世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(20)

2022-07-29 00:00:00 | Weblog

ここで一つ東京新聞に連載されている「よもやま邪馬台国」なる続き物に触れてみよう。

当然この続き物にも鏡の製作地論争の話は載っている。2021.8.10のNO.58には元福岡市公害課職員だった藤本昇氏が、このレーダーチャートを考案したと書かれている。このレーダーチャートのおかげで、三角縁神獣鏡はすべて国内産の鏡であることが証明されたのである。

この続き物は2020.6.23(火)から始まっているが、2022.6.28(火)現在NO.102が掲載されているが、今後もまだ続くようだ。かなりの長編ものであるが、本当に「よもやま話」で肝心なところが「意識的に」ボヤカされていて、ある意味たちが悪い。

肝心なところとは、

(1)魏志倭人伝」に記載されている帯方郡から邪馬台国までの道順についての考察を、最初から省いてしまっている。だから邪馬台国がどこにあったのか、卑弥呼はどこに居城していたのか、と言ったことは最初から言及していないのだ。これでは面白みが半減どころか、全くなくなってしまっている。そのため九州の倭と大和(纏向)との関係が、全く分からなくなってしまっている。

2020.6.23から始まる初(しょ)っ端(ばな)のNO.1には次の記載が堂々と載せられている。

本連載では、方位・里程論争の迷宮にはまるのは避け、邪馬台国をめぐる四方山の話題に触れつつ、脇道から女王国の実像に迫っていく。

これでは面白みも学術的価値(もともと学術的な価値などは狙ってはいないが)も皆無である。しかも、脇道からでも女王国の実像には迫れないのである。

(2)もう一つの省略は、大和王権の誕生の話が全くないことである。纏向遺跡の箸墓古墳の話は載っているが、これも「卑弥呼の墓」ではないか、と言った論調で終始してしまっていることだ。日本国の生い立ちには、なんの言及もないのは、まことに寂しい、と言うよりも「画竜点睛を欠く」と言うことである。最も大切なことが抜けてしまっているのである。(間違っていればどんどんご指摘願う。)

これらのことは、意識的に避けられている、と思われる。作者の豊田滋通氏の「博学多才」なことはわかるが、これでは「博学多才」さが台無しである。単なる遺跡紹介で終っている。大量の紙面を使っている割には、得るものが少ない感じがしてしまうのである。

「魏志倭人伝」の邪馬台国までの行程は、孫栄健氏の『決定版 邪馬台国の全解決』に、余すことなく述べられているので、すでに解明済みである。
この書は、2018年2月15日に初版第一刷りが発行されている。

よもやま邪馬台国」は、2020.6.23(火)から始まっているので、「邪馬台国の全解決」は、当然参照できたはずである。しからば、「邪馬台国までの行程」は、正しく言及できたはずであるが、そこらあたりは一切と言っていいほど言及がない。

「邪馬台国までの行程」が明らかになってしまうと、氏の話が続かなくなってしまう恐れがあるからと、危惧したのであろう。氏の力量があれば、なんとしても邪馬台国に行き着くこともできたし、それであっても話は続けることは出来た筈ではないのかな。まことに残念なことである。この「よもやま邪馬台国」は(くだらないとは言わないが)四方山話で終わってしまうことであろう。
(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(19)

2022-07-28 00:00:00 | Weblog

さて、藤森昇氏の論考に戻るが、

これらの鉛同位体比は科学機器の発達によりやく40年前から測定できるようになったと言う。

208Pb/206Pbを横軸の左、207Pb/206Pbを横軸の右側に、207Pb/204Pbを縦軸の上に、206Pb/204Pbを縦軸の下にプロットする四軸のレーダーチャートで示すことにより、菱形の鉛同体比のチャートが出来上がる。

このレーダーチャートは、産出地ごとに異なった菱形を示すことになる。同じ形状の菱形であれば、同じ産出地の青銅から作られてもの、と判断できるのである。

イメージ的にこれらのチャートを次の示すと、こんな風になる。

これを見ると、三角縁神獣鏡は明らかに前漢鏡や漢鏡とそのチャートは異なっていることが判る。



これを見ると、三角縁神獣鏡は明らかに前漢鏡や漢鏡とそのチャートは異なっている。

三角縁神獣鏡は中国鏡とは全く異なったチャートを示していることから、従って、中国で製作されたものではないことが判る。

しからばどこで作られたのか。当然それは倭国製である。神岡鉱山でとれた鉱物だけがこの菱形の値を示すと言う。きっと神岡鉱山から算出された鉱物を使って、三角縁神獣鏡は作られたものであろう。

卑弥呼が鏡を下賜されたのは景初二年(三年が正しい?239年か)十二月のことで、三世紀半ばのことである。しかも三角縁神獣鏡は四世紀の古墳からしか出ていない、とも記述されているので尚更だ。

