世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

続・次世代エコカー・本命は?(61)

2016-06-30 00:00:00 | Weblog

どうもゴーンは、ルノー・日産がトヨタを抜いて、世界一に上り詰めたいと思っているようだ。それが世界一の経営者になる道だと思っているのであろう。なんとなく勘違いのようにも思えるのだが、ゴーンは一貫してそう信じているようだ。

カルロス・ゴーンは、世界一の経営者と認められるために、ある意味、三菱自動車を手に入れたのであり、三菱自動車と協業して「良い車を提供しよう」と言う気持ちは更々持ち合わせていない、と言ってもよいのではないのかな。そんなことは部下たちに任せておけばよい、自然にクルマは売れてゆくものだ、くらいにしか思っていないかもしれない。

そして三菱をリーズナブルな価格で手に入れることが出来たのも、ゴーンにしかできないことだ、と言われているが、ゴーンとしては「そうだその通り、自分だから出来た事であり、他人には出来ないことだ」とうそぶいている、に違いない。そのため時を見て三菱の「燃費偽装」を公表したのではないのかな。


昨年の6月には、トヨタの初の女性役員ジュリー・ハンプ氏の逮捕による豊田章男社長の記者会見、スズキの社長交代記者会見があり、8/31~9/17でスズキとVWの裁判沙汰はスズキの完全勝利となり、それを待っていたかのように、9/18にはVWのディーゼル車の排ガス不正をEPAが発表し大騒ぎとなった。

その余波は今年に入っても続き、1/26にFORDの日本撤退とトヨタ・スズキの提携交渉が発表され、1/29には、その関係か、トヨタによるダイハツの完全子会社化が発表されている。


そして少し落ち着いたかなと思った矢先に、びっくりしたことに、4/20三菱自動車の軽自動車の燃費偽装があったことが発表された。落ち着いたころを見計らっての発表だったので、三菱自動車の燃費偽装の話にもちきりとなった。株価が下がるのは当然である。

そして追い打ちをかけるように5/12には日産自動車が三菱自動車にそれほど巨額でもない額で34%程出資して、筆頭株主となることが発表されている。日産は株価の下落を待っていたのではないのかな。

そしてそのどさくさに紛れて、と言うわけでもないが、翌日の5/13にはトヨタもマツダとの包括的業務提携を発表している。

あとはスズキトヨタとの提携交渉がどうまとまるか、だけだ。

と思っていたら、5/18に、そのスズキが燃費の測定法規と異なる方法を採用していた、と発表したのだ。幸か不幸かはわからないが、燃費をよく見せようとしたものではないようで、少しは安心したが、鈴木修会長の独裁政権の悪い部分が現れてきた、と言う事ではないのかな。



スズキ、燃費測定で不正も「数値操作ではない」
ニュースを斬る

鈴木修会長も「安易にやってしまった。風通しをよくしたい」と反省

2016年5月19日(木)

寺岡 篤志

 三菱自動車に続きスズキでも、走行抵抗値の測定で法規とは異なる方法を採用していたことが発覚した。「燃費を水増しするためではなかった」と三菱自動車との違いを強調する。鈴木修会長は「現場は安易に(不正に)走ってしまった。風通しのいい組織にしないといけない」と反省の弁を述べた。


記者会見に臨んだ鈴木修会長(写真:つのだよしお/アフロ)

 「燃費表示に問題ないと確認はできたが、定められた方法を用いてはいなかった」。5月18日夕方から開かれたスズキの記者会見の冒頭、鈴木修会長はこう語り、頭を下げた。三菱自動車の燃費不正問題を受けてほかの国内メーカーも違法な測定方法をしていないか内部調査を求められていた。この日が国土交通省への報告期限だった。

 今月10日の決算会見で、鈴木会長は社内での不正を否定したばかり。18日の会見では「10日時点では認識していなかった」と弁明した。

屋内で部品ごとに測定

 ではスズキの不正とはどんなものだったのか。道路運送車両法は、空気と路面から受ける抵抗を合わせた「走行抵抗」について、屋外の走行試験で測定するよう求めている。スズキはタイヤやブレーキ、トランスミッションなど抵抗値に関連する各部品について、屋内の試験機を使って個別に実験。はじき出された抵抗値を足し合わせて、走行抵抗を推算していた。

 この試験方法を採用していることが確認されたのは、現在販売している16車種すべて。国交省が調査を指示したすべての車種で、不正測定が行われていたことになる。これらのクルマの累計販売台数は210万台を超える。海外の販売車種については「(各国の)ルールに従っている」(鈴木会長)という。

 現在カタログに掲載されている燃費との差異は、三菱自動車が明らかにしている値である「5%には全然届かない」(技術統括の本田治副社長)として、修正はしない考えだ。

 三菱自動車は開発した軽自動車4車種について、燃費を見かけ上よくする目的で走行抵抗値を改ざん。また、多目的スポーツ車(SUV)の「アウトランダー」などで、類似車種の測定値をもとに机上計算で抵抗値を出すなどしていた。

 これに対して、スズキは燃費の水増し目的で行った不正ではないという認識を示した。同社が所有する静岡県のテストコースは、海風の影響で測定値にばらつきが出やすいため、技術者が屋内で部品ごとに測定をする方法を考案したという。

 ほかにも本田副社長は「どのような形で真の(抵抗)値に近づけることができるかの挑戦だった」「16車種において走行試験を行わなかったものはない」などとして、三菱自動車の不正との違いを繰り返し強調した。

 しかし、両社に通底する類似点もある。上司にもの申せぬ企業風土だ。三菱自動車では、軽自動車の燃費目標が開発途中で繰り返し引き上げられる中、目標の見直しや開発期間の延長を進言できなかった現場技術者が不正に手を染めた。スズキにおいても、テストコースなどの環境が実態にそぐわないことが上層部に十分に伝わらないままだった。

 鈴木会長は「現場は苦労してやっていた。(テストコースに)防風壁をつくるなどの設備投資に至らなかった点は反省している」と肩を落とした。

このコラムについて

ニュースを斬る

日々、生み出される膨大なニュース。その本質と意味するところは何か。そこから何を学び取るべきなのか――。本コラムでは、日経ビジネス編集部が選んだ注目のニュースを、その道のプロフェッショナルである執筆陣が独自の視点で鋭く解説。ニュースの裏側に潜む意外な事実、一歩踏み込んだ読み筋を引き出します。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/110879/051800347/
(続く)
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共産主義(者・党)は日本を滅ぼす(3)

2016-06-29 00:00:00 | Weblog


2.大東亜共栄圏と大東亜戦争について


・西欧列強による東亜の植民地化

アヘン戦争は1840年11月から始まり1842年8月29日に終結したが、当時のイギリスはインドで取れるアヘンを大量に清国へ密輸出することによって、その貿易赤字を補っていたが、アヘンの弊害に危機感を募らせた清国政府はアヘンの輸入を禁止した。そのためイギリスは東洋艦隊を派遣しアヘンのイギリスからの輸出を認めさせようと戦端を開いた。この戦いは清国の完敗に終わり、多額の賠償金と香港の割譲、多数の港の開港や治外法権を認めさせられたり関税自主権の放棄など全くの不平等条約を結ばされた。これに伴いアメリカ、フランスなどの列強も次々と清国と不平等条約を結ぶこととなる。この事件はいち早く幕末の日本にも伝えられ、幕政改革、明治維新への近代化の大きなきっかけとなってゆく。

事ほど左様に東亜(東アジアや東南アジア)の国々は、西欧列強の植民地と化していった。そのため明治の日本国の危機意識は極限までに高まり、清国の改革と朝鮮の独立を第一優先事項として外交、安全保障の施策をとり、アジアで唯一の植民地にならずに近代化を果たすことが出来た。しかし日本の位置するアジアの他の諸国はイギリス、アメリカ、フランス、オランダなどの西欧列強の植民地として、思うように搾取されていた。

・植民地からの開放(大東亜共栄圏

そのため欧米諸国(特に英米)の植民地支配から東亜の諸国を開放し、東アジア、東南アジアに日本を盟主とする共存共栄の新たな国際秩序を建設しようと考えた。これがいわゆる「大東亜共栄圏」構想である。

この考えは、1938年(S13年)11月3日、第1次近衛内閣が発表した日本、満州、支那3カ国についての「東亜新秩序*」構想に端を発しているが、1940年(S15年)7月に近衛内閣が決定した「基本国策要綱」に対する外務大臣松岡洋右の談話で共栄圏と言う言葉が使われ、一般化した。

