世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(142)

2011-08-31 13:15:43 | Weblog

戒厳令が発せられた東京の治安は劇的に回復した。群集の暴発を煽った新聞は、早速2日間の発行停止を食らっている。地方にはこの戒厳令は適用されない。そのため神戸では暴動が発生した。しかし組織されていないもので単発に終わっている。

9/8、夜、小村委員は高熱を発して倒れた。明日は大統領との昼食会がある。

9/9、それでも小村委員と高平委員は朝9:30にNYのホテルを出発し、オイスター・ベイの大統領別荘に向かった。NYからは、大統領差し回しの軍艦「シルフ」でオイスター・ベイに向かう。

小村委員は挨拶を済ませると、すぐさま気掛りとなっている要件を切り出した。気掛りな件とは、ロシアの「陰謀的動作」への防御策である。ロシアは日本の韓国に対する「自由行動権」を認めたが、必ずやそれを妨害するための策を画策してくる筈である。

10年程前の1896/2/11には、朝鮮王朝へ「日本兵が攻め込んでくる」と嘘の情報を届けて、朝鮮王の高宗をロシア公使館へ幽閉して1年間もロシア寄りの政治を取らせている。露館播遷である。'10/12/10,NO.39を参照願う。

もっとひどかった干渉は、例の三国干渉である。1895/4/23のことである。このため日本は泣く泣く遼東半島を清国へ還付している。そうしたら1898/3/27には旅順大連租借条約を結び、日本が清国に返還した遼東半島を手に入れ、東清鉄道支線の鉄道敷設権も強引に手に入れている。

またこれより以前では、1895/7/6には、ロシアは閔妃と組んでクーデターを起こしている。乙未事変の始まりである。そして1900/7には満州を占領してしまう。そして1900/11には第2次露清密約を結び、満州全域の支配権を手に入れている。そのためそれに対抗するために日本とイギリスは1901/10/16から小村寿太郎が交渉を始め、1902/1/30日英同盟を結ぶことになる。ここら辺りの事情は、'10/12/22,NO.46や'10/12/28,NO.49~51などを参照願いたい。

だから小村委員は高熱を発しているにも拘らず、無理をしてでもオイスター・ベイに出かけたのである。韓国の保護権満州の権益を確保することを、ルーズベルト大統領に認めさせるためである。
満州の権益の確保は、日本が提示した講和条件の12項目の内

(6)清国におけるロシア権益の割譲 や
(7)南満州鉄道および付属権益の譲渡      の項目が該当している。

これらは講和談判で日本の要求通りに、ロシアは認めている。そのために日本は清国にそのことを認めさせる必要があったのである。この件については、講和談判の過程でどのようにして清国と交渉するかが問題となったが、講和談判での議題は日露の二カ国の問題なので、ここでは交渉議題にはされなかった。日本がロシアから譲渡された権益は、同じように日本に対しても清国に認めてもらう必要があるのである。ロシアに認めて日本には認めない、ということは許しがたいことなのである。だから清国が、これを機会に認めないということになれば、日本はなんとしても清国に認めさせなければならないのである。

今の日本人は、日本が満州を侵略して占領したとでも思っているようであるが、それはとんでもない間違いである。そのような勘違いは、コミンテルンの宣伝に載せられているだけなのである。満州に日本が権益を得たのは、このように9万人の戦没者と15万4千人の負傷者を出して満州からロシアを駆逐した結果、ロシアの権益を譲り受けたものであった。

(続く)
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日韓併合100年(141)

2011-08-30 11:29:15 | Weblog

東京で戒厳令が発せられた9/7,零時頃ボストンでは9/6,10:00頃小村は母校のハーバード大学訪問に出発していた。ハーバード大学での歓迎昼食会の後、構内に住む名誉教授C・ラングデルを訪問した。彼は小村委員の当時の恩師であった。名誉教授は、ひげを生やして威厳を漂わす姿に感動し、老眼で目を潤ませて「立派になった。自分は老いた。」と述べるだけで後が続かなかったという。帰路ボストン駅に向かう4頭立て無蓋馬車で、小村委員は驟雨に見舞われ、発熱することとなる。ボストン駅では、残りの日本全権団と落ち合いNYに向かい、午後8時到着しホテル「ウォルドーフ・アストリア」に直行する。そして風邪だと思いすぐにベッドに横になったが、腹も痛み単なる風邪ではなさそうであった。

