世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日中戦争は中国の日本侵略戦争であった。(7)

2024-08-27 00:00:00 | Weblog

これを契機にいわゆる第2次上海事変」へと突入してゆくことになるのであるが、その経過を小生のブログ「第2次上海事変(1)」(2012.5.28)より引用して紹介する。 

 

第2次上海事変の発端となったのも、このようなテロ事件であった。 

1937(S12)年8月9日の夕刻、海軍特別陸戦隊の大山勇夫海軍中尉とお付きの運転手の斎藤与造1等水兵の射殺事件は、上海共同租界の国際的自由通行路での中国保安隊による機銃掃射によるものであった。 

 

以下は小生のブログ「第2次上海事変(1)」(2012.5.28)よりの引用である。 

この事件を契機に、8月12日未明中国(国民党)正規軍が上海共同租界の日本人区域を包囲し更に上海各地区に増派してきた。このため日本領事は国際委員会を再招集して中国軍の撤退を要求したが、中国側は聞き入れなかった。日本側は自重を重ねていたが、中国側の好戦的な態度を受けて同日8/12夕刻5時50分に初めて東京の軍令部へ陸軍の派兵を要請する電報を打った。しかし動員には時間が掛かるため、戦闘を拡大しない方針を堅持した。

しかしながら8月13日午前10時半頃には、中国軍は日本軍陣地に機銃掃射を開始した。日本は戦闘が上海の国際区域に拡大しないように防衛的戦術に限定し、中国軍機が飛来し艦船に爆弾を投下しても対空砲火は撃たなかった。

しかし8月13日午後9時頃からは、中国保安隊が海軍上海特別陸戦隊を包囲し、攻撃を開始し戦闘状態に突入した。蒋介石中国軍3万1千名日本人区域を包囲しているのに対し、日本軍は上海陸戦隊の2,200を中心に、各地区からの寄せ集めの軍特別陸戦隊4,000名あまりであった。このため日本海軍は劣勢を補うために渡洋爆撃を発令し、8/14,15,16と台湾や九州から合計延べ74機の96式陸攻を飛ばし中国各地の飛行場を攻撃したが、9機が未帰還、3機が不時着・大破、65名の搭乗員が犠牲となった。それなりの爆撃の効果は挙げたが予想以上の損害を蒙っている。

1933年当時航空本部技術部長であった山本五十六提督の遠距離の海軍の作戦を支援する長距離陸上攻撃機(敵空母を攻撃、水平爆撃が主を攻撃機、急降下する機を爆撃機と呼んだ。)が必要となる意見で開発され、1935(S10)年6月に試作機が、三菱内燃機株式会社名古屋三菱製作所で完成し、1936年6月2日に九六式陸上攻撃機として正式採用された。沈頭鋲や電波航法の採用など意欲的であったが、防弾装備も皆無で機首銃座もなく未だ発展途上の機体であった。
96式陸上攻撃機 

しかしながら8月14日には、日本艦艇を狙い再度中国軍機の空襲が開始された。しかしこの爆撃により、中国軍機の落とした爆弾がフランス租界に着弾し、民間人3,000人の死傷者を出すに至った。同時に上海租界の日本海軍陸戦隊も攻撃されたが、激戦の末撃退している。 

 

この中国軍による爆撃の状況を、「日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP84では次の様に表現している。 

 

バレスホテルとキャセイホテル前の路上では、729人が即死し、861人が負傷しました。数分後には、避難所となっていた大世界娯楽センターの前に爆弾が落ち、1012人が死亡し、1007人が負傷しました。キャセイホテルの犠牲者の中には、戦後駐日大使を務めた英゛ウィン・ライシャワーの兄、ロバート・ライシャワーもおりました。 

 こうした中国軍の暴状に対して、日本の海軍航空隊もこの日夕刻より各地の適飛行場を爆撃、翌15日には交点を衝いて、南京、上海方面に対してと要爆撃を観光し、敵空軍基地に打撃を与えました。今や本格的な戦いとなり、「事変」から「戦争」に転化していました。 

 この日、中国は全国総動員令を下し、大本営を設置、蒋介石が陸・海・空三軍の総司令官に就任して、政治・経済・軍事にわたる広範な戦時体制を実施しました。 

 この事態に日本政府は北支事変を日支事変と改称しましたが、これは事態に対する認識の甘さを示す呼び方といわねばなりません。当動員体制で日本に戦いを挑んできているのを「事変」などと呼んでいては、自体の本質を隠蔽することになってしまうからです。 

 

 

事ほど左様な状況で、1937(S12)年8月31日付けのN.Y.タイムズも「中国軍に責任がある」と述べている。 

 

‥…しかし、上海の戦闘状態に関する限り、証拠が示している事実は一つしかない。日本軍は上海では汕戦闘の繰り返しを望んでおらず、我慢と忍耐力を示し、事態の悪化を防ぐために出来る限りのことをした。だが日本軍は中国軍によって文字通り衝突へと無理やり追い込まれてしまったのである。中国軍は外国人の居住している地域と外国の権益を、この衝突の中に巻き込もうてする意図があるかの様に思えた」(HALLETT ABEND 上海特派員 

 

 

こうして中国共産党は、日本軍を日中戦争へと引っ張り込んて行ったのであり、延安の毛沢東や周恩来の中国共産党の指示通りに、隠れ共産党員の張治中・南京上海防衛司令官が決定的にその役割を果たしたものであった。 

 

いわゆる日中戦争と言われる戦いは、今まで見てきたようにすべて中国共産党軍からの日本人と日本軍への侵略戦争であった。間違ってはいけない、日中戦争はすべて中共軍による日本への侵略戦争だったのである。 

(続く)

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日中戦争は中国の日本侵略戦争であった。(6)

2024-08-26 00:00:00 | Weblog

日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP62によれば、1936年には18件も頻発していたのである。次のそれらを羅列しておく。 

 

 

相次ぐ反日テロ事件(1935年11月~1936年11月) 

 