*日・満・支三国相携(あいたずさ)え、政治・経済・文化等各般に渡り互助連環の関係を樹立するをもって根幹とし、東亜に於ける国際正義の確立、共同防共の達成、新文化の創造、経済結合の実現を期するにあり。是れ実に東亜を安定し、世界の進運に寄与する所以(ゆえん)なり。

・対日経済制裁

しかし是より前、1937年(S12年)7月7日、国民党軍に潜んでいた共産党員が演習中の日本軍に放った数発の銃声により盧溝橋事件が勃発していた。日本は支那事変を戦っていた。中国の権益確保に関心があったアメリカは、国民党政権に物資を供給する傍ら、日本に対して対日経済制裁を発動し、輸出を制限してきた。そのため日本は航空機燃料や鉄などの基幹物資の確保が出来なくなり、苦境のどん底に落とされてしまった。そして支那事変を早期に終わらせるため、1940年9月、英米からの中国国民党政権への物資補給ルートを絶つために、日本は仏領インドシナ北部へ進駐し、それに伴いアメリカは更に日本への鉄鋼などの輸出を禁止した。そのため1941年7月に日本は更に資源確保を目的に仏領インドシナ南部に基地を設置するために進駐する。是を契機にアメリカは日本への石油輸出の全面禁止を実施した。このとき日本は石油の8割をアメリカから輸入していたので、その影響は深刻であった。日本は経済制裁の解除を求めてアメリカと交渉を続けていたが、アメリカは日本の足元を見て一顧だに考慮を払わずに、ABCD包囲網*を構築して貿易を制限し、日本を戦争へと追い込んでいった。この間の事情はアメリカ国務長官コーデル・ハルが日本に発した最後通牒「ハルノート*」をみれば明らかである。

*A:America、B:Britain、C:China(中華民国)、D:Dutch(オランダ)

・ハル・ノート*

1941年(S16年)11月26日、日米交渉においてアメリカ側から提示された交渉文書であり、実質的なアメリカ側の日本に対する「最後通牒(宣戦布告)」であった。当時の陸軍長官のスティムソンは、1941年(S16年)11月28日のルーズベルト大統領との会見の時には、「我々にあまり危険を及ぼさずに、いかにして日本を先制攻撃する立場に操縦すべきか。」と発言している。このため日本が先制攻撃をするように仕向ける一環として、ハル・ノートを日本に突きつけたものである。アメリカが先制攻撃をする場合には、前もって議会と国内世論をまとめる必要があり、これにはかなりの困難が伴うものと思われていた。そしてアメリカ上層部は、12月はじめには日本との戦争状態に突入するであろうと予想していたといわれている。

Wikipediaによると、
ハル・ノートの原案は、ヘンリー・モーゲンソー財務長官がハルに示したものであり、更にそれは彼の副官である「ハリー・デクスター・ホワイト」が作成したものであった。ホワイトはフランクリン・ルーズベルト政権では財務次官補を務めた経済官僚であった。彼は、ソ連スパイのパブロフやアメロフなどと頻繁に通じてソ連コミンテルンの工作の一部を担っていた。アメリカのソ連の暗号書ベノナ文書の解読を受け、ソ連スパイであることが確定的となった。ソ連は日本がアメリカと戦争を始める事で、大陸から日本を追い出したかったのである。

ハル・ノート」の内容は概略次の通り。(http://www.senyu-ren.jp/AA/08.HTMによる。)

1.満州国を含む支那大陸、及び仏印から軍隊、警察の前面撤退。
2.大陸に於けるすべての権益の放棄。
3.三国同盟の廃棄。 と言う過酷な内容のものであった。

要するに、既に建国10年を経て栄えている満州国をも放棄し、日清・日露戦役以来国際法上認められてきた日本の諸権益も投げ出して大陸から出て行けということで、これは戦わずしてアメリカに屈服せよというに等しく、到底日本が受け入れられないことを承知で突きつけたものである。天皇の「戦争せずに交渉せよ」、とのお言葉に真剣に戦争回避の方策を検討していた東条内閣も首相以下政府・軍部首脳は、万事休すと天を仰いだのである。後の東京裁判でインドのパール判事をして「このような過酷な要求を突きつけられたならば、地中海の小国モナコと言えども銃を執って立ち上がるであろう。」言わしめるほど傍若無人な過酷なものであった。

・大東亜戦争(太平洋戦争)

1941年(S16年)12月8日、真珠湾攻撃で、今次の戦争の火蓋は切って落とされた。そして1941年(S16年)12月12日、大東亜戦争との呼称が閣議決定され、「今次の対米英戦は、支那事変をも含め大東亜戦争と呼称す。大東亜戦争と呼称するは、大東亜新秩序建設を目的とする戦争なることを意味するものにして、戦争地域を主として大東亜のみに限定する意味にあらず」と発表され、この戦争は、アジア諸国に於ける欧米の植民地支配の打倒を目指すものであると規定した。この方針は1943年(S18年)の大東亜会議で「再確認」されている。

このため大東亜共栄圏とは、アジアを欧米列強の植民地支配から開放し独立させて、現在の欧州連合のような政治・経済を中心とした対等な国家連合を実現させて、その中で日本も資源を確保しアジア諸国の発展に寄与し、共存共栄の経済圏を建設しようとしたものと理解できる。

このことは、1943年(S18年)11月5、6日に東京で開催された、史上初めての有色人種のみが一堂に会した首脳会議・大東亜会議で採択された「大東亜共同宣言」をみればよく分かる。

大東亜共同宣言(概略)

よくよく世界各国が各々そのところを得、相より相助けて、万邦共栄の楽を皆にするは世界平和確立の根本要義なり。然るに米英は自国の繁栄の為には他国家、他民族を抑圧し、特に大東亜に対しては、あくなき侵略搾取を行い、大東亜隷属化の野望たくましゅうし、遂には大東亜の安定を根柢より覆さんとせり。大東亜戦争の原因ここに存す。大東亜各国は、相提携して大東亜を完遂し、大東亜を米英の桎梏より開放して、其の自存自衛を全うし、左の綱領に基づき大東亜を建設し、以って世界の確立に寄与せんことを期す。

1.共存共栄、2.自主独立、3.伝統尊重・民族繁栄、4.互恵提携・経済発展、
5.人種差別撤廃・文化交流・資源開放
 』

なお大東亜会議への主席国は、日本、南京政府、満州国、フィリピン、ビルマ、タイ、インドなどの諸国であり、マレー、インドネシア、仏領インドシナは出席できなかった。

・大東亜諸国の独立

また、日本軍の占領で独立を果たした国々は、フィリピン、ベトナム、ラオス、ビルマ、カンボジャ、満州国であり、日本軍の各種の施策により後日独立を果たした国は、インドネシア、インドなどがある。

日本軍は占領地域に対しては、日本語による皇民化教育や資源の収奪などが行われたことから、日本もかっての宗主国と同じ侵掠者に過ぎないという見方もあるが、これは間違っている。日本軍が宗主国勢力を排し、現地人からなる軍事力を創設したことが独立につながり、占領下での様々な施策の改善、例えば愚民化教育を廃して学校教育を拡充し、現地語を公用語化し、在来民族の高官登用などが行われたため、旧宗主国に比べ日本はより真っ当な統治者であったと言われている。

(以上はWikipediaを参考にしている。)

このように「大東亜」の概念は、旧宗主国であった連合国にとっては東南アジアなどへのかかわり方に大きく影響を与えるものと考えて、其の使用を禁止したものと思われる。

そして独立を果たした大東亜の諸国にとっては、この大東亜戦争は他の何物にも変えがたい意味を持っていたのであった。 

(続く)
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共産主義(者・党)は日本を滅ぼす(2)

2016-06-28 00:00:00 | Weblog

ソ連は盧溝橋事件の翌月の1937.8に中国国民政府と不可侵条約を結び、国民政府を大規模に支援している。それは日本軍が中国で泥沼に陥るように図り、ソ連に目が向かないように仕向けるものであった。

そして1938.10.1の「プロパガンダ担当者会議」で、「資本主義国の中では、発展する国もあれば、発展に遅れる国が存在する。そのため同時にこれらの国を共産化することは困難である。遅れた国から共産化していくことは可能ではないか。」と言うものである。

世界同時革命論ではなく、気が熟すように仕向けて、そんな国から徐々に武力で共産化してゆくと言う方針を確認したのである。

スターリンは、1928年の第一次五か年計画、1932年からの第二次五か年計画を経て、軍事大国化していった。実力を付けたソ連は資本主義国間の対立を更に激化させ、戦争を煽るべく行動を開始したのである。

