世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

邪馬台国とはなんぞや?(34)

2018-09-28 00:00:00 | Weblog

それから安本美典氏の邪馬台国東遷説も間違っていると論破している。

安本氏は奈良時代以前の天皇の平均在位年数が10年余であることから、全ての天皇が実在していると仮定し、神武天皇から五代前の天照大御神までの年代を統計的に推定している。

それによると天照大御神の活躍年代と卑弥呼の活躍年代とが、ほぼ重なると推定している。

そして天照大御神は卑弥呼であろう、として天照大御神は邪馬台国にいたとして、邪馬台国が北九州にあったことを統計的に証明?している。

まあ統計論などを駆使しなくても、魏志倭人伝をしっかりと読めば、邪馬台国は北九州にあることが、自然と判ることではあるのだが、そしてその九州の邪馬台国がヤマトに移住したと持論を進めている。その証拠に北九州とヤマトの地名が、その相対的位置関係も含めて、実によく一致しているので、九州からヤマトへ大きな集団の移住があったのは事実であろう、と結論付けている。

しかし長浜浩明氏の先の書では、日本書記を開いて神武天皇から崇神天皇までの在位年数を確認している(111頁)。

それによると、平均在位年数は皇紀で約六十二年となっており、これはいわゆる「春秋年」(一年を春秋の二年としている)であり、実年に直すと半分の三十一年となる。だから平均在位年数は10年であるなどとは、記紀のどこにも書いてないのであり、彼の論理は将に破たんしたものであった。

氏の最新刊の「天照大御神は卑弥呼である」(心支社)によれば、「筑後川のたまものとして三世紀に勃興した邪馬台国は、この世紀の終わりに、倭王神武天皇にひきいられて東遷し、大和朝廷になった」(261)と書かれていると言う。

そして、彼の心意気は良いが、「大阪平野の発達史」や魏志倭人伝の「黥面文身」や「日本書記」はじめ各種の「考古資料」を研究していない、と批判している。

まあ安本美典氏の論理は、神武東征が日向から始まった記紀の記述や、神武天皇などには入墨がなかったこと、大阪平野の河内潟の時代には浪速と言う潮に満ち干による早い潮流があり、神武天皇の軍船はその満ち潮の早い潮流により難波碕の早く着いたと言う記紀の記述にも行き着いていなかった。


そして話は、古田武彦氏の「古代通史」(原書房1994)に伸びている。

古田氏は「大阪平野の発達史」をあまりよく理解しておらずに、間違った時代に「神武東征」があったと論じていると批判している。即ち神武東征は「河内湖1の時代」のことだとしていたのだ。

この時代では、日本書記のあの表現は出てこない。「浪速」はありえないにも拘らず、この時代だとしているのである。

さらに「古代通史」には、「天孫降臨の地」は北部九州としている事にも反論している。

小生のこのブログでも、2018.8.4のNO.20で「邪馬台国の全解決」の北九州説を紹介している。そしてクシフルタケも筑紫にあるとまで紹介したのである。古事記の次の文章を紹介した。


かれここに天の日子番ひこほの邇邇芸ににぎの命、天の岩位いわくらを離れ、天の八重多那雲を押し分けて、稜威いつの道き道別きて、天の浮橋に、浮きじまり、そりたたして竺紫つくしの日向ひむかの高千穂の霊じふる峰たけに天降あもりましき
・・・・・・・・
ここに詔のたまわく、「此地ここ韓国に向ひ笠沙の御前みさきにま来通りて、朝日の直ただ刺す国、夕日の日照ひてる国なり。かれ此地ここぞいと吉き地ところ」と詔りたまいて、底つ岩根に宮柱太しり、高天の原に氷椽ひぎ高しりてましましき。
   



そして「高千穂とは宮崎県の高千穂峰であろう、と大方想像されることと思われるが、宮崎県の霧島連山の高千穂峰では、上記の五つの条件の一つとして合わないのではないのかな。」とまで述べてしまっていたが、これがまことに早とちりで大いなる間違いであったと、赤面しきりである。

朝日や夕日がまともに照らすところは、日本にはたくさんある筈である。


先の書では次のように記述している(126頁)。

「ここは韓国に向かい、笠沙の御崎に真っ直ぐに道が通じていて、朝日のまともに指す国であり、夕日の明るく照る国である。ここは真に良い所だ」(『古事記(上)全訳注』)


そして「そりたたして竺紫つくしの日向ひむかの高千穂の霊じふる峰たけに天降あもりましき」の日向とは宮崎県と鹿児島県にまたがる地名であり、笠沙の御崎薩摩半島だとして、次のように論を進めている。

「日向とは宮崎県と鹿児島県を併せた地名であり、韓国岳があり、薩摩半島の野間岬には”笠沙”なる地名が色濃く残り、朝日は宮崎から昇り夕日は薩摩半島の方に沈むことを思えば素直に理解できる。但し、韓国の「韓から」が理解不能だった。そこで日本書紀を開いてみた。
「日向の襲の高千穂の峰にお降りになった」、「痩せた不毛の地を丘続きに歩かれ、良い国を求めて吾田国の長屋の笠沙御崎にお付きになった」(58)(『日本書紀』(上))」
(先の書126頁)

日本書記和訳では、「韓国」を「痩せた不毛の地」と表現していたのである。

更に岩波書店の日本書記(一)には、「そししの空国むなくにを、頓丘ひたおから国まぎ行去とわりて」(122)(『日本書紀』(上))と書かれている、と続けている。

この意味は「もともと少ない背中の骨の回りの肉すらないような、荒れて痩せた不毛の地をずっと丘続きに良い国を求めて歩かれて」と記されている。


此地ここは韓国に向ひ・・・」の韓国の意味が解らなかったのであるが、日本書紀によれば、この「韓国」は「空国」(むなくに)であり、「空むな」を「から」と読み、いつしか「韓国からくに」と当て字されていったのである。

そして「韓国岳」は「空国岳」が元の正しい言葉で、意味は「不毛の土地のある山」であると述べている。

まあKoreaなる韓国も「不毛の土地のある山」の国であるのだが、これで「韓国からくに」の意味もしっくりとした。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(33)

2018-09-27 00:00:00 | Weblog

それから一言断っておきたいことは、日本国憲法も、GHQによって作られた状態のまま継続されてしまったことである。

こんな状況では、古事記や日本書記が丁寧に貴重な歴史書として扱われる筈がなかった。



戦中、戦後の想い出
http://www.rose.ne.jp/~ooha/hp-0-1.htm
[ 13 : 教職追放、教員組合左傾化の背景 ]

