と通じていた筑紫の磐井の反乱により、船を沈められてしまう。562年、任那は新羅により滅ぼされる。

7. 百済再興のため中大兄皇子は半島へ派兵するが、663年8月に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に完敗する。以後大和朝廷は、国内政治体制の強化に専念する。

…といったように、朝鮮・新羅は恩を仇で返すことしかしなかった。

それは丁度今の韓国政府のやり方と全く同じであった。

だから、朝鮮・馬韓国とは一切付き合う必要はない。付き合えば付き合うほど、こちらが損をするだけだ。国交断絶でもよいが、それにはそれなりの国防力を培っておく必要がある。

この言葉を安倍晋三首相に贈って、この第二部を終了することにしよう。

(第二部終了)
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邪馬台国とはなんぞや?(71)

2018-11-21 00:00:00 | Weblog

だから百済の地には、沢山の前方後円墳があるのである。

しかし、新羅にもそれなりの多くの前方後円墳が存在している。新羅も日本の臣民となっていたからには、それもおかしくないことであろう。

それにもまして、新羅の王が日本人であったことの方が、その理由なのであろう。

そのことは、1145年に完成した高麗の歴史書「三国史記」の新羅本記に詳しく記されている。

これも別冊宝島2283、2015.2.13第一刷り発行の「日朝古代史・嘘の起源(監修室谷克実氏)」の20頁以降に記されているので、簡単に紹介しよう。


1. 新羅・初代・朴赫居世(ばくひょっこせ)-BC57~AD4
   大輔・ホゴンなる人物を馬韓に派遣し、貢物が途絶えたことを問いただす。
   大輔とは最高官職で、ホゴンなる人物は倭人であった。

2. 第2代・南解(なれ)-AD4~24
   多婆那国(但馬地方か)から流れ着いた昔脱解(そく・たれ)が賢者であることから、長女を 
   嫁がせた。そして大輔(総理大臣兼軍司令官に相当)に任命する。

3. 第3代・儒理(ゆり)-24~57
   昔脱解は極めて徳のある人物であったので、儒理(ゆり)は脱解に王位を譲ろうとするが説得
   される。脱解は大輔として勤める。

4. 第4代・脱解(たれ)-57~87
   脱解は新羅王として大輔にホゴンを任命する。脱解王と大輔・ホゴンの倭・倭コンビは、倭国
   との関係を修復して国交を回復させる。以後脱解の子孫が王位についている。

   金とか昔という姓が倭系であり、以後9世紀まで倭系の王が続く。


といった状況であったので、日本の臣民となっていた新羅の地に前方後円墳があっても、一向におかしくはないのである。


また、「日本と言う国号は、古代の新羅が付けたのだ」などという馬鹿なことを言う朝鮮人がいる、というが、これも頓馬な人物の馬鹿な作り話である。

これは馬韓国の捏造本の「物語朝鮮の歴史」なるものに、端を発している。これは似非エセ歴史家の崔南善(チェナムソン、1890~1957)なるものが書いたものであるが、そこには「日本の国号を授けたのは新羅」なる説が書かれていると言う。

「はじめはヤマトがそのまま国名となり、久しくそれを使っていたが、新羅で日本と呼んだことがあってから、だんだんこの名前を使うのを好み、ついに国の正式名となった」


しかし朝鮮の正史「三国史記」には次のように書かれている。

文武十年(670年)十二月・・・倭国更号日本。自言近日所出 以為名

倭国、日本と国号を改める。自ら言う。「日出る所に近し。以って名と為す」と。


ここには自ら言う、と書かれているように、日本は自分で自国を日本と言ったのである。

これに対して、朝鮮は中国・明にお伺いを立てて、国号を「朝鮮」と決めてもらったのである。

李氏朝鮮は、高麗から移行する際に、明の光武帝に「国号は和寧と朝鮮とは、どちらが良いか」とお伺いをたてて、「朝鮮」と決めてもらったのである。

この話は、小生のブログの2011.10.06の「日韓併合100年」のNO.166でも紹介しているので、ご承知かも知れない。


しかしながら雄略天皇の時代、日本の分国であった新羅は長い間貢物を、奉らなかった。そのため天皇は新羅征伐を行ったが、新羅王には逃げられてしまった。

475年(雄略天皇20年冬)には、高句麗が大群で百済を攻めて、百済を滅ぼしてしまった。このため雄略天皇は、日本に住んでいた百済の昆支王(こんきおう)の五人の息子の中から二番目の末多王(またおう)を兵士と共に百済に送り届けた。これが東城王(とうせいおう、481~501)である。

百済の歴代の王子は日本に住み、日本語を話していた。日本の臣民であった百済では、日本語が常用されており、任那も含めて代々日本語を話していたものと思われる。

そして次の王が、筑紫の嶋で462年に生まれた武寧王である。そのため嶋君と呼ばれたと日本書紀には書かれているが、1971年百済の武寧王の墓が発掘され、墓誌銘にその旨書かれていることが判明し、日本書紀の記述の正しいことが判明したのであった。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(70)