その一つが満州でのノモンハン事件である。

満州理の南、蒙古領が恐竜の頭のように満州側に突き出ている部分の額あたりの満州側にノモンハンはある。元をただせばそこのモンゴルと満州国の国境紛争であったが、1939.5(S14年)の満州国の国境警備隊とモンゴル軍の交戦をきっかけに、日本軍とソ連軍が兵力を派遣して大規模な戦闘となったものであった。この戦闘で日本は大敗を喫している(と言われているが実際はソ連側の方が損害は多かったが、多勢に無勢で日本が敗退することになったようだ)。

ソ連軍は大量の火砲と装甲車両の機械化狙撃大隊を派遣したが、関東軍にはそれほどの火砲などの装備はなかった。そして後半になるとソ連の航空戦力も日本軍を圧倒するようになり、そのため緒戦こそは優勢であったが、各所で壊滅的な打撃を受け1939.9.16に停戦となった。

これは関東軍の第二十三師団長の小松原道太郎中将ソ連のエージェントであったことから、小松原中将とソ連が結託して関東軍・日本軍を挑発して大規模な戦闘に導きいれて、日本軍を潰走させたものとされている。これは日本を挑発して軍事的な打撃を与えることによって、ソ連軍の実力侮りがたしと評価させ、北進論南進論に変えさせるものであった。日本の国内政治でも近衛内閣の顧問や閣僚となったソ連のスパイであった尾崎秀実風見章らの共産主義者による支那事変の拡大・南進論への政策誘導が進められた。更にアメリカでも日本を対米戦に陥れるために、「雪作戦」が進行していた。ソ連のエージェントであった財務省高官の「ハリー・ホワイト」が、日米交渉を日米戦争へと導いていた。このため日本はアメリカと戦うことになってしまったのである。この件は別途言及したい。

二つ目独ソ不可侵条約の締結であった。

これに対して欧州では、ノモンハンの停戦一か月前の1939.8.23独ソ不可侵条約が締結されている。これには英仏などはびっくり仰天したものであったが、この条約には秘密議定書がついており、ドイツポーランドに侵攻し、ソ連がポーランドの残り、バルト三国、フィンランド、ルーマニアに侵攻することが了解されていた。

ドイツのポーランド侵攻は、直ちに英仏の対独宣戦布告を引き出している。これこそが、スターリンが目論んだものであった。資本主義国家間の戦争で、両陣営がお互いに弱め合う事は、スターリンにとっては願ってもないことであった。

そしてノモンハン停戦の翌日の1939.9.17に、ロシアはポーランドのウクライナ人とベルラーシ人を保護するためにと、ポーランドに侵攻した。ポーランドはファシスト国家なので滅亡して共産主義となればこの上ないことであるとのスターリンの言葉が、側近の日記に記されている。

ここで注目しなければならないことは、ノモンハン事件と独ソ不可侵条約は密接に関連している、と言う事である。

日本とアメリカの戦争ドイツと英仏の戦争は、ともにスターリンが仕掛けたドラマである、と言う事である。これこそレーニンの基準原則に沿ったものであった。資本主義国同士で戦争をさせ、両者を疲弊させて最後に革命を起こさせて資本主義国家を共産主義国家に変えてゆく、と言う目論見であったが、結局はドイツのソ連侵攻で、ソ連は第二次大戦参加国中、最大の犠牲をこうむる羽目となったのである。しかし日本では共産主義者に煽られて対米戦争でぼろ負けし、アメリカに原爆二発も落とされ、ソ連には満州をはじめ北方領土を蹂躙されてしまったのであった。しかし日本での共産革命を阻止できたことは是とすべきであろう。

この福井義高氏の論考は次の文章で終わっている。
スターリンの世界革命戦略は結局、画竜点睛を欠く結果となり、漁夫の利を得たのは、他国に比べると圧倒的に少ない犠牲で、ソ連と並んでもう一つの超大国となったアメリカであった。大戦で極度に疲弊したソ連は、その戦後を最初から大きなハンディを背負った状態でスタートせざるを得なかった。
結局、東西冷戦を経て最終的に勝ち残ったのは、ソ連共産主義ではなく、アメリカ資本主義と言うもう一つのグローバリズムであった。



さて次に、日本に実質的な最後通牒となった「ハル・ノート」は、財務長官モーゲンソーの副官であった「ハリー・デクスター・ホワイト」によって作られたものである。そのハリー・ホワイトについて少し述べよう。これはアメリカが如何に日本を対米戦争に引きずり込んて行ったか、を明らかにするものである。ハリー・ホワイトもコミンテルンスパイであった。

ハリー・ホワイトについては、小生の当ブログ「靖国神社に参拝しよう」('08.9.1~'09.9.28)に、それなりに述べているのでそれを引用しよう。
(続く)
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共産主義(者・党)は日本を滅ぼす(1)

2016-06-27 00:00:00 | Weblog
(注)「続・次世代エコカー・本命は?」は、2、3日休みます。

 1917.10.25共産革命が起こった日である。十月(ソビエト)革命と呼ばれている。

共産主義とは、世の中を破壊して、既存の秩序を転覆させて社会主義社会・共産主義社会へ転換させることが、歴史の進歩であるとする思想である。

この転換こそが歴史の進歩で「科学的発展法則」に基づく必然的なものであると断定している。必然であるからこそ、そのように歴史を進めることは「科学的法則」に従っていることなので、革命を起こすことや共産主義的進歩を阻害すること(者)を排除することには、どんな謀略や不法な暴力を用いても許されるとするものである。(「正論」'16年7月号、「共産主義と日米戦争」中西輝政氏より

共産化こそが「科学的発展法則」に則った歴史の進歩であるから、「全世界共産化」と言う理想は絶対に正しいものであり、そのためには、謀略・陰謀、破壊工作・テロ、虚偽宣伝などあらゆる手段が許されせる。今でも許されているので、まことにそら恐ろし思想である。今のIS(Isramic State)に近似した考え方である。したがって共産主義を党是とする共産党は、一種のテロ組織と看做さなければならないのである。

さてレーニンなどが提唱したその代表的な手段が、資本主義国(戦前は帝国主義国)同士の対立と矛盾を利用することであった。(以後は「正論」'14/6月号、「日米を戦わせよ」福井義高氏による。

この資本主義的国家群の間の対立と矛盾を利用し、彼らを争わせることで資本主義国家群を滅ぼして(革命を起こして共産化して)行くべきだ、と言うのが、レーニンの「共産主義が最終的に勝利するまでの基本準則」である。

レーニンは、このことを1920.12.6の「露共産党モスクワ組織の活動分子の会合」での演説で述べている。特にまだ共産主義が資本主義世界より弱いうちは、資本主義国家群の対立と矛盾を利用し、彼らを互いにけしかけるべきだと、強調したのである。

そしてその「利用すべき根本的対立」として3項目を挙げている。

第1の対立、「日本とアメリカ」の対立。

アメリカは日本よりも数倍も富んでいるが、植民地を一つも持っていない。日本は石炭の豊富な中国を手に入れた。アメリカはこれを見過ごすはずはない。やがて奪いに来るであろう。

共産主義はこれを利用することである。日米の敵意を利用して、彼らを互いにいがみ合わせることである。そうすれば両者はやがては戦い始めるので、共産主義者はそれを利用しなければならない。(負け戦となった日本を、更に混乱させて共産化させることである。)

第2の対立、アメリカと残りの資本主義世界との対立。

第3の対立、「協商国とドイツ」との対立。

協商国とは、第1次世界大戦(1914.7.28~1918.11.11)の連合国のこと。英・仏・露など。
ドイツ・オーストリア・イタリアの同盟国と英・仏・露などの協商国が戦ったが、1915年にイタリアが同盟国から外れて協商国入りし、1917年2月に帝政が崩壊(二月革命)し10月十月革命のロシアは協商国より離脱している。日本は日英同盟のため協商国側に加わっている。
ドイツは莫大な賠償金と武装解除を課せられ、四苦八苦した。


これらの資本主義国の対立内ゲバ(戦争)に進展させるのが、共産主義のやることである。スターリンがこの対立を利用しない筈はない。1925.1.19の「露共産党中央委員会総会での演説」で、「これらの対立に対して積極的に行動すべきである。これらの対立を戦争に導き最後の一撃を加えるべく、手を施さなくてはならない」と言った趣旨の演説をしている。要は資本主義国間で戦争を起こさせて、弱ってきたところで最後の一撃を加えて(世界)共産革命を完遂すると言うのが、スターリンの革命ストーリーなのである。

その一つが満州国に対するロシアの態度であった。

日露戦争の勝利で南満州、特に南満州鉄道付属地を中心に、日本はロシアの権益を引き継いでいたが、奉天軍閥の張作霖らに日本人および日本権益が大幅に侵犯され、多数の日本人が虐殺されていた。これを防ぐために関東軍が立ち上がり中国軍閥を駆逐して満州全土を占領・統治することとなる。これが1931.9.18の柳条湖事件を発端とする満州事変である。そして1932.3.1満州国が建国されたのである。