1.1935.11.9、上海海軍陸戦隊中山秀雄1等水兵射殺される。 

2.1936.1.21、角田汕頭領事館巡査射殺される。 

3.1936.6.30夜、青島で大工の岩田軍三が14,5名の中国人に襲われ危篤状態。 

4.1936.7.10夜、上海で三菱商事社員菅生鈜作が自宅付近で頭を撃たれ即死。 

5.1936.8.20、長沙の湘南旅館に爆弾投擲。邦人1名軽傷。 

6.1936.8.21、北京で森川堡太郎(朝鮮人)が第29軍兵士に殴打され、重傷。 

7.1936.8.24、成都事件。日本の新聞記者4名が暴徒に襲われ2名死亡。2名重症。 

8.1936.9.3、広東省北海で薬や「丸一洋行」を営む中野順三が食事中自宅に乱入してきた抗日団体によって殺害される。 

9.1936.9.17夜、汕頭の日本人商店に爆弾が投げ込まれたが、不発。 

10.1936.9.18、豊台で演習帰りの日本軍1個中隊の小岩井光夫中尉の 

乗馬が馮治安軍兵士に投打され、更に看護兵が暴行させれる。 

11.1936.9.19、漢口の日本租界と旧英国租界の境目で巡邏中だった吉岡庭二郎巡査が後ろから近付いた中国人に後頭部を撃たれ即死した。 

12.1936.9.23夜、上海の海寧路を歩いていた4名の日本水兵を数名の中国人が狙撃した。田港2等水兵が即死。2名が重症。 

13.1936.9.27、長沙の湘潭日清汽船の事務所および倉庫に放火、大事に至らず 

14.1936.10.21夜、上海で海軍陸戦隊関係者が、中国人5名に襲われ、服をずたずたに裂かれ、歯を折られる重症を負った。 

15.1936.11.2、湖南省長沙で在留30年の山岸賢藏が自宅で襲われ首に怪我。 

16.1936.11.5、上海で妻と子供と散策中の鹿児島茂か、ナイフで襲われ、首を怪我した。 

17.1936.11.11夜、上海で高瀬安治(笠置丸船員)が散策中銃撃を受け即死 

18.1936.11.25、上海の光明洋行で店員の林邦彦が硫酸瓶を投げつけられ方に当たったが、無事だった。瓶には「日本人を皆殺しにせよ」     と伝票がつけられていた。 

 

 

そして、「日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP63には、 

 

漠然と日本軍が横暴な振舞をして中国人をいじめていた、といったイメージをお持ちの方もいらっしゃるかもしれませんが、それは全くの見当違いです。 

 この1年間に日本兵による中国市民に対する暴行殺害など1件もなかったにもかかわらず、中国人による日本人殺害・暴行がこの表のように行われていたというのが実態なのです。反日は、政府、軍閥、知識人などのプロパガンダによるところが大きな原因であって、日本軍、日本人が不当なことをしているためではないのです。 

 

と真実が記述されていることに注目したいところである。 

 

しかしながら、小学館の『日本大百科全書』には『…‥日本軍は1937年7月27日、第29軍掃討のため通州を爆撃、自治政府保安隊に大きな損害を与えた。このため保安隊は自治政府に反乱を起こし、‥…在留日本人・朝鮮人二百数十人を殺害した。』と、間違って記載されているのである(P64)。 

 

小学館、直ちに謝罪し「日本大百科全書」改訂すべきである。 

 

 

当然ながら、日本では「暴支膺懲」(暴れる支那をこらしめる)の世論が高まったのであるが、日本政府は、不拡大方針をつらぬき画期的な「船津和平案」を決定したのである。それは満州事変以前の状態に戻そうということで、日本が北支で得た権益をほとんど放棄しようというもので、当時の支那側が要求しているものを大部分盛り込んだものであった(P80)。 

 

そして第1回の和平交渉が、1937(S12)年8月9日行われたが当日の午後6時半ごろ、巡邏中の日本軍派遣隊長ら2名が中国保安隊によって惨殺されるという事件が起こってしまった。 

 

1937(S12)年8月9日夕刻日本軍・上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉とお付の運転手の斉藤與蔵一等水兵が、上海共同租界の国際的自由通行路である記念通り(モニュメントロード)を走行中において、中国保安隊多数に囲まれて機銃掃射を受けて殺された。しかもその殺し方がひどいものであった。 

 

日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP81によると、 

 

大山中尉は全身に大小8ヵ所の銃創、刀創を受け頭部は2つに割れ、顔面半分は全くつぶされ、内臓を露出し、心臓部は拳大の穴をあけるなど鬼畜も及ばざる暴行を加えられていました。 

 例によって中国側は、大山中尉がピストルで中国兵を撃ったので中国側が反撃したなとと言い訳をしましたが、大山中尉のピストルは袋に入れ肩にかけたままでした。しかも、犠牲者として殺されている中国兵を解剖したところ、拳銃ではなく小銃で撃たれていたことも判明し、中国側の嘘が明白となりました。‥… 

では中国側には、というと、この目的、効果を考えればすぐわかります。この事件により、せっかくの船津和平工作は雲散霧消してしまいました。和平が実現しては困る勢力がいたという証拠です。具体的にその勢力、そしてこの虐殺を命令していた人物について、ユン・チアン、ジュン・ハリディ著「MAO」 (マオ、講談社)では、隠れ共産党員であった南京上海防衛隊司令官の張治中であると述べています。 

 目的はもちろん和平の実現を阻止し、戦争へと中国軍を向けることでした。 ‥… 

(続く)

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日中戦争は中国の日本侵略戦争であった。(5)

2024-08-23 00:00:00 | Weblog

さて、通州では「如何に残虐に日本人が殺されてしまったか」と言うことをご理解していただいたと思いますので、別次元の話に移ろう。 

 

 

それは、「通州事件」(1937年7月29日)は、その2年も前に計画されていたという事実である。 

 

次に示すものは「日中戦争真逆の真相」(茂木弘道・史実を世界に発信する会、ハート出版)に書かれているものからの抜粋した「まとめ」である。 

 

まず「通州」の位置関係を示す。 

 

https://xn-ktymtskz-em6m352p.my.coocan.jp/E/china/china4.htm 

出典:太平洋に飲み込まれた日中戦争 

 

まずは「通州」という町がどこにあるかというと、今の北京(当時の北平)の東30km程のところにある町で、450人ほどの日本人が住んでおり、そこは丁度冀東防共自治政府という非武装地帯(上記斜線部分)であり比較的親日的なところであった。熱河省は今の満州地方である。 

 

この冀東防共自治政府の保安隊の責任者の張慶余は、1961年に「冀東保安隊通州県反正始末記」(反正=反乱する)という手記を発表している。それは中国共産党政府の公文書に掲載されているのであるが、それによると「通州事件」は次の様な経過をたどって実行されたものであった(P66~67)。 

