世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(59)

2022-09-27 00:00:00 | Weblog

このようにして向後の憂いをなくして、邇邇芸命を天降らせたのであろう。天降らせた、とは「葦原の中つ国」の統治にために高天原(日高見国・関東)から派遣したものと思われる。

邇邇芸命の天孫降臨については、当ブログの8/19,NO.34~で説明しているので、すでにご承知のことと思う。必要ならそちらを参照願う。

邇邇芸命は、天照大神から「三種の神器」と「稲穂」を授かり、天降って行ったのであり、邇邇芸命が稲作を広めたと言っているが。

それ以前に、スサノオが「オオゲツヒメ」を切り殺した時にその体から稲の種を含む五穀の種が出てきて、それを神産巣日神が集めてスサノオに持たせて、天降らせた、と言う話もあるので、いろいろなルートから稲が日本にやって来たものと思われる。

ここには朝鮮半島のチの字もないので、五穀などは朝鮮半島なんぞから日本にやって来たものではない。当時の高天原勢力が独力で獲得したものであろう。

そして日本列島には人々が増えてゆき、笠沙の御崎で何代か過ごした後に、神武天皇の東征の話となるのである。

神武東征」の話は、小生のブログ「邪馬台国とは何ぞや?(24~)」 (2018.9.14~、但し9/16,17,22は除く。)などを参照願って、このブログを終えよう。
(終わり)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(58)

2022-09-26 00:00:00 | Weblog

と言ったところが出雲神話の一部分であるが、その書によれば(P264)、古事記の中ではこの出雲神話が四割以上を占めているという。それだけ出雲と言う国家連合がかなりの勢力を誇っていた、と言うことではないのかな。

先にも指摘しておいたように、この日本列島は、

高天原・日高見国(連合)と
葦原の中つ国 

との二大勢力が存在していたようだ。だから「葦原の中つ国」は、ある意味日高見国と肩を並べるかそれ以上の勢力を誇っていたものと思われる。

その「葦原の中つ国」が、簡単ではないにしても、なぜ高天原勢力に屈してしまったのであろうか、と言う疑問も自ずと生ずるものである。

高天原・日高見国が日本列島の統一に向けて動き出した理由は、一つには、大陸との関係が考えられる、と言われている。大陸での混乱が日本列島に悪影響
を及ぼすことがないように、統一を急いだというのがその理由である。

それと既にこの時代には鉄器が使われていた筈なのだが、この神話には鉄の話がそれほど出てこない、と小生の浅薄な知識では認識しているが、そこら辺もなんとなく歯がゆい感じがするものである。

出雲には「たたら製鉄」の技術があり、それなりに鉄を確保していたはずなのであるが、高天原勢力に結局は屈してしまったということは、鉄の確保の違いがあったのではないのかな。

全くのあてずっぽうの推測ではあるが、高天原勢力の方が鉄の武器が多かったということではないのかな。「日本の起源は日高見国にあった--縄文・弥生時代の歴史的復元」(田中英道著・勉誠出版)のP132~133には次のように書かれている。

この銅剣の埋蔵は、一方では東国の鉄剣に敗れた証拠といえるかもしれません。鹿島神社近くに厨大遺跡群がありますが、ここは縄文前期後半(紀元前五000年頃)のものです。そこから赤い製鉄炉跡が見出されています。赤い酸化鉄の部分が見出されたのです。松本市にも縄文中期の住所跡に製鉄炉跡か見出され、鉄を溶かしていたのです。諏訪神社にも油鉄鋼がありました。また福島にも固まった鉄分を取り出す炉跡が見出されました。これを見ると縄文時代すでに関東の各地で鉄が使用されていたことがわかります。鉄は決して朝鮮から移入されたものが最初でなく、日本で存在していたのです。鉄によって武器が東国でつくられていたとすると、出雲の銅剣は、関東高天原勢力の鉄剣勢力に、戦わずして譲った、と言えるだろうと思います。


だから実際に戦火を交えたかというと、小競り合い程度のものはあったかもしれないが、大々的なドンパチは無かったのであろう。鉄と銅とではそれほどの差が存在するものである。だから、山陰地方を始め、山陽、近畿、中部の一部まで治めていた大国主命は、高天原勢力にその「葦原の中つ国」を譲らざるを得なかったのであろう。


それにしても銅剣、銅矛、銅鐸と武器とは言えない金属製品がこれほど大量に見つかったということは、出雲の国は縄文的な祭祀国家の様相を色濃く持っていた国柄であったのではないのかな。

だから官僚的と言うよりも連合組織共同体の様相を呈していた高天原・日高見国との争いには、負けてしまったということではないのかな。

だから祭祀的な銅剣・銅矛・銅鐸などを、あれだけ大量に埋納させられてしまった、と言うことなのであろう。

出雲としても何もなければ、それだけ貴重な宗教的用具をむざむざ土中に埋めてしまうということは、しなかった筈である。

高天原としては、出雲を宗教的なくびきから遠ざけるためにも、それらの銅製品をなくす必要があったのである。だから、大量に埋納させたのであろう。
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(57)