この満州国に対して、ロシアはアメリカに接近して反日を煽り、日本に対しては英米などと異なり満州国承認に甘い顔をしたのである。結果として日米は対立し大東亜戦争に突入することになるのだが、ロシアはその隙に満州に攻め入ることを念頭に、1941.4に”日ソ中立条約”を締結(1946.4.26まで有効)し、敗色確実の1945.8.8にその中立条約を破棄して日本の満州、樺太、千島に攻め込んできたのである。この不可侵条約を結んでおいて、侵略するのがロシアの常套手段だったのである。バルト三国、フィンランド、ポーランドもこの手でロシアに侵略されている。

このため、70万の日本人がシベリアに抑留され、またその混乱の最中1946.2.3に満州国通化市では中国共産党により3千人の日本人が虐殺された通化事件が発生している。

話は少し飛んでしまったが、スターリンの対日政策の目的は、「日本を可能な限り弱体にし、ソ連から遠ざけておく」ことであった。要するに日本を中国に釘付けにし、その侵略を米英に向けさせると言う事である。まさに歴史はその通りになっているが、それは日本の政策がロシアに筒抜けであったからである。それはロシア人と結婚してロシアのスパイとなった外交官”泉顕蔵”が、ソ連に「外交暗号解読書Code book」を渡していたからである。

実に内部に巣くっているスパイには、現在も細心の注意を尽くす必要がある。安倍政権も十二分にスパイ対策を施しておくことである、特に共産党やそのシンパには、また共産党と手を組んだ野党にも。支那事変が勃発した1937年夏の時点で、日本と満州国には二千人の明らかなスパイと五万人のエージェントがいると日本政府は見ていた、とこの論考には記されている。このスターリンの手練手管は、今は中国共産党が引き継いでいる。
(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(60)

2016-06-24 00:00:00 | Weblog

ゴーンは三菱の軽自動車の燃費偽装が判った時から、買い叩きをして安く三菱を手に入れたいと、画策したに違いない。何といっても資本金1657億円と幾分小さいが、売上高は2兆1,807億円の会社を、たったの2370億円でものに出来るわけだから。
(資本金、売上高は2015年3月現在。三菱重工、商事、UFJが34%の資本を保有している。
三菱自動車の概要 http://www.mitsubishi-motors.com/jp/corporate/aboutus/profile/index.html による。)

2016年4月頃の株価は800円程だったものが、燃費偽造が判明した5月には500円を割り、現在6/6には567円程である。

発行済み株式総数は55億3,800万株程である。その34%は、従って、18億8,300万株程である。
188,300万株×567円≒1兆677億円となるが、それを2370億円で手に入れることになる。

こんな計算が合っているかどうかは知らないが、
ゴーンにしてみれば、笑いが止まらない状態なのであろう。あの笑顔がその証拠であろう。愈々一千万台クラブの仲間入りが出来るわけである。




財部誠一の「ビジネス立体思考」
三菱自動車に出資を決めた日産カルロス・ゴーンの野望
2016.06.06

資本の論理を超えたゴーン流経営

「世界一に決まっているじゃないですか」

 日産自動車の電撃的な三菱自動車への出資決定。そこにはカルロス・ゴーン社長の“トヨタ越え”への執念があるという。日産幹部の証言だ。

「トヨタ、フォルクスワーゲンを追い越し、世界一の経営者と認められたいというのがゴーン社長の本音です」

 2005年、ゴーン氏は日産の親会社であるルノーの社長を兼務した。その瞬間、資本の論理を超えたゴーン流の日産・ルノーアライアンス経営が始まった。

 翌2006年、ゴーン氏は業績不振に喘いでいたGMとの提携交渉に乗り出し、一気に「世界一」を目指したが、残念ながら交渉は決裂。野望はついえたが、それから10年、再び「世界一」への足がかりをつかんだ

ゴーン目線で三菱自動車問題を考える

 三菱自動車の燃費不正問題を、視点をガラリと変え、日産のカルロス・ゴーン社長の目線に立って眺めてみると、まったく違う異なる風景が見えてくる。

三菱自、日産の傘下に
両社トップが共同会見(写真:UPI/アフロ)

 5月12日、日産が三菱自動車への34%の出資を公表。燃費不正問題発覚から、わずか3週間あまりのことだった。ゴーン氏は記者会見の席でも、三菱との提携は長年検討してきたことであり、今回の事件はきっかけにすぎないと説明した。

 たしかに日本国内の自動車販売を見ると、いまや市場全体の4割を軽自動車が占めている。日産も「軽」を無視しては日本国内のビジネスが成り立たなくなってきた。当初は日産も「軽」を自社生産する道を模索したが、どうにもコストがあわなかった

 従来の生産ラインでは対応できず、新たな設備投資が避けられないうえ、設計ひとつとっても「軽」には「軽」のノウハウがあり、自社生産を断念。最終的に生産委託というカタチで三菱と連携してきた経緯はある。

日産の社内アンケートで見えてきたこと

 じつは三菱への34%の出資に対する社内アンケートを日産が行った。
「管理職はおおむねポジティブでしたが、若手の反応はポジティブ、ネガティブ半々だった」

 日産幹部によれば、ネガティブな理由は一般世間の反応に近いという。「不正を働く体質」「技術力の低さ」に集中にしていた。

 一方、幹部クラスのポジティブな意見はビジネスライクである。

「世間では批判される一方だが、三菱の利益率は6%と高い。これは日産の利益率とかわらない。この10年ほどで三菱自動車は事業の集中と選択をやり、生産性は随分向上させてきたことは間違いない。また三菱は今後『国内市場は日産リードで、リソースをASEANに集中したい』とも言っている。逆に日産ASEANが弱い。日本市場は共同でやっていけばいい。ニュートラルに考えると、三菱との提携は決して悪い話ではない」

ゴーンの「壁」のおかげで独自経営ができる

 では三菱自動車の株価を睨みながら提携を即決したゴーン社長の判断に対する社内の評価はどうか。

 ある日産関係者は仏ルノーの子会社という特殊な環境でも、日産独自の経営ができるのは、ゴーン社長という「壁」のおかげだという。

「日産は曲りなりにも7000億円の利益を上げるまでになりましたが、資本関係でみればルノーの子会社です。いまゴーン社長がいなくなれば、社長はフランスから送り込まれ、フランス政府の意向にそった経営をやるリスクがものすごく高い。日産はそれを恐れている。フランス政府とも頑として闘えるゴーン社長がいて、パワーバランスが保てているんです」

 ゴーン氏が日産から受け取っている2015年報酬は2年連続で10億円超えである。日本企業の経営者としては破格な報酬だが、日産社内からは批判の声は一切聞こえてこない。

 じつはゴーン氏の報酬をめぐる興味深い話がある。ルノーの会長兼最高経営責任者(CEO)としての15年報酬を約725万ユーロ(約8億8000万円)とした際、大株主であるフランス政府が高すぎると横やりを入れた。4月29日に開かれた株主総会ではいったん否決されたものの、直後の臨時株主総会で8億8000万円のままで確定したのだが、その後でフランス政府がとった対応は、いかにもフランスらしい。企業経営者の報酬に上限を設ける法案を出したのだ。

ゴーン氏のルーツが「世界一」への執着を生んでいる

 日産関係者はここにカルロス・ゴーン氏の際立った存在感があるという。

 「ルノーの前CEOのシュバイツァー氏は典型的な仏のエリートで、日産のことなどルノーにカネを貢ぐだけとしか考えていないでしょう。しかしゴーン氏はフランスのためでも、ルノーのためでも、ましてや日産のためでもなく、彼は自分のために経営している。アライアンスで統合するという自分にしかできない手法で、世界一の経営者と認められたい。そう熱望しているんです」

 結果として、フランス政府やルノーから日産の独立性を担保しているというのだ。
 それにしても、ゴーン氏は経営者としてもう十分な評価を得ていると思うのだが、この日産関係者は彼のルーツが「世界一」への執着を生んでいるという。

レバノン系ブラジル人。階級社会のフランスでは、どこまでいってもマイノリティーです。だからトヨタやワーゲンを追い越すという絶対的な結果にこだわる」

 そう考えると、日産と三菱自動車のアライアンスも巷間言われているものとは違って見えくる。果たして吉と出るか、凶と出るか。ゴーン流アライアンス経営のこれからが注目される。 

財部 誠一(たからべ・せいいち)