2018-11-20 00:00:00 | Weblog

即ち朝鮮半島の北部には中国の植民地・帯方郡があり、南端には倭国の領土がある。韓はその間の四千里四方の国である、と言っているのである。この四千里と言うのは、露布」の原理で十倍に誇張されていたものであるので、実際は四百里という事である(当ブログ2018.8.15のNO.6参照のこと)。

四百里✕434m=173.6km 四方ほどの面積の国となろう。これが3~4世紀の韓国であった。


更には、先に紹介した「広開土王碑」にも、そのような趣旨のことが書かれている。これは4世紀末のことである。4世紀の後半になると、その韓の地は倭国の領土は拡大していったことなっていたのである。


そもそも新羅・百済・は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・任那・新羅を破り、臣民となしてしまった。広開土王碑、ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%96%8B%E5%9C%9F%E7%8E%8B%E7%A2%91)


また中国の南北朝時代の南朝の梁の国(5世紀~6世紀)への朝貢を描いたと言われている「梁職貢図」(梁に朝貢した人々の図)には、新羅のことが描かれている。

それによると、「新羅はある時、倭の属国であった」と記されている。

多分、新羅は、五世紀中倭国(日本)の属国であったのであろう。だから新羅王の弟が、日本で人質として暮らしていたのでしょう。2018.11.13のNO.66参照のこと。


斯羅国(新羅)についての記述[編集]

新羅があるときは韓の属国であり、あるときは倭の属国であったと記載されている。
斯羅國,本東夷辰韓之小國也。魏時曰新羅,宋時曰斯羅,其實一也。或屬韓或屬倭,國王不能自通使聘。普通二年,其王名募秦,始使隨百濟奉表献方物。其國有城,號曰健年。其俗與高麗相類。無文字,刻木為範,言語待百濟而後通焉

斯羅國は元は東夷の辰韓の小国。魏の時代では新羅といい、劉宋の時代には斯羅というが同一の国である。或るとき韓に属し、あるときは倭に属したため国王は使者を派遣できなかった。普通二年(521年)に募秦王(法興王)が百済に随伴して初めて朝貢した。斯羅国には健年城という城があり、習俗は高麗(高句麗)と類似し文字はなく木を刻んで範とした(木簡)。百済の通訳で梁と会話を行った。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%81%B7%E8%B2%A2%E5%9B%B3





2~3世紀頃の朝鮮半島には、北から、

      高句麗     貊パク
  
黄    楽浪郡   濊  日本海
      帯方郡   (ワイ)

     馬韓   辰韓     馬韓→百済、辰韓→新羅、弁韓→加羅(伽耶=任那)
        弁韓
      任那・狗邪韓国

      対馬海峡


となっていたが、5世紀になると先に示した地図のようになったのであるが、神功皇后の時代AD356~AD389) には、新羅征伐を行い百済・新羅・加羅などの三韓を大和朝廷の支配下に置いたのである。このことが広開土王碑の刻まれているのであろう。

新羅がすぐに降伏したので、残りの高句麗百済も相次いで日本の支配下にはいることになったことから、そう呼ばれている、と以前に(2018.11.14,NO.67)書いたことがあるが、実際には百済・新羅・加羅などの三韓の征服だったのではないのか。広開土王碑にもそのように書かれているので、高句麗は三韓征伐からは除外した方がよかろう。


ただ、西暦478年の倭王武(雄略天皇)南宋への上表文には次のように記されていることからも、そのこと(三韓征伐)は実際にあったことなのである。

昔より、祖禰(そでい)自ら甲冑をはき、山川を跋渉し寧処(ねいしょ)に暇あらず。東は毛人を征すること55カ国、西は衆夷を服すること66カ国、渡って海北を平らげること95カ国。王道は融泰であり、土を開き、機をはるかにする。


またこのことは、東大名誉教授の江上波夫の「騎馬民族征服説の否定にもつながる事実であった。
江上は、東北ユーラシア系の騎馬民族が、朝鮮半島南部から日本列島にかけて侵攻し、大和朝廷を建てた、と主張した。

しかしこのように日本固有の墓制である前方後円墳が、このように沢山朝鮮半島に存在していると言う事は、北方騎馬民族征服説が真っ赤な架空の物語であることの証明であった。
話は反対で、倭国と日本が朝鮮半島に進出して、朝鮮の南部一帯を支配していたと言う事の方が、歴史的事実であろう。

その昔朝鮮半島には、北から高句麗・帯方郡・馬韓・弁韓・辰韓と言う国が存在し、狗邪韓国がどの程度の範囲を占めていたかは知らないが、相当数の倭人が半島南部には居住していたものと思われる。だから、「韓は、東西は海で、南は倭と接す。」と韓伝には記されていたのである。

その馬韓の50か国ほどの小国が統一されて、4世紀初めに百済となったものである。その百済には北の高句麗に常に圧迫されており、396年には都であった漢城(今のソウル)を占領されてしまい、南の熊津へ遷都せざるを得なかった。

