世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

「日本学術会議」は親共・容共組織(1)

2020-11-30 00:00:00 | Weblog

 多くの皆さんは、「コミンテルン」という言葉を知っておられることでしょう。

Communist International、共産主義インターナショナルだとWikipediaには書かれているが、「世界共産主義」とでも言いましょうか、世界共産革命を目指す組織である。

小生もあまり詳しくはないが、近代では「第三インターナショナル」とも呼ばれていた様で、世界革命のための世界的な政治結社、なのである。

Wikipediaによれば、「コミンテルン・第三インターナショナル」というものは、ロシア共産党(ボリシェヴィキ)が音頭を取り、世界(共産)革命の実現を目指すために、1919年3月にモスクワで造られた組織なのだそうだ。

色々と紆余曲折があった様だが、現代では、資本主義社会に潜り込んで、気づかれることなく大衆を味方に呼び込んで、内部から資本主義社会を崩壊させて共産主義化を推し進めてゆこうとすることを目的としている。

その際には場合によっては、暴力革命、いわゆる資本主義国同士や資本主義国と共産国との戦争を引き起こして、資本主義社会を混乱させて共産主義社会の樹立を図ろうとすることもやぶさかではないとしている。そのためには、共産主義者たちは、戦争は悪ではなくて善であると認識しているものとみえる。

この場合の戦争は、当然世界同時戦争などではなくて、個々の国ごとに撃破してゆくこととなり、攻撃目標としては、日本、ドイツ、ポーランドが選定され、英・仏・米の資本主義国家と敵対させて国力をそぎ落とし共産革命を成し遂げてゆこうとしたのであった。

そのため、攻撃目標とされた日本とドイツは、1936(S11年)年11月25日に「日独防共協定」を結ぶことになる。

そして支那共産勢力は、満州や南京、上海、北京などで、日本人居留民の虐殺や日本の権益への侵略を盛んにやりだしたのである。だから日中戦争は、米国に支援された中国やロシアが、嫌がる日本を無理やり引き込んで惹き起こした戦争であった。

今もその中国は、日本の固有の領土である尖閣諸島を掠め取ろうと、領海侵犯を繰り返している。支那・中国の魂胆は、今も少しも変わってはいない。恐ろしいことである。

米国内では、財務次官補であったユダヤ人で共産主義者ハリー・デクスター・ホワイトが、当時の日本の手足を縛ってしまうかのような厳しい通達の「ハル・ノート」を作成し、ハル国務長官がフランクリン・ルーズベルト大統領に提出し採用されて、日本国に提示され大東亜戦争へと日本を引きずり込んでいったものであった。


そんなわけで、日本共産党は、コミンテルンの日本支部として1922(T11年)年に正式に承認されている。

だから、日本共産党は、世界共産テロ組織の日本支部なのである。恐ろしいことである。

だから今回の中国武漢・新型コロナウイルスの日本での蔓延も、日本共産党は密かにほくそ笑んでいるのかもしれないのだ。ひょっとしたら、、蔓延に手を貸しているかもしれない、と言うこともあり得る。病院などで起こっているクラスターには、日本共産党の手によるものもあるのかも知れない。

コミンテルン(世界共産党)は、単なる組織の呼称ではない。厳然たるテロ組織(的性格を持っていたため)であるため、厳密な加入条件が存在していた。Wikipediaによれば次のようなものである。


社会民主主義勢力に対しては、ボリシェヴィキはコミンテルンの加入条件を厳格化することで対応しようとした。1920年のコミンテルン第二回大会で採択された21箇条の加入条件には、内乱へ向けての非合法的機構の設置(第3条)、党内における「軍事的規律に近い鉄の規律」(第12条)、社会民主主義的綱領の改定(第15条)、党名の共産党への変更(第17条)、コミンテルンに反対する党員の除名(第21条)などが盛り込まれた。

(https://ja.wikipedia.org/wiki/コミンテルン)
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(74)

2020-11-06 00:00:00 | Weblog

まあこのように北海道には、北からホモ・サピエンスたちがやって来たことは確からしい、という結論で北海道ルートの話は終わっている。若干尻切れトンボ的な感もするが、その後の経過は、縄文・弥生時代の話となってゆくのであろう。

北海道へ渡ってきた北のホモ・サピエンスたちのその後の行動が分かれば、なお面白い話になったものと思われるが、彼らは本州へは渡っては来なかったのではないのかな、と小生は思っている。その代りに本州より、ホモ・サピエンスたちが北海道に渡っていたのではないのかな。遺跡からすると、その可能性の方が高い。

と言うことで、海部陽介氏の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)の話も終わりに近づいてきている。

彼らは、というのは南ルート、北ルートのホモ・サピエンスたちは夫々単独で古本州島(日本列島)へ渡ってきた訳ではない筈だ。古本州島にはそのような単独の遺跡は(それほど)見当たらないのだ。対馬ルートの日本列島人が繁栄していたために、北海道ルート、沖縄ルートのホモ・サピエンスたちは、古本州島へはそれほどの影響を及ぼさなかったのであろう。