 1980年、慶應義塾大学を卒業し野村證券入社。出版社勤務を経て、1986年からフリーランスジャーナリスト。1995年、経済政策シンクタンク「ハーベイロード・ジャパン」設立。金融、経済誌に多く寄稿し、気鋭のジャーナリストとして活躍。テレビ朝日系の『報道ステーション』、BS日テレ『財部ビジネス研究所』などに出演。近著に『メイド・イン・ジャパン消滅! 世界で戦える「製造業」をどう守るか』(朝日新聞出版)がある。
財部誠一のホームページはこちら。
http://www.nikkeibp.co.jp/atcl/column/15/100452/060200010/?P=1
(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(59)

2016-06-23 00:00:00 | Weblog

いくらコンプライアンスがゆがんだ三菱自動車であっても、ゴーンのこの「してやったり」と言った誇らしげな顔を見れば、さもありなんと思われる。


ゴーンと益子、両CEOの蜜月が生んだ救済策
ニュースを斬る
三菱、日産傘下入りで「3度目の正直」なるか
2016年5月13日(金)
寺岡 篤志

 スリーダイヤが日産自動車の傘下に入る。5月12日、日産自動車は三菱自動車に2370億円を出資して筆頭株主となることを発表した。これまで三菱重工業が持分法適用会社とするなど、三菱グループ3社が三菱自動車の経営を支えてきた。日産の出資で三菱グループの出資比率は20%程度まで下がる見込み。

会見で満面の笑みを見せた日産自動車のカルロス・ゴーン社長(左)と三菱自動車の益子修会長 (写真:Bloomberg/Getty Images)

 4月20日に発覚した三菱自動車の燃費データの不正問題は依然として調査段階にあり、多くの事実の解明が待たれている。各種の補償の負担や販売へのダメージなどで経営への深刻なダメージが予想される中、渦中の軽自動車事業で提携関係にあった日産が救済の手を差し伸べることになる。

 三菱自動車はこの10数年で、独ダイムラークライスラー(当時)、三菱グループと「庇護者」を変えてきた。そして次は日産。「3度目の正直」で危機からの脱出に挑むことになる。

 三菱自動車の益子修会長は会見で、「開発部門への日産からの人的・技術的支援によって、風土改革を促進できると期待する」と発言。今回の燃費データ不正問題も含め、長年にわたって組織の風通しの悪さや隠蔽体質が課題とされながら、根本的な解決には至らなかった。軽自動車事業の提携関係を継続することに加え、新型車の開発や次世代技術の開発といった広範な領域で日産とのアライアンスを進め、思い切った「外科手術」によって組織風土の改革を進めようとしている。

 一方の日産のカルロス・ゴーン社長兼CEO(最高経営責任者)は、三菱自動車の救済というよりも、両社のウィン‐ウィンの関係を強調。「三菱自動車の筆頭株主になることで、日産にとってもメリットがある。既にわかっているだけでも、22億ドルもの出資を正当化できる十分なシナジー効果が期待できる」と語った。

1日前とは違う表情

 笑顔の両CEOが握手を交わしながら報道陣のカメラに収まったその1日前、益子会長は国土交通省に不正についての3回目の報告に赴き、「全容解明が全く出来ていない」と批判を受けていた。誰が不正を主導したのか、不正があった車種の規模はどれくらいか、ごく基本的な事項すら明確に返答できなかったからだ。

 この状況下で不正処理後の経営を見据える資本提携の発表。スピード決着の背景に何があったのか。

 「益子さんから不正について報告を受けた。益子さんがこういう問題があると言うならそれを信用する」。ゴーン社長は12日の記者会見で、益子会長との「信頼関係」を繰り返し強調した。つい半月前には、北京自動車ショーに際しての記者会見で、三菱自動車との提携関係の今後について「政府や三菱自動車の調査で全容が解明されるのを待つ」と言っていたにも関わらず、益子会長の説明に納得し、資本提携の覚書にサインしたことになる。

 ゴーン社長と益子会長は、ピックアップトラックの部品の共通化など、軽自動車に続く新たな協業の形を2人の個人的な会話の中で検討してきたとも明かした。環境対応車自動運転などの幅広い技術開発が必要とされる中、下位メーカーの三菱自動車単独で投資負担を背負いきれないためだ。「今回の問題で実現が早まっただけだ」(ゴーン社長)。

「俺がいないと日産となじめない」

 提携会見に続いた日産の決算会見では、ゴーン社長は「今回は直前まで情報が漏れなかった。噂も憶測記事もなかった」と不敵な笑顔を見せていた。不正発覚後も両トップの非公式会談を続け、内々に計画を進めてきたことを改めて伺わせた。益子会長も最近社内で「俺がいないと日産と三菱はうまくなじまない」と当面留任する考えを語っていた。

 三菱自動車の経営を独立させて、ブランドを維持することを強調するゴーン社長の日産は、三菱グループ各社にとっても、三菱自動車の嫁ぎ先としては好ましい相手と言えるだろう。ただし、日産側のステークホルダーにも、提携の正当性を説明する責任が求められる。

 ゴーン社長が「提携は何十億ドルの効果を生む」と強調した理由の1つが、三菱自動車が得意とするSUV(多目的スポーツ車)。しかしその車種のひとつである「RVR」でも、一部のモデルで実験をせず、机上計算で走行性能を算出した疑いがあるというケチがついた。三菱自動車の東南アジアでの高い実績も、同社の戦略や技術力だけの功績と言うよりは、同地域での販売を担う三菱商事の能力を示すものと言える。

 益子会長は資本提携の実行について「年内にクローズさせたい」と発言。それまでのデューデリジェンス(資産査定)で、両CEOの蜜月が産んだ提携が慎重に評価される。

このコラムについて

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日々、生み出される膨大なニュース。その本質と意味するところは何か。そこから何を学び取るべきなのか――。本コラムでは、日経ビジネス編集部が選んだ注目のニュースを、その道のプロフェッショナルである執筆陣が独自の視点で鋭く解説。ニュースの裏側に潜む意外な事実、一歩踏み込んだ読み筋を引き出します。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/110879/051200343/?P=1



三菱自の益子会長は会長で、「俺がいないと日産と三菱はうまくなじまない」などとうそぶいているし、ゴーンはゴーンで、益子の話は検察が信用ならないと言っていても、「益子さんが言うのならそれを信用する」と、三菱自にぞっこんである。なんとなく出来レースの趣がある。
(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(58)

2016-06-22 00:00:00 | Weblog

昨年度は復活の手応えをつかんだが

 日本経済をけん引する自動車メーカーだが、会社ごとの成長曲線は大きく異なる。下のグラフを見ていただきたい。

 三菱自は1990年代に黄金期を迎え、営業利益が富士重工業とマツダ、スズキを上回っていた。

 2000年以降、紆余曲折がありながらも競合他社は経営努力で、大きな成長を遂げてきた。

 その一方で、三菱自はオリンピック周期で不正を繰り返し、上昇の機会を逸し続けた

 同社は2014年度の営業利益が1359億円と過去最高を更新した。ついに成長軌道に入ったと思われた矢先に、新たな不正が発覚してしまった。しかも、今後のブランド戦略の核としていた環境性能を、自ら傷つけてしまった格好だ。

 今後の業績について、相川社長は「我々としても手が付けられない状況。国内でどのくらい影響が広がるか見通せない」と語った。

自動車各社の営業利益

三菱自動車は2000年度以降、オリンピックの開催年ごとに業績を悪化させてきた
[画像のクリックで拡大表示]  

 不正の影響は軽自動車4車種にとどまらず、さらに広がるかもしれない。同社は多くの車種について、日本で認められていない手法で燃費測定の基になる走行抵抗値を測定していたことを明らかにした。ほぼすべての車種で、不正があった可能性がある。

 三菱自動車は法令順守を徹底し、隠ぺい体質を根絶できなければ、2020年の東京五輪を迎えられないかもしれない

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 三菱自動車は法令順守を徹底し、隠ぺい体質を根絶できなければ、2020年の東京五輪を迎えられないかもしれない。」と結んでいるが、この記事は2016年4月22日(金)のものであり、日産が資本提携を発表したのは2016年5月12日(木)のことである。日産・ルノーがどのように三菱自を料理するかはわからないが、結局はルノー・日産自動車・三菱工場として東京五輪を迎えることになるのではないのかな。

まあ中国企業に身売りされることにはならなかったと言う事で、メデタシめでたしと言う事ではないのかな。まあ日産としても背後に存在する大三菱の息のかかった会社をどう料理してゆくのか、見ものである。うまく料理してゆけば、日産は三菱商事などの販売網を有効に使えることになり、相当なメリットを享受することが出来る訳だ。