占領軍による教科書や教材の削除状況の検査、教育内容に関する検査、取り締まりがおこなわれると共に、その指令に基づき政府は昭和 21 年 ( 1946 年 )5 月 7 日に、 教職員の除去、就職禁止及び復職等の件 という勅令 263 号を公布して、各都道府県に教職員適格審査委員会を設置しました。

それにより全国の 60 万人 を超える教職員の全員について、本人提出の調査表に基づいて個別に適格性審査を実施しましたが、審査担当者には 結成されたばかりの教職員組合の役員も参加し、教師が教師の過去の行為、言動を裁く という事態になりました。

過去に軍国主義や極端な国家主義的教育に積極的に荷担し、指導的立場にあったとされた教職員や、軍国主義的教育を強制したとの告発や極端な愛国主義者として誹謗中傷の投書のあった者など、教職不適格の烙印を押された者はすぐに 追放解雇 されました。

このことが戦後の マルクス ・ レ-ニン 主義の流行と併せて、左翼主義的教職員の増加と勢力の拡大を助長し、教職員組合の左傾化を強める根本の原因となりました。

追放された者の リストには戦時中の中学、女学校 ( 現在の高校 )、国民学校 ( 小学校 ) の校長や、平の教員では少年兵への応募の強制、木刀を 2 百回生徒に振らせた、生徒に対する ビンタ などの日常的暴行、米国旗侮辱、戦前に米国から日本に人形使節として送られた青い目の人形を焼いた、などの行為を摘発された者もいました。
http://www.rose.ne.jp/~ooha/hp-4.htm#tsuihou



このような状況の中で、古事記・日本書紀などはタブー化されてゆき、「神武東征は事実だ」などと言ったら、「闇の検察官」からパージされ、研究室から追放され、原稿は出版社が受け付けず、論文は没になり、職と食を失いかねない恐怖があったと言う事だ。と先の書は記している。

そして次のような「暗黙の了解」、則ち「古代史検閲基準」なる亡霊が成立してゆき、歴史学者たちはこれらに拘束されていったのである。

「暗黙の了解」事項とは次のようなものである(先の書、86~87頁)。簡潔にまとめてみる。


➀ 『記紀』は天皇を正当化するために捏造された偽書として否定し、目をそらす。

② 神武東征やその存在を否定し、国民に知らせない。

③ 神武から開化天皇(九代)まで否定し、崇神天皇から神功皇后も否定的で皇室の連続性を否定する。

④ そのため記紀や魏志倭人伝を間違いだと改変することはよい。

➄ 『三国志』の韓の条や『三国史記』の古代史にも目をつむり、国民の目から遠ざける。

⑥ 戦後パージから逃れるために創られて古代史の諸説は、検閲に合うよう改鼠されたものであるが、そのことを国民に知らせてはならない。


これではあまりにも滅茶苦茶な話である。こんな風に日本国の歴史が冒涜されていたとは、当時は小生にはわからなかった。

ただ、小生も東大教授の『井上光貞』氏の歴史書を読んで古代史の知識を頭に入れて育った?ものであったが、いくら読んでもなんとなくしっくりこなかったと言うどんよりとした感じが存在していたので、途中で読むのを止めた経験がある。

大正六年(1917)生まれの氏は昭和二十三年「教員適格判定審査」に晴れて合格、占領政策協力者として公認された。こうして教壇に立つことが出来た氏は、やがて東大教授となり「日本の歴史1神話から歴史へ」(中央公論社1965)において神武東征否定の考えを披露した。』と先の書の88頁に書かれているが、これでこの本を読んでもしっくりこなかったことに納得がいった次第である。結局時間を潰してしまった、と言う事である。

彼・井上光貞氏は「邪馬台国東遷」論者なのであるが、それが間違ったものであることを、先の書では次のように否定している。

「邪馬台国東遷」なら、卑弥呼の後継者・壱与がシナに最後の使いを出した二六六年以降となろう。だがそれは「河内湖Ⅰの時代」であり、神武東征のあの描写はありえない。この一事で氏の仮説は破たんしたことになる。」と彼の論を喝破している(88頁)。

(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(32)

2018-09-26 00:00:00 | Weblog

それによると、古事記や日本書記に描かれている「神武天皇」のヤマトへのご進攻が、実際にあったことが、科学的に裏付けられたと言われても問題ないのではないのかな。
しかも私のような素人でも、それなりにうなづけるストーリーを描けるまでに、いろいろなデータや書籍がそろっている状態なのに、何故「神武東征」が科学的に議論されていないのか、と大いに疑問を感ずる次第なのである。

この疑問は長浜浩明氏も同様に感じられていたようで、と言うよりも、長浜氏におかれてはその感をもっと強くされていたのでは無いのか、と推察される。氏は、それなりにその道の専門家なのだから、尚更なのである。
長浜氏はこの日本の歴史に対する不毛状態は、アメリカの占領政策の「検閲」によるものである、と断じている。

アメリカは戦後すぐに東京裁判を実施し、今次の戦争は日本による侵略戦争であり、日本人はその罪の償いをしなければならないと、マインドコントロールを実施した。これが「War Guilt Information Program」である。

そのために日本国民に「伝えるべきもの」と「伝えてはならないもの」との、二方面での「検閲」を日本の政治機構を通じて実施した。新聞・雑誌・ラジオ・映画・教育などのあらゆる手段を通じて、それは行われていった。

そして「日本を破滅と敗北に導いた軍国主義者のリーダーの犯罪と責任」を日本人の心に刻み込ませ、アメリカの歴史認識を押し付けていったのである。

このことは小生のブログ「靖国神社に参拝しよう(10~)」(2008.9.21~)に、詳しく述べられているので参照願いたいが、このWGIPによって政界、官界、学界、実業界、言論界、などで20万人を超える公職追放を行った。これは教育界でも徹底的に実行されていった。

それが昭和二十二年に施行された「教職員の除去、就職禁止及服飾等に関する政令」(政令第六十二号)であった、と先の書には書かれている。この「教職追放令」は、1952年(S27)4月28日に、サンフランシスコ講和条約が発効されるまで、日本教育界を拘束していた。

これにより日本の正しい歴史教育は禁止され、アメリカによってつくられた間違った日本国の歴史が、広く教えられていった。そのため戦後正しい日本の歴史は雲散霧消してしまったのである。