なお、ヒマラヤ北ルートのホモ・サピエンスたちは、石刃技法と言う文化を持つ集団であり、反対にヒマラヤ南ルートのホモ・サピエンスたちは、繊細な石器文化はない代わりに航海術には長けていた集団であった。

その南北混合集団のホモ・サピエンスたちが対馬ルートを渡って古本州島へやって来たのであるが、しかし北ルートの石刃技法は、古本州島の3万8000年前頃に現れた旧石器時代の遺跡には全く見当たらないのである。その代り、台形様石器、刃部磨製石斧、環状ブロック群と言う日本列島独特の特徴を示しているのである('20.10.07のNO.52を参照のこと)。

この変わりようは、南・北ルートのホモ・サピエンスたちが混ざりあった結果、石刃技法の代わりに工夫して作りだしたものだったのかもしれないのだ。但し、この石刃技法が古本州島に現れたのは、対馬ルート(3万8000年前)に遅れること4000年の3万4000年前頃のことである。

北ルートの集団と南ルートの集団は、4万8000年前にヒマラヤの北と南に分かれて拡散した後の1万年後の3万8000年前頃に、東アジアで出会っている。

その融合した彼らが、対馬ルートで日本列島へとやって来て旧石器時代の日本列島人となっていったものと考えても、間違いがないのであろう。結局のところ、沖縄ルートや北海道ルートのホモ・サピエンスたちは古本州島へはやってこなかったか、それほどの影響を与えなかったものと思われる。反対に、古本州島から北海道や沖縄方面に日本列島人が進出していった、というのが真実に近いのではないのかな。

結局のところ、古本州島のこの異質の2つの文化の相互作用が、世界に類を見ない日本列島の旧石器文化を形づくっていったものであろう。古本州島(日本列島)では、人骨化石が見つかっていないので詳しいことはいまだ不明ではあるが、対馬ルートではるばると海を越えて日本列島の土を踏んだ人々は、この異質の文化を融合させた人々だったに違いないのである、と 海部陽介氏は結論付けている。

海部陽介氏の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)のP196では、このことを次のように述べている。

 このように見ると、3万8000年前の古本州島に現れた集団が、基本的にその後の縄文人へと連続していった可能性が高そうだ。周辺からの小規模な移住と混血は、もちろん何度かあっただろう。しかし少なくとも旧石器~縄文時代のこの地域において、”最初の日本列島人”達の系譜が途絶えるような、劇的な集団の交替が起こった証拠は見出されていない。

と言ったところが、後期旧石器時代とその後に続く縄文時代の日本列島の姿だったのであろう。

即ち、対馬ルートのホモ・サピエンスたちが、後期旧石器時代を形づくり、やがては縄文時代へと連続していった訳だ。

そして弥生時代へと繋がっていくのであるが、このブログのテーマの「日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。」と続くのである。

このブログの(いわば)第一部では、日本列島に渡来人の来訪はなかったことを述べている。日本列島人が、中国の河姆渡から稲作技術を持ち帰って、弥生時代が始まったとしている。

このブログのNO.1~NO.28までがその説明となっている。

NO.29('20.9.3)以降が、いわば第二部で、「日本人はどこから来たのか」をテーマとしている。


しかし海部陽介氏の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)のP197では、弥生時代の始まりは、大陸から渡来人がかなりの規模でやって来て、縄文人と混血して歴史時代の日本人を形成していった、としている。

このことを氏は次のように述べている。

 詳細は他書にゆずるが、遺跡から出土する人骨の形態分析や遺伝学の研究が進んだことにより、この論争は1990年代に事実上決着し、今では渡来説が正しいという認識に落ち着いている。
  つまり弥生時代以降に、縄文人の系譜を受け継ぐ在来系の人々と、大陸からの渡来系の人々が様々な混血した結果として、歴史時代の日本人が形成されたと言うわけだ。・・・・・・・・・



まあ渡来説については他書に譲っているので、何とも言えないが、小生はこの論に真っ向から反対する

渡来民が日本列島にやって来たことはない、とは言わないが、その後の日本列島人の半分が渡来系になっていると言った話には、賛成しかねる。

若干の渡来人との混血はあったが、日本列島人(日本人)の形成には、渡来人はそれほど、というよりもほとんど関与はしていないのである。

日本人のルーツは縄文人であり、その縄文人が稲作を取り入れて稲作文化を興して弥生人となっていったのであり、その結果人骨もかなり変化させていったのである。食生活の向上による体格の変化が、縄文から弥生にかけて起こっているのである。

このことは「骨からわかる日本人の起源」(別冊宝島2411)などを参照されるとよい。

体格の変化があったことから渡来系が大挙してやって来て、縄文人と混血して日本人を形成していった、と間違った結論を導き出しているのである。

食生活の変化により、人骨も相当変容するものである。渡来人が来たからではない、それよりも渡来人は(それほど)来てはいなかったのである


もし不思議に思われるのであれば、もう一度最初からこのブログを読み直していただきたい。

と言うことで、この話は終了としておこう。

長い間お付き合いいただきありがとうございました。
(終わり)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(73)