もう一つ鏡を吊るすために紐を通す穴の形状が、三角縁神獣鏡は殆どが長方形か方形であり、通常の鏡と異なっている、と言われている。通常の鏡は、紐口は円や半円状で鋳バリなどはないが、三角縁神獣鏡はこの点非常に異なっていることになる。

従ってこの三角縁神獣鏡は、紐につるすことは想定されていなかったものと、推定される。と言うのも弥生から古墳時代への変革期に、人の死後の平安を祈願して墓に埋葬されるためだけに、製作されたものではないのかとも考えられている。このことを、この論考は、次のように表現している。さもありなん。

この鏡は死後の不安を解消してくれる。この鏡の鋭くとがった三角縁が現世あの世の結界となり、現生の未練と俗念を断ち切りあの世へと入っていく。そこには山(鋸歯文)や川(複波文)の試練があるが、この鏡があれば軽く越えることが出来る。するとそこは待望の神仙世界で神像がやさしく迎え、獣像とともに死者の安穏を約束してくれる。三角縁神獣鏡ではこの世界観が一目でわかり、数多の鏡を押しのけて葬儀の必需品となり古墳から出土することになる。

だから三角縁神獣鏡は倭国独特の鏡であり、これに反して卑弥呼の鏡は、九州北部を中心に出土する「内行花文鏡・方格規矩鏡」などの漢鏡である、とこの論考は結論付けている。

但し、小生にはよくわからないが、直径46.5cm、円周は46.5×3.14=146.01cmものでかい青銅鏡は中国や朝鮮では出土していないと言われているので、日本製の鏡かも知れない。稲作にせよ、鉄器や青銅器にせよ、倭国では相当高度な技術や知識を弥生時代初めから有していたようなので、この内行花文鏡の鉛分析も知りたいものだ。

(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(18)

2022-07-27 00:00:00 | Weblog

鉛同位体比法の原理

地球の誕生時には、中性子数の異なる同位体組成は元素毎に一定の値で、地球上どこでも同じであり、時間の経過による変化はほとんどないとされています。しかし、例外としていくつかの元素は変化します。鉛(Pb)は、そのひとつです。鉛の同位体は主に204Pb、206Pb、207Pb、208Pb4種が安定して存在していますが、これらの内、206Pb、207Pb、208Pbは、それぞれ238ウラン(U)、 235U、232トリウム(Th)から、放射壊変という放射線を出すことにより安定な原子核に変化して得られる最終核種になります(Pbは放射線を出さない安定核種です)。

地球誕生時の岩石・鉱物中には僅かなウラン(U)、トリウム(Th)が含まれており、長い年月と共にU、Thは放射壊変により鉛の同位体へと変化します(図1参照)。そのため、238U、235U、232Thは減少し、206Pb、207Pb、208Pbは増加します。

204Pbのみは地球が生成された時の存在量のままで変化しません。地殻変動などの影響で、鉛が濃縮し、鉛鉱床が生成すると、ウランとトリウムは排除され、それ以後同位体比は変化せず、安定して存在することになります。つまり、地球誕生時に岩石中に含まれていた鉛の量とウラン、トリウムの量、共存時間によって、鉛の同位体比は地域によって異なる値を示し、それぞれの鉱山の固有値となるというわけです1-3)。

考古遺物の原料に関する産地推定の研究は、以上のような原理を応用し、鉛鉱床あるいは産出地域の鉛同位体比との比較により産地を推定できるようになりました。

鉛同位体比測定法

遺物中の鉛同位体比の測定は、遺物である金属材料から鉛を単離することから始まります。当事業所は、平尾先生の方法を踏襲していますので、電気分解法(電着法)にて鉛の分離精製を行っています。分離して得られた鉛はリン酸及びシリカゲルと共に、レニウムフィラメント上に載せ、表面電離型質量分析装置MAT262に導入します。鉛は、通電加熱により気化、イオン化させて、質量分離を行います(図2)。測定する質量は、鉛同位体の204Pb、206Pb、207Pb、208Pbの4種です。これら同位体は、同時に測定しないと精密な比として計測できないため、検出器は質量を順番に測定するシングルコレクターではなく、複数台の検出器で、上記4種の同位体を同時に測定するマルチコレクター型の装置を使用する必要があります。

鉛同位体比測定値の表記

馬淵久夫氏・平尾良光氏らにより、弥生時代、古墳時代から古代にいたるまでの日本で出土した中国・朝鮮半島系の青銅及び日本で作られた青銅資料、現代の日本、中国、朝鮮の鉛鉱石を系統的に分析した結果、208Pb/206Pbを縦軸、207Pb/206Pbを横軸にしたa式図(図3)、207Pb/204Pbを縦軸、206Pb/204Pbを横軸にしたb式図(図4)で図化すれば、グループ分けが有効に行えることが見出されました。a、b式図中に明記したA~Dの4つの領域は、東アジアの鉛同位体比分布を表し、出土した鉛を含む全ての遺物である銅製品、ガラス玉などの鉛同位体比測定結果から、原材料の産地を推定できるようになりました。

