世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(120)

2011-07-29 10:03:01 | Weblog

8/17第6回本会議(9)日本の戦費の「払い戻し」(比較的必要条件)がテーマである。いわゆる賠償金問題である。(5)樺太の割譲問題(比較的必要条件)とならんとで日本にとっては「絶対的条件」に近いものである。しかしロシアにとっては、「(9)賠償」「(5)割地」「(10)軍艦引渡し」「(11)海軍力の制限」の4項目は、譲歩出来ない項目である。

日本側は、戦争のために掛かった費用即ち戦争の直接実費だけの要求であり、「交譲妥協の精神」で協議している、だからロシア側としてもよく(受け入れを)考えよ、と言うものであった。しかしロシアは、賠償金は完全敗戦国が支払うものであり、ロシアはまだ負けていない。平和を望むが賠償金を支払ってまで平和を求めない、と一切認めない。ペテルスブルグかモスクワまで攻められれば、ロシアは賠償金を考えるかもしれないが、そんな状況ではないとうそぶくばかりであった。

小村は「賠償金を払ってさっさと戦争を終結するほうが、ロシアの国力の温存につながるのではないか」と言えば、ウィッテは「それなら日本はロシアにいして過重な要求はやめて、速やかに講和したらどうか」と答えて、将にああ言えばこう言う式の対応であった。そのため、第9条の討議を打ち切り午前中の会談を終了した。

午後の会議。(10)中立港逃避のロシア艦の引渡し(比較的必要条件)、これも平行線を辿る。そのため(11)ロシアの極東海軍力の制限(比較的必要条件)に討議を移す。ロシアにおいては、すでに(極東においては)海軍は無かったからロシアが譲歩を示すが、その取り扱いでもめたので翌日回しになる。

翌日8/18(金)には第12条を討議し、土日は休会、8/21(月)午後3時に再開しこれで以って最終回とすることになった。(12)ロシア領海・領水の漁業権の許与(付加条件)は、ロシア側は内諾している。残るは(5)樺太の割譲問題、(9)日本の戦費の「払い戻し」、(10)中立港逃避のロシア艦の引渡しと(11)ロシアの極東海軍力の制限の対立項目だけである。これだけの対立項目がありながら8/21(月)が最終回と言うことは、ウィッテは談判決裂を考えているのかと記者たちは色めきたった。

その夜遅くウィッテは緊急会議を開いた。講和の必要性については全員一致している。4項目の取り扱いでは意見が分かれた。しかしウィッテは、樺太と賠償金については日本は譲歩しないであろうと判断し、(5)樺太の割譲、(10)ロシア艦の引渡し、(11)海軍力の制限、については譲歩する代わりに、(9)賠償金だけは拒否するとの内容を本国に発信させた。

この内容は日本側は知るよしもない。小村も、ウイッテと同様追い詰められていた。(10)ロシア艦の引渡し、(11)海軍力の制限、を譲歩して様子を見たい、それでも駄目なら戦争開始を覚悟して欲しい、旨の電報を打っている。そしてニューヨークの金子堅太郎にも同内容を打電し、大統領のロシア説得を要請させた。

8/18、10時開催。日本側がまず(10)ロシア艦の引渡し(11)海軍力の制限、の撤回を提案した。そしてウィッテが回答文を随員にロシア語で口述し始めたが、すぐに「待て」と叫び口述を中止する。そして全権委員のみでの秘密会議を提案した。小村委員は「樺太」と「賠償金」についての腹案かと、小躍りして同意した。

日本側、小村・高平両全権と随員安達峯一郎(通訳)
ロシア側、ウィッテ・ローゼン両全権と随員ナボコフ(通訳)
の6人が部屋に残った。

(続く)
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日韓併合100年(119)

2011-07-28 10:15:52 | Weblog

1854年には日露和親条約結び、樺太は両国の雑居地と定めたが、1875年(M8)の「樺太・千島交換条約」で、日本は千島を日本領とし樺太はロシア領となった。しかし元はというと樺太は日本領と言ってもよい領土であった。しかもこの交換条約はロシアに脅迫されて締結したものである。しかも現在(日露戦争では)は、その樺太を日本は占領し、日本の行政下にある。しかも樺太は日本列島に連なるものであり、もともと日本列島に属しロシアには属していない。それにもともとロシアにとっての樺太などは、目の届かない化外(けがい、支配の及ばない)の地であり、さほど重要なものではない。

