世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

ヨーロッパと日本(36)

2008-11-30 17:13:03 | Weblog

18.富国強兵

江戸時代の京都の治安維持の任務は、京都所司代と言う役職が当たっていた。所司代とは、所司の代理と言うのが本来の意味であるが、元々「所司」とは、鎌倉・室町時代の軍事・警察を担当する「侍所」と言う組織の長官の名称であったが、江戸時代は侍所を置かずに、京都所司代がそれらに倣って設けられていた。

幕末の動乱期にはその上に「京都守護職」を設けて、治安の維持を図らなければならないほど混乱していた。京都守護職は京都市中の治安維持と御所、二条城の警護などの役割を担っていた。1862年9月24日(文久2年8月1日)会津藩主・松平容保(かたもり)がその職につく。1868年1月3日(慶応3年12月9日)の「王政復古の大号令」により薩摩と長州が政治の支配権を獲得した為、廃止されている。

最も貧乏くじを引いたのは、会津藩であった。会津藩は、当初守護職への就任をかたくなに固辞していたが、一橋慶喜や福井の松平春嶽等に再三に渡って就任を要請されたため、しぶしぶその任についている。そのため戊辰戦争では、最後まで幕府側にたたざるを得なかったため、1868年11月新政府軍に滅ぼされてしまったのだ。

明治元年5月24日(1868年)徳川氏が江戸から駿府70万石に移されることが決まると、政府は江戸が帝都に適しているかの検討を始める(慶喜は7月に駿河に移る)。明治元年7月7日に遷都可能の判断を下す。そして7月17日江戸を称して東京と為すの詔書」が発せられる。そして天皇は明治元年9月20日、京都を出発し10月13日に江戸城に到着、江戸城はその日の内に東幸(東京への行幸)の皇居と定められ、江戸城は東京城と改称された。東京への行幸(東幸)には、長州・土佐・備前(岡山藩)・大洲藩(愛媛県伊予国)の4藩の兵の3,300名がその警護に当たった。東京奠都(てんと、都を定める)の後は、長州藩の部隊が東京城の警護に当たった。

西郷隆盛は鹿児島藩(薩摩藩の版籍奉還後名前)の政務に当たっていたが、新生軍隊の編成のために新政府に呼び出され、明治4年1月4日東京へ向け出発する。しかし中央での政策に関する対立などの政争の深刻化に嫌気が差し、自らは専ら与えられた軍隊編成だけに力を注ぐことになる。そして明治4年2月13日(1871年)、薩摩、長州、土佐の兵およそ8,000人を以って入京する。そして正式に「御親兵」として発足する。

・薩摩藩 歩兵4大隊、砲隊4隊
・長州藩 歩兵3大隊
・土佐藩 歩兵2大隊、騎兵2小隊、砲兵2隊

御親兵は名目上兵部卿有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう)を長とし、公称は1万人であった。日本最初の国軍の誕生である。
(続く)
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ヨーロッパと日本(35)

2008-11-28 12:15:18 | Weblog

そして東京大学を退職する際の大学在職25周年記念祝賀会での挨拶では、また別の視点から日本人批判を行っている。

日本人は西洋の学問の成り立ちと本質について大いに誤解しているように思える。日本人は学問を、年間に一定量の仕事をこなし、簡単によそへ運んで稼動させることのできる機械の様に考えている。しかし、それは間違いである。ヨーロッパの学問世界は機械ではなく、一つの有機体でありあらゆる有機体と同じく、花を咲かせるためには一定の気候、一定の風土を必要とするのだ。日本人は彼ら(お雇い外国人)を学問の果実の切り売り人として扱ったが、彼らは学問の樹を育てる庭師としての使命感に燃えていたのだ。…つまり、根本にある精神を極める代わりに最新の成果さえ受け取れば十分と考えたわけである。

本来、科学とか学問は、物事の成り立ちなどの摂理自然を究めてその世界の謎を解く、と言う目標に向かって営まれるはずのものだが、日本では科学のもたらす成果や実質的科学にその主眼が置かれているのではないか、と批判をしているのである。しかし、このような批判は日本を嫌って為されたものではないことも確かなことである。反対に上記の挨拶の中では、当時の日本の医学生達の勤勉さや優秀さを伝える発言も為されている。そして、教員生活は大変満足できるものであった、とも述べている。

