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世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

岡田武史監督に物申す。

2008-02-27 13:24:48 | Weblog

2008年2月24日の重慶での日本女子サッカーチームの戦い方は、見事でした。見ていて気持ちの良いものでした。

あきらめずに最後まで走る、ボールを持った中国選手にはきちんと接触してボールをとろうとする、ここぞの時は全員が駆け上がる、そして物惜しみせずディフェンスに全力で走り返る。見ていて後半にはバテないかと心配したほど、日本女子はよく走っていた。

なでしこジャパンの監督は、佐々木則夫(49歳)。大宮アルディージャとその前身のNTT関東サッカー部でもプレイ。1997年からはその大宮アルディージャの監督を務め、大宮アルディージャの強化・育成に貢献した。

そして2008年1月からは前監督大橋浩司のあとを受け、日本女子サッカー代表監督に就任する。緒戦の東アジアサッカー選手権2008の中国、重慶では三連勝して日本女子に初のタイトルをもたらす。

監督としての佐々木則夫となでしこジャパンの関係は、わずか3週間と言うが、前任の大橋監督時代はその副官として腕を振るっていたので、大橋、佐々木の両監督がこのタイトルをもたらしたものとは言える。しかしそう言っても、佐々木監督の手腕、見事でした。

何はともあれ、なでしこ達は良く走った。オシムの言う通りだ。

これに対して全く走らなかったのが、2月23日の男子サッカー韓国戦だ。いったいあれは何だ、サッカーではない、単なる玉ころがしではないか?

走らない、相手に対して削りに行かない、ボールを追わない、離れて見ている。これではサッカーにはならない。2月20日の対中国戦。ラグビーのようなラフプレーや殴り返したいほどの偏向ジャッジの中、日本選手はガッツを失っていなかった、と思う。

この中国戦を見ていた日本人全員が、怒りに震えていたと思う。事実、監督の岡田もその度に飛び出しては腕を振り上げ、吼えていたではないか。無理もない。こんなことで、かわいい選手に怪我をさせられてはどうしようもないし、日本チームへの侮辱だ。

サッカーをはじめスポーツは、一定のルールの下で、更に公正・公平なジャッジのもとに成り立っているものである。

見ていて当然抗議すべきであると感じていた。日本サッカー協会の川淵会長が真っ先に「我慢ならない」と強い不満を表明し、抗議する旨の表明をした。それを聞いて我々はほっとしたものだ。当然、岡田も監督として、サッカーを戦う者として、強行に抗議するものと思っていた。

しかしその反応は意外なもので、その正反対の対応であった。
「私の仕事とは関係ないので協会にお任せすることにした」と話し、この問題からは距離を置いている。一体全体、岡田のこの態度は、何だ。
双方が絶対に守らなければならない「ルール」の下で、しかも公明正大な「ジャッジ」が有ってこそ、スポーツの試合は成り立つ。


監督たるものは、ルールの遵守とジャッジの正確さを成り立たせる推進者ではないか。
そしてその下で選手を強化・育成し、戦わせるものではないか。それがスポーツと言うものだ。


「私の仕事とは関係ないので協会にお任せすることにした」とは、監督の権利と義務を放棄したものに等しい。
完全なルールの遵守と全うなジャッジメントの確立を目指してこそ、スポーツを戦う監督と言うものだ。それでこそ選手も心置きなく戦える。


そうでなくては、そのルールとジャッジを信じて戦う選手がかわいそうだ。岡田は、彼等日本の選手を見放していることになる。これでは激戦を戦えない。
ひょっとしたらワールドカップには、日本チームは出場できないかもしれない、と危惧する。


案の定、韓国戦では、誰も真剣に走らなかった。これでは勝てない。監督がこのような考え方や態度を示せば、選手達は鼓舞されない。監督のこの雰囲気は選手達にすばやく伝染する。そして選手たちは走らなくなる。

このことを岡田は、「前半はまだまだ詰めが甘く、また守備でも甘さがあって失点してしまった。」と選手の所為(せい)にしているが、これは岡田監督の持つ甘さが原因だとは気付いていないようだ。

更に、「韓国のがむしゃらさには、そんなに簡単には勝てない。ハーフタイムに選手達に少し言いました。」などと人事のように言っている。

日ごろの身も心も頭にも厳しい態度があれば、こんなことは言わなくても選手達には通ずるはずだ。日本サッカー協会も、岡田に甘えてはいないか、また、甘やかしてはいないか。

人間として、否、日本に住む人間としての「ひたむきさ」が発揮されれば、目標に向かう真摯なパッションがほとばしる筈だ。それが周りの人間にも伝播する。言葉を変えれば、それがリーダーシップと言うものだ。

近頃は理性的で薄っぺらな、一見格好よさそうな人間が多すぎる。良くない。

これでは「加茂周」と同じ轍を踏むことになる、のではないかと危惧する。

(終わり)
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中国・虚妄のプロパガンダ(8/8)

2008-02-20 22:27:34 | Weblog

(2) すべて中国が捏造した話

 この話が余りにもむごたらしいので、日本国民は大きな衝撃を受け、ここから南京大虐殺を含む、日本軍の残虐行為と言うものが世の中に広まったのである。
しかし多くの疑問があったにも拘わらず「証言者の話をそのまま書き続け」た。検証や調査は、何もしていなかったのだ。

『中国の旅』に次のような一文がある。


「永利亜化学工場では、日本軍の強制連行に反対した労働者が、その場で腹をたち割られ、心臓と肝臓を抜き取られた。日本兵はあとで煮て食ったと言う。」

 これは前章で紹介したものと全く同じ内容だと思いませんか。この筆者上田氏も、「これは中国人の考えたことだとすぐわかった。人間の内臓を食べることなど、日本人の感覚では有り得ないが、中国人には普通の話だからである。」と言っている。


 まさにその通りである。中国人の文化だから考えられることなのである。中国はこの半年間の期間で、こんなことを準備していたのである。まさに本多も朝日も、「飛んで火に入る夏の虫」であることに気が付いていなかったし、気が付こうともしなかった。

全くの間抜けと言うよりも、朝日も本多も非国民なのである。


更に信じられないような話が載っている。

 南京の取材で次のようなことも書いている。「日本兵に見つかった婦女子は片端から強姦を受け……。強姦のあと腹を切り開いた写真。やはりそのあと局部に棒を突きたてた写真……。」
日本人は大きな衝撃を受け、…憤慨したわけであるが、私はこれもすぐに中国人の嘘だとわかった、と書いている。

 この表現は、4章で紹介した日本人が強姦され虐殺された「済南事件」の状況そのものなのである。


(3) 残虐な殺し方は中国のやり方

 中国の旅は更に続くが、「中国の旅」に書かれている残虐な殺し方は、まさに中国のやり方だと上田氏は言っている。

 国民党の中国人が台湾人を虐殺したやり方がまさにそれ、と言っている。「国民党の中国人が大挙して台湾に逃れてきた。そして多くの台湾人を虐殺した。そのやり方が本多記者が『中国の旅』に書いた、日本軍が中国人を殺したと言う残虐なやり方そのままなのである。」

 中国人達は半年の準備期間の間に、自分たちの文化の中で、自分たちの残虐な殺し方を日本軍がやったと、表現するしかなかったのである。台北の二二八和平公園にある二二八記念館に行けば、惨(むご)たらしい殺され方をした台湾人の写真を見ることが出来ると言う。1947年2月28日に虐殺が起きたので、それを二二八事件と呼んでいる、と言う。


(4)「中国の旅」は嘘だらけ

 日中戦争当時の中国は匪賊(山賊・強盗の類)や軍閥が暴れまわっていた時代。彼等に一般の住民は酷(ひど)い目にあっていた。それらの匪賊の行為を、「中国の旅」ではすべて日本軍の行為にしてしまった。

 朝日新聞と本多記者は、「七人の侍」の野武士の集団である中国人の残虐行為を、何の検証もせずに言われるままに記事にして広めてしまった。これは、まさに反逆的行為である。いや、日本に対する反逆そのものである。殺しても殺しきれないほどの罪がある。

 嘘だとはっきりした以上は、すべてを取り消し、日本国民に土下座して謝罪するのが最低限の義務である、と言っている。


 南京攻略後の1937(S12)年12月16日と17日の2日間、捕虜収容所が火事になっている。そのとき捕虜が逃げたしかなりの数の捕虜が揚子江岸で銃殺されている。1990年9月19日、朝日新聞はこの数を14,777人と報じている。しかしこの数字は南京陥落直後の12月17日の朝日が、歩兵第六十五連隊が捕虜にした数として伝えたものである。仮にこの約15,000人が死んだとしても、ただそれだけである。

 30万人の大虐殺があったことにはならない。朝日新聞が、1971年に中国によるこれらの捏造記事をばら撒いてから、南京大虐殺30万人と言う嘘が世の中に広まったのである。


 もし本当に南京大虐殺30万人があったとしたら、それは赤飯を炊いて喜ぶべき事件としても良い。それだけこの世から、チンコロ中国人が居なくなったことだからである。しかし残念ながら南京大虐殺は、この世には存在しなかったのである。

虐殺された在留邦人の皆様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。

(終わり)
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中国・虚妄のプロパガンダ(7/8)

2008-02-19 02:39:58 | Weblog

(1)時は鎌倉時代中期。大雪の中、一人の旅の僧が上野の国佐野(群馬県高崎市付近)に差し掛かる。余りの大雪のため、とあるあばら家に一夜の宿を頼む。

(2)あばら家の主人は、その日の薪にも事欠く貧しくみすぼらしい家のため、一旦は断り代わりの宿を教える。しかし雪を打ち払い立ち去る旅の僧の影に、

「駒とめて 袖打ち払う 影もなし 佐渡の渡りの 雪の夕暮れ」

と古歌を口すさんだかどうかは知らないが、旅の僧を呼び戻しあばら家へ招き入れる。


(3)主人の妻は、粟粥を振舞うが、暖をとる薪もなく夜はしんしんと冷え込んでゆく。

(4)寒さに震える旅の僧を見かねたあばら家の主人、佐野源左衛門常世は自身が丹精を籠めて育てた梅、桜、松の鉢の木(盆栽)を伐って、囲炉裏に入れ火を起こす。そして暖を提供する。


(5)旅の僧は篤(あつ)い常世(つねよ)のこの行為に感動し、主人の名を尋ね常世の身の境遇を問いただす。

(6)常世は、付近の佐野庄近辺を支配する豪族だったが、一族の悪巧みに領地を奪われてしまったこと、鎌倉幕府の御家人として「鎌倉」に一大事があれば、直ちに馳せ参ずるつもりと、その決意を語る。

「いざ鎌倉」とは江戸時代に起こった言葉だが、ここに起源する言葉なのである。


(7)翌朝旅の僧は、「もし鎌倉に来ることがあれば、是非立ち寄ってくれ。何らかのお役に立てよう。」と言って、あばら家を去ってゆく。

(8)やがて時は移り、鎌倉から緊急の動員令が発せられる。佐野常世も綻(ほころ)びた鎧と錆びた刀を身に着け、やせ馬にまたがり、やっとの思いで鎌倉にたどり着く。

(9)すると常世は幕府に召し出されて、御前に進み出る。するとそこには過日の旅の僧に似た殿様がいる。そして、その殿様こそ、実は前執権、現在最高の実力者の「北条時頼」その人だった。

(10)時頼は佐野常世が先の言葉に違わず馳せ参じた事をほめ、直ちに奪われた佐野庄三十余郷を返し与え、更に、薪にされた梅、桜、松の鉢の木に因んで、加賀国・梅田庄、越中国・桜井庄、上野国・松井田庄の三つの庄園を恩賞として与えたのであった。

佐野源左衛門常世は、大喜びで故郷に錦を飾ることが出来たのであった。


ここで現実に戻ってもらうが、日本ではこのように、感動すべき話になっている。人肉を食わされる中国の残虐極まりないものとは、根本的に異なる。

政府も、このような感動的な話は、どんどん教科書に載せて教育現場で使ってほしいものだ。そして、チンコロ中国の「南京大虐殺記念館」の究極の間違いも教科書に載せて、時代を背負う日本の若人に教えるべきと思う。

8.南京の捏造を広めた「朝日新聞」

南京大虐殺記念館の虚構は、これでお分かり戴けた事と思うが、なぜこれ程までにこの虚構が広められたのであろうか。

これも先に紹介した、WiLLの3月号の上田真弓氏の「朝日新聞は 南京大虐殺30万人 を訂正・謝罪せよ」を引用市ながら、その理由を説明してみよう。

世の中に南京大虐殺の虚構を広めたのは、あの「朝日新聞」だと言う。しかしこの朝日は、中国で新記念館がリニューアルオーブンした2日後、社説でこのことを取り上げ人を食ったようなことを言っている、と言う。

「30万と言う数字は専門家に任せて……。両国の政治にとって今大事なのは、この事件を日中間の障害とせず、和解に向けて手立てを講じていくことだ。」などと人事のようなことを言っていると言う。

てめいが自分で作っておいて、何を言っているのか。すぐにあれは間違いで、真っ赤な嘘だったとなぜ言わないのか。

(1) 朝日新聞・本多勝一記者

1971年、朝日の本多勝一記者は、世界と交流を断っていた中国に「日本軍の残虐行為を取材させてくれ」と入国を申請した。半年後に特別に入国を許可され、朝日新聞に書いた記事が、「中国の旅」と言うものであった。
当時の中国は文化大革命の嵐が吹き荒れており、二千万人近くが殺されていたのだが、外の人達には何が起きているのかわからなかった。


中国側の半年間の準備がようやく整い、本多記者は中国に乗り込む。そこで中国はてぐすねをひいて待ち構えていた。
中国共産党が用意していたシチュエーションで、用意された人達の話を一方的に聞かされた。本多はそれをそのまま朝日新聞に連載したと言う。


(続く)
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中国・虚妄のプロパガンダ(6/8)

2008-02-17 22:43:29 | Weblog

7.まさに、人を食う国・中国

中国の古典の「三国志」には、劉備玄徳が”人肉を食らう”話が出てくると言う。
これもWiLLの3月号の上田真弓氏の「朝日新聞は 南京大虐殺30万人 を訂正・謝罪せよ」に出てくる話である。それを引用させてもらうと、次のようだ。


[戦いに負けた劉備玄徳が部下の孫乾等と落ち延び、猟師の劉安の家に泊めてもらう。--その晩、劉安は肉を煮て玄徳に饗した。玄徳らは喜んで食した。その肉は「狼の肉」と言うことだった。翌朝孫乾が馬を引き出そうとして、何気なく厨(くりや)をのぞくと、女の死骸があった。愕いて主(あるじ)にたずねると、劉安は泣いて打ち明けた。

『私の愛妻ですが、ご覧のごとく、家貧しく殿へ饗すべき物もありませんので、実は、妻の肉を煮ておもてなしに捧げたわけでございます』と初めて打ち明けた----- 。]



さすがに、吉川英治も、人肉を食う話は日本人には理解できないだろうと、注釈をつけていると言う。

[劉安が妻の肉を煮て玄徳に饗したという項は、日本人のもつ古来の情愛や道徳ではそのまま理解しにくいことである。我々の情美感や潔癖は、不快をさえ覚える話である。……原書は劉安の行為を、非常な美挙として扱っているのである。そこに中古支那の道義感や民情もうかがわれるし、そういう彼我の相違を読み知ることも、三国志のもつ一つの意義でもあるので、あえて原書のままにしておいた。]

 日本では、丹精を籠めて育てた盆栽を薪にして、暖を与えると言う話がある。まことに情の細かい話で感激することしきりであるが、中国になるとまことに残虐な話となるものである。

中国人の異常さがお分かりになったことと思うが、人肉を食らう話はまだある。
中国人の作家、魯迅の短編小説「狂人日記」にも書かれているという。


[父母が病気になったら、子たるものは自分の肉を一片切り取って、よく煮て父母に食わせなくては、りっぱな人間ではない。]

岩波文庫は、[人肉が薬用になるという俗信をもとにして古来孝の模範行為とされた]と解説している、と言う。


その他にも、「狂人日記」には「人肉を食らう」話を紹介している。

・人肉を薬とする話
・籠城戦で食べ物がなくなり、お互い相手の子供の肉を食う話
・人肉を食べたいと言う王のために、自分の子供を料理して出した料理人の話

など、昔から中国に伝わる話を紹介している。


 南京大虐殺記念館には、「日本軍に強姦された後、腹を割かれて死んだ女性」などと残虐性をあおる写真が展示されていると先に紹介したが、これなどは、まさに中国人の文化そのものであり、中国人が実際に行っていたからこそ表現できる内容だと、合点がゆく。

日本人はこんな残虐なことはしない。これは日頃から中国人がやっていることなので、こんな表現が出来るのである。


 実際にこのようにして、多くの日本人が殺されている。先に紹介した「南京事件」「済南事件」「通州事件」「尼港事件」を見れば、明らかである。

「中国人による在留邦人大虐殺・追悼記念館」は、是非とも建設する必要がある。

そして中国では人肉を食わされるが、日本では盆栽で身を温められる、と紹介すればよい。


これは室町時代に出来た、観阿弥清次か世阿弥元清の作と言われている、謡曲「鉢の木」の物語である。かい摘んで内容を説明すると、

(続く)
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中国・虚妄のプロパガンダ(5/8)

2008-02-16 13:12:41 | Weblog
5.欺瞞の展示写真

 まだある。偽写真の展示である。このSAPIOには、「煙草を吸う中国人兵士の生首写真」、「日本軍兵士による斬首写真」。前者は撮影者も撮影場所も判明せず、日本人がやったと言う証拠もないのだ。後者は人物の影が一方向ではなく、兵士の服装が日本軍のものではありえないものであり、合成写真で信憑性は全くない。

 これらのことは、東中野修道氏の「南京事件証拠写真を検証する」(草思社、1,575円)や「南京事件、国民党極秘文書から読み解く」(草思社、1,400円)に詳しく述べられている。

 更に「百人斬り」の東京日日新聞(現毎日新聞)の切り抜き記事のパネルも、旧館から引き続き展示されている。この百人斬りは戦意高揚のための「フィクション」だったことが明らかになっているものである。

東京日日新聞に掲載された記事は次の通り。


第一報--昭和12年('37)11月30日付け朝刊
第二報--昭和12年('37)12月4日付け朝刊
第三報--昭和12年('37)12月6日付け朝刊
第4報--昭和12年('37)12月13日付け朝刊


 いずれも浅海一男氏の署名が入っていると言う。しかも彼はこの百人斬りの南京軍事裁判では、なんら役に立つ証言をしなかったと言う。彼も朝日の本多勝一記者と同じ穴のむじなだったようだ。

 その結果、昭和12年に、南京攻略戦に参加した「野田毅少尉」と「向井敏明少尉」の2人の立派な日本人を、南京郊外の雨花台刑場の露と消えさせてしまった。銃殺刑であった。時に、昭和23年(1948年)1月28日のことである。

 なお、向井敏明少尉殿には二人の娘さん(エミコ、千恵子)がおり、向井少尉と野田少尉の名誉を回復するための「百人斬り訴訟」の裁判が行われ、「必ずしも嘘だとは断定できない」と言う判決が下ったやに聞いている。
全く馬鹿な話だ。裁判官にもコミンテルンの毒牙が及んでいる、と言うことなのか。


6.中国共産党の抗日路線。

 この記念館には、新たに「慰安婦制度」のコーナーが新設されたと言う。そして人だかりがしていると言う。このSAPIOでは、「これまで韓国との歴史問題だった慰安婦が、今後、中国の新たな対日カードになる危険性もある。」と言っている。米国の下院で非難決議が採択され、オランダ、韓国、カナダ、欧州議会でも決議されている。これに中国も加わり、「慰安婦対日包囲網」を作り上げる恐れがある。

 なぜこれほどまでに、チンコロ中国は日本を蔑(さげす)むのか。その理由は明らかである。全世界での日本の評判を貶(おとし)めて、中国の日本への侵略を正当化させることである。正当化させなくとも、中国が日本に攻め入った時の非難の強さを弱めさせるための下準備なのである。そのための置石が、リニューアルオープンさせた新南京大虐殺記念館なのである。解説文は、中日英の三ヶ国語で表記されていると言う。明らかに、北京オリンピックでの欧米観光客目当ての魂胆が見える。

尖閣列島を、日本は本気で守る手立てを、今から準備しておかなければならない。


 慰安婦問題についても、当ブログの'07/7/29~8/2を参照願いたい。この非難決議が、全くの間違いであることが証明されている。

そして、このSAPIOは、次のように結んでいる。


『表向きは「和平路線」が演出されていても、新刊の展示物は自己批判の精神がなく、一方的に日本を断罪する歴史観 に貫かれている。

相変わらずの中国共産党の「抗日路線」だ。これに対し日本政府は毅然とした対応がとられるのか。

2008年は北京五輪で世界の政府要人や多くの観光客が中国を訪れる。こんなウソで塗り固められた虐殺記念館を世界の人々が詣でる自体を日本政府は黙認してはならない。

 福田のオタンコナスには出来ない相談か。福田は、もっとしっかり中国の現状と日本人の怒りを直視しなければならない。

(続く)
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中国・虚妄のプロパガンダ(4/8)

2008-02-15 00:33:12 | Weblog
4.「強姦2万人」と言う虚構。(中国人による日本人大虐殺事件)

 新館での解説文には、「毎日起こった強姦暴行は数百件ないし1,000件にものぼった」と書かれ、残虐さをあおる写真まである。「日本軍に強姦された後、腹を割かれて死んだ女性」などと残虐性をあおる写真だと言う。

 こんな発想をしたり、発想が出来ると言うのは、まさに中国の文化なのである。日本人にはこんな発想は、到底出来ない。チンコロ中国は、発想どころか、平気でこういう事が実行出来るの民族なのだ。当時頻繁に、中国在留邦人は中国人による虐殺に会っている。

 2006年6月号の「正論」に載った水間政憲氏の「遺棄化学兵器は中国に引き渡されていた、残っていた兵器引継書」に記載されている。

 昭和2年に起こった「南京事件」、引用させてもらう。
『在留邦人は全員暴行、略奪を受け、あるものは殺害された。そして、領事婦人は数十人で輪姦され、避難していた三十数名の婦女は少女にいたるまで陵辱された。』


 これだけではない。昭和3年5月の「済南事件」。これまた引用させてもらう。
『…邦人に対して残虐の手を加え、その老荘男女16人が惨死体となって現われたのである。予は病院に於いて偶然その死体を実見したのであるが、酸鼻の極みだった。手足を縛し、手斧様のもので頭部、面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。あるものは焼かれ半ば骸骨となっていた。焼け残りの白足袋で日本婦人たることがわかったような始末である。』

 まだ続く。昭和12年7月29日に暴発した「通州事件」だ。中国保安隊と暴民が、略奪、暴行のあげく婦女子を含む日本人二百数十名を済南事件と同じように大虐殺している。

この通州大虐殺事件は、当ブログの'07/5にも掲載されているので参照願う。

 虐殺された在留邦人の皆様のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。また我々日本人は、この屈辱を永遠に忘れてはならない。これこそ、「中国人による在留邦人大虐殺・追悼記念館」を建立して、北京オリンピックや上海万博で、全世界に中国人の残虐性をPRしなければならないものである。そうでないと虐殺された在留邦人の皆様は浮かばれないし、中国による日本包囲網に、ますます落とし籠められてしまう。

戦略的互恵関係とは、チンコロ中国にとってはこのようなことなのである。我々日本人は騙されてはいけない。

 南京市の難民区(安全地帯)には反日的な欧米人達が二十数名残留していた。彼らは、国際委員会を結成し、その委員長にドイツ人ジーメンス社の南京支社長「ジョン・ラーベ」が就任する。ジョン・ラーベは蒋介石と結託し、中国軍将兵を匿うなどスパイ行為などの国際法に違反する行為を行い、日本軍に対抗した。これは蒋介石による対日工作の一環であったのだが、そのラーベは宣伝のため上海のドイツ総領事に嘘の報告書を送った。

 その報告書には「部隊は占領後数週間にわたり、市街を略奪し、約2万の婦女子を犯し」と記されている。これが東京裁判に提出されたことで、日本軍による強姦が一人歩きすることとなる。しかしこれは伝聞証拠に基づくもので根拠のない数字であることが証明されている。

この南京大虐殺の虚構も当ブログの'07/6/6に掲載されているので、参照願う

 数週間で「2万人」の婦女子を強姦するとすれば、安全地帯の警備と掃討を担当した金沢歩兵第7連隊の約3,500人の兵士一人ひとりが、毎日ほぼ一人の婦女子を強姦して、6週間ほど経過する。全くもって荒唐無稽な話である。虐殺文化の中国だから発想できた虚構なのである。

 前にも述べた日本軍の7項目の厳命にもあるように、こんなことは起こりようがない。中国軍なら話は別である。先の「南京事件」「済南事件」「通州事件」は中国の虐殺文化から起こるべくして起きたものである。

 実は中国の絡んだ虐殺事件はまだあるのである。1920年3月に、ロシアと中国の共産パルチザンが尼港(ニコライエフスク港)で日本陸軍守備隊と日本居留民、約700名を虐殺している。このためシベリア出兵が延期されている。世に言う「尼港事件」である。

 毒餃子を輸出するチンコロ中国のことである、毒を混ぜることなど朝飯前にやりかねない。
 
 中国国内でも、「メタミドホス」による中毒事件が頻繁に起きている。

'08.02.08のMSN産経ニュースによると、(http://sankei.jp.msn.com/world/china/080208/chn0802080912001-nl.htm)
・'03/12月、湖南省衡陽市の学校で学生67人が朝食後、中毒症状になった。食堂職員が、上司との口論の腹いせに、麺のスープにメタミドホスを入れたことが判明した。

・'06/6月、きょう西省安康市の農村で「馬鹿にされた」と思った村の女が井戸にメタミドホスを投げ込み、井戸水を飲んだ21人が中毒になった。

・'07/7月、北京市で、家庭内暴力に手を焼いた老夫婦が、息子にジクロルボスを酒に混入させ、中毒症状で倒れたところを首を絞め殺している。
まだある。


・'07/10月には上海市で、浮気を疑った妻が、心中しようと夕飯にジクロルボスを混入させたが失敗。今年2月に懲役2年の判決を受けている。

(続く)
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中国・虚妄のプロパガンダ(3/8)

2008-02-12 00:19:34 | Weblog

★7項目とは
 難民区(安全地帯)に入った部隊には7つの厳命が下されており、非常に秩序立てて難民区の管理は行われていた。
その7項目とは、http://nonbe.way-nifty.com/blog/2007/12/post_2ae8.htmlによれば、


1.外国権益に留意
2.住民に対し配慮
3.失火や放火には厳重注意
4.将校の指揮下で敗残兵掃討作戦を実行(下士官の指揮ではだめ)
5.無用の部隊侵入は厳禁(富山・金沢の部隊のみ)
6.出発の帰還の時間厳守(夕刻には戻る)
7.捕虜は一カ所に集め、食料は師団に請求


そのため、

・安全地帯の人口は占領前後で20万人で変化なし。
・日本軍が入場後治安が回復し、商売を始める者も出る。下記(7)項参照。
そのため現地調達がうまくゆき、食料事情は良好だった。
・徴発にも原則がありしっかり守られていた。
 (1)司令部の見える範囲で徴発
 (2)住民の居るところでは1/3以内で受取伝票(半券)と費用の支払い
 (3)住民の居ないところでは外にあるものの内1/2以内、その場合受取伝票の   半券を貼付する。住民は後で日本軍に費用を請求。
・以上のように、日本軍に対する住民感情はまことに良好で、日本軍による一切の 虐殺や略奪は見聞されていないのである。



(7) 金沢第9師団歩兵第18旅団第36連隊・伍長、近藤平太夫氏(93)

1937年(昭和12年)12年20日前後の事を次のように語る。
「中国人はあまり見かけなかったが、公園には露店が何軒か出ていて、日本兵相手の商売をしていました。靴修理店、散髪屋…。一軒の印鑑屋で、南京入城記念の印鑑を作れと進められ、水牛の角の印鑑を注文した。…翌日たった私一人で取りに行きました。」と平和なものだったと言う。

(8) 京都第16師団輜重兵第16連隊・獣医少尉、稲垣清氏(97)

稲垣氏も水牛の角で印鑑を作っている。そして、中島師団長の日記について述べている。

「…日記は全部反対に解釈されとるように思えますわ。…捕虜収容所もあり、監視を命じられましたが、夜には何人か逃げたりもしとりましたわ。上層部も逃げたいなら逃がしてやればええ、と言う考えでそうしとったんだと思ってましたな」と言い、更には