先の書による教職追放令は以下の内容である。


教職追放令

第一条 この政令は昭和二十年十月の占領軍の指令に基づく。

第二条 対象は公立、私立を問わず、全ての大学、高校、中学、小学校の教師及職員、教育関係役員、教育委員、教科書出版社に及ぶ。

第三条 戦前の皇国史観の持ち主や戦争協力者、米国の占領政策(国民を欺き行われた「違憲検閲」の基準三〇項目・『文系ウソ社会の研究』94)に反対するものは解雇す。教職不適格者は新たに職に就くことを禁ず。

第四条 教職不適格者の指定は文部大臣又は都道府県知事が審査委員会を設けて行う。

第五条 恩給取得者は教職不適格者と認定された時点で直ちに受給資格を失う。

第六条 甘い判断は許さない。審査委員会の調査票を上部機関で再チェックする。

第七条 教職不適格者は退職時の勤務先への出入りを禁ず。

第八条 違反者は三年以下の懲役若しくは禁固、または一万五千円以下の罰金に処す。



こうして一流の文系研究者や教育者は教育界から去っていき、その後も教職者は思想調査もされ密告も行われるに及び、反日左翼へと変質していった。

「あの教授は日本書記を正しいと教えている」などと密告され、審査委員会に掛けられ、「教職不適格者」の烙印を捺されたら最後、直ちに追放、恩給の停止、法に触れれば法外な罰金と懲役、家族が路頭に迷う恐怖があった、と先の書には書かれている。

これではまともな歴史教育や研究が行われる筈もない。サンフランシスコ講和条約が発効されると「教職追放令」は失効したが、反日左翼思想に乗っかったメディアのNHK、朝日新聞、岩波書店などは、そのままベールに隠れたまま反日思想をその哲学として、営業を続けてゆくことになった。

東大総長の南原繁や矢内原忠雄、法政大学総長の大内兵衛、京大総長の滝川幸辰、一橋大学の学長都留重人なども、マルキスト、戦後転向者、教職適格者として反日左翼思想を広めることになった、と記している。

この歴史的真実から逃避させるWGIPによる検閲やバージにより、「反日左翼」化した御用学者たちは日本歴史を捏造・改悪し、祖国日本を貶めるようになっていったのである。
そして「反日左翼」化した教職員の受け皿が、「日教組」だったのである。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(31)

2018-09-25 00:00:00 | Weblog

海面の上昇は続き、今から6000年前、海水面は現在よりも1~2メートル高くなり(縄文海進)、生駒山の麓まで海水が流れ込んでいきました。これが「河内湾1の時代 約7000年前~6000年前」です。



やがて、海水面の上昇が終わり、縄文海退の時代へと向かいます。これは、海水面が低下していくということよりも、それ以上に、河川から運ばれてくる土砂によって海が埋まっていく、これを沖積作用というのですが、要するに自然の力による「埋め立て」が起こったんです♥「河内湾2の時代 約5000年前~4000年前」です。



そして時代は、「河内潟の時代 約3000年前~2000年前(西暦紀元前1050年~前50年)」へと繋がります。



上町台地から北進する砂州が、開口部を狭めていることが見てとれますね♥

当時、河内潟に河川から流れ込む水は、この開口部を通って大阪湾へと流れ出ていました。

ただし、一方通行ではなく、上げ潮時(当時の大阪湾の干満差は約2メートル)には、逆に大阪湾の海水が開口部から河内潟内部へと流入し、現在の大阪城辺りにまで達していました。そして、引き潮時には、再び河川水とともに流入した海水も大阪湾へと流れ出ていったんです♥

それを示したのが、下の古地理図です。大阪湾の海水域、河内潟内陸部の淡水域、そしてその中間点にある汽水域が見てとれますね♥


画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ ☆大阪平野の古地理図 ↓
https://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/16/pdf/16_1_2.pdf

この汽水域こそが、「潟」だったんです♥上げ潮時には、大阪湾からの海水が流入し、大阪城・南森町付近までが海となり、引き潮時には干潟となり、さらに生駒山の麓に至る内陸部では、古地図に示されている複数の川筋が浮き出ていたんです

日本書紀には、次のように書き遺されています。

まさに難波碕に着こうとするとき、速い潮流があって大変速く着いた。
川をさかのぼって、河内国草香村(日下村)の青雲の白肩津に着いた。

上げ潮に乗って、河内潟内部へと進み、難波碕に上陸、そして干潮時に、難波碕から東の日下へと向かって東西を結ぶ一筋の川筋、まさにこの川を遡って行った。。。すべて、辻褄が合っていますね♥

で、いまでも残る当時の名残が、大阪湾最大の干潟「十三干潟」です♥




詳しくはこちらから♥ ⇒ ☆大阪湾最大の干潟 十三干潟 ↓
http://www.tosibunka.co.jp/jusohigata/jusohigata_index.html

当時の河内潟時代には、きっと冒頭でご紹介しました福島潟のような風景が、より広大に広がっていたんでしょうね♥


画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ ☆新潟市/福島潟の春風景・菜の花とヨシ焼き ↓
https://blogs.yahoo.co.jp/akita678/46369273.html

ということで、本日はこれまでです♥

続きは次回に♥

(略)

http://oyakochoco.jp/blog-entry-1169.html


この”親子チョコ”のblogの冒頭に、「戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。 そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。」と書かれている様に、

神武天皇に関して、こんな重要なことで、しかも簡単なことが、何故今迄世に広められていなかったのであろうか、と全く不思議である。大阪平野の地質調査は、大阪の発展とともに必然的に進められ、そのため大阪平野の成り立ちが科学的に明らかになっていった訳であるが、これって、何も懐古主義にのっとって進められたものでも何でもない。大阪の経済の発展に沿って高層建築物を立てる必要に迫られ、そのために地質調査が科学的に進められていった次第である。
結果として大阪平野の成り立ちが明らかになってきたと言う事。

(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(30)

2018-09-24 00:00:00 | Weblog

上図の変化の順番を示すと、以下のようになります。

1.河内湾1の時代 : 約7000年前~6000年前
2.河内湾2の時代 : 約5000年前~4000年前
3.河内潟の時代  : 約3000年前~2000年前(西暦紀元前1050年~前50年)
4.河内湖1の時代 : 約1800年前~1600年前(西暦150年前~350年)
5.河内湖2の時代 : 約1600年前以降
6.大和川付け替え以前
7.大和川付け替え以降
8.現在