そんな状況であったので、日本の助けを求めて、369年に、七支刀を贈ってきたのである。
これが丁度、神功皇后の時代(356~389)である。

そして広開土王碑の日本国の進出を記述した辛卯年条(391年)へとつながってゆくのである。

そもそも新羅・百済・は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・任那・新羅を破り、臣民となしてしまった」(ウィキペディアより

これが丁度、神功皇后や応神天皇(AD390~AD410)の時代の三韓征伐である。

そして西暦478年倭王武(雄略天皇)南宋への上表文へと続くのである。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(69)

2018-11-19 00:00:00 | Weblog

さて朝鮮半島に、日本の前方後円墳がたくさんあることをご存知だろうか。

A別冊宝島2283B先の書の281頁に、朝鮮半島に存在している前方後円墳の位置を示した地図が載せられている。

それによると、

栄山江(よんさんがん)付近
-半島の西北の角の辺り、木浦・光州あたり、昔の任那・百済地区-14基の前方後円墳(A)

固城(こじょん)・馬山(まさん)・大邱(てぐ)地区
-半島南部中央部の東側、昔の狗邪韓国~伽耶・新羅地区-9基の前方後円墳(B)

ソウル地区-百済の支配地区、2基の前方後円墳(B)

といった塩梅だ。このように、朝鮮半島には相当数の前方後円墳が存在している。


別冊宝島2283、2015.2.13第一刷り発行の「日朝古代史・嘘の起源(監修室谷克実氏)」の70頁には、前方後円墳をブルドーザーで改造して円墳を三つ作り、三基の古墳として論文を発表した朝鮮人の大学教授の話が載っているので、少しそれを紹介しよう。

その前方後円墳は、慶尚南道の沿岸部の固城にある「松鶴洞古墳」である。

この古墳は、戦前の1914年に、日本人考古学者の鳥居龍蔵氏による調査で、その存在は知られていた。

その後1983年に韓国・嶺南大学校の教授の姜仁求(かんいんぐ)氏による精密な外形測量調査が行われ、「韓国の前方後円墳」なる題名で論文が発表された。

そのため、この頃から、「前方後円墳の発祥地は韓国で、倭国へ伝えられた」と、大々的に宣伝され、その後発掘された埴輪などは博物館などにも練列された。

その後の発掘調査で、この「松鶴洞古墳」は「5世紀後半から6世紀後半」に作られたものであることが判り、日本の前方後円墳は3世紀後半頃から作られ始めた「日本固有の墓制」であり、「日本の前方後円墳が朝鮮半島に伝わった」ものであることが明らかにされたのである。

即ち古代において、日本の勢力が朝鮮半島に及んでいたことを示す証拠となったものであった。

尤も3世紀の倭国(日本)は、朝鮮半島の南部に「狗邪韓国」という日本の領土を持っていたことから、こんなこと(前方後円墳は日本由来のもの)は当たり前のことであった。

そのため、いつの間にか、博物館に練列されていた発掘された埴輪なども、撤去されてしまった、という。

朝鮮人としては、さぞかし悔しかったことであろう。まあ悔しがることなんぞではなく、当然の帰結なのであるが。

5世紀後半の朝鮮半島の地図を載せる。

(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%AB%98%E5%8F%A5%E9%BA%97 より)


百済の南部一体が栄山江(よんさんがん)付近で、加耶の沿岸部が固城(こじょん)であり、新羅の北部に大邱(てぐ)がある。この地区一帯に日本固有の墓制である前方後円墳が、存在しているのである。

此の朝鮮半島南端の百済、加耶、新羅の三国に渡って、日本の前方後円墳が20基以上も存在していると言う事は、朝鮮半島南部は明らかに日本が支配していた地域てあったことの証明となろう。

既に我々は勉強しているので、魏志倭人伝の次の文章は知っている。


郡従(よ)り倭に到る。海岸を循(めぐ)りて水行し、韓国を歴(へ)て乍(ある)いは南し乍いは東し、其北岸、狗邪韓國に到ること七千余里。

半島南部はいわゆる韓国のものではなくて、其北岸 と言っている様に日本国の北岸で倭国(日本)の領土である狗邪韓国であった。ここが韓国のものであれば、其南岸 となる筈である。


魏志韓伝にも同じことが記載されています。


一、魏志韓伝(馬韓)

 できるだけ原文に近い文字を使用するよう心がけていますが、フォントの関係で不可能なものもあります。百衲本を使用します。

韓在帯方之南 東西以海為限南與倭接 方可四千里有 三種一曰馬韓二曰辰韓三曰弁韓 辰韓者古之辰國也

「韓は帯方郡の南にある。東西は海をもって限りとなし、南は倭と接す。およそ四千里四方。三種あり、一は馬韓と言い、二は辰韓と言い、三は弁韓と言う。辰韓はいにしえの辰国である。」