しかしウィッテは、戦争に負けてもいないのに「割地」などあいならん、と一歩も譲らない。お互いに平行線を辿り、会議は膠着した。そこでウィッテは、樺太をロシア領にしておく代わりに、「樺太で日本人は自由に居住して、農林漁業をしてよいと言う「最優遇」を与える」と言うが、小村委員は即座に拒否する。現に日本は樺太を占領しているのであるから、その状態は確保されているのである。拒否するのが当たり前である。そのため議論を進めるために、(5)樺太の割譲問題(比較的必要条件)は、先送りすることとなった。談判決裂の張り詰めた空気が、これで安堵感に変わる。

午後は、 (6)清国に於けるロシア権益の割譲(付加条件)の討議に入った。この条は、すでにロシア側は同意を表明しているので、もっぱら字句の修正に終始して議論を終えた。

日本側のマスコミ対応は、お世辞にもよいと言うものではなかった。会議には120人もの記者がいるが、当初は全てが日本びいきであったが、ロシア側から会議の内容が洩れてくるので、いまや大半が「親露派」に変りつつある。記者たちの受ける感触は、ロシアが多くの譲歩を行い、日本側は少しも妥協しないとの雰囲気に固まりつつあった。このことは、ルーズベルトが仲介に入った時に、日本側により譲歩を求める形になりやすいことを意味する。新聞の論評も「ロシアペース」との見方が多数を占めた。ウィッテの望むところであった。

8/16(7)南満州鉄道および付属権益の譲渡(絶対的条件)の討議が行われた。日本譲渡する鉄道の範囲でもめた。日本側はハルビンまでの全線の譲渡を要求したが、ロシア側は、日本軍はまだそこまで進出していないと拒否する。そのため永沼挺身隊が長春近くの張家窪子で戦闘を行っていたので、長春までと更に吉林までの予定線を含めて日本に譲渡されることとなった。

(8)満州横貫鉄道の非軍事化(付加条件)はロシア側も異存が無かったので、至極あっさりと合意が成立した、と「日露戦争7」(児島襄)は結んでいる。

これで講和条件全12条の内、8条まで済んだ。そのうち5条が樺太の割譲であり、これは先送りされている。残りの4条の内には、ロシアの譲歩不可の3項目が含まれることになる。ロシアが譲歩できる1項目を除いて、残りは全て譲歩不可の項目となる。だから、記者たちは早々に日露講和談判は決裂するであろう、と憶測を逞しくしていた。記者たちの取材攻勢も激しくなった。そのためウィッテは「次の第9条が賠償金問題だ。賠償金と樺太問題は最後まで残る。」と記者団に述べている。ロシア側は、講和談判の帰趨が日本のために決裂の危機に瀕していると強調した。そして記者たちは日本側委員からも、講和談判決裂を予期している気配を感じているようであった。

新聞の論調は、決裂した場合にはT・ルーズベルト大統領が仲介に乗り出し、今までのウィッテなどからの情報からすると、日本に圧力をかけてくれるであろう、式のものが多かった。ロシア勝利とする論調であった。

(続く)
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日韓併合100年(118)

2011-07-27 11:25:12 | Weblog

15:07会議再開。各条毎の討議に入る。

(1)日本の韓国管理、これは露側は認めるが、1露人への最恵国待遇、2韓国皇帝の主権、3露国国境への脅威となる軍事上の措置をしない事を条件とした。韓国はすでに実質日本の保護国となっているため、日本は韓国皇帝の主権は断固拒否して、文言の調整となった。しかしウィッテは韓国内でのロシア人の取り扱いで、細かなことでごね通したので、その細部は先送りとなり、明日3時再開を約して18:30散会となる。