2022-09-23 00:00:00 | Weblog

 斐川町は、人口約2万8千人の町で、島根県東部に位置し八岐大蛇(ヤマタノオロチ)神話で名高い斐伊川と朝日に輝く湖面が美しい宍道湖に囲まれた豊かな平野を持つ穀倉地帯である。 町南部の農道建設予定地から弥生時代の銅剣358本が出土したニュースは瞬く間に全国を駆け抜け、沢山の学者や古代史に関心を持つ人たちが毎日毎日列を成して荒神谷を訪れた。 昭和59年7月12日の午後4時頃銅剣の一部が発見されてから358本全てを取り上げるのに1ヵ月半もかかった。

 

 翌昭和60年、銅剣の近くにまだ青銅器が眠っているのでは?と、最新鋭の金属探知機で地下を探したところ、銅剣が見つかったところから東7mの地点で、今度は銅鐸6個と銅矛16本が同時に発見された。

 一度ならずも二度の大発見で、日本の弥生時代の青銅器文化の考え方を根底から覆すことになった。現在、発掘された遺跡は国の史跡に指定され、発見当時の状況をそのまま再現して、発掘現場を体感してもらえるよう史跡公園として整備されている。

 そして、平成10年、出出したこれらの青銅器は一括して国宝に指定された。

 いつ、どこで、だれが、何の為に作り、何故この地に、貴重な青銅器をこれほどまでに大量に埋めたのか?
発見から19年の歳月が流れた今でもそれらたくさんの謎は深いベールに包まれたままである。

  

また、発見された銅剣358本のうち344本の茎(なかご)=根元の柄を差し込む所には、×印が刻まれていました。この×印は、荒神谷遺跡からわずか3.4kmの距離で、1996年(平成8年)に銅鐸39個が見つかった加茂岩倉遺跡の13個の銅鐸にも刻まれていることが発見されました。

 ×印は一体何を意味しているのでしょうか。
 青銅器に×印が刻まれている例は、全国のどこからも見つかっていないことから、この二つの遺跡は何らかの関係があるはずです。


銅剣の出土状況(南西から)358本もの大量の銅剣が整然と並べられたいた
大量の銅剣:長さ50cm前後、重さ500gあまりの銅剣である、すべて中細形銅剣c類にぞくするもので、「出雲型銅剣」とも呼ばれる
                  





 銅鐸と銅矛の出土状況
翌昭和60年、銅剣の近くにまだ青銅器が眠っているのでは?と、最新鋭の金属探知機で地下を探したところ、銅剣が見つかったところから東7mの地点で、今度は銅鐸6個と銅矛16本が同時に発見された

                 
左が、358本の銅剣、右に銅鐸・銅矛が発見された当時のままに復元され展示されている荒神谷遺跡   復元荒神谷

神谷遺跡は、島根県簸川郡斐川町神庭に所在し、「出雲国風土記」に記されている神名火山(かんなびやま)・仏経山(ぶっきょうさん)の東約3km、高瀬山北麓の低丘陵地帯に散在する小さな谷あいの一つにある。荒神谷は、遺跡から発見された傍の山に「祟りが怖いと言いつたえのある荒神」が祭られていることから、古来地元ではこの谷を荒神谷と呼ぶようになったと伝えられている。


(略)  

murata35.chicappa.jp/katudohokoku/izumo01/izumo/index.htm
(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(56)

2022-09-22 00:00:00 | Weblog

読み解き古事記神話篇三浦祐之著(朝日新聞出版)のP255によれば、大穴牟遅神は(降伏の印に・・・と理解するが)広矛を建御雷之男神(タケミカヅチ)と天鳥船神へ差し出したわけで、それが上記の写真のように16本の広幅銅矛6個の銅鐸が、降伏の印に埋納されたのであろう。

それが現代になって発掘されたという訳である、と小生は理解している。

出雲神話も、実際に起こったことを神話形態で、人々が記憶して続けていたものである、と理解したい。

銅鐸も埋納されていたということは、出雲国家としての神事も止めて「高天原」の管理に入ります、と言うことに他ならないのであろう。

事実、これらの青銅器には、×印が刻まているのである。これこそ、出雲の国としての国家管理をやめて、高天原勢力の軍門に降るということを明確に示すものである。いわゆる「信ずる神も高天原の神」といたします、と言う完全な降伏だったのである。