2020-11-05 00:00:00 | Weblog

海部陽介氏の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)のP179には、「細石刃」という文化が突如としての現れている、と記述している。


先ずは、「細石刃とその使い方」を見てみよう。

細石刃とは、同上の書のP179には、次のように記載されている。

「細石刃は文字通り石刃のミニチュア版で、幅が5ミリメートル、長さは数センチメートル程度の大きさだが、ガラス質の黒曜石のような割れ口の鋭い石から作られる。その使い方は巧妙で、植刃器と呼ばれるへら状の角製品を用意し、その縁に彫り込んだ溝に細石刃をいくつも埋め込むのだ。そうすれと、軸が角なので折れにくく、刃は黒曜石なので切れ味が良いと言う2つの特性を兼ね備えた、狩猟用の槍先ができる。
・・・・・・・・・・・・・

この特殊な文化が、日本列島では2万5000年前頃の北海道に、突如として現れた。細石刃の技術は九州や本州にも出現するが、それは2万年前以降のことなので、本州から北海道へ伝わったものでないことは明らかだ。


次に北辰塾☆情報局からの「細石刃とその使い方」を示そう。




北辰塾☆情報局
狛江市の「北辰塾」から、受験に役立つ、いろいろな情報を発信します。



細石刃とその使い方


http://ghokushin.blog73.fc2.com/blog-date-20170403.html



序にナイフ、槍などの例も示しておこう。


ナイフ形石器・尖頭器・細石刃
(『ビジュアル版 旧石器時代ガイドブック』提隆=新泉社)


http://yamaaruki.sakura.ne.jp/14/140831-yawata.htm



この細石刃文化は、2万5000年前頃北海道に突如として現れた、と記述されている。

これはシベリアから渡って来たものであろう、とも記されている。

その理由と言うのは、3万年~2万年前の間に氷期が進行し寒さが厳しくなっていた時期であり、北から南にホモ・サピエンスたちが移動してきたので、その一部が当時は大陸と陸続きであった北海道に渡ってきたことは十二分に考えられる、と書かれている。

細石刃はその彼らがもたらしたものであろう、きっとそうである。

と言うのも、北海道で発掘された縄文人のミトコンドリアDNAが、ロシア極東地域に暮らす少数民族のウリチ、ウデヘ、二ヴフなどの先住民族と同じで、東南アジア系には見られないものだから、北海道へ北からのホモ・サピエンスたちの移動があった証拠なのであろう(P182)。

だから、北海道縄文人は北東アジアからやって来たホモ・サピエンスたちの子孫であろう、と結論付けられるのである。


(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(72)

2020-11-04 00:00:00 | Weblog

さて次は、北海道ルートだ。

北海道における最古とみられるの遺跡は、十勝平野にある「若葉の森遺跡」である。

この遺跡は、遺跡の焼土の放射性炭素年代測定によれば、およそ3万年前のものと言われている。北海道では最も古い遺跡であるが、その他の遺跡はおおよそ2万5000年前のものである、様だ。

海部陽介氏の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)のP177には、古本州島での特徴的な台形様石器が、この遺跡を含む北海道の多くの遺跡から見つかっている、と書かれている。

このことから、北海道での旧石器文化は本州由来のものではないかと言う説がある。

しかし、2万5000年前頃から、細石刃と言う独特な石器が使われだしているから、北方からの文化の影響があったのではないか、と思われている。

それはさておき、「若葉の森遺跡」の説明文を次に載せておく。





若葉の森遺跡 『北海道最古の石器』

■所在地:帯広市西16条南6丁目周辺
■遺跡の概要:2001・02年に道々改良工事に伴う発掘調査が行なわれ、旧石器時代の石器群と縄文時代前期~中期(約5千年~4千年前)の遺物が出土しました。

【旧石器時代の調査】恵庭火山灰の下層から9,700点ほどの黒曜石製の石器やこれを作ったときの剥片(カケラ)などが出土しました。石器と同じ地層から見つかった焼土の放射性炭素年代測定から、この遺跡はおよそ3万年前のものと考えています。この年代値は、今のところ北海道では最古のものです。
 出土した石器は、音更(おとふけ)川の下流で採集したと思われる握りこぶし大の黒曜石の転礫を打ち割って作られた剥片が素材で、ほとんど二次加工が施されないことが大きな特徴となっています(写真3)。剥片が接合して元の状態まで復元できたものもあり、当時の石器製作技術も明らかとなりました(写真4)。



1)旧石器時代の調査

2)出土状況

拡大図↓
http://museum-obihiro.jp/occm/maibun/maibun/iseki-guide/wakabanomori/wakaba-pre2.JPG
3)石器