 

1. 1933年5月に満州事変が集結し塘沽(タンクー)停戦協定が結ばれ、冀東に非武 

  装地帯が設定され(冀東防共自治政府)、保安隊が設立される。 

 

2. 1935年、冀東政務委員会の委員長に「宋哲元」が就任すると、保安隊の2名の総隊長(張慶余、張硯伝)に反乱資金を渡す。 

 

3. 盧溝橋事件が起こると、総隊長(張慶余、張硯伝)は「通州で反乱を起こす」よう指示される。 

 

4. 1937年7月28日夜12時通州の城門を閉じ、交通を途絶させ電信局と無線台を占拠し、翌29日早朝より通州で殺戮を始めたのである。 

 

やや簡潔にまとめてみたが、通州事件はこのようにして実行されていったものであり、このように2年前から意図されていた中国共産党による日本人大虐殺事件であった。 

 

この冀東保安隊は日本軍によって、指導・訓練された部隊であり、その武器・弾薬、さらには軍事顧問も日本軍が派遣していたものであった。だから飼い犬に噛まれてしまった、と言ったものであったが、中国人は表面的には親日的でもその実は徹底した反日であることと肝に銘ずべきである。 

 

だから日本軍は、この中国人の残虐な行為を宣伝するどころか、この事件を隠蔽しようとする動きすらあったのであり、だから我々一般の日本人はこのような残虐な事件で日本人が多数虐殺されてしまったことを知らされていなかったのである。 

 

事実この残虐極まりない通州における日本人大量虐殺事件は、米国の新聞、雑誌にも映画にもまるでニュースとして取り扱われていなかったのである。 

 

日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP77~78には、近衛秀麿の次のような内容が記述されている。 

 

これはあの残虐極まりない通州における出来事が米国の新聞、雑誌にも映画にもまるでニュースとして取り扱われていなかったとだ。 

 

 通州の大虐殺事件こそ、いかに全日本の憤激が無理でないかを世界に知らしめる最大の材料でなければならない。(中略)現に支那側のニュース映画は日本軍にやられたと称する苦力の死体の山、頭を青龍刀で割られて脳漿の流れ出して屍骸の大写し等々、そして北支でも上海でも、あんなに皇軍を悩ませるだけの防御をしておきながら、自分を弱く見せる事ばかり腐心しておる。それに引き換えて日本の宣伝は、城頭に翩翻ヘンポンとはためく日章旗や威勢のいい行進と万歳ばかりだから、同情がひとりでに支那に集まるのは当然すぎる。これて強いところばかり見せるのが脳でないということをまず宣伝第1課として学ぶ必要がある。 

 

通州事件から学ぶべきことが多々ありますが、特に宣伝、海外発信問題について反省すべきことが大きいと考えます。・・・ 

 

まさにそのとおりであり、反対に中国共産党の宣伝に踊らされて、日本軍は残虐だったという印象が広まってしまったものであり、残虐だったのは中国軍や中国人であり、日本人は至極穏当な人種であり、事実、横浜や神戸の中国人に対しては、日本人からの襲撃などは一切起こってはいなかったのである。 

 

だから現在のインバウンドの外国人が日本に来て、暗黙知として感じているこのような日本のひどい印象と、あまりにも違い過ぎることにびっくりしているのであろう。もともと日本(人)は平穏な国柄なのである。 

だから、広告宣伝は大事なことである。 

 

さて「間島問題」や「万宝山事件」で、入植した朝鮮人が中国人に虐殺されると、その報復として、朝鮮では多くの中国人が殺されているのである。だから日本での生活の方が、中国人にとっては安全で安心であっのである(P74)。 

 

しかしながら中国国内では中国共産党軍やその一派の暗躍で、日本(人)に対する襲撃が絶えなかったのである。 

 

事程左様に、中国国内での「反日テロ事件」は頻発していたのである。 

(続く)

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日中戦争は中国の日本侵略戦争であった。(4)

2024-08-22 00:00:00 | Weblog

そしてもう一つ通州事件で指摘しておきたいことは、この事件は他の都市でも同時多発的に、起こされていたということである。中国29軍の指揮下の5ヵ所で、中国保安隊の反乱が起こされていたのである。しかしこれらは日本軍が完全に阻止したために日本人の虐殺は起こらなかったのであるが、通州では日本守備隊が29軍の鎮圧に出かけていた隙に、中国保安隊が反乱を実行したために多くの日本人が虐殺されてしまったという中国共産党の計画的なものであった(P69)。 

 

そこで小生のブログ「日本近代化の流れ(53)、2017.1.24」に掲載したものを(参考のために)次に載せておくのでご一読願う。 

 

 

このような事実があるにも拘わらず、この手の支那人の極悪非道な行いを、日本軍が行ったとした漫画を描いて、得意になっている非国民がいる。

この漫画は中沢啓治と言う輩が書いた「はだしのゲン」というものだ。

この漫画は、佐々木テンさんの目撃談を読んだ人には、支那人が通州で日本人に対して行った蛮行を余すことなく示したものであるということはすぐにわかるものである。にも拘らず、日本軍の蛮行として描いている。しかも天皇陛下を「最高の殺人者」呼ばわりまでしている、まったくの不埒者である。これはhttp://blogs.yahoo.co.jp/hisao3aruga/38427076.html に載せられていたものであるが、中沢啓治は典型的な支那の宣伝工作員、と断じている。


是非ともこの↓ブログを参照願いたい。

 

中沢啓治死去「はだしのゲン」の作者・天皇陛下を「最高の殺人者」「戦争狂」呼ばわりし、支那軍の蛮行を日本軍の仕業にすり替え、在日朝鮮人は無理やり連れて来られたと嘘八百の愚劣極まりない極左のプロパガンダ
http://blogs.yahoo.co.jp/hisao3aruga/38427076.html 


中沢啓治は、きっと中国共産党の手先で、共産党員だったのでしょう。

特に共産党の党是「共産化こそが歴史の進歩であるから、共産化のためには虐殺・謀略・陰謀、破壊工作・テロ、虚偽宣伝などあらゆる手段が許されせる」というものを、支那人は金科玉条としているから、空恐ろしいと言わざるを得ない。この通州事件は、そのことを現実のものとして世界に示したものである。中沢もこれに殉じたものであろう。