ウィッテは、この会議の出来には不満であった。それは主導権が取れなかったからであり、そのため英紙「ザ・タイムス」との単独インタビューを手配させ、記者に向かって「内容の公表を小村によって拒否された」と、悪口雑言を並べてまくし立てた。憂さを晴らしポイントを稼いだことで、ウィッテは笑顔になった。

8/13、日曜日。午後の会議は中止となった。海軍工廠が、毎日曜日一般公開されるからであった。
中止の理由が発表され、色めきたった記者団は静かになった。ウィッテは「AP」記者を招いた。そしてロシアの譲歩できない4点を説明した。これはその4点を公表して、日本側の譲歩を引き出す算段であった。その4点とは、先に掲げた譲歩不可の4項目であった。

8/14、午前中の会議前に記念撮影が行われた。この日の会議では、(1)日本の韓国管理、(2)満州撤兵、(3)満州の清国還付の3条件が可決され、発表文が作成されている。

「8/14朝の会議で(1)の文言を決定し、午後の会議で(2)(3)を討議決定し、6時散会した」と言う簡単なものであった。記者たちは両国の委員を追いかけたが、明確な内容は得られなかった。

その頃金子堅太郎は米大統領T・ルーズベルトを訪問していた。例の譲歩不可の4項目について話し合っていた。ルーズベルトは譲歩不可の4項目のうち、(10)中立港逃避のロシア艦の引渡し(比較的必要条件) (11)ロシアの極東海軍力の制限(比較的必要条件) については「そんなに重要とも思えない」ので譲歩し、(5)樺太の割譲(比較的必要条件)は、あくまでも譲歩せず、(9)日本の戦費の「払い戻し」(比較的必要条件)は、金額について譲歩して支払うことを承知させたらどうか、と言うものであった。そして更に12項目の内8項目は合意できると言うことはよいことではないか言い、金子は複雑であった。

その夜、ウィッテは在米ユダヤ市民の代表5人の訪問を受けていた。その中には日本に融資したジェイコブ・シフもいた。ロシアにいるユダヤ人の地位向上を依頼するものであった。このシフの存在に、ウィッテは内心ほくそ笑んでいた。

8/15(4)満州に置ける機会均等(付加条件)は、あっさりと同意された。いよいよ樺太割譲問題に取り掛かる。(5)樺太の割譲(比較的必要条件)は、日本側は比較的必要条件としているが、絶対的条件に近い位置づけのものであり、ロシアの「譲渡不可項目4項目」のひとつである。だから、ロシアとはガチンコ勝負となる項目である。

樺太には、1624年に松前藩が南樺太に出張所(藩会所)を設けている。そして1808年には、幕臣の間宮林蔵が樺太を探検し島であることを発見し、しかも実測している。樺太と大陸(沿海州)との間は、「間宮海峡」と国際的にも認められている。


(続く)
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日韓併合100年(117)

2011-07-26 11:52:32 | Weblog

このことを見ても「日露戦争」は、日本の独立戦争であったことが良くわかる。

ロシア側は、賠償金の支払いの拒否、領土の割譲の拒否、そして清国における露国の権益を守ることが、最優先事項であった。日本が韓国を管理することに対しては、それほど拒否するものでもなかった。事実、1904/2/23日韓議定書を結び、日本は韓国を守ることになっている。今の日米安保条約と似たようなもので、日韓安保条約と言うべきものであった。だから、日本の韓国管理についてはそれほどの拒否感は無かったものと思われる('11/1/19,NO.59参照)。

思い起こして欲しい。ロシアは、1689年ネルチンスク条約で、アムール川の左岸(下流に向かっての左側)と今の沿海州は清国領と認めたのであるが、1858/5/28アイグン条約では、その左岸(江東64屯など)を割譲させ、更には、1860年北京条約では、沿海州まで割譲させてロシア領としてしまっているのである('11/1/20,NO.60参照のこと)。だから、朝鮮(韓国)や満州をロシア領にすることなど朝飯前のことであったのである。

だから、ロシアを満州から追い出すために、日本は日露戦争を始めたのである。このブログのはじめから、よくよく熟読玩味して貰いたいものだが、韓国を列強の手から守らなければ、日本の独立も覚束なくなるので、結局は韓国を合邦せざるを得なかったのである。

