世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

続・次世代エコカー・本命は?(42)

2016-05-31 00:00:00 | Weblog

相容れない両社の哲学

「スズキへの出資比率引き上げは時間の問題」

 VW社長のヴィンターコルンは提携会見から1週間も経たないうちに、将来的にスズキへの出資比率を引き上げる可能性はあるというコメントをメディアに発し始めている。ヴィンターコルンの背後には、監査役会会長でVWの実質的な支配者であるピエヒの思惑が働いていることは想像に難くない。

 買収し子会社化した企業を会社全体の戦略に最適化することは、VW、いわばピエヒの経営哲学そのものである。アウディ、シュコダ、ポルシェなどVWは次々と買収を重ね、巨大なVWグループをつくり上げてきた。全体戦略に組み込んでいくことで提携効果(シナジー)が生まれ、それが両社の信頼関係につながる。信頼関係とは全体最適の結果生まれる。それがピエヒの哲学だ。

「最終的に支配を目的とするVWと、本当に対等な関係が築けるのか」

 メディアもアナリストも、この点が非常に気がかりであった。マイナーな出資比率にもかかわらず、包括提携を結び対等な関係で技術提供するというのは、あまりにも大盤振る舞いに見えたのである。
「成り行きで、結果として、食われることは運命であり、それは結果論にすぎない。食われないよう信頼を構築し、お互いのメリットを引き出せる関係を築き上げることに専念するしかない」

 ピエヒの思想を修が知らないわけはない。しかし、提携の基本精神はイコールパートナーである。お互いの信頼関係に基づいて、スズキが持続できる企業に発展してこそ、シナジーが生まれ両社が発展する。これが、修の哲学だ。

決裂から対決へ

 対価を支払えば鷹揚に技術を提供してくれたのが、昔のパートナーのGMであった。支配を目的とするVWの姿勢とは決定的な違いがあったであろう。VWはお金には興味を示さず、自社の全体戦略にスズキを取り込むことを優先したと考えられる。

 技術をVWから獲得し、その結果としてスズキの独立自尊を欲する修と、自社の戦略に組み込むために支配を目指すピエヒとでは、言うまでもなく目的がまったく相容れない。信頼関係を構築するどころか、関係が悪化するまでには、たいして時間はかからなかった。

 今になって思えば、包括提携と同時に、実行内容の細部についてまで契約書に明文化する必要があった。包括的提携を先に決め、後々から細部を議論するというのは、信頼関係が最初から存在することを前提としている。修らしい「ハート・ツー・ハート」の契約行動を、VWは逆手にとった格好である。

 年末の提携発表から年が明けた2010年1月に入ると早々に、スズキとVWは会社間をイントラネットでつなぎ、協業プロジェクトに突入した。すぐさま互いの部品表を交換し、「それ行け、どんどん」で最初の動きは素早かった。

 しかし、提携の大きな目的であったVWからのディーゼルエンジン調達要素技術へのアクセスを急ぐスズキに対して、VWは首を縦に振らなかった。ハイブリッド車の技術供与に対しても、技術提供やハイブリッド車の供給案も拒否した

「本当に、VWは技術を出す気があるのだろうか。いや、肝心の技術そのものを社内に持っているのだろうか」

 要求する技術にアクセスできないスズキの技術者は、早々に違和感を持ち始めたという。契約時に狙った提携効果の実現が厳しいという感触は、半年も経たないうちにスズキの社内に蔓延し始めていた。

 VWは、戦術として技術供与の交渉を前に進めなかった可能性がある。ピエヒは、技術供与の対価として、スズキへの出資比率を19.9%から33%以上へ引き上げることを求めたという報道もある。

 提携スタートから間もない段階で出資比率の引き上げを飲むなど、スズキにとってはありえない話であった。修は直接交渉の場に何度も立ち、トップレベルの協議で両社が納得できる道を探ったが、展開は変わらなかった。提携維持のあきらめにも近い焦燥感が、スズキの内部には漂い始めていた。

 両社の関係決裂は、2つのできごとで決定的となった。

 ひとつは、VWが突如スズキを「財務上、経営上に重大な影響を与えることができる会社」と2010年度のアニュアルレポートに示し、「持分法適用会社」(出資比率が20%以上50%以下の関連会社)に位置づけたことだ。対等関係を築くという提携の精神が踏みにじられていると感じてきたスズキの不信感はピークに達する。

 2つ目は、スズキがイタリアのフィアットからディーゼルエンジン技術を導入すると決定したことだ。いつまでたっても進展しないディーゼルエンジン技術供与に業を煮やしたスズキは、2011年6月にフィアットからの技術導入に動いた。VWはこれに対して契約違反だと憤慨し、態度を硬化させた。

 2011年9月、スズキの原山はVWと円満な提携解消を実現するための最後通牒ともなる会議に向けて、フランクフルトへ飛んだ。

 問題だらけの包括提携。もはや願った効果はなんら達成できないのは歴然としていた。せめて、縁がなかったと最後は笑って別れ、何よりも、VWが保有する19.9%のスズキ株式を円満にスズキに売却してもらうことが必要だった。

 最後の、運命のこの交渉テーブルでは、実りのある結論はなんら得られなかった。不信と沸き立つ怒りの感情が両社に増大しただけ。前向きな話し合いの場は閉ざされ、両社は決裂から対決のステージに立った。

 この会談決裂から2日後の11日。浜松にいる修に、VWから一通の書簡が届いた。フィアットからのディーゼルエンジン技術導入は提携契約違反であり、一定期間内に是正せよとの通告であった。VWからの、事実上の宣戦布告である。
中西孝樹 著『オサムイズム "小さな巨人"スズキの経営』(日本経済新聞出版社、2015年)「第1章 岐路に立つスズキ」から

中西 孝樹(なかにし たかき)
(株)ナカニシ自動車産業リサーチ代表。1986年オレゴン大学卒。山一證券、メリルリンチ日本証券などを経て、2006年からJPモルガン証券東京支店株式調査部長、2009年からアライアンス・バーンスタインのグロース株式調査部長に就任。2011年にアジアパシフィックの自動車調査統括責任者としてメリルリンチ日本証券に復帰。2013年に独立し、ナカニシ自動車産業リサーチを設立。1994年以来、一貫して自動車業界の調査を担当し、日経金融新聞・日経ヴェリタス人気アナリストランキング自動車・自動車部品部門、米国Institutional Investor誌自動車部門ともに2004年から2009年まで6年連続1位と不動の地位を保った。2011年にセルサイド(証券会社)復帰後、日経ヴェリタス人気アナリストランキング、Institutional Investor誌ともに自動車部門で2013年に第1位。著書に『トヨタ対VW 2020年の覇者をめざす最強企業』、日経文庫業界研究シリーズ『自動車』などがある。
http://bizgate.nikkei.co.jp/article/94934116.html



この続きは、
スズキの恐怖「VWによる敵対買収」 2016/01/14 http://bizgate.nikkei.co.jp/article/94985611_5.html」と「スズキの強運、宿敵の失脚を経てVWに逆転勝訴 2016/01/21 http://bizgate.nikkei.co.jp/article/94991512.html」を参照願いたいが、双方とも自分勝手に相手を利用することばかりに集中していたようだった。

(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(41)

2016-05-30 00:00:00 | Weblog

案の定、早速マルティン・ヴィンターコーン社長は牙をむいたのだ。しかしヴィンターコーンはスズキを甘く見ていた感がある。


スズキと提携後、手のひらを返したVW
2016/01/07
ナカニシ自動車産業リサーチ 中西孝樹 氏


 国内軽自動車トップのスズキは6年前、「次の30年の道筋」をつくるための一手として、独フォルクスワーゲン(VW)との包括提携に踏み切った。だが、「イコールパートナー」を掲げるスズキの思いに反して、VWの狙いスズキの支配だった――。提携後すぐに生じた不信、対立、そして提携解消をめぐる係争の裏側に迫る。

 スズキがVWとの電撃的な包括提携に向かわなければならなかった理由は、前回の『スズキの大誤算、「VWとの提携」を求めた理由』をご覧いただきたい。

"最強のタッグ"のはずが・・・
鈴木修会長 (撮影:佐々木孝憲)

 GMの破綻劇は修にとっては受け入れがたい悲劇であり、経営者としての長年の信頼関係が、資本の論理に押しつぶされたできごとだった。GMとの資本関係が切れ、修は急いで次の提携先を探しに入った感は否めない。

 79歳にさしかかり、会社経営の仕上げを急ごうとする年齢的な焦りもあったのかもしれない。修は、すでに上場企業の実力経営者のなかでは最も高齢なうちのひとりになっていた。

 スズキの社員も、すぐに次を探すことが当然だという雰囲気にあった。そこに絶好のパートナーに見えるVWが現れ、スズキは一気にこの提携を進めていく気運となった。

 修がまだ63歳だったころ、VWとスズキは欧州事業で一度提携を試みたことがあった。当時のVWの取締役会会長であったカール・ハーン博士と修は非常に親しくしており、そのころからVWの経営体制は大きく変わっていたが、修にとってのVWは、経営のノウハウを学んだ親しい自動車メーカーでもあったのである。