この他に、全国最多358本の銅剣も埋納されていたことからも、出雲の完全な降伏であった、と言うことは明かなことであったであろう。

加茂岩倉遺跡には、史上最多の39個の銅鐸が埋納されていたことから、ここでは、「出雲の宗教替え」の行事が行われて銅鐸埋葬儀式が行われたのであろう。

そして、荒神谷遺跡では、銅矛16本と銅鐸6個、更には銅剣358本を埋納し、「高天原に服属する」儀式が行われたものと思われるのである。

これで完全に出雲は高天原に帰属して、天照大神高御産巣神タカミムスヒノカミ達は落ち着いて「葦原の中つ国」の統治を始めることが出来たのであろう。

だから、邇邇芸命を天降らせることが出来たのである。


(参考)遺跡別出土品一覧

       銅剣   銅矛   銅鐸
荒神谷遺跡  358本  16本   6個   S59年07月 と S60年
加茂岩倉遺跡  -   -    39個   H08年10月

銅剣の本数は、出雲地方の正式な神社の数と同じであり、何らかの関係があるものと思われる。




 続いて、今回の旅のお目当ての荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡など、現地の発見現場に足を運んで実際に学芸員の方からお話を伺いながら見学出来たことは本当に良かったと思っています。

 荒神谷遺跡は、昭和59年7月、町南部の農道建設予定地から弥生時代の銅剣358本が出土したニュースは瞬く間に全国を駆け抜け、沢山の学者や古代史に関心を持つ人たちが毎日毎日列を成して荒神谷を訪れた。翌昭和60年、銅剣の近くにまだ青銅器が眠っているのでは?と、最新鋭の金属探知機で地下を探したところ、銅剣が見つかったところから東7mの地点で、今度は銅鐸6個と銅矛16本が同時に発見された。

 加茂岩倉遺跡は、平成8年10月14日に農道整備の工事中に偶然発見された。知らせを受けた加茂町教育委員会と島根県教育委員会は、急遽現場に駆けつけ作業の中止と現状を変更することのないよう申し入れ、その後の調査で、史上最多の出土数となる39個の銅鐸が確認された。

なぜ、こんな所に沢山の銅鐸や銅矛、銅剣が埋納されていたのだろうか?



 「分からない・・・」これは日本青銅器研究の権威、佐原真氏(当時、国立歴史民俗博物館副館長)が初めて神庭荒神谷を訪れた際の唯一のコメントだ。1984・85年、斐川町荒神谷遺跡での銅剣358本、銅矛(どうほこ)16本、銅鐸6個の大量出土は常識をはるかに超える空前の発見であった。

 さらに、1996年10月14日、加茂岩倉遺跡から日本最多となる39個の銅鐸も出土し、研究者のみならず多くの国民を驚嘆させた。

 なぜ出雲の地から大量に発見されるのか。島根における青銅器調査に対し、全国の研究者、古代ファンから熱い視線が注がれている。



 弥生時代初め、日本列島に稲作技術とともに鉄青銅の文化が伝わった。当時の人々には未体験であった青銅の神秘的な輝きや音色から、青銅器は神を呼ぶ祭器として弥生社会の祭りの首座に置かれたようだ。

 銅鐸の起源は中国や朝鮮半島で家畜の首に付けたり、呪術者が使用していた小さな鈴だとされている。日本列島では次第に大型化して、豊作を祈る祭りのカネ(銅鐸)になったと考えられる。剣・矛・戈かなどの青銅器ば最初は先端が鋭く刃も付けられていたが、日本列島で本格的に生産が始まると、次第に大型化して刃先も丸くなり、実用的な武器ではなく武器形祭器へと変貌していった。

 青銅器は弥生社会においては、鋳造技術の高さ、原料入手の困難さなどきわめて希少価値が高く、重要な役割を果たしていたと考えられる。この貴重な青銅器をこれだけ大量に保有していた出雲の勢力は一体どのようなものであったのか。原料、製作地、枝術者、その背景の勢力など新たな視点で古代史を見直す必要がある。

 いずれにしても、出雲は他地域の文化を積極的に取り入れながらも、個性豊かな文化・独自の世界観を創造していたようだ。            

 荒神谷遺跡、加茂岩倉遺跡の位置と周辺の地図   

  斐川町神庭(ひかわちょうかんば)   昭和62年国史跡に指定 平成10年青銅器が国宝に指定

(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(55)

2022-09-21 00:00:00 | Weblog

更には 38)には、天の若日子には「天の麻迦古弓」と「波波矢」を持たせて、交渉に当たらせたが、大国主命に丸め込まれてしまうことになっている。このことは当然、高天原からの「武力侵攻」を意味しているわけではあるが、

41)でも十拏の剣を、逆さではあるが波に突きさして、その上に胡坐をかいて談判を始めていることを見ても、武力侵攻であったことが想像される。

また40)では、建御雷之男神(タケミカヅチ)を派遣しているが、この神の父親は伊都之尾羽張神(いつのおはばり)と言う高天原の最強の刀剣神であることからも、そのように類推できるものである(その書P238)。

結局、きれい事の交渉で「国譲り」がそれなりに円滑に行われた、と言う訳ではないことを意味しているものと思われる。だがその戦(いくさ)の様子の神話は(何処かに在ってもよさそうではあるが)見当たらないようだ。