ここで「五箇条の御誓文」の「広く会議を興し万機公論に決すべし」を思い出してほしい。「万機公論に決すべし」の目的は、「道理にかなう結論」を出す為だった。この「道理にかなう」と言うことは、ベルツの言う「一つの有機体」であることを理解することと同じことを言っているのではないかと思うのである。

物事の成り立ちやその摂理を理解し、そこまで掘り下げて考えて結論を出すことが求められているのであろう。
奇しくもベルツも五箇条のご誓文の精神と同じことを言っていると理解して、この章を閉じよう。明治の先人に感謝。
(続く)
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ヨーロッパと日本(34)

2008-11-27 21:13:33 | Weblog

さて話はベルツに戻そう。

・・・ところが、古いものから新しいものへと移り渡る道を日本人に教える為に招聘された者たちまで、このこと(大躍進の場合、…その生活様式を誤解して受け入れ、とんでもない間違いが起こりやすいものだ。)に無理解である。一部のものは日本の全てをこき下ろし、また別のものは、日本の取り入れる全てを賞賛する。我々外国人教師がやるべきことは、日本人に対し助力するだけだなく、助言することなのだ。

ベルツは、文化人類学的素養を備えていたため、思想・技術の発生した文化的基盤を考慮して、自国の文化や社会構造に照らしてそれらを移植することの重要性を言っているのである。そしてこのことを考慮しない外国人教師を鋭く批判している。

不思議なことに、今の日本人は自分自身の過去については何も知りたくないのだ。それどころか、教養人たちはそれを恥じてさえいる。「いや、何もかも全て野蛮でした」、「我々には歴史はありません。れわれの歴史は今、始るのです」と言う日本人さえいる。このような現象は急激な変化に対する反動から来ることは分かるが、大変不快なものである。日本人達がこのように自国固有の文化を軽視すれば、かえって外国人の信頼を得ることにはならない。何より、今の日本に必要なものはまず日本文化の所産の全ての貴重なものを検討し、これを現在と将来の要求に、殊更ゆっくりと慎重に適応させることなのだ。

無条件に西洋の文化を受け入れようとする日本人に対して、外国人教師である彼が、日本固有の伝統文化の再評価を行うべきことを主張しているのである。

そして東京大学を退職する祭の大学在職25周年記念祝賀会での挨拶では、また別の視点から日本人批判を行っている。
(続く)
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ヨーロッパと日本(33)

2008-11-26 20:34:04 | Weblog

17.エルヴィン・フォン・ベルツの日本観(お雇い外国人医師)

1876年(明治9年)6月6日お雇い外国人として来日して、東京医学校(現在の東京大学医学部)の教師として1905年6月まで勤務した、「エルヴィン・フォン・ベルツ」の日本観を次に紹介しよう。これらもWikipediaからの引用である。

ベルツの日記」には、明治初期の日本人の西洋文明を取り入れる様子が描写されている。

日本国民は、10年にもならぬ前まで封建制度や教会、僧院、同業組合などの組織をもつ我々の中世騎士時代の文化状態にあったのが、一気に我々ヨーロッパの文明発展に要した500年余りの期間を飛び越えて、19世紀の全ての成果を即座に、自分のものにしようとしている。

特にこの前の16章では、明治維新政府が立て続けに改革を実施し、必要な制度・法律を作り、遮二無二(がむしゃらに)改革を実施してきた様子がよく分かる。将に『御一新』といわれている通りであることがよく分かるのであるが、世界で唯一の暴発的でない、理路整然とした革命だったのではないかと、小生は思っている。もちろん禁門の変とか戊辰戦争などのいわゆる戦いも起こっているが、無秩序的な暴動ではなかった。それは徳川幕府も薩長側も、同じく現状から抜け出そうという問題意識を共通のベースにしているところからくるものであろうと、小生は理解している。

