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世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

邪馬台国とはなんぞや?(18)

2018-08-31 00:00:00 | Weblog

10.卑弥呼以て死す。

247年に、魏からの 詔書、黄幢が難升米に拝仮された直後に、女王卑弥呼は死亡している。

魏(の新帝の補佐役の司馬懿)としては、卑弥呼を親魏倭王にしたものの難升米の実力を評価して、難升米を信頼できる東夷の王と考えたようだ。その方が辺境防衛には役立つと感じたのであろう。

当時としては魏は、南の呉とは仲が悪かった訳で、その意味でも東夷の倭国をてなづけておきたかったのではないのかな。

240年には既に難升米を倭王と認めており、その倭王・難升米は243年には、大夫伊聲耆、掖邪拘等を遣わし朝貢している。大夫伊聲耆ではなくて掖邪狗に率善中郎将と印綬を授けられている。彼らは奴国などの三十国のうちの国の王なのであろう。何故か掖邪狗を持ち上げている。

しかし難升米を倭王と認めて、卑弥呼を亡き者にした結果、倭国は又大いに乱れてしまった。これでは倭国は呉に対する押さえにはなりそうもない。

卑弥呼の死後247年には、倭国は内戦状態となってしまい千余人が殺されている。「露布の原理」に従えば、百余人となるが倭国としては大混乱である。仕方がなく卑弥呼の一族の娘・十三歳、壱与(又は臺=台与)を倭国王に据えると国中がようやく静まった。

そして先の掖邪拘等二十人で魏からの使い・張政を送り届けながら、洛陽に詣でている。「倭人伝」の最後の文章がそれだ。

壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、政等の還るを送らしむ。因って台に詣り、男女生口三十人を献上し、白珠五千孔・青大勾珠二牧・異文雑錦二十匹を貢す。


因って台に詣り、(その結果宮廷に到着し、)」と書かれているので、天子の居所・台にまで詣って貢物を献上している。これが「魏志倭人伝」の最後の文章となっている。

同書には、次のように書かれている。


だが、単なる東夷からの使者が皇帝の宮殿に呼ばれるとは、おそらく破格の待遇の印象だ。宴席が設けられ、大量の下賜品があったはずだ。


ここには倭王・難升米への言及がない。きっと「更に男王を立てしも、國中服せず。更更(コモゴモ)相誅殺し、当時千余人を殺す。」と言う戦争状態の中で、難升米は失脚してしまったものと思われる。

壱与、倭の大夫率善中郎将掖邪狗等二十人を遣わし、・・・」は、「景初二年(三年が正しい?239年か)六月、倭の女王、大夫難升米等を遣わし郡に詣(いた)り、・・・」と同じ表現である。

難升米 なずめ が掖邪狗 ややこ に置き換わっていることを見ると、

同書では、「すると、八人の倭の大夫つまり率善中郎将たちが、つまり八人の「王」たちが、卑弥呼の死の前後に、抗争を起こしたと仮定する。卑弥呼の死後の「男王」で伊都国王の「倭王」難升米なずめは、敗死か逃亡した。伊声耆(イセキ)も負け組だろう。つまり、おそらく掖邪狗(ヤヤコ)が、この権力闘争の勝利者なのだ。そして、おそらく新女王壱与いよの後見人だ。」と書いている。

魏としては、当時の異民族対策や呉に備えなければならず、やむを得ず倭国の政変をいわゆる 事後承認したことになる。

難升米の朝貢の様子はきちんと年月が記載されているが、掖邪狗の時には年月の記載がない。この倭国での政変は、司馬懿にとっては全くの計算違いであったのであろう。司馬懿は、陳寿が務めている晋の皇帝の祖父にあたる人だ。陳寿としては悪しざまに書ける訳がない。だから陳寿は、忖度して記述していた筈だ。


さて面白いことに、倭国で、卑弥呼の死のそれに伴う内戦が発生しているころ、朝鮮でも同じような事態が発生していた。

即ち、後漢書の「韓伝」には、「三韓はいにしえの辰国、辰王は、悉く三韓の地に王なり。三韓の王は皆馬韓の血筋である。」と書かれているのである。

246年頃 帯方郡の統治者が、辰韓の領土の一部を、昔楽浪郡に属していたからと言って、楽浪郡に分け与えてしまった。これで韓側は怒り馬韓の勢力が帯方郡を攻めた。そのため帯方太守弓遵と楽浪郡太守劉茂は兵を起こしてこれを討伐した。しかし弓遵は戦死したが、二郡はついに「韓(辰王)」を滅ぼしている。

その翌年の247年には新たに帯方太守となった王頎(キ)が、倭国に張政を派遣して詔書、黄幢を難升米に拝仮し、檄文を渡している。そして卑弥呼が死んで、男王が立つが内乱となっている。

と言う事は、同時期に魏側の毌丘倹や王頎等が関係して、倭国で共立された女王卑弥呼が死んだように朝鮮でも共立された「辰王」が、魏との紛争で、「遂」に「滅した」のだ、と同書には疑問を持って記載されている(329頁)。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(17)

2018-08-30 00:00:00 | Weblog

  人物  行為   行為  行為の対象 
(1) 一大率-特置 -検察 -諸国(国中)
(2) 男弟  -佐   -治国 -国(倭国)


この(1)と(2)は、同じことを表現しているのである。即ち同一人物なのである。

即ち、卑弥呼が霊的権力を行使して宗教的に倭国(邪馬台国)を導き、男弟の伊都国王が俗的権力(政治権力)を発揮していたのである。

しかも「治す」という言葉は、通常は一般的に王都を意味する言葉だと言う(同書278頁)。だから伊都国王は、三十国の一国ではあるが、親魏倭王の卑弥呼の男弟であることでもあり、邪馬台国の政治的な王として振る舞っていたのであろう。魏使にはそのように見えたはずだ、だから「常に伊都国に治す」とあたかも伊都国が邪馬台国の王都であるような書き留め方をしたのではないのかな。

だからこの魏志倭人伝の「王」「女王」「倭王」「倭女王」と言う字句は、それぞれ分けて考えなくてはならないのであろう。

先の「女王国より以北・・・」の文の後半には、「王」と「女王」とが明確に分けて記載されている。

即ち、「が捜露(そうろ)し、賜遺の物を女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらしむ。」とあるように、伊都国の王(大率)が物品を検査して、女王に届けるのである。