 スズキとVWは、双方の自主性を尊重したイコールパートナー(対等関係)を約束した。出資比率を20%未満に抑え、関連会社としてVWの持分対象となることを避けた。さらに、VWから受け取った出資金の半分をVW株保有資金に振り向け、スズキは持ち合い関係を演出までした。対等関係は、この提携の基本精神であった。

 スズキ側の狙いはVWの持つ環境技術にある。ディーゼルエンジン技術ガソリン・ハイブリッド技術長期的な先進・先端技術と、大きく3つの目的があったと考えられる。一方、VWは弱点の新興国での存在感を高め、スズキの低コスト技術を学ぶのが狙いであった。

 スズキ・VWの提携が世界の競争状況におよぼす影響の大きさは、誰の目にも明らかだった。両社を合計した世界販売台数は1200万台と、最大の自動車連合が生まれる。中国ナンバー1のVWとインドナンバー1のスズキ。先端技術とプレミアムブランドに強いVW。低コストと低価格ブランドのスズキ。最高の補完関係を生み出せる関係に見えたのである。

 スズキとVWは、両社ともにファミリー企業である点も共通していた。カリスマ的なトップが、長期にわたり会社経営の中枢を支配していたことでも一致している。VWの監査役会会長のフェルディナンド・ピエヒ博士は、かの有名なポルシェ博士を祖父に持つ。1993年以来、VWのトップに君臨し、独善的なワンマン経営者として名を馳せていた人物である。

「ハート・ツー・ハート」を貫いた修の交渉

 提携に到達するスピード感には誰もが驚かされた。GMグループがスズキ保有株式を完全に売却し、資本提携を終わらせたのが2008年11月。そこからわずか1年で新たな包括提携(2009/12)にこぎつけるのは、異例の早さであった。

 GMとの事業提携で最後まで残っていたカナダにおける合弁生産会社、カミ・オートモーティブ(CAMI)からの撤退を決定したのが、VWとの提携発表のわずか1週間前のことであった。師匠と仰いだGMに対する信義を重んじ、関係をきれいさっぱり円満に解消し、義を尽くしたうえで、次の提携を進めたのだ。

 スズキとVWの接触は、GMとの資本提携が解消された直後の2009年の早い段階から始まっていた。その年の7月には、経済産業省から着任したばかりの当時常務役員(現副会長)の原山保人を連れ立って、修はVWとの提携交渉のために渡欧している。

 原山は、早世した元専務の小野と通商産業省(現経済産業省)の同期の桜であった。元資源エネルギー庁長官の高原一郎とともに、1979年入省の三羽ガラスと呼ばれていた。

 スズキの集団指導体制の一翼を担う人材として、小野という有力な後継者を失った修に強く請われ、原山は2009年にスズキに入社した。彼の初仕事がVWとの提携交渉であり、紛争から決裂、ロンドンでの国際仲裁裁判所での係争まで、一貫して関わり続けたキーマンである。

 そのころ、ドイツのメディア発で、両社に動きがあるとの憶測報道も出始めていた。
「火のないところに煙が立った」

 修は噂を一蹴、しゃあしゃあと報道陣やアナリストを煙に巻いていたものだ。GMとの事業提携関係をきれいに清算したうえで次なる提携構築に進むこと、VWとの交渉情報が事前に外部に流出するのを厳格に管理すること。このふたつが、修の頭にはあった。浪花節を重んじ、修の信条でもある「ハート・ツー・ハート」を貫いた提携交渉であった。

 「ハート・ツー・ハート」とは、1983年、インドでの国民車の基本契約の記者会見で発された修の名言だ。世界的な事業展開と国境を越えた提携には、心と心が通じ合うことが最も重要だという、「オサムイズム」の基本である。

 提携発表の記者会見のまさに前日、新聞の夕刊でスクープされるまで、この提携に向けた情報は完璧に管理された。第三者割当増資の価格決定も終了し、正式発表に向けてフェルディナンド・ピエヒとマルティン・ヴィンターコルンが日本に向かう飛行機に搭乗することで発覚したスクープであった。

 しかし、晴れやかな提携発表会見からわずか1年も経たないうちに両社の不協和音が表面化する。2年目にスズキは提携解消を決定。それを拒絶したVWをスズキは国際仲裁裁判所に提訴し、その後4年にもわたり法廷争いが続くことになるのである。

 実に4年間、修はドイツの大自動車メーカーとの闘争をくり広げる。自ら引き起こした判断の誤り、身から出た錆ではあったが、80歳を越えた修にとって、肉体的な苦痛は想像を絶するものだっただろう。一歩間違えれば、会社がVWに買収される恐怖との戦いでもある。

 100年近く続くスズキの独立企業としての歴史に終止符を打ちかねない、存亡の危機を招き込んだのだ。修がスズキの未来のために引いた3枚目のカードは、まぎれもないジョーカーであった。
(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(40)

2016-05-27 00:00:00 | Weblog

スズキとVWの提携まで車を取り巻く状況は、次のようなものであった。

2008年 9月にリーマンブラザーズ破綻、アメリカの金融危機が頂点に達し、
2008年11月には、GMは保有するスズキ株を売却し、提携関係を解消している。そして
2009年 3月には、トヨタが歴史的な巨額赤字決算を発表し、
2009年 6月には、豊田章男がトヨタの社長に就任、同じく
2009年 6月には、百年の歴史を誇るアメリカの名門企業のGMが経営破綻している。そして
2009年12月には、スズキVWと包括的な資本提携を発表したのである。

スズキは自力で新成長戦略を遂行するためには、やや力不足であった。鈴木修もそのことをよく承知していた。だからGMに代わる良きパートナー探しが必要だったのである。

スズキのGMとの提携関係は、1981年8月に始まり、2008年11月まで続いた。27年の長きに渡っている。であれば、その間に成長戦略に欠かせないものを、GMから習得出来なかったものかと疑問が残る。GMと提携関係を持続させるのであれば、加州のZEV規制対策は必須となろう。即ち環境対策である。EV、PHEV、FCEVがらみの技術などは、いくら低価格車中心のスズキと言えども、必要となってくる筈だ。少なくともバッテリー技術やハイブリッド技術は、スズキは喉から手が出る程欲しかったのではなかろうか。この27年間に、GMの助けを借りて、それらの環境安全に関する技術の植え付けを行っておくべきだったものと、今にしてみれば、思われるのであるが、どうであろうか。

技術の植え付けが出来なかったから、慌ててVWとの提携関係に飛び込んで行ってしまったのではないのかな。ここで疑問に思われるのは、なぜ提携相手を外に求めたのか、と言う事である。

日本には乗用車を作る自動車会社は8社もある。トラックなどを作る会社も含めると全部で12~13社となる。以下光岡自動車などの零細企業を除く自動車メーカーを羅列してみる。

(1) トヨタ自動車(株)
(2) 富士重工業(株)-株式16.5%をトヨタが保有
(3) 日野自動車(株)-株式50.1%をトヨタが保有、トラック・バス専用
(4) いすゞ自動車(株)-株式5.9%をトヨタが保有、トラック・バス専用
(5) ヤマハ発動機(株)-株式3.6%をトヨタが保有、四輪車技術あり、オートバイ中心。
(6) ダイハツ工業(株)-株式51.2%をトヨタが保有、2016.8.1でトヨタ完全子会社化(上場廃止)
(7) マツダ(株)-2016.5.13トヨタ業務提携を発表、2015.9にフォードとの資本提携関係を解消。
(8) スズキ(株)-VWとの提携関係を解消、最近トヨタとの提携話あり
(9) 日産自動車(株)-株式43.4%%をフランス・ルノー、3.1%をダイムラーが保有
(10) ホンダ技研工業(株)
(11) 三菱自動車工業(株)-軽自動車の燃費偽装で企業存続危うし。→5/12発表、日産傘下に。
(12) 三菱ふそうトラック・バス(株)-ダイムラー傘下
(13) UDトラックス(株)-スウェーデン・ボルボ傘下、もと日産ディーゼル

ヤマハを含めると、全13社の自動車メーカーが日本には存在するが、三菱自動車はそのうち潰れるであろう。どこも引き受けるところがない、と思われる。結局は中国企業か買収すると言うくらいしか道はないであろう。まあ、中国企業に買収されるくらいなら、いっそのこと潰れた方がよかろう。三菱もi-mievと言う電気自動車を作っているので、軽自動車部門は日産が吸収して、普通車部門はどこかへ身売りされることになるのではないのかな。三菱の技術者は他の日本メーカーが協調して雇用することが必要となろう。(と書いていたら本日5/12に三菱自は日産の傘下に入ることが報道され、こんな事態にならずに済んでメデタシ、めでたしだがルノーの息はどの程度かかるのかな。)

こうしてみると、トヨタ、日産、ホンダの三社に、日本の自動車メーカーは集約されるのではないのかな。だからスズキは、かなり特異な会社として映る。何も財閥などのバックのない一端の自動車会社としては、特異な存在となっている。21世紀に入ってもまだ、一社で存在することは叶わないであろう。結局はトヨタと提携することになるのではないのかな。ただし位置づけはどうなるか、問題である。