戒厳令は東京府内一定の区域に適用され、東京の雰囲気を一変させた。
その法的根拠は、大日本帝国憲法第十四条に求められる。

大日本帝国憲法
第十四条 天皇は戒厳を宣告す
②戒厳の要件及効力は法律を以て之を定む


そしてそれを定める法律は、明治十五年の太政官布告第三十六号だと言う。
http://www.geocities.jp/nakanolib/rei/fm15-36.htmによるが、小生の独断で現代語に変換してある。

戒厳令(明治十五年の太政官布告第三十六号)
第1条 戒厳令は戦時若くは事変に際し、兵備を以て、全国若くは一地方を警備するの法とす

第2条 戒厳は臨戦地境と合囲地境との二種に分つ

第3条 戒厳は時機に応じ其の要すべき地境を区画して之を布告す

(略)

第14条 戒厳地境内於いては司令官左に列記の諸件を執行するの権を有す但し其の執行より生ずる損害は要償することを得ず

第一 集会若しくは新聞雑誌広告等の時勢に妨害ありと認める者を停止すること

第二 軍需に供すべき民有の緒物品を調査し又は時機に依り其の輸出を禁止すること

第三 銃砲弾薬平気火具其の他危険に渉る緒物品を所有する者ある時は之を検査し時機に依り押収す

第四 郵便電報を開緘し出入りの船舶及び緒物品を検査し並びに陸海通路を停止すること

第五 戦状に依り止むを得ざる場合に於いては人民の動産不動産を破壊たん焼すること

第六 合囲地境内においては昼夜の別なく人民の家屋建造物船舶に立ち入り検察すること

第七 合囲地境内に寄宿する者ある時は時機に依り其の地を退去せしむること

第15,16条 (略)。



警戒される地域は戒厳地域と称し、その地域内において司令官は次の諸件を執行する権利を有する。

集会や新聞雑誌などを点検し停止する。
郵便物などを開封して船舶なども検査し、かつ交通を遮断する。
昼夜の別なく民家船舶に立ち入り検査する。
寄宿するものを退去させる。

などである。戒厳とは、まさかの時に国民の権利を保障する法律の効力を停止させ、国家の統治作用の一部を軍隊に移すことである。(昭和22年に廃止。)

これには、「明治という国家」、の「戒厳令を制定す」の項も参照されるとよい。
http://meiji.sakanouenokumo.jp/blog/archives/2009/08/post_238.html#more
(続く)
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日韓併合100年(140)

2011-08-29 12:21:27 | Weblog

ちなみに、内相とは内務省を指揮監督する内務大臣のことで、警察・治安・衛生・地方自治などを管轄していた。1947年限りで廃止されている。内大臣とは宮中のポストであり、内務大臣とは関係ない。とはWikipediaの説明である。

調印は、午後3時開始予定が、条約文の作成、同チェックに時間が掛かり、9/5,午後3時42分に開始された。条約文、その追加約款、最終議事録の3種の関係書類が英仏文で各2部、それらが2セットで全部で12部となる。日本側、小村委員、高平委員。ロシア側、ウィッテとローゼン。それぞれ12回の署名となる。

調印が終わると、今か今かと構内に待機していた砲列から一斉に19発の祝砲が発射された。それを合図にポーツマスの教会という教会、港の船という船全てが、鐘と汽笛を鳴らした。街の建物には次々と米国旗が掲揚された。

戦争は終わった。芝居がかったものはない、簡素な儀式だった。しかし、最高の儀式だった。」と特別参列者の一人、ニューハンプシャー州知事マクレインは、そう、回想している、と「日露戦争8」(児島襄)は述べている。

そして祝杯のために食堂に向かったが、シャンペンは用意されていたが、その杯がひとつもなかったと言う。そのため杯が用意されるまでウィッテは小村委員と歓談を試みた。ウィッテはフランス語で話しかけ、通訳を探したが、小村委員は即座にフランス語で答えたという。小村委員は、談判中日本語か英語しか話さなかったから、ウィッテはさぞかしびっくりしたことであろう。しかしそのそぶりは少しも見せずに話を続けたという。

その筋の日本の政治家、官僚は、このようにすべからく2ヵ国語ぐらいはしゃべれなくては、その役目は果たせないであろう。今の民主党の政治家の中で、1ヵ国語でも外国語を理解する輩はどれ程いるのであろうか。殆ど皆無に近い数字となるのではないか。