しかも、女王を「見ることある者少なく」、更に伊都国は「郡使の往来して常に駐まる所なり。」とあるように、女王卑弥呼の影は薄く、「王」即ち伊都国王が外交の前面に出て倭王として振る舞っているように書かれている。事実そうである。

さてここら辺の事情を明確にするために魏国と倭国との交渉・政治記録を、時系列に並べてみよう。


236年頃 新任幽州刺史毌丘倹北方騎馬民族烏丸王を朝貢させる。
237年   毌丘倹、遼東の軍閥公孫淵と戦うが、失敗する。
238年   魏の将軍司馬懿が、公孫淵を討つ。楽浪郡、帯方郡も接収する。
239年   魏明帝36才で崩御、8才新帝が即位、司馬懿が新帝の補佐役に就く。
239年   6月、倭の女王、大夫難升米(なずめ)等を遣わし郡に詣(いた)り、朝献せんことを求む。
239年   12月、魏帝詔書を発し卑弥呼を親魏倭王の金印紫綬、難升米に銀印青綬を下賜。
240年   1月、倭国使節が正月参賀に参列。(難升米がそのまま越年したものと思われる。)
240年   梯儁等が詔書・印綬を倭国に持ってきて、倭王に拝仮。倭王、使者を送り感謝する。
243年   (12月)倭王、大夫伊聲耆、掖邪拘等を遣わし、掖邪狗等は率善中郎将と印綬を受ける。
245年   魏は難升米に黄幢(こうどう、大将旗)を下賜し、帯方郡に送る。
247年   太守が王頎に代わり、倭、載斯烏越等を派遣し狗奴国との戦いを報告。魏、張政等を派遣し詔書、黄幢を難升米に拝仮し、檄文を渡す。
247年   詔書、黄幢を難升米に拝仮された直後に、女王卑弥呼は死亡する。(以死
247年か 男王が立つが、国中納得せず千人余が殺される。
247年か 卑弥呼の宗女壱与(又は臺=台与)、年十三を王とすると国中が落ち着く。張政等は檄文で告諭した。
247年か 壱与は掖邪拘等20人で張政等を帯方郡に送り届ける。


これを見ると、

239年では卑弥呼を親魏倭王としているが、
240年には卑弥呼ではなくて、倭王に詔書・印綬を拝仮している。
243年は倭王と表現しており、
245年には卑弥呼ではなくて、難升米に黄幢(こうどう、大将旗)を下賜と表現している。
247年も難升米に直接、詔書、黄幢を拝(恭しく)仮(権力付与)している。直後に女王卑弥呼死す。

240年には、既に倭女王ではなくて倭王に拝仮と表現されているので、難升米は司馬懿とその正月参賀の席で意気投合し信頼を得たものと思われる。だから女王ではなくて、倭王または難升米に拝仮という表現になったのではないのか、と同書は推測している。

しかも「卑弥呼以死」と言う表現は、原因があってその結果(以て)死んだと言う事であり、更には「以て」とは行ってはならないことを行った場合に使われる表現だとしている(同書305頁)。

しかも239年12月に詔書を発しているが、その全文がこの「魏書」「倭人伝」に採録されている。全文が採録されると言う事は極めて珍しく、三国志ではこの倭人伝の詔書しかないのである。

これも新帝を補佐している司馬懿が書いたものであるからであり、陳寿の属している晋の現皇帝の祖父である司馬懿の文章であるからこそ、陳寿は忖度して全文を載せたものであろう、としている(同書310頁)。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(16)

2018-08-29 00:00:00 | Weblog

塚田敬章氏の「後漢書倭伝」から引用する。


「後漢書倭伝」 (宋)范曄著(424頃)                塚田敬章  

1、後漢書倭伝(原文、和訳と解説)
2、後漢書倭伝の構成要素
3、後漢書倭伝の魏志修正箇所

1、原文、和訳と解説

倭在韓東南大海中 依山㠀為居 凡百餘國 自武帝滅朝鮮使驛通於漢者三十許國 國皆稱王丗丗傳統 其大倭王居邪馬臺國(案今名邪摩惟音之訛也) 楽浪郡徼去其國萬二千里 其西北界狗邪韓國七千餘里 其地大較在會稽東冶之東 與朱崖儋耳相近故其法俗多同

「倭は韓の東南、大海の中にある。山島に居住する。およそ百余国。武帝が(衛氏)朝鮮を滅ぼして以来、漢と交流のあったのは三十国ほどである。国はみな王を称し、代々受け継いでいる。その大倭王は邪馬台国に居る(今の名を案ずると、ヤマユイ音のなまりである)。楽浪郡の境界は其の国を去ること万二千里。その西北界の狗邪韓国を去ること七千余里。その地はおおむね会稽、東冶の東にあり、朱崖、儋耳に近く、法や習俗に同じものが多い。」

http://www.eonet.ne.jp/~temb/16/gokan_wa/gokanzyo_waden.htm


従って同書では次のように結論付けている。


倭国の全諸国にも王様がいたとの記述を認めると、どうしても、大率=王だ、「一大率は倭国三十の諸国の王のうちの一人」との結論になる。「女王を共立」した諸国の王(下位の王)のうちの一人となる。「後漢書」のいう「大倭王」は一人だが、「王」は三十人だ。


しかしながら、
女王國より以北には、特に一大率(すい)を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚(いたん)す。常に伊都國に治す國中において刺史の如きあり。王、使を遣わして京都(洛陽)・帯方郡・諸韓國に詣り及び、郡の倭國に使するに、皆津に臨みて捜露(そうろ)し、文書を伝送して賜遺の物を女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらしむ。」と書かれているので、この伊都国の王(大率)には相当の権限があったものと思われる。

大率・本率一人とは、

(1) 女王国以北に置かれた。伊都国に治す、
(2) 諸国を検察した。諸国は畏憚している。倭国中の刺史と同じ。
(3)倭国側の外交窓口で、使節の往来を監察し持ち物検査をする。
(4) 女王国より派遣されている。


先ず刺史とは、どんな役目をするものであろうか。

同書では、刺史とは、

行政監督官であると同時に、軍の最高指揮官でもあった。即ち、軍政長官であり、今で言う軍閥のトップとしての独裁者のような存在であったのであろう、としている。(同書261頁)