おわりに

以上のような測定以外にも鉄・非鉄などあらゆる遺跡出土遺物や文化財の分析を、尼崎事業所、八幡事業所及び富津事業所にて行っております。最先端の分析技術が歴史解明の一助となるよう、お手伝いさせていただきます。

お問い合わせ窓口尼崎事業所 解析技術部 渡邊 緩子
TEL: 06-6489-5753
FAX: 06-6489-5958
E-mail: watanabe-hiroko2@nsst.jp

<参考文献>
1) 馬淵久夫・富永健、「考古学のための化学10章」東京大学出版会、1981、p.129-178
.2) 国立歴史民族博物館、「科学の目でみる文化財」、1993、p.207-221
.3) 平尾良光編、「古代青銅の流通と鋳造」鶴山堂、1999、p.31-39

.https://www.nsst.nssmc.com/tsushin/pdf/2016/90_3s.pdf
(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(17)

2022-07-26 00:00:00 | Weblog


8.銅鏡百枚と三角縁神獣鏡

魏志倭人伝には、後半の終わりから1/4程戻ったところに「今、・・・銅鏡百枚・・・賜う。皆装封して難升米・牛利に付さん。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜えり」 と記載されている。鏡は卑弥呼の好物だったようだ。

明治の頃から三角縁神獣鏡が盛んに出土したため、これが「卑弥呼の鏡」ではないかと言われていたが、今では既に560枚も出土していると言うので、明らかに「銅鏡百枚」の量をこえてきている。

これらの事実を見ても、これら三角縁神獣鏡は「卑弥呼の鏡」ではないことは、容易に推測、というよりも断言できる。

ここに「宝島社」の「古代史15の新説―新視点で読み解く古代日本の論点」(2016.12.15発行)と言う雑誌がある。

そのなかに藤本昇氏の「鉛同位体比から卑弥呼の鏡を考える」と言う論考が載っている。これは氏の「卑弥呼の鏡」(海鳥社)からの抜粋まとめであるが、三角縁神獣鏡は、その成分から漢鏡などではなく、倭国製の国産品であると結論付けている。

ここでは、その内容を紹介しよう。

先ず銅鏡は、銅と錫の合金である、と言う事はよく知られていることと思う。

しかし地球誕生時の岩石・鉱物中には僅かなウランUとトリムThが含まれており、長い年月とともにU,Thは放射壊変により鉛の同位体へと変化すると言う。

U,Thには、238U、235U、232Thという種類があり、それぞれ放射線を出すことにより(放射壊変と言う)安定した原子核に変化すると言う。これを最終核種と言い、それぞれ206Pb、207Pb、208Pbと呼ばれる最終核種・鉛同位体となる。

もう一つ鉛同位体204Pbは、地球が生成された時の存在量のままで変化しないものである。

従って青銅に含まれるこれら鉛同位体の量(具体的には鉛同位体の比率)を測り、異なる青銅が同じ比率を示せば同じ生成過程を経た鉱物であると判断できる訳である。即ち同じ鉱床から産出されたものとみなすことが出来る。

このことにより漢鏡や三角縁神獣鏡の鉛同位体比を分析すれば、それぞれの産出地が推定できるのである。

詳しくは次のURLを参照願う。


鉛同位体比分析による文化財の産地推定法のご紹介
2016年1月1日

はじめに

古文書や古記録等の史料から、歴史が紐解かれることにより、私たちは過去の出来事を知り、そして多くのことを学んできました。近年では、様々な歴史資料の材質や産地・年代などを明らかにするために、史料を読み解くだけでなく、科学的手法を用いた解明が取り入られるようになり、新たな事実も徐々に明らかになってきました。

 その科学的手法の中に、「鉛同位体比法による原料産地推定」というものがあります。これは、鉛同位体比が鉱山毎に異なるということを利用して、金属材料中に含まれる鉛の同位体比測定を行い、原料の産地を推定するものです。産地の推定ができれば、文字の記録のない時代に行われた文化交流や物質・人々の移動を研究する上でとても重要な情報が得られます。

本法は、1965年アメリカで始まり、日本では1967年から取り組まれ、約50年もの間、平尾良光氏(現別府大学・客員教授)を中心に研究されてきました。その測定に使用する「表面電離型質量分析装置(Thermal Ionization Mass Spectrometry、以下TIMSと記載する)」が昨年当事業所へ測定技術と共に移管され、当事業所の新たなメニューに加わりました。

今回は、この「鉛同位体比分析」について以下にご紹介します。


(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(16)

