10.卑弥呼以て死す。
247年に、魏からの 詔書、黄幢が難升米に拝仮された直後に、女王卑弥呼は死亡している。
魏(の新帝の補佐役の司馬懿)としては、卑弥呼を親魏倭王にしたものの難升米の実力を評価して、難升米を信頼できる東夷の王と考えたようだ。その方が辺境防衛には役立つと感じたのであろう。
当時としては魏は、南の呉とは仲が悪かった訳で、その意味でも東夷の倭国をてなづけておきたかったのではないのかな。
240年には既に難升米を倭王と認めており、その倭王・難升米は243年には、大夫伊聲耆、掖邪拘等を遣わし朝貢している。大夫伊聲耆ではなくて掖邪狗に率善中郎将と印綬を授けられている。彼らは奴国などの三十国のうちの国の王なのであろう。何故か掖邪狗を持ち上げている。
しかし難升米を倭王と認めて、卑弥呼を亡き者にした結果、倭国は又大いに乱れてしまった。これでは倭国は呉に対する押さえにはなりそうもない。
卑弥呼の死後247年には、倭国は内戦状態となってしまい千余人が殺されている。「露布の原理」に従えば、百余人となるが倭国としては大混乱である。仕方がなく卑弥呼の一族の娘・十三歳、壱与(又は臺=台与)を倭国王に据えると国中がようやく静まった。
そして先の掖邪拘等二十人で魏からの使い・張政を送り届けながら、洛陽に詣でている。「倭人伝」の最後の文章がそれだ。
「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。」
「因って台に詣り、(その結果宮廷に到着し、)」と書かれているので、天子の居所・台にまで詣って貢物を献上している。これが「魏志倭人伝」の最後の文章となっている。
同書には、次のように書かれている。
「だが、単なる東夷からの使者が皇帝の宮殿に呼ばれるとは、おそらく破格の待遇の印象だ。宴席が設けられ、大量の下賜品があったはずだ。」
ここには倭王・難升米への言及がない。きっと「更に男王を立てしも、國中服せず。更更(コモゴモ)相誅殺し、当時千余人を殺す。」と言う戦争状態の中で、難升米は失脚してしまったものと思われる。
「壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、・・・」は、「景初二年(三年が正しい?239年か)六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣(いた)り、・・・」と同じ表現である。
難升米 なずめ が掖邪狗 ややこ に置き換わっていることを見ると、
同書では、「すると、八人の倭の大夫つまり率善中郎将たちが、つまり八人の「王」たちが、卑弥呼の死の前後に、抗争を起こしたと仮定する。卑弥呼の死後の「男王」で伊都国王の「倭王」難升米なずめは、敗死か逃亡した。伊声耆(イセキ)も負け組だろう。つまり、おそらく掖邪狗(ヤヤコ)が、この権力闘争の勝利者なのだ。そして、おそらく新女王壱与いよの後見人だ。」と書いている。
魏としては、当時の異民族対策や呉に備えなければならず、やむを得ず倭国の政変をいわゆる 事後承認したことになる。
難升米の朝貢の様子はきちんと年月が記載されているが、掖邪狗の時には年月の記載がない。この倭国での政変は、司馬懿にとっては全くの計算違いであったのであろう。司馬懿は、陳寿が務めている晋の皇帝の祖父にあたる人だ。陳寿としては悪しざまに書ける訳がない。だから陳寿は、忖度して記述していた筈だ。
さて面白いことに、倭国で、卑弥呼の死のそれに伴う内戦が発生しているころ、朝鮮でも同じような事態が発生していた。
即ち、後漢書の「韓伝」には、「三韓はいにしえの辰国、辰王は、悉く三韓の地に王なり。三韓の王は皆馬韓の血筋である。」と書かれているのである。
246年頃 帯方郡の統治者が、辰韓の領土の一部を、昔楽浪郡に属していたからと言って、楽浪郡に分け与えてしまった。これで韓側は怒り馬韓の勢力が帯方郡を攻めた。そのため帯方太守弓遵と楽浪郡太守劉茂は兵を起こしてこれを討伐した。しかし弓遵は戦死したが、二郡はついに「韓(辰王)」を滅ぼしている。
その翌年の247年には新たに帯方太守となった王頎(キ)が、倭国に張政を派遣して詔書、黄幢を難升米に拝仮し、檄文を渡している。そして卑弥呼が死んで、男王が立つが内乱となっている。
と言う事は、同時期に魏側の毌丘倹や王頎等が関係して、倭国で共立された女王卑弥呼が死んだように朝鮮でも共立された「辰王」が、魏との紛争で、「遂」に「滅した」のだ、と同書には疑問を持って記載されている(329頁)。
(続く)