日本全権団のうち小村委員ら5人はその夜、ポーツマスを発ってボストンに一泊している。その頃東京は、9/6,正午過ぎであった。朝刊各紙には、日比谷焼打ち事件を一種の義挙だと取れるような論調が多かった。政府は警戒を厳重にし、戒厳令施行を内々に決めた。

午後3時頃、よせばよいものを、浅草公園で1人の日本人伝道師がキリスト教を称える演説を始めた。そして「ロシアはキリスト教を信じているため、償金の支払いを免れた」などと口走ってしまった。この言い草は、集まっている群集に対して、「火に油を注ぐ」結果となってしまった。

「何を言うか。非国民、貴様は露探だ。」と怒声を浴びせた。逃げ出した伝道師、それを追っかける民衆、伝道師が逃げこんだ教会を、民衆は襲った。そして放火した。これが2日目の暴動の始まりであった。今夜の襲撃の対象は、教会と市外電車と警察であった。街を練り歩く群集のため数十両の市街電車が停車している。群集はそれらに火をつけて回った。そして数十の派出所や分署も焼打ちされ、教会は「日露戦争8」(児島襄)に載っている名前だけでも12に及んでいるので、20近い教会が襲われたことであろう。政府は9/6が終わる深夜戒厳令を発して、軍隊を出動させた。暴徒は警察を襲撃するものの、軍隊は味方だとして軍隊の言うことはよく聞いた。

(続く)
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日韓併合100年(139)

2011-08-26 12:09:15 | Weblog

9/3、日本国内では、益々反講和の気運が強くなっている。日本各地で反対集会がもたれていた。「大阪市民大会」は最も過激であった。「政府は国民に謝罪して、講和条件を破棄して、戦争を継続せよ」といった趣旨の決議を採択している。

東京では「講和問題同志連合会」が各地の「講和憤慨」市民大会に刺激され、2日後の国民大会の開催準備をせかされていた。花火や軽気球まで上げ、楽隊まで準備し、大小の旗多数も準備され本格的なものであった。警視庁は情報を得ると、すぐさま中止を指令した。

ポーツマスでは、条約文の作成が完成に近づいていた。ロシア本国では「講和は戦勝を封止した」との声が高まり、日本では「償金と樺太半部の放棄」に憤慨が激しくなっていた。

9/4、「講和問題同志連合会」は、9/5,13:00開催の「国民大会」の開催届けを12時間前届け出の規則に則り、9/4,23時過ぎに麹町署に提出した。

その時、ポーツマスでは9/4,9時過ぎである。前日の暴風雨の余波で雨模様の湿気の多い、冴えない一日になりそうであった、と「日露戦争8」(児島襄)は述べている。

すると、午前10時過ぎ、調印の延期が発表された。数箇所の書き間違いが発見されたためであった。調印は、9/5,午後3時に変更された。

9/5、東京では、国民大会開催の届けを受けた麹町署長は、すぐさま巡査を派遣して禁止命令を伝達させた。しかし発起人は姿をくらまし行方不明となっていた。そのため署長は同志連合会の主だった者達を連行し、禁止を伝達するよう依頼した。更には連合会事務所にも麹町署の警部が直接禁止の伝達に来たが、同志連合会側は主催者不明に付きとして、テレンクレンとした対応に終始した。

国民大会への東京市民の関心は高く、日比谷公園には朝から市民が集まりだしていた。警視庁は、350名の警官を公園の六門に配置していた。そのうちに大勢の市民達と警官の間で、押し問答が開始された。集まった市民はおよそ3万人、麹町署長は「制止困難」と判断し、六門を閉じ杭と丸太で各門を封鎖した。

午後1時、炎天下の市民達の堪忍袋の緒が切れた。飲まず食わずで待機していたが群衆は人海で木柵を押し倒し踏み倒して、公園内になだれ込んだ、「203高地占領だ」との叫び声が合唱された。講和問題同志連合会幹部は、すばやく煙火2発を上げ垂れ幕つき軽気球を七個あげ、即席の演壇で「講和条約破棄」「満州敵軍粉砕」「条約批准拒絶」の3決議文を朗読し、「君が代」を演奏し「万歳三唱」して、国民大会閉会を宣言した。

しかし3万人の興奮した大衆を放置できず、同志連合会幹部達は、群集たちを宮城前まで引率して気を静めさせそこで解散させることにした。しかし群集の一部は宮城と反対側、公園の東側に位置する「国民新聞社」を目指した。

