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世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

第2次上海事変(11)

2012-06-09 00:10:06 | Weblog

南京大虐殺記念館、信憑性乏しい写真3枚を撤去
2008年12月21日 | news
南京大虐殺記念館、信憑性乏しい写真3枚を撤去
2008.12.17 21:04

 中国・南京市にある南京大虐殺記念館が、信憑(しんぴょう)性が乏しいと指摘されていた写真3枚の展示を取りやめたことが17日、政府関係者の話で明らかになった。「連行される慰安婦たち」「日本兵に惨殺された幼児たち」「置き去りにされ泣く赤ん坊」の3枚で、日本の研究者らは南京事件と無関係だと指摘していた。中国が同館の展示について“是正”に応じたのは初めて。ただ、30万人という犠牲者数の掲示や“百人斬(ぎ)り”など事実関係の疑わしい展示多数はそのままになっている。


南京のものとして展示されていた「上海南停車場」の写真

 撤去された3枚の1枚は、南京攻略戦の前に撮られ、「アサヒグラフ」(1937年11月10日号)に掲載された写真で、農作業を終えたあと、兵士に守られて帰宅する女性や子供が写っている。これを中国側は旧日本軍が女性らを連行する場面と紹介し、「農村婦女は連れ去られ陵辱、輪姦、銃殺された」と説明していた。この写真は戦後、朝日新聞記者、本多勝一氏の著した『中国の日本軍』や中国系米国人作家のアイリス・チャン氏の著書『ザ・レイプ・オブ・南京』でも、残虐行為と関連づけて紹介されるなど、国内外で繰り返し誤用されてきたことで知られる。


慰安婦連行の場面として展示されていたアサヒグラフの写真「日本兵に守られて農作業から帰宅する女性や子供」

 また、幼児たちの写真は、朝鮮現代史の学術書に掲載されたもので、匪賊(ひぞく)(盗賊集団)に殺された朝鮮の子供たちの遺体。赤ん坊の写真は米誌「ライフ」に掲載された報道写真で、撮影地は上海。いずれも南京の旧日本軍とは関係ないが、愛国主義教育の“模範基地”と指定される同館は「悲惨な史実」と紹介してきた。

 日本側は、事実無根だったと判明している“百人斬り”関係の展示品のほか、誤用や合成と指摘されている写真について、さまざまなルートを通じて撤去を求めてきたが、これまで同館は応じていなかった。
 85年に開館してからの同館の参観者の累計は1897万人。日本の修学旅行生らも訪問している。http://blog.goo.ne.jp/think_pod/e/90fd6a3ddbba84e3fe4aa317d98453de
下のsankei.jp.msn.comにはすでにこのニュースは見当たらないが、一応掲げておく。だからブログなどでは参照でなく、記事そのものの掲載が必要となるである。
http://sankei.jp.msn.com/culture/academic/081217/acd0812172107008-n1.htm



もともと南京での大虐殺なんぞもなかったことなのだが、共産党独裁の中国は、その捏造話をあいも変わらず後生大事にしている。そうでもしなければ中国共産党が中国を開放したと言う、作り話が信用されないからである。

名古屋市長の河村たかしの「南京では虐殺はなかったのではないか」と言う、名古屋を訪問した南京市の要人への話し掛けは、全くの南京での事実を話しただけなのである。

「南京問題」などについては、当ブログの'07.6.6~9の「温家宝来日の虚構」や'08.2.8~20の「中国・虚妄のプロパガンダ」などを参照願う。

南京では日本軍による虐殺などは一切なかったのであり、中国一流の捏造話なのでありその最高の捏造改鼠の館が「南京大虐殺記念館」なのである。日本にも「通州大虐殺記念館」を中国大使館前に建てるべきである。

ついでに言っておくが、以上のようにプロパガンダではなく、ヒストリーとして日中の歴史を見ればいわゆる「日中戦争」は、けっして日本による侵略戦争ではなく、中国共産党軍による日本軍と日本居留民への攻撃暴行に対する防御行動であったことがわかる。共産党軍がなぜ日本軍を攻撃した(させた)のかと言うと、それは蒋介石の目を共産軍から逸らすためであった。日本を挑発して蒋介石と戦わせて、その陰で中国での共産党軍の力を温存・拡大をはかり共産革命を達成させるためだけのものであった。

(終り)
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第2次上海事変(10)

2012-06-08 00:10:00 | Weblog

南京大虐殺は本当か その5~証拠写真を検証する~
深谷隆司   2012年04月06日 09:26
http://blogos.com/article/35953/

