世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日本近代化の流れ(58)

2017-01-31 00:00:00 | Weblog

この第2次上海事変では、1937(S12)年8月9日夕刻、日本軍・上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉とお付の運転手の斉藤與蔵一等水兵が、上海共同租界の国際的自由通行路である記念通り(モニュメントロード)を走行中において、中国保安隊多数に囲まれて機銃掃射を受けて殺され、中国軍が非武装地帯の陣地を構築して日本居留地に先制攻撃を始めた。その8月13日から、3ヵ月後の1937.11.5に日本軍が杭州湾岸に上陸すると、中国軍は退路を断たれる恐れから動揺し、11月9日に一斉退却を始めた。この退却の際には、中国軍恒例の略奪と破壊を始めたのである。しかも便衣兵となってフラン租界に入り込み放火、略奪を開始している。そのためフランス租界では、あちこちで銃撃戦が起こっていた。

しかし中国軍の退却で上海には安全が確保され、上海英字紙には、日本軍に感謝する論評が載せられたのである。

しかし中国軍の退却先は、南京であった。これも引用しよう。



上海からの中国軍の退却先は、直線距離で約270km西北西に位置する南京であった。当初日本政府は和平交渉を行うため南京への進撃は禁止していたが、中国各地での日本居留民への殺害や日本権益に対する妨害などのため、結局は南京攻略を進めざるを得なかった。ここでも蒋介石軍は逃げてしまい大規模な戦闘にはならなかったが、蒋介石は「南京事件」を南京で布教していた宣教師達に捏造させたのである。世に言う「南京大虐殺」であるが、これも全くの捏造である。いまだに中国共産党政府は、その捏造事件を吹聴している。



なお、南京大虐殺事件であるが、これも小生の次のブログなどを参照されるとよい。全くの捏造であることがよくわかる。


(1) 「南京大虐殺の虚構宣伝と胡錦濤の秘密工作に騙されるな」(2007.6.6~9)
(2) 「中国・虚妄のプロパガンダ」(2008.2.8~20)
(3) 「戦後70年談話はヒストリーで」(2015.6.8~8.12)→特に8.4のNO.45


などを参照願いたい。またこの中国の歴史捏造に関しては、朝日新聞の本多勝一記者の書いた嘘だらけの中国の旅が一役(ひとやく)買っている。だから朝日新聞は逆賊新聞(社)なのである。


第2次上海事変のその後については、小生のブログ「第2次上海事変」(2012.5.28~6.9)を参照願う。


(10)支那事変

この支那事変については、小生のブログ「支那事変の真相」(2013.2.1~3.6)などを参照願うが、簡単にまとめてみよう。一応支那事変とは、1937.7.7の盧溝橋事件(7.11に停戦協定)から1941.12.8の日米開戦までの間の北支事変、支那・中華民国との戦争をいう。戦後は侮蔑の感じがするということで支那と言う言葉を嫌い、日華事変などと呼ばせたが(もともと支那には差別的な意味はないが、侮蔑の意味があるなら尚更)支那事変でよろしい。

先ず「日本は侵略国家ではありません。」(2008.12.26,NO.6)より。

(19世紀後半、日本は日清・日露戦争で得た権益を守る為に、各種条約に基づき中国大陸に軍を配置したのであり、無条約の状態で大陸に進出(侵略)したことはない。)
  
盧溝橋では北京議定書(辛丑条約)に基づき日本軍は夜間訓練をしていただけである。
更に上海には日本の紡績工場も在り条約により日本軍も駐留していたが、1937.8.9待ち伏せで大山勇夫海軍中尉と斉藤要蔵一等水兵(運転手)を銃撃し殺害する。日本は自重した為、8.12中国軍は日本人区域を包囲し8.13未明中国軍は砲撃を開始、午後には中国軍による陸上及び日本軍艦にも砲撃を開始した。これは蔣介石配下の「張治中」が計画したもので、彼は中国共産党の秘密工作員であった(「張治中回顧録」)。これらの挑発により日本も反撃を開始する。これが第2次上海事変であり、これにより日本は日中全面戦争に引きずり込まれたのである。中国共産党の目的は、日本軍と国民党軍を戦わせ疲弊させて、毛沢東共産党に中国を支配させる為であった。




次に、「日本は侵略国家ではありません。」(2008.12.29,NO.9)より

(あの大東亜戦争は愚劣な戦争だった、などと言う馬鹿が居るが、人類の歴史を振り返れば評価は異なってくる。現在でも、国際関係を話し合いで再構築することは非常に困難だ。)

日本はアジアで唯一植民地にならずに近代化を果たした国である。この辺の事情は前回のブログ「ヨーロッパと日本」をご一読いただければ、お分かりいただけるものと思う。そしてコミンテルンの策略により、盧溝橋事件、第2次上海事変により泥沼の日中戦争へと引き込まれていった。この第3章の冒頭の解説を参照されたい。→上記の『』内のもの。

日本はこのようにして「支那事変」を戦わざるを得ないようになるわけであるが、中国に権益を拡大したい米英とソ連は蔣介石・国民党政府を支援した。それらの援助は、四つの「援蔣ルート」を経由して行われた。

 1.香港ルート、イギリスの租借地の香港を経由した援助ルートだが、1938年に広州 を占領した日本軍により遮断された。

 2.仏印ルート、フランスの植民地であったベトナム(仏領インドシナ)のハイフォ ンから昆明へのルートだが、1940年の日本軍の北部仏印進駐により遮断された。

 3.ソ連ルート、これも重要なルートであったが、1941年独ソ戦の開始と共に供給が 途絶えた。

 4.ビルマルート、イギリス領のビルマのラングーンから昆明までの鉄道とトラック による輸送ルートで、ビルマ公路と呼ばれたが1942年日本軍のビルマ平定により 遮断された。その後イギリス・アメリカは空路による支援を続けたが、新規の陸上 ルートの建設を始める。
レド公路は、イギリスの植民地インドのアッサム州のレドから昆明までの新自動車 道路を建設し、1945年1月に開通させた。

 5.フライングタイガース 、1937年に中華民国(国民党政府)に雇われた米陸軍 空軍大尉の「クレア・L・シェンノート」のアドバイスにより蔣介石は、「戦闘機 100機とそれを操縦する優秀なパイロット100名、地上要員200名」をF・ D・ルーズベルト大統領に要請した。
1940年、ルーズベルトはアメリカ合衆国義勇軍AVG(AmericanVolunteerGroup)と 軍事顧問団を組織して中国に派遣することを決め、1941年からP40トマホーク 戦闘機はフライングタイガースとして援蔣ルートの防衛に当たり、日本軍と死闘 を繰り広げた。

 6.レンド・リース法、ルーズベルトは1941年3月武器貸与法(Lend-Lease Acts)に署名し、大量の武器や軍需物資を「援蔣ルート」を通じて蔣介石・中華民 国へ援助した。このため日本はこの援蔣ルートを断つべく、北部仏印へ進駐せざる をえなかったのである。
これを契機にアメリカは経済制裁を強化し日米関係が悪化していったことは、 NO.35(靖国神社に参拝しよう) に述べられている通りである。

そのため、日本は植民地のなっている東亜の諸国と連携をして共存共栄の政治・経済を中心とした国家連合を実現させようと考えたのである。それが大東亜共栄圏構想であり、そのなかで日本も資源を確保して生存してゆこうとしたのである。そのためにはまず東亜の諸国の欧米の植民地支配からの開放が必要であった。それは話し合いなどではとても解決できる物ではなく、植民地の解放と日本国の存立のために「大東亜戦争」を始めたのである。




中国共産党を生かすためにソ連コミンテルンに縛られた蒋介石は、ソ連、米英から支援により、日本に対して戦争を吹っかけてきたのである。日本としても売られた喧嘩は振り払わねばならぬ。しかしそのためには、この援蒋ルートを断ち切らねばならなかった。支那事変とは日中戦争と言うよりも、この援蒋ルートを断ち切るための戦いであった。謂わば間接的な米英との代理戦争であった。事実、フライングタイガースは、米空軍の正規軍であった。だから米国は、真珠湾よりも先に、日本への戦端を開いていたのである。

その先が「大東亜戦争(1941.12.8~1945.8.15)」となったものであった。
(続く)
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日本近代化の流れ(57)

2017-01-30 00:00:00 | Weblog

1937(S12)年8月9日夕刻、日本軍・上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉とお付の運転手の斉藤與蔵一等水兵が、上海共同租界の国際的自由通行路である記念通り(モニュメントロード)を走行中において、中国保安隊多数に囲まれて機銃掃射を受けて殺された。

これが第2次上海事変のきっかけとなったものであるが、これは当時「南京上海防衛隊司令官」であった張治中と言う人物が、企てたものであった。張治中については、このブログのNO.37、 2016.12.29でも言及しているが、隠れ共産党員であった。そしてソ連のスパイであったと言わている人物であった。

ここら辺の事情を、小生のブログ第2次上海事変(5)の中より引用して、説明しよう。



嘗ては黄埔(ホ)軍官学校の教官をしていたことがある。この士官学校はソ連が資金と人材を提供して設立したものであり、その中からソ連は高い地位のスパイ育成を目論んでいた。校長は蒋介石であったが、そこには政治局員として周恩来がいた。「張治中」は周恩来に中国共産党への入党を依頼したが、周からは国民党内に留まり「ひそかに」中国共産党と合作するよう求められたと言う。回想録にそのように記述されているとWikipediaに書かれている。

ソ連コミンテルンの策略は、用意周到で緻密なものであった。

1936年12月11~12日に起こった「西安事件」こそ忘れてはならない。当時共産軍は蒋介石に攻められて戦力は1/3に減っていた。そのため蒋介石はここぞとばかりに殲滅を図るべく1936年10月に、蒋介石軍の司令官であった張学良と西安の軍閥の楊虎城に、共産軍根拠地(多分延安)への総攻撃を命じた。しかし2人とも共産軍と通じていたために、なかなか攻撃を開始しなかった。そのため蒋介石は督戦のため、1936年12月4日に西安を訪れた。しかし蒋介石は12月11日夜から12日朝にかけて、張学良と楊虎城に攻められて、12日早朝名所旧跡の華清池のホテル裏山に逃れたところを捕えられてしまった。

捕えられた蒋介石は、スターリンからの「蒋を殺すな」の電報で、生き永らえた。ソ連にすれば、蒋介石を生かしておいて日本と戦わせれば、対ソ戦を回避できるし、ソ連の対日戦も有利になると考えていた。そして周恩来や葉剣英などが乗り込んできて、どんな手を使ったかは定かではないが、共産党掃滅を辞めさせることを約束させた。Wikipediaにはソ連に留学中の彼の息子の蒋経国を人質にとり、彼の帰国と引き替えに抗日戦に引き込んだとも書かれているが、これも理由の一つにはなるがこれだけではなかろう。

結局蒋介石は生き延びて、周恩来らと「共産党討伐の中止」と「一致抗日」を約束させられたのだ。実際、この事件によって蒋介石は共産党への攻撃をやめ、「第2次国共合作」が成立する。そして国民党内では親日派が後退し、・・・代わって親ソ派が台頭した。・・・ここに至って蒋介石ははっきりと日本を敵と定めたのだ。]と黄文雄氏の「日中戦争は侵略ではなかった」には記載されている。またWikipediaには、台湾に渡った中国の学者・胡適は「西安事件がなければ共産党は程なく消滅していたであろう。・・・西安事変が我々の国に与えた損失は取り返しがつかないものだった」と言っていると記載されている。それほど衝撃的な事件であった。まあ、命令をきかない司令官には、何らかの(反乱の)事情があるかも知れない、と考えることも大事なことであろう。そう気が付けば蒋介石ものこのこと西安なんぞには行かなかったであろう。



そのためこの第2次上海事変の勃発で、ソ連のスターリンは大喜びをし「中国と日本の戦争が出来るだけ長く続くことを望む」と言ったと言われている。そして即座に、大々的に蒋介石に対して軍事支援を行っている。その後張治中は、中華人民共和国で各種の重要な役職についている。そして1969.4.6に満78才で、北京で死去している、とWikipediaには書かれている。

この第2次上海事変は、ソ連共産党中国共産党によって仕組まれたものであり、日本を蒋介石の国民党軍との戦争に引っ張り込むためのものであった。先に説明した日本人皆殺しの「通州事件」も、同じ目的のものであった。その間に、中国共産党は蒋介石からの攻撃を受けることなく、勢力を温存しさらには拡大させてゆくことが出来たのである。ソ連にしても日本からの圧力が、中国での戦闘が続けば無くなるので、中国に共産国家の樹立が容易となり、さらには日本からの圧力もなくなり、一石二鳥であった。


このいわゆる日中戦争には、もう一つ関係する国が存在していた。それはドイツである。

次も「第2次上海事変(2)」よりの引用である。



当時の中華民国とドイツは1910年代から軍事的・経済的な協力関係を強めていた。ドイツは中国からレアメタルの「タングステン」を購入し、その見返りに中国軍の近代化と産業の興隆に投資していた。これを「中独合作」と言う。1930年代に入ると「中独合作」は更に進展し、世界恐慌のあおりで中国への資金提供は限りなく細っていたが、中独協定(1934~1936年)により中国の鉄道などの建設か大いに進んだ。これらの鉄道は日中戦争でも蒋介石に大いに活用された。このような流れの中で1935年より中国軍事顧問となったアレクサンダー・フォン・ファルケンハウゼン日本だけを「敵国」と看做して、他国とは親善政策を採ることを蒋介石に進言している。