2022-07-25 00:00:00 | Weblog

この平原遺跡を発掘した考古学者の原田大六氏によれば、この平原遺跡にて発掘された大型内行花文鏡が、八咫鏡そのものであると言う。次の鏡が、「http://inoues.net/ruins/itokoku.html」から借用した大型内行花文鏡である。



まあ卑弥呼は、この内行花文鏡を大切にしていたものと思われるが、たったの五面でしかない。しかし余程大事なものであったのであろう。

上記説明では四面と書かれているが、実際の面数は五面であった。破砕されていたため復元の仕方によって四面としていたが、正確な復元の結果五面であることが判ったのである。

残りは、32枚が「方格規矩四神鏡」で、内行花文四葉鏡が2枚、四ち鏡が1枚の合計40面(枚)であった、と上記には記載されている。これらは全て漢鏡である。



http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/houkaku.html より。(京都国立博物館)

ここには、いわゆる有名な「三角縁神獣鏡」は、一面もない。

結論から言うと、三角縁神獣鏡は漢や魏の鏡ではなく、倭国・日本で作られた大量生産品であった。

現在560枚ほどが見つかっている、と言う。

魏の明帝が、景初二年(三年が正しい?239年か)六月に、倭の女王が派遣した大夫難正米等に賜った宝物の中に、銅鏡百枚があったが、これらは「三角縁神獣鏡」ではなかったのである。

百枚のうち40枚は卑弥呼(日巫女または日御子)の墓に埋葬され、残りの60枚は邪馬台国などの各国の王などに配られたものと思われる。


ここに鏡の話が出てきたので「三角縁神獣鏡」についても、小生のブログ「邪馬台国とは何ぞや?(13)」 (2018.8.24)から転載しておく。
(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(15)

2022-07-22 00:00:00 | Weblog

先に言ってしまえば、卑弥呼はそこの平原遺跡に葬られているのである。
しかも徇葬者のある墳墓は、日本国中探しても、この平原遺跡にしかないのである。

ここらあたりのことも、小生のブログ「邪馬台国とは何ぞや?(12)」 (2018.8.23)から転載しておく。そこでは埋葬されていた鏡についても言及しているので、ご一読願う。


8.女王卑弥呼の墓

同書の223頁からは卑弥呼の墓のことに言及しているので、それを簡単に紹介しよう。

「卑弥呼以て死す。大いに冢(チョウ)を作る。径百余歩、徇葬する者、百余人。」と径百余歩と相当大きい。

径百余歩とは、約145mだと言う。かなりでかい。そして、「大いに冢を作る。」とあるように、魏使はその墓を見た可能性が高い。

魏使は伊都国に常駐していた訳であるから、卑弥呼の墓を見たというからには、その墓は女王国・奴国ではなくて、伊都国にあったのではないのかな。

しかも計百余歩というとてつもなくでかい墓であれば、既に見つかっている筈であるが、こんなでかい墓はいわゆる「前方後円墳」に該当するが、卑弥呼の時代は弥生の後期古墳時代ではない。

従ってこれも「露布の原理」で1/10すれば、「径十余歩」で「百余人」は十余人となる。

とすればそれに該当するお墓は既に見つかっている。それは平原遺跡ではないのかな。

その遺跡は糸島市前原町にある。東西二つの遺跡により構成されている。

主墳は西のもので、東西17m、南北12mで、幅2~3mの溝が周囲にめぐらされている、という。

円墳ではなくて、「方形周溝墓」と言われるお墓である。その中央部に、W1m×L3mの割竹型木棺が据えられており、副葬品には武器は殆どなく、ネックレスやイヤリング、ピアスと言ったアクセサリー類が多い。

と言う事はここに葬られている人物は、確実に女性ではないか考えられている。

そして従墳は、東西13m、南北8mで、周囲の溝からは16人の殉葬者とみられる寝た状態の遺骨が発見されている。

・・・徇葬する者、百余人。」とは、これを十分の一して十余人とすれば、16人の殉葬者とはきっちりと合う。

同書の226頁には、次のように記述されている。

卑弥呼の墓の条件の一つは「殉葬者のあること」だが、日本国内の弥生遺跡では、殉葬者のある遺跡は、平原遺跡を除くと一例も発見されていない。➀女性であり、②殉葬者がある、となれば、もう答えは一つしかないかも知れない。この平原遺跡は、三種の神器と同じ、鏡、玉、剣を組み合わせた副葬品を持ち、その被葬者は、女性ではなかったかと推測されている。