45)、46)、47)当たりがその戦の様子なのかもしれないが、ここで気になるのが、

47)のタケミカヅチはタケミナカタを州羽(諏訪)の海に追い詰めて殺そうとす る。・・・箇所であるが、これも戦の様相を示すものなのであろう。

しかし小生が驚くのは、出雲の国の境界が州羽(諏訪)の海まで広がっていることである。いかに出雲の勢力が強大であったかを示すものである。

当然、大物主神(大国主神の別名)が大和の三輪山に祀られていることからも(9/15,NO.51参照)、出雲の勢力は高天原と拮抗するものであった、としても間違いがなかろう。

高志八俣遠呂智コシノヤマタノオロチの話も、高志とは三越(越前・中・後の国)と能登国、加賀国を言うのであり、出雲は越の国とも関係があったのであり、相当手広く関係を持っていた国であったようだ。

だから高天原としても、出雲に対しては、それ相応の関心を持っていたに違いないのである。

現在の長野県や山梨県から以西の日本(本州か)をその領土としていたようで高天原としても見捨ててはおけない勢力であったようだ。、

だから高天原としては、建御雷之男神(タケミカヅチ)に天鳥船神を副えて、葦原の中つ国征伐のために遣わしたわけだ。

出雲の国では、荒神谷遺跡(島根県出雲市斐川町)から銅剣358本幅広銅矛16本・銅鐸6個が出土しているが、これなどは降伏の印ではなかったのかな。

その書のP255には建御雷之男神(タケミカヅチ)が大己貴神(オホナムヂ)に迫ると、

するとオホナムヂは、頼みにする子も既に避去ったので私もまた避去ることにすると言うと、国を平らげた時に衝いていた広矛を二神に渡し、「わたしはこの矛で功をなした。天孫がもしこの矛を以って国を治めたならば、かならず平安になるだろう。今まさにわたしは、百足らず八十隈に隠去れよう」と言い、遂に隠れた。そこで、二神は諸々の従わない鬼神等を討伐し、天に戻って復命した。

戦をして反対勢力を征伐したと「国譲り」のことが説明されているので、荒神谷遺跡はその関係する遺跡であろう。

即ち、「矛を収める」と言うことで、降伏の印に、象徴としての武器の大量の青銅器を埋めさせられたのではないのかな。






日本一の青銅器大量出土遺跡二カ所

全国最多39個の銅鐸が出土した加茂岩倉遺跡、そして全国最多358本の銅剣16本の銅矛、6個の銅鐸が出土した荒神谷遺跡。大量の青銅器を埋納した二つの遺跡は、山々を挟んで直線距離約3.3kmという近い距離に位置しています。

どちらの遺跡も青銅器の出土状況が復元整備され、発見時の興奮と感動が蘇ります。荒神谷遺跡は周辺一帯が史跡公園となっており、6月中旬から7月中旬には色鮮やかな2000年ハスも楽しめます。加茂岩倉遺跡は現在、史跡整備の途中ですが、弥生時代の原風景を彷彿とさせる景観が魅力です。

また、加茂岩倉遺跡には加茂岩倉遺跡ガイダンス、荒神谷遺跡には荒神谷博物館という博物館があります。施設内に展示された出土青銅器のレプリカやパネルなどが、遺跡への理解を一層深めてくれるでしょう。遺跡のガイドもこの施設で受け付けています。そのほか、加茂岩倉遺跡の近くには、邪馬台国の女王卑弥呼が魏より授かった鏡のうちの一枚とされる「景初三年」銘三角縁神獣鏡が出土した神原神社古墳があります。この鏡には一体どのような情景が映し出されていたのでしょうか。

大量の青銅器埋納の謎、卑弥呼の謎を解くカギは、やはり現地にあります。豊かな自然に包まれた遺跡に立ち、しばし弥生びとの祈りの囁きに耳を傾けてみませんか。

  
荒神谷遺跡銅矛・銅鐸出土状況      

荒神谷遺跡整備状況

https://www.pref.shimane.lg.jp/life/bunka/bunkazai/shiseki/shisekidesu/shiseki07.html
(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(54)

2022-09-19 00:00:00 | Weblog

ここで一つ訂正しなければならないことがある。

それは「葦原の中つ国」は既に日高見国の傘下になっている国であり、と言うよりも「日高見国」そのものであると理解していたが、それは間違いであった、と言うことである。

小生の理解は、

高天原 + 日高見国 = 「葦原の中つ国」  と理解していたので、

これとは別に

「豊葦原の瑞穂の国」 = 出雲の国(拡大版、島根・鳥取だけにあらず)