さてスズキと資本提携を結んだVWは当時のGMのようには甘くなかった。VWとしてはスズキを完全に下に見ていた。VWはもともと対等な関係を維持する提携関係を保ったことのない会社である。提携した会社を、すべて自社の傘下に置いているのである。子会社化して完全支配している。

週刊ダイヤモンドの2015.10/10号によると、VWグルーブ傘下には11社の子会社が存在している。

0.親会社  フォルクスワーゲン
1.ポルシェ  2012年100%保有、VW買収の失敗からVWの完全子会社となる。
2.アウディ  1965年VW傘下、現在99.55%保有、1932年のauto uionが基(1Audi2DKW3Horch4Wanderer)、1985年にAudiに変更、Four Silver Rings Emblemを継承。
3.ランボルギーニ  (1999年アウディが100%保有)、イタリア、ライバルはフェラーリ
4.ドゥカティ  (2012年アウディ が100%保有)、イタリア、オートバイメーカー
5.ベントレー 1998年100%保有、イギリス、高級車メーカー
6.ブガッティ  1998年100%保有、フランス、元はイタリアのスーパーカー、VWが商標権入手。
7.セアト    1993年100%保有、スペイン、1982年にVWが業務提携、Audiブランドに含む。
8.シュコダ   1991年100%保有、チェコスロバキアの国有自動車会社、1991年民営化。
9.フォルクスワーゲン商用車 100%保有、VWの商用車部門、VW Nutzfahrzeuge役立つ乗り物
10.スカニア   2014年90.5%保有、スウェーデンの大型トラック会社、VWが2006年筆頭株主
11.マン     2006年75%保有、ディーゼルエンジンのパイオニア。
Maschinenfabrik Augsburg-Nurnbergアウクスブルク・ニュルンベルク機械工場


この11社はすべてVWの完全子会社化している。そうしなければ、VWとしては気が済まないのだ。それがVWの経営哲学なのであろう。

このことを見てもいつまでも「イコールパートナー」で居られると、鈴木修は思っていたのであろうか。
もしそうとしたら、契約書をもっともっと精査すべきであった、のであろう。

と言うよりも簡単に「ハート・ツー・ハート」などと言う情緒的な感触を、冷徹な提携交渉の場に持ち込むことは、現に慎むべきものである。諸々の修羅場をくぐってきた鈴木修でも、VWの老練な交渉に飲み込まれてしまったものと思われる。いつまでも頑張っておらずに、早く若い血を経営の場に入れるべきなのであろう。
(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(39)

2016-05-26 00:00:00 | Weblog

スズキの大誤算、「VWとの提携」を求めた理由
2015/12/17
ナカニシ自動車産業リサーチ 中西孝樹 氏
小中大

 国内軽自動車トップのスズキは6年前、「次の30年の道筋」をつくるための一手として、独フォルクスワーゲン(VW)との包括提携に踏み切った。だが、「イコールパートナー」を掲げるスズキの思いに反して、VWの狙いはスズキの支配だった――。提携後すぐに生じた不信、対立、そして提携解消をめぐる係争の裏側に迫る。

そして始まった苦悩と戦いの日々

鈴木修会長 (撮影:佐々木孝憲)

 2009年12月9日は、鈴木修にとって一生忘れられぬ苦い想い出の日となった。ドイツのVW(フォルクスワーゲン)との、資本と事業を含む電撃的な包括提携関係をスズキが発表したのである。

「VWはスズキへ19.9%(2200億円)出資し筆頭株主となる。環境車、新興国で相互に補完し、トヨタ自動車、GM(ゼネラルモーターズ)を超える世界首位連合を形成へ」

 新聞はこの電撃的、まさに電光石火のニュースを大々的に報じた。

 米国のサブプライム・ローンが焦げつき、世界中の金融危機に連鎖したのは2008年9月のこと。世界の新車需要の30%がまたたく間に蒸発し、業績の急落と資金調達難を受けて、多くの自動車メーカーが未曽有の経営危機に陥った。

 いわゆる「リーマンショック」の直撃を受けたこの2009年は、100年に一度といわれる激動の年であった。世界的覇者に君臨し続けた創業100年の米国名門企業GMの破綻劇(2009.6)に始まり、トヨタ自動車が歴史的な巨額赤字決算(2009.3)を発表して創業家が経営に復帰(2009.6)。そして、スズキ・VWのこの電撃提携(2009.12)で締めくくられることとなった。

 都内ホテルで行われた発表会見。壇上でおびただしいカメラのフラッシュを浴びるのは、国内では軽自動車、海外ではインドの王者の名を馳せる、浜松の伝統ある企業、スズキ株式会社で当時会長兼社長を務めていた鈴木修であった。

 がっちりと握手を交わすのは、破竹の勢いで次なる世界のナンバー1に向かうドイツVWを支配する、当時監査役会会長のフェルディナンド・ピエヒ博士、当時取締役会会長のマルティン・ヴィンターコルン博士ら3人だ。満面の笑みで、3人は手を握り合ったのである。

 心のなかで修はつぶやいた。「いろんなことがあった。でも、これで次の30年のスズキの道筋が見えた。小野君があんなことになってしまって痛恨の極みだったが、ようやく、一幕下ろせるな」

 さまざまな苦難に直面し、行き詰まったかに見えたスズキであったが、再び軌道修正を成し遂げ、新たな繁栄に向けて会社を船出させる喜びに、修は浸っていた。

スズキの成功要因は、とうの昔に一巡していた

 スズキといえば、小さなクルマ、特に、国内の軽自動車のトップメーカーの名を馳せてきた企業である。世界第6位の自動車市場であるインドで40%以上の市場シェアを有し、新興国で活躍する代表的な日本企業として知られてきた。

 スズキ株式会社に修が入社したのは1958年。かれこれ半世紀以上も前のことになる。1978年に48歳で4代目社長に就いてから40年近くトップに君臨し、浜松の町工場を世界的な企業に育て上げ、名経営者としての誉望をほしいままにしてきたカリスマだ。

 スズキがなぜ、VWとの電撃的な包括提携に向かわなければならなかったのか。すこし歴史を振り返らなければ、この本当の意味を知ることはできないだろう。

 2000年代に入ってからのスズキは、試練と困難の連続であった。カリスマ経営者との世間の評価とは裏腹に、実際は修は苦悩のなかでもがき、苦しみ抜いていたのである。それは、スズキの成功要因である3つの強みのすべてが行き詰まっていたからだった。その3つとは、「ワンマン経営モデル」「低コスト」「先回り戦略」である。

「ニッチで生きていけた、古き良き時代であった」

 修は、過去の成功要因をこう振り返る。「低コストのスズキ」と冠されるようになったのはこの時代の話である。使い古した軽自動車ベースのクルマを新興国に持っていけば、経済状況に恵まれていなかった新興国の消費者にも手が届く、低価格だが魅力的な車となる。低コストを武器に、大手メーカーが見向きもしない新興国に先回りをして儲けを追求する。弱小メーカーのスズキが、過小な資本で生き残るにはこれしかなかった。

 しかし、経済が豊かになれば、国内も新興国での消費者も、もっと高性能なクルマを欲していく。大手メーカーには、高品質なクルマを廉価でつくる資金力も技術力もある。スズキの優位が打ち砕かれるのは時間の問題である。「低コスト」「先回り戦略」は封じ込まれつつあったのだ。

 1995年、トヨタ自動車の8代目社長に大抜擢された奥田碩は、転換点に立つスズキを見逃さなかった。創業家による長い経営支配で、当時のトヨタにはすっかり停滞感が漂っていた。そのトヨタをグローバルカンパニーへと脱皮させた、奥田改革は有名な話だ。

 奥田の改革の基本戦略は、トヨタの国内生産基盤を盤石なものとしたうえで、果敢にグローバル市場に打って出ることだ。奥田の標的となったのがスズキだった。スズキの軽自動車の牙城を崩すことが、彼の戦略だったのである。

 成長を支える新興国においても同じであった。20年前なら大手メーカーは見向きもしなかったが、1995年ごろを境に、VWは中国へ、トヨタは東南アジアへ怒ど涛とうの攻勢をかけた。このあおりを受け、スズキが手を組んでいたインドの国民車製造会社(当時のマルチ・ウドヨグ、現マルチ・スズキ・インディア)は、2001年に67億円の最終赤字に転落した。

生き残りをかけた3枚の切り札

下手すりゃスズキがつぶれることだってある

 2000年を過ぎた頃にはこんな弱音を口にするほど、修の危機意識はピークに達していた。そんなスズキの経営に参画してきたのが、娘婿にあたる小野浩孝である。小野は2001年に経済産業省を退官し、危機に直面したスズキを飛躍させるため、修に合流してきたのである。

 老獪な修の危機意識、小野が持つ若さと行動力。2人ががっちりスクラムを組んだことで、スズキは息を吹き返した。修は、不退転の覚悟をもってGMからの出資比率を20%に引き上げ、グループ入りの決断を下した。

 GMとは1981年に資本提携して以来、長く良好な友人関係にある。しかし、もしスズキを自力で再生できなければGMに飲み込まれる。それを覚悟したうえでの決断であった。

 戦略家の小野は、スズキの近代化と生き残り策を盛り込んだ構造改革レポートを書き上げた。のちに小野戦略と呼ばれ、スズキの近代化と飛躍をもたらした「新戦略」となったものである。