倭国の窓口となっていた帯方太守に転勤してきた王頎(おうき)やその上司であった幽州刺史の毌丘倹(かんきゅうけん)と同じ役柄と、魏使は、伊都国王を看做したわけだ。

しかも伊都国に治して諸国を畏憚させていた大率(だいすい)は、女王卑弥呼の弟であり、卑弥呼の威光もあって卑弥呼を佐(たす)けて国を治めていた訳である。

名を卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。年已に長大なるも、夫婿なく、男弟あり、佐(たす)けて國を治む。

当然卑弥呼を佐けて国を治めていたこの男弟と、伊都国に治す大率は、同一人物とみて間違いがなかろう。もし違う人物であれば、相当権力闘争などの混乱が発生した筈なので、そのような記述もなく淡々と陳寿は記述しているところを見れば、当然同一人物として、間違いなかろう。

このような表現の違い、「事同じくして文異なる」(文の違え、微言大義)こそが、当時の筆法の主流だったのである、として同書268頁には対比表を載せている。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(15)

2018-08-28 00:00:00 | Weblog

9.一大率を置き諸国を検察せしむ。

さてここで邪馬台国関係の位置関係をおさらいしておこう。



まあ異論は多々あると思われるが、邪馬台国とは北九州から朝鮮半島にまたがったあたりに存在していたとして、先ず間違いがなかろう。とりあえずはこんな感じであろう。

さて、

女王國より以北には、特に一大率(すい)を置き、諸國を検察せしむ。諸國これを畏憚(いたん)す。常に伊都國に治す。國中において刺史の如きあり。」 と倭人伝には記載されているこの一大率とは何者なのか。

さて五代十国時代に編纂された「旧唐書」や次の宋の時代につくられた「新唐書」にも、日本のことが記載されている。

ちなみに中国の歴代王朝は、次のように変遷している。

紀元前500年頃~ 春秋戦国時代
紀元前250年頃   秦
紀元前200年頃~ 前漢
紀元前後       新
紀元後         後漢
紀元200年頃~   三国時代(魏、呉、蜀)
紀元300年頃~   西晋、東晋
紀元400年頃~   南北朝
紀元600年頃    隋
紀元600年頃~   唐 → (飛鳥・奈良・平安時代)
紀元900年頃~   五代十国
紀元960年頃~   北宋、南宋
紀元1280年頃~  元
紀元1400年頃~  明
紀元1650年頃~  清
紀元1910年頃~  中華民国
紀元1960年頃~  中華人民共和国

まあこの年次はかなりアバウトなものであるので、そのつもりで。

この「旧唐書・倭国日本国伝」には「魏志倭人伝」と同じ表現で記載されているが、「新唐書・日本伝」には、次のように記載されている、と同書には書かれている。

置本率一人検察諸部・・・」(本率ホンスイ一人を置き、諸部を検察させる・・・その官は十有二等)

もちろん「新唐書・日本伝」のこの表現は、奈良時代の官制を表現したものではあるが、「魏志倭人伝」の表現を踏襲したものであろう。

即ち、「魏志倭人伝」⇒「旧唐書・倭国日本国伝」=「新唐書・日本伝」と言う繋がりとなっているので、「新唐書・日本伝」は「旧唐書・倭国日本国伝」を解説したものであり、「旧唐書」≒「魏志倭人伝」と同じ表現なので、「魏志倭人伝」=「新唐書・日本伝」と同じ意味合いとなるのであろう。

と言う事は、「一大率(倭人伝)」=「一大率(旧唐書)」=「本率一人(新唐書)」と言う言語解釈となる、のである。

即ち「一大率」とは、三文字で一つの役職を意味するものではなくて、複数の大率(本率)の中の一人、と言う事を意味するのである。


大率・本率(だいすい・ほんすい)とは地方の有力者を意味する言葉であるが、この魏志の中では次のようにも表現されている。

渠帥(きょすい)、豪帥(ごうすい)、大帥(だいすい)、長帥(ちょうすい)、魁帥(かいすい)、などであるが、いずれも意味は同じである。

大率と同じ発音の大帥と言う言葉がある。中国の古典の一字一句を考証する学問に訓詁学と言うものがあり、清朝の時代に隆盛を極めたと言われている。それによると、は全く同じもので、同音同義で自由に併用されていたと説明されている、と言う。

現在の言葉では元帥(げんすい)と言う軍隊での最上位の役職・称号があるが、その帥と言う字は率は全く同じに使われてよいことになっていたのである。

倭人伝の言う大率とは「大人」と同じ意味で、地方の王なのであろう。しかし「親魏倭王」の王とは、同格ではない。

中国で言う異民族の階級区分では、「国王、率衆王、帰義候、邑君、邑長」の序列が存在していたと言うので、「親魏倭王」は倭国全土の王様で、率衆王は地域的な下位の王であったのであろう。


「後漢書倭伝」にも、倭国には三十ほどの国があり、それぞれの国は皆王と称していた、と記されているから、大帥(大率)は夫々の国の王(率衆王)なのであろう。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(14)

2018-08-27 00:00:00 | Weblog

208Pb/206Pbを横軸の左、207Pb/206Pbを横軸の右側に、207Pb/204Pbを縦軸の上に、206Pb/204Pbを縦軸の下にプロットする四軸のレーダーチャートで示すことにより、菱形の鉛同体比のチャートが出来上がる。

このレーダーチャートは、産出地ごとに異なった菱形を示すことになる。同じ形状の菱形であれば、同じ産出地の青銅から作られてもの、と判断できるのである。

イメージ的にこれらのチャートを次の示すと、こんな風になる。

これを見ると、三角縁神獣鏡は明らかに前漢鏡や漢鏡とそのチャートは異なっていることが判る。





これを見ると、三角縁神獣鏡は明らかに前漢鏡や漢鏡とそのチャートは異なっている。

三角縁神獣鏡は中国鏡とは全く異なったチャートを示していることから、従って、中国で製作されたものではないことが判る。

しからばどこで作られたのか。当然それは倭国製である。神岡鉱山でとれた鉱物だけがこの菱形の値を示すと言う。きっと神岡鉱山から産出された鉱物を使って、三角縁神獣鏡は作られたものであろう。