そしてロシア代表団は午後4時までには、対日回答文の作成を完了させ、翌日の会議開催の日程を打ち合わせた。8/12,09:30の会議開始予定となった。
ロシア側秘書のコロストウェツが記者会見し、「明日回答文を手渡す」と述べている。

両全権団は、ポーツマスの暑さと蚊の大挙襲来に、大いに悩まされていた。

8/12、新聞各紙は講和条件に対する各国の反応を伝えていた。

ロシア-ロシア国内では「講和条件を受諾するよりは戦争を望む」式の意見が多いと伝えている。

仏、英-「日本の要求は妥当であり、希望がもてる」と、伝えている。

独-独外務省は、特に日本の条件は公正だとは認めていないが平和を望む、的な意見を載せていた。

そして、ロシア全権団はマスコミに友好的であるが、日本側はそうではないとの記事もあった。

09:45第2回本会議開催

ロシア側の回答文の提出を受けた日本は午後3時まで休憩を求め、ロシアは明日の午前の会議の中止を求め、共に合意した。そして小村委員は、ロシアの秘密漏洩をきつく詰問した。ウィッテは東京の通信員より(APが)聞いたものであろう、ととぼけてみたものの、小村委員より問題をすりかえるなと返されて会議の守秘を確認させられている。

(続く)
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日韓併合100年(116)

2011-07-25 11:22:52 | Weblog


事実、全権委員ウィッテは、随員の一人に「日露友好協定」案の作成を指示している。しかしこれは物になっていない。そしてホテルに帰着後、米国通信社「AP」に日本側の条件をこっそりと洩らしている。「AP」通信は親露的であった。ロシア全権団が7/17、ロシア出発前に記者会見した通信社もAPであった。このことは講和談判が決裂した時に、責任を日本側に押し付けるための準備でもあった。ウィッテは、何事にも目を配り用意周到であった。外交とは斯くあるべきであり、見習うべき点は多い。今の管直人の比ぶべくもない体たらくに対しては、ウィッテの爪の垢でも煎じて飲ませたいものである。

8/11、主要な米国の新聞は、APが伝える日本の講和条件を一斉に報道した。ウィッテがAPに伝えた条件は次の冒頭にNO.を振った9項目であった。残りの3項目は抜けていた。ウィッテはこのNO.順にもらしたため、日本がこの順に重きを置いているが如きの誤解を生むことになる。ウィッテは賠償金を第1番に持ってくることによって、マスコミをして日本の強欲振りをPRさせて日本を悪者に仕立て上げると同時に、賠償金の要求を引っ込めさせたかったかも知れない。

ウィッテの洩らした講和条件-NO.はウィッテの順番
 ↓                        ↓ロシア回答内容
(5) (1)日本の韓国管理(絶対的条件) 露譲歩可
(4) (2)満州撤兵(絶対的条件)  露譲歩可
(抜) (3)満州の清国への還付(絶対的条件)  露譲歩可
(抜) (4)満州に置ける機会均等(付加条件)  露譲歩可
(2) (5)樺太の割譲(比較的必要条件) 露譲歩不可
(3) (6)清国に於けるロシア権益の割譲(付加条件)  露譲歩可
(6) (7)南満州鉄道および付属権益の譲渡(絶対的条件)  露譲歩可
(抜) (8)満州横貫鉄道の非軍事化(付加条件)  露譲歩可
(1) (9)日本の戦費の「払い戻し」(比較的必要条件) 露譲歩不可
(7)(10)中立港逃避のロシア艦の引渡し(比較的必要条件) 露譲歩不可
(8)(11)ロシアの極東海軍力の制限(比較的必要条件) 露譲歩不可
(9)(12)ロシア領海・領水の漁業権の許与(付加条件)  露譲歩可


このウィッテの付けた順番を見ると、なんとなくウィッテの意図がわかるような気がする。即ち、金の支払いと領土の割譲がそのトップ2、そしてトップ3に満州におけるロシア権益となっているので、明らかにロシアが損をすることを嫌っているのである。