2017.1.5の当ブログの➄で示したように、通州事件は中国共産党が計画し、実行したものであった。国民党の二十九軍の軍長の宋哲元や通州保安隊の隊長らを、共産党工作員たちが仲間に引き入れていたもので、それぞれの部隊には共産党員や共産党シンパが沢山いたものと思われる。この通州事件には、教導総隊という学生部隊や国民党軍本体が動員されていることからも、国民党軍全体に、上から下まで相当数の共産党員が存在していたことが理解されるものである。

中国共産党はもちろんのこと、日本共産党も、決して例外ではない。一種のテロ組織と看做して、扱うことが必要である。




邦人多数虐殺「通州事件」 中国共産党の扇動判明 蜂起部隊に工作員接触
2017.1.4 09:18
中国-北京市通州区

 日中戦争(1937~45年)の開始直後、北京郊外で邦人多数が虐殺された37年7月の「通州事件」で、蜂起した親日地方政権の中国人部隊が、中国共産党の扇動工作を受けていたことが、中国での研究で明らかになった。日中戦争は今年で開始80年となるが、「抗日民族統一戦線」の結成を急ぐ当時の共産党が、敵対する親日政権の軍・警察組織離反を働きかけたことで、惨劇につながる蜂起の素地が事前に形成されていたことが裏付けられた。(編集委員 山本秀也)

                   ◇

 通州事件を起こした「冀東(きとう)防共自治政府」(所在地・通州)の「保安隊」をめぐっては、国民党政権の軍・地方長官と保安隊幹部の通謀が判明する一方、共産党の関与に関しては、日本では可能性が指摘されながら実態が明示されていなかった。

 共産党の関与を示す研究は、党史や地方史に関する報告として、河北省唐山市の機構が運営する研究サイト「政協唐山文史網」や、歴史専門誌「国家人文歴史」などで、近年相次ぎ公表された。

 それによると、河北省周辺での地下活動を統括した共産党北方局(劉少奇書記)の下で、「黎巨峰(れい・きょほう)」「王自悟(おう・じご)」という工作員が、35年の冀東防共自治政府の成立直後から、保安隊の張慶余(ちょう・けいよ)・第1総隊長、張硯田(ちょう・けんでん)・第2総隊長と関係を構築した。

 この接触で、共産党は「抗日救国に一致団結する大義」を張らに植え込んだほか、保安隊内への浸透も進めた。
 さらに、盧溝橋事件に始まる日中戦争以前に華北一帯で頻発した抗日活動も、共産党の工作が奏功したものだと指摘。

 実例として、36年11月、河北省昌黎県を列車で移動中の山海関守備隊長、古田竜三少佐ら日本軍将校5人が、同じ保安隊の兵士に拉致された事件について、共産党に影響された張硯田の指示だったことを明らかにした。

 35~36年当時、毛沢東率いる共産党は、陝西省北部の根拠地で国民党軍の包囲を受けつつ、党勢の立て直しを模索。国民党や親日勢力を取り込む「抗日民族統一戦線」の構築を方針に掲げ、国民党などの支配地域で地下工作を進めていた。

 保安隊工作にあたった黎巨峰は、小学校の教員を務めた地下党員。「通州兵変(クーデター)の推進役」として評価される。事件後は河北省東部(冀東)地区で共産党武装組織の幹部となり、38年8月に同省楽亭県での暴動を組織した。

 張慶余らは、盧溝橋事件(37年7月7日)で日本軍と衝突する二十九軍の軍長などを務めた国民党の宋哲元らと事前に通じ、資金を供与されていたとされる。

 通州事件で、保安隊は7月28日の深夜から行動に移り、第1総隊が日本軍守備隊の攻撃、第2総隊が外部との連絡切断、教導総隊が駅の制圧と日本軍増援部隊の阻止を担当した。共産党が蜂起計画に直接関与したのか、あるいは一般居留民の被害まで想定していたのかはなお不明だ。

 蜂起を指揮した張慶余らは通州事件の後、国民党軍の中将となり、戦後まで生存。中国では「抗日将領」として評価されている。

                   ◇

 【用語解説】通州事件

 日中戦争開始直後の1937年7月29日未明、北京の東にある通州(現・北京市通州区)で、親日地方政権「冀東防共自治政府」(殷汝耕=いんじょこう=政務長官)の保安隊が蜂起した事件。自治政府、日本軍の関係機関のほか、日本人居留民が襲撃され、朝鮮半島出身者を含む200人あまりが死亡した。多くの女性や子供が、きわめて残虐な方法で殺害されたことで、日本の国内世論を激高させた。
http://www.sankei.com/world/news/170104/wor1701040025-n1.html
 

(続く)

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日中戦争は中国の日本侵略戦争であった。(3)

2024-08-21 00:00:00 | Weblog

 旭軒で起こった凌辱と惨劇 日本近代化の流れ(50)

日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。

旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。
日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。

二人とも真っ青な顔色でした。
一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。

しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。
可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。
どうしてやることも出来ないのです。
言葉すらかけてやることが出来ないのです。

二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。
頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。
いやその一部からは出血さえしております。
髪はバラバラに乱れているのです。
とてもまともには見られないような可哀想な姿です。

その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。

女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。
左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。

しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。
只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。

そしてそこにバッタリ倒れたのです。

すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。
そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。

この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。
すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。

私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。
その私をTさん(沈さん)がしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。

そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。

そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。

そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。

人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。

それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。

一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。

そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。
何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。

私はTさん(沈さん)に抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。

それが支那の悪獣どもが充分満足したのでしょう。

何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。

さすがに見ていた多くの支那人達がウォーという唸るような声を出しました。
この多くの支那人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。

そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。
恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。

しかしこれを見ていた支那人達はどうすることも出来ないのです。
私もTさんもどうすることも出来ないのです。

もうこんなところにはいたくない。
家に帰ろうと思ったけれどTさん(沈さん)が私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさん(沈さん)に引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

 

 

これについては自由社ブックレット5「通州事件 目撃者の証言」藤岡信勝編著【通州事件の惨劇(Sさんの体験談)・日本人皆殺しの地獄絵】 http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1 を引用したものである。 

 

また(繰り返しになりますが) 

小生のブログ「日本近代化の流れ(44~52)、2017.1.11~1.23」では、「佐々木テン」さんの体験談の全文を載せていますので是非ご参照願う。 

 