続いて、大阪平野の地層と地質の調査結果が、次に示すとおりです。
( 詳しくはこちらから♥ ⇒ ☆大阪平野の発達史 ↓ )
https://www.kubota.co.jp/siryou/pr/urban/pdf/16/pdf/16_1_1.pdf

大阪平野の沖積層基底等深線図


大阪平野の14C年代試料採取地点の地質柱状図

上図の採取地点①~⑫を、地図上で西から東へと黄線で結んだのが、下図になります。



今から2万年前、ウルム氷期の最盛期、海水面は現在より100メートル以上も低く、大阪湾や瀬戸内海は陸地でした♥


2万年前の日本列島
画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ ☆大雪山の高山植物の起源<その4> ↓
http://muishizen2.seesaa.net/archives/20150813-1.html

そして、その当時の大阪駅付近の地表面は、現在よりも27メートル以上低かったことも分かっています。

やがて、地球の気温上昇とともに、氷が解け、海水面が上昇し、今から1万1000年前には、大阪駅付近の地下20メートルぐらいまで海水が流入していきました。

さらに気温が上昇、海水温の上昇にともなう大量の蒸発がおこり、山々には大雪が降り、日本列島各地に大雨が降るようになりました。

こういった気候の変動によって、大阪平野に流れ込む河川水量が増加し、大量の土砂を運び込み、やがて現在の大阪平野へと繋がっていきます。
(続く)
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石破茂問題・進次郎さんよ?違う声を強みに、とはどういうことか。(3/3)

2018-09-22 00:00:00 | Weblog

これは2018.9.16~17の「究極の悪・石破茂」の最終回である。

2017.9.14 17:35
『自民党の石破茂元幹事長は14日の派閥の会合で、非核三原則の見直しを議論すべきだとの考えを改めて示した。「議論もしないで、『米国の核の傘があるから大丈夫だよね』『ミサイル防衛があるから大丈夫だよね』って。本当に日本の独立と平和は達成されるのか」と述べた。』


これは、2018.9.16(日)の小生のブログで紹介した産経のニュースの一節である。

それなら、「どのようにして日本の独立と平和を達成しようとするのか」と言う肝心な政策はあるのかと言うと、それはあまりはっきりとしない。

しかも非核三原則をどのように見直すのか、と言った内容の表明もない。石破のこの文言を読むと、

「米国の核の傘で守ってもらうといいながら、日本国内には(核兵器を)置かないというのは本当に正しい議論なのか」と語った。」と言っているから、非核三原則・「核兵器を持たず、作らず、持ち込ませず」のうちの「核兵器を持ち込ませず」を原則から外して、核兵器を日本におくことを認めると言う事なのであろう。

小生は、日本の独立と平和を維持しようとするのであれば、「核兵器を日本に持ち込む」だけではなくて、日本自身が「核武装」するくらいのことを進めなければならないと思っている。

だから石破がどれだけの覚悟をもって、このことを言っているのかは非常に興味があった。

しかし石破は、持論の「9条2項(戦力不保持)を削除して、自衛隊を戦力として位置付ける改正」をどちらかと言うと封印してしまい、地方を元気するとか防災省を作る方が大事で憲法改正は二の次だと、今回の総裁選では逃げてしまった。

これでは石破には、日本の政治は任せられけない。・・・・・と思うのは私だけではあるまい。


これと似た気持ちになったことがある。

それが小泉進次郎氏の「人との違いを強みに変えられるかが大事。…違う声を強みに変えていく、そんな自民党でなければいけない。」とは一体何を言わんとするのか。




進次郎氏、石破氏支持の理由語る「二者択一の話でない」
2018年9月20日18時02分

自民党総裁選を終え、記者の質問に答える小泉進次郎筆頭副幹事長=2018年9月20日午後3時49分、東京・永田町の党本部、岩下毅撮影

 小泉進次郎・自民党筆頭副幹事長は党本部で記者団に対し、「石破氏に一票を投じました」と明らかにした。その理由について「安倍さんか石破さんかという二者択一に見えて、そんな単純な話ではなかった」としたうえで、「私なりにどういう思いを一票に乗せるか考えたときに、日本のこれからの発展は、人と同じではなくて、人との違いを強みに変えられるかが大事。自民党も、違う意見を押さえつけるのではなくて、違う声を強みに変えていく、そんな自民党でなければいけないと。そんな思いから私なりに判断した」と語った。

 多くの議員が投票先を明らかにするなかで、小泉氏はぎりぎりまで投票先を明かさず、20日午後の投票直前、ようやく石破氏支持を明らかにした。「仮に私がもっと早く表明したら、私の望む形にならなかったと思う。私が表明しなかったからこそ、2人の違いや論争に注目が集まった」と自身の影響力を考慮したうえでの「沈黙」だったことを強調した。

 総裁選を振り返り、「いろんな情報戦があった。政治の世界の戦。わたしは武器を持たない戦争みたいなものだと思う。それに対して、どうやって生き抜いていけるようにするか、そういったことも含めて非常に学びのある総裁選だった」と述べた。
https://www.asahi.com/articles/ASL9N5TK5L9NUTFK023.html?iref=pc_ss_date



小泉進次郎氏、石破氏へ投票
1強批判「違う声強みに」
2018/9/20 20:39 ©一般社団法人共同通信社

自民党総裁選で投票する小泉進次郎筆頭副幹事長=20日午後、東京・永田町の党本部

 自民党の小泉進次郎筆頭副幹事長は20日、総裁選で石破茂元幹事長を支持することを投票直前に表明した。結果判明後、党本部で記者団に「違う声を抑えつけるのではなく、強みに変えていく自民党でなければならないとの思いから判断した」と理由を述べた。安倍晋三首相による「1強」体制への批判をにじませた格好だ。今後は内閣改造・党役員人事での処遇が焦点となる。

 小泉氏は、連続3選を果たした首相に向け「最後の総裁任期なので、政治家として腹の底からやりたいことを完全燃焼してほしい。党内のさまざまな声を強みに変えてほしい」と強調した。
https://this.kiji.is/415300792661951585



こんな抽象的な言葉で、国民を騙すようでは先が思いやられる、と思われるのだが。

小泉進次郎氏は歯に衣着せぬ言葉で、国民の評判はすこぶるよい。このような抽象的な、なんとなくそれらしい言葉を吐けば、国民は納得するとでも思っているのか。

進次郎氏が提言しなければならないことは、こんな抽象的な言葉を振りまくだけではなくて、「だから、これこれしかじかで、党内を納得させるべきではないか、党内を一致させるべきである。(それが日本の平和と国民を守ることになる)」と言う提言が必要なのである。