それにしても明治の偉人達の、不眠不休の活躍を続けた様子が目に浮かぶ。よくもこれほどまでに頑張れたものである。これが時代の為せる業と言うものか、まことに頭が下がるものである。我々はこれら先人達の努力を無にしてはならない。私利私欲を捨て、これからの日本に何が大切か、何が必要かを冷静に考えて、このことを言い換えれば、旧来の陋習を破り、天地の公道に基づいて、万機公論に決して、盛んに経綸を行ってゆかなければならない、と言うことである。将に『五箇条の御誓文』の言う通りである。

昭和天皇が昭和21年1月1日に、「新日本建設に関する詔書」の冒頭に五箇条のご誓文を追加された意味も自ずと分かる気がする

現在の日本の政治家は、今一度この「新日本建設に関する詔書」を熟読玩味してもらいたいものである。

さて話はベルツに戻そう。
(続く)
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ヨーロッパと日本(32)

2008-11-25 01:34:14 | Weblog

[立憲君主制とは]

1.君主の持つ権力が憲法によって制限されている政体のこと。→絶対君主制

2.君主とは、多くは世襲によってその地位が継承される国の伝統的な統治者
歴史的には皇帝、王、(日本の場合は)天皇と呼称される。

3.君主を国家元首、即ち国家の首長とする。→共和制は大統領が元首

4.君主制に対して民主制が対義語として、大正時代に作られた。

5.天皇(皇帝)が統治する国を帝国と言う。→王が統治・王国、公が統治・公国
帝国とは(いわゆる)植民地(軍国)主義を取る国を言う言葉ではない。

6.イギリス(日本)も代表的な立憲君主制国家である。→エリザベス女王、大英帝国
明治憲法も現行憲法も立憲君主制の憲法で、天皇は憲法に従った元首である。

[制定・公布・施行]

1.制定とは、法律を定めること、議会で議決されること

2.公布とは、国民や住民が法令の内容を知ることが出来る状態にすることで、
一般的には、官報に掲載することで行われる。発布とも言う。

3.施行とは、法令の効力を発生させること、実際に行うこと、実施。
(続く)
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ヨーロッパと日本(31)

2008-11-22 18:31:48 | Weblog

岩倉具視は、大久保利通にも重用されたフランス留学の経歴を持つ官僚の井上毅(こわし)に意見を求める。井上毅はドイツ帝国を樹立したプロシャ式に倣った君権主義国家が妥当とする意見書を作成する。大隈重信は大隈で、岩倉よりも上位の左大臣の有栖川宮熾仁親王(たるひとしんのう)に極秘に意見書を出す。その中で彼は、イギリス流の立憲君主国家を主張した。伊藤は漸進的な改革を主張し華族制度を改革して上院の設置を求めていた。

1881年(明治14年)に北海道開拓使の廃止方針が決まり、北海道開拓使長官の黒田清隆が開拓使の官有物を安値で払い下げることを決定した。この払い下げに政府内でも批判が起こり、大蔵卿の大隈重信が反対した。7月には新聞にもすっぱ抜かれると、大隈が情報基ではないかと疑われた。そして政府批判が強まり自由民権運動も一層盛り上がっていった。これを機に、伊藤は事態収拾を図るため、自由民権運動側と結託したとして「大隈追放」に動き出す。伊藤博文は井上毅らと協議し、明治天皇の行幸に大隈が同行している間に、大隈の罷免、払い下げの中止、10年後の国会開設などの方針を決めてしまう。
天皇が行幸から帰京した1881年10月11日に御前会議の裁許を得て、これらのことを公表する。「国会開設の勅諭」は、1881年10月12日に発せられる。近い将来議会制度の確立を約束して、民権運動の先鋭化を抑えようとしたものである。このことを、明治十四年の政変と言う。

野に下った大隈は国会開設に備え1882年(明治15年)3月に立憲改進党を結成し、10月21日には東京専門学校(現在の早稲田大学)を開設している。

1882年3月14日(明治15年)、伊藤博文らは岩倉具視ら政府の命を受け憲法調査の為ヨーロッパ各国へと派遣される。伊藤は、ベルリン大学やウィーン大学の法学者に師事し、「憲法はその国の歴史・伝統・文化に立脚したものでなければならないから、いやしくも一国の憲法を制定しようと言うからには、まずその国の歴史をを勉強せよ」と言うアドバイスを受ける。その結果、ドイツの憲法体制が最も日本に適すると思うようになる。
1883年8月3日(明治16年)帰国する。そして井上毅に憲法草案の起草を命じ、憲法(翌年、制度)取調局を設置し憲法制定と議会開設の準備を始める。