ちなみに「日中戦争真逆の真相」(Page52)によれば、犠牲者数は天津警察通州分署の公式記録によると、次の通りであるが集計漏れを考えれば実際の数字はもっと多かったのであろう。 

 

死者数 内地人114人、朝鮮人111人、守備隊32人、合計257人 

 

しかもこの残虐性は米国人ジャーナリストのフレデリック・ヴィンセント・ウイリアムズが「古代から現代までを見渡して最悪の集団屠殺として歴史に記録されるだろう」とまで言っているのである(P52)。 

 

しかもこの残虐な蛮行は通州だけに限らず、中国人はモンゴル人に対しても文化大革命の時に行っているのである。それは内モンゴル自治区の西トゥメト地区で、人民公社の共産党書記が中国人を集めて、モンゴル人女性に対して通州で行ったと同じ暴行・虐殺を行っていたのである(P60)。 

(続く)

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日中戦争は中国の日本侵略戦争であった。(2)

2024-08-20 00:00:00 | Weblog

(1) 7/7,深夜(23時頃か)北京大学構内の通信所から、延安の中共軍司令部に緊急無線で「成功了」(成功した)との3回の反復送信があったことが日本軍(?)の天津の特殊情報部で傍受されていたのである。 

 

(2) 更に中国共産党は、即座に中央委員会名で、「徹底抗戦」を訴える長電を 7/8に打っている(七八通電)。 

  しかもその内容が、完全に間違っているのである。 

  その間違っている内容は、 

   

  (a) 日本軍は7/7夜10時に、中国軍に攻撃を開始してきた。 

  (b) 全国の同胞諸君、抗戦している軍を称賛・支持して、全軍を

   動員して応戦しよう。 

   

  というものであったが、日本軍は7/7,夜10時には攻撃していな

  い。攻撃はその7時間後の7/8の5時30分過ぎのことである。 

   

 (3) このことは、7/7,23時の「成功了」の受信で、かねてより計

   画・作成し ていた七八通電を打電したからなのである。だか

   ら7/8の5:30の日本軍の最初の攻撃には言及されていないので

   ある。 

   
   このことは、中国共産党が「盧溝橋事件」を前もって計画し実

   行したことを如実に示しているものであり、突発的な紛争では

   なかった。 

 

 (4) そして4日後には現地29軍(蒋介石)と停戦協定が成立してい

   る。しかもそこには、「共産党が実行者なので取り締まる。

   とまで記載されているのである。 

 

 (5) 中国共産党の計画したこととは真反対な状況になってしまった

   ために中国共産党は「停戦協定破り」を開始していったのであ

   る。

   そして日本人や日本軍に対する攻撃が頻発することになる。 

 

 (6)なぜ中共軍が執拗に日本側に戦いを仕掛けてきたかというと、

   それは 

   コミンテルンが事件拡大を指令していたからである。 

   コミンテルン(ロシアに本部を置く国際共産党組織)の1937

   年7月指令がそれであり、内容は次の様なものである。 

   

 「日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)のP42によれば、 

 

   ①局地解決を避け日中全面衝突とせよ 

   ②局地解決を図る要人は殺せ 

   ③民衆に工作して見方にせよ 

   ④対日ボイコット拡大 

   ⑤共産党は国民党を凌駕せよ 

 

   と言ったもので、この盧溝橋事件は単なる偶発的なものではな

  くて、あくまでもロシア共産党が中共に指示して、日本への挑

  発・侵略を図っていたものである。 

 

 (7)その後も7/25夜の「廊坊事件」7/26「広安門事件と立て続

   けに中国軍から日本軍は銃撃をうけたために、増派を決定す

   る。 

 

 (8)この様に協定破りが続いたために、とうとう日本軍は中国29

   軍に開戦通告を7/27に送付し翌28日より掃討作戦を遂行し、

   7/29には掃討作戦(平津ヘイシン掃討作戦)は終了している。 

 

 

・・・と「盧溝橋事件」だけを見ても、中国共産党による本への執拗な侵略行為が続けられたことから、やむなく日本軍が立ち上がったものであり、日本軍から仕掛けたものでもなく、更には、日本居留民が横暴であったからでもないのである。あくまでも、コミンテルン指令による日本への侵略戦争だったのである。 

 

このことは、口を酸っぱくして言っても、言い過ぎることはない。 

 

 

盧溝橋事件 

通州事件など日本近代化の流れ(44~52)、2017.1.11~1.23 を参照の事) 

第二次上海事件第2次上海事変、2012.5.28~6.9 を参照の事) 

いわゆる南京事件日本近代化の流れ(58)、2017.1.31 を参照の事) 

          上記の他には下記参照の事。 

(1) 「南京大虐殺の虚構宣伝と胡錦濤の秘密工作に騙されるな」(2007.6.6~9)
(2) 「中国・虚妄のプロパガンダ」(2008.2.8~20)
(3) 「戦後70年談話はヒストリーで」(2015.6.8~8.12)→特に8.4のNO.45 

 

 

と組織的に中国共産党は日本(軍)を挑発し戦争を仕掛けて、いわゆる日中戦争に引っ張り込んだのであった。 

 

さて盧溝橋事件の次は、あの悪名高い「通州事件」について述べてみたい。 

 

この平津掃討作戦が終了した日の早朝、通州で大事件が勃発したのである。 

 

通州事件」については新聞や各種証言で伝えられているが、その事件の目撃者である日本人の「佐々木テン」さんの証言が存在している。 

 

その目撃証言は、小生のブログ「日本近代化の流れ(44~52)、2017.1.11~1.23」に載せているので、すでにご承知のことと思いますが、今一度ご参照願いたい。 

 

参考までにその一部を次に載せるが、是非とも上記を参照願う。 

(続く)

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日中戦争は中国の日本侵略戦争であった。(1)

2024-08-19 00:00:00 | Weblog

さて中国害六省(ガイムショウ)6月3日の記者会見報道官の「靖国神社は、日本軍国主義による侵略戦争の精神的な道具であり象徴だ」という言いぐさについて反論しておこう。 

 

単刀直入に言うと、これは全くのお門違いであり、侵略戦争をはじめたのは、中国共産党軍であり、中共軍が蒋介石軍に追い詰められたために、蒋介石を誘拐して共産党軍ではなくて日本軍と戦争するように仕向けていった「中国軍からの日本への侵略戦争」だったのである。 