党内の様々な声を強みに変えてほしい」とは、どういうことか。アジテーション的な言葉を投げかけて済ませるような立場には、既にない筈だ。

本気でそう思って日本の未来を危惧しているのであれば、そのための具体案も示すべきであろう。こうすれば強みになるのになあ、と言った言い草でもよい。扇動だけでは、そのうちに、国民に飽きられるのではないのかな。彼はまだ若いからこのように甘えていられる、と少しでも思っているとしたら、将に政治家失格であろう。

実際のところ、どうしたら強みに変えることが出来るのか、と言ったことは、彼にもわからないのではないのかな。ただ単にそういっただけではないのか。観念的にはそれはまことに正しいことではあるが、言う事ならば誰でもできる。どうすればそうなるか、方法論が必要なのだ。

彼の言っていることは、至極当然で当たり前のことである。彼はだた、民主主義の原則を言ったに過ぎないのではないのかな。政治家であれば、原則論だけでは務まらない。

世界情勢、国内情勢、国民の感情論、なども踏まえて、日本の独立と平和を維持し国民の生活を向上させてゆく施策を述べるべきなのである。

抽象論だけの政治家では、国を動かすことはできない。いくら国民受けが良いからと言って。

一見カッコよく聞こえるが、こんな扇動が国民を間違った方向へ導くこともある、と言う事をしっかりと自覚すべきであろう。

だから、石破の憲法論から逃げた事と、進次郎氏の抽象論で煙に巻いたことが同じことのように聞こえたのである。何れも肝心なことは言わずに避けている。

仮に私がもっと早く表明したら、私の望む形にならなかったと思う。私が表明しなかったからこそ、2人の違いや論争に注目が集まった」とは、事実なのか、確かに石破が憲法論から逃げた事だけはわかったのであるが。



議員票 地方票  合計
安倍晋三 329    224    553
石破茂 73    181    254





<自民総裁選>石破氏善戦 首相、迫られる「批判」への配慮
毎日新聞2018年9月20日 19時47分(最終更新 9月21日 02時47分)

自民党大会に代わる両院議員総会の最後にバンザイをする安倍晋三首相(前列中央)、石破茂元幹事長(同左端)=党本部で2018年9月20日午後2時23分、川田雅浩撮影

 自民党総裁選は20日、国会議員による投票が行われ、党員・党友票と合わせて開票された。安倍晋三首相(64)が553票を獲得し、254票の石破茂元幹事長(61)を破って連続3選を果たした。首相は最終任期の3年間でデフレ脱却や憲法改正などの課題に取り組む。ただ、石破氏が国会議員票、党員票とも善戦したことで、首相は今後、党内からの批判に配慮した政権運営を迫られる。
 総裁選は国会議員票、党員票それぞれ405票で争われた。国会議員票は首相329票、石破氏73票、無効票3票。毎日新聞の情勢分析では、首相は自民党細田、麻生、岸田、二階、石原各派と竹下派の衆院側の支持を受け、無派閥議員を含めて343票を固めていたが、十数票を取りこぼしたことになる。石破氏は石破派と竹下派の参院側、無派閥議員の計51票程度の基礎票から約20票上積みした。小泉進次郎筆頭副幹事長(無派閥)は投票直前に石破氏支持を表明した。
 焦点の党員票は首相が224票、石破氏が181票だった。首相の得票は405票の55.3%で、首相陣営の甘利明事務総長が目標に掲げた55%をわずかに上回った。しかし、陣営は当初、7割を目指していただけに、「やはり地方には不満がたまっている」(中堅議員)という見方が出ている。
 党員投票の結果は、首相が35万5487票、石破氏が28万6003票。両氏の得票数に応じてドント式で405票を配分した。投票率は61.74%で、選挙戦になった2012年総裁選の62.51%から微減した。
 開票後、首相は両院議員総会で「戦いは終わった。これからは一致協力して新しい日本をつくっていこう」と結束を呼びかけた。来年11月に戦前の桂太郎首相の2886日を抜き、在任期間が歴代1位になる。
 石破氏は「これ以上ないほどの力をいただいた。いい形で次の政権につなげるよう努力したい」と記者団に語った。【村尾哲】
https://mainichi.jp/articles/20180921/k00/00m/010/069000c


しかし進次郎氏は、当初は”早期に石田指示の態度表明をするつもりであった”ようだ。それを周囲などから早いうちに態度表明しないように説得されて、思い止まっている。
きっと「仮に私がもっと早く表明したら、私の望む形にならなかったと思う。私が表明しなかったからこそ、2人の違いや論争に注目が集まった」とは、後付けの理由なのであろう。



進次郎氏、制止され早期表明断念
毎日新聞2018年9月21日 20時16分(最終更新 9月21日 20時49分)

自民党総裁選後、記者団の質問に答える小泉進次郎筆頭副幹事長=党本部で2018年9月20日、川田雅浩撮影

 自民党総裁選で、20日の国会議員投票の直前に石破茂元幹事長支持を表明した小泉進次郎筆頭副幹事長は一時、早期の態度表明を検討していた。しかし、安倍晋三首相の陣営だけでなく、周囲からも自制を促されて断念。投票開始約15分前の表明はぎりぎりの意思表示だったようだ。

<自民党総裁選>小泉進次郎氏、石破氏を支持
<進次郎氏>「違う声を強みに」石破氏支持理由
<進次郎氏が「ギウン」を問う>
<進次郎氏「モリカケやっぱりおかしい」>
<自民総裁選>じわり広がる不満、圧勝逃す「安倍1強」転換点
<自民総裁選>伸びぬ党員票「打ち上げではない。反省会だ」

 関係者によると、小泉氏は総裁選期間中(7~20日)の「早い時期」に表明することを検討していたという。しかし、小泉氏の動向を警戒する首相陣営がたびたび「メリットがない。やめた方がいい」などと忠告。将来への影響を懸念する周囲からも「あまり関与しない方がいい」などと助言していた。

 小泉氏自身は20日の総裁選後、「(早期に)表明しなかったからこそ(候補者)2人だけの論争に注目が集まった」と総裁選への影響回避を考慮したことを示唆した。党員・党友の投票は19日に終わっており、ほとんどの国会議員が支持候補を決めたのを待って表明した形だ。【松倉佑輔】
https://mainichi.jp/articles/20180922/k00/00m/010/090000c