 韓の東西は海ですが、南に海はなかった。倭と接すですから、朝鮮半島南端に倭が存在したことになります。帯方郡の南に韓があるという記述は、次の倭人伝の「従郡至倭循海岸水行歴韓国(帯方郡より倭に至るには海岸に沿って水行し韓国をすぎる)」という記述にも影響し、水行の方向を記していません。韓は南にあることが明らかなので、記す必要がないわけです。

http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gisi_kanden/gisi_kanden.htm
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(68)

2018-11-15 00:00:00 | Weblog

もう一つ指摘しておきたいことがある。

それは魏志倭人伝が朝鮮、特に馬韓国ではどのように教えられているか、と言う事である。

それは、別冊宝島22832015.2.13第一刷り発行の「日朝古代史・嘘の起源(監修室谷克実氏」に、書かれていた。それを紹介しよう。

韓国の民族派の運営するサイトに「コリアン・スピリッツ」と言うものがあるそうな。

そこには、「朴ソンス名誉教授の歴史エッセイ」というシリーズある。そのシリーズ第23話(2014.10.26)には、驚くべきことが書かれていると言う。

先ず、タイトルからして、奇妙奇天烈だ、「百済が日本に国を建てた」。

これだけでもKorean朝鮮人痴呆さ加減が、判ると言うものである。馬鹿でないかい、朝鮮人は。と言った表現では物足らない。馬鹿で頓馬で、痴呆で気違いだ、朝鮮人は。


室谷氏の和訳が載っているので、それを紹介しよう。驚くと言うよりも呆れてしまう、


日本古代史は中国の史書、「魏志」倭人伝に至って初めて出てくる。それを見れば、倭人がどこにいたかというと、韓半島の「帯方郡(今の黄海道)から南へ降りて行けば韓国があって・・・。また降りながら海を東南側に行けば狗邪韓国に出る。倭人はすぐそちらに住む」としている。

つまり、韓半島南側に韓国があり、また海を渡って日本の土地には、もう一つの韓国である狗邪韓国があると言う事だ。

すなわち、日本には倭人が暮らしているが、彼らを支配するのは狗邪韓国と言う国だと言うのだ。つまり、日本には百済の分国すなわち植民地があったことを証言している。



我々は既に魏志倭人伝を、詳細に勉強して知っている。決してこんなことは書いていない。

何処をどう読めばこんな文章になるのであろうか。全くの偽造である。誤訳などではない。意識的にこの痴呆名誉教授は、馬鹿話を作っているのだ。馬鹿話はさらに続く。


日本列島に渡った韓国人は百済人ばかりではなく、加耶、新羅、高句麗の人々がいた。私たちの『三国史記』にはそのような事実が記録されていないが、日本には記録はもちろん遺跡・遺物が数多い。日本のあちこちに国を建てた人々は韓国人だ。日本人はまだ野蛮人であり、国をどのように建てるかわからなかった。日本に国が建ったのは7世紀のことだった。
百済が660年に唐・新羅連合軍の攻撃に敗れ滅びたのが、まさに7世紀だった。そのとき、多くの百済王族が船に乗って日本に渡っていったのは、そこが百済だったからだ・・・・・



こんな魏志倭人伝の捏造・偽造した解釈を載せているのは、朴ソンスと言う人物であるが、この痴呆教授は一応大学を卒業していると言う。それもソウル大学史学科、高麗大学大学院史学研究科を卒業し、大学教授にまでなっているらしい。よっぽど馬韓国の大学のレベルは低いと言う事か。

朴ソンスはその後、政府機関の国史編纂委員会の委員に選ばれ、その委員会の編史室長まで歴任しているようだ。

こんな経歴を見れば、一応朴ソンスは、形の上では、韓国歴史学会の最高の権威者の一人であるようだ。

そんな歴史学の一応の権威者が、「日本には百済の植民地・狗邪韓国があり、その狗邪韓国が日本を支配していた」などと言いふらしていると言う事は、「原典を歪曲してデマ解説をしよう」とする意図が見え見えである。

一般的にはKoreanの民度は低い、と思っていても間違いがない。こんなトンでも解釈がまかり通っているからには、相当低い、というよりも、とっても低いと言う事であろう。

だからこんな偽造・捏造した解釈で、馬鹿なKoreanに虚偽の理論武装させようとしているのである。

馬鹿なコリアンは、”わが民族が日本列島に「国づくり」も含めた文明・文化を教えてやったのだ”と思い込んでいるのだ。

しかも馬鹿なコリアンでも、男子には兵役がある。そこでも初年兵教育の「国史」では、「古代韓文明は5大文明の一つで、・・・未開の倭奴(ウエノム)に、わが民族が文明を教えてやった・・・」と教えられる、という。