 

 

中共軍は日本を戦争に引っ張り込むために、日本居留民を意図的に虐殺して日本を挑発し続けたのである。 

 

日本居留民が中共軍に虐殺された事件は、 

 

・南京事件(S2年3月) 

・済南事件(S3年5月) 

・通州事件(S12年7月29日) 

 

と立て続けに3件も起こっているのである。 

細部は「日本近代化の流れ(54)」(2017.1.25)などを参照のこと。 

 

この・南京事件(S2年3月)は、ちなみに中国共産党政府が宣伝しているいわゆる「南京大虐殺事件」とは異なる。 

 

いわゆる「南京大虐殺事件」は1937(S12)年12月初旬から、南京城に逃げ込んだ中国軍を掃蕩した時に起こったとされる事件だが、これは日本軍が引き起こしたものではなく、中国軍自身が行った殺戮事件なのである。 

 

しかもなぜ南京城を攻めなければならなかったかと言えば、1937(S12)年8月12日未明、「第2次上海事件」で中国軍3万人余(その後増援されて7万人となる)が上海の日本人租界を突如として襲撃してきたからであり、それを防ぐために4千人に日本海軍特別陸戦隊が防戦に努めたのであり、その後増援部隊と共に中国軍を追跡した戦いである。中国軍、実態は国民党軍に潜んでいた共産党員の張治中という指導者に率いられたものであり、この2週間前には230名の日本居留民が虐殺された通州事件が起こっており、そのため日本軍は大損害を出しながらも日本人租界を死守したのである。その後、日本軍に追われて南京場内に逃げ込んで、軍服を脱いで便意兵となり狼藉の限りを尽くしたので、日本軍による掃討戦が行われて中国軍は鎮圧されたものである。しかしながら、いわゆる日本軍による虐殺などは起こっていないのである。 

 

第2次上海事件」については小生の同名のブログ2012.5.28~)を参照願いたい。 

 

実際の虐殺が起こっていたのは、中国軍内部での反乱鎮圧のための中国軍による大量虐殺であった(督戦隊による逃亡兵の殺害など)。詳しくは小生のブログ「戦後70年談話はヒストリーで!(45)」(2015.8.4)を参照願う。 

そこには、 

「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉という新聞記事が掲載されているので、ぜひ参照願う。 

 

 

また、ちなみに日本海軍特別陸戦隊として日本人租界を守るために駐屯していた軍隊は、1900(M33)年の義和団の乱での事後処理に関する最終議定書である「北京議定書」で、自国民を守るために駐留が認められたものであり日本が無断で駐留させた軍隊ではない。義和団事件で被害を被った8ヵ国の軍隊の駐留が認められて駐留していたものである。 

 

ちなみに連合国の8ヵ国とその兵力とは、 

 

大日本帝国(5,600人、0.17人/1居留民当たり) 

ロシア帝国 

イギリス帝国(1,008人、0.34人/1居留民当たり) 

フランス共和国(1,823人、3.04人/1居留民当たり) 

アメリカ合衆国(1,227人、0.49人/1居留民当たり) 

ドイツ帝国 

イタリア王国 

オーストリア=ハンガリー帝国 

 

であり、日本軍は居留民の数が多かったので兵力は他国よりは多かったのであるが、居留民一人当たりからすると、最小の兵力であった。 

しかしそれでも、映画でも有名な北京城で55日間の籠城戦を戦い抜いたものであり、それを指揮した日本の駐在武官であった柴五郎中佐の武勇と戦術が、この籠城戦を成功に導いたものであった。この功績により、各国政府から勲章を授与されている。 

 

中国共産党(軍)は、組織的に日本軍を蒋介石軍と戦わせるように仕向けて行ったことは、盧溝橋事件の経過を見ればよくわかる。 

 

日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)によれば、 

 

(1) 1937(S12)年7月7日、22時40分頃盧溝橋付近での日本軍の演習が終了。演習は実弾を使わないもので、付近に駐留している中国29軍には事前 通告済み。 

 

(2) するとその時(22時40分頃)その日本軍に数発の銃弾が撃ち込まれた。その後さらに、十数発の銃弾が撃ち込まれた。  

 

(3) 翌朝7/8の3時25分にも、3発 、 5時30分にも、4回目の銃撃を受ける。 

 

(4) 日本軍はこの4回目の銃撃を受けたために、初めて反撃を開始する。最初の銃撃から7時間後のことである。 

 

これも中国共産党軍の仕業であった。これだけでも日本軍が侵略したものではなくて、中国共産党軍による日本軍への挑発と侵略であったことがよくわかるものである。 

 

それは日本軍が中国共産党(軍)の挑発になかなか乗らなかったために、最初の7/7,22:40から7/8の5:30の間、7時間もかけて執拗に4回も銃撃して挑発してきたのである。 

 

しかもこれには次の様な”オチ”がついていた。しかしそれはコミンテルンによる宣戦布告でもあった。 

(続く)

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こんな奴は追放してしまえ!(25)

2024-07-24 00:00:00 | Weblog

中共軍は日本を戦争に引っ張り込むために、日本居留民を意図的に虐殺して日本を挑発し続けたのである。 

 

日本居留民が中共軍に虐殺された事件は、 

 

・南京事件(S2年3月) 

・済南事件(S3年5月) 

・通州事件(S12年7月29日) 

 

と立て続けに3件も起こっているのである。 

 

この・南京事件(S2年3月)は、ちなみに中国共産党政府が宣伝しているいわゆる南京大虐殺事件」とは異なる。 

 

いわゆる「南京大虐殺事件」は1937(S12)年12月初旬から、南京城に逃げ込んだ中国軍を掃蕩した時に起こったとされる事件だが、これは日本軍が引き起こしたものではなく、中国軍自身が行った殺戮事件なのである。 

 

しかもなぜ南京城を攻めなければならなかったかと言えば、1937(S12)年8月12日未明、「第2次上海事件」で中国軍3万人余(その後増援されて7万人となる)が上海の日本人租界を突如として襲撃してきたからであり、それを防ぐために4千人に日本海軍特別陸戦隊が防戦に努めたのであり、その後増援部隊と共に中国軍を追跡した戦いである。中国軍、実態は国民党軍に潜んでいた共産党員の張治中という指導者に率いられたものであり、この2週間前には230名の日本居留民が虐殺された通州事件が起こっており、そのため日本軍は大損害を出しながらも日本人租界を死守したのである。その後、日本軍に追われて南京場内に逃げ込んで、軍服を脱いで便意兵となり狼藉の限りを尽くしたので、日本軍による掃討戦が行われて中国軍は鎮圧されたものである。しかしながら、いわゆる日本軍による虐殺などは起こっていないのである。 