同じ本多勝一の「中国の日本軍」に、農民婦女が一団になって日本兵と歩む写真を載せ、「婦女子を駆り集めて連れて行く日本兵たち。強姦や輪姦は7、8歳の幼女から、70歳を越えた老婆にまで及んだ」と説明している。
 ところが、平成10年になって、実は昭和12年11月10日号の「アサヒグラフ」に載っているものと同じ写真であることが分かった。
 写真説明は「わが兵士に守られて、野良仕事よりへ帰る日の丸の女子供群」とある。他に3枚の写真もあって、「子供たちの自然な笑顔」、「民の嬉しそうな顔」、「うららかな秋日和の中で綿を摘み取る日の丸の人達」と説明されている。写真説明を一つ変えただけで、全く意味が反対になる。
 これを見れば、日本兵の悪行どころか、逆に善行が示されているのである。
http://blogos.com/article/35953/


善い行いをしている写真を悪行であると説明している朝日新聞記者本多勝一は、将に中国共産党の手先であろう。朝日新聞社もコミンテルンの拠点となってしまっているものと思われる。

赤い朝日、非国民!

次のブログにも詳しい説明が掲載されているので、是非参照すると良い。ここには次の写真も掲載されているが、これなども写真を都合よくカットして悪意ある説明文に変えられている。ワック株式会社の雑誌2012年5月号WiLL」の「証拠写真はすべてデッチ上げ」(南京事件研究家 溝口郁夫氏)でも、同じものが掲載されている。これらの写真も本多勝一が悪意を持って改鼠して流した物である。



「新しい歴史教科書をつくる会」
南京事件「証拠写真」の検証に取り組んで、虐殺を裏付ける写真は一枚もなかった。
http://www.tsukurukai.com/07_fumi/text_fumi/fumi49_text02.html
に載っていた写真を次に示す。

写真(4) お金で購入

これも写真左下の説明文から下をカットして「日本軍が略奪した」と説明文が改鼠されて、中国の書物日寇暴行実録』 や本多勝一の「中国の旅」では掲載されている。

この写真は次のようにカットされて「日本軍が農民の子ヤギを奪い取って引っさげて行く!」「日本軍の行くところ略奪されて鶏も犬もいなくなった」と説明されているのである。


写真(3) お金で購入をカット

「新しい歴史教科書をつくる会」のブログでは次のように解説されている。
『この写真(3)の元写真である写真(4)は、南京陥落の十二月十三日以前に発行された『朝日版支那事変画報』(昭和十二年十二月五日号)にすでに出ていたものである。その説明には「支那民家で買ひ込んだ鶏を首にぶらさげて前進する兵士(十月二十九日京漢線豊楽鎮にて小川特派員撮影)」とある。

  ところが、平成七年発行の『本多勝一全集14』(「中国の旅」編)の中で、この写真(3)を「ヤギや鶏などの家畜は、すべて戦利品として略奪された」と説明している。なんと日本軍が買い込んだものに対して支払いをしていた事実は無視され、改竄されていたのである。さらに、この写真(3)は、昭和四十七年発行の『中国の旅』には掲載されていなかったのであるが、本多氏は『中国の旅』発行の二十三年後、全集にこの写真を追加していたことが判明している。』

なおこれらの「Chinese baby」や「日本軍に守られて野良仕事から帰る農婦」などの3枚の写真は、南京市の「南京大虐殺記念館」に展示されていたが、日本側の批判からか、こっそりと取り下げられていたと言う。しかしながら朝日新聞と同社の記者本多勝一は、あいも変わらずに、非国民振る舞いをして得意がっている。だから朝日が襲撃されても誰も同情しないのであろう。
(続く)
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第2次上海事変(9)

2012-06-07 11:42:02 | Weblog

だから「ライフ」などに載せられた写真やそれに関する動画などは、明らかに偽造されたものである。戦後王小亭(H.S.ウォン)のChinese babyの写真は、トラックで逃げる家族が駅前で爆撃に会い、母親は即死して父親は年上の子供を運び妻の死体を引きずっていた時に撮ったものだと、本人が述べていると言う。

しかしこのChinese babyは明らかに駅の中のプラットホームの上に座っているのであり、駅前で撮影されたものではない。明らかに王小亭(H.S.ウォン)の話の状況とChinese babyの写真は異なっている。

このことからこの論考は、次のように述べている。

あくまでも現時点における1つの可能性の話ではあるが、ウォンは写真①を撮影しておらず、実際は中国の宣伝工作(プロパガンダ)組織が撮影し、それをウォン名義で発表したと考えるのがもっとも合理的ではないだろうか。

将にその通りである。ここで言う写真①とは、このブログの冒頭に提示した一人でプラットホームで泣いているChinese babyの写真を指している。

しかしながらこの「写真判定の基本 1」の作者は、これらは(あくまでも)真実の写真であると言っている。しかしながら言わんとするところが、なるほどとはどうしても頷けないのである。小生にはこじつけているとしか感じられないのである。