全く、馬鹿で頓馬で、痴呆で気違いだ、Koreanは。これでよくわかったことであろう。


東夷伝の倭人条


倭人は帶方の東南、大海の中に在り。山島に依りて国邑(こくゆう)を為す。 旧百余国、漢の時、朝見する者有り。今、使訳通ずる所三十国。

郡従(よ)り倭に到る。海岸を循(めぐ)りて水行し、韓国を歴(へ)て乍(ある)いは南し乍いは東し、其北岸、狗邪韓國に到ること七千余里



朝鮮半島・韓国の南部には、日本の領地・狗邪韓国があった。倭人が韓族を支配していた。だから任那・日本府が存在したのだ。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(67)

2018-11-14 00:00:00 | Weblog

ちなみに「三韓征伐」と言われる所以は、新羅がすぐに降伏したので、残りの高句麗百済も相次いで日本の支配下にはいることになったことから、そう呼ばれている、とはWikipediaにも記載されていることである。しかし実際に戦闘があった相手は新羅だけだったので、新羅征伐と言われている。

さて日本書紀神功皇后の条皇紀201年~269年、西暦はAD356~AD389)には、魏志倭人伝のことが引用されていると言う。

(1) 景初三年六月(AD239年)に、卑弥呼は大夫難升米等を帯方郡に遣わし、魏の洛陽まで朝貢している。翌年の正始元年(AD240年)には、詔書や印綬が魏から届けられている。

(2) 正始四年(AD243年)には、倭王(卑弥呼)から使者八人が、献上品を届けている。

(3) 晋の武帝の泰初二年(AD266年)には、倭の女王壱与が何度も通訳を重ねて貢献した記している(晋の国の天子の言行などを記した起居注に)。


このように、
神功皇后の条(皇紀201年~269年、西暦はAD356~AD389

魏志倭人伝からの引用(AD239年 AD240年 AD243年 AD266年

年次を比較してみると、魏志倭人伝の年次が、丁度日本書紀の神功皇后の条の皇紀の年次と、マッチングしている。

神功皇后の条の年次は春秋年であるが、魏志倭人伝の年次は西暦ADである。だから、日本書紀の編著者は春秋年を意識していなかったことが、このことでわかる。

但し、日本書紀では単なる引用であることを示すように、文字の大きさを他より小さくしてある、と先の書273頁には書かれているので、日本書紀の編著者はこんなこともあったそうな、といったニュアンスで書き込んだのであろうとしている。

神功皇后が、ある時は卑弥呼である時は壱与であることは無いのであるから、そんなニュアンスで書き込んだものであろう、としても間違いはなかろう。


そして次には、宋書倭国伝に載るいわゆる「倭の五王」についても、先の書は、答えを出している。

細かいことは、先の書(長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社))を参照願いたいが、次のように結論付けている。



第十六代 仁徳天皇(411~428) 高祖の永初二年、倭讃が貢物を修む
第十七代 履中天皇(429~431)
第十八代 反正天皇(432~433) 讃死して弟珍立つ(シナ文献 年代不詳)
第十九代 允恭天皇(434~454)  使いを遣わして奉献す 安東将軍となす
第二十代 安康天皇(455~457) 世継ぎの 貢献す(年代不詳)
第二十一代 雄略天皇(458~480) 世祖の大明六年 興を安東大将軍・倭国王とすべし
                      興死して弟武立つ・・・


この宋書に書かれている弟とか世継ぎのと言ったことは、全て正しく合致しているものである。

だから讃・珍・済・興・武の一字名の天皇は、上記のようになる。

ではなぜ一字の名前となっているかと言うと、「シナには外交文書を書き替える専門家がおり」彼らが書き替えたものであろう。というのも、「天皇」のの字は、「皇帝」にしか使ってはいけないしきたりがあったために、書き替えられていたものであろう、としている。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(66)

2018-11-13 00:00:00 | Weblog

日本書記神功皇后の条に書かれていることを、簡単に箇条書きにしてみよう。
(先の書265頁、および、神功皇后の摂政(2)百済・新羅外交、http://www.kunakoku.info/sub-07/sub-07-02.html#text-top、を引用。)


(1)摂政五年、
新羅王から朝貢。新羅王は大和朝廷に人質となってなっている弟を帰国させる様、ウソの理由で神功皇后に嘆願したため、それを許す。対馬まで来た時に、新羅の使者に騙されて、葛城襲津彦は人質を逃がしてしまう。葛城襲津彦は使者を捕らえて殺し、新羅に渡り城を落とし漢人を連れて帰る。「三国史記・新羅本記」にも書かれているとと言う。

(2)摂政四十六年、
百済の使いが、日本と親交のある加羅を訪ねて日本への朝貢を申し出る。以後百済の朝貢が始まる。肖古王の時代か。

(3)摂政四十七年
百済王の遣使が新羅の調使と共に来朝する。新羅の貢物は豪華で、百済の貢物は卑賤であった。百済の使いが新羅に襲われて、豪華な貢物を奪われてしまった。百済の使者は脅かされて、新羅の卑賤な貢物を自国の貢物とさせられた。神功皇后は、新羅懲罰の派兵を行った。