卑弥呼が鏡を下賜されたのは景初二年(三年が正しい?239年か)十二月のことで、三世紀半ばのことである。しかも三角縁神獣鏡は四世紀の古墳からしか出ていない、とも記述されているので尚更だ。

もう一つ鏡を吊るすために紐を通す穴の形状が、三角縁神獣鏡は殆どが長方形か方形であり、通常の鏡と異なっている、と言われている。通常の鏡は、紐口は円や半円状で鋳バリなどはないが、三角縁神獣鏡はこの点非常に異なっていることになる。

従ってこの三角縁神獣鏡は、紐につるすことは想定されていなかったものと、推定される。と言うのも弥生から古墳時代への変革期に、人の死後の平安を祈願して墓に埋葬されるためだけに、製作されたものではないのかとも考えられている。このことを、この論考は、次のように表現している。さもありなん。

この鏡は死後の不安を解消してくれる。この鏡の鋭くとがった三角縁が現世あの世の結界となり、現生の未練と俗念を断ち切りあの世へと入っていく。そこには山(鋸歯文)や川(複波文)の試練があるが、この鏡があれば軽く越えることが出来る。するとそこは待望の神仙世界で神像がやさしく迎え、獣像とともに死者の安穏を約束してくれる。三角縁神獣鏡ではこの世界観が一目でわかり、数多の鏡を押しのけて葬儀の必需品となり古墳から出土することになる。

だから三角縁神獣鏡は倭国独特の鏡であり、これに反して卑弥呼の鏡は、九州北部を中心に出土する「内行花文鏡・方格規矩鏡」などの漢鏡である、とこの論考は結論付けている。

但し、小生にはよくわからないが、直径46.5cm、円周は46.5×3.14=146.01cmものでかい青銅鏡は中国や朝鮮では出土していないと言われているので、日本製の鏡かも知れない。稲作にせよ、鉄器や青銅器にせよ、倭国では相当高度な技術や知識を弥生時代初めから有していたようなので、この内行花文鏡の鉛分析も知りたいものだ。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(13)

2018-08-24 00:00:00 | Weblog

8.銅鏡百枚と三角縁神獣鏡

魏志倭人伝には、後半の終わりから1/4程戻ったところに「今、・・・銅鏡百枚・・・賜う。皆装封して難升米・牛利に付さん。還り到らば録受し、悉く以て汝が國中の人に示し、國家汝を哀れむを知らしむべし。故に鄭重に汝に好物を賜えり」 と記載されている。鏡は卑弥呼の好物だったようだ。

明治の頃から三角縁神獣鏡が盛んに出土したため、これが「卑弥呼の鏡」ではないかと言われていたが、今では既に560枚も出土していると言うので、明らかに「銅鏡百枚」の量をこえてきている。

これらの事実を見ても、これら三角縁神獣鏡は「卑弥呼の鏡」ではないことは、容易に推測、というよりも断言できる。

ここに「宝島社」の「古代史15の新説―新視点で読み解く古代日本の論点」(2016.12.15発行)と言う雑誌がある。

そのなかに藤本昇氏の「鉛同位体比から卑弥呼の鏡を考える」と言う論考が載っている。これは氏の「卑弥呼の鏡」(海鳥社)からの抜粋まとめであるが、三角縁神獣鏡は、その成分から漢鏡などではなく、倭国製の国産品であると結論付けている。

ここでは、その内容を紹介しよう。


先ず銅鏡は、銅と錫の合金である、と言う事はよく知られていることと思う。

しかし地球誕生時の岩石・鉱物中には僅かなウランUトリムThが含まれており、長い年月とともにU,Thは放射壊変により鉛の同位体へと変化すると言う。

U,Thには、238U、235U、232Thという種類があり、それぞれ放射線を出すことにより(放射壊変と言う)安定した原子核に変化すると言う。これを最終核種と言い、それぞれ206Pb、207Pb、208Pbと呼ばれる最終核種鉛同位体となる。

もう一つ鉛同位体204Pbは、地球が生成された時の存在量のままで変化しないものである。

従って青銅に含まれるこれら鉛同位体の量(具体的には鉛同位体の比率)を測り、異なる青銅が同じ比率を示せば同じ生成過程を経た鉱物であると判断できる訳である。即ち同じ鉱床から産出されたものとみなすことが出来る。

このことにより漢鏡や三角縁神獣鏡の鉛同位体比を分析すれば、それぞれの産出地が推定できるのである。

詳しくは次のURLを参照願う。




鉛同位体比分析による文化財の産地推定法のご紹介
2016年1月1日

はじめに

古文書や古記録等の史料から、歴史が紐解かれることにより、私たちは過去の出来事を知り、そして多くのことを学んできました。
近年では、様々な歴史資料の材質や産地・年代などを明らかにするために、史料を読み解くだけでなく、科学的手法を用いた解明が取り入られるようになり、新たな事実も徐々に明らかになってきました。  

その科学的手法の中に、「鉛同位体比法による原料産地推定」というものがあります。これは、鉛同位体比が鉱山毎に異なるということを利用して、金属材料中に含まれる鉛の同位体比測定を行い、原料の産地を推定するものです。産地の推定ができれば、文字の記録のない時代に行われた文化交流や物質・人々の移動を研究する上でとても重要な情報が得られます。
本法は、1965年アメリカで始まり、日本では1967年から取り組まれ、約50年もの間、平尾良光氏(現別府大学・客員教授)を中心に研究されてきました。その測定に使用する「表面電離型質量分析装置(Thermal Ionization Mass Spectrometry、以下TIMSと記載する)」が昨年当事業所へ測定技術と共に移管され、当事業所の新たなメニューに加わりました。

今回は、この「鉛同位体比分析」について以下にご紹介します。


鉛同位体比法の原理

地球の誕生時には、中性子数の異なる同位体組成は元素毎に一定の値で、地球上どこでも同じであり、時間の経過による変化はほとんどないとされています。しかし、例外としていくつかの元素は変化します。鉛(Pb)は、そのひとつです。鉛の同位体は主に204Pb、206Pb、207Pb、208Pb4種が安定して存在していますが、これらの内、206Pb、207Pb、208Pbは、それぞれ238ウラン(U)、 235U、232トリウム(Th)から、放射壊変という放射線を出すことにより安定な原子核に変化して得られる最終核種になります(Pbは放射線を出さない安定核種です)。