10年ほど前の第1次世界大戦1914/7~1918/11)では日本は日英同盟に基いて、ドイツの山東省租借地であったチンタオ要塞をイギリスと共に攻略し、更にはドイツ支配の南洋諸島を攻略している。なお日本軍の評価を高めたものは、この大戦中連合国の要請を受けて、地中海やインド洋に合計18隻の第二特務艦隊を派遣し、連合国の輸送船団の護衛をしたことである。この護衛作戦では、Uボートの攻撃により駆逐艦「榊」が大破し、59名が戦死している。合計78名の日本軍将兵の御霊を守るために、マルタ島のイギリス海軍墓地に日本軍将兵の戦没者のお墓が建立されている、とWikipediaには書かれている。→この部分は2016.12.2389

このように第1次世界大戦でのアジアではドイツは日本に攻められていたのだが、ファルケンハウゼンは多分にこんなことを根に持っていたのであろうか。どいつもこいつもドイツ人は、第2次世界大戦では共に敗戦国となった仲ではあるが、あまり親密に付き合える相手ではない、と思っていたほうが良い。事実この時代日本とドイツとは三国同盟の仲(1936年日独防共協定、1937年日独伊防共協定、1940年日独伊三国同盟)ではあっても、その裏では依然としてこのように中国を支援していたのであった。



まあこのように見てゆくと、明らかにこのいわゆる日中戦争と言われるものは、日本の侵略戦争ではない。反対に支那・中国からの日本に対する侵略戦争であったと、言わざるを得ない。

次の「かって日本は美しかった」と言うブログを参照されるとよい。
(http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/07/post-ba70.html)

その一文を次に載せる。

「 盧溝橋事件、上海事変、南京事変など日本が侵略目的で戦争を始めて拡大していったのではないことがよくわかります。昭和12年(1937年)8月30日のニューヨーク・タイムズでは一連の事件について「日本軍は敵の挑発の下で最大限に抑制した態度を示し、数日の間だけでも全ての日本軍上陸部隊を兵営の中から一歩も出させなかった。ただしそれによって日本人の生命と財産を幾分危険にさらしたのではあるが・・・」と報じています。 またニューヨーク・ヘラルドトリビューン紙は9月16日に「中国軍が上海地域で戦闘を無理強いしてきたのは疑う余地は無い」と報じてます。
 日本の侵略などどこにもありません。



そしてもう一つ注意しておかなければならないことがあります。

それは、日本国内にもソ連共産党の手先となって活躍したスパイが存在していたことだ。朝日新聞の記者だった「尾崎秀実(ほつみ)」である。彼は近衛内閣の中枢に入り込み、日中の和平工作にことごとく反対し、各事変の拡大を煽り立てていたのである。


これも小生のブログ「第2次上海事変(4~)」(2012.5.31~)より引用する。



そして日本にも、ゾルゲと行動を共にした共産主義者、「尾崎秀実(ほつみ)」がいた。報知新聞記者を父に持つ尾崎秀実は、父親が台湾に赴任したことから少年時代は台湾で育つ。台湾中学、一高、東京帝大法学部と進み、大学院1年で中退している。この大学院ではもっぱら共産主義の研究を続け、このとき完全な共産主義者となったと言われている。Wikipediaによると「尾崎秀実(ほつみ)」は1926(T15)年朝日新聞社に入社、1928(S3)年11月に上海支局に転勤、1932(S7)年2月に大阪本社に戻る。この3年3ヶ月余の間に中国共産党と交流し、更には米国人女性の共産主義者のアグネス・スメドレーを通じて、リヒャルト・ゾルゲと交際しコミンテルンの一員となり、日本におけるゾルゲの諜報活動の片棒を担ぐことになる。

・・・・・

その後「尾崎秀実(ほつみ)」は、1934(S9)年10月に東京朝日に移り、1936年に中国問題の専門家として太平洋問題調査会に参加する。1938(S13)年7月に東京朝日を退社して、第1次近衛内閣の嘱託となり1939年1月の内閣総辞職までその職に留まる。尾崎は嘱託となると同時に近衛主宰の政治勉強会「朝飯会」のメンバーとなりこの関係は第3次近衛内閣の1941(S10)年8月まで3年間も続いた。その間尾崎は、中国の各事変に対して不拡大方針を堅持する政府に対して、事あるごとに拡大させよと強力に主張し、和平工作に反対している。

尾崎は自分を「完全な共産主義者」であると認め、その最終目的は「全世界での共産主義革命を遂行する」ことであり、逮捕後の取調べでは「世界共産主義革命遂行上のもっとも重要な柱であるソ連を日本帝国主義から守ることである」と、供述していると言う。そのため日本が蒋介石などと和平を結ばれ安定してもらっては(ソ連にとっても、中国共産党にとっても)困ることになるので、盛んに中国での戦争拡大を近衛内閣に吹き込んでいたのである。ゾルゲも尾崎も当然だか、その後死刑に処せられている。

・・・・・

そして日本の尾崎秀実はソ連と通じていたため、この顛末も正確に予測できた。そのため近衛文麿に認められ、彼の勉強会にもぐりこむことが出来たのである。そして日本の情報はソ連に筒抜けとなり、対支政策がことごとく裏目と成り、日中戦争に引きずり込まれて行くこととなる。近衛文麿とその取り巻きたちは、なぜ尾崎がこれほどまでに正確に予測できたのか、と疑問には思わなかったのか。これなどは第一級の反省材料であろう。

(続く)
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日本近代化の流れ(56)

2017-01-27 00:00:00 | Weblog

これで南京大虐殺などは作り話で虚偽のものであったことが、更にお分かり頂けたことと思う。しかし「通州事件」は現実に存在した、中国人による大虐殺事件なのである。

また、「新しい歴史教科書をつくる会」(高池勝彦会長)では、「通州事件アーカイブ設立基金」を設立して活動をされていますが、ユネスコ記憶遺産に申請した資料を順次公開するとともに、『通州事件殉難者慰霊碑』を中国大使館の近くに建立する予定である。(「正論」2016年7月号参照のこと。)
我々も大いに協力してゆきたいと思っている。

通州で亡くなられた日本人全員の、ご冥福をお祈りいたします。


中国共産党は、このようにして蒋介石と日本軍を対峙させたかったのである。蒋介石の目を日本軍に向けて、と言うよりも、日本軍の目を蒋介石軍に向けさせるために、蒋介石軍に潜り込んだ共産党員が、あたかも蒋介石軍をして日本人を凌辱、虐殺、略奪せしめたものである。蒋介石と日本軍が対峙しているすきに、中国共産党軍は力を蓄えてゆこうとする戦術・戦略だったのである。

次の第二次上海事変は、将に日本軍を中国内戦に引っ張り込む作戦そのものであった。これにより、日本軍は蒋介石軍(国民革命軍)と戦わざるを得なくなったものであった。


(9)第二次上海事変

1937.7.29の通州事件のほとぼりの冷めやらぬ1937.8.9に、今度は上海で日本軍将校とお付きの日本兵が、中国保安隊に機銃掃射を受けて殺されるという事件が発生している。次も小生のブログからの引用である。


1937(S12)年8月9日夕刻、日本軍・上海海軍特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉とお付の運転手の斉藤與蔵一等水兵が、上海共同租界の国際的自由通行路である記念通り(モニュメントロード)を走行中において、中国保安隊多数に囲まれて機銃掃射を受けて殺された。この事件を契機に、8月12日未明中国(国民党)正規軍が上海共同租界の日本人区域を包囲し更に上海各地区に増派してきた。このため日本領事は国際委員会を再招集して中国軍の撤退を要求したが、中国側は聞き入れなかった。日本側は自重を重ねていたが、中国側の好戦的な態度を受けて同日8/12夕刻5時50分に初めて東京の軍令部へ陸軍の派兵を要請する電報を打った。しかし動員には時間が掛かるため、戦闘を拡大しない方針を堅持した。


しかしながら8月13日午前10時半頃には、中国軍は日本軍陣地に機銃掃射を開始した。日本は戦闘が上海の国際区域に拡大しないように防衛的戦術に限定し、中国軍機が飛来し艦船に爆弾を投下しても対空砲火は撃たなかった。

しかし8月13日午後9時頃からは、中国保安隊が海軍上海特別陸戦隊を包囲し、攻撃を開始し戦闘状態に突入した。蒋介石中国軍は3万1千名日本人区域を包囲しているのに対し、日本軍は上海陸戦隊の2,200を中心に、各地区からの寄せ集めの海軍特別陸戦隊4,000名あまりであった。このため日本海軍は劣勢を補うために渡洋爆撃を発令し、8/14,15,16と台湾や九州から合計延べ74機の96式陸攻を飛ばし中国各地の飛行場を攻撃したが、9機が未帰還、3機が不時着・大破、65名の搭乗員が犠牲となった。それなりの爆撃の効果は挙げたが予想以上の損害を蒙っている。


しかしながら8月14日には、日本艦艇を狙い再度中国軍機の空襲が開始された。しかしこの爆撃により、中国軍機の落とした爆弾がフランス租界に着弾し、民間人3,000人の死傷者を出すに至った。同時に上海租界の日本海軍陸戦隊も攻撃されたが、激戦の末撃退している。

これを受け、日本側もいつまでも「不拡大方針」を続けることは出来ないと判断し、8月15日未明に「支那軍よう懲、南京政府の反省を促す」(膺懲、こらしめる)との声明を発表し、第3師団と第11師団に動員命令が下り上海派遣軍が編成され、8月18日、19日と上海に到着しようやく6,300名ほどの戦力となった。しかし蒋介石軍は更に3個師団が追加され7万人あまりの戦力となっていた。



これは2012.5.28~の小生のブログ第2次上海事変(1)の中の一文である。昭和12年、1937年8月12日に突如中国国民党軍が、22,000名の日本人が居住する日本人区域を包囲し攻撃をしてきたものであった。

この時日本の守備隊は4,000名で、中国軍は31,000名。中国支那軍は4倍の大勢力です。

この数字を見て、皆様はどのようにお考えになりますか。

支那の4倍の軍隊に対して、日本は無謀にも侵略を開始したと思いますか。誰もそんな風には思いません。この第2次上海事変は、日中(侵略と中国の言う)戦争と言われるものの最初の大掛かりな戦闘だったのです。

誰も日本居留民を守るための4千の日本陸戦隊が、3万1千の支那正規軍に対して、侵略戦争を始めたなどとは思いませんよね。

だけど支那・中国は、日本が侵略戦争を始めたなどと、吹聴しているのです。

だからこの嘘がばれないように、中国や日本の左派は、この第2次上海事変公表したり、教えたりしないようにしているのです。

学校の教科書では、盧溝橋事件は扱っているものの、第2次上海事変は書かれてはいないのです。小生もこの手のブログを始めるまでは、この第1次、第2次上海事変は知りませんでした。

この第2次上海事変の内容を教えてしまうと、中国の言う日中侵略戦争と言う根拠が、崩れてしまうからです。いまだに日本には、この嘘の自虐史観が蔓延(はびこ)っているのですが、そんな輩には、この第2次上海事変の真実を叩きこませたいものです。

だから真実の歴史を知らなければならないのです。今の習近平も、この嘘で塗り固めてきた歴史を振り回して、日本に対して今でも、包囲網を築いてきているのです。

このブログも参考にされるとよい。↓
(http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/07/post-ba70.html)

そしてその証拠に、今までの統一見解であった「8年の抗日戦争」(1937.7月盧溝橋事件~1945年)を、14年間(1931.9柳条湖事件~)に統一するよう通知を出したのである。

それは盧溝橋事件にしても、第2次上海事変にしても、事の起こりは中国軍から仕掛けられたものであったからで、それが公にされると(既に公になってはいるが)この抗日戦争の8年の根拠がものの見事に崩されてしまうからではないかと、小生は勘ぐっているのである。

柳条湖事件であれば、それが日本居留民日本人関係事業への暴行、略奪、虐殺行為に対する反撃のためのものであっても、日本軍から仕掛けられたものであると、それなりに世界から認められたものであるからである。14年と言う根拠は崩れることがないと、習近平は踏んだのであろう。



【歴史戦】中国が「抗日戦争」期間を「延長」 教科書で8年間から14年間に 1931年の柳条湖事件を起点に
2017.1.10 17:32

中国の小中高の教科書や教材で「抗日戦争」の期間を従来の8年間から14年間に“修正”するよう全土の教育部門に行った1月3日付の中国教育省による通達(香港フェニックステレビ電子版から)

 【上海=河崎真澄】中国の「抗日戦争」に関する小中学校から高校までの歴史教科書の記述で、戦争の期間について従来の1937年から45年までの8年とする解釈を変更し、31年からの14年に全面修正するよう、中国教育省が全土の地方政府に通達を行ったことが10日、分かった。

 香港のフェニックステレビ(電子版)が入手した1月3日付の教育省の通達文書によると、「抗日戦争は14年間だったという概念を確実に根付かせるよう改めよ」として、今春から教科書や教材の記述を全面的に変更するよう要求した。

 中国はこれまで「抗日戦争」として、37年7月に北京(当時は北平)近くで発生した「盧溝橋事件」(中国では「七七事件」)を起点にしてきた。だが、習近平政権下で歴史の見直しが進み、31年9月に奉天(現在の遼寧省瀋陽)付近で起きた「柳条湖事件」に遡(さかのぼ)らせることにしたという。