が当時既に存在していたので、この出雲の国・豊葦原の水穂の国 を高天原の勢力に国譲りしたのではないか、と考えていたのであった。

先の50)にもある様に、「葦原の中つ国は仰せの通り献上いたします。」と大国主命が高天原に「国譲り」していることから、この構図は間違っていた、と言うことであり、

高天原+日高見国≠「葦原の中つ国」 であり、
高天原 + α = 日高見国     と言う図式であり、


「葦原の中つ国」=出雲の国(拡大版) であったわけである。

36)の「豊葦原の千秋の長五百秋の水穂の国はわが御子正勝吾勝勝速日天忍穂
    耳命
(まさかつあかつかちはやひあめのおしほみみのみこと)の統べ
    治める国である」  (「読み解き古事記神話篇三浦祐之著(朝日新聞出版)P223より)

とした「豊葦原のちあきのながいほあきの水穂の国」とは、「葦原の中つ国」の事であり、出雲勢力の統治下の国であった、わけである。

従って8/18のNO.33の内容には間違ったことが書かれているので、そのつもりで読んでほしい。

また、51)の「治めたまはば」の意味であるが、その書では「造・作」でなくて、「」であることに注目して、新しく作るのではなくて、「立派な宮殿をお治めくださるなら」としている。この治めるは、「宮殿を残してくれるなら」という意味で、「正しく取り扱ってくれるなら・維持管理してくれるなら」と言う意味としているので、「いまある宮殿を維持して残してくれるなら、私は隠れましょう」と言う意味に解釈しているのである。

天の御巣の如、底つ石根に宮柱太しり、高天の原に氷木ヒギ高しりて治めたまはば、僕アは百足らず八十坰手クマデニ隠りて侍サモらはむ。
壮大な御殿のように・・・お作り維持して残して下さるならば、わたくしは所々の隅に隠れておりましょう。
https://classicstudies.jimdofree.com/古事記/上巻-第四部/国譲り/


と言ったところが、本当の解釈なのである、としている。
(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(53)

2022-09-16 00:00:00 | Weblog

【大樹の楔】
18) 八十神たちはまた怒って、大樹を切り倒して割れ目に楔を打ち込み騙して
  大穴牟遅神をその中に押し込めてしまう。
19) そして楔を外して押し殺してしまう。
20) するとまた母の神が探し出して、その木を割いて取り出して生かしてくれ
  る。
21) このままでは本当に殺されてしまうと言って、紀伊の国の大屋毘古神
  (オホヤヒコノカミ)の元に逃がす。
22) するとまた追ってきて八十神たちは矢をつがえ迫るので、大屋毘古神は
  木の俣から逃がして、スサノオのいる根の堅州国へ行け、という。
23) そこへ行くと、スサノオの娘の須勢理毘売スセリヒメが出てきて、すぐ
  様意気投合志結婚する。
24) そして父君にその旨伝えると、大穴牟遅神を見て「これは葦原色許男
  (アシハラシコオ)である」と言い、家に入れる。
25) するとスサノオは大穴牟遅神を、「蛇の室」や「百足と蜂」に寝泊まりさ
  せられるが、ヒメが渡してくれた「比礼ヒレ」で打ち払うことが出来た。
26) 次は野原に射った鏑矢を探させると、その野を焼き払ったが鼠が出てきて
  「内はホラホラ、外はブスブス」と言うので、そこを踏むと穴に落ち込み
  その間に火は焼け過ぎてしまう。
27) 鏑矢は鼠が咥えて持ってきてくれる。矢羽根は喰われてしまっていた。
28) 野原で姫とその父はオオナムチは死んだと思っていると、その矢を持って
  現れる。
29) 今度はオオナムチを大室に呼び入れ、自分の頭の虱を取らせる。すると
  頭には百足ムカデが一杯這っていた。
30) すると妃が「椋の木の実」と「赤土」を夫に与えると、それらを口に含み
  吐き出すと、百足を食い破り吐き出したと思い、感心して寝てしまう。
31) そこでオオナムチは大神の神を垂木に結いつけ、大岩で扉を塞ぎ、姫を背
  負って大神の宝物や太刀、弓矢、琴を以って逃げる。
32) しかし琴が木に触って音を立てたので、大神が目を覚ますが、髪を解いて
  いる間に遠くへ逃げ伸びる。
33) 何とか追って来たスサノオは大穴牟遅神に、「その太刀や弓矢でお前の腹
  違いの神を追い払って、自分で大国主神となりスセリヒメを正妻とし、宇
  迦の山の麓に底津石根に宮柱を太く立て、大空に高く棟木を上げて住め、
  こやつめ。」と叫ぶ。
34) 宇迦の山の麓は今の出雲大社の場所で、2000年には出雲大社の八足門前の
  地下から金輪で束ねられた巨大な三本柱が掘り出された。
  このようにして、大国主神通称「出雲の国」を統治された。