4)接合した状態

【縄文時代の調査】縄文時代前期~中期(6千~4千5百年前)の土器や石器などの遺物56,379点、小型の住居跡1基(写真5)、落し穴1基、土坑(穴)、礫の集中9ヵ所などの遺構が出土しました。土器は「若葉の森土器群」と呼んでいる前期後半~中期前半の平底土器群です(写真6)。この遺跡からは植物質の食料加工に使われた石器類(写真8)が多く出土し、この材料とするために持ち込まれたと考えられる礫が多量に出土したことから、当時の温暖な気候を背景に、植物質食料を集中的に加工していたものと推測されます。


5)竪穴式住居あと

6)若葉の森土器群

7)石鏃・石槍

8)植物加工の石器
 出土した遺物は埋蔵文化財センターで収蔵・公開しています

http://museum-obihiro.jp/occm/maibun/iseki-guide.htm#wakaba



石を砕いて細石器を作っていたようで、その砕いた岩片を集めると、一つの石となると言う。但し一か所かけているところがあり、この岩片が石器として使われた部分だと言う。

この時代の人たちも、それなりに相当苦労して石器を作っていた、と言うことである。
ご苦労のほどが偲ばれる、と言うものである。

まあ、素人の当てずっぽうで言えば、北海道の旧石器文化の最初は本州由来で、3万年ほど前に、津軽海峡を本州から渡ってきたホモ・サピエンスたちが築いたもので、それからおよそ5000年後の2万5000年前頃に、北方からの文化の影響を受けた、と言うことでは無いのかな。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(71)

2020-11-03 00:00:00 | Weblog

何れにしても、この琉球諸島(沖縄諸島、先島諸島)には、3万年前の遺跡が沢山存在しているわけであるから、何らかの方法でホモ・サピエンスたちが台湾方面から渡ってきたことは確かな事である。

遺跡の例は、2020.10.20のNO.61などを参照願いたいが、今回の実験航海は、旧石器時代にどんな手段で渡航したのか、そして丸木舟での渡航が可能であったのか、と言うことを(単に)示しただけのことではないのかな。

それよりも、この琉球諸島へ渡ってきたホモ・サピエンスたちは、日本列島(古本州島)へ渡っていったのか、彼らの文化が日本列島人の文化に影響を与えたのか、混血していったのか、と言ったところが主題ではなかったのかな。

海部陽介氏の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)には、その点、何の言及もない。航海プロジェクトの説明に終わっている。この「第7章 沖縄ルート、難関の大航海」のボリュームは、「日本への3つの進出ルート」の中では、最も大きいが、沖縄ルートのその後にももう少し筆を進めてもらいたかったものである。

この沖縄ルートのホモ・サピエンスたちは、4万5000年前から4万6000年前にヒマラヤ南ルートで拡散していってホモ・サピエンスたちが中心となって行った渡航ではなかったのかな。だからそれほど石器が見つかっていない、と言うことでは無いのかな。

まあ何はともあれ、対馬ルートの中には、このヒマラヤ南北ルートのホモ・サピエンス達が混じっていたことには違いがないことは確かだ。元は同じホモ・サピエンスたちではあったが、混じり合うことでより進化したのではないのかな。

だから日本の旧石器時代のホモ・サピエンスたちは、落し穴とか刃部磨製石斧とか環状ブロック群などと言う他に例をみない独特の発明を成し遂げることが出来た訳だ。

小生の印象では、この沖縄ルートのホモサピエンス達は、最終的には古本州島へは渡ってこなかったのではないのかな、と思っている。渡ったとしても、それほど大きな影響は与えなかった筈だ。古本州島での旧石器時代の遺跡からは、沖縄ルートのホモサピエンス達の痕跡は見つかっていない筈だ。

そのためか、この章の最終は「このように沖縄ルートについては、現在、多様な研究が進行中だ。近い将来、更に面白いことがわかってくるだろう。」と結んでいる。

この実験航海は(悪いけど)、大山鳴動ネズミ一匹 と言ってもよいものではなかったのかな。

さて次は、北海道ルートだ。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(70)

2020-11-02 00:00:00 | Weblog

そして小生と同じ疑問にも言及しているので、それを紹介しよう。



「3万年前の航海」、残る舟の謎 本当に丸木舟? 国内最古は7500年前
2019年08月11日    http://blog.livedoor.jp/wkmt/archives/51561577.html

・1日の朝日に、『「3万年前の航海」、残る舟の謎 本当に丸木舟? 
 国内最古は7500年前』、という記事が載っていました。
 (→ こちらhttps://image02.seesaawiki.jp/w/t/wkmt/f1cf022607549d69.pdf をご覧下さい。以下、全文をそのまま掲載します)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日本列島に人はどうやって渡ってきたのか。

その謎の解明を目指した国立科学博物館による、「3万年前の航海 
徹底再現プロジェクト」が先月、台湾から与那国島へ丸木舟で
渡ることに成功した。
(これについては→ 先月10日のブログ で取り上げました。
 今回の記事は、これ迄に取り上げたの記事の総括です)

