この第2次上海事変では、1937(S12)年8月9日夕刻、日本軍・上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉とお付の運転手の斉藤與蔵一等水兵が、上海共同租界の国際的自由通行路である記念通り(モニュメントロード)を走行中において、中国保安隊多数に囲まれて機銃掃射を受けて殺され、中国軍が非武装地帯の陣地を構築して日本居留地に先制攻撃を始めた。その8月13日から、3ヵ月後の1937.11.5に日本軍が杭州湾岸に上陸すると、中国軍は退路を断たれる恐れから動揺し、11月9日に一斉退却を始めた。この退却の際には、中国軍恒例の略奪と破壊を始めたのである。しかも便衣兵となってフラン租界に入り込み放火、略奪を開始している。そのためフランス租界では、あちこちで銃撃戦が起こっていた。
しかし中国軍の退却で上海には安全が確保され、上海英字紙には、日本軍に感謝する論評が載せられたのである。
しかし中国軍の退却先は、南京であった。これも引用しよう。
『
上海からの中国軍の退却先は、直線距離で約270km西北西に位置する南京であった。当初日本政府は和平交渉を行うため南京への進撃は禁止していたが、中国各地での日本居留民への殺害や日本権益に対する妨害などのため、結局は南京攻略を進めざるを得なかった。ここでも蒋介石軍は逃げてしまい大規模な戦闘にはならなかったが、蒋介石は「南京事件」を南京で布教していた宣教師達に捏造させたのである。世に言う「南京大虐殺」であるが、これも全くの捏造である。いまだに中国共産党政府は、その捏造事件を吹聴している。
』
なお、南京大虐殺事件であるが、これも小生の次のブログなどを参照されるとよい。全くの捏造であることがよくわかる。
(1) 「南京大虐殺の虚構宣伝と胡錦濤の秘密工作に騙されるな」(2007.6.6~9)
(2) 「中国・虚妄のプロパガンダ」(2008.2.8~20)
(3) 「戦後70年談話はヒストリーで」(2015.6.8~8.12)→特に8.4のNO.45
などを参照願いたい。またこの中国の歴史捏造に関しては、朝日新聞の本多勝一記者の書いた嘘だらけの「中国の旅」が一役(ひとやく)買っている。だから朝日新聞は逆賊新聞(社)なのである。
第2次上海事変のその後については、小生のブログ「第2次上海事変」(2012.5.28~6.9)を参照願う。
(10)支那事変
この支那事変については、小生のブログ「支那事変の真相」(2013.2.1~3.6)などを参照願うが、簡単にまとめてみよう。一応支那事変とは、1937.7.7の盧溝橋事件(7.11に停戦協定)から1941.12.8の日米開戦までの間の北支事変、支那・中華民国との戦争をいう。戦後は侮蔑の感じがするということで支那と言う言葉を嫌い、日華事変などと呼ばせたが(もともと支那には差別的な意味はないが、侮蔑の意味があるなら尚更)支那事変でよろしい。
先ず「日本は侵略国家ではありません。」(2008.12.26,NO.6)より。
『(19世紀後半、日本は日清・日露戦争で得た権益を守る為に、各種条約に基づき中国大陸に軍を配置したのであり、無条約の状態で大陸に進出(侵略)したことはない。)
盧溝橋では北京議定書(辛丑条約)に基づき日本軍は夜間訓練をしていただけである。
更に上海には日本の紡績工場も在り条約により日本軍も駐留していたが、1937.8.9待ち伏せで大山勇夫海軍中尉と斉藤要蔵一等水兵(運転手)を銃撃し殺害する。日本は自重した為、8.12中国軍は日本人区域を包囲し8.13未明中国軍は砲撃を開始、午後には中国軍による陸上及び日本軍艦にも砲撃を開始した。これは蔣介石配下の「張治中」が計画したもので、彼は中国共産党の秘密工作員であった(「張治中回顧録」)。これらの挑発により日本も反撃を開始する。これが第2次上海事変であり、これにより日本は日中全面戦争に引きずり込まれたのである。中国共産党の目的は、日本軍と国民党軍を戦わせ疲弊させて、毛沢東共産党に中国を支配させる為であった。