日産と三菱自動車は、軽自動車製造の合弁会社・株式会社NMKVを共同で設立していることからも分かるように、それなりに近い関係を維持していた様だ。NMKVは2011年に設立されているから、それ以前から親密な関係となっていたものと思われる。日産のカルロス・ゴーンと三菱の益子修会長とは以前から親しい関係にあったから、共同での会社設立もスムースに進んだものと思われる。

それにもまして、ルノー・日産のゴーンには、新ビッグ3に早く追いつきたいと言う願望、と言うよりも野望があったようだ。早く一千万台クラブに入りたかったのだ。

参考までに日産と三菱の販売台数を見てみよう。


        2014年販売台数
ルノー・日産  8,471千台(暦年)・・・日産グループは5,318千台。
三菱自動車   1,090千台(年度)
  Total     9,561千台

ルノー・日産(http://www.nissan-global.com/JP/NEWS/2015/_STORY/150204-01-j.html)より
三菱自動車(http://www.mitsubishi-motors.com/jp/investors/individual/about.html)より


暦年と年度ではあるが、これは2014年の両社の販売台数である。合わせると一千万台グループにようやく仲間入り出来る台数となることが判る。既に2015年の販売台数も分かっている筈であるが、まだ一千万台には届いていない筈だ。

だからカルロス・ゴーンが狙っているのは、一つは、一千万台クラブへの入会ではないのかな。VWがスズキを子会社化扱いした目的と、期せずして同じことをゴーンは狙っていたのであろう。



日産、三菱自に34%出資し筆頭株主に 燃費不正での経営悪化、日産傘下で再建へ
2016.5.12 13:41

日産の傘下に入る三菱自動車本社=東京都港区

 三菱自動車は(2016.5.)strong>12日に取締役会を開き、日産自動車との資本業務提携の交渉入りを決めたことが12日分かった。日産が2千億円超を出資し、三菱自株の34%程度を取得して筆頭株主になる見込み。燃費データ不正問題で経営悪化が避けられない三菱自は、日産の傘下に入り再建を目指す。

 日産は12日午前、「本日の取締役会の議論のひとつとする」とコメント。三菱自も「取締役会で議論する」と発表していた。

 両社は平成23年に軽自動車の企画、開発を手掛ける共同出資会社を設立。資本関係はなかったが、日産は提携で三菱自の水島製作所(岡山県)で製造する軽の供給を確保する狙い。三菱自が主力とする東南アジアなどの生産・販売でも協力する見込み。出資比率が3分の1を超える34%になれば、会社の重要決定事項に拒否権を確保できるなど、強く経営参画できる。

 一方、三菱自は出資を受け入れ、不正問題で悪化が見込まれる財務体質を強化する。両社が注力する電気自動車(EV)など環境対応車の開発加速につなげる考えだ。

 三菱自は12、16年のリコール隠し後の経営危機で、現在の筆頭株主の三菱重工業など三菱グループの金融支援を受けた。だが、今回の不正問題は、生産・販売での相乗効果が大きい日産の主導で再生が進むとみられる。

 国内自動車業界では、トヨタ自動車とマツダが昨年、環境技術や安全技術分野を中心に包括提携で基本合意。トヨタが今年8月に軽市場トップのダイハツ工業を完全子会社化するなど、小型車や環境対応車を軸とした再編の動きが活発になっている。
http://www.sankei.com/economy/news/160512/ecn1605120031-n1.html
(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(57)

2016-06-21 00:00:00 | Weblog

五輪周期の三菱自の不正、VW並みの悪質さ

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燃費の水増しは、技術者への冒涜でもある

2016年4月22日(金)
大西 孝弘

 「うちはオリンピックの年ごとに大きな不祥事が起きている。今年度は特に気を付けよう」

 4月に入って三菱自動車の社内では、そんなことを真剣に語り合っていた。その最中に軽自動車の4車種で、燃費を意図的に実際より5~10%良く見積もっていた不正が明らかになった。対象車は合計62万5000台で、同社は4月20日から生産、販売を中止した。

 該当車を購入したユーザーや株主は怒り心頭だろう。4月21日の東京株式市場で三菱自動車の株価は、ストップ安水準となる前日比150円(20%)安の583円に落ち込んだ。

 三菱自の社員も憤まんやるかたない。
 東京・田町の本社に在籍する社員の中には、「何やってんだよ!これまでの努力が全部水の泡じゃないか!」と涙ながらに語る者もいた。

相川哲郎社長は「(報告を受けた4月13日まで)不正を知らなかった。経営者として責任を感じる」と話した

 同社は2000年度以降、オリンピックの開催年大きな不祥事が発覚している。

 シドニー五輪が開催された2000年度には、三菱自の凋落の原点となるリコール(回収・無償修理)隠し問題が発覚し、経営危機に陥った。

 独ダイムラークライスラー(当時)の傘下で再生を図っている最中の2004年度にはアテネ五輪があり、分社化した三菱ふそうによるリコール隠しが明らかに。三菱グループ各社が優先株を引き受けて、急場をしのいだ。

 北京五輪の2008年度には世界的な金融危機があり、大きなトラブルは目立たなかったが、ロンドン五輪の2012年度は軽自動車のリコール対応の遅れで、国土交通省から厳重注意を受けた。

 そして、ブラジルでリオデジャネイロ五輪が開催される2016年度。新たな不祥事が発覚した。

 この4年の周期は、偶然とは言い切れない。というのは、4年はちょうど1つのクルマを開発する期間に当たり、自動車メーカーにとって経営の1つの区切りになっている。

 つまり、クルマの開発が1サイクル回るごとに新たな不正が発覚し、自浄作用が働いていないと言えるのだ。

 相川哲郎社長は記者会見で、「2000年以降、石垣を積み重ねるように改善していたが、全社員にコンプライアンスの徹底を図ることの難しさを感じている。無念でありじくじたる思いだ」と語り、肩を落とした。

技術者は燃費0.1%の改善に大変な努力をする

 燃費の水増しが5~10%というのは、受け手によって様々な印象があるかもしれないが、関係者にとってはかなり大きな数字だ。

 例えばeKワゴンの中でも燃費がトップクラスのタイプでは、ガソリン1リットル当たり30.4kmと公表していた。10%の水増しだとすると、実際はおよそ3kmほど燃費が悪かったことになる。

 これは販売に大きな影響がある。まずエコカー減税の減税幅が違った可能性がある。消費者の負担額が変わるため、購入動向に響く。

 実際の走行においては、カタログ燃費ほどはでないものの、10%燃費悪化は、余分のガソリン代として日々の消費者の財布を直撃する。

 消費者にとっては税額、下取り価格、燃料代など様々な負担が増えるのだ。こうした負担について相川社長は、「燃料代も含めて補償を検討する」と語った。

 さらに消費者や株主から訴訟を起こされたり、国から制裁金を科されたりする可能性もある。日産自動車との補償問題も浮上しそうだ。

2013年には三菱自動車と日産自動車のトップが共同で軽自動車のラインオフ式に出席した。今回の燃費不正は、日産の調査が発端となった

 競合他社への影響もある。技術者にとって燃費5~10%というのは、とてつもなく大きい。というのは、技術者は0.1%の燃費を高めるだけでもたいへんな努力が必要だからだ。

 自動車メーカーの技術者が、「鉛筆なめて燃費を上げられるなんて許しがたい」と憤るのも無理はない。

 そもそも燃費向上には膨大なコストがかかる。自動車各社は燃費改善のために基礎研究から開発まで巨額の投資をしているのだ。

 分かりやすい例でいうと、確実に燃費向上に寄与するアイドリングストップ機構を導入すると、1台あたり20万円近いコストがかかる。

 今後の展開は、韓国の現代自動車グループや独フォルクスワーゲン(VW)の事例が参考になりそうだ。

 現代自動車は米国で燃費の水増し表示が発覚し、販売が急減した。VWは米国でディーゼル車の排ガス性能を偽装したことが発覚し、ブランドを大きく失墜させてしまった。訴訟などが起こされており、未だに負担額の全貌は見えていない。

 いずれも本来ならば負担すべきコストを意図的に省いて、関係者を欺いた点で、悪質性は高い。

 三菱自も意図的な不正で関係者を欺いており、VWの排ガス不正に並ぶほどの悪質性がある。今後、行政や司法、消費者から厳しい追及を受けることは避けられないだろう。
(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(56)

2016-06-20 00:00:00 | Weblog

だから何故そうなったか、と言う事が問われることになる。結局は会社の経営がうまくできていなかったと言う事になってしまうが、三菱自動車工業株式会社は、元をたどれば戦前からの日本の重工業 の覇者である戦艦武蔵やゼロ戦を作っていた三菱重工業株式会社に行き着く。