「ロシア側の考え方は、ロシアの「名誉と尊厳」に関する項目は絶対に譲歩しないが、それ以外は譲歩し、もし談判決裂した時は日本側に責任を押し付ける、と言うものであった。」と以前に述べておいたが、将にその通りの優先順位付けであった。日本側の要求は、まずは韓国からのロシアの撤退であり、そして韓国への列強の侵略を排除するための日本の保護であり、そのためにも満州におけるロシアの影響の抹殺であった。いわゆる絶対的条件がそれであり、関連事項を一括りにしたために、12項目は上記のような順番となったものと推察できる。

(続く)
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日韓併合100年(115)

2011-07-22 15:27:17 | Weblog

ロシア側の考え方は、ロシアの「名誉と尊厳」に関する項目は絶対に譲歩しないが、それ以外は譲歩し、もし談判決裂した時は日本側に責任を押し付ける、と言うものであった。

この考えで日本の提示した講和条件を分類してみると、先の箇条書きの項目の末尾に、その分類を追記しておく。

ウィッテはロシアの物は、船一艦でも与えるべきものではなく、ましてやロシア領土は一寸たりとも与えるわけにはいかない。戦費も同様である。ただし、ロシア兵の捕虜の給食費などは負担してもよい、と言う考えであった。

日本もロシアの考え方をすばやく感知して、ロシア人捕虜に関する諸費用を吹っかけて請求するなどの知恵出しをしなければならなかったのであろうが、当時はそこまで知恵が回りかねたことであろう。外交とはお互いに腹の探りあいであり、ロシア側には自国内に一兵も入れずに、まだ継戦能力は十二分に保持しており、敗戦国ではないとの認識であった。そのため、重ねて言うが、北韓作戦を遂行し、その続きで、ウラジオストクを陸と海から攻めて占領しておくべきであった。そうすれば、浦塩と樺太というロシア領を日本は容易に占領出来た筈であった。しかもロシア国内の政情は混沌として、何時反乱が起きてもおかしくない状況までに日本はもっていったではないか。何のために明石元二郎が活躍していたのか。惜しいことをした。ロシアは大東亜戦争のドサクサに紛れて、沢山の日本人をシベリアに抑留しているではないか。日本人は、この恨みは、金輪際忘れてはならない。事実、現在は日露戦争で負けたカタキを北方領土でとっているではないか。尤も民主党政権のだらしなさのお陰で、日本領土である択捉、国後と言う日本固有の領土を、現在ロシアに蹂躙されていることを忘れてはならない。だから日本は、国防に注力しなければならないのである。核武装をして、国防軍を保持していれば、こんなにロシアやチャイナに馬鹿にされることは無かったのである。更には福島原発問題も、これほど悪化させることはなかっのではないか、とも思うのである。



日露戦争の戦場は満州であり、ロシア領には一寸たりともは入っていない。もちろん樺太を除いてだが、従って樺太を除いては、日本とロシアには直接関係はないところが戦場だったのである。もっぱら直接関係してくるところは、満州、即ち両国にとっては外国である清国なのである。

そのためウィッテは、まさかの時のために、日露友好の促進も考えていたと言う。即ち日露戦争の原因のひとつには、清国で発生した義和団の乱が関係していることは先に述べている。この講和談判も満州が対象となっているため、清国側から何らかの日露に対する暴動が発生するかも知れない、そのときは日露両国で対応する必要があり、日露が友好関係にあれば好都合であろう、と深読みしていたものであった。

(続く)
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日韓併合100年(114)

2011-07-21 10:37:13 | Weblog

1905/8/10、日露講和談判初日。10:15第1回会議開始。
まずは両全権が、夫々の君主が「穏和和協の精神」であることを述べ合って、話し合いを始める。日本側君主は天皇陛下、ロシア側君主はニコライ2世皇帝である。結局このニコライ2世は、1917/3/3に皇帝を退位させられて、翌年の1918/7/17にエカテリンブルグで銃殺される運命にあったのである('11/6/6,NO.87参照)、丁度93年前のことである。