 

第2次上海事件」については小生の同名のブログ2012.5.28~)を参照願いたい。 

 

実際の虐殺が起こっていたのは、中国軍内部での反乱鎮圧のための中国軍による大量虐殺であった。詳しくは小生のブログ「戦後70年談話はヒストリーで!(45)」 (2015.8.4)を参照願う。 

そこには、 

「南京大虐殺は自分たちがやった」と告白した国民党少尉という新聞記事が掲載されているので、ぜひ参照願う。 

 

 

また、ちなみに日本海軍特別陸戦隊として日本人租界を守るために駐屯していた軍隊は、1900(M33)年の義和団の乱での事後処理に関する最終議定書である「北京議定書」で、自国民を守るために駐留が認められたものであり日本が無断で駐留させた軍隊ではない。義和団事件で被害を被った8ヵ国の軍隊の駐留が認められて駐留していたものである。 

 

ちなみに連合国の8ヵ国とその兵力とは、 

 

大日本帝国(5,600人、0.17人/1居留民当たり) 

ロシア帝国 

イギリス帝国(1,008人、0.34人/1居留民当たり) 

フランス共和国(1,823人、3.04人/1居留民当たり) 

アメリカ合衆国(1,227人、0.49人/1居留民当たり) 

ドイツ帝国 

イタリア王国 

オーストリア=ハンガリー帝国 

 

であり、日本軍は居留民の数が多かったので兵力は他国よりは多かったのであるが、居留民一人当たりからすると、最小の兵力であった。 

しかしそれでも、映画でも有名な北京城で55日間の籠城戦を戦い抜いたものであり、それを指揮した日本の駐在武官であった柴五郎中佐の武勇と戦術が、この籠城戦を成功に導いたものであった。この功績により、各国政府から勲章を授与されている。 

 

中国共産党(軍)は、組織的に日本軍を蒋介石軍と戦わせるように仕向けて行ったことは、盧溝橋事件の経過を見ればよくわかる。 

 

日中戦争真逆の真相」(茂木弘道著)によれば、 

 

(1) 1937(S12)年7月7日、22時40分頃盧溝橋付近での日本軍の演習が終了。 

  演習は実弾を使わないもので、付近に駐留している中国29軍には事前 

  通告済み。 

 

(2) するとその時(22時40分頃)その日本軍に数発の銃弾が撃ち込まれた。 

  その後さらに、十数発の銃弾が撃ち込まれた。  

 

(3) 翌朝7/8の3時25分にも、3発 

        5時30分にも、4回目の銃撃を受ける。 

 

(4) 日本軍はこの4回目の銃撃を受けたために、初めて反撃を開始する。 

  最初の銃撃から7時間後のことである。 

 

これも中国共産党軍の仕業であった。これだけでも日本軍が侵略したものではなくて、中国共産党軍による日本軍への侵略であったことがよくわかるのである。 

 

 

・・・と見てきたように、中国共産党は、 

 

・盧溝橋事件 

・通州事件など 

・第二次上海事件 

・いわゆる南京事件 

 

と組織的に日本軍を挑発し戦争を仕掛けて、いわゆる日中戦争に引っ張り込んだのであった。 

(終わり)

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こんな奴は追放してしまえ!(24)

2024-07-23 00:00:00 | Weblog

靖国神社落書きの中国籍29歳男の逮捕を発表 仲間の中国籍男2人にも逮捕状 器物損壊疑い 

 

2024/7/9 17:22 

 


警視庁麹町署に入る姜卓君容疑者=9日午後、東京都千代田区(桐原正道撮影) 

 

東京都千代田区の靖国神社で石柱に落書きが見つかった器物損壊事件で、警視庁公安部は9日、器物損壊礼拝所不敬の疑いで、中国籍の埼玉県朝霞市、職業不詳、姜卓君(ジアン・ジュオジュン)容疑者(29)逮捕したと発表した。また、同容疑で、いずれも中国籍の董光明(ドン・グアンミン)容疑者(36)許来玉(シュー・ライユー)容疑者(25)の逮捕状を取り、指名手配した。 

 

逮捕容疑は共謀の上、5月31日午後9時55分ごろから午後10時ごろまでの間、靖国神社敷地内で、神社名を刻んだ「社号標」という石柱に赤いスプレーを吹き付け、「Toilet(トイレ)」と落書きして損壊(損害見積額420万円)し、礼拝所に対して公然と不敬な行為をしたとしている。 

 

公安部によると、董容疑者落書きし許容疑者その様子を撮影姜容疑者は2人と行動をともにし、スプレーを購入するなどしていた。董、許容疑者は5月29日に入国し、31日夜の落書き直後の6月1日未明の便で羽田空港から中国・上海に出国した。 

 

落書きする様子は、中国の動画投稿アプリ「小紅書(レッド)」に投稿されていた。董容疑者とみられる男が「アイアンヘッド」と名乗り、石柱の台に登り、石柱に向かって放尿しているようなしぐさをした後、赤いスプレーで落書きする様子が映っていた。 

 

事件を巡っては、上川陽子外相が6月4日の記者会見で、外交ルートで中国政府に懸念を伝えたと明かした。 

 

一方、中国外務省の毛寧(もう・ねい)報道官は6月3日の記者会見で「外国にいる中国公民は現地の法律を順守し、理性的に訴えを表現するよう注意を促したい」と注意喚起した。 

 

https://www.sankei.com/article/20240709-7IH73G523VM2VOOJDO7TZH7DOQ/ 

 

 

そしてRecord China・レコードチャイナでは、逮捕された人物が「なぜ日本にとどまっていたのか」と疑問を呈しているが、これって中国人は捕まらなければ悪事を働いても問題ない、という考え方のようだ。これは恐ろしいことだ。 

 

しかも、すぐにでも釈放されるとでも思っているのか。何年も牢屋にぶち込んておいてほしいものだ。 

 

 