 「小野浩孝」「GM」「新戦略」。生き残りをかけた3枚の切り札を修はそろえた。スズキがこの危機を乗り越えて、大きく飛躍できると確信した。

 さらに修は、小野こそが次のスズキの社長にふさわしい人物だと確信した。未来のスズキを手にした喜びと、会社での自分の役目が最終章に近づいてきた寂しさが入り交じった複雑な心境で、修は一息ついた。このとき、修の年齢は経営者としてはかなりの高齢となる70歳後半にさしかかっていた。

大誤算

 しかし、修が再三再四、口を酸っぱくして唱え続けた「25年周期の経営危機」は、本当に訪れたのである。
 
2007年12月、専務にいた小野浩孝が、52歳で突然、早世した

 「7年後の52歳で社長にできる」

 スズキに入ったばかりの小野を初めて見たとき、修は直感的にこう感じたという。悲劇としか表現できない、悲しいめぐり合わせとなってしまったのである。修は3枚の切り札の最も重要なカードを失った

 不幸は続く。戦略パートナーと心に決めたGMが深刻な経営不振に陥り、2008年12月にスズキとの資本関係を清算、翌年に経営破綻を迎えてしまう。修は2枚目の切り札も失った。

 さらに、スズキの近代化と先進国事業への転換を目指した「新戦略」も破綻寸前だった。サブプライム問題に端を発したリーマンショックは、先進国経済に見通しの立たない混乱を引き起こした。小野戦略が欧州事業で高い成果を収め、第2ステージの米国侵攻に踏み込んだところを突かれた格好だ。米国事業のシナリオは完全に狂ってしまった

修は2008年6月に、小野を社長に指名する腹を決めていたという。当時の修の落胆ぶりは、傍で見ているのさえ辛いものであった。その修の手には、半分にちぎれた「新戦略」が残っていただけだ。

 しかし、小野が残した大きな遺産であるこの「新戦略」が、修の闘争心を蘇らせた。

「こんちくしょうめ、負けてたまるか。必ず、立て直して見せる」

 「新戦略」は、スズキを新たなステージに引き上げ、低コストや先回りで成功するのではなく、先進国で堂々と通用する製品と技術を持った会社に成長させた。同時に、スズキが強みを持つインドなどの新興国経済は、リーマンショックを契機に大きく飛躍した。新興国が、新しいスズキの製品を求める時代に変わっていたのである。

3つの重要問題の解決

 小野の死、そしてGMの破綻――大きすぎるふたつの悲しみだったが、修はいつまでも打ちひしがれていることはなかった。78歳の老骨にムチを打ち、会長と社長を兼任する決断を下す。「生涯現役」を心に決め、混迷したスズキの未来を見定めるため、自分の手で危機を乗り切り、再建を果たす覚悟を決めたのである。

 修の前には3つの重要問題が立ちはだかっていた。まずは、小野亡きあとの経営体制として、集団指導による組織的経営を確立すること。先進国事業のつまずきを再構築したうえで、新成長戦略を定めること。最後に、GMに代わるよきパートナーとめぐり合うことだ。

「技術と商品は小野君がすでに仕込んでいる。成長戦略の軌道修正を自分の手で果たし、集団指導体制を築き上げれば、荒波のなかのスズキをもう一度安定化できるはずだ。3枚目の最後のカードとして、よきパートナーと出会えるなら、30年先のスズキも安泰だ。そうすれば、安心して次世代にバトンを渡せる」

 このころ、1994年にデンソーからスズキに入社した、修の長男である鈴木俊宏が社内で育ってきていた。当時、俊宏はまだ47 歳。社長になるにはまだ若かった。幹部社員の意識改革を進め、育成するにはそれなりの時間が必要だ。集団指導体制を確立する数年後には、俊宏は有力な後継候補になれるはずだ。修には勝算があった。

 そんなところに接近してきたのが、VWだった。

中西孝樹 著『オサムイズム "小さな巨人"スズキの経営』(日本経済新聞出版社、2015年)「第1章 岐路に立つスズキ」から

中西 孝樹(なかにし たかき)

(株)ナカニシ自動車産業リサーチ代表。1986年オレゴン大学卒。山一證券、メリルリンチ日本証券などを経て、2006年からJPモルガン証券東京支店株式調査部長、2009年からアライアンス・バーンスタインのグロース株式調査部長に就任。2011年にアジアパシフィックの自動車調査統括責任者としてメリルリンチ日本証券に復帰。2013年に独立し、ナカニシ自動車産業リサーチを設立。1994年以来、一貫して自動車業界の調査を担当し、日経金融新聞・日経ヴェリタス人気アナリストランキング自動車・自動車部品部門、米国Institutional Investor誌自動車部門ともに2004年から2009年まで6年連続1位と不動の地位を保った。2011年にセルサイド(証券会社)復帰後、日経ヴェリタス人気アナリストランキング、Institutional Investor誌ともに自動車部門で2013年に第1位。著書に『トヨタ対VW 2020年の覇者をめざす最強企業』、日経文庫業界研究シリーズ『自動車』などがある。

http://bizgate.nikkei.co.jp/article/94712618.html
(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(38)

2016-05-25 00:00:00 | Weblog

VWは欧州中国ではそれなりに知られた存在ではあるが、北米やアセアンなどのアジアではそれほど存在価値はない。特にインドなどの新興地域では全くと言ってよいほどVWの存在価値はない。その点スズキはインドでの存在価値は抜群で市場シェアは40~50%であり、VWにとっては垂涎の的であった。

更にはスズキの小型車の低コスト技術は際立ったものがあり、この点でもアジア対策としてVWのほしかったものであった。

VWはすでに2011年4月北米テネシー州、チャタヌーガ市(Chattanooga)に生産工場を稼働させ、北米仕様のパサートの1号車をラインオフさせており、順調に販売を伸ばしている。2015年には生産累計50万台も達成している。しかし排ガス不正による影響で、その伸びも抑えられる可能性があるが、今はVWとしてはひたすら頭を垂れるしかない状況である。

従ってVWの狙いはインドやアセアンを中心とするアジアの攻略だったのである。その道具がスズキであった。

VWとトヨタの地域別販売台数(2014年)を考察しておこう。

 地 域   VW   トヨタ
  日本    1%   23% 
  北米    9%   25%
  欧州    36%    8%
  中国    39%   10%
他のアジア   3%   16%
 中南米    8%    5%
 その他    4%   13%
  合計   100%   100%
2014販売 1014万台 1023万台


これは

【インフォグラフィックス】トヨタ首位転落!?報道によってVWと販売台数1位が異なる理由を解説
2015.05.13
http://ikikuru.com/car-life/carworldshare2014/

に掲載されていたものであるが、

VWは、欧州、中国
トヨタは、北米、日本・他のアジア で販売台数を稼いでいることが分かる。

VWは、日本を含むアジアで完全に負けている。北米は先に述べておいたようにテネシー州に生産工場を稼働させており、販売増に対する手は既に打たれているので、残るインドを含むアジア攻略が残っているのみである。

そんな時に、と言っても上記の数字2014年のもので提携話は2009年12月のことではあるが、スズキがGMから離れて、VWの懐に飛び込んできたと言うわけだ。これでインドなどのアジアはものに出来る、とほくそ笑んだ筈だ。トヨタを抜いて世界一になる夢がかなうと、VWも確信したことであろう。
参考のために、トヨタ、VW、GMのグループ別世界販売の概略台数のグラフを次に示す。
如何にVWの販売台数の伸びが急激だったか、と言う事が判るものである。尚台数の数字はあくまでも概略であり、傾向を示すものとして眺めてほしい。
2009年ではトヨタ、GMともにリーマンショックの影響で販売台数をかなり落としている。その影響をそれほど受けなかったVWとしては、トヨタの背中がすぐ目の前に迫ってきた、これでトップに立てると確信できた、と言う感じではなかったのかな。



アメリカでのディーゼルの排ガス不正に手を染めたのも、そんな思いから来たものであろう。VWは全く姑息な手を使ったものだと、つくづく思われる。なんでだ?と思わず口走ってしまうほどだが、ドイツ人の今までのやり口を見ていると、さもありなんとも感ずるのである。

VWの狙いはスズキの支配であり、これに対してスズキの鈴木修の思惑は「VWとのイコールパートナー」であった。支配パートナーとでは、まったくその方向は真逆である。スズキはVWのその思惑に、それほど注意を払わなかったようだ。

それと言うのも、1993年頃スズキの鈴木修は、VWの取締役会会長(社長に相当する)のカール・ハーン博士と非常に親しく、そのVWから経営のノウハウを学んでいたからであろう。それほど疑いを持たなかったに違いない。そこに間違いがあったものと推察できる。それから4年の歳月が過ぎている。VWも自動車業界も様変わりしていたのである。ちょっと修も抜かったかも知れない。

VWの販売地域の構成をみると、その歪(いびつ)さがよくわかる。と言う事は野に放たれたスズキを見て、VWが見過ごすはずがない。この話はVWからスズキにアプローチしたものと思われる。