1885年12月22日(明治18年)内閣制度が創設され、伊藤博文が初代の内閣総理大臣となった。しかし当時の内閣総理大臣の地位や職務などは明確に決められてはいなかった。

1887年5月(明治20年)憲法草案が書き上げられ、以後幾多の検討・修正が加えられ1888年4月(明治22年)に成案がまとめられた。そして伊藤は枢密院を設けて、憲法草案の審議を進め1889年1月(明治22年)審議は終了した。

ここに明治憲法が完成したのである。

1889年2月11日(明治22年)大日本帝國憲法は、天皇が黒田清隆首相に手渡すという形で発布された。この形から欽定憲法(君主が自分で定める)と呼ばれる。同時に皇室典範も定められている。また同日、議員法が公布され大日本帝國憲法によって立法府として設置された帝国議会の組織・運営・権限・議員について定められている。議員に関してはこのほか、貴族院令、衆議院議員選挙法も制定された。

1890年11月25日に第1回帝国議会が召集され議員法はこの日から施行されている。
1890年11月29日には大日本帝国憲法が施行されている。

大日本国憲法の発布で、、日本はアジアで初めて近代憲法を有する立憲君主国家となったのである。
(続く)
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ヨーロッパと日本(30)

2008-11-21 15:20:07 | Weblog

1875年9月20日(明治8年)には江華島事件が発生する。朝鮮は明治維新政府の国書の受取拒否を貫いていたが、業を煮やした日本政府は1875年5月25日、軍艦を派遣して朝鮮側を挑発した。そして更に9月20日には日本軍艦雲揚が挑発行動をとったため、江華島砲台より砲撃を受ける。翌日今度は日本側が艦砲射撃を行い、陸戦隊と海兵隊を上陸させて江華島砲台を破壊する。朝鮮政府はこのことに衝撃を受け、鎖国攘夷の姿勢を改め日本との国交回復を検討し、翌1876年(明治9年)日朝修好条規(江華条約)が締結される。これで日本は、清国の介入を避ける策を講じつつ極力戦争を回避しながら、朝鮮との懸案となっていた近代的な国際関係の樹立を達成することとなる。日本は事前にペリーの交渉姿勢を徹底的に研究し、交渉から条約に至るまで模倣したと言われる。

1876年3月28日(明治9年3月28日)廃刀令が発せられ、更に士族の俸給である秩禄が減らされ(秩禄処分)たことなどにより、不平士族の反発がつのり各地で士族反乱が起きた。そして、
1877年(明治10年)に薩摩士族の挙兵に西郷隆盛が担ぎ出され、西南戦争が勃発する。いずれも政府軍に鎮圧される。その最中、木戸孝允も病没、更に

1878年(明治11年)紀尾井坂の変大久保利通が暗殺され、明治新政府は伊藤博文や大隈重信らを中心に運営されることとなる。

大久保利通亡き後、明治政府は何時立憲体制に移行するか、悩みの種であった。上述したように岩倉具視は国体を一変させると立憲体制に消極的であった。その中で、伊藤博文や井上馨の長州閥は「立憲政体の詔書」にあるように漸次移行すべきとの考えを持ち、反対に大隈重信(参議・大蔵卿、備前藩出身)はやや急進的な考えを持っていた。

明治6年の政変で野に下っていた板垣退助や後藤象二郎らは政府に「民撰議院設立建白書」をその翌年の1874年1月17日(明治7年)提出している。自由民権運動のはしりとなるものであった。その直後征韓論での軋轢を契機に旧佐賀藩士を中心とした佐賀の乱が1874年2月に起こっている。江藤新平がこの乱に巻き込まれ、死刑裁判で処刑されている。その後秩禄処分(1876年)での氏族の不平不満に加えて地租改正(1873年~1880年)での重圧による農村指導者層へも不平不満は増大し、民権運動は盛り上がりをみせた。これらの動きへの対応から立憲体制に消極的だった岩倉具視も、立憲体制のへの移行の必要性を感じ、1880年に入り検討を開始した。
(続く)
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ヨーロッパと日本(29)