靖国神社落書きの中国人を逮捕、中国ネットで賛否=「なぜ日本にとどまった?」と驚きの声も 

Record China    2024年7月10日(水) 12時0分 

 


東京千代田区の靖国神社の石柱に落書きをしたとして、在日中国人の男が器物損壊などの容疑で警視庁に逮捕された。写真は靖国神社。 

 

東京千代田区の靖国神社の石柱に落書きをしたとして、在日中国人の男が器物損壊などの容疑で警視庁に逮捕された。 

 

逮捕されたのは埼玉県朝霞市に住む中国籍の姜卓君(ジアン・ジュオジュン)容疑者(29)。姜容疑者は仲間と共謀して5月31日午後9時55分ごろから午後10時ごろの間、靖国神社の石柱にスプレーで「Toilet(トイレ)」と落書きした疑いが持たれている。 

 

犯行の様子は動画で撮影されており、中国のSNS上で拡散された。警視庁は動画内に登場した「鉄頭(アイアンヘッド)」を名乗る董光明(ドン・グアンミン)容疑者と、許来玉(シュー・ライユー)容疑者についても逮捕状を取り、指名手配しているが、2人はすでに中国に帰国している。 

 

姜容疑者の逮捕は中国のSNS上でも伝わっており、ネットユーザーからは「日本政府がこんなささいなことを取り上げて中日友好を害しておるぞ」「日本人はスプレーの落書き程度で騒ぎすぎ」「民族の英雄だ」「日本側が反省すべき」といった声が上がる一方、「自業自得だ」「自国人のこういう行為には賛成できない」「中国のイメージを害する行為で支持できない」「これは愛国心とは関係ない」「ただ金を稼ぐのが目的なだけ」「重罰に処すべき」といった批判的な声も出ている。 

 

また、「なぜ日本にいた!?」「こんなことをしておいて日本にとどまる勇気はどこから?」など、犯行後も中国に帰国しなかったことに驚く声も多く寄せられている。(翻訳・編集/北田) 

 

ttps://www.recordchina.co.jp/b936786-s25-c30-d0052.html 

 

 

 

 

さてもう一つの、中国の害六省(ガイムショウ)の報道官の「靖国神社は、日本軍国主義による侵略戦争の精神的な道具であり象徴だ」という言いぐさについて反論しておこう。 

 

単刀直入に言うと、これは全くのお門違いであり、侵略戦争をはじめたのは、中国共産党軍であり、中共軍が蒋介石軍に追い詰められたために、蒋介石を誘拐して共産党軍ではなくて日本軍と戦争するように仕向けて行った「中国軍からの日本への侵略戦争」だったのである。 

(続く)

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こんな奴は追放してしまえ!(23)

2024-07-22 00:00:00 | Weblog

警視庁では器物損壊容疑で捜査を進めている」とか「政府の対応の甘さを指摘する声も多い」と言った一般の論調なのであるが、早速全世界へ指名手配の手続きをしてもらいたいものである。 

 

中国政府は中国政府で、「反日投稿」がネット上に氾濫してきたために、取り締まりを始めたようだ。このネット上の動きが、中国共産党政府に向かってくることを恐れているのであろう。しかしながら中国政府の本心は、この「反日投稿」を喜んでいるのではないのかな。 

 

次の「仇日言論」を取り締まりだしだという論考を参照願う。 

 

 

 

「仇日言論」が氾濫、中国プラットフォームが取り締まりを開始―香港メディア 

Record China    2024年7月1日(月) 11時0分
 

中国のネット上で「仇日言論」が氾濫する中、複数のプラットフォームが取り締まりに動き出した。写真は東京都千代田区「アウトサイダー中文館(中国名:局外人書店)」で行われた追思会。© Record China 

 

香港メディアの香港01は6月30日、中国のインターネット上で「仇日言論」が氾濫する中、複数のプラットフォームが取り締まりに動き出したと報じた。 

 

記事は、「中国の民間の嫌日感情は両国の外交関係の善し悪しによって変化する」と指摘。過去数カ月、中国のネット上では同国内の日本人学校を問題視するショート動画や「スパイを養成している」といったデマが相次いでいたことを紹介し、「これらはいずれも(中国内で)事実ではないとの訂正を受けているが、意図的なデマが両国関係に深い傷を負わせる可能性は依然としてくすぶっている」と論じた。 

 

一方で、江蘇省蘇州市での日本人母子襲撃事件後、こうした動画の一部が削除され、一部はアクセスが制限されていると紹介した。 

 

中国の大手ポータルサイト・網易は29日に声明を出し、「一部ユーザーが極端な民族主義感情をあおり、内容を歪曲(わいきょく)、さらにはでっち上げて不適切な発言をしている」と指摘。中には、先の襲撃事件で日本人母子らをかばって亡くなった胡友平さんを日本のスパイだと中傷したり、日本人ジェノサイドを呼び掛けたりするような発言もあったという。 

 

声明によると、網易は直ちに特別調査を実施し、同事件に関する行きすぎた解釈、集団の憎悪や民族感情を煽り立てる極端な投稿を行ったユーザーなどに対して投稿禁止などの措置を行ったという。 

 

また、中国版TikTokの抖音(ドウイン)も30日、胡友平さんの死が広く関心を集めているが、当プラットフォームは極端で誤った発言に厳しく対処すると表明した。 

 

記事はあるネットユーザーの声として、「中国のプラットフォームやSNSでは極端な民族主義言論がはびこっている。トラフィックが見込めるということから長きにわたりプラットフォームは黙認し、あるいは歓迎していた。より多くのプラットフォームが網易に続いて取り締まりを行ってほしい」と伝えている。(翻訳・編集/北田) 

 

https://www.recordchina.co.jp/b936238-s25-c100-d0052.html 

 

 

中国政府がこの「仇日言論」を取り締まりだしたということだが、日本ではこの中国の「落書き男」達に逮捕状が出て、日本に住んでいる中国人が逮捕されたということだ。この「落書き男」達は2人ではなくて、3人だったということで、実行犯の2人は中国へトンずらしたが、在日の中国人犯人が逮捕されたとのこと、矢張り日本に協力者がいたと言うことだ。 

 

上川陽子外相は「中国政府に懸念を伝えた」と言うことの様だか、こんな軽い抗議ではなくて、「ふつふつとした怒りをぶつけた」というくらいの猛抗議をしておくべきではないかい? 甘すぎる。 

(続く)

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