それに石破派からの閣僚起用は見送られるようだが、まあ当然のことであろう。日本の独立と平和と国民の安寧のために、憲法改正の第一歩を踏み出そうとしているのであるから。

安倍晋三総理に一層の活躍を祈念したい。



首相、石破派の閣僚起用見送りへ
内閣改造、改憲方針への同調重視
2018/9/21 20:00 ©一般社団法人共同通信社

閣議に臨む安倍首相=21日午前、首相官邸

 安倍晋三首相は10月1日を軸に調整する内閣改造で、自民党総裁選を戦った石破茂元幹事長が率いる石破派からの閣僚起用を見送る意向を固めた。首相の憲法改正の考え方に同調することを人選で重視する。石破派の斎藤健農相は交代させる方針だ。政権幹部が21日、明らかにした。河野太郎外相、世耕弘成経済産業相、茂木敏充経済再生担当相は留任の方向。首相は石破派からの党役員登用も避ける見通しで、党内から反発が出る可能性もある。

 首相は28日に米国から帰国後、人事調整を本格化させる。政府与党の新体制で、党改憲案の臨時国会提出方針やアベノミクスの加速などを推進する構えだ。
https://this.kiji.is/415824231025394785
(終わり)
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邪馬台国とはなんぞや?(29)

2018-09-21 00:00:00 | Weblog

 また関西には多くの大学や研究機関があるのですが、この社伝を信じ、古代史を研究した方はいないようであり、



研究機関、大学、古代史家、歴史教師、マスコミから作家まで、神武東征を否定し、好意的な人も、それは神話だ、と見向きもしなかったのです。』



いかがでしょうか?

神武東征の証明、年代の特定など主要な解説は、本書をお読みいただくと致しまして(⇒見事に解き明かされています♥)、それらを紐解く、最も重要なポイントの解説をさせていただきます。

そのポイントとは、日本書紀や古事記が伝えるところの、「神武天皇は船で難波碕に上陸なされた」、をその年代とともに証明することにあります。

先ほど御覧頂きましたとおり、生國魂神社の御由緒には、「難波(古代の大阪)」が、昔は「南北に連なる台地」であって、「三方を海に囲まれていた」と伝えられています。そして、そこに神武天皇がやって来られたとも伝えています。そして、周辺の海には、大小さまざまな島が浮かんでいたと。。。難波の「八十島(やそしま)」ですね♥ 大八洲国(おおやしま)、つまり、私たちの日本の原型が、ここにあるんです♥



そこで、一つの疑問点が出てきます。「大阪城から生駒山の麓までは見渡す限りの陸地」です。

本当にこの辺りが海で、数々の島があったんでしょうか?船で来ることができたんでしょうか?



著者は苦言を呈していますね♥ 

「関西には多くの大学や研究機関がある」にもかかわらず、「古代史を研究した方はいない」と。。。

それでは大学や研究機関とは無関係な私たち一般的な日本人の手で、大阪平野の成り立ちを調べるために、ググってみましょう♥

「大阪平野 沖積」

いかがでしょうか?

たくさん出てきましたね♥

そこから得られる情報だけでも、研究機関、大学、古代史家、歴史教師、マスコミから作家までが否定する『神武東征』が事実であると推定することができ、また、その年代も推定できるんです♥
素人にだってできるんですよw 「研究機関、大学、古代史家、歴史教師、マスコミから作家」って、一体何をやっているんでしょうね♥

それでは、見てまいりましょう♥

まずは、キーとなる大阪平野がどのようにして成り立ったのかを押さえましょう。

現在の私たちの日本で、いわゆる平野と呼ばれているところは、川の土砂が堆積して出来上がった沖積平野です。

ですから、かつてはどこも湿地帯だったんです♥

「 縄文時代、海面は今より数mも高く、日本の沖積平野(ちゅうせきへいや)はすべて海の下であった。

その後、海面が下がり、川の土砂で沖積平野が形成されていった。

現在の日本で平野と呼ばれているところは、かつてはどこも湿地帯であった。」


で、その大阪平野が、川が運んでくる土砂により出来上がっていく過程を示すと、以下のようになります。


画像はこちらからお借りいたしました♥ ⇒ 大阪平野の変遷
http://agua.jpn.org/pre/pm.html
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(28)

2018-09-20 00:30:00 | Weblog

親子チョコ♥(親子で、ちょこっと。。。)
「いくたまさん」が伝える真実 ~ 神武東征の証明
2015-12-02   http://oyakochoco.jp/blog-entry-1169.html
(略)

戦後の日本人は、正しい歴史を学校で教わって来ませんでした。
そして、現代のメディアもまた、嘘の情報を流し続けています。
私たち日本人は、親日的な立場に立ち、正しく認識し直し、
客観的に情勢を判断する必要があります。
それでは、この書物を見ていきましょう!



『 (大阪城)大手門を出て左に曲がると、小さな公園の片隅に古風な掲示がありました。何が書いてあるのか近づいて読んでみると、

「ここはかつて難波碕(なにわのみさきと呼ばれ、生國魂神社(いくくにたまじんじゃがあったが、豊臣秀吉公が大阪城築城に際し天王寺の方へ移させた」

と書いてあり、ここが神社が旅立った「お旅所どころ」だとあるのです。



 奇妙な話につられ、行ってみようと思ったものです。そこから西に向かい、上り坂を歩いて谷町筋に出て、谷町四丁目交差点を左折し、天王寺方面へしばらく行くと右手に生國魂神社がありました。


生國魂神社


生國魂神社

お参りを済ませ、どのような神社なのかと【いくたまさん】なるパンフレットを読むと次のようにあったのです。



御由緒

難波(浪速)と呼ばれた古代の大阪は、【南北に連なる台地】より成り、【三方を海に囲まれた本流の打ち寄せるところ】であった。現在の上町台地である。


上町台地(緑色)の稜線部を旧熊野街道(橙色破線)が走る

この上町台地周辺の海上には、【大小さまざまな島】が浮かんでいた。大和川と淀川が上町台地の北端で交わって一筋の大河となし、【上流より運ぶ砂礫が堆積して砂州となって、次第に島々(島嶼)を形成した】のである。