この平原遺跡は、その後の調査から、合計五つの墳墓からなっている。Wikipediaによれば、2~5号墓からは青銅器類の遺物は発見されていないと言う。

しかしこの一号墳からは、40面の破砕された銅鏡が発見されており、そのうち五面は、直径46.5 cmもの大型内行花文鏡であった。

天照大神の「ご神体」の「八咫鏡」が伊勢神宮の内宮に奉安されているが、この大型内行花文鏡と大きさ、形が同じものである、とされている。

「一般に「八咫(やた)」は「八十萬神」「八尋大熊鰐(やひろわに、サメのこと)」「八咫烏」等と同様、単に大きい・多いという形容であり具体的な数値ではない、とされているが、咫(あた)を円周の単位と考えて径1尺の円の円周を4咫(0.8尺×4)として「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)、円周約147cmの円鏡を意味する」という説も存在する[2]。

後漢の学者・許慎の『説文解字』には、咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、周尺なり)

とあり、戦国〜後漢初期の尺では一寸2.31cm×8寸×8咫=約147cmとなるが、周尺とでは齟齬がある。


と(https://ja.wikipedia.org/wiki/八咫鏡)には記載されているが、この内行花文鏡は直径46.5cm、円周は46.5×3.14=146.01cmであり、将にとは言わないが、これに該当するものではないのかな。
(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(14)

2022-07-21 00:00:00 | Weblog

卑弥呼の墓説に不利?

航空レーザー測量では、「卑弥呼の墓説」に関わるデータも得られた。後円部と前方部が、一体で築かれたことが分かったことだ。

箸墓古墳をめぐっては、前方後円墳でありながら、後円部を先に造ったという「後円部先行説」が根強くあった。その理由は、卑弥呼の墓について記した魏志倭人伝。「卑弥呼死す。径百余歩の塚を作る」と書かれ、「径」は直径を意味し、「百余歩」は約144メートルに相当する。箸墓古墳の後円部の直径は約156メートルで、倭人伝の記述に近い。

研究者はこの点に着目し、「箸墓はまず後円部のみが造られ、卑弥呼を埋葬したあとに壮大な儀礼をする場として前方部を付け加え、最終的に前方後円墳になった」と主張。「径百余歩は、卑弥呼を埋葬した後円部を記したもの」と推測した。

しかし、航空レーザー測量の結果、後円部と前方部に継ぎ目などはなく、当初から前方後円形として一体的に築かれたことが判明。桜井市教委の橋本輝彦・文化財課長は「これで後円部先行説は消えた」と指摘した。

これまでの市教委や橿考研の同古墳周辺の発掘でも、後円部と前方部周辺で出土する土器は、同じ形式で時期的な差がなかったため、古墳築造は同時とみられていた。後円部先行説は、空と地上からのダブルチェックによって明確に否定された。

ただし、箸墓古墳の築造時期は出土した土器から、卑弥呼の没年(248年ごろ)を含む3世紀半ば~後半とみられることから、卑弥呼説まで否定されたわけではない。被葬者論争は、航空レーザー測量によってより事実に基づいて展開されるようになった。

地上がダメなら「科学の目で」

橿考研による箸墓古墳の地上以外の調査は当初、航空レーザー測量だけの予定だった。宇宙に一気に広がったのは、科学の目で歴史を解明したいという研究者の出会いだった。

橿考研は22年、箸墓古墳に先立って、宮内庁が管理する奈良市の前方後円墳、コナベ古墳(墳丘長204メートル)で航空レーザー測量を実施し、墳丘の姿を詳細に明らかにした。

箸墓古墳の後円部側にミューオンの測定装置を設置する西藤清秀さん(右)ら(奈良県立橿原考古学研究所提供)   

この成果を橿考研の西藤清秀・技術アドバイザーが25年、名古屋大学で開かれた研究会で発表。大きな関心を示したのが、宇宙線「ミューオン」を活用した遺跡調査の可能性を探っていた名古屋大の研究員、石黒勝己さんだった。

ミューオンは宇宙から飛来する素粒子の一種で、物質を透過する性質をもつ。厚さ1キロの岩盤も突き抜ける一方で、土などがあると透過数が減少する。

古墳に当てはめれば、大量の土が積み重なった墳丘内をミューオンが通り抜けるとその数は減少するが、内部に石室のような空洞があれば大きくは減らない。この数の違いから、石室の有無や規模を明らかにしようというのだ。1メートルほどの空洞があれば判別が可能で、大型古墳の石室は一般的に長さ5~10メートルで、箸墓古墳の石室の状況も十分把握できるという。

ミューオンによる文化遺産の調査で最も有名なのは、エジプト最大のクフ王のピラミッド内部の測定だ。名古屋大などのチームが29年、王が埋葬されたとされる「王の間」近くに、未知の巨大な空間があることを突き止め、世界的に注目された。

被葬者は1人か複数か

「レーザー測量だと墳丘の外形しか分からないが、ミューオンを使えば墳丘内の様子が分かるかもしれない。両方を合わせれば貴重なデータが得られる」。学会の会場で、西藤さんと石黒さんは意見が一致し、共同調査の構想が一気にふくらんだ。