2008-11-20 13:35:55 | Weblog

1874年5月6日(明治7年)台湾へ軍事出兵する。さて3年前の1871年(明治4年)10月琉球の御用船が台風で難破し、台湾南部に漂着した。乗員69名(内3名溺死)は台湾先住民に囚われの身となり、内54名が殺されてしまう。明治政府は清国へ賠償を要求するが拒否され、外交経験もなく国際慣習も知らない明治政府はどうしようもなく、その後3年間も放置される。しかし清国駐在のアメリカ合衆国総領事より「懲らしむるべし」との忠告を受けた明治政府は、征韓論の対立や、廃藩置県による士族の失業などの不満などで世の中がざわめいている中、大久保は台湾出兵を計画する。陸軍中将西郷従道は政府の明確な指示がないうちに3,000名を率いて出兵させる。5月6日に台湾南部に上陸、5月22日本格的な制圧を開始、6月には事件発生地域を占領してしまう。この台湾出兵については、何事も無知だった明治政府は、清国や清国に権益を持つ列強に対して通達・根回しなどは行っていなかったため、国際問題になりかけたがイギリスの駐清公使トーマス・ウェードの斡旋で清国が賠償金50万両(テール)を日本に支払うことで、日本の征伐軍は撤退することになる。又この結果帰属がはっきりしなかった琉球は、日本に帰属することが国際的に認知された。又この台湾出兵をめぐる意見対立から長州の木戸孝允までもが職を辞している。

1875年1月22日~2月11日(明治8)明治政府の要人達が立憲政治への改革や政府復帰について打ち合わせが持たれた。大阪会議と呼ばれる。

多くの要人が政界から去り、地租改正も混乱を極め、政局は混迷を深め大久保も頭を痛めていた。長州五傑の1人井上馨はこの情勢を憂い、伊藤博文と共に大久保と木戸・板垣たちとの連携を試みる。

先ず1月22日木戸と板垣1月29日木戸と大久保の会談がもたれた。当初大久保は議会政治には懐疑的であった。欧米列強の圧力に対抗する為には天皇の権威の下薩長に権力を集中した方が法整備や国力の増進が図れるものと考えていた。しかし木戸の説得や板垣を取り込んでおくほうが安心との考えから態度を変えてゆく。そのため3者の思惑が一致し、2月11日井上馨、伊藤博文たちが同席し木戸孝允・大久保利通・板垣退助との3者会議が、もたれることになる(大阪会議)。この3者合意に基づく政体改革案は、直ちに太政大臣三条実美(さねとみ)に提出され、4月14日の「立憲政体の詔書」が発表されることとなる。そして木戸・板垣の政府へ復帰も決まる。

1875年4月14日(明治8)立憲政体の詔書」が明治天皇より発っせられる。
現代語訳をWikipediaより引用する。

朕は即位の初めに群臣を集めて「五箇条の誓文」を神々に誓い、国是を定め万民保全の道を求めた。幸いに先祖の霊と群臣の力とによって今日の落ち着きを得た。顧みるに、再建の日は浅く、内政の事業には振興したり引き締めたりすべき点が少なくない。朕は今、「五箇条の誓文」の主意を拡充し、ここに元老院を設けて立法の源泉を広め、大審院を置いて審判権を確立し、又地方官を召集して民情を通じ公益を図り、漸次に国家立憲の政体を立て、皆とともに喜びを分かちたい。皆も、守旧(古い慣わしを良い物として持ち続ける事)することなく、また急進することもなく、よくよく朕の主旨に従って補佐しなさい。御名御璽