台湾から与那国島を目指す丸木舟。黒潮が流れる海を横断できた



ただ、旧石器時代のこの地域に丸木舟があったのか、木の伐採や
加工に使った石斧が存在したのか、といった確証はまだない。

当時の航海をはっきりと描き出すには、更なる研究が欠かせない。

約200㌔離れた台湾の東海岸を出航してから約45時間。
全長7.5㍍の丸木舟、「スギメ」が7月9日、黒潮を越えて
与那国島の砂浜に到着した。

舟を漕いだのは、シーカヤックのガイドら男女5人。

3万年前の航海を再現するため、夜間航海に必要な航行灯等を
除いてコンパスや地図を持たず、太陽や星で方角を探りながら
舟を進めた。

方角を完全に失ったり、波が高くて海水をかき出し続けないと
いけなかったりする時間もあった。2日目の夜は全員が休息
したが、与那国島へ向かっていた潮の流れに助けられた。

プロジェクトを率いた国立科学博物館の海部陽介・人類史研究
グループ長は、遂に海を渡ったことに、「優秀な漕ぎ手と丸木舟が
あれば黒潮に流されずに海を渡れることが分かった」、と語った。

日本列島に人が暮らし始めた約3万8千年前。

アフリカを出た現生人類は、アジア大陸から北海道と対馬、
沖縄の三つのルートで日本に渡ったらしい。

この内、沖縄ルートに当たる琉球列島の島々には3万年前頃の
旧石器時代の遺跡が点在しており、黒潮の流れる海を越える技を
身に付けた人々がやって来た、と考えられている。

どんな方法で海を渡ったのか。

現地で調達できる材料で舟を造ったと想定し、2016年に
造ったのがヒメガマを使った草束(くさたば)舟だった。

初めにつくった2隻の草束舟


安定した形にできたものの重くて速度が出ず、与那国島から
西表島への実験航海で流され、出発から約8時間後に断念した。

次につくったのは竹筏(たけいかだ)舟。台湾に育つ大きな
マチクを材料にした。

マチクでつくられた竹筏舟


製作技術が伝わる地元のアミ族の人達に協力してもらい、
2017年に台湾で実験航海したが、これも船体が重く速度が
出なかった。軽くした2隻目もうまくいかなかった。
海部さんは、「草と竹は舟でなく漂流物だった」、と振り返る。

最後に残ったのが丸木舟だった。しかし、国内の丸木舟は
縄文時代の約7,500年前が最古とされ、3万年前とは隔たりがある。

ただ、旧石器時代に遠距離の航海技術があったのは確からしい。

伊豆半島の約40㌔沖に浮かぶ神津島の黒耀石が、切れ味の
良いナイフや矢尻等の材料として3万8千年前以降の各地の
遺跡から多数出土しているからだ。

池谷信之・明治大黒耀石研究センター員は、「旧石器時代の舟は
世界的にも見付かっていないが、何らかの舟で往復し、黒耀石を
運んだとしか考えられない」、と話す。

■石斧、復元や作業難航

丸木舟の製作も難題続きだった。縄文時代の舟を超えない性能と
規模で造ることになったが、5人が乗るには直径1㍍程の大木が必要。

台湾では適当な木が見付からず、結局、石川県のスギを伐採する
ことになった。

伐採は、国内で3万~3万8千年前頃の遺跡から出る刃部磨製石斧
(じんぶませいせきふ)でされたと想定した。

木の伐採に使った石斧の例


刃の部分を砥石で研いだ石斧だが、考えた装着方法では木の柄が
緩み易く、早いと100回、もっても5千回で換えないといけなかった。

木をくり抜いて舟にする作業も難航。航海実験に間に合わなく
なると心配されたため、作業し易い工夫を施した。

首都大学東京の山田昌久特任教授は、「旧石器時代の石斧や
作業を復元できておらず、丸木舟をどう造ったのかの解明は
途上だ」、と話す。

そもそも旧石器時代に、そうした石斧が伐採や木の加工に
使われたのかはっきりしない。台湾や琉球列島の大半では
出土例もない。

早稲田大の長崎潤一教授は、「国内の確実な南限は鹿児島県の
種子島。徳之島より南では石器自体が殆ど出ていない」、と語る。

だが、石斧も舟も、どれか一つでも新たな証拠が見つかれば
状況は変わる。

東京大の佐藤宏之教授は、「丸木舟が使われた直接の証拠はないが、
状況証拠はかなり揃っている。大事なのは考古学的データの蓄積で、
新しい旧石器時代遺跡をどれだけ見付けられるかが課題だ」、と話した。

http://blog.livedoor.jp/wkmt/archives/51561577.html


と言ったところであるが、この論考でも「刃部磨製石斧」が実際に存在していたのかは、定かではないと言っている。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(69)

