そんな司馬の性格から、乃木の第三軍の参謀長であった伊地知幸介少将を、間抜けで能無しとして「坂の上の雲」を書いていったものと推察できる。
この司馬の伊地知評価に対して、実際の伊地知幸介は有能で才覚のある参謀であった。
事実、伊地知は同期の誰よりも早く昇進している。
伊地知はM12年2月に砲兵少尉に任官し、
伊地知はM17年4月に大尉に進級しているが、同期の
長岡外史M20年4月に大尉に進級し、さらには優等生であった仙波太郎は
仙波太郎M19年5月に大尉に進級。伊地知の方がずっと早く進級している。
伊地知はM33年4月に陸軍少将にになっているが、同期では田村怡与造の二名だけであった。
長岡外史M35年6月に陸軍少将になっている。二年遅れである。
だから伊地知幸介がばかである筈がない、と「乃木希典と日露戦争の真実」(P263)には書かれている。
しかも乃木将軍と伊地知幸介はドイツへの留学仲間であった。
「乃木将軍はM20年1月からM21年6月までドイツに留学している。その時
伊地知もドイツにあって、いろいろ将軍の世話をしており、将軍との因縁浅からぬものがある。このような両者の人間関係からしても乃木・伊地知のコンビはむしろ理想的な人事というべきではないか。」(同P264)
もう一つ、司馬遼太郎の大きな間違い点を指摘しておこう。これも「乃木希典と日露戦争の真実」(P276~P277)に書かれていることであるが、大事なことであるので、次に紹介しよう。
まず「坂の上の雲三」(P249)からの引用を載せる。二十八サンチ榴弾砲という巨砲を旅順の乃木のもとに送る話である。
『 この巨砲が旅順へ送られるという驚嘆すべき知らせは、むろん電信で打たれた。長岡が、乃木軍の伊地知あてに打った電文の原文は、つぎのとおりである。
「攻城用トシテ、二十八サンチ榴弾砲四問ヲ送ル準備ニ着手セリ。二門ハ隠顕砲架、二門ハ尋常砲架ニシテ、九月十五日ゴロマデニ大連湾ニ到着セシメントス。意見アレバ聞キタシ」
このみじかい電文の行間に長岡の意気込みがよくあらわれている。
「意見アレバ聞キタシ」
というのは、現地軍に対する東京の心づかいのあらわれであった。姿勢が低い。
ところがこれに対する乃木軍司令部の返電は、歴史に大きく記録されるべきであろう。
「送ルニ及バズ」
というものであった。古今東西の戦史上、これほどおろかな、すくいがたいばかりに頑迷な作戦頭脳が存在しえたであろうか。』
と司馬遼太郎は「坂の上の雲三」(P249)でこき下ろしているが、実際にはこれと異なる。
伊地知は盛んに弾薬の増加請求の電報を、東京の大本営に打っていた。その答えとして、「こちらも弾薬は不足しているが、二十八サンチ榴弾砲ならそれなりにあるので至急おくる」と言ってた内容にものであった。
それに対する答えとして、「送ルニ及バズ」などとは返電していない。
事実は次の様なものであった。
「貴官今日の電報に対し、十五糎臼砲を除き他の攻城砲のため約二万五百発を送るはずなり、最早此以上重砲弾を送るべきものなし、偏に節用を乞う。
攻城砲として二十八糎榴弾砲四門を送る。九月十五日頃大連湾に到着せしめんとす。これに対し意見あればききたし」
二十八糎榴弾砲ならあるから使ってくれ、と言った内容のものである。
これに対して伊地知参謀長は次の様に返電している。
「二十八糎榴弾砲はその到着を待つ能はざるも、今後のため送られたし」
というものであった。司馬の言う「送ルニ及バズ」なんぞと言うぞんざいなものではなかったのである。
如何に司馬遼太郎こと福田定一の「偏見・独断、悪意」の大きさかわかるというものである。
(続く)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます