6.追記・第3章(4)スリム中将の話について
この3章の引用元となった「私達の先人は大東亜戦争を戦ったのです」の大元の書籍、「世界から見た大東亜戦争」名越二荒之助(なごし ふたらのすけ)編が、ようやく手に入った。それを引用して、以下この背景を説明する。
(7)でビルマの独立が1943(S18)年8月1日であることが述べられているが、追い出されたイギリスも黙ってはいない。逐次増強していた東部インドの英軍がビルマへ侵攻する気配を示したため、日本軍はINA(Indian National Armyインド国民軍)と共に、英軍のビルマ侵攻の拠点となるインパールに先制攻撃をかけた。これがインパール作戦「う号作戦」である。この攻略を担ったのが、第十五軍の三十三師団や十五師団であった。これは悲惨な負け戦となったが、イギリス軍東南アジア総司令部司令官(連合軍総司令官、ビクトリア女王曾孫)ルイス・マウントバッテン大将は次のように語っていると言う。
「・・・日本軍はインパールにおいて、また全ビルマにおいて敗れるべくしてついに敗れた。兵理である。しかし、そこには何かが残った。」と。
そして、その何かは「それは史学の権威トインビーが、いみじくも喝破したとおりである。もし、『日本について、神が使命を与えたものだったら、それは強権を我が物顔の西欧人を、アジアのその地位から追い落とすことにあったのだ』」と指摘している。
インパール作戦における日本の将兵の死は決して無駄ではなかった、いや「大東亜戦争」も必然性を持ったものだ、こうマウントバッテンは主張しているのです。
このマウントバッテンの下で英第十四軍の司令官を務め、日本軍と戦ったウィリアム・J・スリム中将が日本軍の勇敢さを絶賛しているのです。
「敗北から勝利へ」(陸上自衛隊幹部学校訳)はその彼の著書である。
そして「世界から見た大東亜戦争」のこの項・第2部四項「壮絶なる戦い・玉砕戦」を担当した相澤宏明氏(この書籍の発行元展転社の創立者)は次のように結んでいる。
『インパールで、実際に日本軍と対した敵将のこうした絶賛は、戦争の当事者の声として生々しく私達に伝わってきます。インパールに散った日本の将兵も、これで浮かばれます。もって瞑すべし。』と。
更にもう一言引用したい。
現地の人々は、日本人が軍規粛清で特に婦人暴行が全くなかったことを、常に称賛します。それは、コヒマでもインパールでも同様です。日本軍を追ってここへ来た英印軍は、略奪と婦人暴行が相当ひどかったため、統制のとれた日本軍の姿が心に残ったのでしょう。・・・
しかし人々は、単に日本人一人ひとりが規律正しく勇敢であったことを評価しているわけではありません。インドの少なからぬ識者達が、大東亜戦争中に日本国家が果たした役割について肯定的な発言をしているのです。
このことは、この3章の(9)や(10)を見れば分かることである。
(終わり)