 45年8月の終戦までとの認識は変わらないが、一部には1894~95年の「日清戦争」からの「抗日戦争50年」を掲げ、期間をさらに広げようとする動きもある。習政権には歴史教育を通じ、対日姿勢を一段と強める狙いがありそうだ。
http://www.sankei.com/world/news/170110/wor1701100035-n1.html
(続く)
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日本近代化の流れ(55)

2017-01-26 00:00:00 | Weblog

それによると、

五月三十一日、「通州事件」をユネスコの世界記憶遺産(「世界の記憶」)に登録申請した。この方針を決めてから七ヵ月目に、念願が実現した。尽力いただいた関係者の皆様に感謝したい。以下、簡単に申請に至るまでの経過を示す。・・・・・

昨年十月、虚構の「南京事件」が中国の申請で、ユネスコの記憶遺産に登録されてしまった。・・・・・

その後、「通州事件」をユネスコに登録しようと思いついた決定的なきっかけがあった。・・・十月二十七日付の週刊誌『ニューズウィーク』に書いた「中国の虐殺も記憶遺産に登録すべきだ」というコラムを読んだことである。・・・・・

申請は通州事件とチベットにおける大量殺人をセットにして、「20世紀中国大陸における政治暴力の記録」という統一テーマを立て、共同申請案件として提出した。・・・・・
五月三十一日、メールで十五ページの英文の申請書をユネスコに送信し、同時に紙媒体とCD媒体の資料を、段ボールでパリに送った。…提出した資料は、次の十八アイテム(項目)である。

➀外務省声明
②帝国議会陸軍大臣報告資料
③天津警察署通州分署作成殉難者氏名
➃殉難者発見現場地図
➄萱島高証言
⑥桂鎭雄証言
⑦桜井文雄証言
⑧佐々木テン証言
⑨安藤利男証言
⑩橘善守証言
⑪浜口茂子証言
⑫張慶余「冀東保安隊通県決起始末記」
⑬武月星他「盧溝橋事変風雲編」
⑭通州事件新聞記事集成
⑮作家・吉屋信子の報道記事
⑯ウィリアムズ著書における事件の観察
⑰通州事件を悼む歌謡曲コレクション
⑱通州事件の関連写真

なお、同じく五月三十一日の締め切り日に、山本優美子氏の「なでしこアクション」と「慰安婦の真実国民運動」、およびアメリカの「日本再生研究会」が共同で、「慰安婦と日本軍規律に関する文書」というタイトルで記憶遺産に登録申請したことを付け加えておく。・・・・・


と述べられている。そして、引き続き、⑭、⑨、⑪の証言が記載されている。⑧の佐々木テンさんの証言はすでに紹介済みである。その証言内容は、いずれも佐々木テンさんの証言内容に引けを取らないほどの凄惨なものである。

昨年十月、虚構の「南京事件」が中国の申請で、ユネスコの記憶遺産に登録されてしまった」以上、この真実の「通州事件」が記憶遺産に登録されない筈はないと思われるのだが、一つ気になることがある。

それと言うのも、ユネスコ記憶遺産国際諮問委員会の事務局長が、イリーナ・ボコバ氏と言うブルガリア出身のブルガリア共産党の党員で極めて親中派の女性であることである。だから、虚構の「南京事件」が登録されてしまったのである。

このことは次の記事に詳しく述べられているので、ぜひ参照願う。



【世界記憶遺産】中国版「アンネの日記」こそが南京大虐殺がなかった証拠だ! 藤岡信勝(拓殖大客員教授)
2015.12.14 14:00
http://www.sankei.com/premium/news/151129/prm1511290009-n1.html


次にその核心部分を載せる。中国がユネスコに提出した資料の「国際安全区の金陵女子文理学院の宿舎管理員、程瑞芳の日記」についてのものである。中国はこれを南京大虐殺の証拠の第1番として提出しているものである。よく読めば、この日記には虐殺などは一件も記載されていないのである。


『・・・・・
日記は「南京大虐殺」不在の証明

 ところが、程瑞芳日記の内容を読んでみると、誠に拍子抜けするだけで、この文書のどこにも「大虐殺」など書かれていないのである。全くの噴飯物と言わざるを得ない。

 この日記をめぐる前後の状況をまずのべておきたい。南京の通常の人口は100万人だが、日本軍との戦闘が近づいてくると、多くの市民が財産をあるったけ持ち出して、近郊に疎開した。彼等はなぜ逃げ出したかというと、中国軍が来るのが恐ろしかったからである。日本軍がくれば市内の秩序が回復することを市民は期待し、歓迎していた。

 地方に疎開することができず、南京に取り残された極貧層の20万人の市民は、防衛司令官の命令で市の中心部に設定された安全区に収容された。その安全区の中に金陵女子文理学院(金陵女子大学から名称変更)があった。

 そこで、金陵女子文理学院が避難民の収容所の役割を果たすことになった。同学院の建物には4000~5000人の婦女子を収容したが、やがて男性も収容し、人数は9000人にふくれあがった。入れない市民は路上で寝起きした。衛生状態も治安も極めて悪かった。

 加えて、安全区には1万人以上の敗残兵が、武器を持って潜伏していた。後に摘発された武器弾薬は、トラック50台分に及んだ。彼等は軍服を脱ぎ捨て、民間人の服装をして、便衣兵となっていた。こうした行動は戦時国際法違反であり、民間人に潜り込んだ敵兵を摘出して掃討することは戦闘の一環で合法的な行為だった。

 日本軍は12月14、15、16の3日間、掃討戦を展開した。

 程瑞芳日記は、1937年12月8日から1938年3月1日までの84日間の記録で、筆者が金陵女子文理学院の教師として難民受け入れにいかに苦労したかが書かれている。しかし、この日記の真の目的は、日本軍の悪行を記録しておこうとするところにあった。

 程瑞芳は、実は東京裁判に供述書を提出し、11人の娘が連れ去られ強姦されたこと1人の男が部屋に入って強姦したこと1軒の家が焼かれ主人が殺されたこと、の3件を証言していた。

 日記ではさらに多数の不法行為が日本軍の仕業であるかのようにして書かれている。しかし、よく読むと、多くの事例はまことに漠然とした記述であり、その雰囲気は国民党政府がまとめた「南京安全地帯の記録」ととてもよく似ている。それは、どちらも伝聞による記述が多数にのぼるからである。

 南京事件研究家の阿羅健一氏は、程瑞芳日記を詳細に検討し、幸福実現党が4月8日に提出した反論書の一部として批判文を執筆した。ユネスコに提出したのは英訳だが、日本語の原文は、9月7日に行われた「南京の真実国民運動」と「慰安婦の真実国民運動」の合同記者会見の場で、「程瑞芳日記について」と題するA44ページの文書として配布した。以下、この文書に依拠して記述する。

 阿羅氏は、程瑞芳日記の記述を、(1)漠然とした記述(2)噂話(3)虚偽(4)程瑞芳自身が見た被害-の4つに分類した。

 このうち「漠然とした記述」というのは、例えば「城の南側の多くの建物が焼かれた。毎晩焼かれている」だとか、「外では毎日略奪が発生している。あらゆる物が盗られる」などといった記述である。具体性がない。

 「噂話」というのは、「全南京市で今のところ憲兵が17人しかいない」といった記述である。憲兵が少ないから軍紀が乱れたと言いたいらしいが、事実は200人の憲兵がいた。人から聞いた噂話を書いたのであろう。

 「虚偽」というのは「ある場所では死体で路面が見えなくなっている」といった記述である。東京裁判で検察側が提出した記録によれば、安全区内にあった死体は175体であった。路面が見えなくなるどころか、死体を見つけるのが大変である。

 かくて「程瑞芳自身が見た被害」をまとめると、強姦8件、略奪6件、拉致1件、殴打1件、となる。東京裁判に提出した供述書の被害よりも強姦件数が減っていることに注目していただきたい。

 仮に、強姦8件以下の被害が確かに程瑞芳の目撃した被害だとしても、つまり、彼女がこの点で嘘を書いていないと仮定しても、この資料の結論は全く奇妙なことになる。ここには殺人の記録が皆無だからである。前記・松岡氏の言う通り、これが、「中国人が、南京大虐殺をその当時、その場で記録した文章」だとすれば、この資料からは「『南京大虐殺』では殺人はなかった」という結論になる。これは矛盾した、無意味な命題であるから、結局は「南京大虐殺はなかった」という命題に書きかえられる。

 驚くべきことに、中国が最も重視して、腕によりをかけて提出した第一級の資料が、何と、「南京大虐殺はなかった」という主張を裏付ける資料に反転してしまったのである。

多数の非行は敗残中国兵の所業

 それだけではない。これらの不法行為はそもそも日本人がやったのかどうかに疑問がある。というのは、1938年1月4日付けのニューヨークタイムスに次のような記事が掲載されているからである。

中国軍の大佐と6人の将校が金陵女子大学に隠れ、略奪したり、少女を強姦して日本兵がやったように見せかけていた。大佐は宣教師によって、難民収容所を管理する2番目の地位に就けられていた

 程瑞芳が、この捏造とスリカエを知りながら、日本人になすりつけている可能性も否定できない。南京の日本軍は、掃討や警備などのため宿営所を出る時は、中隊、小隊、分隊といった単位ごとに同一の行動をとった。夜間外出は禁止されていた。脱走すれば厳罰に処せられる。

 さらに重要なことは、南京陥落直後から市内は全面停電となり、クリスマスころまで復旧しなかったことである。禁を犯して外出し、地理も分からない真っ暗闇の敵国の首都を、敵の敗残兵が武器をもって身を潜めているなか、女性をとらえて強姦するという行為に及んだ日本兵は何人いただろうか。殆ど考えられない。ところが、「南京安全地帯の記録」では、強姦事件の半数は夜間に起こっているのである。これは敗残中国兵の仕業であることが明白だ。

 12月20日の程瑞芳日記には、次の記述がある。

「今日もたくさんの難民が来た。二百号(文学館)の3階までぎっしり埋まっている。おそらく憲兵が保護していると思って避難して来たと思うが、憲兵も女の子を庭に引きずり出して強姦する。彼等は人間じゃない。場所を問わないでやる。畜生だ」

 この「畜生」は、はたして何国人なのだろうか。ちなみに、程瑞芳と行動を共にしていた女学院の責任者ミニー・ヴォートリンの同日付の日記(『南京事件の日々』1999年、大月書店 69-70頁)には、右のような記述はない

 中国の提出した・以下の資料についても、同様のことが必ず指摘できるはずだ。その意味では、資料の公表は論争にとって好都合である。日本は今こそ歴史戦に本気で取り組まねばならない。
・・・・・』
(続く)
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日本近代化の流れ(54)

2017-01-25 00:00:00 | Weblog

このように日本の近代化の過程では、多くの日本人が特に支那人に虐殺されている事件が多発している。

例えば、

尼港事件
1920(T9)年3月~5月 には、アムール川(黒竜江)河口のニコラエフ(尼港)を占領中の日本守備隊(シベリア出兵中)と居留民700余名が、露・朝・支那からなる4千名の共産パルチザンに攻撃され、凌辱・暴行・虐殺されている。

南京事件(1927年)
1927年3月24日には、南京に入城した蒋介石の北伐軍が、日本居留地や領事館を襲い、領事夫人はじめ30数名の日本婦女子が凌辱され、数十名が虐殺された。

済南事件
1928(S3)年5月3日には、国民革命軍(蒋介石国民党の北伐軍)が済南城に入城してきたため、日本軍は南京事件(1927年)の再発を恐れ軍隊を派遣し居留民を保護した。しかし蒋介石が「責任を持って治安を守るので、日本軍の防御施設を撤去してほしい」との申し入れがあり、日本軍はそれを信じてそれを撤去し撤退した。すると5/3に突然北伐軍が居留民を攻撃、日本人400人が凌辱・虐殺・暴行・略奪され、16人が惨殺された。その有様は言語を絶するものであり、婦女はすべて陰部に棒が挿入され、あるいは面部に斬撃を加え、滅多切りされていた。日本軍は国際連盟に覚書を提出し、北伐軍に多数の便衣兵がいたことを指摘している。彼らは多分共産党の工作員であり、中国共産党政府は、この事件は日本軍が起こしたこととして、5/3を「国恥記念日」としている。支那特有の虚偽宣伝である。日本は甘すぎる。この時の日本人の惨殺された写真を、南京大虐殺や731部隊の被害者などと宣伝している。

さらなる詳細は、
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1879.html
http://www.geocities.co.jp/Bookend-Yasunari/7517/nenpyo/1921-30/1928_sainan_jiken.html
http://brain.exblog.jp/2809948/
などを参照されるがよい。

そして1937(S12)年7月29日の通州事件となるのである。

この南京事件(1927年)、済南事件、通州事件は、中国国内で起こった日本人虐殺の代表的な3件である。

そして終戦となっても支那のこの態度は変わりません。なお一層激しくなっています。満州から引き揚げてこられる途中に、多くの日本人が命を落とされていますが、

通化事件
更には終戦の翌年1946(S21)年2月3日~から、ソ連の侵攻などから命からがら逃げてきた日本人は、朝鮮との国境の満州の通化市に集合しました。多くは老人や女・子供たちでしたが、そこへ中国八路軍(共産軍)と朝鮮人民義勇軍が攻めてきて、多くの日本人が凌辱、暴行、虐殺、略奪されました。その数は3,000人以上、4,000人ともいわれています。そして残った男達はシベリアへ抑留されていったのでした。ロシア兵も輪をかけて鬼畜、悪党でした。
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-758.html   ここに詳しく書かれています。