それまではスズキは新興国に対して「低コスト」な車を、大企業より「先回り」して販売していた。しかも「ワンマン経営」でそれが実施できたため、それなりに利益を上げることが出来た。しかし時間がたつにつれて新興国でも、その低価格車では満足されない雰囲気になってきていた。国内でも軽自動車への風当たりが強くなっていた。そんな時に2007年には金融危機が深刻化し2008年にリーマンショックが起こってしまった。そのためスズキは2008年11月には提携先のGMからスズキ株をすべて買い取って提携関係を解消している。そしてそこにVWが現れたのである。
(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(37)

2016-05-24 00:00:00 | Weblog

さて話を戻そう。

1982年1月にGMからトヨタに親書が届いているので、「ゼネラル・モーターズ(GM)社から提携の打診があった」と言う事になるが、さてスズキとGMの話に戻そう。

このスズキ・GMの資本提携関係は先の年表で表したように、GMの経営不振と金融危機により終止符を打つことになる。スズキにとってGMとの提携関係は、それなりに居心地の良いモノであり、提携解消はかなり心残りのものであったに違いない。

しかしそれならそれで、その間に次の30年間に必要な技術の習得は、叶ったであろうか。
スズキは1998年にGMの出資比率を10%に高めているが、その前年の1997年12月に量産型ハイブリット自動車プリウスが販売されている。そのキャッチコピーは「21世紀に間に合いました。」と言うものであった。すでに安全と環境問題が自動車業界にも芽生えていたのである。遡った見れば1995年11月の第31回東京モーターショーには、そのプロトタイプが参考出品されていたのであるから、軽量化、燃費など車として環境への配慮は自動車メーカーとしては、必須事項となりつつあったわけである。

従って1998年や2000年のGMの出資比率を高めることに対して、GMからハイブリッド技術や燃費がらみでのディーゼルを含む排ガス対策技術などエコカー関連技術の供与を受けるべきであったのではないかと、今にしてみれば、思われるのである。

まあGMにそんな技術はなかったかもしれないが、そうであれば、スズキの今の展開とはかなり異なったものとなっていた、と思われるのである。VWなどと関わらずに済んだかもしれないのだから。

しかし1998年の両社のニュースリリースには、そのような話は一切見られないのは残念なことであろう。




1998.9.16
スズキ株式会社
ゼネラルモーターズ株式会社

スズキとGM 提携関係強化で合意


 スズキ株式会社(スズキ)とゼネラルモーターズ株式会社(GM)は、これまでの業務提携関係を全世界的規模で一段と強化することで合意した。

 スズキとGMは1981年8月の提携以来、スズキのGM向け小型車の開発・供給、南米・コロンビアなどのGM工場におけるスズキ車のKD生産・販売、1986年にはカナダでの合弁会社・カミオートモーティブ社の設立、そして、(1998年)本年5月には欧州における新しい小型車の共同開発に合意するなど着実に成果を上げてきた。

 このように順調に拡大してきた実績を踏まえ、スズキとGMはイコールパートナーとして、アジア市場も含めた全世界的規模で、両社の特徴ある経営資源を最大限に利用し、相互に補完しあい発展することで合意したものである。

 今回の合意は、自動車産業のグローバル化が急速に進展し、ますます競争が激化してきたなかで、次の通り戦略的同盟関係を築き、一層の提携強化を図ることを目的としている。

●両社は、相互の利益向上を実現するため、それぞれの海外子会社の資産と能力を最大限に活用する。

●スズキは、GMの商品ラインのうち、小型車分野の車両・パワートレインのデザインおよび開発を担当する。それ以上の車両については、GMの資源を活用し、商品開発投資の効率化を図る。

●両社は、お互いに先端技術・開発情報を交換しあうと共に、新たなビジネスチャンスの拡大のため共同で研究・調査を行う。

 尚、関係および競争力の強化を図るという両社の意図を表明する象徴的な方法として、GMがスズキに追加出資を行うことも合意された。現在GMはスズキの株式を3.3%保有しているが、スズキが新株3,360万株を発行し、GMがこれを引き受け、既に所有している株式1,470万株と合わせ、約10%のスズキ株式を保有することになる。

http://www.suzuki.co.jp/release/d/d980916.htm


ここで述べられている戦略的同盟関係とは具体的には、両社の販売網の活用と小型車開発に関するものだけであった。先端技術の共同研究と言う項目があるが、多分に具体的なものはなかったのではないのかな。GMは出ししぶったかもしれないが、スズキは安全環境技術の取得を提案しておくべきだったのではないのかな。鈴木修社長は、スズキ全社からGMとの提携に関して30年先を考えたそのアイディアを提案させるべきであったのではないのかな、そうすればもっと良い提携関係を築けた筈だ。

そうすればGMとの提携解消と同時にVWなどと提携する必要はなかったのではないのかと思われるのである。

しかもアメリカではSUZUKIのブランドでの販売ではなかったので、米国市場ではスズキの名前はすぐにも消え失せている。GMの販売網に乗せたのは、GMのSUZUKIであり、スズキのSUZUKIではなかったのだ。




老練スズキの危機感、GMからフォルクスワーゲンへ鞍替えの真意
高橋 由里 :東洋経済 記者
2009年12月18日


したたかな転身である。スズキは、米ゼネラル・モーターズ(GM)に代わる提携先に、欧州最大手のフォルクスワーゲン(VW)を選んだ。2006年GMから買い戻した金庫株19.9%を第三者割り当ての形でそっくりVWに譲渡。経営に大きな混乱もなく、販売台数でトヨタ自動車を抜く世界最大の自動車企業グループに名を連ねることになった。

昨秋から世界を襲った自動車危機にも、スズキは他社に先駆けて在庫圧縮を進め、コストも絞り上げて赤字転落を免れた。販売台数230万台は独立独歩を貫いていいレベルにある。それでも「開発分野では後れをとっている」という不安は、鈴木修スズキ会長を静かに苦しめていた。

その点、VWのハイブリッドカー電気自動車は実用化が目前の段階にあり、エコカーに欠かせない高性能電池でも三洋電機、東芝などの供給先を確保している。9日の提携発表会見で鈴木会長は「車体軽量化でも力を借りたい」と貪欲に期待感を表した。

死守する独立路線

2社とも小型車を得意とし「同じような大きさで、同じような大きさのエンジンを搭載した車を造っている。部品共通化による大量生産のメリットは非常に大きい」(鈴木会長)という判断もあったようだ。普及車の1台当たり粗利は知れている。大量生産・販売ができて初めて経営が成り立つのが自動車ビジネス。似た車がなかったGMとの提携と今回は、その点が決定的に異なる

しかも、出資比率19.9%なら、スズキはVWに連結化されない。当然、役員派遣もない。スズキ側もVW株を最大2.5%持つ計画で「VWとはイコールパートナー。(将来)ドイツから経営者を迎え入れなければならないほど、うちはヘボばかりじゃない」と牽制してみせた。

ただスズキを手放したくないVW側が株買い増しに乗り出す可能性は否定できない。「何もVWの12番目(正確には11番目)の子会社になるわけじゃない」。会見では鈴木会長はこうも強調したが、VWからは資本関係拡大を否定するコメントは出なかった。

対するVWは大満足だろう。欧州の自動車業界では今、「ダウンサイジング」が全盛となっている。小排気量のエンジンにターボ(過給器)を付けて出力を引き上げる方式で、とりわけ積極的だ。長年2リットルが主流だったゴルフは1.4リットルへ、ポロは1.4リットルをさらに1.2リットルへ小型化された。9月の独フランクフルトモーターショーには、燃料1リットルで100キロメートル走行を目指す超低燃費車「L1」を発表している。

ダウンサイジング競争が激しくなる中で、「小さな車をなるべくコストを下げて造るのが持ち味」(鈴木会長)であるスズキという存在は、VWの目にかつてなくまぶしく映っていたはずだ。

VWはそのうえ、スズキのインド事業も間接的に手に入れることになる。VWはシュコダブランドで参入しているものの、シェア5割の王者スズキの足元にも及ばない。ヴィンターコルン会長は「VWはアジアで大きく前進する」と満面の笑みで語った。

2000年代には世界販売が400万台ないと生き残れないという「400万台クラブ」構想のもと、業界に合従連衡ブームが起きた。だが、ダイムラークライスラーの合併解消や、ピーク時1000万台に迫ったGMの破綻は「規模が大きくても、1車種40万~50万台の寄せ集めでは立ち行かない」(日系メーカー首脳)という教訓を残した。

自動車業界に精通する中西孝樹アライアンス・バーンスタイン株式調査部長は「今後はまず、VWがスズキから低価格車の供給を受けるのではないか。スズキのOEMビジネスが急速に拡大する可能性がある」としたうえで、「トヨタ1人勝ちに見えていた業界に、トヨタに対抗するスーパーパワーが生まれた。競争の構図が変わる」と指摘する。減産地獄を見た業界に、新たな企業統合モデルの芽は吹くのか。歴史が注目している。

http://toyokeizai.net/articles/-/3428?page=1
(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(36)

2016-05-23 00:00:00 | Weblog


NUMMIの立ち上げNUMMI研修生の高岡工場実習(1984年)

NUMMI研修生の高岡工場実習(1984年)

NUMMIの全景

NUMMI ラインオフ1号車を囲んで(1984年)

NUMMI開所式(1985年)

ニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング(NUMMI)は、「トヨタ方式による高度な生産性を実現し、高品質・低コストの乗用車を提供」することを基本方針に掲げた。それを実現するには安定した労使関係やトヨタ方式による生産システムのスムーズな移植、現地部品メーカーとの緊密な協力関係の構築など解決すべき課題は山積していた。

とりわけ、労務問題はトヨタ方式を確立するうえで難関であった。全米自動車労働組合(UAW)傘下の従業員は、組合のルールで個人の職務範囲が厳密に決まっており、一人ずつが複数の工程を柔軟にカバーしていく多能工を基本としたトヨタ方式とは相容れず、生産工程でのチームとしての連携に不安があった。UAWとの交渉では、絶えずお客様の立場で考えるトヨタの「モノづくりの基本」と、安定した労使関係の基となる「労働条件の長期安定的向上」を粘り強く訴えた結果、徐々に理解が得られた。

1983(昭和58)年9月にはUAW本部との間で「労使は共通の目的を達成するためのパートナー」という当時としては画期的な労働協約を締結した。これにより、NUMMIでは職務規定や作業規定などをトヨタの方針に沿って変更することが可能になった。具体的には、チーム制や多工程持ち、不良が発生した場合の作業者による迅速なラインストップなどのトヨタの方式が実現した。また、この協約には柔軟な異動を可能とする少職種・時間給に関する規定、昇格・異動に関する会社の人事権、協約期間中のノーストライキ条項などが含まれており、トヨタ生産方式を支える人事制度の基礎となった。

日本のトヨタ側と現地側が協力し、円滑な生産の立ち上げを図るため、1983年3月にフリモント事業準備室を設置した。同室には人事・経理といった事務部門も含まれ、従来にない横断的な推進組織として万全の体制を整えた。また、国内工場が海外の特定工場を指導・育成する「親工場制度」を初めて採用した。NUMMIの生産車種は、スプリンターをベースにしたシボレー・ノバを予定していたので、親工場は高岡工場となった。高岡工場では、まず1984年半ばから1985年初めにかけて、NUMMIのグループリーダーとチームリーダー合計257人を9回に分けて研修に受け入れ、QC活動などの基礎教育や現場実習を行った。

NUMMIは当初、エンジンや変速機など重要なユニットや機能部品を日本から輸入する一方、ガラス、内装品、塗料などについては現地調達を行った。部品の発注は、GM社の協力を得ながら進めたが、部品メーカーの選定方法や品質管理などの手法がトヨタと現地とでは大きく異なり、図面や品質目標などの「技術情報」についての見直しなどが求められた。ビジネスの慣行・風土として日本ではグループ会社や協力会社との間でプロジェクトの進行中も継続して意思疎通が図られていることから円滑に行われている業務が、契約時に交換・授受される技術情報で双方の責任分野などが明確に決まる米国では支障をきたすこともあった。これらの点は、早急に国際的に通用する内容に充実させるよう全社をあげて対応した。

NUMMIの計画は、年産20万台という海外では初の本格的な量産プロジェクトであり、立ち上げまでに幾多の困難に直面したが、親工場制度の導入や技術情報の充実など、のちの海外進出に生かされる多くの手法も確立されていった。

GM社から提携打診を受けて丸3年、NUMMIはようやく生産準備を完了し、1984年12月にはシボレー・ノバの1号車がラインオフした。そして、量産体制が整った1985年4月、トヨタとGM社の労使首脳、カリフォルニア州知事、フリモント市長ら多数の来賓の出席を得て、盛大に開所式を行った。

NUMMIでは、1986年9月にはカローラFXを手始めにトヨタ車の生産にも着手した。また、生産開始後12年とされた合弁期間については、1993(平成5)年に両社が事業継続を合意し、FTCの承認など、必要な延長の手続きがとられた。
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/leaping_forward_as_a_global_corporation/chapter1/section3/item2_a.html


2009年にGMが破産し新生GMはNUMMIを引き取らずに手放してしまったので、結局トヨタも一社では経営が困難と判断して、2010年4月1日にNUMMIを閉鎖することになる。この件は当ブログの2010.3.19の「番外編・プリウス急加速問題(4)」や2010.5.28(41)以降などを参照されるとよい。

結局NUMMIはテスラが一部購入して、現在「モデルS」などを生産している。そのためトヨタは、2010年にテスラ株を取得しているが、関係は思わしくなくその大半を売却しているがまだ少しは所有しているようだ。概略は2014.12.8の「次世代エコカー、本命は?(10)」などを参照願う。

(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(35)

2016-05-20 00:00:00 | Weblog

巨人たちの懐で(9)――学んだトヨタ、傲慢なGM
伊藤忠商事元副会長 J・W・チャイ氏
2014/8/22  (1/2ページ)

トヨタとGMの合弁工場が立ち上がった=AP

 トヨタ自動車の「中興の祖」と呼ばれた豊田英二氏は2013年9月17日、他界した。享年100歳。大往生だった。

 GMとの提携以降、英二さんとは日本に出張するたび、しょっちゅう、お話しする間柄になりました。

 昼食の時間にお会いすることが多かったのですが、困ったことがありました。英二さんの話を一言も聞き逃すまいとすれば、料理に箸をつける余裕などなかったのです。だんだん賢くなって、面会前にサンドイッチとミルクで腹ごしらえしておく知恵がつきました。

 面会後も大事でした。部屋を出るとすぐ、英二さんが何を話していたか、を手帳に必ずメモしておいたのです。僕だけの備忘録をつくるわけです。

 トヨタを率いる英二さんがどんなことに興味を持っているのだろうか――。自分の頭を整理しようとしただけではありません。

 英二さんは僕との話の内容を後になっても絶対に忘れることはない、と考えていました。もし、情報が間違っていれば、次に会うときに修正しないと、信用を失ってしまいます。誤りが分かったときは「私の勘違いでした。実は……」と正直に打ち明けました。

 ところが、英二さんは懐が深い。「わははは」と笑って済ませていました。今は、ご冥福をお祈りすることしかできません。

 1984年。米国でトヨタとGMの合弁生産事業が立ち上がる。仕事だけでなく、プライベートも忙しかった。

 そのころ、ウォール街で知られた自動車アナリスト、マリアン・ケラーさんとお付き合いして、再婚したのです。

 アナリストとして、マリアンの名前が有名になったきっかけは、日本車の強さと脅威をいち早く徹底分析したリポートでした。

 彼女と結婚に至ったきっかけの一つは、GM最高経営責任者(CEO)のロジャー・スミスさんからの電話だったかもしれません。ある日、彼が急に頼みごとをしてきたのです。

 「知り合いの女性アナリストが『日本車の工場を見学したい』と話しているから、何とかしてくれ」

 正直、僕はそれまで、マリアンに対して「偉そうだ」という印象でしたが、実際に会って話してみると、違う。縁が深まりました。

 マリアンと知り合えて、日本車の台頭とロジャーには感謝、感謝です。

 しかし、当時のGMの姿勢は残念でなりません。結局、当時のトヨタとの提携を通じて、トヨタ流の経営を十分に学ばなかった。

 GMとトヨタの提携は、本来なら、トヨタよりGMが生かすべきチャンスだったのです。GM社内では「日本車なんてたいしたことない」という意識が抜けませんでした。

 GMは2009年米連邦破産法11条(日本の民事再生法に相当)の適用を申請。政府管理下で再建しましたが、あのときの傲慢さは謙虚さに変わっているのか。興味は今も残ります。
[2013/10/28/日経産業新聞]
http://bizacademy.nikkei.co.jp/management/hiroku/article.aspx?id=MMAC2o000020082014



横道にそれ序に、このNUMMI事業についてトヨタはどのように表現しているのか、トヨタの75年史から抜粋してみよう。結局NUMMIでは1984.12月にシボレー・ノバの1号車をLine Off させたが、2010年4月1日に閉鎖している。当初は3月31日の予定が閉鎖を1日伸ばして、退職者支援のため約220億円も余分に拠出している。しかしこのカリフォルニアでのNUMMIの経験は、次の1986年1月トヨタケンタッキー工場の設立に大いに役立ったものであった。このTMMK(Toyota Motor Manufacturing, Kentucky, Inc.)は2年後の1988年5月に生産を開始している。生産車種はカムリであったが、現在はカムリのほかにアバロン、ソラーラおよびそれらのエンジンを生産している。

序に言うと、カリフォルニア州ロサンゼルス郊外トーランスの米国トヨタ本社も、テキサス州ダラス北郊のプレイノに新しく建設される本社キャンパスに移すことになっている(2014年4月発表)。
トヨタは韓国人が多く住むカリフォルニアでの、あのトヨタバッシングにほとほと愛想をつかしていたのであるから、テキサスへの本社移転は当然の帰結てあろう。






第3節 北米で現地生産をスタート
第2項 GM社との合弁
NUMMIの設立https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/leaping_forward_as_a_global_corporation/chapter1/section3/item2.html
NUMMIの立ち上げhttps://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/leaping_forward_as_a_global_corporation/chapter1/section3/item2_a.html