立法・司法・行政の三権を司る役所を作り、着実に立憲政体を確立してゆけ、と言う内容。
政府に復帰した板垣だが、地方官会議の権限のあり方や江華島事件の処理をめぐり意見が対立し、参議を辞してしまう。木戸も持病が悪化し発言力を弱めて行き、結局は半年にして大久保の独裁体制に戻った形になってしまう。一方岩倉具視は、これに対して、国体一変のおそれがあるとして詔書には反対であった。しかし、立憲政体・議会政治の方向性が示されたという点においては、意義のある会議となった。

1875年9月20日(明治8年)には江華島事件が発生する。朝鮮は明治維新政府の国書の受取拒否を貫いていたが、業を煮やした日本政府は1875年5月25日、軍艦を派遣して朝鮮側を挑発した。そして更に9月20日には日本軍艦雲揚が挑発行動をとっため、江華島砲台より砲撃を受ける。翌日今度は日本側が艦砲射撃を行い、陸戦隊と海兵隊を上陸させて江華島砲台を破壊する。朝鮮政府はこのことに衝撃を受け、鎖国攘夷の姿勢を改め日本との国交回復を検討し、翌1876年(明治9年)日朝修好条規(江華条約)が締結される。これで日本は、清国の介入を避ける策を講じつつ極力戦争を回避しながら、朝鮮との懸案となっていた近代的な国際関係の樹立を達成することとなる。日本は事前にペリーの交渉姿勢を徹底的に研究し、交渉から条約に至るまで模倣したと言われる。
(続く)
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ヨーロッパと日本(28)

2008-11-19 11:38:52 | Weblog

1872年6月12日(明治5年5月7日)品川-横浜間の鉄道が開通
1872年11月4日(明治5年10月4日)群馬県、官営富岡製糸工場操業開始、お雇い外国人のフランス人技師ポール・ブリューナの指導で設置された器械製糸工場。全国から数百人の工女が集められ、製糸の技術を習得していった。彼女達は後に全国の製糸工場で指導を行い製糸技術を広めていった。

1873年1月10日(明治6年)徴兵制を制定し、国民の兵役義務を定めた。これには2年前に制定された戸籍法の存在があったから可能なことであった。

そして、1873年7月28日(明治6年)地租改正法を公布した。これは従来の米年貢を廃止し、金納地租に代えて財政基盤とした。この法令は、上諭(じょうゆ、天皇のお言葉)と地代(土地の収穫物・年貢から土地の価格を政府が認定し、その価格)の3%を地租とする、と言うたったの1条の法律であった。そして強圧的な徴収が図られたため各地で暴動が頻発した。そのため1877年(明治10年)1月に地租を3%から2.5%へと減額した。この地租は地券の発行により確認された土地所有者(地主)を納税義務者とする全国統一のものであった。そして税収の見込みがつくようになると、強圧姿勢は徐々に緩和され、1880年(明治13年)に耕地宅地の改正作業が完了し、約7年に亘る大事業は終了したのである。

これにより明治政府は安定した税収を確保することが出来ると同時に、個人の土地所有の権利が認められたこととなり、封建的な土地所有の形態から個人の土地の所有権が確立することにより財産として流通することとなったのであり、日本における資本主義体制の確立の基礎となったのである。

1873年10月25日(明治6年)には、征韓論に端を発した明治六年政変がおきている。先に李氏朝鮮に対して幾度となく使節を派遣したことは述べたが、更に、当時における日本大使館に相当する機関である倭館の入口に「野蛮な国」と書かれた張り紙を張られるなどの殊更非礼な行為を受け続けた為、日本国内には武力行使も辞せず、との強硬意見も聞かれるようになる。西郷は表向きは武力行使も辞せずとの意見を表明するものの交渉を重視し、西郷自身が交渉の為朝鮮に赴くと言う提案をしている。しかし、岩倉使節団派遣中には重大な改革を行わないと言う盟約に反して、韓国派遣を閣議決定してしまう。(8月17日)しかし明治天皇はこの取り決めを基に「待つように」とこの上奏を却下した。大久保は朝鮮半島問題よりも外交案件(琉球帰属問題、樺太・千島問題、小笠原諸島問題、不平等条約改定など)が存在し、更には日本にはまだ戦争を遂行するだけの国力が備わっていないと言う判断から、征韓論の不利を説き延期を訴えた。10月14、15日の岩倉帰国後の閣議は紛糾し議長の太政大臣三条実美が進退窮まって倒れてしまう。右大臣だった岩倉具視が太政大臣代理となり、10月22日西郷の意見を退け征韓論をお流れにした。このため西郷等は辞表を提出し、10月25日受理され西郷隆盛、板垣退助、後藤象二郎、江藤新平、福島種臣ら参議5人を初め、懇意だった軍人・官僚達も辞職してしまった。又以後も混乱が続き大久保が政府の実権を握ることとなる。これらのことが引き金となり、自由民権運動や士族反乱などが発生し西南戦争へと続くこととなる。これが明治六年政変である。
(続く)
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ヨーロッパと日本(27)