このほか2016.12.31の当ブログでも紹介したように、あちこちで多くの日本人が支那人たちによって、虐殺されています。我々日本人は、共産中国虚偽宣伝に騙されてはいけません。中国のこの手の宣伝は、ほとんどが虚偽、偽装、大嘘だと思っていた方がよく、たいていはその反対のことが真実に近いのです。要は中国の白と言うのは、白でなくて黒なのです。現在の東シナ海に関するニュースでも、そのように判断しておいた方が、真実に近いのです。

はだしのゲン」の内容も、日本軍を中国軍に置き換えて読めば、それが正しい事実となるのです。
作者の中沢啓治は、あの世に行って、支那で命を落とされた多くの日本人に攻められて、地獄でのた打ち回っていることでしょう。彼の係累も極楽へ行くことはないと思われます。


ここでこの「通州事件」について、一つ言っておかなければならないことがあります。

先ずは次の記事をお読みください。



「通州事件」ユネスコ記憶遺産に申請へ つくる会「世界に知ってほしい」 中国人部隊の邦人200人殺害
2015.12.11 23:17

 国連教育科学文化機関(ユネスコ)の記憶遺産に中国の「南京大虐殺文書」が登録された問題で、「新しい歴史教科書をつくる会」(高池勝彦会長)は11日、2017年の記憶遺産登録を目指し、日中戦争の発端となった盧溝橋事件直後に200人以上の日本人が中国側に殺害された「通州事件」の資料をユネスコに申請すると発表した。

 通州事件は1937年7月29日、北京東方の通州で日本人が中国人部隊に襲われた事件。申請する資料は、東京裁判に提出された証言や外務省の抗議声明などの公的文書のほか、当時の新聞の号外なども予定している。同会は「通州事件が忘れられている現状を意識的に変えなければならない。広く世界に知ってほしい」と訴えている。

 記憶遺産の登録審査は2年に1度行われ、申請できるのは1国2件まで。ユネスコの国内委員会はすでに2017年の登録候補2件を公募の上で選定しており、それぞれ申請者である自治体などが来年3月に申請書類を提出する。それ以外の民間団体や個人も制度上はユネスコの国内委員会を通さずに申請が可能なため、同会はユネスコに直接申請する。文科省によると、つくる会の申請などで日本からの申請が3件以上となった場合、ユネスコから国内委員会に優先順位を付けるよう差し戻される。
http://www.sankei.com/life/news/151211/lif1512110039-n1.html



このその後の結果が、「正論」2016年8月号に、藤岡信勝氏(拓殖大学客員教授)が「民族の受難 通州事件の研究」(第2回)として、報告されている。
(続く)
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日本近代化の流れ(53)

2017-01-24 00:00:00 | Weblog

このような事実があるにも拘わらず、この手の支那人の極悪非道な行いを、日本軍が行ったとした漫画を描いて、得意になっている非国民がいる。

この漫画は中沢啓治と言う輩が書いた「はだしのゲン」というものだ。

この漫画は、佐々木テンさんの目撃談を読んだ人には、支那人が通州で日本人に対して行った蛮行を余すことなく示したものであるということはすぐにわかるものである。にも拘らず、日本軍の蛮行として描いている。しかも天皇陛下を「最高の殺人者」呼ばわりまでしている、まったくの不埒者である。これはhttp://blogs.yahoo.co.jp/hisao3aruga/38427076.html に載せられていたものであるが、中沢啓治は典型的な支那の宣伝工作員、と断じている。



是非ともこの↓ブログを参照願いたい。

中沢啓治死去「はだしのゲン」の作者・天皇陛下を「最高の殺人者」「戦争狂」呼ばわりし、支那軍の蛮行を日本軍の仕業にすり替え、在日朝鮮人は無理やり連れて来られたと嘘八百の愚劣極まりない極左のプロパガンダ
http://blogs.yahoo.co.jp/hisao3aruga/38427076.html
 


中沢啓治は、きっと中国共産党の手先で、共産党員だったのでしょう。

特に共産党の党是「共産化こそが歴史の進歩であるから、共産化のためには虐殺・謀略・陰謀、破壊工作・テロ、虚偽宣伝などあらゆる手段が許されせる」というものを、支那人は金科玉条としているから、空恐ろしいと言わざるを得ない。この通州事件は、そのことを現実のものとして世界に示したものである。中沢もこれに殉じたものであろう。

2017.1.5の当ブログの➄で示したように、通州事件は中国共産党が計画し、実行したものであった。国民党の二十九軍の軍長の宋哲元や通州保安隊の隊長らを、共産党工作員たちが仲間に引き入れていたもので、それぞれの部隊には共産党員や共産党シンパが沢山いたものと思われる。この通州事件には、教導総隊という学生部隊や国民党軍本体が動員されていることからも、国民党軍全体に、上から下まで相当数の共産党員が存在していたことが理解されるものである。

中国共産党はもちろんのこと、日本共産党も、決して例外ではない。一種のテロ組織と看做して、扱うことが必要である。





邦人多数虐殺「通州事件」 中国共産党の扇動判明 蜂起部隊に工作員接触
2017.1.4 09:18
中国-北京市通州区

 日中戦争(1937~45年)の開始直後、北京郊外で邦人多数が虐殺された37年7月の「通州事件」で、蜂起した親日地方政権の中国人部隊が、中国共産党の扇動工作を受けていたことが、中国での研究で明らかになった。日中戦争は今年で開始80年となるが、「抗日民族統一戦線」の結成を急ぐ当時の共産党が、敵対する親日政権の軍・警察組織に離反を働きかけたことで、惨劇につながる蜂起の素地が事前に形成されていたことが裏付けられた。(編集委員 山本秀也)

                   ◇

 通州事件を起こした「冀東(きとう)防共自治政府」(所在地・通州)の「保安隊」をめぐっては、国民党政権の軍・地方長官と保安隊幹部の通謀が判明する一方、共産党の関与に関しては、日本では可能性が指摘されながら実態が明示されていなかった。

 共産党の関与を示す研究は、党史や地方史に関する報告として、河北省唐山市の機構が運営する研究サイト「政協唐山文史網」や、歴史専門誌「国家人文歴史」などで、近年相次ぎ公表された。

 それによると、河北省周辺での地下活動を統括した共産党北方局(劉少奇書記)の下で、「黎巨
峰(れい・きょほう)」「王自悟(おう・じご)」という工作員が、35年の冀東防共自治政府の成立直後から、保安隊の張慶余(ちょう・けいよ)・第1総隊長、張硯田(ちょう・けんでん)・第2総隊長と関係を構築した。

 この接触で、共産党は「抗日救国に一致団結する大義」を張らに植え込んだほか、保安隊内への浸透も進めた。
 さらに、盧溝橋事件に始まる日中戦争以前に華北一帯で頻発した抗日活動も、共産党の工作が奏功したものだと指摘。

 実例として、36年11月、河北省昌黎県を列車で移動中の山海関守備隊長、古田竜三少佐ら日本軍将校5人が、同じ保安隊の兵士に拉致された事件について、共産党に影響された張硯田の指示だったことを明らかにした。

 35~36年当時、毛沢東率いる共産党は、陝西省北部の根拠地で国民党軍の包囲を受けつつ、党勢の立て直しを模索。国民党や親日勢力を取り込む「抗日民族統一戦線」の構築を方針に掲げ、国民党などの支配地域で地下工作を進めていた。

 保安隊工作にあたった黎巨峰は、小学校の教員を務めた地下党員。「通州兵変(クーデター)の推進役」として評価される。事件後は河北省東部(冀東)地区で共産党武装組織の幹部となり、38年8月に同省楽亭県での暴動を組織した。

 張慶余らは、盧溝橋事件(37年7月7日)で日本軍と衝突する二十九軍の軍長などを務めた国民党の宋哲元らと事前に通じ、資金を供与されていたとされる。

 通州事件で、保安隊は7月28日の深夜から行動に移り、第1総隊が日本軍守備隊の攻撃、第2総隊が外部との連絡切断、教導総隊が駅の制圧と日本軍増援部隊の阻止を担当した。共産党が蜂起計画に直接関与したのか、あるいは一般居留民の被害まで想定していたのかはなお不明だ。

 蜂起を指揮した張慶余らは通州事件の後、国民党軍の中将となり、戦後まで生存。中国では「抗日将領」として評価されている。

                   ◇

 【用語解説】通州事件

 日中戦争開始直後の1937年7月29日未明、北京の東にある通州(現・北京市通州区)で、親日地方政権「冀東防共自治政府」(殷汝耕=いんじょこう=政務長官)の保安隊が蜂起した事件。自治政府、日本軍の関係機関のほか、日本人居留民が襲撃され、朝鮮半島出身者を含む200人あまりが死亡した。多くの女性や子供が、きわめて残虐な方法で殺害されたことで、日本の国内世論を激高させた。
http://www.sankei.com/world/news/170104/wor1701040025-n1.html
(続く)
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日本近代化の流れ(52)

2017-01-23 00:00:00 | Weblog

近水楼の池を真っ赤に染める-⑧

その近水槽(楼)の近くに池がありました。
その池のところに日本人が四、五十人立たされておりました。

あっ、またこんなところに来てしまったと思って引き返そうとしましたが、何人もの支那人がいるのでそれは出来ません。
若し私があんんなもの見たくないといって引き返したら、外の支那人達はおかしく思うに違いありません。

国民政府軍が日本人は悪人だから殺せと言っているし、共産軍の人達も日本人殺せと言っているので、通州に住む殆どの支那人が日本は悪い、日本人は鬼だと思っているに違いない。

そんなとき私が日本人の殺されるのは見ていられないといってあの場を立ち去るなら、きっと通州に住んでいる支那人達からあの人はおかしいではないかと思われる。
Tさん(沈さん)までが変な目で見られるようになると困るのです。

それでこの池のところで又ジーッと、これから始まるであろう日本人虐殺のシーンを見ておかなくてはならないことになってしまったのです。

そこには四十人か五十人かと思われる日本人が集められております。
殆どが男の人ですが、中には五十を越したと思われる女の人も何人かおりました。

そしてそうした中についさっき見た手を針金で括られ、掌に穴を開けられて大きな針金を通された十人程の日本人の人達が連れられて来ました。
国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊、それに学生が来ておりました。

そして一番最初に連れ出された五十才くらいの日本人を学生が青竜刀で首のあたりを狙って斬りつけたのです。
ところが首に当たらず肩のあたりに青竜刀が当たりますと、その青竜刀を引ったくるようにした国民政府軍の将校と見られる男が、肩を斬られて倒れている日本の男の人を兵隊二人で抱き起こしました。

そして首を前の方に突き出させたのです。
そこにこの国民政府軍の将校と思われる兵隊が青竜刀を振り下ろしたのです。

この日本の男の人の首はコロリと前に落ちました。
これを見て国民政府軍の将校はニヤリと笑ったのです。

この落ちた日本の男の人の首を保安隊の兵隊がまるでボールを蹴るように蹴飛ばしますと、すぐそばの池の中に落ち込んだのです。
この国民政府軍の将校の人は次の日本の男の人を引き出させる、今度は青竜刀で真正面から力一杯この日本の男の人の額に斬りつけたのです。

するとこの日本の男の人の額がパックリ割られて脳髄(脳漿)が飛び散りました。
二人の日本の男の人を殺したこの国民政府軍の将校は手をあげて合図をして自分はさっさと引き上げたのです。

合図を受けた政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、学生達がワーッと日本人に襲いかかりました。
四十人か五十人かの日本人が次々に殺されて行きます。

そしてその死体は全部そこにある池の中に投げ込むのです。
四十人か五十人の日本の人を殺して池に投げ込むのに十分とはかかりませんでした。

池の水は見る間に赤い色に変わってしまいました。
全部の日本人が投げ込まれたときは池の水の色は真っ赤になっていたのです。

支那人への嫌悪感から離婚、帰国

私はもうたまりません。
Tさん(沈さん)の手を引いて逃げるようにその場を立ち去ろうとしました。

そして見たくはなかったけど池を見ました。
真っ赤な池です。
その池に蓮の花が一輪咲いていました。

その蓮の花を見たとき、何かあの沢山の日本の人達が蓮の花咲くみほとけの国に行って下さっているような気持ちになさしめられました。

Tさん(沈さん)と一緒に家に帰ると私は何も言うことが出来ません。
Tさん(沈さん)は一生懸命私を慰めてくれました。

しかしTさん(沈さん)が私を慰めれば慰めるだけ、この人も支那人だなあという気持ちが私の心の中に拡がって来ました。

昼過ぎでした。

日本の飛行機が一機飛んで来ました。
日本軍が来たと誰かが叫びました。

ドタドタと軍靴の音が聞こえて来ました。
それは日本軍が来たというもので、国民政府軍の兵隊や保安隊の兵隊、そしてあの学生達が逃げ出したのです。

悪魔も鬼も悪獣も及ばぬような残虐無惨なことをした兵隊や学生達も、日本軍が来たという誰かの知らせでまるで脱兎のように逃げ出して行くのです。
その逃げ出して行く兵隊達の足音を聞きながら、私はザマアミヤガレという気持ちではなく、何故もっと早く日本軍が来てくれなかったのかと、かえって腹が立って来ました。