「陥落の3日後に中山門から入城したとき8ミリで撮影したのですが、住民は一人も見当たりません。駐屯してから、城内の野戦倉庫と揚子江方面の下関の野戦倉庫の間を、10キロくらいありますが5往復しております。その際、私どもつぶさに見たのでありますが、中国兵の死体は一人も見ておりません。それから、南京大虐殺記念館で発行したアルバムに収録されている地図に、(虐殺者数が)ここで何万、ここで何万と書かれてございます。その場所に私は、軍に用意されたBMWのサイドカーに乗って行っておりますが、まるきり綺麗なもんでございまして、死体があった痕跡も、ひとつも見ておりません。」
と述べている。

(9)以上の証言からすると、「南京大虐殺」などと言うものはもともとこの世には存在しないもので、「中国の虚妄のプロパガンダ」そのものである。

マントヒヒ胡錦濤の微笑外交は全くの欺瞞であることがわかる。
政治ジャーナリストの花岡信昭氏の感想としてここに述べられている文を引用する。

「参戦した方々の証言によって、30万と言う数字が中国政府のプロパガンダであることが明らかになりました。中でも画期的だったのは、南京入場に際に人っ子一人居なかった、と言う証言です。南京には難民区があり、そこ以外には人が居なかったのです。また、日本軍の入場後数日で露店が立ち並んだと言う話です。
そんな状況下で虐殺が起こりうるものでしょうか。

 以上で、虐殺30万人は、全くの嘘だとお解りいただいたと思いますが、このSAPIOでは、チンコロ中国はこの記念館で、日本兵による「強姦」についても解説している、と言う。
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中国・虚妄のプロパガンダ(2/8)

2008-02-09 02:35:13 | Weblog
3.なぜ「30万人」が嘘なのか。
(一つの理由)
 当時の南京市の人口は20万人だと言う。南京市と言うのは城壁に囲まれており、この城内地域のことを言うらしいが、当時の王固磐・警察庁長官がこの中には「20万人」が住んでいる、と明かしている。従って20万人しか居ないのに、なぜ30万人も殺せるのかはおのずと不可能であることがわかる。もちろん、その20万人も簡単には殺せない。

 しかし最近チンコロ中国は「周辺も含めると70万人がいた」と言い出したらしい。馬鹿も休み休み言ってほしいものだ。次でも述べているが、南京周辺は国民党軍による焦土作戦で全くの廃墟となっており、全く人影はなかったのである。

 また、30万と言う数字は膨大である。たとえば大津市、前橋市、青森市、高知市などの都市が人口30万の都市であり、多くの県庁所在地が含まれる。いわば、これら中核都市の住人がまるごと殺戮されるのに匹敵する。もしそうとしたらまさに地獄絵である。

 ちなみに1945年3月10日に米軍が行った東京大空襲では、死者数10万人、同じく米・英国が行った悪名高いドレスデン空爆でも公式死者数は3万5千人と言われている。

(二つの理由)
 週刊新潮12月20日号の「虐殺はなかった!兵士9人が見た南京陥落」を引用しながら説明しよう。

 2007年12月6日、東京九段会館で「参戦兵士の語る南京事件の真実」と言うフォーラムが開かれた。
・主催「南京事件の真実を検証する会」、事務局長 藤岡信勝拓殖大学教授

・趣旨「実際に参戦した兵士の方々に、当時の体験を語って頂き、南京大虐殺を宣伝する映画に対抗する。」

・内容「9人の元兵士の話を基に当時の南京の様子を再現する。」

以下、整理して彼らの証言を記載してみよう。

(1) 熊本第6師団歩兵第11旅団歩兵第13連隊・上等兵、永田尚武氏(92才)-文書で証言

「12月5日から10日、雨花台(南京城の南)までの道のりは楽なものでした。各隊ともワイワイ言いながら進み、敵前の戦闘もなく、中国住民ともほとんど会いませんとでした。……住民は逃げていませんでしたので、トラブルはありませんでした。雨花台からは激戦で苦労しました。……」

(2) 同連隊第1大隊・伍長、古沢智氏(91)-文書で証言。

「…雨花台街は全くの廃墟で、清野作戦(焦土作戦)の影響で何もありませんでした。 12日深夜から13日早朝にかけて、敵は城門を閉めて逃亡した。……城門内で日本兵の攻撃を食い止める使命を帯びた中国兵は取り残され、哀れにも我々の銃火に殺されました。」

(3) 金沢第9師団歩兵第18旅団司令部・軍曹、齋藤敏胤氏(91)

光華門突入の激戦について、直接語る。
「(12日の)午後5時ごろ、連隊長が突入を命じましたが、…二重の門内に閉じ込められ…反撃したが負傷者が続出…大隊長の”名誉の戦死”を経て、13日朝突入、夕刻ようやく占領に至った。」

(4) 熊本第6師団歩兵第11旅団歩兵第13連隊第1大隊・伍長、古沢智氏(91)(前出)

「中華門から入りましたが、門は四重になっていて、土嚢が積まれていたのですが……。大きな通りを北上して進んでいきました。城内はガランとして、人影はありませんでした」