以下Wikipediaなどを参考にしながら、三菱自動車の生い立ちを追ってみたい。

その三菱重工は、戦後の1950年(S25年)3つの会社に分割され、米国の乗用車やウィルスジープのCKD生産を行っていた。1960年には自社開発の三菱500、1962年には軽自動車のミニカを発売している。その3社が合併されて三菱重工業株式会社として元の姿に戻ったのは1964年(S39年)のことであった。1969年にはコルトギャランを発売し、翌年の1970年2月には三菱重工はクライスラーと合弁で自動車事業を進めることになる。

そして1970年6月1日に、三菱重工の自動車部門は、三菱自動車工業株式会社として独立したのである。その後1994年にはFTO日本カー・オブ・ザ・イヤーを受賞したり、1998年にはランサーエボリューションWRCを完全制覇したりと絶頂期を迎えている。

しかしもともと軍需産業が主体であった企業であり、その体質が抜け切れていなかったためか、こと自動車、特に乗用車などの耐久消費財では安全などを筆頭に品質保証が最重要となるものであるが、クレームが多発してしまった。この時代はトヨタ、日産、ホンダに次ぐ乗用車第4位の地位に上り詰めた三菱自動車であったが、2000年(H12年)7月にリコールにつながる大量のクレーム隠しが、内部告発で発覚する。乗用車、トラックなど合わせて約69万台、1977年から23年間にわたりリコール情報を社内隠蔽していたのである。

結局は会社の拡大に伴って、経営の品質が、それに伴って向上していかなかった、と言うよりも向上させ得なかったと言う事ではないのかな。その原因は何かと更に突っ込まれれば、人に起因すると言わざるを得ない。結局は経営者・管理層が会社をうまくマネジメントできなかった、と言う事に尽きる。

このため副社長をはじめ関係者が道路運送車両法違反(虚偽報告)容疑で書類送検されている。
2000年10月18日ダイムラー・クライスラー(1998年ダイムラーがクライスラーを事実上吸収合併)と資本・業務提携を結び、ダイムラー・ベンツからCOOそしてCEOを迎えて、経営の立て直しを図る。

しかし2002年1月10日には横浜市で三菱の大型車のタイヤホイールの脱落事故が発生し、母親と幼児二人にあたり、母親が死亡すると言う事故が発生する。ハブの強度不足によるものであった。

更に2002年10月19日には山陽自動車道熊毛インターチェンジで三菱製9トン冷蔵車が暴走し構造物に激突し大破、運転手が死亡する事故が発生する。これも結局はプロペラシャフトの欠陥が原因で破断し、ブレーキパイプを破壊して暴走を引き起こしたことが判明する。

このいずれもリコールに該当する欠陥であったことが判り、2004年に三菱自動車の責任とされ、その後当時の副社長らが有罪判決を受けている。結局は2000年のリコール隠しの反省と対策が身についていなかったことになる。

2003年、トラック・バス部門を三菱ふそうトラック・バス株式会社として分離独立。ダイムラー・クライスラー傘下(43%保有)に入る。2005年にはクレーム問題の賠償として20%の株式譲渡、ダイムラー・クライスラー社が株式の85%保有となる。

このようなことが重なり、ダイムラー・クライスラーも嫌気がさして三菱の経営から手を引くことになる。
2004年4月、ダイムラー・クライスラーは三菱への経営追加支援を中止し、CEOも任期を待たずに去ることになった。2005年11月にはダイムラー・クライスラーは三菱自の全株式を売却し、資本関係を解消している。

その前2005年1月には日産と包括的な業務提携を結び、ekワゴンをオッティ(日産名)として供給することが発表されている。

そして2005年12月には三菱重工業の持ち分法連結会社となり、三菱グルーブ傘下で再建を目指すことになる。

2009年6月5日には、国内で初めて、量産型電気自動車i-MiEVを発表している。このi-MiEVは、2010年にはプジョー・シトロエンにOEM供給されている。

2011年6月1日、日産と三菱が折半で出資して、軽自動車製造の合弁会社・株式会社NMKVを設立している。日産が企画・デザイン、部品調達、三菱が開発・製造を担当する。後に燃費の水増し不正のあったekやDAYSなどの軽乗用車の開発・生産が決まったものであった。
NMKVは、Nissan Mitsubishi Kei Vehicle だと言う。

2012年12月25日、軽自動車用E/G(3G83型)のオイル漏れ不具合に対するリコール対策の遅れや不備により、道路運送車両法に基づく強制調査を受ける。

2013年には、NMKVとルノーとの協業でEVも含むグローバルエントリーカーの開発・生産に合意。三菱自動車としてルノー・日産との協業にも合意している。

そんなわけで、2016年5月12日には、日産自動車が三菱自動車の発行済み株式34%を取得して傘下に収めることか発表された。だから、2016月4月20日三菱製軽自動車の燃費不正発表も、なんとなく胡散臭い感じがするものである。そのため日産は非常にリーズナブルな価格で三菱を傘下に収めることが出来た訳である。

このように三菱自動車の会社概況を紐解くと、2000年リコール隠し問題からおおむね4年ごとに大きな問題を引き起こしているように見える。太字の年号の年がそれにあたる。

2000年(H12年)7月 (シドニー五輪)大量のクレーム隠しが内部告発で発覚
2004年          (アテネ五輪)大トラや冷蔵車で死亡事故発生、有罪判決。DC社撤退。
2008年          (北京五輪)世界的な金融危機発生
2012年12月25日   (ロンドン五輪)軽自動車用エンジンの油漏れで強制調査
2016月4月20日    (リオデジャネイロ五輪)軽自動車の燃費不正が発覚、三菱自動車は日産傘下に入ることになる。

と言う事で結局三菱自動車は、潰れたことと同じ結果となってしまった、と言う事ではないのかな。
日産・ルノーの思うように使われることになってしまうのであろう。三菱グルーブも、こんな状態の三菱自動車には、ほとほと手を焼いていたことであろう。うまい具合に日産の手練手管に丸められてグループの手を離れてゆくことには、それほど未練はなかったものと思われる。

そして次の4年後の2020年の東京五輪では、果たして三菱自動車の名称は残っているのであろうか

(続く)
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続・次世代エコカー・本命は?(55)

2016-06-17 00:00:00 | Weblog

日産の調査で発覚

 今回の事件はなぜ発覚したのか。きっかけは日産による燃費性能の調査だった。現行の三菱のeKシリーズと、日産のデイズシリーズは、三菱自動車が開発を担当していたが、次期モデルについては日産が担当することになった。参考のため日産が現行車種の燃費を測定したところ、カタログ値との乖離が大きいため、三菱は試験で設定した走行抵抗値について確認を求められたという。これを受け、三菱が社内調査をしたところ、実際よりも燃費に有利な走行抵抗値を使用していた不正が発覚した。

 ここで少し「走行抵抗値」やら「惰行法」といった専門用語について説明が必要だろう。この部分が、記者発表でも報道関係者から多く質問があったところだ。以前、フォルクスワーゲン(VW)の不正についてこのコラムの号外や第37回で取り上げたように、クルマの燃費や排ガスを国土交通省で測定する際には、実際にクルマを路上で走らせるのではなく、試験室内でシャシーダイナモと呼ばれる台上試験機にクルマを載せ、この試験機上で模擬的にクルマを走らせて測定する。

 シャシーダイナモでは、クルマは大きなローラーの上に載せられ、クルマの駆動力はこのローラーを回すのに使われる。ところが、このローラーが空回りしてしまっては、車両の走行状態を模擬していることにはならない。というのは、走っているクルマは大きく分けて「慣性抵抗」と「走行抵抗」という抵抗を受けているからだ。このうち慣性抵抗は、質量のある物体を加速するときに受ける抵抗で、これはほとんど摩擦のない宇宙空間でロケットを加速する場合にも生じる抵抗である。

 そしてもう一つの抵抗である走行抵抗だが、これはさらに「ころがり抵抗」と「空気抵抗」の二つに分かれる。転がり抵抗は、タイヤと路面の間で生じる抵抗で、この抵抗値は速度にかかわらず一定である。ところがもう一つの空気抵抗はクルマの速度の二乗に比例して増加する。例えば時速10kmと100kmでは、速度は10倍だが、空気抵抗は100倍に増加するということになる。このため、走行抵抗は、低速域では転がり抵抗が支配的だが、高速で走っているときには空気抵抗が主な抵抗になる。