ただし、すぐ箸墓古墳には取り掛からず、小規模な古墳から始めた。学会の翌年、横穴式石室が外からでも見える同県大淀町の石神古墳(直径22メートルの円墳)で試験的に実施。石室の存在をミューオンが正確にとらえたため、古墳で活用できることが証明された。



28年には同県斑鳩町の春日古墳(直径30メートルの円墳)を測定した。発掘調査が行われておらず内部の様子は不明だったが、ミューオンの測定値から、長さ6メートル、幅・高さとも2メートルほどの空洞があることが分かり、石室の存在がほぼ確実となった。

  

「ミューオンによって、発掘をいっさいしないで石室の存在が確認できた」と西藤さん。いよいよ令和元年12月、箸墓古墳での測定に着手した。

前方部と後円部の宮内庁管理地のすぐ外側に、ミューオンを検知する装置を計4カ所設置。現在は、より正確なデータが得られるとみられる後円部東側1カ所に絞って、慎重に観測を続けている。

解析にはこれまでの古墳より時間がかかっているが、西藤さんは「箸墓古墳の石室は1つなのか複数あるのか、どの方向を向いているかなどを明らかにしたい」と話す。石室は後円部の頂上に1つというのが多いが、隣に石室を設ける例もある。石室が複数あれば被葬者も複数いた可能性があり、被葬者論争も過熱しそうだ。

西藤さんは言う。「箸墓は宮内庁の管理下にあり、中には入れないし調査もできない。それなら外からできることをやろうと考えた。箸墓ならそれだけの意義がある」

箸墓古墳で成功すれば、他の天皇陵などへ調査が広がる可能性もあり、古墳研究が飛躍的に進むことも期待される。(小畑三秋)

ミューオン 素粒子の一種。太陽内での爆発や超新星爆発などによって飛来した宇宙線が、地球の上空にある大気中の原子や分子と衝突して形成され、地上に到達する。手のひらサイズの面積に、毎秒1個の割合で常時降り注いでいるという。
https://www.sankei.com/article/20211208-5BIHYWNRRBOPTAHNF5VSPH2CP4/


卑弥呼、以って死す。(つか)を大きく作る。径は百余歩なり。徇葬者は奴婢、百余人なり。」と言ったこれに合致する古墳は、伊都国にある。伊都国と言っても邪馬台国時代の名称がそのまま存在するわけでもなく、それに該当するところは、福岡県糸島市である。
(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(13)

2022-07-20 00:00:00 | Weblog

先の高橋忠平氏の説とこの武光誠氏の説とは、全くの正反対であり、それが同一の書籍に前後して載せられていることには、少なからず驚いた次第である。

であるならば、どこかにその旨の解説を載せて頂けたら、もっとわかりやすくなったのではないのかな(素人には)。

いずれにしても「旧唐書」と言う文献の内容にも言及されていないということは、少し残念な気がするものである。「保存版特集」と銘打っている「古代史の謎」であれば、編集人も今少し目を光らせておいてもらいたかったものである、・・・・・と、そんな思いがするものである。


しからば「卑弥呼」はどこに葬られているのであろうか。

「魏志倭人伝」には、次のように記されている。

卑弥呼、以って死す。冢(つか)を大きく作る。径は百余歩なり。徇葬者は奴婢、百余人なり。

先に言っておくが、径百余歩や徇葬者百余人は「露布の原理」ですべて1/10で考える必要がある。

だから「径十余歩」で「徇葬者十余人」となる。

径は一歩が144cmなので、径百余歩は直径が140~150mとなる大きな円墳となるが、その十分の一となれば14~15mほどの円墳(実際には方形周溝墓であったが)となる。

徇葬者百余人も十分の一となれば、十数人である。

このことを考えれば、箸墓の後円部の直径は156mであり大きすぎるし、円墳ではなくて巨大な前方後円墳である。更には徇葬者は一人も見当たらないのである。
箸墓は円墳が先にできて後から方墳が付け加えられた、と言った意見もあるが、航空レーザー測量の結果後円部と前方部に継ぎ目はなく当初から前方後円墳として一体として築かれていたことが分かっているのである。


【THE古墳】箸墓古墳 宇宙から卑弥呼に迫る
2021/12/8 08:00小畑 三秋無料会員記事

箸墓古墳の航空レーザー測量図。後円部の頂上(中央やや右)に掘り返された跡はみられず、未盗掘の可能性が高まった(奈良県立橿原考古学研究所、アジア航測提供)

宮内庁が厳重に管理し、関係者以外は立ち入れない箸墓古墳(奈良県桜井市)。邪馬台国(やまたいこく)の女王・卑弥呼(ひみこ)の墓ともいわれるが、内部の発掘はできず謎のまま。何とかして中の様子を知りたい-。地上が無理なら、空から、宇宙からと新たなアプローチを試みるのが同県立橿原(かしはら)考古学研究所(橿考研)。上空からのレーザー測量では、樹木に覆われて見えない墳丘の姿が明らかになり、石室のある後円部が築造時のままで未盗掘の可能性が高まった。石室については、宇宙から飛来する素粒子「ミューオン」を利用して解明に挑む。果たして宇宙から卑弥呼は見えるだろうか。