まずウィッテの日本側の平和締結の意見を聞きたい、との発言に、日本側箇条書きの条件を提示した(英文を成文とし仏語訳を添付)。ちなみにこの8/10は一年前に黄海海戦を戦った記念の日であった('11/5/11,NO.71参照)。以下「日露戦争7」(児島襄)を参照してそれを列挙する。カッコ内はそこ(P378)に示されている条件の区分である。

(1)日本の韓国管理(絶対的条件) 露譲歩可
(2)満州撤兵(絶対的条件)  譲歩可
(3)満州の清国への還付(絶対的条件)  露譲歩可
(4)満州に置ける機会均等(付加条件)  露譲歩可
(5)樺太の割譲(比較的必要条件) 露譲歩不可
(6)清国に於けるロシア権益の割譲(付加条件)  露譲歩可
(7)南満州鉄道および付属権益の譲渡(絶対的条件)  露譲歩可
(8)満州横貫鉄道の非軍事化(付加条件)  露譲歩可
(9)日本の戦費の「払い戻し」(比較的必要条件) 露譲歩不可
(10)中立港逃避のロシア艦の引渡し(比較的必要条件) 露譲歩不可
(11)ロシアの極東海軍力の制限(比較的必要条件) 露譲歩不可
(12)ロシア領海・領水の漁業権の許与(付加条件)  露譲歩可

先に示した('11/7/5,No.107)講和の条件を再度下に示すが、先に「日露戦争7」(児島襄)がその頁260~261で述べていた付加条件であった「極東のロシア海軍力の削減」は、ここでは(P378)比較的必要条件として述べている。後は、細分化したものである。

絶対的条件]--政治的条件

(1)韓国を全然我が自由処分の任させる。
(2)一定期間内に日露両軍の満州撤兵。
(3)遼東半島租借権及びハルビン、旅順口間鉄道の譲渡。

比較的必要条件]--経済的条件

(1)軍費の賠償。ただし、最高額を「十五億円」として、談判の様子でそれ以内に適当にまとめる。
(2)中立港に逃げこんだロシア艦の引渡し。
(3)樺太およびその付属諸島の割譲。
(4)沿海州沿岸の漁業権。

付加条件]--軍事的条件

(1)極東におけるロシア海軍力の削減。
(2)ウラジオストク軍港の商港化。


条件を提示を受けたロシア側は、本日の午後と明日の会談の休会を提案し、了解された。

(続く)
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日韓併合100年(113)

2011-07-20 10:40:36 | Weblog

(注)ウェントワースホテルというものは、現在はニューキャッスル島には(グーグルマップを見る限りでは)見当たらないので、マリオットホテルがそれであろうと小生が推測したものである。

そしてポーツマスへ向かう船ではロシア側はメイフラワー号で、日本側よりも上位であったが、ウェントワースホテルでは別館であり、あまり環境はよくなかった。夕食の席でも日本側に先を越され、大分待たされていた。そして給仕が全員若い学生アルバイトと知って、これまた驚いていた。

そしてその学生アルバイトをして、日本側にメモを届けさせて、本会議の進め方に関して明日10時非公式会談を開くことを決めた。そして日本側が記者会見を拒否していることを知ると、表情を変えてにこやかに記者会見を実施し、「米露友好」を力説した。

8/9、午前10時より予備会談が開かれた。両国とも通訳を含む3人が出席した。
そしてまずお互いに全権が委任されていることを確認し、打ち合わせに入った。

合意事項
(1)会議では英仏両語を使用する。
(2)会議に提出する文書は、日本は英文、ロシアは仏文とする。
(3)講和条約と議定書は英仏両文で作成し、仏文を正文とする。
(4)会議毎に大要を議事録にまとめ、両全権委員が署名する。
(5)そのため、書記の参加を認める。
(6)出席者、

 日本側、(全員英語に堪能)
全権委員小村寿太郎、同高平小五郎、駐メキシコ弁理公使佐藤愛磨(仏語)、外務省参事官安達峯一郎(露語)、同二等書記官落合謙太郎(露語)