【高天原から】
35) この地上の国の繁栄を天照大神は、自分たちが治めるべきであると考えて
  いた。
36) 「天照大御神之命以」天照大神の仰せにより、「豊葦原の千秋の長五百
  秋の水穂の国はわが御子正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(まさかつあかつかち
  はやひあめのおしほみみのみこと)の統べ治める国である」として天忍穂
  耳命が天降った。しかし地上波騒がしいとして、帰ってくる。
37) 次に「天菩比神」(あめのほひのかみ)をつかわすが、大国主神に靡いて
  しまい三年も返事がない。
38) そこで高御産巣日神と天照大神は、天の麻迦古弓(まかこゆみ)と波波矢
  (はばや)を持たせて天若日子を遣わすが、大国主の娘の下照比売(した
   てるひめ)を妻として八年経っても返事をしなかった。
39) そこで雉の名鳴女を遣り問い糺すと、天若日子はその弓矢で雉を射殺す。
  その矢は高天原まで届てたので、元来た所へ射返すと天若日子の胸に突き
  刺さり死んでしまう。(一部省略して・・・)
40) そして思金神達に相談して建御雷之男神(タケミカヅチ)に天鳥船神を副
  えて遣わした。
41) 二神は出雲の伊耶佐の小浜に降り、十掬ツカの剣を逆様に波の上に刺し、そ
  の上に胡坐を書いて大国主命に尋ねる。「汝の葦原の中つ国はわが御子の
  治むべき国である。どうか」と。
42) 「それには我が子の八重言代主神がご返事申し上げるが今不在である」
43) そこで天鳥船神が言代主神を連れてきて尋ねると父神に「この国は謹んで
  天の神の御子に献上なされ
」と言って隠れた。
44) 他に反対者はいるかとの問いに、「建御名方」(たけみなかた)がいる、
  他はいない、と答える。
45) すると建御名方が大きな石を持って、「力比べをしよう」とやってくる。
46) お互いに手を握るとタケミナカタは何もできず、タケミカヅチは手を握り
  潰して体ごと放り投げてしまう。
47) タケミカヅチはタケミナカタを州羽(諏訪)の海に追い詰めて殺そうとす
  る。
48) タケミナカタは命乞いをし、「これからは一切背かない、この葦原の中つ
  国は天神御子之命の仰せのとおりすべて献上いたします」と申した。
  諏訪大社は上社も下社もタケミナカタを祭神としている。
49) 諏訪から戻った武御雷之男神は大国主神に尋ねる。「汝の心は如何か」と
50) 「我が子二神の言った通り、私も違いません。葦原の中つ国は仰せの通り
  献上いたします。ただ一つ条件があります。
51) 私の住処を壮大な御殿のように、宮柱を太く高く立てて棟木を高く
  上げて、治めて(維持管理)してくれるなら葦原の中つ国は仰せの通り
  献上いたします。出雲には既にスサノオの時代に壮大な宮殿はあった。
(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(52)

2022-09-15 00:00:00 | Weblog

大国主命の話が出たついでに、一足飛びに「国譲り」の話を持ち出してしまったが、それまでには「大穴牟遅神(オホナムヂ)」から大国主神への成長物語が存在するのである。


因幡の白兎(イナバノシロウサキ)の話は、多くの日本人は子供の頃から、おとぎ話としてよく聞かされていたことと思う。

古事記の原文は、冒頭では「大国主神」と表現しているが、その次からは「大穴牟遅神(オホナムヂ)」と表現しているので、オホナムヂが成長して「大国主神」となっていったものと思われる。

故。 此大國主神之兄弟。八十神座。』・・・原文

かれ この大国主の神の兄弟はらから 八十神ヤソカミましき。
・・・書き下し(武田祐吉)

「この大国主命の兄弟は、沢山おいでになりました。」
・・・現代語訳(武田祐吉)