NUMMIの設立

1981(昭和56)年7月にフォード・モーター社との合弁交渉が決裂して間もなく、今度はゼネラル・モーターズ(GM)社から提携の打診があった。これに対してトヨタ自販の加藤誠之会長は、同年12月にデトロイトにロジャー・スミス会長を訪ね、トヨタ自工の豊田英二社長との会談を提案した。GM社側の動きは速く、1982年1月には担当役員をトヨタ自工本社に派遣してきた。

さらに、同年3月にはニューヨークで豊田社長とスミス会長のトップ会談が行われた。スミス会長はその場で、①折半出資で合弁会社を設立し、トヨタが経営する、②西海岸のGM社の工場を活用し、1984年秋から新型カローラをベースにしたGM車を年20万~40万台生産する、というきわめて具体的な案を提示した。これ以降、両社の実務者レベルによる合弁交渉が本格的に始まった。

当時、小型車の自社開発でつまずいていたGM社は、提携先のいすゞ自動車鈴木自動車工業(現・スズキ)から小型車の供給を受けることにしていた。とはいえ、量的には不十分であり、トヨタとの共同生産により量を確保するとともに小型車の生産ノウハウを吸収するというねらいがあった。

日米間の経済摩擦は、1981年度には日本製乗用車の対米輸出自主規制という事態にまで及んでいたが、日本車への批判は鎮静化していなかった。それどころか、米国議会ではローカルコンテント(現地調達率)法制定の動きも高まっていた。そうした情勢下でのGM社との合弁生産は、日米間の新しい産業協力のモデルとして米国の雇用や部品産業の活性化にも貢献し、両国関係に好影響を与えるものと期待された。

トヨタにとっても、世界最大の自動車市場で従来にない規模で現地生産を行う意義は大きかった。また、北米での生産拡大が不可避となるなか、合弁による比較的少ない投資で北米へ進出し、現地生産を学べるという利点もある。GM社との合弁生産は、トヨタの課題や日米間の通商問題に対処するうえで、最善の策といえた。

GM社との合弁生産覚書調印(1983年)

しかし、社内には慎重論や懸念の声もあった。生産部門では生産ノウハウを合弁工場で公開することへの不安、北米販売部門では主力モデルを競争相手に供給することへの懸念などである。加えて、全米自動車労働組合(UAW)との協調という大きな問題もあった。それでも両社の合弁生産に関する交渉は進展し、1983年2月にはGM社が閉鎖したばかりのカリフォルニア州フリモント工場を活用するなどの基本合意が成立した。このとき交わされた覚書の主な内容1は、新会社への出資比率は50対50とする、1985モデルイヤーのできるだけ早い時期に生産を開始し、年産約20万台を目標とする、合弁の期間は生産開始後12年以内とする、などであった。

1983年12月には米連邦取引委員会(FTC)の仮認可が下り、懸案の米独占禁止法をクリアした。そして、1984年2月にトヨタとGM社の折半出資により、資本金2億ドルのニュー・ユナイテッド・モーター・マニュファクチャリング(NUMMI)を設立し、社長にはトヨタの豊田達郎常務が就任した。

1984年4月、トヨタとGM社は、NUMMIの設立に関して、名古屋市で記者会見2を行った。その席上、豊田英二会長は、「競争と協調の精神こそが世界経済の発展を支える基本」であると自らの信念を語り、合弁プロジェクトを「日米産業協力のモデル」として成功に導くとの決意を表明した。
https://www.toyota.co.jp/jpn/company/history/75years/text/leaping_forward_as_a_global_corporation/chapter1/section3/item2.html
(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(34)

2016-05-19 00:00:00 | Weblog

巨人たちの懐で(7)――ホンダ買収案、GMの焦り
伊藤忠商事元副会長 J・W・チャイ氏
2014/8/1  (1/2ページ)

資本提携が決まり握手する(左から)スズキ(鈴木自動車工業=当時)の鈴木社長、GMのウォーターズ副社長、いすゞの岡本社長(1981年)


 結局、米ゼネラル・モーターズ(GM)のホンダ買収構想は消えた。

 大胆なGMのシナリオを聞いたとき、「なぜだろうか」と考えました。世界最大の自動車会社にも焦りがあったのかもしれません。

 GMは当時、「Xカー」「Jカー」「Sカー」という名前の小型車プロジェクトを走らせていましたが、どうも芳しくない。提携関係を深めてきたいすゞ自動車は、トラックは良くても、乗用車については期待ほどではありませんでした。ならばホンダを仲間にしたい、と思いたったのです。

 僕のGMへのアドバイスは、否定的な結論でした。「ホンダの良さは『ゴーイング・マイ・ウエー』。まとまったホンダ株を売ってくれるオーナーもいない。やめておいた方がいいですよ」と伝えました。

 最高経営責任者(CEO)だったロジャー・スミスさんはあきらめきれなかったのでしょう。後になって、「GM側は日本の金融機関の首脳にまで探りを入れたようだが、チャイさんと同じ答えだったらしい」という話も聞きました。

 GMのパートナー探しは、そこで終わらず、鈴木修さんが率いるスズキにたどり着きます。修さんにGMとの提携を持ちかけたのは、当時のいすゞ社長、岡本利雄さんでした。

 僕が修さんと知り合ったのは、その後です。彼は現役の自動車会社トップで最高の経営者だと思います。組織力というより、行動力と見識、そして人徳でスズキを動かしている。

 当時は50歳ぐらいでしたが、とにかく取り仕切っていました。今も変わっていないでしょ。

(2/2ページ)
スズキも「GMファミリー」に加わった。

 修さんには、こんな話をしたことがあります。
 「GMという会社はがたいは大きい。確かに世界一だ。財務部隊もしっかりしていて、組織がきちんと動いている。ただし、社内に問題があるんですよ」

 当時のGM内部で騒がれていた問題は独占禁止法への対策です。偉い人たちは、「米国内のシェアが5割。独禁法に引っかからないためには、どうすべきだろうか」とか、「もし、シボレー部門を分離せよ、と言われたら、どう動くか」といった話題にばかり気をとられていました。

 修さんは、そんな僕の話を聞いていたためか、GMにのみ込まれるなんて心配せず、提携の実を取ることに集中していきます。

 一方、GMは、まだ不安を抱えていたようです。というのも、日米の小型車の生産コストを比較すると、日本が米国の半分。これでは太刀打ちできません。

 1981年のロジャーは猛烈に忙しかった。1月にGMのトップに就任しましたが、夏にスズキと提携。そして、秋になると、より大きく、強い日本車メーカーと組みたい、と考えるようになっていました。

 後に「世紀の提携」「巨人たちの握手」と呼ばれるGMとトヨタ自動車の提携が僕を待っていました。
[2013/10/22/日経産業新聞]
http://bizacademy.nikkei.co.jp/management/hiroku/article.aspx?id=MMAC2o000030072014


このスズキとの資本提携の延長線上にトヨタとGMの合弁会社NUMMIが存在したのであった。スズキにはGMサイドから接近していったものであった。スズキ側にも大きく言うと企業戦略上のニーズがあり、提携話は順調に進んでいったものと思われるが、日米で自動車が政治問題化されていたので、トヨタにも米国への工場進出の機会を伺っていた頃であった。

しかしながらGMにはスズキは少しばかり小さすぎた。と言うよりも、スズキの小型車作りは精巧過ぎて、GMの手には負えなかったのであろう。GMとしては、GMが参考に出来ると思われる大きな自動車メーカーの小型車の物作りに興味があり、そんな企業との提携を希望した。

その相手がトヨタだった。

当時伊藤忠商事の米国法人の副社長だったJ・W・チャイ氏の自叙伝風の活動歴(仕事人秘録セレクション)の続きを示す。



巨人たちの懐で(8)――自動車提携、次はトヨタ
伊藤忠商事元副会長 J・W・チャイ氏
2014/8/8  (1/2ページ)

GMとトヨタがトップ会談を開いた会員制クラブの「リンクス・クラブ」(米ニューヨーク市内)


 1981年。日米自動車摩擦は激しく、トヨタ自動車は「自工」と「自販」の合併直前だった。
 米ゼネラル・モーターズ(GM)が、もっと大きな日本車メーカーと提携したい、と考えても、相手がいなければ絵空事です。

 当時は日本車の対米輸出が急増中。日米間では通商問題どころか政治問題として騒がれていたころです。トヨタは米国への工場進出でホンダなどに先を越され、「貿易摩擦の標的になりかねない。どうやって米国に進出するのだろう」と注目を集めていました。

 その年の11月です。トヨタ自動車販売(自販)常務、神尾秀雄さんと共通の知人の紹介で会いました。ホテルオークラの和食店「山里」で昼食を食べながら世間話をするはずでしたが、食事が進むにつれ、話が意外な方向に展開します。

 僕がGMの代理人のような存在と知っていたんでしょう。神尾さんから「GMがトヨタと手を結ぶ可能性はあるのでしょうか」と尋ねられたのです。

 突然の話に驚きましたが、その場で僕なりの考え方を伝えました。

 「競争が前提とはいえ、協調も大事な時代です。世界首位のGMと2位のトヨタが手を握ってもいいのではないでしょうか」

 それまでにない大型提携へ交渉が始まりました。

GMトップとの信頼関係は築いてきた。問題はトヨタ側だった。

 トヨタの豊田英二さんに初めてお会いしたのは、年が明けた82年1月。GMからの親書を届けるため、英二さんを訪ねました。

 英二さんは当時、トヨタ自動車工業(自工)の社長。東京・日比谷の三井銀行本店ビルにあった東京支社事務所であいさつしました。

 親書の内容は、GMを率いる最高経営責任者(CEO)、ロジャー・スミスさんからのトップ会談の誘いです。ところが、英二さんは一読すると、無言に。重い口からやっと出た返事は期待外れでした。