地球誕生時の岩石・鉱物中には僅かなウラン(U)、トリウム(Th)が含まれており、長い年月と共にU、Thは放射壊変により鉛の同位体へと変化します(図1参照)。そのため、238U、235U、232Thは減少し、206Pb、207Pb、208Pbは増加します。

204Pbのみは地球が生成された時の存在量のままで変化しません。地殻変動などの影響で、鉛が濃縮し、鉛鉱床が生成すると、ウランとトリウムは排除され、それ以後同位体比は変化せず、安定して存在することになります。つまり、地球誕生時に岩石中に含まれていた鉛の量とウラン、トリウムの量、共存時間によって、鉛の同位体比は地域によって異なる値を示し、それぞれの鉱山の固有値となるというわけです1-3)。

考古遺物の原料に関する産地推定の研究は、以上のような原理を応用し、鉛鉱床あるいは産出地域の鉛同位体比との比較により産地を推定できるようになりました。


鉛同位体比測定法

遺物中の鉛同位体比の測定は、遺物である金属材料から鉛を単離することから始まります。当事業所は、平尾先生の方法を踏襲していますので、電気分解法(電着法)にて鉛の分離精製を行っています。分離して得られた鉛はリン酸及びシリカゲルと共に、レニウムフィラメント上に載せ、表面電離型質量分析装置MAT262に導入します。鉛は、通電加熱により気化、イオン化させて、質量分離を行います(図2)。測定する質量は、鉛同位体の204Pb、206Pb、207Pb、208Pbの4種です。これら同位体は、同時に測定しないと精密な比として計測できないため、検出器は質量を順番に測定するシングルコレクターではなく、複数台の検出器で、上記4種の同位体を同時に測定するマルチコレクター型の装置を使用する必要があります。


鉛同位体比測定値の表記

馬淵久夫氏・平尾良光氏らにより、弥生時代、古墳時代から古代にいたるまでの日本で出土した中国・朝鮮半島系の青銅及び日本で作られた青銅資料、現代の日本、中国、朝鮮の鉛鉱石を系統的に分析した結果、208Pb/206Pbを縦軸、207Pb/206Pbを横軸にしたa式図(図3)、207Pb/204Pbを縦軸、206Pb/204Pbを横軸にしたb式図(図4)で図化すれば、グループ分けが有効に行えることが見出されました。a、b式図中に明記したA~Dの4つの領域は、東アジアの鉛同位体比分布を表し、出土した鉛を含む全ての遺物である銅製品、ガラス玉などの鉛同位体比測定結果から、原材料の産地を推定できるようになりました。


おわりに

以上のような測定以外にも鉄・非鉄などあらゆる遺跡出土遺物や文化財の分析を、尼崎事業所、八幡事業所及び富津事業所にて行っております。最先端の分析技術が歴史解明の一助となるよう、お手伝いさせていただきます。

お問い合わせ窓口
尼崎事業所 解析技術部 渡邊 緩子
TEL: 06-6489-5753
FAX: 06-6489-5958
E-mail: watanabe-hiroko2@nsst.jp
<参考文献>
1) 馬淵久夫・富永健、「考古学のための化学10章」東京大学出版会、1981、
p.129-178.
2) 国立歴史民族博物館、「科学の目でみる文化財」、1993、p.207-221.
3) 平尾良光編、「古代青銅の流通と鋳造」鶴山堂、1999、p.31-39.

https://www.nsst.nssmc.com/tsushin/pdf/2016/90_3s.pdf



さて、藤森昇氏の論考に戻るが、

これらの鉛同位体比は科学機器の発達によりやく40年前から測定できるようになったと言う。

(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(12)

2018-08-23 00:00:00 | Weblog

8.女王卑弥呼の墓

同書の223頁からは卑弥呼の墓のことに言及しているので、それを簡単に紹介しよう。

卑弥呼以て死す。大いに冢(チョウ)を作る。径百余歩、徇葬する者、百余人。」と径百余歩と相当大きい。

径百余歩とは、約145mだと言う。かなりでかい。そして、「大いに冢を作る。」とあるように、魏使はその墓を見た可能性が高い。

魏使は伊都国に常駐していた訳であるから、卑弥呼の墓を見たというからには、その墓は女王国・奴国ではなくて、伊都国にあったのではないのかな。

しかも計百余歩というとてつもなくでかい墓であれば、既に見つかっている筈であるが、こんなでかい墓はいわゆる「前方後円墳」に該当するが、卑弥呼の時代は弥生の後期古墳時代ではない。

従ってこれも「露布の原理」で1/10すれば、「径十余歩」で「百余人」は十余人となる。

とすればそれに該当するお墓は既に見つかっている。それは平原遺跡ではないのかな。

その遺跡は糸島市前原町にある。東西二つの遺跡により構成されている。

主墳は西のもので、東西17m、南北12mで、幅2~3mの溝が周囲にめぐらされている、という。

円墳ではなくて、「方形周溝墓」と言われるお墓である。その中央部に、W1m×L3mの割竹型木棺が据えられており、副葬品には武器は殆どなく、ネックレスやイヤリング、ピアスと言ったアクセサリー類が多い。

と言う事はここに葬られている人物は、確実に女性ではないか考えられている。

そして従墳は、東西13m、南北8mで、周囲の溝からは16人の殉葬者とみられる寝た状態の遺骨が発見されている。

・・・徇葬する者、百余人。」とは、これを十分の一して十余人とすれば、16人の殉葬者とはきっちりと合う。

同書の226頁には、次のように記述されている。

卑弥呼の墓の条件の一つは「殉葬者のあること」だが、日本国内の弥生遺跡では、殉葬者のある遺跡は、平原遺跡を除くと一例も発見されていない。➀女性であり、②殉葬者がある、となれば、もう答えは一つしかないかも知れない。
この平原遺跡は、三種の神器と同じ、鏡、玉、剣を組み合わせた副葬品を持ち、その被葬者は、女性ではなかったかと推測されている。