2008-11-18 17:01:48 | Weblog

明治新政府は、欧米列強の軍事的・経済的圧力に対抗する為に、天皇を中心とした中央集権国家の構築を目指し、矢継ぎ早に改革を断行していった。

1869年7月25日(明治2年6月17日)、274の諸大名から天皇への領地(図)と領民(戸)の返還を実施する「版籍奉還」が行われた。これにより土地と人民は明治政府の所轄するところとなったが、各大名は藩知事(知藩事)として引き続き各藩の統治に当たったため、「御一新」は今一歩であった。

そして1870年(明治3年)工部省を設置し、ヨーロッパから多数のお雇い外国人を採用し、岩倉使節団と共に多数の留学生を派遣し、産業技術の移植に務めた。

1871年4月20日(明治4年3月1日)前島密らにより、東京・京都・大阪に郵便役所が設置され、郵便事業が開始された。
1871年5月22日(明治4年4月4日)戸籍法が制定され、封建身分が撤廃され四民平等となり、往来の自由や職業選択の自由などの改革が実行されていった。
1871年6月27日(明治4年5月10日)新貨条例が制定され、円・銭・厘が定められた。

明治新政府は、明治2年、対馬藩を介して朝鮮に対して新政府の発足の通告と国交を望む交渉を行うが、日本の外交文書が江戸時代の形式と異なることを理由に拒否されてしまう。朝鮮はかたくなに鎖国攘夷の政策を実施していた。明治3年2月にも使節を派遣するが、これも拒否され征韓論が少しづつ言われ始める。

しかし明治新政府内も、その政策運用に意見が分かれ、西郷派と木戸派に分裂しつつあり、危機に面していた。そのため、山縣の部下が危機感を募らせ山縣に廃藩置県の即座断行を訴えた。西郷も木戸も政府内の流れを変えるべく、薩長の各要人間で廃藩置県の構想を練り上げた。

そして明治政府は、在東京の知藩事を皇居に集め、1871年8月29日(明治4年7月14日)には、地方統治を中央へ取り戻すためそれまでの藩を廃止して、府と県に一元化した「廃藩置県」を命令した。これは「王政復古」に次ぐ第2のクーデターであった。

各知藩事への伝達には、その日の午前中に先ず有力藩グループの藩の知事が召し出され廃藩の「詔勅」が読み上げられ、次の有力藩グループにも「詔勅」が宣せられた。午後には、これら知藩事に加え、在京中の56藩の知藩事が召集され、「詔勅」が下された。

当初は藩をそのまま県に置き換えたが、その形態は現在よりも細かく、3府302県もあった。そしてかなりの紆余曲折を経て、1881年(明治14年)堺県の大阪府への合併を持って一応落着した。しかし今度は面積が大きすぎるなどの弊害が噴出し、分割が進められ1889年(明治22年)3府43県1道となって最終的に落ち着くことになる。

1871年12月23日(明治4年11月12日)不平等条約の改定交渉のため、岩倉具視を正史とする総勢107名(留学生含む)の岩倉使節団が、アメリカ合衆国、ヨーロッパ諸国に派遣された。2年に亘る異例の長期の外遊であったが、じかに西洋文明や思想に触れたと言う経験が彼等に与えた影響には大きいものがあった。しかし不平等条約の解消には程遠かった。1873年9月13日(明治6年)岩倉使節団は横浜港に帰国する。
(続く)
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