未盗掘の可能性高まる

箸墓古墳は、最古の巨大前方後円墳として古墳時代誕生のカギを握る重要な古墳でありながら、墳丘の状況を知る手立ては大正時代の宮内省(現宮内庁)の測量図など限られていた。「地元の研究機関として古墳研究の可能性を広げたい」。平成24年、橿考研と航空測量会社「アジア航測」は航空レーザー測量という手法で、空からの調査に挑んだ。

上空500メートルからヘリコプターでレーザーを毎秒40万発照射し、地表から反射してくる時間を測定。時間のわずかな違いから地形の起伏を割り出すため、墳丘の精密な姿が分かるという。レーザーは樹木の葉は貫通しないため、落葉していた春先に行った。


墳丘内はいっさい入れない箸墓古墳。ただし、冬場の水が少なくなる時期には近くを歩くことも=平成31年3月、奈良県桜井市

結果は、大正時代に人の手で測量された図面と大きく変わることはなかったが、普段は樹木に隠れて見えない墳丘が立体図の形で詳細に判明。墳丘の後円部がピラミッド状に5段、前方部は3段に築かれたことが明らかになった。とりわけ、被葬者を納めた石室がある後円部の頂上は掘り返された跡がみられず、石室内は未盗掘で副葬品がそのまま残っている可能性が出てきた。

後円部の頂上は、過去の宮内庁の観察で大量の石が何メートルも積み上げられているとされる。盗掘を免れた背景について石野博信・橿考研元副所長は「盗掘者は、中に宝物が埋まっていると知りながらも、石が大量すぎて掘るに掘れなかったのではないか」と推測する。
(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(12)

2022-07-19 00:00:00 | Weblog

(1)倭国は北九州の30カ国ほどの国のことを指す言葉であり、厳密には、日本国全体を意味するものではない。倭国=日本列島とするのは間違い。日本列島を言うのであれば、日本国とすべきものである。
だから「旧唐書」には、

或いは云う、倭国みずらかその名の雅(みやび)ならざるを悪(にく)み、改めて日本と為すと。
 或いは云う、日本は旧(もと)小国、倭国の地を併(あわ)せたりと。

と「倭国」と「日本(国)」を分けて表記しているのである。倭国は日本国に併合されているのである。

(2)「邪馬台国(倭国)」は北九州の連合国家であるので、「纏向遺跡」が邪馬台国の有力候補地であるはずがない。この記事の作者は、明らかに勉強不足であり、いやしくも古代史を論ずるのであれば、もっと広く知見を集めておく必要がある。これでは「無知」さらけ出しではないかと言われても、致し方なしである。

(3)だから「卑弥呼」の宮殿などである筈がないのであり、いまだに「畿内説」なんぞと言うあほ丸出しの(失礼!)説を唱えるということは、知識不足の勉強不足と言わざるを得ないものである。

・・・・・と書かざるを得ないのである。ついでに次のような記事も必要ではないか。

(4)それよりも、日本国の基礎を作った大和王権の所在地と思われる遺跡か発見されたのであるから、「日本国の基礎となった遺跡が発見された。これで大和王権の実在や歴代の天皇の存在がまた一歩、歴史的事実となった。」などと、大騒ぎする必要があったのである。倭迹迹日百襲姫命の墓といわれているが、彼女は第七代孝霊天皇の皇女である。


もう一つ先に紹介した「ABCアーク」社発行の「歴史人4」月号(APR.2022 NO.136)の今度は「女王卑弥呼の謎と実像」(武光誠氏)の63頁の一部を次に載せる。



これによると
(1)箸墓は卑弥呼の墓である可能性が極めて高い。・・・とか、更には
(2)邪馬台国論争は7:3で大和説が優位だ、8:2かもしれない、などと言い
更には、
(3)箸墓の被葬者の倭迹迹日百襲姫命が卑弥呼である。・・・
とまで言っているが、これらはすべて間違いなのである。
ある意味、空想の域を出ていない空理空論なのではないのかな。

先に言及しておいた「高島忠平氏」は、「箸墓は倭迹迹日百襲姫命の墓でよいのでは」と言い、「卑弥呼が纏向のどこかに眠っているはずはない」とまで言い切っているが、これが正しいのである。