(4)摂政四十九年、
神功皇后は、荒田別(わけ)と曽我別を将軍とする軍勢を新羅に派遣、百済兵と共に新羅を討つ
加羅など七国を回復し、済州島を百済に与えた。百済王は感謝して、毎年春秋に朝貢することを約束する。

(5)摂政五十年、
新羅討伐の荒田別(わけ)と曽我別らが帰国する。百済王の使いが来朝する。皇后は加耶の多沙城(たさのさし)を与える。

(6)摂政五十一年、
百済が朝貢してくる。神功皇后と皇太子及び健(武)内宿禰は喜び、帰国する百済の使いとともに千熊長彦を百済に派遣し、日本と百済は堅い同盟で結ばれることにる。

(7)摂政五十二年、369年
帰国する千熊長彦と共に百済の使者が、七枝刀(ななつさやのたち)、七子鏡をはじめ、数々の宝物を献上した。その七枝刀は奈良県天理市の石上神宮につたわる。 七枝刀には「泰和四年六月十一日」の金象嵌が刻まれていた。369年である。
この年にも、大和朝廷は軍を派遣し新羅を破り、加羅(任那)に日本府を置いている。

(8)摂政五十五年、375年
百済の肖古王薨去する。皇子の貴須が王となる。

(9)摂政六十二年、
新羅が朝貢しなかった。葛城襲津彦(武内宿禰の子)を派遣するが、新羅のハニートラップに嵌まり、加羅国を攻撃してしまう。応神天皇は兵を派遣し、襲津彦を攻め加羅を取り戻す。襲津彦は自殺する。

(10)献女外交(貢女)、
朝鮮・新羅は統一新羅となっても、中国王朝(唐、宋、元、明、清)相手に献女外交を続ける。


なお、ここらへんの事情(大和朝廷の朝鮮進出)は、高句麗の好太王が414年に建てた「広開土王碑」に刻まれている。


広開土王碑の日本国の進出を記述した辛卯年条(391年の解釈を次に記す。

そもそも新羅・百済・は高句麗の属民であり、朝貢していた。しかし、倭が辛卯年(391年)に海を渡り百済・任那・新羅を破り、臣民となしてしまった。」(ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BA%83%E9%96%8B%E5%9C%9F%E7%8E%8B%E7%A2%91)

また、この頃(369年から562年、Wikipediaによる)朝鮮半島南部先端に任那が存在していた。百済も含め、倭国の支配地域とされている。そしてこの朝鮮半島南西部地域には13基の前方後円墳が発見されており、更には糸魚川周辺からしか産出されないヒスイの勾玉が同時に多数産出されていることからも倭(大和)国の勢力が確実に及んでいたことも事実であろう。

391年とは、応神天皇の御代である。応神七年の条には、「高麗人、百済人、任那人、新羅人等が来朝し、彼らを使って池を作らせた」とある。この頃から、百済、任那、新羅は日本の臣民、即ち、分国の民となっていたことを、高句麗が忌々し気に刻んでいたのだった、とは先の書282頁の記載である。

それにしても、古代より朝鮮民族と言うのは、嘘つきで信義にもとる民族であることがよくわかる。丁度、今の文在寅の嘘つきと卑怯なところは、全く変わっていない、と言う事だ。まともにつき合うに足る人種ではない。野蛮人よりも性質が悪い、朝鮮人は。

(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(65)

2018-11-12 00:00:00 | Weblog

次に進む前にもう一つ鉄剣の話を追加しておく。

また、熊本県和水町(なごみまち)の江田船山古墳からも、稲荷山古墳出土の剣と同時期に作られたと考えられている銀象嵌銘文75文字が刻まれた大刀が出土している。

そこには次のような文が刻まれていると言う。

洋泉社MOOKの「歴史REAL 古代史の謎・ここまで解明された「空白の時代」2015.4.10発行」の59頁の現代語訳を記す。


「ワカタケル大王の時代にムリテが典曹という文書を司る役所に仕えていた。(この刀は)八月に大鉄釜で丹念に作られた、めでたい大刀である。この刀を持つ者は、長寿で、子孫まで栄え、治めることがうまくいく。大刀をつくったのは伊太●(欠失)で、銘文を書いたのは張安である。」


こちらの大刀にも「ワカタケル大王」の名が刻まれている。

「ワカタケル大王」とは第二十一代雄略天皇だとされているが、日本列島の東西の大型の前方後円墳から、「ワカタケル大王」の名や当時の役所の役職名などを記した刀剣が出土したと言う事は、大和朝廷の支配が列島全域に及んでいたことを示すことになり、大和朝廷自体がしっかりと全国を統治していたことを示すことと考えても間違いではない、という意味のことがその「歴史REAL」には記されせている。