』
次に、「日本は侵略国家ではありません。」(2008.12.29,NO.9)より
『(あの大東亜戦争は愚劣な戦争だった、などと言う馬鹿が居るが、人類の歴史を振り返れば評価は異なってくる。現在でも、国際関係を話し合いで再構築することは非常に困難だ。)
日本はアジアで唯一植民地にならずに近代化を果たした国である。この辺の事情は前回のブログ「ヨーロッパと日本」をご一読いただければ、お分かりいただけるものと思う。そしてコミンテルンの策略により、盧溝橋事件、第2次上海事変により泥沼の日中戦争へと引き込まれていった。この第3章の冒頭の解説を参照されたい。→上記の『』内のもの。
日本はこのようにして「支那事変」を戦わざるを得ないようになるわけであるが、中国に権益を拡大したい米英とソ連は蔣介石・国民党政府を支援した。それらの援助は、四つの「援蔣ルート」を経由して行われた。
1.香港ルート、イギリスの租借地の香港を経由した援助ルートだが、1938年に広州 を占領した日本軍により遮断された。
2.仏印ルート、フランスの植民地であったベトナム(仏領インドシナ)のハイフォ ンから昆明へのルートだが、1940年の日本軍の北部仏印進駐により遮断された。
3.ソ連ルート、これも重要なルートであったが、1941年独ソ戦の開始と共に供給が 途絶えた。
4.ビルマルート、イギリス領のビルマのラングーンから昆明までの鉄道とトラック による輸送ルートで、ビルマ公路と呼ばれたが1942年日本軍のビルマ平定により 遮断された。その後イギリス・アメリカは空路による支援を続けたが、新規の陸上 ルートの建設を始める。
レド公路は、イギリスの植民地インドのアッサム州のレドから昆明までの新自動車 道路を建設し、1945年1月に開通させた。
5.フライングタイガース 、1937年に中華民国(国民党政府)に雇われた米陸軍 空軍大尉の「クレア・L・シェンノート」のアドバイスにより蔣介石は、「戦闘機 100機とそれを操縦する優秀なパイロット100名、地上要員200名」をF・ D・ルーズベルト大統領に要請した。
1940年、ルーズベルトはアメリカ合衆国義勇軍AVG(AmericanVolunteerGroup)と 軍事顧問団を組織して中国に派遣することを決め、1941年からP40トマホーク 戦闘機はフライングタイガースとして援蔣ルートの防衛に当たり、日本軍と死闘 を繰り広げた。
6.レンド・リース法、ルーズベルトは1941年3月に武器貸与法(Lend-Lease Acts)に署名し、大量の武器や軍需物資を「援蔣ルート」を通じて蔣介石・中華民 国へ援助した。このため日本はこの援蔣ルートを断つべく、北部仏印へ進駐せざる をえなかったのである。
これを契機にアメリカは経済制裁を強化し日米関係が悪化していったことは、 NO.35(靖国神社に参拝しよう) に述べられている通りである。
そのため、日本は植民地のなっている東亜の諸国と連携をして共存共栄の政治・経済を中心とした国家連合を実現させようと考えたのである。それが大東亜共栄圏構想であり、そのなかで日本も資源を確保して生存してゆこうとしたのである。そのためにはまず東亜の諸国の欧米の植民地支配からの開放が必要であった。それは話し合いなどではとても解決できる物ではなく、植民地の解放と日本国の存立のために「大東亜戦争」を始めたのである。
』
中国共産党を生かすためにソ連コミンテルンに縛られた蒋介石は、ソ連、米英から支援により、日本に対して戦争を吹っかけてきたのである。日本としても売られた喧嘩は振り払わねばならぬ。しかしそのためには、この援蒋ルートを断ち切らねばならなかった。支那事変とは日中戦争と言うよりも、この援蒋ルートを断ち切るための戦いであった。謂わば間接的な米英との代理戦争であった。事実、フライングタイガースは、米空軍の正規軍であった。だから米国は、真珠湾よりも先に、日本への戦端を開いていたのである。
その先が「大東亜戦争(1941.12.8~1945.8.15)」となったものであった。
(続く)