 いわゆる難波の「八十島(やそしま)」である。この島々がやがて陸地と化し、現在の大阪の地形が形づくられた。今も市内に残る堂島、福島、弁天島などの【「島」のつく地名が、古代を物語っている】。漸く、大地生成の壮大かつ神秘に満ちた大自然の営みは、「八十島神」と称えられ、『古語捨遺(こごしゅうい)』に「大八洲(おおやしま)の霊――日本列島の御神霊(ごしんれい)」(国土全体の国魂の神)と記された生島(いくしま)大神・足島(たるしま)大神(生國魂大神)の御神徳によるものであり、万物創造・生成発展の御神威の発揚に他ならない。

 古代の大阪は上町台地が中心であり、沖積作用により海が埋め立てられ、多くの島々ができ、今日の大阪平野が出来上がったというのです。次いで『創祀(そうし)』を読んでみました。

創祀

社伝によれば、神倭伊波礼毘古命(かむいやまといはれびこのみこと / 第1代神武天皇)が御東征の砌(みぎり)、大阪の起源ともいえる上町台地の北端の地(難波之碕――現在の大阪城一帯)に、天皇御親祭により、国土の平定・安泰を願い、大八洲(日本列島)の御神霊であり国土の守護神である生島大神・足島大神をお祀りなされたのが、生國魂神社の創始と伝わる。当神社が【大阪最古にして、大阪の総鎮守と称される所以】である。その後、大物主大神を相殿神としてお祀りする。


神武東征

 何と神武東征のおり、ここに生島大神・足島大神を祀ったのが始まりだ、という話が大昔から語り継がれ、今日に到っているのです。



 記紀は、神武天皇は船で難波碕に上陸したと記し、生國魂神社の社伝にも神武天皇がやって来たとあります。近くに大阪湾や淀川もあるのですが、【大阪城から生駒山の麓までは見渡す限りの陸地】。如何に大昔とはいえ、本当にこの辺りは海か湖だったのか、どのような地形だったのか、見当もつきませんでした。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(27)

2018-09-19 00:00:00 | Weblog

神武天皇が大阪湾に到達したときは、丁度満ち潮時で、大阪湾からその湖水状のみずうみへは海水が流れ込んでおり、その早い潮流に乗って上町台地の反対側にたどり着いた、と言った状況が書かれているのである。その上町台地には、現在は、東側には大阪城、西側のやや南には生国魂神社が乗っている(建てられている)。

長浜浩明氏の先の書「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)では、このことからと言う訳でもないが、大阪平野の成り立ちの考察から始まっている。

氏は現在の上町台地の西側を大阪平野、東側を河内平野と分けて呼んでいるが、その第一章の表題は、「かって「大阪・河内平野」は海だった」としているほどである。

先の書によれば長浜浩明氏は、東京工業大学建築学科、同大学院修士課程環境工学専攻を終了している工学修士であり、昭和48年に(株)日建設計に入社している。そして大阪本社で新人研修を受け生国魂神社の社伝や、それ以後、大阪平野などの地質調査結果に接し、嘗ては大阪平野や河内平野が海だった歴史があったことを知り、ある種の感慨を受けたと記している。

大阪平野や河内平野には、日本経済の高度成長と共に高層建築物が建てられていったが、そのためには地質調査が必然であった。そのため各所がボーリング調査され、しかもサンプルは炭素14年代により科学的に調査され、その結果、大阪平野の成り立ちが詳細に明らかとなっていった。

この過程を詳しく調査されたのが、大阪市立大学の地質学教室(1950年S25年に設立)の梶山彦太郎氏市原実氏の両教授たちであった。

それによると大阪平野は次のような経過で成立していったと言う。(1950年を起点)
先の書に従って、簡単にまとめてみる。


(0) 古大阪平野の時代(二万年~九千年前) ウルム氷河期で海水面は100m以上低い。ナウマンゾウの時代。

(1) 河内湾Ⅰの時代(七千~六千年前) その後の温暖化により海面が上昇、古大阪平野に進入した海水は生駒山の麓まで押しよせていた。大阪城から5kmほど東北東の茨田諸口からクジラの骨が出土している。縄文海進と言う。

(2) 河内湾Ⅱの時代(五千~四千年前) 大阪城公園の東南の角に、JR環状線の森ノ宮駅がある。ここに縄文時代から弥生時代に掛けての貝塚があり、下部には海の牡蠣が積まれており、上部はセタシジミと言う淡水貝で、その貝塚は終わっている。ここは上町台地の縁にあたり、すぐ海が迫っていた様だ。しかし沖積作用によりやがて海は閉鎖されて淡水化していったことが、このことから判るのである。

(3) 河内潟の時代(三千年~二千年前) 即ち紀元前1050年から紀元前50年頃になると河内湾は更に埋めたてられて海から潟へと変わっている。1950-3000=-1050年となる。先の森ノ宮貝塚の上部がセタシジミと言う淡水貝に変わっていたと言う事は、河内湾が潟に変わったことの、証となろう。また生駒山の麓にある日下貝塚でも淡水貝のセタシジミに変わっている。
  この時代になると、「上町台地から延びる砂州は更に北進し、開口部は狭まり、河内潟に流れ込む河川水はここから大阪湾へと流れ出ていたが、満潮になると狭まった開口部を通って海水が潟内部へ逆流し、四~五キロ奥の大阪城辺りまで達した。そして干潮になると、潟の水は開口部から大阪湾へと勢いよく流れ出た。これが浪速、難波の由来であろう。」と、先の書には書かれている。
  そして干潮時になると川が浮き出て、川を遡上することが出来たと、梶山彦太郎氏も指摘していると言う。
  まさに日本書紀の言う「舳櫨相つぎ、まさに難波碕に着こうとするとき、早い潮流があって大変早く着いた。」とか「3月10日川をさかのぼって、河内国草香(日下)村の青雲の白肩津に着いた。」という表現は、将にこの時代のことを如実に表していることではないか。

と言う事は、神武東征はこの時代に行われたことであり、実際にあったことの表現であろう。

(4) 河内湖Ⅰの時代(千八百~千六百年前) 即ち西暦150年~350年頃には、河内潟は湾口が閉ざされて湖となっている。上町台地の砂州が伸びて湾口が閉ざされてしまったことになる。
  その砂州の東側の当たる淡路町では、セタイシガイと言う淡水貝が出てきているから、潟は湖となり、河内湖となり水は大阪湾へ流れ出ていただけとなっている。この時代は丁度卑弥呼の時代と重なり、この時代では先の日本書記の表現は全く成り立たないことになる。従って「神武一行の難波の碕への侵入はこの時代ではない」ことになる。