しかしながら、シカゴ・トリビューン・プレス・サービスのポウェル記者が、赤ん坊をあとから連れてきてポーズさせて撮った偽造写真であることを、写真で証明している、と言ったものもある。
(http://www.tamanegiya.com/eigasyasinn20.5.5.html)


次の2つのサイトは、Chinese babyの写真は巧妙に作られたものだ、と言っている。

国民党「対日謀略工作」
ニセ写真のカラクリを暴く
http://www.history.gr.jp/~nanking/books_shokun0204.html

教科書が教えない歴史
自由主義史観(代表 藤岡信勝) 公式サイト
http://www.jiyuushikan.org/tokushu/tokushu4_iijima.html



しかし下記のサイトの作者の考え方は異なっている様に思われる。
「考察日本」(http://jseagull.blog69.fc2.com/?mode=m&no=518)

更には、
「偽造された」と言うよりも、写真の説明文が悪意に満ちた文に改鼠させられている写真はまだある。

それがこれだ。

NO!自虐史観
【日中歴史研究】自虐史観の売国官僚は要らない
http://ameblo.jp/hironk2005/entry-10447311203.html?via_ameba_id=mizki-yonakuni&via_pocket_id=1897278


に掲載されているものを下に掲げる。この写真は1937(S12)年11月10日号の「アサヒグラフ」に掲載されたものである。これも朝日新聞の記者本多勝一1971年に当時鎖国状態だった中国に渡り、中国共産党政府側から全くの作り話を吹き込まれて、日本に帰ってから「中国の日本軍」や「中国の旅」などの反日書籍を発行して、写真の説明文を悪意に満ちた文に改鼠してありもしない南京大虐殺などの虚構話を広めたのである。

下の写真はその本多勝一の「中国の日本軍」や中国の『日寇暴行実録』にその説明文が改鼠偽造されて掲載されたものである。



作業から帰る農婦


この写真は「アサヒグラフ」の1937(S12)年11月10日号に掲載されたものであるから、この雑誌は多分1937年10月には発行されていたであろう。そのためこの写真は少なくとも1937(S12)年10月以前に撮影されたものであろう。この写真は、だから、南京開城の2ヶ月前には撮影されていたものである。南京問題とは全く関係がない。

このブログと共に、次の「深谷隆司氏」のブログの一文を参照されたい。深谷隆司氏は元通産大臣で自民党の東京都連最高顧問を務めている。


ちなみに、上海から南京に敗走した中国軍を追って日本軍(上海派遣軍は中支那方面軍に再編されていた)は、1937(S12)年12月9日に中国軍に対して無血開城を勧告したが、中国軍はそれに応じなかった。そのため12月10日に南京城への攻撃を開始し、12月13日に蒋介石や中国軍司令部は南京より遁走したため中国軍は便衣兵化してしまい、日本軍は南京城に無血入城している。だから南京大虐殺なんぞは、史上最大の作り話だったのである。
(続く)
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第2次上海事変(8)

2012-06-06 10:34:46 | Weblog

『日本はこの1枚の写真によって「悪」のイメージを、対外的に特に米国において決定づけられたといっても過言では無い。
 この写真が発表されて以降、日本人というのは、残虐であるというイメージが世界中に蔓延していったのである。
 この裏にはもちろん当時の中国(国民党)が、反日のためのイメージ操作を行っていた事実がある。
 例えば、写真以外にも、蒋介石夫人、宋美齢は中国における日本軍の残虐行為を米国内で精力的に訴え続けていた。』


そしてアメリカはUS Air Forceの正規空軍フライングタイガースと言う名称で参戦させたのである。
義勇空軍とは名ばかりでアメリカの正規空軍を参戦させたのであった。だから真珠湾のだまし討ちなんぞは言い訳で、だまし討ちしていたのはアメリカ側であった。



『 そのために、参戦こそはしないものの、義勇空軍(フライング・タイガース)等がアメリカで組織され(現在ではアメリカ政府が秘密裏に組織させた正規軍として判明しており、国際法違反であったことが明白である)、"援蒋ルート"を通じて中立に反するような直接的な反日・親中援助政策が行われても米国民の多くは反対はしなかった。
 これらの根底には、米国民は日本に対して持った「悪」のイメージが強く働いたからであろう事は否定出来ない事実であろう。』



このようにこのChinese Babyの写真は「やらせ」そのものの偽造写真であり、この1枚の写真で日本は中国での内戦の泥沼に引きずり込まれたのである。まあこの一枚の写真だけで、米国政府は反日・親中になった訳ではないが、米国市民・米国世論は完全に反日となったのであり、そのことを背景に米国は(中国に権益を拡大させたいがために)蒋介石・国民党政府を支援したのである。そしてそのことが中国コミンテルンに手を貸すこととなり、中国の共産革命を成就させてしまったのである。その後米国は朝鮮戦争ベトナム戦争などで、手ひどい仕打ちを受けることになる。