 ロシア側
全権委員ウィッテ(仏語)、同ローゼン(英語)、条約局長ブランソン、秘書コロストウェツ、書記官ナポコフ(英語)

(7)毎日午前(9:30~12:00)、午後(15:00~17:30)の2回会議を持つ。8/10より開催する。

その夜ウィッテは、同日着任した海軍武官(中佐V・ルーシン)の話を聞く。

ウィッテはフランスからニューヨークへの船中で、随行する武官に戦況を聞いている。そのときの武官の話では、「更に戦争を続ければ、ロシアは負けるであろう」と言うものであった('11/7/8,NO.110参照)。ルーシンの話も同様なものであった。だからウィッテは「他無し。一日も速く談判を終結せしむべし。一日の遅延は、一日の不利を招くこと必至なり。」との結論に至っていた。

その頃、小村は首相兼臨時外相の桂太郎から一通の電報を受け取っていた。ポーランドの政情不安と反ロシア感情により新兵の募集も困難であると言うものであった。そしてロシアでは賠償金を払っての講和では、ロシアは瓦解するかもしれない、と言うものであった。そのため小村は、軍事的に優位な今、一気に講和を成立させる以外に方法はないと判断し、「一日の猶予は、一日の利を敵に与う恐れあり」との結論に達していた。

期せずして、日露両全権委員は、同一の結論に達しながら、講和談判に望むこととなる。

(続く)
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日韓併合100年(112)

2011-07-19 00:09:01 | Weblog

記念写真も、期せずして、大統領の両横に両国の全権団が並ぶ形となった。そして日本全権団は日章旗の降下と礼砲に送られて汽艇に移乗し、ポーツマスへの乗艦である巡洋艦「ドルフィン」向かった。しかしながらロシア全権団は、そのまま「メイフラワー」号でポーツマスへ向かうこととなる。
船酔いに気分を悪くし、更には米国側の処遇を心配していたウィッテは、上座を得られなかったが上客の待遇を受けたことに面目を保ったのであった。

同日17時、両全権団を乗せた2隻と護衛の巡洋艦はポーツマスへと出港していった。

8/6、前日と打って変わって霧が濃く立ち込め、船はのろのろと進んでは停止した。そのためウィッテはすっかり不機嫌となっていた。船に弱いウィッテはニューポートで上陸し陸路でポーツマスに行く手筈になっていたが、そのためニューポート入港が半日遅れて16時となってしまったことも不機嫌の理由であった。オイスターベイからポーツマスに航行するには、ロングアイランド海峡を抜け、更にナンタケット海峡を抜けて大西洋に出てから、直角に北上してポーツマスに向かう(ことになろう)。ニューポートは、両海峡の途切れたところ、中間地点にあるナラガンセット湾に浮かぶロード・アイランドの先端にある。

8/7、3艦は早朝出港するが、陸上ではT.ルーズベルト大統領と金子堅太郎元法相がロシアの強攻策に対して話し合っていたが、なんら良策は見出しえなかった。
ウィッテの一行は、同日午後11:15に、汽車でニューキャッスル駅に到着した。

ニューキャッスルは、ボストンから70~80kmほど北のポーツマスの北側を流れるビスカタカ川の河口、丁度大西洋に面しているニューキャッスル島(New Castle Island)の最北端にある都市である。
このニューキャッスル島のすぐ西北にあるジャマイカ島(Jamaica Island)の西端に日露交渉が行われた海軍工廠や海軍造船所がある。いわゆるポーツマス市はジャマイカ島の南西の対岸に当る。両国全権団はこのポーツマス市のホテルに宿泊したのではなく、ニューキャッスル島と大陸と結ぶウェントワースロード(Wentworth Road)の付け根のある現在はマリオットホテルとなっている当時は、ホテル「ウェントワース」の本館に日本全権団が、別館にロシア全権団が宿泊した。

相変わらずウィッテの外面だけは愛想を良くしていた。

8/8、全権団を乗せた3艦はポーツマス沖に到着し午前10時にポーツマス港に錨を下ろす。そしてその一時間後に海軍工廠に向かった。海軍工廠第86号棟の3階に会議室はあった。両国とも米国側の配慮に満足していた。そして昼食の後ニューキャッスル市の州裁判所で歓迎式に臨み、ウェントワースのホテルに着いたのは4時を回っていた。ロビーでは、百人の女性コーラスが歌声で日本全権団を迎えてくれた。