実際に日本軍が来たのは翌日でした。
でも日本軍が来たというだけで逃げ出す支那兵。

とても戦争したら太刀打ち出来ない支那兵であるのに、どうしてこんなに野盗のように日本軍の目を掠めるように、このような残虐なことをしたのでしょうか。
このとき支那人に殺された日本人は三百数十名、四百名近く(注)であったとのことです。(注)正しくは、二百数十名。
私は今回の事件を通して支那人がいよいよ嫌いになりました。
私は支那人の嫁になっているけど支那人が嫌いになりました。

こんなことからとうとうTさん(沈さん)とも別れることとなり、昭和十五年に日本に帰って来ました。

でも私の脳裏にはあの昭和十二年七月二十九日のことは忘れられません。
今でも昨日のことのように一つ一つの情景が手に取るように思い出されます。

そして往生要集に説いてある地獄は本当にあるのだなあとしみじみ思うのです。

~~~~~~~~~~~~~~

以上です。

通州で被害に遭われた方々のご冥福をお祈りしたいと思います。

このお話は、教育社発行しらべかんが著「天皇さまが泣いてござった」という本からの引用です。
デジタル化にあたっては、「blog:徳島の保守」のみなさんが、財団法人慧燈財団、前理事長であられた、調寛雅(しらべかんが)さんのご子息様のご許可を頂き、引用掲載され、当ブログで再掲させていただきました。
http://d.hatena.ne.jp/minoru20000/20100730/p1

ちなみに文中に出て来るSさん(佐々木テンさん)の夫、支那人のTさん(沈さん)は、支那共産党のスパイだったと言われています。
また、被害に遭遇されたSさん(佐々木テンさん)は、事件後、日本陸軍によって事情聴取を受けるのですが、そのあまりの可哀想さに、取り調べにあたった軍人さんが、彼女のお婆さんの体験をもとに、佐賀の因通寺にお連れしたのです。

因通寺は、たいへんに歴史のあるお寺で、しかも陛下にも奏上されたことのある由緒正しい立派なお寺です。
昭和天皇が戦後佐賀に行幸されたときは、このお寺を尋ねられてもいます。

日本陸軍の担当官は、上層部とも連絡をとりあい、このSさん(佐々木テンさん)の心が少しでも救われるようにと、因通寺に、彼女をお連れしているのです。
そして彼女は傷心の日々を、このお寺で過ごされています。

そして問わず語りに語った彼女の体験記を、ご住職がまとめられたのが、この体験記なのです。

たいせつなことがあります。
それは、この事件は、単に73年前のひとつの特異な事例ではない、ということです。
支那では、いまでも法輪功やウイグル、チベットで、同じことが繰り返されています。

そしていま、民主党政権のもとで、多数の支那人学生が日本に居留し、また今年7月1日のVASA(VISA)要件緩和によって、多数の人民解放軍が日本にやってきている、ということです。

在日朝鮮人が走狗となって使われ、日本人は残虐だ、日本は悪い国だ、日本人は皆殺しにしなくてはならないなどとマッチポンプの役割を果たします。

そして支那人たちが大挙して日本にやってくる。
子供の頃から徹底した反日教育を受けて育った支那人たちが暴発したとき、そこで何が起こるのか。

沖縄は、いま、中共の工作によって日本人に貶められた自分たちは被害者だ、という妄想に取りつかれようとしています。
それが暴発したとき、沖縄で何が起こるのか。

歴史は繰り返すといいます。
しかし、73年前に日本人が受けたその酷い仕打ちを、絶対に繰り返してはなりません。

ここは日本です。
日本の地は、日本人が守らなくていったい誰が守るのか。

通州事件は、私たちに大切な何かを教えてくれているのだと思います。

最後にひとつ。

「なぜ通州に、日本軍が駐屯していたか」です。

日本軍は、この地を占領していたのではありません。

この前に、世界を震撼させた恐怖の義和団事件が起こっています。

この事件で清朝政府に治安維持能力がない事が分かったため、明治34(1901)年の義和団議定書で、居留民保護のために国際平和維持軍が設立されたのです。

その議定書に基づき、米英仏伊日5カ国が、36年間もの間北京周辺に大部隊を駐屯させ、居留民の保護を行ったのです。

各国駐屯軍は大砲や戦車まで持っていました。
そして各国の駐屯軍は、支那人が自国の居留民に対して、たった一度でも暴行を働くと、これに対して徹底的な軍事的制圧を行っています。
たとえば、自国の居留民ひとりが支那人によって乱暴されるようなことがあると、暴徒たち全員に、大打撃を加えています。
欧米人たちにとって、支那人は、支那人に限らず有色人種は、人間ではないと看做されたからです。

ところが日本は、同じ東洋民族として、支那人たちに仁政を行いました。
支那人に対し、人としてやさしく接しました。

普通なら、これに感謝の心が芽生えます。
けれど支那人たちは、まったく逆に「日本人は何をしても反撃してこない」と考えたのです。
そして、通州において、それが具体的な形となって顕われました。

南京大虐殺などというホラ話と異なり、通州事件は実際にあった事件です。
当時の模様は、世界中の新聞で報道されています。

日本人は、この事件を絶対に忘れてはならない。
絶対にです。

 ↓クリックを↓

中国人による性的拷問の実態



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いまと似ている通州事件前夜 (09/26)

http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-1025.html
https://www.youtube.com/watch?v=UfaylFs8X58(通州事件の真実)


以上の内容で、極悪非道な支那人の性悪な本性は、お判り頂けたことと思う。
(続く)
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日本近代化の流れ(51)

2017-01-20 00:00:00 | Weblog

頭皮を剥ぎ、目玉を抉(えぐり)取り、腸を切り刻む

それはこの男の人の頭の皮を学生が青竜刀で剥いでしまったのです。
私はあんな残酷な光景は見たことはありません。
これはもう人間の行為ではありません。
悪魔の行為です。
悪魔でもこんなにまで無惨なことはしないと思うのです。

頭の皮を剥いでしまったら、今度は目玉を抉り取るのです。
このときまではまだ日本の男の人は生きていたようですが、この目玉を抉り取られるとき微かに手と足が動いたように見えました。

目玉を抉り取ると、今度は男の人の服を全部剥ぎ取りお腹が上になるように倒しました。
そして又学生が青竜刀でこの日本の男の人のお腹を切り裂いたのです。

縦と横とにお腹を切り裂くと、そのお腹の中から腸を引き出したのです。
ずるずると腸が出てまいりますと、その腸をどんどん引っ張るのです。

人間の腸があんなに長いものとは知りませんでした。
十メートル近くあったかと思いますが、学生が何か喚いておりましたが、もう私の耳には入りません。

私はTさん(沈さん)にすがりついたままです。
何か別の世界に引きずり込まれたような感じでした。

地獄があるとするならこんなところが地獄だろうなあとしきりに頭のどこかで考えていました。

そうしているうちに何かワーッという声が聞こえました。ハッと目をあげてみると、青竜刀を持った学生がその日本の男の人の腸を切ったのです。

そしてそれだけではありません。
別の学生に引っ張らせた腸をいくつにもいくつにも切るのです。

一尺づつぐらい切り刻んだ学生は細切れの腸を、さっきからじっと見ていた妊婦のところに投げたのです。
このお腹に赤ちゃんがいるであろう妊婦は、その自分の主人の腸の一切れが頬にあたると「ヒーッ」と言って気を失ったのです。

その姿を見て兵隊や学生達は手を叩いて喜んでいます。
残った腸の細切れを見物していた支那人の方へ二つか三つ投げて来ました。
そしてこれはおいしいぞ、日本人の腸だ、焼いて食べろと申しているのです。

しかし見ていた支那人の中でこの細切れの腸を拾おうとするものは一人もおりませんでした。

この兵隊や学生達はもう人間ではないのです。
野獣か悪魔か狂竜でしかないのです。

そんな人間でない連中のやることに、流石に支那人達は同調することは出来ませんでした。
まだ見物している支那人達は人間を忘れてはいなかったのです。

妊婦と胎児への天人許されざる所業-⑥

そして細切れの腸をあちらこちらに投げ散らした兵隊や学生達は、今度は気を失って倒れている妊婦の方に集まって行きました。

この妊婦の方はすでにお産が始まっていたようであります。
出血も始まったのしょう。兵隊達も学生達もこんな状況に出会ったのは初めてであったでしょうが、さっきの興奮がまだ静まっていない兵隊や学生達はこの妊婦の側に集まって、何やらガヤガヤワイワイと申しておったようですが、どうやらこの妊婦の人の下着を取ってしまったようです。

そしてまさに生まれようと準備をしている赤ん坊を引き出そうとしているらしいのです。
学生や兵隊達が集まってガヤガヤ騒いでいるのではっきりした状況はわかりませんが、赤ん坊を引き出すのに何か針金のようなものを探しているようです。

とそのときこの妊婦の人が気がついたのでしょう。
フラフラと立ち上がりました。

そして一生懸命逃げようとしたのです。
見ていた支那人達も早く逃げなさいという思いは持っているけれど、それを口に出すものはなく、又助ける人もありません。さっきのこの妊婦の主人のように殺されてしまうことが怖いからです。

このフラフラと立ち上がった妊婦を見た学生の一人がこの妊婦を突き飛ばしました。
妊婦はバッタリ倒れたのです。

すると兵隊が駆け寄って来て、この妊婦の人を仰向けにしました。
するともうさっき下着は取られているので女性としては一番恥ずかしい姿なんです。

しかも妊娠七ヶ月か八ヶ月と思われるそのお腹は相当に大きいのです。
国民政府軍の兵隊と見える兵隊がつかつかとこの妊婦の側に寄って来ました。

私は何をするのだろうかと思いました。
そして一生懸命、同じ人間なんだからこれ以上の悪いことはしてくれないようにと心の中で祈り続けました。

だが支那人の兵隊にはそんな人間としての心の欠片もなかったのです。
剣を抜いたかと思うと、この妊婦のお腹をさっと切ったのです。

赤い血がパーッと飛び散りました。
私は私の目の中にこの血が飛び込んで来たように思って、思わず目を閉じました。それ程この血潮の飛び散りは凄かったのです。

実際には数十メートルも離れておったから、血が飛んで来て目に入るということはあり得ないのですが、あのお腹を切り裂いたときの血潮の飛び散りはもの凄いものでした。

妊婦の人がギャーという最期の一声もこれ以上ない悲惨な叫び声でしたが、あんなことがよく出来るなあと思わずにはおられません。

お腹を切った兵隊は手をお腹の中に突き込んでおりましたが、赤ん坊を探しあてることが出来なかったからでしょうか、もう一度今度は陰部の方から切り上げています。

そしてとうとう赤ん坊を掴み出しました。その兵隊はニヤリと笑っているのです。
片手で赤ん坊を掴み出した兵隊が、保安隊の兵隊と学生達のいる方へその赤ん坊をまるでボールを投げるように投げたのです。

ところが保安隊の兵隊も学生達もその赤ん坊を受け取るものがおりません。
赤ん坊は大地に叩きつけられることになったのです。何かグシャという音が聞こえたように思いますが、叩きつけられた赤ん坊のあたりにいた兵隊や学生達が何かガヤガヤワイワイと申していましたが、どうもこの赤ん坊は兵隊や学生達が靴で踏み潰してしまったようであります。

あまりの無惨さに集まっていた支那人達も呆れるようにこの光景を見守っておりましたが、兵隊と学生が立ち去ると、一人の支那人が新聞紙を持って来て、その新聞紙でこの妊婦の顔と抉り取られたお腹の上をそっと覆ってくれましたことは、たった一つの救いであったように思われます。

夫は支那人、私は日本人

こうした大変な出来事に出会い、私は立っておることも出来ない程に疲れてしまったので、家に帰りたいということをTさん(沈さん)に申しましたら、Tさん(沈さん)もそれがいいだろうと言って二人で家の方に帰ろうとしたときです。

「日本人が処刑されるぞー」

と誰かが叫びました。この上に尚、日本人を処刑しなくてはならないのかなあと思いました。
しかしそれは支那の学生や兵隊のやることだからしょうがないなあと思ったのですが、そんなものは見たくなかったのです。

私は兎に角家に帰りたかったのです。でもTさん(沈さん)が行ってみようと言って私の体を日本人が処刑される場所へと連れて行ったのです。

このときになって私はハッと気付いたことがあったのです。それはTさん(沈さん)が支那人であったということです。
そして私は結婚式までしてTさん(沈さん)のお嫁さんになったのだから、そののちは支那人の嫁さんだから私も支那人だと思い込んでいたのです。

そして商売をしているときも、一緒に生活をしているときも、この気持ちでずーっと押し通して来たので、私も支那人だと思うようになっていました。
そして早く本当の支那人になりきらなくてはならないと思って今日まで来たのです。

そしてこの一、二年の間は支那語も充分話せるようになって、誰が見ても私は支那人だったのです。実際Tさん(沈さん)の新しい友人はみんな私を支那人としか見ていないのです。
それで支那のいろいろのことも話してくれるようになっておりました。

それが今目の前で日本人が惨ったらしい殺され方を支那人によって行われている姿を見ると、私には堪えられないものが沸き起こって来たのです。