走行抵抗は大きく分けて、速度が上がっても一定の転がり抵抗と、速度の二乗で増加する空気抵抗がある

 シャシーダイナモ上で燃費や排ガスを測定するクルマにも、この「慣性抵抗」と「走行抵抗」を与えてやらなければ、車両が走行している状態を模擬することにはならない。そこでシャシーダイナモでは、ローラーの回転に抵抗を与えてタイヤが回転しにくくなるようにして、慣性抵抗や走行抵抗を模擬するようにしている。慣性抵抗は車両の重さから単純に決まるが、走行抵抗は車両のタイヤの銘柄や車体形状などで大きく異なるため、実際に車両を走らせて各速度ごとの走行抵抗を測定し、この測定値をシャシーダイナモに入力して、ローラーを回転させる抵抗として再現させるようにする。

測定データの都合の良い部分を採用

 説明が長くなったが、このシャシーダイナモに入力する走行抵抗の測定値を、実際よりも低くしていたというのが、今回の不正の内容だ。抵抗を少なくすれば、当然燃費は良くなる。走行抵抗は、車両を実際に何度も走らせて測定するのだが、実験なのだから測定データにはばらつきが出る。そのばらつきの中で、本来なら平均的な値を採らなければならないのだが、今回の不正では、データの範囲内で低い部分のデータを測定値としていたという。

不正の内容。今回は走行抵抗のデータのうち、平均的なところではなく、低い領域のデータを採っていた(図はイメージで実際のデータとは異なる)

 また、先ほど出てきた「惰行法」とか「高速惰行法」というのは、走行抵抗の測定方法の名称だ。日本や欧州で使われているのが惰行法で、クルマを時速90km±5kmまで加速し、そこからギアをニュートラルに入れて惰性で走行し、速度が時速10km落ちるごとに、落ちるのにかかる時間を計測してクルマの走行抵抗を求める。風向きによってクルマの走行抵抗は大きく異なるから、同じコースを往復し、それを3回以上繰り返すことになっている。

 これに対して、主に米国で採用されている高速惰行法は、10km刻みではなく、高い速度に加速してギアをニュートラルにしたら、そこから低い速度まで一気に減速して、それにかかる時間を測定する手法だ。

見劣りする研究開発費

 ここまでで、三菱が今回「何をしたか」についてはご理解いただけたと思うのだが、やはりVWの事件と同様に、一番知りたいのは「何故」このような事件が起こったかということだ。もちろん、当の三菱自動車自身が「有識者による調査委員会を立ち上げ、そこで徹底的に究明したい」と言っているのだからその結果を待つしかないのだが、筆者は技術開発での遅れがこうした不正を招いたのではないかと考えている。それは単なるイメージではなく、数字を追っていけば、自然に出てくる結論である。

 まず、技術開発で最もベースとなる研究開発費を完成車メーカーごとに比較(2014年度の実績)すると、約1兆円のトヨタ、6000億円超のホンダ、5000億円を超える日産は別格として、三菱の研究開発費は746億円と、スズキの1259億円、マツダの1084億円、富士重工業の835億円も下回っている。乗用車メーカーで三菱を下回るのは465億円のダイハツ工業だけだ。

日本の乗用車メーカーの研究開発費の比較(2014年度)

 もっとも、スズキの世界生産台数が約300万台と、三菱の2.5倍以上あるのだから、研究開発費で上回るのはある意味当然といえる。そこで、この中で軽自動車メーカー4社だけを取り出し、さらにこの研究開発費のうち軽自動車に振り向けられるのはどの程度なのかを考えてみる。そこで、非常に粗い計算になるが、それぞれのメーカーの世界生産台数に占める軽自動車の比率が、そのまま研究開発費に充てられる比率だと考えてみると、それぞれのメーカーの軽自動車にかけられる研究開発費用は下のようになる(ホンダの場合は4輪事業の売上比率をまず考え、その中で、さらに軽自動車の生産台数比率を勘案して算出した)。

軽自動車にかけられる研究開発余力。各社の軽自動車の生産台数比率を研究開発費にかけて算出した

 すると、非常に大雑把にいって、ホンダの約400億円、スズキとダイハツの約300億円に対して、三菱自動車は180億円となった。しかも実際には、この比率以上に三菱の研究開発費用は見劣りすると考えられる。なぜなら、スズキやダイハツの数字は、世界生産台数から、純粋に国内で生産する軽自動車の比率だけを出して、上の数字を算出したが、実際にはスズキもダイハツも、海外で生産している車種の多くが軽自動車の技術をベースとしており、世界生産台数に占める実質的な軽自動車の比率は、もっと高いと考えられるからだ。

 それに対して三菱は、規模が小さいメーカーであるにもかかわらず、ピックアップトラックや中型SUV(スポーツ・ユーティリティ・ビークル)、小型セダンなど幅広い車種を展開しており、研究開発費用はそれぞれに薄く広く配分せざるを得ない。こう考えてくると、三菱が軽自動車に割ける研究開発費用は、実質的には競合他社の半分程度しかないかもしれない。「カネ」という実弾がなければ、いかに士気の高い軍隊といえども、勝負に勝つのは難しい。

No.1の座をすぐに奪回される現実

 それが如実に表れるのが、今回問題になった「燃費」である。燃費はある意味、企業の総合力が問われる指標である。エンジン技術だけでなく、変速機、車体設計、シャシー設計など、クルマのあらゆる部分が関連するからだ。今回問題になった三菱のeKワゴンの現行車種は、日産自動車が初めて企画から参加して開発された戦略車種であり、2013年6月に発売したときのJC08モード燃費29.2km/Lは、ハイトワゴンと呼ばれる背の高い軽ワゴン市場でNo.1の数値を誇った。逆にいえば、No.1を取れる開発目標を掲げ、これを達成することは至上命題であっただろう。

 ところがそのわずか1カ月後、No.1の称号は30.0km/Lを実現したスズキのワゴンRに奪取されてしまう。この数値にeKワゴンが追いついたのは、ようやくその1年後の2014年7月のことだった。ところがまたもやその1カ月後に、ワゴンRは「S-エネチャージ」と呼ぶ簡易型のハイブリッドシステムを搭載することで32.4km/Lというという高い値を実現、さらに2015年8月の部分改良ではこれを33.0km/Lまで延ばしてekワゴンを突き放す。ekワゴンがエンジンの改良で30.4km/Lにまで向上させたのはようやく2015年10月のことである。

 もちろん競合車種はスズキだけではない。ダイハツの競合車種である「ムーヴ」も、スズキのようなハイブリッドシステムなしに、31.0km/Lというekワゴンを上回る燃費を実現している。競合他社が急速に燃費を向上させていく中で、三菱の開発陣が、せめて競合他社に見劣りしない燃費の数値を実現するために、データの改ざんに手を染めたと考えることは想像に難くない。冒頭で「やり切れない」と書いたのは、そうした状況に追い込まれていったエンジニアたちの心境を考えたからだ。もちろん不正はあってはならない。それははっきりしている。しかし「カネ」も、そして恐らく「ヒト」も足りない状況の中で、競合他社と戦うことをエンジニアに強いた経営にこそ、最も重い責任が問われるべきだ。

 前回のこのコラムでも触れたことだが、富士重工業2008年、苦渋の決断の末に、当時国内販売台数で約2/3を占めていた軽自動車事業からの撤退し、プラットフォームの種類を絞り込み、米国市場にフォーカスするという「選択と集中」によって、今日の健全な企業体質を作り上げることに成功した。今回の事件が示しているのは、もはや三菱自動車が現在の事業構造を維持するのは不可能だということだ。富士重工が軽自動車事業から撤退したのに匹敵する大胆な事業再構築が、待ったなしの状況になったといえるだろう。

クルマのうんテク

2013年に、トヨタ自動車グループの世界生産台数が、世界の自動車メーカーで初めて1000万台を超えるなど、日本を代表する製造業である自動車産業。その一方で、国内市場では軽自動車がシェアの約4割に達し、若者のクルマ離れが話題になるなど、クルマという商品がコモディティ化し、消費者の関心が薄れていると指摘されている。しかし、燃費向上競争の激化や安全性向上ニーズの高まり、さらには今後の自動運転技術の実用化に向けて、外からは見えにくいクルマの内部では大きな変化が起こっている。このコラムでは、クルマのテクノロジーに関する薀蓄(うんちく)を「うんテク」と命名し、自動車エンジニアの見えざる戦いの一端を紹介したい。
http://business.nikkeibp.co.jp/atcl/report/15/264450/042100029/?P=1


三菱の技術者が不正を行わざるを得なかった訳は、結局、三菱自動車がそれなりの研究開発投資を行うに足る資金が不足していた、と言う事のようだ。
(続く)
コメント
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