ちなみに米英の蒋介石・国民党政府への援助ルートを遮断するために、日本は広州(香港ルート)や仏領インドシナ・ベトナム(仏印ルート)やビルマ(ビルマルート)に、更にはイギリスの植民地インドを経由して昆明までの自動車道・レド公路を米英が建設したので、インド近くまで進駐せざるを得なかったのである。このことは'08.12.29「日本は侵略国家ではありません。(9)」などを参照願う。ちなみに日本がインド附近に進駐したことが、インド独立につながった事は特筆に値する。


しかしながら、世の中にはこれが偽造写真であるとすることに反対の意見の持主もおられます。例えば次のURLの作者は、この2つの写真は「やらせ」のものでなく、「有りのまま」のものだと述べていますが、その論理はなかなか難しくて複雑です。

「写真2 空襲後の上海南駅の幼児(p79)」(http://www.nbbk.sakura.ne.jp/p2/143/143_002.html」)



下の写真を見るとこの写真は周到に準備され用意されて撮られた「プロパガンダ」用のものであることがよく分かる。それでも偽造でないと言っている意味は理解できない。

Files No.01 The child」 の作者も、丁寧にこれらの写真は「やらせ」のものであることを証明しています。



次の写真は
写真判定の基本 1」(http://www.nextftp.com/tarari/nanshi/nanshibakugeki3.htm) に載っていたものである。このようなものはWikipediaにも、似た写真が載っています。
(クリックで拡大する)
これらの写真はキャッスル・フィルムズが販売する「ニューズ・パレイド・一九三七年版」よりスキャンしたものである、とのコメントがある。

⑥は、これから赤ん坊を反対のプラットホームへ移動させようとしている写真であり、⑦は移動中のものであり、⑧は反対側のプラットホームへつく直前のものである。赤ん坊は上から垂れている柱の陰に入っている。

⑥の写真には、ホームを歩いている子供かだれかが写っているし、大人2人もそれほど急いでいるようには見えない。のんびりした感じがする。爆撃直後のものとも、到底思えない。プロパガンダ用に多分爆撃の翌日あたりに、それ相応に準備して撮影したものであろう。

このURLの作者は、この写真(映像)を撮った中国系アメリカ人の王小亭(H.S.ウォン)が、爆撃直後に上海南停車場に行って撮影したものだと信じて疑っていない。

しかしながらこれらのことを鑑みるに、これは明らかに爆撃直後の様子を表しているものとは信じられない。更に白シャツで帽子の男が王小亭(H.S.ウォン)だとしているが、ここには王小亭(H.S.ウォン)は居ないとする判断の方が正しいようだ。

例えば、産経新聞社発行の雑誌・「正論」2012/2月号の『写真の罠と戦い続けて』(日中問題研究家 松尾一郎氏)によると、これらの写真の白シャツの男は王小亭(H.S.ウォン)ではない、と言っている。当時のウォンと白シャツの男は、明からに体形が異なっている。

更に「ライフ」には同じChinese baby のものだとして、左手をなくして治療を受けている担架に載せられた赤ん坊の写真が載っている。しかしフィルム動画の写真を画像解析ソフトで分析すると左手の指先を確認できた、と言う。

更には担架に載せられて治療を受けている写真は、「1937年9月16日(AP)に日本軍に砲撃により重傷を負った子供を手当てするボーイスカウト」、と言う解説付きで出てきている。これは1998年にAP通信社が共同通信に売却した日中戦争時の写真の中にあったものである。

(続く)
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第2次上海事変(7)

2012-06-05 00:16:42 | Weblog

上海からの中国軍の退却先は、直線距離で約270km西北西に位置する南京であった。当初日本政府は和平交渉を行うため南京への進撃は禁止していたが、中国各地での日本居留民への殺害や日本権益に対する妨害などのため、結局は南京攻略を進めざるを得なかった。ここでも蒋介石軍は逃げてしまい大規模な戦闘にはならなかったが、蒋介石は「南京事件」を南京で布教していた宣教師達に捏造させたのである。世に言う「南京大虐殺」であるが、これも全くの捏造である。いまだに中国共産党政府は、その捏造事件を吹聴している。

さてWikipediaによれば、上海事変における中国人による日本人捕虜への虐待写真がCNNで紹介されたと言う。更には、2010年放送の「池上彰の戦争を考えるSP~戦争はなぜ始まり、どう終わるのか~」では、次のように(間違った内容が)放送されていると書かれている。

盧溝橋の銃声に始まった日中戦争の戦火は拡大。短期決戦と見ていた日本は早々に上海を攻撃。そして、国民党政府の首都南京を攻略した。

これは全くの間違いで、以上説明してきたように、状況はこのナレーションと全く逆で日本は、中独合作により上海の日本居留区が攻撃され、やむを得ず南京も攻めただけである。盧溝橋事件も劉少奇が引き起こしたものであり、後日彼が誇らしげに語っている。池上彰ともあろう人物の本意ではないかもしれないが、池上彰本人もコミンテルンの毒牙に噛まれてしまったのか、と疑われても致し方ないであろう。評判が良いだけに、コミンテルンから何らかのアプローチもされている可能性もあろう。そんな疑いが周囲に感じられ始めたので、当座の表舞台から降りたのではなかろうか。
これは勘ぐりすぎか。

通州事件」については、'07.5.28の当ブログに詳しく載っている。
南京大虐殺の虚構宣伝」については、'07.6.6~9の当ブログ、
日中戦争は中国共産党が惹き起こしたものだ」については、'07.7.4~17の当ブログ、
日本居留民虐殺事件は、「中国の虚妄のプロパガンダ」'08.2.8~20の当ブログに載っている。中国での日本居留民の虐殺事件は、通州事件だけではなく、S2.3月の南京事件、S3.5月の済南事件、S12.7月のこの通州事件と頻繁の発生している。
後述するフライング・タイガースについては、「日本は侵略国家ではありません(9)」'08.12.29に掲載されているので、是非参照願う。'08.12.27の「日本は侵略国家ではありません(6)」も参照願う。

また、当ブログの各主題(題名)は2012.2.17の当ブログを参照願う。そこにはブログの題名と簡単な解説が記載されているので、是非参照願う。

何はともあれ、調べれば調べるほど中国と言う国は、馬賊・匪賊性格丸出しの国であることがよくわかる。日本は早急に憲法9条を破棄して、普通の国に戻らなければやがては中国の属国になりかねない。自分の国は自分で守る、ことをして、今すぐにでも美しい国を目指さなければならないと言うことである。



さて話を元に戻そう。 チャイニーズベイビーの写真が撮られたのは1937(S12)年8月28日と言われているが、実際にはその翌日の8月29日である。8月30日には東京に至急増派を要請していることを見ても、日本軍は数倍の敵を相手に悪戦苦闘している最中であった。

この一枚の偽造写真1937('S12)年10月に「ライフ」に掲載されると、タダでさえ米国民の対日感情が悪かったところへ(1924年反日的な排日移民法を制定)、決定的に米国民と米国を反日へと追い込んでしまった。そのため米誌には日本軍による残虐行為を特集した写真記事やイラスト(大半が捏造されたものであろう)が頻繁に掲載されることとなり、日本のイメージは「中国を侵略する残忍な国家」としか見られなくなってしまったのである。蒋介石とその夫人宋美齢対日プロパガンダが、見事成功した格好の事例となったのである。

アメリカは自国の正規軍義勇空軍として組織し、中国大陸に進出させたのである。これが「フライング・タイガース」であり、更には大っぴらに「援蔣ルート」を通じた反日・親中援助を行っていったのある。これは明らかに国際法に違反している行為なのである。



ここ(「Files No.01 The child」 http://sky.geocities.jp/pac_remix/honron/child.html )には、次の写真も載せられている。したがってこの赤ん坊は、「爆撃の結果一人ぼっちになってしまった」のではない。この写真には兄と見られる男児も一緒に写っており、赤ん坊をそこに座らせようとしているように見える。兄と見られる男児が横にいるということは、多分一人になるため赤ん坊を安心させるためであろう。兄と見られる男児は側頭部にガーゼが当てられており、明らかに手当てを受けた後であることが窺える。爆撃直後ではない。


下の写真は、「Files No.01 The child」 http://sky.geocities.jp/pac_remix/honron/child.html にも掲載されていますが、

次の写真は
国民党「対日謀略工作」
ニセ写真のカラクリを暴く
」(http://www.history.gr.jp/~nanking/books_shokun0204.html
に掲載されていたものです。


ここには次のような解説がある。

『 まず、日本海軍爆撃隊が上海南停車場を8月28日午後3時に爆撃した。
 それから、1日以上隔てた後であるにもかかわらず、いかにも爆撃があったばかりで被害をうけた恰好(かっこう)に扮装させた赤ん坊をホームへ連れて行く。
 発煙筒を準備し赤ん坊をカメラ撮影をする際に死角となる赤ん坊の左側に置く。
 これはあたかも爆撃直後でまだ煙が出ているかのごとく装うためである。
 ところが発煙筒の燃焼時間が短いためか、セットに時間が掛かりすぎてしまったのかは分からないが、発煙筒が倒れてしまった。
 その瞬間、赤ん坊は泣き止み、発煙筒の方に振り返ってしまうのである。
 その一連の流れが「激動日中戦争史録」に丸々映像として収まっていたのである。
 これらの映像を見る限り、「ライフ」の写真が事実上都合よく切り貼りしながら意図的に作られたモノであることは疑問の余地がない。

 なにしろ、その赤ん坊の脇には、その父親らしき人物も登場しているのだ。
 こうなると子役タレントと付き添いのマネージャー役の親といった構図も想像可能であろう。
 とにかく、全くの"作りごと"なのだ。
 だが未だ不思議な事がある。
 何の為に、なぜこのようなヤラセ撮影を行ったのだろうか? 』


そのヤラセ写真のお陰で日本の(米国における)イメージは完全に「悪」とされたのである。ここでは次のように説明している。
(続く)
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第2次上海事変(6)

2012-06-04 00:04:56 | Weblog

第2に、北上途中の国民革命軍(蒋介石軍)は、1928年5月1日に北軍軍閥を駆逐して済南に入城した。済南には2,000名近くの日本人居留民が住んでいたが、南京事件を恐れて日本に出兵を依頼、日本は第六師団を済南派遣軍として邦人保護に当たらせていた。済南派遣軍は蒋介石から治安維持は中国軍が確保するから日本軍は撤去して欲しいとの要望があり、現地の警備司令官は独断で警備体制を解除した。すると1928(S3)年5月3日、一部の国民革命軍の兵士達は日本人商店を襲撃し、更に日本人家屋を襲撃し略奪、暴行、陵辱、虐殺を行った。これを「済南事件」と言う。Wikipediaによれば、被害人員は約400人、略奪被害戸数136戸、死者14人(男12,2日後に死亡2を含む。女2)、生活の根底を覆されたもの280で、日本人惨殺状況に関する外務省公電には、「腹部内臓全部露出せるもの、女の陰部に割り木を差し込みたるもの、顔面上部を切り落としたるもの、右耳を切り落とされ左頬より右後頭部に貫通突傷あり、全身腐乱しおれるもの各一、陰茎を切り落としたるもの二」とある。虐殺の仕方はまさに”中国式”で、酸鼻を極めた。これは蒋介石の、言ってみれば「略奪命令」により計画的に行われたものである。中国軍の無頼、残虐さ注意を払わなかった当時の済南派遣軍の幹部達の責任は、限りなく大きいと言わざるを得ない。余りにも甘すぎた
次の「済南事件の真実」(http://ww1.m78.com/sinojapanesewar/chinan%20question.html)も参照されると良い。

しかも中国側は済南事件を捏造して、日本側が虐殺したと言い触らしていると言う。
歴史共同研究 済南事件」(http://blogs.yahoo.co.jp/bonbori098/23988688.html)も参照されたい。
済南虐殺事件」(http://jjtaro.cocolog-nifty.com/nippon/2011/09/post-3a19.html

済南事件photo

しかもこの「済南事件で殺された日本人の写真」が中国では、「731部隊の被害者」として中国の教科書に掲載されたり、「731部隊記念館」では蝋人形となって展示されている、と言う。
マスコミがいえない韓国の話」(http://brain.exblog.jp/2809948

事ほど左様に中国と言う国は、信用ならざる国である。これは現在も変わりない。現在はなお性質(たち)が悪くなっている。

続いて、第3に1937(S12)年7月29日に発生した「通州事件」である。(当ブログ'07.5.28、「通州事件についての詳細」も参照のこと)

友愛精神を踏みにじった通州事件」(http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-535.html)を是非参照してください。

そして次の動画も見ていただければ、中国人の残虐性がわかります。
http://www.youtube.com/watch?v=ZUNtc-BzAwA

南京大虐殺記念館は、この通州事件がモデルとなって作られています。だから共産党中国人は自身が行った虐殺事件を、日本軍がやったと捏造して吹聴しているのです。日本人や日本軍は、けっしてあんな虐殺は出来ませんしやっていません。虐殺はすべて中国古来の文化(易姓革命、'08.11.15「ヨーロッパと日本(25)」参照)であったので、あんな記念館まで平気で作ることが出来るのです。そして共産党一党独裁政治を守るために、あのようなプロパガンダを捏造してやっているのです。天安門事件が良い例です。中国人民解放軍の戦車は、平気で学生達を轢いていったのです。だからするめ状態の画像が写されているのです。


多数の日本人が虐殺されたこれらの事件以外でも次のようにテロ行為が多発している。これらはほとんどが共産党員かそのシンパによって引き起こされており、日本は完全に舐められていたのであり、日本を中国の内戦に引きずり込むためのテロ行為でもあった。

1932年3月1日、満州国建国(満州問題については後日取り上げたい。)
1933年2月23日、熱河事件(張学良が熱河省へ反満抗日侵攻し、関東軍がこれを駆逐した。)
1933年3月27日、国際連盟が満州国の完全承認をしなかったため日本が脱退した。
1933年3月31日、熱河事件塘沽(たんくー)停戦協定で終結。後日の1935年北京と河北・熱河省間に冀東防共自治政府成立。熱河省は北京北部、万里長城と遼寧省の間を言う。現在は河北省に統合されている。

1935年1月21日、汕頭邦人巡査射殺事件(香港とアモイの中間の沿岸部に位置する都市)
1935年6月10日、梅津・何応欽協定(北支より中国軍の移動)
1935年6月27日、土肥原・秦徳純協定(宋哲元軍移動)
1935年7月10日、上海邦人商人射殺事件
1935年11月9日、中山秀雄一等水兵射殺事件(上海共同租界にて)
1935年12月25日、冀東防共自治政府成立
1936年8月24日、成都事件(邦人記者ら四人が銃撃され、2名が死亡)
1936年9月3日、北海事件(広東省北海で日本人商店が襲撃され、経営者が殺害)
1936年9月19日、漢口邦人巡査射殺事件
1936年9月23日、日本人水兵射殺事件(4名が上海共同租界を散歩中狙撃され2名死亡)
1936年11月15日~21、綏遠事件(独立を目指し内蒙古軍が蜂起した。顧問として日本人。)
1937年7月7日、盧溝橋事件
1937年7月29日、通州事件(冀東政府保安隊による同政府、日本居留民への暴行、虐殺)


そして隠れ共産党員の張治中は、蒋介石の承認を得ないまま、1937年8月9日夕刻、上海飛行場外の記念通りで大山勇夫海軍中尉と斉藤与蔵一等水兵を射殺したのである。このときは中国人死刑囚に中国軍の軍服を着せて、近くで射殺までしている。これは日本側から発砲したように見せかけるためであった。そして第2次上海事変へ、そして日中戦争へと日本は引き込まれていったのである。


だからマッカーサーが米議会で、日中戦争防共戦争であった、と証言したのも頷けると言うものである。米国はそのことに対して当時は認識がなかった、と言うよりも米国政府自体もコミンテルンに犯されていたからである。「ハル・ノート」を記述したハリー・デクスター・ホワイトもコミンテルンの一員であった。詳しくは当ブログ2008.9.12~13の「靖国神社に参拝しよう(2)(3)」などを参照願う。
(続く)
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第2次上海事変(5)

2012-06-01 11:06:03 | Weblog

その後「尾崎秀実(ほつみ)」は、1934(S9)年10月に東京朝日に移り、1936年に中国問題の専門家として太平洋問題調査会に参加する。1938(S13)年7月に東京朝日を退社して、第1次近衛内閣の嘱託となり1939年1月の内閣総辞職までその職に留まる。尾崎は嘱託となると同時に近衛主宰の政治勉強会朝飯会」のメンバーとなりこの関係は第3次近衛内閣の1941(S10)年8月まで3年間も続いた。その間尾崎は、中国の各事変に対して不拡大方針を堅持する政府に対して、事あるごとに拡大させよと強力に主張し、和平工作に反対している。

尾崎は自分を「完全な共産主義者」であると認め、その最終目的は「全世界での共産主義革命を遂行する」ことであり、逮捕後の取調べでは「世界共産主義革命遂行上のもっとも重要な柱であるソ連を日本帝国主義から守ることである」と、供述していると言う。そのため日本が蒋介石などと和平を結ばれ安定してもらっては(ソ連にとっても、中国共産党にとっても)困ることになるので、盛んに中国での戦争拡大近衛内閣に吹き込んでいたのである。ゾルゲも尾崎も当然だか、その後死刑に処せられている。

このように中国内でも日本国内でもコミンテルンの手先が暗躍していたのであり、この第2次上海事変も国民党内に巣食っていた実質共産党員である「張治中」によって引き起こされたものであった。

嘗て張は黄埔(ホ)軍官学校の教官をしていたことがある。この士官学校はソ連が資金と人材を提供して設立したものであり、その中からソ連は高い地位のスパイ育成を目論んでいた。校長は蒋介石であったが、そこには政治局員として周恩来がいた。「張治中」は周恩来に中国共産党への入党を依頼したが、周からは国民党内に留まり「ひそかに」中国共産党と合作するよう求められたと言う。回想録にそのように記述されているとWikipediaに書かれている。

ソ連コミンテルンの策略は、用意周到で緻密なものであった。

1936年12月11~12日に起こった「西安事件」こそ忘れてはならない。当時共産軍は蒋介石に攻められて戦力は1/3に減っていた。そのため蒋介石はここぞとばかりに殲滅を図るべく1936年10月に、蒋介石軍の司令官であった張学良と西安の軍閥の楊虎城に、共産軍根拠地(多分延安)への総攻撃を命じた。しかし2人とも共産軍と通じていたために、なかなか攻撃を開始しなかった。そのため蒋介石は督戦のため、1936年12月4日に西安を訪れた。しかし蒋介石は12月11日夜から12日朝にかけて、張学良と楊虎城に攻められて、12日早朝名所旧跡の華清池のホテル裏山に逃れたところを捕えられてしまった。

捕えられた蒋介石は、スターリンからの「蒋を殺すな」の電報で、生き永らえた。ソ連にすれば、蒋介石を生かしておいて日本と戦わせれば、対ソ戦を回避できるし、ソ連の対日戦も有利になると考えていた。そして周恩来や葉剣英などが乗り込んできて、どんな手を使ったかは定かではないが、共産党掃滅を辞めさせることを約束させた。Wikipediaにはソ連に留学中の彼の息子の蒋経国を人質にとり、彼の帰国と引き替えに抗日戦に引き込んだとも書かれているが、これも理由の一つにはなるがこれだけではなかろう。

結局蒋介石は生き延びて、周恩来らと「共産党討伐の中止」と「一致抗日」を約束させられたのだ。実際、この事件によって蒋介石は共産党への攻撃をやめ、「第2次国共合作」が成立する。そして国民党内では親日派が後退し、・・・代わって親ソ派が台頭した。・・・ここに至って蒋介石ははっきりと日本を敵と定めたのだ。]と黄文雄氏の「日中戦争は侵略ではなかった」には記載されている。またWikipediaには、台湾に渡った中国の学者・胡適は「西安事件がなければ共産党は程なく消滅していたであろう。・・・西安事変が我々の国に与えた損失は取り返しがつかないものだった」と言っていると記載されている。それほど衝撃的な事件であった。まあ、命令をきかない司令官には、何らかの(反乱の)事情があるかも知れない、と考えることも大事なことであろう。そう気が付けば蒋介石ものこのこと西安なんぞには行かなかったであろう。

そして日本の尾崎秀実はソ連と通じていたため、この顛末も正確に予測できた。そのため近衛文麿に認められ、彼の勉強会にもぐりこむことが出来たのである。そして日本の情報はソ連に筒抜けとなり、対支政策がことごとく裏目と成り、日中戦争に引きずり込まれて行くこととなる。近衛文麿とその取り巻きたちは、なぜ尾崎がこれほどまでに正確に予測できたのか、と疑問には思わなかったのか。これなどは第一級の反省材料であろう。


盧溝橋事件や大山勇夫中尉達が虐殺された1937年には、張治中は「南京上海防衛隊司令官」であり、ソ連大使館と緊密な連絡を取っていた。そして上海で日本軍に先制攻撃をするよう盛んに蒋介石に具申していた。しかし蒋介石は頑としてその意見には賛成せず退けていた。

その理由は、1932年1月に中国19路軍が日本警備隊へ先制攻撃を掛け、3月3日まで続いた第1次上海事変での列強の反中国姿勢にあった。蒋介石は列強の介入を恐れていたのである。この間かの張治中は第5軍の長として、2/16からこの作戦に参加していた。第1次上海事変は、上海派遣軍を編成した日本軍が3月1日に19路軍の背後に上陸したため中国軍が退却している。そして5月5日上海停戦協定で終結したのである。

この結果、中国軍は上海周辺に非武装地帯を設定させられ、この協定の実施を監視するため英米仏伊と上海市長からなる国際委員会まで作られてしまったのである。もちろん日本軍も撤退している。


しかしながら不拡大方針を堅持した日本は、中国軍を徹底的に叩かなかった。今思えば叩いておくべきであった。このように日本の中国に対する対応が軟弱だったために、日本弱し、と見た中国軍はその頃盛んに日本人水兵殺害日本居留民に対する略奪・虐殺事件が起こしたのであった。



まず第1に1927(S2)年3月24日蒋介石の北伐軍(国民革命軍)が南京を占領し撤退する時に、日本、米国、英国の領事館や居留民の家屋を襲い、略奪・殺人を行っている。これを1927年の「南京事件」と言っている。このため米英は艦砲射撃で蒋介石軍に反撃したが、日本はそれには加わらなかった。当時の首相の幣原喜重郎は、「軟弱外交」であった。対中不干渉主義に徹し中国に対して責任追及などは一切しなかった。そのため国民党は、当時は反英であったが軟弱な日本の態度に反英から反日へとがらりと政策を変えたのである。そしてその反日を使って、国民革命軍のナショナリズムを高め意志統一を図っていったのである。
(続く)
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