(5) 河内湖Ⅱの時代(千六百年前以降、西暦四百年~ この時代には河内湖は淀川などのデルタが発達し湖は益々小さくなり、しばしば洪水を起こしていたようである。そのため仁徳天皇 が「溢れた水は海に通じさせ、逆流を防いで田や家を浸さないようにせよ」と言って、堀江の開削を命じている。今の大川である。


こうして神武東征年代とは「河内潟の時代」以外はありえないことが確認できた。すると、神武東征を事実とし、且つ「邪馬台国が東遷した」や「邪馬台国を滅ぼした狗奴国が東征した」は成り立たなくなる。』と長浜浩明氏の先の書「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)は、この第一章を締め括っている。


ここら辺の事情を説明しているブログを次に紹介しよう。大阪平野が河内湾から河内潟へ、そして河内湾へと変遷して、河川の沖積作用によって(大阪)平野へと変わっていく様が理解できよう。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(26)

2018-09-18 00:00:00 | Weblog

神武天皇聖跡難波之碕顕彰碑
http://otube.osakazine.net/e384484.html

神武天皇聖跡難波之碕 

地点地域
凡そ東區の上町台地の北端より北區の天満附近に至る地域  
御事蹟
難波之碕は日本書紀に據れば神武天皇御東征の際到り給ひたる所なり
その砌(みぎり)奔潮甚だ急なりし為浪速の國の名を得後難波となれり
-昭和十五年秋 大阪府


大阪府による案内板より敢て原文ママで書き写してみました。なお石碑の側面には、昭和十五年十一月 紀元二千六百年奉祝會という記述があります。

神社の由緒や顕彰碑の碑文などで「神武東征の際…」とか「神武東征が…」という文言がタマに出てきます。
そこで神武東征についてごく簡単に纏めてみました。


(このPhotoは、http://www.tukinohikari.jp/jinja-oosaka/topics-oosaka-naniha-jinmu-hi/index.html より借用している。)

神武東征(じんむとうせい)とは、初代天皇である「神倭伊波禮毘古命(カムヤマトイワレビコ)=神武天皇」が日向(現・宮崎県)を発ち、大和(現・奈良県)を征服して橿原宮で即位するまでの日本神話の説話です。
日本書紀によれば神武天皇は、45歳(紀元前667年)の時、日向の高千穂を発ち、海路瀬戸内海を通り、浪速国(現・大阪府)に上陸して、そこから大和の国に入ろうとします。しかしこの地を支配する長髄彦(ながすねひこ)に敗北し、現在の大阪平野を船で南下し、紀伊国(現・和歌山県)から熊野を経由して大和の国に入り、紀元前660年大和国を征服して橿原宮で即位したとされています。

http://otube.osakazine.net/e384484.html


難波之碕へは非常に速い潮流に乗って到着した、と書かれているが、当てずっぽうに想像して書かれたものではない。

このことは、古事記や日本書紀に、しっかりとそのように書かれている。

ただしここの書かれている紀元前660年などと言う年代は、かなり異なっているようなのでそのつもりで読んでほしい。と言うのも先の書の書名には、「神武天皇即位は紀元前70年だった!」と副題が記載されているからである。




日本書紀巻第3 神武天皇
       (出典:講談社学術文庫 日本書紀(上) 宇治谷 孟氏著)


東征出発


・・  略  ・・・・・・

11月9日 天皇は筑紫の国の岡水門につかれた。

12月27日 安芸の国について埃宮(えのみや)においでになった。

翌年乙卯(きのと・う)春3月6日に吉備国に移られ、行館(かりのみや)を
造っておはいりになった。 これを高島宮という。

3年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。

戊午(つちのえ・うま)の年、春2月11日に天皇の軍はついに東に向かった。

舳櫨相つぎ、まさに難波碕に着こうとするとき、早い潮流があって大変早く着いた。

よって、名づけて浪速国とした。

また、浪花ともいう。今難波というのはなまったものである。

3月10日川をさかのぼって、河内国草香村の青雲の白肩津に着いた。

(略)

http://www2e.biglobe.ne.jp/~fujimoto/kojima/jinmu.htm



難波(なにわ)
なにわ

大阪の古地名。浪速、浪華、浪花とも書く。

地名の由来は、

『日本書紀』(神武(じんむ)天皇即位前紀戊午年)に

皇師遂(みいくさつい)に東にゆく。舳艫相接(ともえあいつ)げり。方(まさ)に難波碕(なにわのさき)に到るときに、奔(はや)き潮(なみ)ありて太(はなは)だ急(はや)きに会いぬ。因(よ)りて名づけて浪速国(なみはやのくに)とす。亦浪花(またなみはな)と曰(い)う。今難波(なにわ)と謂(い)うは訛(なま)れるなり

との神話伝承によるが、異説もある。

古代の難波は、南北に延びる半島状の上町(うえまち)台地の北部一帯(先端は難波碕)から西、北縁の砂堆(さたい)を占め、東に難波江、西に難波乃海(なにわのうみ)(大阪湾)に接し、水陸交通の要衝をなしていた。そこに難波津の港が栄え、三韓や隋(ずい)、唐の使節を迎えて鴻臚館(こうろかん)が設けられた。

また、たびたび皇都としても選ばれ、難波大隅宮(おおすみのみや)(応神(おうじん)帝)、難波高津宮(たかつのみや)(仁徳(にんとく)帝)、祝津宮(はふりつのみや)(欽明(きんめい)帝)や難波長柄豊碕宮(ながらとよさきのみや)(孝徳(こうとく)帝)、難波宮(天武(てんむ)帝、聖武(しょうむ)帝)などが造営された。

中世、難波は衰微したが、台地北端に石山本願寺、ついで大坂城が築造され、以来もっぱら大坂(阪)の名で知られ、一方、難波の名は荘園(しょうえん)名また村名として、現在に残った。[位野木壽一]
https://kotobank.jp/word/難波%28なにわ%29-1572458


「古代の難波は、南北に延びる半島状の上町(うえまち)台地の北部一帯(先端は難波碕)から西、北縁の砂堆(さたい)を占め、」と書かれているように、上町台地と言う半島で西に大阪湾、東に難波江と言う湖水があり、今のような一体となった平野ではなかったようだ。そして上町台地の先端は海流により砂礫が堆積し台地が伸びて(?)狭い海峡のようになっており、満ち潮、引き潮の時は相当早い潮流が流れていたようである。
(続く)
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