しかしながら大和朝廷の全国統一も、一足飛びに進んだわけではない。

第十四代仲哀天皇と第十五代応神天皇の間に、34年間ほどの神功皇后が摂政を務められた時代があった。


10. 崇神天皇(AD208~AD241)
11. 垂仁天皇(AD242~AD290)
12. 景行天皇(AD291~AD320)
13. 成務天皇(AD321~AD350)
14. 仲哀天皇(AD351~AD355)
・・・神功皇后(AD356~AD389) 摂政期間
15. 応神天皇(AD390~AD410)


神功皇后と言えば三韓征伐が有名であるが、何故仲哀天皇の后の「神功皇后」が新羅の征伐に出向いたのが、という疑問が残るのである。

それと言うのも、話は仲哀天皇の熊襲征伐に始まる。

日本書記によれば、(別冊宝島2429、 「古事記」と「日本書紀」神話の謎、2016.2.16 発行によると)

仲哀天皇は熊襲征伐のために、后である神功皇后と共に、九州の筑紫の橿日宮(かしひのみや、香椎宮)に入る。そして神託を求めて天皇は琴を弾くと、皇后が神懸かりして、「西の方に国がある。その国には金銀をはじめとする財宝が唸っている。今、私はそなたたちにその国を服従させてあげよう」と告げた。

新羅は熊襲と結託して、日本に侵略しようとしていたので、熊襲を討つためには新羅を討つことが急務であった。そのためこのお告げを告げられた天皇は、高見に登って西を見渡したがそのような国は見えなかった。そのため天皇はこの宗教的儀礼の琴弾を止めてしまった。

すると神の怒りを買い、仲哀天皇は神の天罰で身罷られてしまった。そのため神功皇后と建内宿禰は、再三再四神託を求め、新羅遠征細かに指示を仰ぎ、戦の準備を整えて数万の軍勢を指揮して朝鮮半島に向かう。

この時神功皇后は臨月を迎えていたため、「鎮懐石」を腰に挟んで出産を押さえていた。神功皇后の船団は順風満帆で進み、新羅の内部まで進むことが出来た。

この有様を見た新羅王は恐れをなしてすぐさま降伏して、以後は日本の天皇に服従して、毎年、沢山の貢物を献上することを約束する。神功皇后は「降伏したものは殺してはならぬ」と命じて、新羅王を赦免した。しかし新羅王のこの降伏は、偽りであった。

朝鮮征伐後、凱旋した筑紫で皇子をお産みになられた。後の第十五代応神天皇である。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(64)

2018-11-09 00:00:00 | Weblog

先の書の252頁の訳文を次に記す。



「辛亥年七月中記す、私こと乎獲居臣おわけのおみの上祖の名は意富比垝 おおひこ であり、その児の名はカタリノ宿禰、その児の名はテカヨリ別、その児の名はタカハシ別、その児の名はタサキ別、その児の名はハヒテ」


「その児の名はカサハヨ、その児の名はオワケノ臣。世世杖刀人の頭となり、勤め奉り今日に至る。ワカタケル大王の寺、磯城の宮にあるとき、我天下を左治し、ここに此の百錬の太刀をつくらしめ、太刀を奉ったいわれを記すなり」

八代の系図が刻まれ、乎獲居臣の父祖とは第九代・開化天皇の実兄、第八代・孝元天皇の長男、意富比垝(大彦)だった。開化、孝元天皇の実在が明らかになると同時に、日本書記の正しさがまた一つ証明されたことになる。


この概略の意味は、次の通り。


稲荷山鉄剣「オオヒコ」の衝撃!【1】
2017.08.9 皇族

オオヒコの子孫のオワケノオミの一族は、先祖代々、杖や刀を製作管理する、
職業集団のリーダーとなってお仕えし、今日にいたっております。

第21代雄略天皇のワカタケル大王(おおきみ)が、磯城の宮に居られる時、
私は天下のまつりごとをお助けしました。
何度も鍛え丹精こめて製作した刀を造らせて、我が家の輝かしい由緒を記した次第です。

https://kodaishi.net/person/royalty/oohiko



私ことオワケノ臣は、第八代孝元天皇の長男の意富比垝(大彦)の末裔である。第九代開化天皇は、その意富比垝(大彦)の弟である。我々一族は先祖代々、杖や刀を製作管理する、職業集団のリーダーとなってお仕えし、今日にいたっております。

第21代雄略天皇のワカタケル大王(おおきみ)が、磯城の宮に居られる時、私は天下のまつりごとをお助けしました。
何度も鍛え丹精こめて製作した刀を造らせて、我が家の輝かしい由緒を記した次第です。


と言ったところが、その言わんとするところの解釈なのである。


第八代孝元天皇--長男・意富比垝(大彦)--カタリノ宿禰--テカヨリ別--タカハシ別--タサキ別--ハヒテ--カサハヨ--乎獲居臣おわけのおみ(私)


と言う系図をこの鉄剣は示しているわけで、当然のことではあるが、第八代孝元天皇の実在を証明していることになり、意富比垝(大彦)の存在が証明されたことは、その父親が孝元天皇であることから孝元天皇の存在も実証されたことになり、同時に意富比垝(大彦)の弟は第九代の開化天皇と言うことに繋がり、闕史ではなくなることの証明となろう。