 「日程が合わないのです。米国に行くとはまだ決めていません」

 つれない反応に少しがっかりしました。そのころの僕の名刺には、伊藤忠商事米国法人の「副社長」という肩書が印刷されています。自動車の世界では、GM―いすゞ自動車、スズキの提携といった実績も積み上げてきました。それなのに信用されていないのかもしれない、と悩みました。

 後になって、英二さんが慎重に慎重を重ねて判断を下す経営者であることを知りました。GMの人間でもない、一介の商社マンが持ってきた話にホイホイ乗るはずがなかったのです。

 それから1カ月ほど後、ニューヨーク市内で英二さんとロジャーのトップ会談が実現し、やっと信じてくれたようでした。

 「世界のTOYOTA」をつくった英二さん。一番尊敬する経営者です。その後もずっとお付き合いしていただきましたが、僕は英二さんと会うと、いつも緊張しっぱなしでした。
[2013/10/23/日経産業新聞]
http://bizacademy.nikkei.co.jp/management/hiroku/article.aspx?id=MMAC2o000006082014


次に掲げるJ・W・チャイ氏の自叙伝風の活動歴の表題の「学んだトヨタ、傲慢なGM」で分かるようにGMはNUMMIの合弁事業からそれほど小型車の自動車づくりやトヨタ生産方式を学ばなかったようだ。そのためでもないが、1984年の合弁事業から15年の2009年に破産してしまった。
(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(33)

2016-05-18 00:00:00 | Weblog

スズキの鈴木修会長の抵抗もむなしく、自公両党の税調は軽自動車税のアップで、2014年度の税制改正大綱をまとめ上げたのである。


増税で軽自動車イジメ 背景にトヨタの思惑?〈AERA〉
2013年12月23日 16時00分 (2013年12月24日 11時52分 更新)

 与党が軽自動車税の増税を決定した。軽のユーザーは女性や低所得者、地方に多い。スズキの鈴木修会長兼社長は「弱いものイジメ」と抵抗したが、自民、公明両党は結局、5割の増税で来年度の税制改正大綱をまとめた。「完敗です」と鈴木氏。年間7200円の軽自動車税は、2015年4月以降に買った新車から1万800円になる。

 敗因はいくつかある。一つは自動車業界内部の事情だ。

「今年は自動車工業会の大名行列が見られませんでしたね」

 自民党国会議員のベテラン秘書は指摘する。税制改正の季節になると、自動車業界は自工会会長を先頭に各社の社長らが、大名行列よろしく議員会館を回る。しかし、今年は副会長の経済産業省OBが業界を代表して回った。自工会会長であるトヨタ自動車の豊田章男社長は、個別に有力議員を訪問した。

「軽増税反対はスズキとダイハツ(トヨタ系)だけ。トヨタは容認の雰囲気でした」(自民党関係者)

 これには00年からの伏線がある。トヨタの奥田碩会長(当時)は、自工会会長に就くと、抱負として「軽自動車を含む税制改正」を挙げた。軽への優遇を廃止し、普通車と同じにしようという意見だ。軽メーカーが「自工会はメーカーの団体。トヨタの都合で税制を変えるなど会長の職務を逸脱している」と猛烈に反発し、実現はしなかったが、トヨタなど普通車メーカーにとって、軽は「目の上のタンコブ」なのだ。

国内に8社ある乗用車メーカーで、軽を生産するのは4社。…

生産台数はダイハツ、スズキの2社で6割を占める。その軽が、新車販売全体の4割を占めるまでに成長した。普通車メーカーとしては穏やかではない。

「馬力を増すなら排気量、居住性なら車体を大きくということができる普通車メーカーは、軽をつくれない。限られた条件で高い性能、居住性と低コストを実現する軽とはモノづくりの手法が全く違う」(国土交通省OB)

※AERA  2013年12月23日号より抜粋

http://www.excite.co.jp/News/society_g/20131223/asahi_20131223_0003.html


まあ軽自動車税の増税は昨年2015年4月1日以降の新車からから実施されたものてあり、2016.4.1以降からは、新車登録から13年経過した車両には、新たに自動車重量税12,900円(自家用軽乗用車に)が課せられている。最近の出来事である。

そんなこんなで現在では軽の売れ行きがやや鈍ってきているが、話を元へ戻そう。

スズキはバイクモーターから本格的なオートバイで頭角を現し一世を風靡し、四輪へと進出していき世界企業へと成長していった。しかし軽四輪中心の事業で世界で競争してゆくには、幾分かの不安もあったものと思われる。そんな時にGMとの話が舞い込んできたのである。

スズキとGMとの資本提携の話である。スズキはGMとの提携になぜ走ったのであろうか、と言う疑問が浮かぶ。と言うよりも、なぜGMはスズキとの提携に走ったのか、と言った方がよいかもしれない。

当時日米間には、日本車の輸入が急増して、自動車摩擦が渦巻いていた。自動車が日米の通商問題の中心であった。そのうえGMは小型車の開発に相当苦労していた。米国の小型車の生産コストは日本の2倍ほども高かった。GMは、日本の小型車の生産ノウハウの習得に躍起となっていたのである。そんな状況の中、伊藤忠商事の米国法人が動く。まず1971年いすゞとGMを結びつける。しかしいすゞは小型乗用車の開発には、それほど役には立たなかった。そのためGMはホンダをパートナーに選ぼうとしたが、ホンダはそのような会社ではないと周囲から反対され、結局はスズキにたどり着いたものであった。そしてこの話はトヨタへと続いたのであるが。

次に、その当時伊藤忠商事の米国法人の副社長だったJ・W・チャイ氏の自叙伝風の活動歴(仕事人秘録セレクション)を示す。



巨人たちの懐で(6)――GMに2人のスミス
伊藤忠商事元副会長 J・W・チャイ氏
2014/7/25  (1/2ページ)
米GMの旧本社ビル

 米ゼネラル・モーターズ(GM)の門をたたいたとき、GMは世界最大の製造業だった

 最初に訪問したのは、デトロイトの本社ではなく、ニューヨークのセントラルパークのそばにたつGMビルでした。財務部隊が入居するオフィスです。上司の室伏稔さんと一緒に、経営企画担当幹部のロックウッドさんに面会しました。

 僕たちは、いすゞ自動車の提携相手としてGMに白羽の矢をたてていました。ほかの提携話がうまくいっていなかったころです。

 なんとかGMに近づきたかった。

 ところが、彼の態度は無愛想そのもの。まず「伊藤忠商事って何の会社だ?」と聞かれました。商社の仕事を説明すると、「GMは、そういう第三者とは話さない。世界中、どんな相手とも直接話すルールだ」とまで言われました。

 「とりつく島がないじゃないか」。不安になりましたが、無用の心配でした。

 伊藤忠の立場や提携の意義を粘り強く訴えたら、ロックウッドさんの目の色が変わってきたのです。こちらの事情を理解すると、すぐに社内で検討作業に入ってくれました。後に知りあう
GMマンたちもいったん仲良くなれば、おおらかでいい人ばかりでした。

 GMといすゞは翌1971年資本提携契約に調印します。

GMとのつながりは「2人のスミス氏」抜きには語れないという

 1人が、90年代にGMの最高経営責任者(CEO)に就くジャック・スミスさん。デトロイト本社に通い続けているうちに、公私ともども仲良くなりました。

 彼は「ワールド・ワイド・プロダクト・プランニング」などの仕事をしていました。日本車の情報に興味があったのかもしれませんが、それより、2人とも「バツイチ男」だったから、意気投合したような気がします。デトロイトも、郊外には意外といい店があって一緒に飲み歩きました。

 ジャックは食べ物にも服にも無頓着なんです。彼をふと見ると、シャツからだらしなく肌着がはみ出している。「みっともないから、何とかしろ」と言って、その肌着を脱がせたこともあるぐらいです。何でも言い合えた。デトロイト出張中は、彼の執務室のソファが僕の休憩場所でした。

 そのジャックを右腕にしていたのが、ロジャー・スミスさんです。もともと財務屋さん。頭が切れた。

 CEO就任は81年。日本に出張するときは必ず同行していたので、彼の考え方も悩みも理解していました。GMは本当に小型車づくりに苦労していました。

 「ホンダを買収できないか。提携でもいい」。ロジャーがCEOになるとすぐ、ジャックを通じ、こんな腹案を聞かされました。

 GMの黄金期が終わりつつあったのかもしれません。デトロイトへ出張に出るとき、同僚から「治安が良くないとも聞く。気をつけろ」と注意されるようになっていました。
[2013/10/18/日経産業新聞]
http://bizacademy.nikkei.co.jp/management/hiroku/article.aspx?id=MMAC2o000023072014
(続く)
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