それは日本人の血と申しましょうか、日本人の感情と申しましょうか、そんなものが私を動かし始めたのです。

それでもうこれ以上日本人の悲惨な姿は見たくないと思って家に帰ろうとしたのですが、Tさん(沈さん)はやはり支那人です。
私の心は通じておりません。

そんな惨いことを日本人に与えるなら私はもう見たくないとTさん(沈さん)に言いたかったのですが、Tさん(沈さん)はやはり支那人ですから私程に日本人の殺されることに深い悲痛の心は持っていなかったとしか思われません。

家に帰ろうと言っている私を日本人が処刑される広場に連れて行きました。
それは日本人居留区になっているところの東側にあたる空き地だったのです。

処刑された人々は、「大日本帝国万歳」と叫んだ-⑦

そこには兵隊や学生でない支那人が既に何十名か集まっていました。
そして恐らく五十名以上と思われる日本人でしたが一ヶ所に集められております。

ここには国民政府軍の兵隊が沢山おりました。
保安隊の兵隊や学生達は後ろに下がっておりました。

集められた日本人の人達は殆ど身体には何もつけておりません。
恐らく国民政府軍か保安隊の兵隊、又は学生達によって掠奪されてしまったものだと思われます。

何も身につけていない人達はこうした掠奪の被害者ということでありましょう。
そのうち国民政府軍の兵隊が何か大きな声で喚いておりました。

すると国民政府軍の兵隊も学生もドーッと後ろの方へ下がってまいりました。
するとそこには二挺の機関銃が備えつけられております。

私には初めて国民政府軍の意図するところがわかったのです。
五十数名の日本の人達もこの機関銃を見たときすべての事情がわかったのでしょう。

みんなの人の顔が恐怖に引きつっていました。
そして誰も何も言えないうちに機関銃の前に国民政府軍の兵隊が座ったのです。

引き金に手をかけたらそれが最期です。
何とも言うことの出来ない戦慄がこの広場を包んだのです。

そのときです。
日本人の中から誰かが「大日本帝国万歳」と叫んだのです。

するとこれに同調するように殆どの日本人が「大日本帝国万歳」を叫びました。
その叫び声が終わらぬうちに機関銃が火を噴いたのです。

バタバタと日本の人が倒れて行きます。
機関銃の弾丸が当たると一瞬顔をしかめるような表情をしますが、しばらくは立っているのです。

そしてしばくしてバッタリと倒れるのです。
このしばらくというと長い時間のようですが、ほんとは二秒か三秒の間だと思われます。

しかし見ている方からすれば、その弾丸が当たって倒れるまでにすごく長い時間がかかったように見受けられるのです。
そして修羅の巷というのがこんな姿であろうかと思わしめられました。

兎に角何と言い現してよいのか、私にはその言葉はありませんでした。
只呆然と眺めているうちに機関銃の音が止みました。

五十数名の日本人は皆倒れているのです。
その中からは呻き声がかすかに聞こえるけれど、殆ど死んでしまったものと思われました。

ところがです。その死人の山の中に保安隊の兵隊が入って行くのです。
何をするのだろうかと見ていると、機関銃の弾丸で死にきっていない人達を一人一人銃剣で刺し殺しているのです。

保安隊の兵隊達は、日本人の屍体を足で蹴りあげては生死を確かめ、一寸でも体を動かすものがおれば銃剣で突き刺すのです。

こんなひどいことがあってよいだろうかと思うけれどどうすることも出来ません。
全部の日本人が死んでしまったということを確かめると、国民政府軍の兵隊も、保安隊の兵隊も、そして学生達も引き上げて行きました。

するとどうでしょう。

見物しておった支那人達がバラバラと屍体のところに走り寄って行くのです。
何をするのだろうと思って見ていると、屍体を一人一人確かめながらまだ身に付いているものの中からいろいろのものを掠奪を始めたのです。

これは一体どういうことでしょう。
私には全然わかりません。

只怖いというより、こんなところには一分も一秒もいたくないと思ったので、Tさん(沈さん)の手を引くようにしてその場を離れました。

もう私の頭の中は何もわからないようになってしまっておったのです。
私はもう町の中には入りたくないと思って、Tさん(沈さん)の手を引いて町の東側から北側へ抜けようと思って歩き始めたのです。

私の家に帰るのに城内の道があったので、城内の道を通った方が近いので北門から入り近水槽(楼)の近くまで来たときです。
(続く)
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日本近代化の流れ(50)

2017-01-19 00:00:00 | Weblog
日本近代化の流れ(49)
日本人だと気取られなかった理由

私は立っていることが出来ない程疲れていました。
そして身体は何か不動の金縛りにされたようで動くことが出来ません。

この残虐行為をじっと見つめていたのです。
腹を切り裂かれた娘さんのおなかからはまだゆっくり血が流れ出しております。
そしてその首はないのです。

何とも異様な光景です。
想像も出来なかった光景に私の頭は少し狂ってしまったかも知れません。

ただこうした光景を自分を忘れてじっと見ているだけなのです。
そうしたときTさん(沈さん)が「おい」と抱きしめていた私の身体を揺すりました。

私はハッと自分にかえりました。
すると何か私の胃が急に痛み出しました。
吐き気を催したのです。

通州事件の惨劇05
(削除5)

道端にしゃがみ込んで吐こうとするけれど何も出てきません。
Tさん(沈さん)が私の背を摩ってくれるけれど何も出て来ないのです。

でも胃の痛みは治まりません。「うーん」と唸っているとTさん(沈さん)が「帰ろうか」と言うのです。

私は家に早く帰りたいと思いながら首は横に振っていたのです。
怖いもの見たさという言葉がありますが、このときの私の気持ちがこの怖いもの見たさという気持ちだったかも知れません。

私が首を横に振るのでTさん(沈さん)は仕方なくでしょう私の身体を抱きながら日本人居留区の方に近付いて行ったのです。

私の頭の中はボーとしているようでしたが、あの残酷な光景は一つ一つ私の頭の中に刻みつけられたのです。

私はTさん(沈さん)に抱きかかえられたままでしたが、このことが異様な姿の学生や保安隊の兵隊達から注目されることのなかった大きな原因ではないかと思われるのです。

若し私がTさん(沈さん)という人と結婚はしていても日本人だということがわかったら、きっと学生や兵隊達は私を生かしてはいなかった筈なのです。

しかし支那人のTさん(沈さん)に抱きかかえられてよぼよぼと歩く私の姿の中には学生や兵隊達が注目する何ものもなかったのです。
だから黙って通してくれたと思います。

「数珠つなぎ」 悪魔を超える暴虐

日本人居留区に行くともっともっと残虐な姿を見せつけられました。
殆どの日本人は既に殺されているようでしたが、学生や兵隊達はまるで狂った牛のように日本人を探し続けているのです。

あちらの方で「日本人がいたぞ」という大声で叫ぶものがいるとそちらの方に学生や兵隊達がワーッと押し寄せて行きます。

私もTさん(沈さん)に抱きかかえられながらそちらに行ってみると、日本人の男の人達が五、六名兵隊達の前に立たされています。

そして一人又一人と日本の男の人が連れられて来ます。
十名程になったかと思うと学生と兵隊達が針金を持って来て右の手と左の手を指のところでしっかりくくりつけるのです。

そうして今度は銃に付ける剣を取り出すとその男の人の掌をグサッと突き刺して穴を開けようとするのです。

痛いということを通り越しての苦痛に大抵の日本の男の人達が「ギャーッ」と泣き叫ぶのです。
とても人間のすることではありません。

悪魔でもこんな無惨なことはしないのではないかと思いますが、支那の学生や兵隊はそれを平気でやるのです。
いや悪魔以上というのはそんな惨ったらしいことしながら学生や兵隊達はニタニタと笑っているのです。

日本人の常識では到底考えられないことですが、日本人の常識は支那人にとっては非常識であり、その惨ったらしいことをすることが支那人の常識だったのかと初めてわかりました。

集められた十名程の日本人の中にはまだ子供と思われる少年もいます。
そして六十歳を越えたと思われる老人もいるのです。

支那では老人は大切にしなさいと言われておりますが、この支那の学生や兵隊達にとっては日本の老人は人間として扱わないのでしょう。

この十名近くの日本の男の人達の手を針金でくくり、掌のところを銃剣で抉りとった学生や兵隊達は今度は大きな針金を持って来てその掌の中に通すのです。

十人の日本の男の人が数珠繋ぎにされたのです。

こうしたことをされている間日本の男の人達も泣いたり喚いたりしていましたが、その光景は何とも言い様のない異様なものであり、五十年を過ぎた今でも私の頭の中にこびりついて離れることが出来ません。

そしてそれだけではなかったのです。

学生と兵隊達はこの日本の男の人達の下着を全部取ってしまったのです。
そして勿論裸足にしております。

その中で一人の学生が青竜刀を持っておりましたが、二十才前後と思われる男のところに行くと足を拡げさせました。

そしてその男の人の男根を切り取ってしまったのです。
この男の人は「助けてー」と叫んでいましたが、そんなことはお構いなしにグサリと男根を切り取ったとき、この男の人は「ギャッ」と叫んでいましたがそのまま気を失ったのでしょう。

でも倒れることは出来ません。

外の日本の男の人と数珠繋ぎになっているので倒れることが出来ないのです。
学生や兵隊達はそんな姿を見て「フッフッ」と笑っているのです。

私は思わずTさん(沈さん)にしがみつきました。
Tさん(沈さん)も何か興奮しているらしく、さっきよりももっとしっかり私の身体を抱いてくれました。

そして私の耳元でそっと囁くのです。
「黙って、ものを言ったらいかん」と言うのです。

勿論私はものなど言える筈もありませんから頷くだけだったのです。

そして私とTさん(沈さん)の周囲には何人もの支那人達がいました。
そしてこうした光景を見ているのですが、誰も何も言いません。
氷のような表情というのはあんな表情でしょうか。

兵隊や学生達がニタニタと笑っているのにこれを見守っている一般の支那人は全く無表情で只黙って見ているだけなのです。

しかしようもまあこんなに沢山支那人が集まったものだなあと思いました。
そして沢山集まった支那人達は学生や兵隊のやることを止めようともしなければ兵隊達のようにニタニタするでもなし、只黙って見ているだけです。

勿論これはいろんなことを言えば同じ支那人ではあっても自分達が何をされるかわからないという恐れもあってのことでしょうが、全くこうした学生や兵隊のすることを氷のように冷ややかに眺めているのです。

これも又異様のこととしか言いようがありません。

こんな沢山集まっている支那人達が少しづつ移動しているのです。
この沢山の人の中には男もいます。
女もいます。
私もその支那人達の女の一人としてTさん(沈さん)と一緒に人の流れに従って日本人居留区の方へ近付いたのです。
(続く)


日本近代化の流れ(50)

旭軒で起こった凌辱と惨劇

日本人居留区に近付いてみるといよいよ異様な空気が感ぜられます。

旭軒という食堂と遊郭を一緒にやっている店の近くまで行ったときです。
日本の女の人が二人保安隊の兵隊に連れられて出て来ました。

二人とも真っ青な顔色でした。
一人の女の人は前がはだけておりました。この女の人が何をされたのか私もそうした商売をしておったのでよくわかるのです。

しかも相当に乱暴に扱われたということは前がはだけている姿でよくわかったのです。
可哀想になあとは思ってもどうすることも出来ません。
どうしてやることも出来ないのです。
言葉すらかけてやることが出来ないのです。

二人の女の人のうちの一人は相当頑強に抵抗したのでしょう。
頬っぺたがひどく腫れあがっているのです。
いやその一部からは出血さえしております。
髪はバラバラに乱れているのです。
とてもまともには見られないような可哀想な姿です。

その二人の女の人を引っ張って来た保安隊の兵隊は頬っぺたの腫れあがっている女の人をそこに立たせたかと思うと着ているものを銃剣で前の方をパッと切り開いたのです。

女の人は本能的に手で前を押さえようとするといきなりその手を銃剣で斬りつけました。
左の手が肘のところからばっさり切り落とされたのです。

しかしこの女の人はワーンともギャーッとも言わなかったのです。
只かすかにウーンと唸ったように聞こえました。

そしてそこにバッタリ倒れたのです。

すると保安隊の兵隊がこの女の人を引きずるようにして立たせました。
そして銃剣で胸のあたりを力一杯突き刺したのです。

この女の人はその場に崩れ落ちるように倒れました。
すると倒れた女の人の腹を又銃剣で突き刺すのです。

私は思わず「やめてー」と叫びそうになりました。
その私をTさん(沈さん)がしっかり抱きとめて「駄目、駄目」と耳元で申すのです。

私は怒りと怖さで体中が張り裂けんばかりでした。

そのうちにこの女の人を五回か六回か突き刺した兵隊がもう一人の女の人を見てニヤリと笑いました。

そしていきなりみんなが見ている前でこの女の人の着ているものを剥ぎ取ってしまったのです。

そしてその場に押し倒したかと思うとみんなの見ている前で陵辱をはじめたのです。

人間の行為というものはもっと神聖でなくてはならないと私は思っています。

それが女の人を保安隊の兵隊が犯している姿を見ると、何といやらしい、そして何と汚らわしいものかと思わずにはおられませんでした。