2020-10-30 00:00:00 | Weblog

その箇所を、一寸長いが、次に引用しておく(P161)。

「 南九州での研究歴の長い宮田栄二によれば、種子島から見つかるこうした石器類は九州南部で見つかるものと共通性が高く、3万5000年頃に九州島から大隅諸島へと南下した人々がいたことを示している。
 ところが奄美群島まで下ると、話は変わってくる。
 奄美大島にある土浜ヤーヤ遺跡と喜子川遺跡は、ともに3万年前のものである可能性が高いが、出土した石器の解釈をめぐって考古学者の意見が割れている。ほとんどは形が不規則な剥片で、九州~北海道でみられる台形様石器やナイフ形石器のと言った明確なタイプが存在しないのだが、土浜ヤーヤ遺跡の出土品の中には刃部磨製石斧の断片らしきものが3点含まれていた。刃部磨製石斧は古本州島との関連をうかがわせるアイテムだが、不定形の剥片が主体と言うのはむしろ台湾や東南アジアの旧石器文化の特徴である。
 徳之島のガラ竿遺跡で発掘された石器は、厚さ30センチメートルもあるATテフラより下の地層から出てきたので、3万年前より古いことは確実だ。しかし見つかったのは磨石すりいしと呼ばれるタイプの石器が2点だけなので、その文化の実態は良くわからない。
 このように資料がまだ限られている現状では、奄美群島のの旧石器文化の起源については不明としか言いようがない。この問題を解決するには、更なる発掘調査が必要だろう。
 さて、沖縄まで下ると、また状況が変わる。沖縄島から南の琉球の島々からは、そもそも不思議なほどに、石器が出てこないのだ。それは居住遺跡であるサキタリ洞でも同じで、ここでは旧石器時代人が、むしろ貝殻を割った貝器を多用していたことがわかった。旧石器時代の貝器は北海道~九州では知られておらず、日本初の発見である。石器はおそらくないことはないのだろうが、あまり積極的に使っていなかった可能性がある。つまり、”石器に依存しない文化”だ。
 そうなると、もう九州以北とは文化的につながらなくなってくる。沖縄地方の旧石器文化は、前述の人骨の研究も示すとおり、台湾経由で南方から伝わったに違いない。」


と言うように、この大隅諸島を除く琉球列島(南西諸島)の旧石器時代の遺跡からは、あの刃部磨製石斧などの石器は見つかっていない、様なのである。

と言うことは、この海を渡るために作られた丸木舟は、琉球列島では作られていなかった、と見るべきなのではないのかな。とすると、台湾などで作られていたと言うことかも知れない。まあ一言、「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」にはそのようには書かれてはいるが。

台湾の旧石器時代の遺跡から、この刃部磨製石斧などが発見されていれば、問題はないのであるが、そこは更なる調査などをまたなければならないのであろう。

事実、国立科学博物館の3万年前の航海の動画を見ると、この丸木舟は台湾で作った、と放映されている。それならそれで、その旨しっかりと刃部磨製石斧などの関係も含めて、記述するなり、放映するなりした方がすっきりするのではないのかな。

果たして台湾で刃部磨製石斧などが発掘されているのであろうか。

更には、宮古島から沖縄島に至る、当時としては220kmほどの海の上を渡っていった時の丸木舟は、どこで作られたものなのであろうか。それこそ台湾で作られたものを、後生大事に維持管理した丸木舟で渡っていったものなのか。

それとも宮古島で作られた丸木舟で、沖縄島まで渡っていったものであろうか。すると刃部磨製石斧は、宮古島になければならないが、琉球列島のどこからも、と言ったら語弊があるが、見つかっていないのだ。

これこそ3万年前の謎の最たるものではないのか。


先の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」の論考では、台湾での木の伐採の写真が掲載されているが、台湾にはこのような巨大な樹木が叢生しているのであろうか。

次に紹介する論考では、台湾には適当な木が見つからず、石川県のスギを伐採して使ったと書かれている。どちらが本当なのであろうか。


(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(68)

2020-10-29 00:00:00 | Weblog

2019年予定の「本番の実験航海」
本番の実験航海の計画。与那国島は半径50kmまで近づかないと海上から見えない。
背景地図:菅浩伸 based on Gebco 08 Grid

私たちが最終的に再現したいのは、沖縄ルートの最初の関門である、台湾→与那国島の航路。この本番の実験航海は、強大な黒潮を越え、遠く水平線の下に隠れる島へ向けて、2~3日間に及ぶタフな航海になるでしょう。3万年前の舟としては、現時点で丸木舟が有力になってきています。帆は縄文・弥生時代ですら使われていた証拠がないので、旧石器時代の舟は漕ぎ舟であったはずです。このように研究と実験を繰り返した後、3万年前としてもっとも妥当なモデルを選んで本番の実験航海に挑みます。それをやり遂げたとき、祖先たちの海への挑戦の実態がわかってくるでしょう。

本番への準備

黒潮の上で漕ぎ練習

星を道しるべとする方法を学ぶ漕ぎ手たち

私たちの実験航海では、3万年前の条件になるべく近づくよう、時計・コンパス・GPSなどを持たず、風・うねり・太陽・星などを使って針路を探る航海をします。安全管理のために伴走船が同行しますが、古代舟に針路や位置を教えることはしません。