日本人よ 日本人よ
ロシアとウィッテをやっつけろ
旅順を捨てたら あんたはバカよ

ロシア人よ ロシア人よ
日本人をいびるのは もうこれっきり


と言った当時の流行歌のメロディに載せた替え歌であったが、明らかに親日の歌であった。

(続く)
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日韓併合100年(111)

2011-07-18 00:24:49 | Weblog

7/31、昼過ぎ北部樺太のロシア軍が、全面降伏している。日本側には一人の死傷者もでなった。7/7~7/31間の、わずか24日間で樺太攻略作戦は終了した。これで、講和を有利にする四つの条件のうち二つが達成されたことになる。しかしロシアにとっては少しも痛痒は感ずることはなかった。
ロシアに痛痒を感じさせるためには、浦塩を攻めておくべきであった

8/2、ウィッテの乗ったドイツ船籍の客船は、ニューヨーク港に到着し、沢山の記者が乗り込んできた。ウィッテは早速全記者と握手を交わし、愛嬌を振りまき全ての質問に丁寧に答えた。そのため8/3の各新聞は、ウィッテの到着を写真入りで好意的に伝えた、と「日露戦争7」(児島襄)には記されている。そして人目に触れぬ場所ではいつものように傲慢な態度であったため、秘書などは、人前では急に親しみを見せる態度で接してこられたので、大いに面食らっていた。

糞まじめな日本全権団の、明らかな劣勢であった。これというのも、明治維新からわずか38年しか経っていない。国と国との外交交渉に関してのマスコミの役割に対して、それほど理解をを持てなかったものと思われる。

8/4、ウィッテはオイスターベイで、ルーズベルト大統領と会食している。ウィッテは、大統領からサガレンを譲渡し、賠償金を支払い講和したらどうか、と説得されたが、頑として肯(がえ)んじなかった。

日本も小村寿太郎も、多分必死だったに違いない。最大の努力でもって講和談判に当ろうとしていたことであろう。誠に頭の下がる思いである。

8/5、日露両全権団は、オイスターベイの沖合いの停泊する大統領専用ヨット「メイフラワー」の船上で、相見(まみ)えることとなる。

ウィッテは、大国であるロシアの体面を保持するために、日本より上席に位置することにこだわった。そのため、大統領専用ヨットに乗船する順序にも難癖をつけ、結局は米国に到着巡にメイフラワー号に乗船することとなった。まず日本全権団を乗せた巡洋艦「タコマ」が先にニューヨーク港を出港し、次にロシア全権団を乗せた巡洋艦「チャタヌガ」が出港した。

大統領は、メイフラワーに乗り移った小村寿太郎を早速最大限の敬愛で迎えた。そして小村・高平両全権を艦長室に案内して、8/4のウィッテへの説得状況を説明した。それは、講和状況の不調を暗示するものであった。

ロシア全権団は、サロンに案内され大統領に迎えられた。ロシア全権団の紹介は、米国務次官補のパースが親近感を示すように行っている。日本全権団の大統領への紹介は高平公使が行っている。アメリカ人パースは本能的に白人種側に立っていた。

紹介が済むと、大統領は「日本委員を紹介する」と言うと、いきなり隣のドアを開けて小村・高平両委員を招じ入れた。お互いに無口のまま握手を済ませると、大統領は昼食へと誘った。

通常なら日本全権団、ロシア全権団という順序で、食堂へ移動するものであるが、下座に立ちたくないというウィッテから苦情から、大統領は順序を指定することなく「さあ、行こう」と言うなり歩き出した。そのためウィッテは即座に大統領の後に付き、ローゼンは小村委員に先を譲り交互に一列となり食堂に向かったと言う。しかも食事は立食であった。これでは席順問題が起こらない。そして大統領の乾杯の音頭も「両大国の君主と国民のために」と、配慮したものであった。

(続く)
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