(以降は、小生の次のブログを参照願いたい。
200827(24)、200828(25) 日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。)
少しわかりにくかったかもしれないが、要は、司馬遼太郎こと福田定一は、 「日本人の起源は朝鮮半島から南下してきた人類である」と言うことを言いたいらしいのであるが、何を血迷ったか、これは真っ赤な嘘,間違い、偽造である。
朝鮮半島では、BC1万年からBC 5千年の間は、ほとんど人が住んでいなかったのであり、朝鮮の年表ではこの間は空白になってるのである。この時期は、日本では縄文草創期に当たっている。そのため縄文時代から日本人が沢山朝鮮半島に渡っていたのである。
朝鮮では、縄文土器の一種である豆粒文土器が発掘されている(縄文人骨も発掘されている)ので、この土器を使う縄文人が、朝鮮半島に渡って暮らしていたということである。
かなり横道にそれてしまったが、これで、司馬遼太郎こと福田定一の「偏見・独断、悪意」の一端が理解できたものと思う。だから司馬こと福田は朝鮮人だったのではないか、と言われても仕方がないのである。
さて話は、「日露戦争」に戻ろう。と言っても、司馬遼太郎の「坂の上の雲」での間違い探しである。
これは冒頭でも述べているように、鈴木壮一氏著の「ロシア破れたり」(毎日ワンズ)で発表されている「坂の上の雲」に書かれている嘘と欺瞞・虚構を、ここで述べてみたいと思っているのである。
先ずは、当時の極東、日本とロシアの関係に言及しておこう。
もともと日露関係は、江戸末期から明治初期の頃は良好であったが、国境がどのように定められていったか、確認したい。
・安政東海地震(1854年12月23日、嘉永7年11月4日→途中安政に改元)
(1)日露和親条約(1855.2.7、安政元年12月21日・下田にて)
・択捉(エトロフ)島・日本領と得撫(ウルップ)島・ロシア領
の間に国境線
・樺太は両国民混在の他とした。
(2)樺太・千島交換条約(1875.5.7、明治8年)
・ウルップ島から占守(シュムシュ)島までの千島列島を日本領
(択捉島以南はもともと日本固有の領土)
・樺太はロシア領とする。
(3)日英同盟(1902.1.30、明治35年)
(4)日露戦争(1904.2.6~1905.9.5、明治37,8年戦役)
(5)ポーツマス条約(1905.9.4、明治38年9月5日・日本時間)
・樺太の北緯50度以南を日本に割譲(南樺太)
・朝鮮半島の優越権、南満州鉄道・同付属地の日本へ割譲
・遼東半島南東部の租借権を日本へ譲渡
・日露両軍の満州からの撤退
・沿海州沿岸の漁業権を日本に与える。
(6)ソ連対日参戦(1945.8.11~9.5)
・南樺太、千島列島、北方領土・四島(エトロフ、クナシリ、ハボマイ、シコタン)
- をソ連が占領する。返せ、北方領土!千島列島も!
(https://note.com/nikolai716/n/n1326e716a08d より)
と言った塩梅であるが、だから、現在は日露の国境は定まっていないし、日露関係はよくない、と言うよりもウクライナを見ればわかるように、悪いのである。
(続く)
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