この平原遺跡は、その後の調査から、合計五つの墳墓からなっている。Wikipediaによれば、2~5号墓からは青銅器類の遺物は発見されていないと言う。

しかしこの一号墳からは、40面の破砕された銅鏡が発見されており、そのうち五面は、直径46.5 cmもの大型内行花文鏡であった。

天照大神の「ご神体」の「八咫鏡」が伊勢神宮の内宮に奉安されているが、この大型内行花文鏡と大きさ、形が同じものである、とされている。

一般に「八咫(やた)」は「八十萬神」「八尋大熊鰐(やひろわに、サメのこと)」「八咫烏」等と同様、単に大きい・多いという形容であり具体的な数値ではない、とされているが、咫(あた)を円周の単位と考えて径1尺の円の円周を4咫(0.8尺×4)として「八咫鏡は直径2尺(46cm 前後)、円周約147cmの円鏡を意味する」という説も存在する[2]。

後漢の学者・許慎の『説文解字』には、
咫、中婦人手長八寸謂之咫、周尺也

(咫、ふつうの婦人の手の長さ八寸で、これを咫という、周尺なり)

とあり、戦国〜後漢初期の尺では一寸2.31cm×8寸×8咫=約147cmとなるが、周尺とでは齟齬がある。



と(https://ja.wikipedia.org/wiki/八咫鏡)には記載されているが、この内行花文鏡は直径46.5cm、円周は46.5×3.14=146.01cmであり、将にとは言わないが、これに該当するものではないのかな。

この平原遺跡を発掘した考古学者の原田大六氏によれば、この平原遺跡にて発掘された大型内行花文鏡が、八咫鏡そのものであると言う。


次の鏡が、「http://inoues.net/ruins/itokoku.html」から借用した大型内行花文鏡である。





まあ卑弥呼は、この内行花文鏡を大切にしていたものと思われるが、たったの五面でしかない。しかし余程大事なものであったのであろう。

上記説明では四面と書かれているが、実際の面数は五面であった。破砕されていたため復元の仕方によって四面としていたが、正確な復元の結果五面であることが判ったのである。

残りは、32枚が「方格規矩四神鏡」で、内行花文四葉鏡が2枚、四ち鏡が1枚の合計40面(枚)であった、と上記には記載されている。これらは全て漢鏡である。







http://www.kyohaku.go.jp/jp/dictio/kouko/houkaku.html より。(京都国立博物館)


ここには、いわゆる有名な「三角縁神獣鏡」は、一面もない。

結論から言うと、三角縁神獣鏡は漢や魏の鏡ではなく、倭国・日本で作られた大量生産品であった。

現在560枚ほどが見つかっている、と言う。

魏の明帝が、景初二年(三年が正しい?239年か)六月に、倭の女王が派遣した大夫難正米等に賜った宝物の中に、銅鏡百枚があったが、これらは「三角縁神獣鏡」ではなかったのである。

百枚のうち40枚は卑弥呼(日巫女または日御子)の墓に埋葬され、残りの60枚は邪馬台国などの各国の王などに配られたものと思われる。
(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(11)

2018-08-22 00:00:00 | Weblog

次に(2) の「周施五千余里ばかり。」に移ろう。

万二千余里」から 帯方郡から狗邪韓國に到ること七千余里を、単に差し引いたものではないと、先に述べた。

東南のかた陸行五百里にして、伊都國に到る」とあるように、狗邪韓国と伊都国にそれぞれ到が使われているからには、狗邪韓国と伊都国の間の本音の旅程の距離を示しているのではないか、と同書は述べている(212頁)。

即ち行程地理で示した、

一大国→末盧国→伊都国   ではなくて

一大国→末盧国→糸島水道→不弥国→伊都国

のコースの距離が、帯方郡から五千余里である、と言っていたのではないのかな。

8/15の(NO.6)参照のこと。

1. 帯方郡  →狗邪韓国 7000里
2. 狗邪韓国 →対海国 1000里
2' 対海国の二辺     800里
3. 対海国  → 一大国(家) 1000里
3' 一大国の二辺     600里  
4. 一大国  →末盧国 1000里
5. 末盧国  →不弥国(家) 500里 → 糸島水道経由
6. 不弥国  →伊都国 100里
合計         12000里


ここに示す2~6の距離を周旋五千余里と言ったのである。

すると不弥国の謎の疑問の(3)(4)(5)は、次の様な内容のものであるが、

(3) 末盧国の場合、「又一海を渡ること千余里」と書かれており南と言う方角表記がない。
(4) また末盧国の場合だけ、役人の官名の記載がない。このことも何かを意味しているのではないのか。
(5) 一大国と不弥国のみの戸数表示が、戸(こ)ではなくて家(け)となっている。これも何か意味があるのではないのか。


(3)(4)の末盧国の方角と官名の記載がない訳は、末盧国には上陸せずに水行でスルーした行程であったためである、とすれば合点が行く。

同時に(5) では一大国と不弥国にのみ「」を用いているのは、一大国と不弥国とがつながることを示しており、一大国から不弥国へは船で直行することを意味しているのではないのか、と解釈すれば全て合点が行くのである。

即ち「家」から「家」への全水行が実際の旅程であった、と魏志倭人伝(陳寿)は言っていたのである。


これで一応不弥国の謎の(1)から(6)までの疑問点はすべて解決したことになるのであろう。これであらかた邪馬台国の謎が解けたことになる、と思われるが如何?。


即ち「邪馬台国」とは、倭人伝の言う「今、使訳を通ずる所三十国。」の総称であり、卑弥呼はその邪馬台国の宗教的な当主(王)であり、実務的な国家運営はその男弟である「伊都国国王」が佐(たす)けて国を治めていた。

その邪馬台国は、明らかに北九州の博多平野一帯にあり、奴国の「高祖山」の 宮室・楼観は、城柵を厳かに設け、卑弥呼の居城として守られていた。「親魏倭王」の金印は、きっとこの「高祖山」のどこかに埋もれていることであろう。

奴国の南には男子を王とする狗奴国が有り、邪馬台国とは仲が悪かった。

女王国(邪馬台国)の東、海を渡ること千余里、また国あり、みな倭種なり。」で、倭人は弥生日本全国にその活動域を広げていたものと思われる。一寸遠すぎる感もあるが、青森県の三内丸山遺跡などは、その良い例である。

正始八年・247年には、狗奴国との争いが激化し邪馬台国は劣勢となり、魏は、卑弥呼を見限り、難升(なずめ)に詔書・黄幢を授けて激励する。これでもって、卑弥呼は退けられる(殺されてしまう)。

魏使の考えと、卑弥呼の見立てがかなり異なっていたのではないのかな、とも想像される。その結果、かなりの議論がなされた筈で、「卑弥呼以て死す。」となったのではないのかな、とも勘ぐっている。

しかしこの魏の倭国統治は失敗であり、国中が納得せず内戦となってしまう。そのため卑弥呼の一族の13才の台与を女王とし、ようやく国中が平生となる。

その後も台与は、魏への遣使を続け、魏を継いだ晋にも遣使している。266年の遣使は「日本書記」神功紀・分註にも記載されている、という。

その後の邪馬台国の行く末は、残念ながら詳らかでない。
神武東遷と言う記録はあるが、邪馬台国が東遷したと言う記録は、小生は、残念ながら知らない。

(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(10)

2018-08-21 00:00:00 | Weblog

7.不弥国の謎、筆法の確認


同書202頁より、不弥国の謎、として「六つの筆法」が隠されている、と解説している。

それを次に羅列してみる。

(1) 先の分析でもわかるように、不弥国の「百里」は宙に浮いている。これを含めると「郡より女王國に至ること萬二千余里。」が成り立たなくなってしまうからである。

(2) 「倭の地を参問するに、絶えて海中洲島の上に在り、あるいは絶えあるいは連なり、周施五千余里ばかり。」の表現であるが、萬二千余里から 狗邪韓國に到ること七千余里を差し引けば、計算上「 周施五千余里ばかり 」となるのは明らかである。これは明らかに不必要な表現ではないのか、という疑問が残る。それには何か理由があるのではないのか、と考えなくてはいけないのであろう。

(3) 末盧国の場合、「又一海を渡ること千余里」と書かれており南と言う方角表記がない。

(4) また末盧国の場合だけ、役人の官名の記載がない。このことも何かを意味しているのではないのか。

(5) 一大国と不弥国のみの戸数表示が、戸(こ)ではなくて家(け)となっている。これも何か意味があるのではないのか。

このように文の違いに意味を持たせるものが、「筆法」なのである。だからその意味を考える必要があるのである。

(6) 狗邪韓国 と伊都国に限って、到着の「到」の字がつかわれて、他は「至る」と通過の意味が強い字が使われているのか。

これも一考を要する。


先ず(6)の「到」に注目してみよう。

「到」は一般的に、目的地に到着することを意味する。反対に「至」は通過することを意味する言葉である。即ち「至」を通過して目的地に「到」着するのである。

だから伊都国が最終目的地ではないか、との推測が即座に浮かんでくる。

しかも「郡使往来常所駐」( 郡使の往来して常に駐まる所なり 。)であり、更には「一大率・・・常治伊都国」(一大率が・・・常に伊都国に治す。)と表現されており、常駐、常治と表現している。

魏からの郡使が常駐して、更に一大率と言う強力な権限を持つ行政官が(邪馬台国から派遣されて)常治(権限を行使)していたのである。

郡使の交渉相手(一大率)は常に伊都国に居て、郡使は常に伊都国で話し合いなどを行っていたのである。だから郡使も伊都国に常駐せざるを得なかったのである。そのため魏の郡使は奴国(女王の都する所)へは、(常には)行っていなかったものと思われる。

反対に奴国や不弥国へは、伊都国から放射状に旅行する行程となっていることからも、伊都国が倭人伝の中では特殊な地位を占めていたものと思われる。

このような状況からして、魏使の最終目的地は伊都国としても、全くおかしくはないのであり、魏使達は伊都国を目指して、旅程を進めていたのである。だから「到」の字が使われているのである。

また十世紀に成立した「太平御覧」には、「帯方使往来常止住」と「常に止まりて住す」との解釈が記載されていることも、このことを立証しているものと思われる(207頁)。

とすれば8/14のブログで述べた「不弥国の謎」も推定が出来る。即ち「不弥国」は、伊都国へ行く直前に通過する国の一つである、と考えることもできる。

しかも伊都国からの距離が、奴国と同じで百里とされている。しかし「露布」の原理を適用すれば、距離はその十分に一となり、伊都国から百里ではなくて十里=4.34kmの近場にあり、不弥(ふみ)=うみに通ずると考えれば、弥生時代の海岸線に接する地点辺りに不弥国があったと考えられる、筈である。

魏志倭人伝では、「郡の倭國に使するに、皆津に臨みて捜露(そうろ)し、文書を伝送して賜遺の物を女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらしむ」とあるように、この津に臨みての「津」が不弥(ふみ)=うみではないのかと推察しても差し支えなかろう。

しかし8/21(NO.9)で述べたように、伊都国は福岡県糸島市辺りで平原遺跡周辺と考えられるが、反対に奴国は春日市中心の福岡平野一帯で須玖岡本遺跡辺りが中心と考えられる。とすると須玖岡本遺跡は平原より20kmも離れているので、全く上記のこととつじつまが合わなくなってしまう。

しかし女王と都する所とは、それなりに神聖な場所であり、「宮室・楼観は、城柵を厳かに設け、常に人あり、兵を持して守衛す。」であり、遺跡のある奴国の中心のにぎやかなところではふさわしくはなかろう。

更には「王となりてより以来、見ることある者少なく、婢千人を以て自ら侍せしむ。ただ男子一人あり、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入す。」と言う事で、男弟が助けて国を治めていると言うので、当然伊都国の近くにあり、伊都国王(男弟)が卑弥呼を助けているからには、平原遺跡から十里(4.34km)の近場に女王の都する所はあった筈である。婢千人とは大げさなので、1/10で百人程度であろう、それにしても大人数である。

同書は、平原遺跡から4.34km程の同心円を描き、その東南の方向を辿ると「高祖山たかすやま」に行き当たる、と記述している(219頁)。高祖山に卑弥呼の「宮室・楼観、城柵」が建てられていれば、伊都国近辺からは当時としては、よく見えたのではないのかな。だからあたかも見たかのような表現が、この魏志倭人伝にあるのであろう。実際に魏使は見ていたものと思われる。

この高祖山に「宮室・楼観、城柵」が建てられ、卑弥呼の居城となっていたものを、(高祖)山の都と表現したかもしれない。ヤマのト、邪馬台国であったのではないのかな。

卑弥呼は鬼道をよくしていたからには、この高祖山がその神域、特別霊域であったのではないのかな。他のところでは鬼道にはふさわしくなかろう。

すると不弥国も、この同心円上に存在して、しかも東方向だ。地図を開けば、そこにはJR筑肥線の周船寺駅がある。船にまつわる地名のこのあたりが不弥国の津であったところではなかろうか。

この周船寺駅は福岡市西区周船寺町にあり、丁度糸島半島の付け根部分にあたる。昔大和朝廷の太宰府の出先機関の主船司(しゅせんし)が、この地に置かれていた場所である。主船司とは今の海上保安庁の出先と考えればよかろう。

だからこの辺りは、その昔は海に通じていたところであった、筈だ。糸島市はもとは怡土郡と志摩郡にわかれており、志摩郡は「日本書紀」の嶋郡で古代は文字通り島だったのだ。三世紀当時には、この糸島半島の付け根には「糸島水道」という水路が横に走っていたとされる、と同書には書かれている(209頁)。

大宰府の主船司も今日の税関のような機能を果たしていた訳であるから、伊都国時代にも「皆津に臨みて捜露(そうろ)し」と同じ機能を果たすべく適したところであったのであろう。

この嘗ての糸島水道の出口にあたる周船寺付近が「皆津に臨みて捜露(そうろ)し」の津であり、そこが不弥国であるとすれば、あらかた筋が通る。

とすれば、伊都国から不弥国へ行くのではなくて、反対に不弥国の津まで船で来て、そこから陸路で伊都国(平原)へ到ったのである、とすればすべて解決するのではないのかな。

地理的には次のような感じとなろう。


       糸島半島

      古代糸島水道 → 博多湾
  魏使----→→主船司(不弥国)
              ←//
     平原(伊都国)    陸行
  
             高祖山(宮殿所在地、奴国)


(続く)
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邪馬台国とはなんぞや?(9)

2018-08-20 00:00:00 | Weblog

6.「東南陸行五百里伊都國に到る」と「 東南奴國に至ること百里」の違い

この第6章の表題で分かるように、伊都国までと伊都国以降の表現が少し異なっている。


この方角、距離、国名と言う書き順が、伊都国を境に、方角、国名、距離という書き順に変わっているのである。


1. 南、東、その北岸・狗邪韓國到る、七千余里
2. 始めて一海、千余里、 対馬(海)國至る、
3. 又南一海、千余里、一大國至る
4. 又一海、千余里、末盧國至る
5. 東南陸行、五百里、伊都國到る
6. 東南、奴國至る、百里
7. 東行、不彌國至る、百里
8. 南、投馬國至る、水行二十日
9. 南、邪馬台國至る、女王の都する所、水行十日、陸行一月


先に邪馬台国の水行十日、陸行一月は、帯方郡からのおおよその距離ではないかと、結論付けたので、投馬国の水行二十日も帯方郡からのおおよその距離を示しているものであるので、邪馬台国(奴国)までの行程としては狗邪韓国から不弥国まで国別に表現している。

しかしながら、とすれば、この奴国からの書き順の違いには、それなりの意味があると言うのが、この当時の中国の物書きの常識である。これを同書では「筆法」と言っている。

即ち中国流の用語で、文の違え・矛盾を「微言」と言い、そのことによって本音・真意「大義」を表す用法である。「微言大義」と呼んでいる。通常表現している慣用的なものを少し変えることにより、通常の事態から変わっていることを、それとなく示そうとする技法である。

だから、それまでは方角、距離、国名と言う順序で表現したものが、途中から方角、国名、距離と言う順序に変わっていれば、それは違う意味を表すことになる、と言う事である。


このような違いから、東大教授であった榎一雄氏は、伊都国から直線的に辿るのではなくて、伊都国から放射状に辿るべきだと、他の用例も参考にしながら自説を展開したのである。

伊都国から奴国へ、そしてまた伊都国から不弥国への行程ではないかと結論付けたのである。


 伊都国 → 東行 → 不弥国 至る、百里
   \東南
     \奴国 至る、百里

投馬国や邪馬台国は、先に述べたように里数ではなくて日数表示なので、この放射状行程からは外れるとみてよい。

しかも「郡使往来して常に駐まる所なり。」と、帯方郡の使いが常駐する所とかかれているので、郡使は伊都国で邪馬台国の役人たちと外交交渉を行っていた筈である。奴国では行っていたとの表現はない(行ったかもしれないが、それは最終目的地ではない。)。

そのために「伊都国に到る」と到達する意味であり目的地を意味する「到る」を使い、「至る」 は、末盧国に至る、 奴国に至るのように通過することを意味するものである、としている。

更には、1人の大率(だいすい)を置いて諸国を検察していた。そして「常に伊都国に治す。」であった。伊都国で諸国(倭国)を常治していたのである。

というところも鑑みれば、伊都国を中心に放射状に読んでも、というよりも放射状に読むことが適切ではないかと思われるのである。

しかもその大率は、邪馬台国が使いを出すときも、また帯方郡からの使いが来るときも、津に臨んで文書や賜遺のものをしっかりチェックして間違いのないようにしていた、という。相当権限があったものと思われる。だから諸国が畏憚した訳だ。だから、伊都国が邪馬台国の政治の中心都市だったと見ても、間違いではないのではないのか。

ちなみに今言ってしまえば、この津に臨んでの津が不弥国であろうと、同書は言っているのである。
即ち不弥(ふみ)=うみ(海)=津なのである。


末盧国は今の松浦地方で唐津市辺りであり、伊都国は古代の怡土郡、今の糸島市辺りで先ず間違いがなかろう。奴国は日本書紀の儺縣、今の春日市を中心とする福岡平野の一帯にあたる、と見てよいであろう。


末盧国 松浦川流域 唐津平野一体 菜畑遺跡・桜馬場遺跡・宇木汲田遺跡など
伊都国 怡土 福岡県糸島市辺り 三雲・井原・平原遺跡
奴国   春日市中心の福岡平野一帯   須玖岡本遺跡(平原より20kmも離れている)
不弥国 伊都国からは、奴国と同じ距離だけ百里はなれている。

では不弥国はどこにあったのか。うみ(海)とすればそれは海岸線となる、と考える必要がある。

そのためにも文の違え・矛盾を「微言」を探し出してみることが必要だ、と同書は言っている。
(続く)
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