https://classicstudies.jimdofree.com/古事記/上巻-第三部/因幡の白兎/
より借用した。

これによると、最初から大国主神(立派な国の主)となっているが、沢山の呼び名があったと言っているので、沢山の変わり型の逸話が存在したものと思われる。

小生としては、「大穴牟遅神(オホナムヂ)」が成長して、「大国主神」となって「豊葦原の瑞穂の国」の頭首となった、と語った方が面白く理にかなっていると思っている。

いずれにしてもこの話は(試練はまだあるのだが)、大国主神(大穴牟遅神(オホナムヂ))を鍛えるための試練であった様だ。

以下、「読み解き古事記神話篇三浦祐之著(朝日新聞出版)により、その概略を記す。

1) 八十神たちは稲羽の八上比売(ヤガミヒメ)を娶りたいと稲羽にゆく。
2)大穴牟遅神を従者として、袋を背負わせた。→ここからはオオナムヂとなっている。

【因幡の白兎】
3)気多の岬で皮をはがされた兔と会う。八十神は海水で洗って風で乾かせ、と
兎に教える。
4) その通りにすると、皮膚がひび割れし痛くて泣き伏す。すると 大穴牟遅
  が後から来て「なぜ泣くのか」と尋ねる。
5) 兎は隠岐の島にいて、一族の数の多さをくらべるために、鰐をだまして
並ばせてその上を飛び跳ねて数を数えながら本土へ渡ろうとした。
6) 最後のところでそれがばれて、鰐につかまって着物をはがされてしまった  ので(皮をはがされて)、泣き悲しんでいたところ、
7) 八十神が来て、海水で洗って風で乾かせと教えられたが、この有様です。
8) 大穴牟遅神は、「水門に言って水で体を洗い、蒲の穂をとって敷きそこに 
  寝ころべば旧の肌のようにに治る」と教える。医療知識を持っていた。
9) 教えられたとおりにすると、兎の肌は元通りに治る。
10) 喜んだ兎は、八十神たちは八上比売(ヤガミヒメ)を得られない、きっと
  あなたが得るでしょう、と言う。
11) 兎か言った通り、ヤガミヒメは八十神を断り、大穴牟遅神と結婚すると答
  える。ヤガミとは因幡国八上郡で、結婚は土地の領有を意味する。

【猪狩り】
12) 八十神は怒ってイノシシ狩りにかこつけて、大穴牟遅神を殺そうとする。
13) 伯伎ハハキの国の手間山のふもとでのイノシシ狩り、大穴牟遅神は下で
  待っていて、降りてきた赤いイノシシを捕まえよ、と言われる。
14) 八十神たちは真っ赤に焼いた石を転がり落とすと、大穴牟遅神はその岩に
  押し潰されて死んでしまう。
15) そこで泣き悲しんだ母の神が、天の神産巣日神カムムスビノカミに頼み
  こむ。
16) そのため「赤貝姫」(キサカヒヒメ)と「蛤貝姫」(ウムカヒヒメ)を
  派遣して生き返らせる。
17) (意訳すると)「赤貝姫」が岩から大穴牟遅神をかきとり、「蛤貝姫」が
  蛤の汁と母の乳汁とを塗り付けると、大穴牟遅神は難なく生き返り元の
  立派な男となって出歩くことが出来た。
(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(51)

2022-09-13 00:00:00 | Weblog

大国主神(「大穴牟遅神」(オホナムヂ))」は、これとは別に「大物主神」という名前も持っている。

その「大物主神」は奈良県の桜井市の「三輪山」に住んでおられる。

その「大物主神」を祀っているのが、奈良県桜井市三輪にある「大神神社」 (おおみわじんじゃ)なのである。

Wikipediaによれば(https://ja.wikipedia.org/wiki/大物主)、

『記紀神話』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少名毘古那神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光り輝く神が現れて、我を倭の青垣の東の山の上に奉れば国造りはうまく行くと言い、大国主神はこの神を祀ることで国造りを終えた。この山が三輪山とされる。
・・・・・
大物主の由緒は不明瞭であり、他の神と同定すべきか否かについて複数の異説が見られる。例えば古事記では詳しい説明はされておらず、大国主命とは別の神である様に述べられている。 一方『日本書紀』の異伝では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として三諸山に祀ったとある[要検証 – ノート]。ただしこちらでも異伝を記した「一書」では、国譲りの時に天津神とその子孫に忠誠を尽くすと誓って帰参してきた国津神の頭として、事代主神と並び大物主が明記されている。研究者の中には事代主神の別名が大物主神であったと主張する者もいるが[2][3]、先述の異伝との比較・検証が必要である。



この「海の向こうから光り輝く神が現れて、」の神が「大物主神」だったのであるが、異伝の一書に記されている「国津神の頭として、事代主神と並び大物主が明記されている」とある様に、何らかの意味で「国譲り」に協力した国津神の頭の名前であった、とする説もあるようだが、「国譲り」を何らかの方法でスムーズに遂行させたことに役立った(国津)神ではないのか、と小生は睨んでいる。言ってみれば、「大国主」もスサノオの七代目とはいえ、既に国津神となっていたのではないのかな。

国譲りがうまくいったので、その立役者であった「大物主神」は三輪山(大神神社)二祀られているのであろう。


この話は、「日本神話.com」の「大神神社|三輪山が御神体のパワースポット!大神神社は国造り神話に由来する地鎮系神社!
(https://nihonshinwa.com/archives/1932)に詳しく書かれているので、訪れてみるとよい。


大国主命の国造りは、「豊葦原の瑞穂の国」であった。と言うことは、当時高天原系の「葦原の中つ国」と「豊葦原の瑞穂の国」という二つの国がこの日本列島には存在していたことになるわけで、「国譲り」は、「豊葦原の瑞穂の国」が「葦原の中つ国」に併合されていったことを示すものである、と小生は睨んでいる。

次の「出雲大社」の説明文は、穏やかに統一がなされていったような書き方であるが、実際には、それなりの戦争があったものと思われる。


大神神社と大国主神

出雲大社と大国主大神

御祭神
八雲立つ出雲の国が神の国・神話の国として知られていますのは、神々をおまつりする古い神社が、今日も至る処に鎮座しているからです。そして、その中心が大国主大神様をおまつりする出雲大社です。大国主大神様は、広く“だいこくさま”として慕われ、日本全国多くの地域でおまつりされています。大神さまがそれぞれの地域でお示しになられた様々な御神徳は数多くの御神名によって称えられております。