ちなみに稲荷山鉄剣の銘文の「辛亥年」は471年で、雄略天皇の御代(458~480年)にこの鉄剣は作られたことになる。


さて先の書255頁は、纏向遺跡のことを述べている。纏向遺跡は、垂仁天皇(AD242~AD290)の御代に作られたと言う。日本書紀の次の一文があるからだ。



日本書紀巻第六

活目入彥五十狹茅天皇 垂仁天皇
いくめいりびこいさちのすめらみこと

二年冬十月、更都於纏向、是謂珠城宮也。
「二年冬十月さらに纏向に都をつくり珠城タマキ宮といった」
http://www.seisaku.bz/nihonshoki/shoki_06.html


垂仁天皇(AD242~AD290)の跡を継いだ第三子の景行天皇(291~320年)も、纏向日代宮(ひしろのみや)で治天下(あめのしたしろしめ)したのである。

時代は、神武天皇から数えて第十一代目であられる垂仁天皇(AD242~AD290)の時代となっている。決して邪馬台国に関係のある国ではない。邪馬台国はあくまでも九州北部に存在した倭国連合である。

(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(63)

2018-11-08 00:00:00 | Weblog

以後次のようにご皇室(天皇)の系図は続いてゆく。
()内は先の書によるが、即位年~崩御年を示し、即位年は原則前帝の崩御年の翌年とする。


1. 神武天皇(BC70~BC33)
2. 綏靖天皇(BC32~BC15)
3. 安寧天皇(BC14~BC1)
4. 懿徳天皇(AD1~AD17)
5. 孝昭天皇(AD18~AD59)
6. 孝安天皇(AD60~AD110)
7. 孝霊天皇(AD111~AD148)
8. 孝元天皇(AD149~AD177)
9. 開化天皇(AD178~AD207)

10. 崇神天皇(AD208~AD241)
11. 垂仁天皇(AD242~AD290)
12. 景行天皇(AD291~AD320)
13. 成務天皇(AD321~AD350)
14. 仲哀天皇(AD351~AD355)


先の表で判ることは、神武天皇、綏靖天皇、安寧天皇、懿徳天皇と、4代にわたり大己貴神(大物主神)の血筋は、全てご皇室に流れ込んていったことになり、他に漏れ出ることは無くなっていったことになる。

そして孝昭天皇孝昭天皇は、尾張連の祖・奥津余曽(おきつよそ)の妹、世襲足媛(よそたらしひめ)を正妃に迎えている。

このことは、ご皇室が尾張の豪族とも深い絆を有しており、敵対する理由は何もないことになる。

と言う事は、一説には尾張を狗奴国に比定する論もあるが、間違いであろう。

そしてご皇室は万世一系と言われているように、代々子孫が連綿と続いておられるのであるから、邪馬台国の卑弥呼のように子孫がなかったと言うことは無く、大和に邪馬台国があったなどと言う事も、明白な間違い事項である。もちろん大和と尾張の狗奴国が争うなんぞと言う事も、架空の話となるのである。

邪馬台国は、この大和朝廷のように強固な血縁関係を築くことが出来なかったことで、衰退していったのではないかと、先の書は250頁で述べている。


もう一つ闕史八代の天皇が、欠史ではないことを証明しよう。

これも先の書の252頁以降で述べられていることである。

それは埼玉県の埼玉(さきたま)古墳群の中で最古級の大型古墳・稲荷山古墳から発掘された金錯銘鉄剣である。

そこには、表57文字、裏58文字が刻まれていたのである。

その文字の中に、「獲加多支鹵大王」(ワカタケル大王、雄略天皇)と言う文字が刻まれていたのであるが、問題はそこに、開化天皇と孝元天皇に言及されることが刻まれていたことである。




銘文の内容[編集]

(表)
辛亥年七月中記乎獲居臣上祖名意富比垝其児多加利足尼其児名弖已加利獲居其児名多加披次獲居其児名多沙鬼獲居其児名半弖比

(裏)
其児名加差披余其児名乎獲居臣世々為杖刀人首奉事来至今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下令作此百練利刀記吾奉事根原也


書かれている文字に読点を打って解釈すると、

「辛亥の年七月中、記す[2]。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒシ(タカハシ)ワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)

其の児、名はカサヒヨ[3](カサハラ[4])。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人[5]の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(「ワ、ワク、カク」+「カタ」+「ケ、キ、シ」+「ル、ロ」)の大王の寺[6]、シキの宮に在る時、吾[7]、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」

特色[編集]
115文字という字数は日本のみならず他の東アジアの例と比較しても多い。この銘文が日本古代史の確実な基準点となり、その他の歴史事実の実年代を定める上で大きく役立つことになった。
(略)
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A8%B2%E8%8D%B7%E5%B1%B1%E5%8F%A4%E5%A2%B3%E5%87%BA%E5%9C%9F%E9%89%84%E5%89%A3
(続く)
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