漕ぎ手たちは、不慣れな古代舟を長時間漕ぎ続けるトレーニングに加え、そうした古代航海術を学ぶ必要があります。そのほか、3万年前の実態を探るために、当時の舟を作る道具や、島で人口存続するために必要な移住者数、スーパーコンピューターを使って過去の黒潮を推定する研究など、様々な研究が、多数の協力研究者のもとで進められています。

誰もが参加できるプロジェクト
スリリングな3万年前の謎解き体験を、できるだけ多くの方々と共有できるよう、このプロジェクトは、私たちの試行錯誤や失敗も含めてオープンにしています。実験の資金はクラウドファンディングなどの寄付で頂いていますが、ご支援やご寄付で「会員」になられた方には、最新情報を定期的に配信し、時に直接・間接の交流の場でご意見も頂き、プロジェクトに深く関与して頂いています。皆様ぜひ、私たちと一緒に3万年前の謎を解きましょう!
https://www.kahaku.go.jp/research/activities/special/koukai/about/index.php


3万年前の謎と言えば、「3万年前の石器(刃部磨製石斧)」を使って丸木舟を作っていたことも、その一つではないのかな。

と言うのも、種子島の遺跡からは刃部磨製石斧などの各種の石器などが発見されているが、奄美群島以南の遺跡からはそのような石器は見つかっていないのだ(P160~)。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(67)

2020-10-28 00:00:00 | Weblog

次に科博の実験航海の概要説明文も載せておこう。

3万年前の航海 徹底再現プロジェクト
https://www.kahaku.go.jp/research/activities/special/koukai/about/index.php

分かっているのは、彼らが移住に成功したこと。わからないのは、どうやって来たか。
沖縄ルート、難関の大航海の再現実験

想定される3万年前の地理と3つの渡来ルート

最初の日本列島人は、3万年以上前に、海を越えてやって来ました。それは、アフリカを旅立ったホモ・サピエンスが、陸域を越えて海にも活動域を広げながら、世界中へ大拡散した壮大な歴史の一幕。中でも島が小さく遠く、世界最大の海流である黒潮が横たわる琉球列島への進出は、当時の人類が成し遂げた最も難しい航海だったと考えられます。

「最近になって明らかにされてきた、この祖先たちの海への挑戦を、できる限り詳細に解き明かしたい――」
私たちはそんな思いに駆られて、このプロジェクトを立ち上げました。ここでは彼らの大航海を研究し、さらに海の上で再現(実験航海)することによって、未知の世界を切り開いた祖先たちの知られざる姿に迫ります。
琉球列島と台湾の主な旧石器時代遺跡と現在の黒潮の流路
背景地図:菅浩伸 based on Gebco 08 Grid

総勢60名の研究者・探検家・運営スタッフが協力する一大プロジェクト。遺跡に残っていない舟は、候補となる草・竹・木のものを試作し、海上テストを行って、絞り込んでいきます。さらに当時の地理・海流、移住者数、帆の有無など、様々な研究を進めて、3万年前の「徹底再現」を目指します。

これまでの活動

2016 草束舟の実験 与那国島

与那国島に自生しているヒメガマという草を、ツル植物で縛って舟を作りました。そして男女の漕ぎ手が、時計やGPSを持たすに、風や波などから方角を読みとって西表島を目指すテスト航海に挑みました。

2017-2018 竹筏舟の実験 台湾

台湾との共同体制の下、竹の舟の実験を行ないました。浮力・安定性と耐久性にも優れた舟ができましたが、期待したほど速度が上がらず、黒潮を越えるには課題が残りました。

2017-2018 丸木舟の実験 台湾

3万年前の石器(刃部磨製石斧)で大木を切り倒し、くり抜く実験を行なったところ、この道具で丸木舟が作れることがわかりました。これから海上での機能性をテストしていきます。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(66)

2020-10-27 00:00:00 | Weblog

3万年前の実験航海の様子は、NHKのくらし・解説に詳しいので、それを参照願う。

「『3万年前の航海』成功のカギ」(くらし☆解説)
2019年07月16日 (火) https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/371165.html
土屋 敏之  解説委員

◆先週、台湾から与那国島へ5人の男女が丸木舟をこいで渡るのに成功した




 これは国立科学博物館の人類学者・海部陽介さんたちが進めてきた「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」というものです。日本人のルーツには大きな謎があり、日本各地には3万数千年前頃から急に多くの遺跡などが見られるようになります。当時は氷河期で海岸線はこちらのように今と違っていたものの、それでも日本列島の多くは大陸とは海で隔てられていたと考えられています。

 祖先はその海を越えて、こちらの3つのルートで渡ってきたことが考えられており、中でも当時大陸と陸続きだった台湾から沖縄へのルートは、海を渡る距離も長く最難関ルートだったと見られます。ただ、その手段を示す「舟」などは当時の遺跡から見つかっていません。そこで、海部さんら様々な分野の研究者と海洋冒険家や舟作りの専門家なども加わって、3万年前の技術で可能と見られる舟を実際に作って海を渡れるか検証することにしました。つまり、科学研究としての実験航海です。
 その費用は、ネット上で寄付を募る「クラウドファンディング」という手法で集めたのも新たな取り組みでした。

◆これまでは上手くいっていなかった



 当時ありえた舟は草か竹か木で作られたものだろうということで、まず2016年に草の舟で与那国島から西表島まで、翌年は竹を束ねた舟で台湾の本島から離島へ渡ろうとしましたが、うまく行きませんでした。
 この辺りの海は黒潮が南北に流れていて、3万年前もこれを横切る必要があったと推定されていますが、草や竹の舟はあまり速度が出ず黒潮に流されてしまい横切るのは難しかったのです。そこで浮上したのが丸木舟です。プロジェクトでは3万年前の石器でも丸木舟を作れることを実際に確かめ、これを使うことにしたのです。

◆先週、最後の実験航海が行われた



 台湾東岸の烏石鼻という所から与那国島まで200km以上の大航海です。人類の移住を再現しようということで漕ぎ手は男女混成チーム。シーカヤックのガイドさんなど手こぎ舟の経験豊富な5人が選ばれました。台湾の山の上からは条件が良ければ与那国島が見えるため、祖先は与那国島の存在を知っていて目指したと考えることはできますが、海上からは与那国島に約50km以内に近づかないと見えません。つまり、航海の大半は目的地は見えず太陽や星の位置などから方角を判断する必要がありました。3万年前の条件を想定し、こぎ手は方位磁針もGPSも使えないためです。ただし、安全確保のために動力付きの船が伴走し、海部さんたちが丸木舟を見守りました。




 天気や海の状態が良い日を待ち、7月7日の午後2時半過ぎ(日本時間)に出航。黒潮で北に流されることを考慮して、東の方角に向けて丸木舟をこぎます。夕暮れに近づくにつれ、北風が強く吹いて海が荒れはじめ、視界も悪くなりました。しかしその後は天候も回復し、丸木舟は順調に進み続けたと言います。翌朝には行程の半分近い100kmまで進む快調なペースでした。
 ところがその後は大きくペースが落ちます。与那国島の南海上に丸木舟が姿を見せたのは翌々日の朝でした。そして、出航から45時間後、多くの島民や観光客が待ち受ける与那国島の浜辺についに丸木舟が辿り着きました。



 GPSで丸木舟の航跡を見ると、潮流で北に流されながらも見事に与那国に向かい進んでいたことがわかります。しかし、こぎ手はこうした位置情報などは全く知らずにこいでいたわけですから不思議。なぜこうして正確に辿り着くことができたのでしょう。

◆成功のカギは「与那国への潮流のライン」?



 こぎ手のキャプテン・原康司さんによると、カギは「与那国に向かう潮流のラインに乗る」という点にあったようです。
 黒潮の流れが一番速いのは島の間ですが、与那国付近にも北向きの流れがあるので、うまくこのラインの上流側に乗れればいずれは与那国に辿り着けるというわけです。そのためには、黒潮をまっすぐ横切る東向きに約100kmこぎ進むとラインに乗れるはずで、その間いくらか流されてもこのラインのどこかには乗るので与那国に向かえる。多少はずれたとしても島が直接見える範囲に入れれば後は見て目指せばいい、というわけです。
 そのためまず台湾が見えている間や、雲が晴れて太陽や星で方角が判断できた時間に一生懸命、東に向けてこいでこのラインを目指し、後半は無理に進まず、疲労もピークだったため交代で体を休めていたそうです。その結果、翌々日の朝にはちょうど与那国島が見えてきたとのことで、原さんは「率直に言ってできすぎ。ここら辺にあるかなと思った所に島が出てきて正直びっくりした。黒潮の海という大きな力が僕たちを運んでくれたという思いがある」と話していました。運もあったし、自然の力も味方してくれた、と言えるのではないでしょうか。


 今回の実験で、古代の手こぎ舟でも沖縄の島々に渡れる可能性は実証できました。ただ、残された謎もあります。今回の方法は、与那国島の位置や黒潮の流れについて知識があったからできた面もありますが、3万年前に初めて渡った人たちはそこまで知らなかったはずです。そうすると、さらに成功率は低かったかもしれません。もしかしたら当時は大勢の人が挑んでその多くは犠牲になり、ごく一部の人だけが運良く辿り着けたのかもしれません。だとすると、なぜそこまでして祖先は挑んだのか?その動機も謎のままです
 海部さんたちは今後、実験航海のデータを詳しく分析して論文を発表する予定で、航海は終わりましたが研究者たちにとってはむしろこれからが本番とも言えます。
 今回の実験航海の成功には、人類史の謎を解く手がかりを得るという科学的意義に加えて、クラウドファンディングで多くの市民の支援を受けたり、丸木舟の製作を公開した時には子供たちの注目も集めたりして、それに対しプロジェクトの成果を情報発信して交流するなど、科学研究の手法として可能性を広げることにもつながったのではないでしょうか。またこれを見た子供たちが、科学の面白さや自然の奥深さを感じて、それが将来につながっていくことも期待したいと思います。
(土屋 敏之 解説委員)

https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/371165.html
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