国づくり
その御神名の一つに「所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)」があります。それは遠く神代の昔、私たちの遠い祖先たちと、喜びや悲しみを共にしながら、国土を開拓された事に由来しており、これが“国づくり”の大業です。大神様は国づくりの最中、農耕・漁業・殖産から医薬の道まで、私たちが生きてゆく上で必要な様々な知恵を授けられ、多くの救いを与えて下さいました。この慈愛ある御心への感謝の顕れが、一つ一つの御神名の由来となっているのです。今では広く“えんむすび”の神として人々に慕われていらっしゃいますが、この“縁”は男女の縁だけではなく、生きとし生けるものが共に豊かに栄えていくための貴い結びつきです。そして、日本の悠久なる歴史の中で、代々の祖先の歩みを常に見守られ、目に見えないご縁を結んで下さっているのが大国主大神様なのです。



御鎮座の由来

大国主大神様が国づくりによって築かれた国は、「豊葦原の瑞穂国」と呼ばれ、あらゆるものが豊かに、力強く在る国でした。大神様は国づくりの後、築かれた国を私たち日本民族を遍く照らし治める天照大御神様へとお還し(国土奉還=国譲り)になりました。そこで天照大御神さまは国づくりの大業をおよろこびになり、その誠に感謝なさって、これから後、この世の目に見える世界の政治は私の子孫があたることとし、あなたは目に見えない世界を司り、そこにはたらく「むすび」の御霊力によって人々の幸福を導いて下さい。また、あなたのお住居は「天日隅宮(あめのひすみのみや)」と申して、私の住居と同じように、柱は高く太い木を用い、板は厚く広くして築きましょう。そして私の第二子の天穂日命をして仕えさせ、末長くお守りさせます。と申されました。こうして大国主大神様は目に見えない世界を司られ、天照大御神様の御命令によって高天原の諸神がお集まりになり、大国主大神様のために宇迦山の麓に壮大なる宮殿が造営されました。そして大国主大神様は永久にお鎮まりになって人々の幸福のために慈愛をそそいで下さることになり、今に至るまで厚い信仰をお受けになっています。この荘厳な御社は天日隅宮を始め様々な名称で称えられてきましたが、現在は「出雲大社(いづもおおやしろ)」と申しております。


出雲大社社務所   〒699-0701 島根県出雲市大社町杵築東195  TEL : 0853-53-3100  FAX : 0853-53-2515   お問合せ :午前8時30分~午後5時     

https://izumooyashiro.or.jp/about/ookami

(続く)
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纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(50)

2022-09-12 00:00:00 | Weblog

『一首鑑賞
日々のクオリア』
 より借用する。

八雲立つ 出雲八重垣 妻籠みに 八重垣作る その八重垣を

読みは、
『やくもたつ いづもやへがき           五・七
 つまごみに やへがきつくる そのやへがきを』  五・七・七
         

「八雲立つ」は八重の雲が湧き起こる意で、出雲をたたえる枕詞。「八重垣」は幾重にもめぐらされた立派な垣。出雲に降(くだ)った須佐之男命(スサノオノミコト)が櫛名田比売(クシナダヒメ)を妻とする新婚のうた。妻を籠もらせるための八重垣をつくろうよ、という意味。
 
『古事記』の最初に出てくる歌でもあり、のちの『古今和歌集』の「仮名序」には、このスサノオの歌から歌の三十一文字が定まったと書かれていて、つまり、この歌が、いちおう、日本最古の短歌であり、三十一文字の歌の原型ということになっている。
https://sunagoya.com/tanka/?p=19782


これはスサノオが、クシナダヒメとの結婚の喜びをうたった歌だと言われているが、この五七五七七の形式の歌は、それほど古くはないと言われているので、後ほど追加されたものではないかと言われている(「読み解き古事記 神話篇三浦祐之著(朝日新聞出版)P144~5)。


ということで、スサノオはすがすがしいしい気持ちになったとして、出雲の国の須賀というところに宮を作って住むことになる。今の「島根県雲南市大東町須賀」だという。須賀神社が祀られている。下記参照のこと。


『古事記の話 古事記を小説風に書き直してみました』
https://kojikinohanasi.hatenablog.com/entry/790718-yakumotatsu

より借用した。



そして時代は過ぎて、スサノオから七代目に、「大国主神」が誕生するのである。

「大国主神」にはそのほかに、「大穴牟遅神」(オホナムヂ)、「葦原色許男神」(アシハラノシコオ)、「八千矛神」(ヤチホコ)、「宇都志国玉神」
(ウツシクニタマ)などと言う別の名がある。一般的には、オオナムヂから「大国主神」に成長していって君臨するといった道筋だという。

(続く)
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