一人の兵隊が終わるともう一人の兵隊がこの女の人を犯すのです。

そして三人程の兵隊が終わると次に学生が襲いかかるのです。
何人もの何人もの男達が野獣以上に汚らわしい行為を続けているのです。

私はTさん(沈さん)に抱きかかえられながらその姿を遠い夢の中の出来事のような思いで見続けておりました。

それが支那の悪獣どもが充分満足したのでしょう。

何人か寄っていろいろ話しているようでしたが、しばらくすると一人の兵隊が銃をかまえてこの女の人を撃とうとしたのです。

さすがに見ていた多くの支那人達がウォーという唸るような声を出しました。
この多くの支那人の唸りに恐れたのか兵隊二人と学生一人でこの女の人を引きずるように旭軒の中に連れ去りました。

そしてしばらくするとギャーという女の悲鳴が聞こえて来たのです。
恐らくは連れて行った兵隊と学生で用済みになったこの日本の女の人を殺したものと思われます。

しかしこれを見ていた支那人達はどうすることも出来ないのです。
私もTさんもどうすることも出来ないのです。

もうこんなところにはいたくない。
家に帰ろうと思ったけれどTさん(沈さん)が私の身体をしっかり抱いて離さないので、私はTさん(沈さん)に引きずられるように日本人居留区に入ったのです。

最後の念仏を唱えた老婆-➃

そこはもう何というか言葉では言い表されないような地獄絵図でした。
沢山の日本人が殺されています。

いやまだ殺され続けているのです。
あちこちから悲鳴に似たような声が聞こえたかと思うと、そのあとに必ずギャーッという声が聞こえて来ます。

そんなことが何回も何十回も繰り返されているのでしょう。
私は聞くまいと思うけど聞こえて来るのです。
耳を覆ってみても聞こえるのです。

又私が耳を覆っているとTさん(沈さん)がそんなことをしたらいけないというようにその覆った手を押さえるのです。

旭軒と近水槽(楼)の間にある松山槽(楼)の近くまで来たときです。
一人のお婆さんがよろけるように逃げて来ております。

するとこのお婆さんを追っかけてきた学生の一人が青竜刀を振りかざしたかと思うといきなりこのお婆さんに斬りかかって来たのです。

お婆さんは懸命に逃げようとしていたので頭に斬りつけることが出来ず、左の腕が肩近くのところからポロリと切り落とされました。

お婆さんは仰向けに倒れました。
学生はこのお婆さんの腹と胸とを一刺しづつ突いてそこを立ち去りました。

誰も見ていません。
私とTさん(沈さん)とこのお婆さんだけだったので、私がこのお婆さんのところに行って額にそっと手を当てるとお婆さんがそっと目を開きました。

そして、「くやしい」と申すのです。
「かたきをとって」とも言うのです。

私は何も言葉は出さずにお婆さんの額に手を当ててやっておりました。
「いちぞう、いちぞう」
と人の名を呼びます。

きっと息子さんかお孫さんに違いありません。
私は何もしてやれないので只黙って額に手を当ててやっているばかりでした。

するとこのお婆さんが「なんまんだぶ」と一声お念仏を称えたのです。
そして息が止まったのです。

私が西本願寺の別府の別院におまいりするようになったのはやはりあのお婆さんの最期の一声である「なんまんだぶ」の言葉が私の耳にこびりついて離れなかったからでしょう。

妊婦を引き出す-➄

そうしてお婆さんの額に手を当てていると、すぐ近くで何かワイワイ騒いでいる声が聞こえて来ます。

Tさん(沈さん)が私の身体を抱きかかえるようにしてそちらの方に行きました。

すると支那人も沢山集まっているようですが、保安隊の兵隊と学生も全部で十名ぐらい集まっているのです。

そこに保安隊でない国民政府軍の兵隊も何名かいました。
それがみんなで集まっているのは女の人を一人連れ出して来ているのです。

何とその女の人はお腹が大きいのです。
七ヶ月か八ヶ月と思われる大きなお腹をしているのです。

学生と保安隊の兵隊、それに国民政府軍の正規の兵隊達が何かガヤガヤと言っていましたが、家の入り口のすぐ側のところに女の人を連れて行きました。

この女の人は何もしゃべれないのです。
恐らく恐怖のために口がきけなくなっていることだろうと思うのですが、その恐怖のために恐れおののいている女の人を見ると、女の私ですら綺麗だなあと思いました。

ところが一人の学生がこの女の人の着ているものを剥ぎ取ろうとしたら、この女の人が頑強に抵抗するのです。
歯をしっかり食いしばっていやいやを続けているのです。

学生が二つか三つかこの女の人の頬を殴りつけたのですが、この女の人は頑強に抵抗を続けていました。
そしてときどき「ヒーッ」と泣き声を出すのです。

兵隊と学生達は又集まって話し合いをしております。
妊娠をしている女の人にあんまり乱暴なことはするなという気運が、ここに集まっている支那人達の間にも拡がっておりました。

抵抗した日本人男性の立派な最後

とそのときです。
一人の日本人の男の人が木剣を持ってこの場に飛び込んで来ました。

そして「俺の家内と子供に何をするのだ。やめろ」と大声で叫んだのです。

これで事態が一変しました。
若しこの日本の男の人が飛び込んで来なかったら、或いはこの妊婦の命は助かったかも知れませんが、この男の人の出現ですっかり険悪な空気になりました。

学生の一人が何も言わずにこの日本の男の人に青竜刀で斬りつけました。

するとこの日本の男の人はひらりとその青竜刀をかわしたのです。
そして持っていた木刀でこの学生の肩を烈しく打ちました。

学生は「ウーン」と言ってその場に倒れました。
すると今度はそこにいた支那国民政府軍の兵隊と保安隊の兵隊が、鉄砲の先に剣を付けてこの日本の男の人に突きかかって来ました。

私は見ながら日本人頑張れ、日本人頑張れと心の中に叫んでいました。
しかしそんなことは口には絶対に言えないのです。

七名も八名もの支那の兵隊達がこの男の人にジリジリと詰め寄って来ましたが、この日本の男の人は少しも怯みません。

ピシリと木刀を青眼に構えて一歩も動こうとしないのです。
私は立派だなあ、さすがに日本人だなあと思わずにはおられなかったのです。

ところが後ろに回っていた国民政府軍の兵隊が、この日本の男の人の背に向かって銃剣でサッと突いてかかりました。

するとどうでしょう。
この日本の男の人はこれもひらりとかわしてこの兵隊の肩口を木刀で烈しく打ったのです。
この兵隊も銃を落としてうずくまりました。

でもこの日本の男の人の働きもここまででした。
この国民政府軍の兵隊を烈しく日本の男の人が打ち据えたとき、よこにおった保安隊の兵隊がこの日本の男の人の腰のところに銃剣でグサリと突き刺したのです。

日本の男の人が倒れると、残っていた兵隊や学生達が集まりまして、この男の人を殴る蹴るの大乱暴を始めたのです。
日本の男の人はウーンと一度唸ったきりあとは声がありません。

これは声が出なかったのではなく出せなかったのでしょう。
日本の男の人はぐったりなって横たわりました。

それでも支那の兵隊や学生達は乱暴を続けております。
そしてあの見るも痛ましい残虐行為が始まったのです。
(続く)
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日本近代化の流れ(47)

2017-01-16 00:00:00 | Weblog

警告の投げ紙もむなしく

それが、昭和十一年の終わり頃になるとこうした支那人達の日本に対しての悪感情は更に深くなったようです。

それは支那のあちこちに日本軍が沢山駐屯するようになったからだと申す人達もおりますが、それだけではないようなものもあるように思われました。

私はTさん(沈さん)には悪かったけれど、紙一杯にこうした支那人達の動き、朝鮮人達の動きがあることを書きました。

そして最後に用心して下さいということを書いておきました。
この紙を日本軍の兵舎の中に投げ込みました。

これなら私がしゃべらなくても町の様子を日本軍が知ることが出来ると思ったからです。

こうしたことを二回、三回と続けてしてみましたが、日本軍の兵隊さん達には何も変わったことはありませんでした。

これでは駄目だと思ったので、私はこの大変険悪な空気になっていることを何とかして日本軍に知らせたいと思って、東町の方に日本人の居住区があり、その中でも近水槽(楼)というところにはよく日本の兵隊さんが行くということを聞いたので、この近水槽(楼)の裏口のほうにも三回程この投げ紙をしてみたのです。

でも何も変わったことはありません。
これは一つには私が小学校も出ていないので、字があまり上手に書けないので、下手な字を見て信用してもらえなかったかも知れません。
このとき程勉強していないことの哀れさを覚えたことはありませんでした。

「日本人皆殺し」「日本人は悪魔だ」の声

昭和十二年になるとこうした空気は尚一層烈しいものになったのです。

そして上海で日本軍が敗れた、済南で日本軍が敗れた、徳州でも日本軍は敗れた、支那軍が大勝利だというようなことが公然と言われるようになってまいりました。

日に日に日本に対する感情は悪くなり、支那人達の間で、
「日本人皆殺し、日本人ぶち殺せ」と言う輿論が高まってまいりました。

その当時のよく言われた言葉に、
「日本人は悪魔だ、その悪魔を懲らしめるのは支那だ」という言葉でした。

私はそんな言葉をじっと唇をかみしめながら聞いていなくてはならなかったのです。

支那の子供達が「悪鬼やぶれて悪魔が滅ぶ」という歌を歌い、その悪鬼や悪魔を支那が滅ぼすといった歌でしたが、勿論この悪鬼悪魔は日本だったのです。

こんな耐え難い日本が侮辱されているという心痛に毎日耐えなくてはならないことは大変な苦痛でした。
しかしこんなときTさん(沈さん)が嵐はまもなくおさまるよ、じっと我慢しなさいよと励ましてくれたのが唯一の救いでした。

そしてその頃になるとTさん(沈さん)がよく大阪の話をしてくれました。
私も懐かしいのでそのTさん(沈さん)の言葉に相槌を打って一晩中語り明かしたこともありました。

三月の終わりでしたが、Tさん(沈さん)が急に日本に行こうかと言い出したのです。
私はびっくりしました。

それはあれ程に日本人としゃべるな、日本人ということを忘れろと申していたTさん(沈さん)が何故日本に行こうか、大阪に行こうかと言い出したかといえば、それ程当時の通州の、いや支那という国全体が日本憎しという空気で一杯になっておったからだろうと思います。

しかし日本に帰るべくTさん(沈さん)が日本の状況をいろいろ調べてみると、日本では支那撃つべし、支那人は敵だという声が充満していたそうです。

そんなことを知ったTさん(沈さん)が四月も終わりになって、
「もうしばらくこの通州で辛抱してみよう、そしてどうしても駄目なら天津へ移ろう」と言い出しました。

それで私もTさん(沈さん)の言うことに従うことにしたのです。
何か毎日が押付けられて、押し殺されるような出来事の連続でしたが、この天津に移ろうという言葉で幾分救われたようになりました。

来年は天津に移るということを決めて二人で又商売に励むことにしたのです。

でもこの頃の通州ではあまり商売で儲かるということは出来ないような状況になっておりました。

しかし儲かることより食べて行くことが第一だから、兎に角食べるために商売しようということになりました。

そしてこの頃から私はTさん(沈さん)と一緒に通州の町を東から西、北から南へと商売のため歩き回ったのです。

日本人の支那人に対する侮辱的態度

日本人の居住区にもよく行きました。
この日本人居留区に行くときは必ずTさん(沈さん)が一緒について来るのです。
そして私が日本人の方と日本語で話すことを絶対に許しませんでした。

私は日本語で話すことが大変嬉しいのです。
でもTさん(沈さん)はそれを許しません。

それで日本人の居留区日本人と話すときも支那語で話さなくてはならないのです。
支那語で話していると日本の人はやはり私を支那人として扱うのです。
このときはとても悲しかったのです。

それと支那人として日本人と話しているうちに特に感じたのは、日本人が支那人に対して優越感を持っているのです。
ということは支那人に対して侮蔑感を持っていたということです。

相手が支那人だから日本語はわからないだろうということで、日本人同士で話している言葉の中によく「チャンコロ」だとか、「コンゲドウ」とかいう言葉が含まれていましたが、多くの支那人が言葉ではわからなくとも肌でこうした日本人の侮蔑的態度を感じておったのです。

だからやはり日本人に対しての感情がだんだん悪くなってくるのも仕方なかったのではないかと思われます。
このことが大変悲しかったのです。

私はどんなに日本人から侮蔑されてもよいから、この通州に住んでいる支那人に対してはどうかあんな態度はとってもらいたくないと思ったのです。

でも居留区にいる日本人は日本の居留区には強い軍隊がいるから大丈夫だろうという傲りが日本人の中に見受けられるようになりました。

こうした日本人の傲りと支那人の怒りがだんだん昂じて来ると、やがて取り返しのつかないことになるということをTさん(沈さん)は一番心配していました。

Tさん(沈さん)も大阪にいたのですから、日本人に対して悪い感情はないし、特に私という日本人と結婚したことがTさん(沈さん)も半分は日本人の心を持っていたのです。
それだけにこの通州の支那人の日本人に対しての反日的感情の昂りには誰よりも心を痛めておったのです。

一日の仕事が終わって家に帰り食事をしていると、
「困った、困った、こんなに日本人と支那人の心が悪くなるといつどんなことが起こるかわからない」
と言うのです。