--どうやら、市民は難民区に集まっていたのだ。そこは一般市民を保護するための区域で、同時に多くの敗残兵や、平服に身を隠した便衣兵が潜んでいた。日本軍は敗残兵を掃討する名目で、この難民区の市民を多数殺した、と中国側は主張するが、

(5) 金沢第9師団歩兵第18旅団司令部・軍曹、齋藤敏胤氏(91)(前出)

「12月20日前後、連隊長が…南京城内を見学され、難民区の前に行きまして、小姓に”入れろ”といってのですが、”許可のない方は入れません”と言われ、そのままお帰りになりました。」
「20日ごろ、紫金山に入り…、南京を見ますと、銃声も聞こえない、火災も起きていない、本当に平和な町でございました。」

--ただし、当然ながら敗残兵の掃討は行われた。

(6)金沢第9師団歩兵第6旅団歩兵第7連隊・伍長、喜多留治氏(89)

「難民区の掃討は14,15,16日の3日間でございますが、7項目★にわたって厳重な注意厳命がございまして、外国権益の留意、……、将校の指揮する掃討でなければ認めない…」と言うように非常に秩序だって行われ、更に

「滞在期間中、一発の銃声もなかった。聞きもせず、撃ちもしませんでした。」と言うものだった。

(続く)
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中国・虚妄のプロパガンダ(1/8)

2008-02-08 01:00:43 | Weblog
1.世界で最も残虐な民族・中国

 中国製冷凍餃子に、有機リン系農薬成分の「メタミドホス」が入っていた事件で、関係機関もマスコミも国民もてんてこ舞いである。この薬物中毒事件では、農薬の原液をぶっ掛けたと思われるほどの濃度で、該当餃子を食べた10人が命を落としそうになった。また、2月5日には、「ジクロルボス」と言う別の農薬が掛けられたと見られる餃子も見つかっている。

 舞台となった天洋食品では、不満分子が製造工程に隠して持ち込み、その原液をぶちまけたものに違いない。もしくは、日本に反感を持つ人物かもしれない。だとすれば、日本に対するテロ行為である。中国人は、よくこんなことが出来るものだ。中国とはなんとも残虐な国であることか。世界で最も残虐な人民であると言える。毛沢東は、その東征段階で、自国民を2,000万人も殺害しているし、古くから万人塚と言って、政権が変わる度に旧政権の人達をすべて虐殺(大粛清)していると言う歴史があり、それらを埋めた塚がよく発見されている。これは中国独自の「易姓革命」と言う文化なのだが、チンコロ中国共産党はこれをもって日本軍の虐殺の証拠としているが、これは間違いである。日本人や日本軍には、中国にあるような虐殺の文化は無い。

天命を革(あらた)めて、姓が易(か)わる」と言うことである。
事実中国の歴史は前政権(前王朝)の否定・打ち壊し、そして現政権(現王朝)の成立となるので、厳密には中国の歴史には日本のような継続性は無いと主張する者もいる。中華民国から中華人民共和国に変わった過程では、毛沢東による2,000万人の大粛清の上に成り立っている。


2.南京大虐殺記念館

 2007年12月13日、中国共産党は、丁度70年前に日本軍が南京を陥落させた日に合わせて、「南京大虐殺記念館」(侵華日軍南京大遇難同胞記念館)を、リニューアルオープンさせた。

 南京大虐殺は、既に虚構であることが、各種の学術研究で明らかになっている。しかしチンコロ中国は、自国の虐殺の文化知識でもって、日本軍が大虐殺を行ったと、この記念館で「虚妄のプロパガンダ」を行っている。その「虚妄」ぶりをSAPIOの1/23号の「犠牲者34万人を強弁する新南京大虐殺記念館・虚妄のプロパガンダ」よりかいつまんでお知らせしよう。

 旧記念館にも、にせものや間違った資料が堂々と展示されていたが、新展示館はそれにもまして「嘘っぱち」がまかり通っていると言う。その際たるものが、30万人虐殺の大PRだ。30万人は既に破綻した数字と言うことで、中国国内からも疑義が呈されていると言うのに、それを以前にもまして宣伝していると言う。「300000」と彫られたプレートが建物のあちこちに掛けられていると言う。しかも、中国語「遇難者」、英語「VICTIMS」、日本語「遭難者」と、三ヶ国語でその数字の説明が併記されている。

 それどころか、その数字を膨らませて、「34万人」虐殺と言う表現も散見されると言う。その根拠は、「集団虐殺・19万人、分散(個別)虐殺・15万人、合計・34万人」と言っている。この数字は、東京裁判に当時の「国民党政府」が提出した数字と言うが、この数字に根拠が無いことは日本人の歴史家の研究によって検証されている。南京事件研究家の阿羅健一氏は、「これらの根拠は、中国側の一方的な供述調書によるもので、嘘だと断定されている」と言う。

(続く)
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