今までの小生の「魏志倭人伝」の説明は、「邪馬台国の全解決」と言う中国人の古典漢文学者の孫栄健氏の書籍内容の説明であるが、将にこれが正しい「魏志倭人伝」の解釈であり、それからすれば、邪馬台国とは北九州の30カ国ほどの国々の連合体を指す言葉であり、邪馬台国そのものの一個の国があるわけではないのである。邪馬台国は連合国家の総称であり、しいて言うなら女王卑弥呼は奴国にいたのである。
もう一つ間違いを指摘しておこう。



上図を参照願いたいが、八塚古墳ではなくて矢塚古墳である。これも先に紹介した63頁に載せられている図である。

ちなみに次にその63頁の全体を載せておく。




(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史の謎)(11)

2022-07-18 00:00:00 | Weblog

ここに卑弥呼がいた

しかし平成21年、ついに大型建物跡が見つかった。箸墓古墳から約700メートル北で、3世紀前半の大型建物跡など3棟が並んだ状態で確認された。卑弥呼は2世紀末に女王となり、248年ごろ死去したとされ、時期もぴったり。大型建物跡は南北19メートル、東西12メートルで、吉野ケ里遺跡の大型建物跡より一回り大きいことも、纒向説を勢いづけた。

「卑弥呼は、この宮殿にいたといっていい」。石野さんはこのとき初めて、纒向遺跡と邪馬台国を結び付けることに確信をもったという。

さらに研究者を驚かせたのが、大型建物跡などが東西方向に一直線に並んでいたことだった。これまで方位をそろえた大型建物群は、飛鳥時代(7世紀)以前にはほとんど確認されていなかった。

纒向遺跡から出土した桃の種。手前は実がついた状態のもの=平成22年、奈良県桜井市

方位を正確に知るには、太陽や星の位置を測定する天文の知識が欠かせない。天文学は中国からもたらされ、纒向の人々は中国から最先端の知識や技術を取り入れて宮殿を築いたことが明らかになった。

巾着の発見「中に金印は…」

邪馬台国論争の決定的な物証は、卑弥呼が中国皇帝から授かったという金印の発見だ。魏志倭人伝によると、卑弥呼は239年に中国に使者を送り、「親魏倭王」の称号と王の象徴である金印を授かったという。

この金印をめぐって、石野さんが一度だけ色めきだったことがある。平成3年、ひもで口を縛った3~4センチ大の絹の袋「巾着(きんちゃく)」が見つかった。

「角張ったもんは入ってないか」

思わず調査担当者に尋ねた。「金印の入った袋ではないかと」。しかし手に取ると柔らかく、X線撮影をしても金属製品は確認されなかった。中身は今も謎のままだ。

シルクロードの香り

同遺跡ではその後、約2700個もの桃の種、現在では香辛料に使われるバジル、染料のベニバナの花粉などが出土した。

バジルは薬などに使われたとみられ、花粉の形状から東南アジア産と推定。ベニバナはエジプトではミイラを巻いた布、中国では衣服の染料として使われたという。

桃は、古代中国で神聖な果物として珍重され、大量の桃の種の出土から、宮殿一帯に桃の木が植えられた可能性が浮上。神や仙人が暮らす神聖な地「桃源郷」を思わせる宮殿だったことが、発掘で浮かび上がった。




寺沢薫・桜井市纒向学研究センター所長(70)は「バジルやベニバナなど、もとは西域にあったものがシルクロードを通じて中国大陸に伝わり、海を越えて纒向にもたらされた。日本列島にとどまらず、世界的なスケールをもつ遺跡だ」と強調。「今から1800年近く前、すでに卑弥呼の政権は纒向の地を都とし、積極的に中国王朝と外交し、文物を取り入れた」と話した。(小畑三秋)



纒向遺跡 日本書紀などで神の宿る山とされる三輪山(みわやま)の麓に、東西2キロ、南北1・5キロの範囲に広がる。3世紀に突然出現し、4世紀初めまで大規模な都市だったとされる。これまで200回を超える発掘が行われたが、小規模な調査が多く、まだ全体の数%にとどまる。

https://www.sankei.com/article/20211027-NY43JQ35SNMVPBOUUBNL57Q2FQ/


次にこの論考の冒頭の文言を次に掲げる。

邪馬台国(やまたいこく)の時代にあたる3世紀後半に築造された箸墓古墳(奈良県桜井市、墳丘長約280メートル)。当時としては最大規模の前方後円墳で、この被葬者が倭国(1)(日本列島)を統治した「大王」とされる。この大王の都が、すぐ北側に広がる纒向(まきむく)遺跡(同市)で、邪馬台国の有力候補地(2)。平成21年に見つかった大型建物跡は「卑弥呼(3)の宮殿か」と話題を集め、畿内説(3)が勢いづいた。昭和46年に始まった同遺跡の発掘は今年でちょうど50年。長年の調査の蓄積が、古代史最大の謎解明へカギを握る。

上記の下線部分が間違い部分である。間違いは間違いでも「大いなる間違い」なのである。
(続く)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする