世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(25)

2024-05-22 00:00:00 | Weblog

この状況を、「乃木希典と日露戦争の真実(P240)には次の様に書かれているが、パーフェクトゲームができたのであるが、総司令部が乃木軍の兵力を増強できなかったことが誠に悔やまれることであった。 

 

かくして、奉天会戦は日本軍の大勝利により終末を見た。 

日本軍の戦闘総員は約二五万九五〇〇名、死傷者七万二九名に対し、ロシア軍は約三〇万九六〇〇名のうち死傷者六万九三名、行方不明者二万九三三〇名を出した。 

 日本軍の戦果は、捕虜二万一七九二名、軍旗三旈、砲四八門、小銃三万四〇一三挺、馬一四八九頭、その他莫大な軍需品を獲得した。 

まさに曠古の大勝利と中外にホコッテ宇野であろう。 

 しかしながら、もし、我が満州軍総司令部の作戦指導において、更によろしきを得れば、・・・それこそ史上未曾有の大殲滅戦が我々日本人の手によって実現できたはずであった。まことに惜しみて余りあるものと言わざるを得ない。 

 もしも総司令部が作戦開始に先立って乃木の意見具申を採用し、乃木軍の兵力を四個師団とし、さらに会戦の途中でその総予備隊たる第三師団を乃木軍に増強していたならば、それこそ日本海海戦に比すべき陸のパーフェクトゲームが、このとき演出されたことであったろう。 

 

 

しかしながら、何はともあれ、日本陸軍は1905年03月10日(明治38年)にロシア軍を奉天から総退却に追い込んだのであるが、真の勝利は次の日本海海戦の大勝利まで待たなければならなかった。 

 

1905(M38)年05月27日~28日の日本海海戦は、ロシアバルチック艦隊38隻中弱小艦三隻を浦塩に逃しただけで、大半の戦艦を撃沈・拿捕の大勝利であった。まさに完全試合であった。日本連合艦隊は捕獲したロシア戦艦を引率して1905(M38)年05月30日に佐世保に帰還している。 

 

この大勝利で満州への兵員・物資の輸送の海上ルートの安全が確保され、日本にとって万全の態勢となったのであり、漸く日露両国間で講和の機運が生じてきたのであった。 

 

1905(M38)年08月、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれ、九月五日、日露講和条約調印、そして九月十六日、日露両軍の間に休戦が成立したのであった。 

 

ここら辺の事情(日本海海戦や講和談判)については、小生のブログ「日韓併合100年」を参照されんことを。 

 

日本海海戦の詳細は、「日韓併合100年2011.06.14~23の NO..92からNO.99を参照願いたい。 

 

そしてそれ以降にはサガレン(樺太)の占領や講和談判の詳細が記載されているので、ご参照願う 

 

またそのNO.102には駐米公使高平小五郎について「坂の上の雲6」では、悪しざまにその能力がなかったと酷評しており、 

しかるに司馬遼太郎の「坂の上の雲6」の70頁では、高平小五郎を外交官に必要な経綸の能力が無かった、と酷評しているが、これは司馬遼太郎一流の「空想」であろう。したがって「坂の上の雲」は、検証しながら読む必要がある。 

日韓併合100年」のNO.102では小生は書いているが、

すでにこの時でも「坂の上の雲」に対しては、少なからぬ疑念を(小生は)もっていたものと思われる。 

 

どうも司馬遼太郎は、ちょっとしたことを種にして、人を馬鹿にすることが好きな質(タチ)の人間のようだ。 

(続く)

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