そして支那人の心がだんだん悪くなって来て、日本人の悪口を言うようになると、あれ程日本と日本人の悪口を言っていた朝鮮人があまり日本の悪口を言わないようになってまいりました。

いやむしろ支那人の日本人へ対しての怒りがだんだんひどくなってくると朝鮮人達はもう言うべき悪口がなくなったのでしょう。
それと共にあの当時は朝鮮人で日本の軍隊に入隊して日本兵になっているものもあるので、朝鮮人達も考えるようになって来たのかも知れません。

銃剣と青竜刀を持った学生部隊

しかし五月も終わり頃になって来ると、通州での日本に対する反感はもう極点に達したようになってまいりました。

Tさん(沈さん)はこの頃になると私に外出を禁じました。
今まではTさん(沈さん)と一緒なら商売に出ることが出来たのですが、もうそれも出来ないと言うのです。

そして「危ない」「危ない」と申すのです。

それで私がTさん(沈さん)に何が危ないのと申すと、日本人が殺されるか、支那人が殺されるかわからない、いつでも逃げることが出来るように準備をしておくようにと申すのです。

六月になると何となく鬱陶しい日々が続いて、家の中にじっとしていると何か不安が一層増して来るようなことで、とても不安です。
だからといって逃げ出すわけにもまいりません。

そしてこの頃になると一種異様と思われる服を着た学生達が通州の町に集まって来て、日本撃つべし、支那の国から日本人を追い出せと町中を大きな声で叫びながら行進をするのです。

それが七月になると、
「日本人皆殺し」
「日本人は人間じゃない」
「人間でない日本人は殺してしまえ」
というような言葉を大声で喚きながら行進をするのです。

鉄砲を持っている学生もいましたが、大部分の学生は銃剣と青竜刀を持っていました。

そしてあれは七月の八日の夕刻のことだったと思います。

支那人達が大騒ぎをしているのです。

何であんなに大騒ぎをしているのかとTさん(沈さん)に尋ねてみると、北京の近くで日本軍が支那軍から攻撃を受けて大敗をして、みんな逃げ出したので支那人達があんなに大騒ぎをして喜んでいるのだよと申すのです。

私はびっくりしました。
そしていよいよ来るべきものが来たなあと思いました。

でも二、三日すると北京の近くの盧溝橋で戦争があったけれど、日本軍が負けて逃げたが又大軍をもって攻撃をして来たので大戦争になっていると言うのです。

こんなことがあったので七月も半ばを過ぎると学生達と保安隊の兵隊が一緒になって行動をするので、私はいよいよ外に出ることが出来なくなりました。

この頃でした。

上海で日本人が沢山殺されたという噂がささやかれて来ました。
済南でも日本人が沢山殺されたということも噂が流れて来ました。

蒋介石が二百万の大軍をもって日本軍を打ち破り、日本人を皆殺しにして朝鮮を取り、日本の国も占領するというようなことが真実のように伝わって来ました。

この頃になるとTさん(沈さん)はそわそわとして落ち着かず、私にいつでも逃げ出せるようにしておくようにと申すようになりました。
私も覚悟はしておりましたので、身の回りのものをひとまとめにしていて、いつどんなことがあっても大丈夫と言う備えだけはしておきました。

この頃通州にいつもいた日本軍の軍人達は殆どいなくなっていたのです。
どこかへ戦争に行っていたのでしょう。
(続く)

日本近代化の流れ(48)


通州事件の惨劇03
(削除1)

七月二十九日未明 銃撃戦始まる

七月二十九日の朝、まだ辺りが薄暗いときでした。

突然私はTさん(沈さん)に烈しく起こされました。
大変なことが起こったようだ。
早く外に出ようと言うので、私は風呂敷二つを持って外に飛び出しました。

Tさん(沈さん)は私の手を引いて町の中をあちこちに逃げはじめたのです。
町には一杯人が出ておりました。

そして日本軍の兵舎の方から猛烈な銃撃戦の音が聞こえて来ました。

でもまだ辺りは薄暗いのです。
何がどうなっているやらさっぱりわかりません。

只、日本軍兵舎の方で炎が上がったのがわかりました。
私はTさん(沈さん)と一緒に逃げながら、
「きっと日本軍は勝つ。負けてたまるか」という思いが胸一杯に拡がっておりました。

でも明るくなる頃になると銃撃戦の音はもう聞こえなくなってしまったのです。
私はきっと日本軍が勝ったのだと思っていました。

それが八時を過ぎる頃になると、支那人達が、
「日本軍が負けた。日本人は皆殺しだ」と騒いでいる声が聞こえて来ました。

突然私の頭の中にカーと血がのぼるような感じがしました。
最近はあまり日本軍兵舎には行かなかったけれど、何回も何十回も足を運んだことのある懐かしい日本軍兵舎です。

私は飛んでいって日本の兵隊さんと一緒に戦ってやろう。
もう私はどうなってもいいから最後は日本の兵隊さんと一緒に戦って死んでやろうというような気持ちになったのです。

それでTさん(沈さん)の手を振りほどいて駆け出そうとしたら、Tさん(沈さん)が私の手をしっかり握って離さないでいましたが、Tさん(沈さん)のその手にぐんと力が入りました。
そして、
「駄目だ、駄目だ、行ってはいけない」
と私を抱きしめるのです。

それでも私が駆け出そうとするとTさん(沈さん)がいきなり私の頬を烈しくぶったのです。
私は思わずハッして自分にかえったような気になりました。
ハッと自分にかえった私を抱きかかえるようにして家の陰に連れて行きました。

そしてTさん(沈さん)は今ここで私が日本人ということがわかったらどうなるかわからないのかと強く叱るのです。

それで私も初めてああそうだったと気付いたのです。
私はTさん(沈さん)と結婚して支那人になっておりますが、やはり心の中には日本人であることが忘れられなかったのです。

でもあのとき誰も止める者がなかったら、日本軍兵舎の中に飛び込んで行ったことでしょう。

それは日本人の血というか、九州人の血というか、そんなものが私の体の中に流れていたに違いありません。
それをTさん(沈さん)が止めてくれたから私は助かったのです。
通州事件の惨劇04
(削除2)


日本人居留区から流れる血の匂い

八時を過ぎて九時近くになって銃声はあまり聞こえないようになったので、これで恐ろしい事件は終わったのかとやや安心しているときです。

誰かが日本人居留区で面白いことが始まっているぞと叫ぶのです。
私の家から居留区までは少し離れていたのでそのときはあまりピーンと実感はなかったのです。

そのうち誰かが日本人居留区では女や子供が殺されているぞというのです。
何かぞーっとする気分になりましたが、恐ろしいものは見たいというのが人間の感情です。

私はTさん(沈さん)の手を引いて日本人居留区の方へ走りました。

そのとき何故あんな行動に移ったかというと、それははっきり説明は出来ません。
只何というか、本能的なものではなかったかと思われます。
Tさん(沈さん)の手を引いたというのもあれはやはり夫婦の絆の不思議と申すべきでしょうか。

日本人居留区が近付くと何か一種異様な匂いがして来ました。
それは先程銃撃戦があった日本軍兵舎が焼かれているのでその匂いかと思いましたが、それだけではありません。
何か生臭い匂いがするのです。
血の匂いです。
人間の血の匂いがして来るのです。

しかしここまで来るともうその血の匂いが当たり前だと思われるようになっておりました。
沢山の支那人が道路の傍らに立っております。
そしてその中にはあの黒い服を着た異様な姿の学生達も交じっています。
いやその学生達は保安隊の兵隊と一緒になっているのです。

娘をかばう父親を惨殺

そのうち日本人の家の中から一人の娘さんが引き出されて来ました。
十五才か十六才と思われる色の白い娘さんでした。

その娘さんを引き出して来たのは学生でした。
そして隠れているのを見つけてここに引き出したと申しております。

その娘さんは恐怖のために顔が引きつっております。
体はぶるぶると震えておりました。

その娘さんを引き出して来た学生は何か猫が鼠を取ったときのような嬉しそうな顔をしておりました。
そしてすぐ近くにいる保安隊の兵隊に何か話しておりました。

保安隊の兵隊が首を横に振ると学生はニヤリと笑ってこの娘さんを立ったまま平手打ちで五回か六回か殴りつけました。

そしてその着ている服をいきなりバリバリと破ったのです。

支那でも七月と言えば夏です。暑いです。
薄い夏服を着ていた娘さんの服はいとも簡単に破られてしまったのです。

すると雪のように白い肌があらわになってまいりました。
娘さんが何か一生懸命この学生に言っております。

しかし学生はニヤニヤ笑うだけで娘さんの言うことに耳を傾けようとはしません。

娘さんは手を合わせてこの学生に何か一生懸命懇願しているのです。
学生の側には数名の学生と保安隊の兵隊が集まっていました。

そしてその集まった学生達や保安隊の兵隊達は目をギラギラさせながら、この学生が娘さんに加えている仕打ちを見ているのです。

学生はこの娘さんをいきなり道の側に押し倒しました。
そして下着を取ってしまいました。

娘さんは「助けてー」と叫びました。

と、そのときです。

一人の日本人の男性がパアッと飛び出して来ました。
そしてこの娘さんの上に覆い被さるように身を投げたのです。

恐らくこの娘さんのお父さんだったでしょう。

すると保安隊の兵隊がいきなりこの男の人の頭を銃の台尻で力一杯殴りつけたのです。

何かグシャッというような音が聞こえたように思います。
頭が割られたのです。

でもまだこの男の人は娘さんの身体の上から離れようとしません。
保安隊の兵隊が何か言いながらこの男の人を引き離しました。

娘さんの顔にはこのお父さんであろう人の血が一杯流れておりました。
この男の人を引き離した保安隊の兵隊は再び銃で頭を殴りつけました。

パーッと辺り一面に何かが飛び散りました。恐らくこの男の人の脳髄(脳漿)だったろうと思われます。

そして二、三人の兵隊と二、三人の学生がこの男の人の身体を蹴りつけたり踏みつけたりしていました。
服が破けます。
肌が出ます。
血が流れます。
そんなことお構いなしに踏んだり蹴ったりし続けています。

そのうちに保安隊の兵隊の一人が銃に付けた剣で腹の辺りを突き刺しました。
血がパーッと飛び散ります。

その血はその横に気を失ったように倒されている娘さんの身体の上にも飛び散ったのです。

腹を突き刺しただけではまだ足りないと思ったのでしょうか。今度は胸の辺りを又突き刺します。
それだけで終わるかと思っていたら、まだ足りないのでしょう。
又腹を突きます。
胸を突きます。
何回も何回も突き刺すのです。

沢山の支那人が見ているけれど「ウーン」とも「ワー」とも言いません。
この保安隊の兵隊のすることをただ黙って見ているだけです。

その残酷さは何に例えていいかわかりませんが、悪鬼野獣と申しますか。
暴虐無惨と申しましょうか。
あの悪虐を言い表す言葉はないように思われます。

この男の人は多分この娘さんの父親であるだろうが、この屍体を三メートル程離れたところまで丸太棒を転がすように蹴転がした兵隊と学生達は、この気を失っていると思われる娘さんのところにやってまいりました。

女性に加えられた凌辱

この娘さんは既に全裸になされております。
そして恐怖のために動くことが出来ないのです。

その娘さんのところまで来ると下肢を大きく拡げました。
そして陵辱をはじめようとするのです。

支那人とは言へ、沢山の人達が見ている前で人間最低のことをしようというのだから、これはもう人間のすることとは言えません。

ところがこの娘さんは今まで一度もそうした経験がなかったからでしょう。
どうしても陵辱がうまく行かないのです。

すると三人程の学生が拡げられるだけこの下肢を拡げるのです。

そして保安隊の兵隊が持っている銃を持って来てその銃身の先でこの娘さんの陰部の中に突き込むのです。

こんな姿を見ながらその近くに何名もの支那人がいるのに止めようともしなければ、声を出す人もおりません。

ただ学生達のこの惨行を黙って見ているだけです。
私とTさん(沈さん)は二十メートルも離れたところに立っていたのでそれからの惨行の仔細を見ることは出来なかったのですが、と言うよりとても目を開けて見ておることが出来なかったのです。

私はTさん(沈さん)の手にしっかりとすがっておりました。
目をしっかりつぶっておりました。

するとギャーッという悲鳴とも叫びとも言えない声が聞こえました。
私は思わずびっくりして目を開きました。

するとどうでしょう。保安隊の兵隊がニタニタ笑いながらこの娘さんの陰部を切り取っているのです。

何ということをするのだろうと私の身体はガタガタと音を立てる程震えました。
その私の身体をTさん(沈さん)がしっかり抱きしめてくれました。
見てはいけない。
見まいと思うけれど目がどうしても閉じられないのです。

ガタガタ震えながら見ているとその兵隊は今度は腹を縦に裂くのです。
それから剣で首を切り落としたのです。

その首をさっき捨てた男の人の屍体のところにポイと投げたのです。
投げられた首は地面をゴロゴロと転がって男の人の屍体の側で止まったのです。
若しこの男の人がこの娘さんの親であるなら、親と子がああした形で一緒になったのかなあと私の頭のどこかで考えていました。

そしてそれはそれでよかったのだと思ったのです。
しかしあの残虐極まりない状況を見ながら何故あんなことを考えたのか私にはわかりませんでした。

そしてこのことはずーっとあとまで私の頭の中に残っていた不思議のことなのです。
(続く)


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