そして宮城前では、群集と警官隊との大乱闘が発生してしまった。しかし主催者側の解散宣言ですぐさま静まった。そして群集は皇居を後にして、大小2組に別れ多数組は「国民新聞社」へ、少数組は京橋の「新富座」(演説会場)へ向かった。新富座は早々に解散させられたが、国民新聞社前ではこの新手が加わり、その印刷工場が襲撃され破壊された。そして国民新聞社を襲った群集は、その向かいにある「内相官邸」に押し寄せた。群衆は投石を始め、内相官邸襲撃が開始された。そして時刻は16:45、正門の警官詰所が放火された。「日比谷焼討事件」の発端である。そして官邸裏門が突破され、官舎に放火され官舎は全焼してしまった。内相官邸襲撃とほぼ同時刻に外務省も襲撃された。構内の外相官邸には渡米中の全権委員小村寿太郎の家族が住んでいた。そして群集は石油に浸した桟俵(さんだわら、米俵の左右の蓋)に火を点け、邸内に投げ込んできた。最初から焼打ちを目指している様であった。それまでは投石、破壊が主体で、それから放火されていたが、外務省襲撃は様子が違っていた。警官隊も抜刀して群集を追い払おうとするが、追い払えなかった。そのうちに近衛歩兵隊が警護に駆けつけると、群集は次第に四散した。しかし内相官邸を破壊した群集は、芝方面、神田方面と派出所や警官詰所を破壊・放火し、更には上野・九段・築地・浅草方面と分かれて破壊して放火していった。

焼打ちは、日が代わった9/6の朝方5:00頃まで続いた。

結局焼失は、警察署(2)、分署(7)、派出所(175)、民家(51)、学校(1)、
そして負傷者は、警官・消防・軍人で計約494人、市民側で528人うち死者17名の多きに上った。

このときポーツマスでは、丁度9/5,午後3時、日露講和条約の調印式が始まろうとしていた。

(続く)
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日韓併合100年(138)

2011-08-25 11:53:26 | Weblog

このようなロシアの考えは、今の時代でも変わっていない。さらに厄介なことには、そのロシアと同じ考えのならず者国家が、その隣に存在していることである、共産中国である。それなのに日本の民主党政権には、そんな危機意識は少しもない。管も鳩山も小沢にも、日本を存続させようなどと言う戦略、長期的な計画・企画など、全く持ち合わせていないのである。そんな政党が衆議院で過半数を牛耳っている。誠に困ったことである。参議院は野党が過半数を確保しているだけ、希望があるというものである。

さて日本で「屈辱講和反対」の言論が渦巻いている頃、ポーツマスでは9/1の朝を迎えていた。高平委員の部屋に、ロシア側の休戦条約案が届いていた。休戦条約案は両国委員たちの検討を経てまとまり、午前11時30分、両国全権委員の調印により休戦条約は成立した。しかし休戦条約は「講和条約調印後直ちに実施する」事になっている。そのため講和条約を早く調印する必要がある。そのため午後8時30分から小村、ウィッテ両委員は字句問題にまで踏み込んで講和条約案を討議・完成させた。2人とも本国での反対機運により、講和条約が無効にならないかと気がかりであった。

9/2、日本国内では各新聞に「反講和」の投書が増加した。政府系新聞の「国民新聞」は、償金のために戦争を継続することは不条理であり、世界の世論の支えが必要である旨の社説を掲げて政府を援護したが、かえって批判を煽ってしまいかねない状況であった。早期開戦論を唱えた「対露同志会」から発展した「講和問題同志連合会」は、講和条約調印前に調印阻止を目的に日比谷公園で「国民大会」を開催する計画を立てていた。

14時間の時差のあるポーツマスでは、9/2の朝を迎えていた。満州撤兵条件の討議が残されている。会談は午後4時からである。そしてこの日で討議は終了となり、9/3条約文作成、9/4調印という予定となる。

撤兵条件で問題となるのは、撤兵時期鉄道守備兵の規模である。日本は早く満州からロシア兵を撤退させたいので、10ヵ月を提案したが結局ロシアの反対にあい18ヵ月となる。守備兵力についても、1kmにつき5名の日本提案に対してロシア側は20名を提案し、結局は1km辺り15名で決着する。しかしウィッテは満州から撤退した日本兵は朝鮮に留め置かれるのではないか、と疑問を投げかけた。これに対して小村も、ロシアが沿海州に大軍を駐留させれば日本の脅威となるではないか、と反論する。その上、ロシアは日本に朝鮮の最優先権を与えることを承認しているので、ロシアに「とやかく言われる」筋合いのものではない、と言うことでこの件は沙汰止みとなる。次いで樺太関係の確認が済んで、講和談判終了となる。

そして9/3中に条約書を作成して9/4午後調印というスケジュールが確認された。

大統領ルーズベルトは、日本国内での反講和運動の盛り上がりを知り、金子に書簡を送っている。「講和では日本は莫大な利益を得ている。このことを国民に公表して国民の反感静めたらどうか」と言うものであった。この考えは国民新聞の社説と「軌を一にする」ものであった。

しかし日本各地で反対集会がもたれていた。「大阪市民大会」は最も過激であった。「政府は国民に謝罪して、講和条件を破棄して、戦争を継続せよ」といった趣旨の決議を採択している。

(続く)
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日韓併合100年(137)

2011-08-24 17:54:47 | Weblog

ロシアは中立の朝鮮を必要とする。もし朝鮮が自由でなければ、我々は極東における全戦略が脅かされる。旅順からウラジオストクに至るルートには障害があってはならない。もし日本がこれに同意しないのならば、海陸における戦闘という犠牲を払わねばならない。

朝鮮半島の中立とは、朝鮮を日本の自由にはさせない、と言うことでロシアは満州の次には朝鮮をも取るということである。そうすれば樺太、沿海州、朝鮮半島、満州、遼東半島を全部手中に収めて、極東においてロシアの地歩を確立させ太平洋への出口を完全に確保すると言うことであった。もちろんその先には、日本の占領も視野に入れていた。このことは、'11/12/29,NO.50や次のNO.51でも述べているので参照願いたい。

また「小村寿太郎とその時代」(岡崎久彦著、PHP文庫)には、次のようにも述べられている。

開戦後、半年を経た1904/6/下旬に、ウィッテはハーディング英国大使に次のように正直に述べている。「満州はロシアの手にあり、・・・満州からの撤兵条約が清国と締結されたとはいえ、これを実施するまじめな意向はこれまで決してなかった。」(そしてロシアが勝った場合の日本への和平条件としては)「ロシアによる満州と韓国の併合の問題のほかに、日本は永久に戦闘力を奪われなければならず、太平洋沿岸におけるロシアの優越は保障されなければならぬとの見解には誰も彼もが一致している。それには、日本に対して艦隊を所有することを禁止する条件が課されねばならない」・・・日本が戦闘力を全く剥奪されて、強大なロシアに隣接した場合、その将来には何が起こるかを想像すればよい。

イギリスは日本の同盟国である。日英同盟は1902/1/30に小村外相の下で結ばれている。その同盟国イギリスの駐露大使にこのような無謀というべきことを述べているのである。明らかに英国に探りを入れているのである。日本が負ければ、ロシアは日本を如何様にも料理できるのであり、イギリスの介入する余地はないも同然であることを、見越していたのである。英国も日本が負けるかもしれない可能性があることを考えて、『締結国が他の一国と交戦した場合は同盟国は中立を守り他国の参戦を防止すること、2国以上との交戦となった場合には同盟国は締結国を助けて参戦することを義務付けたものである』との内容にあるように、日本がロシアと戦争した場合には中立を守るとしているのである('11/12/28,No.49参照)。

世界一の陸軍を有するロシアと戦争を開始するということには、余程の覚悟が必要であった。しかしながら戦争をしないで放置しておけば、結局は戦争に負けたと同じ事になっていたであろう。早晩朝鮮半島はロシアの手に落ちていたことであろう。そうなれば北海道とか対馬などに、ロシアが租借地を要求したきたことであろう。だからどうせなら、ロシアの戦争準備が整う前にロシアを叩いておく必要があった。それだけの度胸があったのが、対露強硬論の持ち主であった小村寿太郎であった。そしてその認識は総理であった桂太郎にも共通していた。まだ維新の硝煙の臭いを感じることの出来る世代が日本の政治を司っていたことが幸いであった。

(続く)
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日韓併合100年(136)

2011-08-23 00:29:11 | Weblog

8/30、米国の新聞は講和成立を祝う記事で賑わったが、ロシア、日本の両当事国の反応はすこぶる消極的であった。政府としては講和条約の調印がなされないうちは、正式決定とはしていなかったために、政府発表が無かったからである。

8/31、日本政府は朝から、臨時閣議を開き、講和成立と条件の概要を報告し、休戦条約案を議決した。そして休戦条約案の天皇裁可を得て小村委員に訓電した。しかし講和関係については何も公表しなかった。しかし新聞記事などで「屈辱の講和」内容を知った一般市民からは、怒りを示した投書が殺到していた。

そして夜にはウィッテにも「休戦条約」の交渉指示が届き、ニコライ2世が講和を承認したことを知り、ウィッテもホッと胸を撫で下ろしている。

この日も米国の新聞はロシアの勝利との論評を報じていたが、NYタイムス紙には英紙「ザ・タイムス」の北京支局長G・モリソンの評論を伝えている。モリソンは極東外交通であった。

勝ったのは日本だ。しかも、その勝利は完璧である
ロシアは45年間金と人をつぎ込んで経営してきた満州を失った。日本は朝鮮を支配下に置き、満州からロシアを追放し安全と権益を入手し、樺太も南部を獲得した。沿海州の漁業権や獲得した清国のロシア権益がもたらす収益は、一時的な償金などとは比べられないほどの利益となろう

と言うものであった。モリソンは日本の同盟国イギリス人であるが、NYタイムス紙などは「冷静かつ適切」と評価した。

9/1、しかし一般民衆の態度は「屈辱講和」だといった態度に終始していた。この日の日本の各新聞も講和反対の論調で統一され、紙面は「悲憤、痛憤、哭憤」の文字に埋められていた。新聞の論説では、日本の講和条件は、「償金」「割地」「逃艦交付」「ロシア海軍力制限」の四つではなかったか、然るにこの4条件を全て捨てた、日本政府自ら日本国民を侮辱するに当る、などと論じていた。不十分な情報の下に決意と覚悟を求められ臥薪嘗胆して耐えて政府を支えてきた国民にとっては、がなかなかそのことに対しては、静まることは難しかった。

しかしながら内実は、正確なデータを持つ政府側の判断に軍配が上がる。したがっていかに国民を導いてゆくかは、政府にとって最重要課題である。政府は国民によって支えられ、国民は政府によって導かれる。日露戦争を遂行した明治の先達は、誠に偉大であった。まともに戦えば日本はロシアの敵ではない。しかしながらロシアの戦争準備が整う前に開戦への緒を開いた時の外相小村寿太郎の功績は大きかったものと言わざるを得ない。

'10/12/29,NO.50のブログでは、ロシアの満州占領と朝鮮進出について述べている。ロシアは朝鮮を占領することをはじめから考えていたのである。1901/12には、ロシア外相ラムスドルフは同盟国のフランスの駐露代理大使ブーティロンに次のように述べている。これは「小村寿太郎とその時代」(岡崎久彦著、PHP文庫)に述べられていることである。ちなみにフランスはロシアとともに日本に対して三国干渉をした仲間である('10/12/8,NO.37参照)。

(続く)
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日韓併合100年(135)

2011-08-22 11:03:48 | Weblog

どのように外交交渉するかは、知恵を最大限に搾り出さなければならない。

日本は償金が取れるような戦争をしなければならなかった。戦争の行われている満州は、ロシアの地ではない。いくら奉天を取られても、ロシアはある意味痛くも痒くもない。だから北韓作戦を早期に実施して、浦塩を海陸から攻めて占領しておく必要があった。浦塩を朝鮮側からとそして海からの艦砲射撃と(その北側からと、)三方から攻め込めば、何とかなったのではないか。これも事前にそれなりの計画と準備が行われていなければ、実施できない作戦である。だから日本にもそれなりの戦略の立案が必要であった。当時の日本は満州でロシア軍と対峙するのに精一杯であったのであろう。まあ、それにしても日本は良くやったほうである。だから償金には余りこだわらず、ウィッテのやったようにアメリカの世論を味方にする方策も考えておく必要があった。ここら辺はまだ世界外交の初歩の段階だったものであろう。致し方なかったか。ロシアの支払い能力、世情、アメリカの世論、その他列強の考え方などを総合的に考えて、その時その時での、世界の中での最適解を思い描いておく必要があったのであろう。これも今だから言える事ではあるが。

(13)8/29,午後2時50分、オイスター・ベイに国務次官補パースからの「講和成立報告電」が届く。そして日露両全権からの感謝電が届く。ルーズベルトは双方に返電しているが、ロシア側委員に対する返電は公表させたが、小村委員宛電報は発表させなかった。なぜであろうか。

この頃は償金問題でアメリカ世論は、日本側からロシア側擁護へと変わっていた。世論に左右される選挙を戦わなければならない米国大統領としては、どちらかと言うと日本を称える内容の電報は公表したくなかったものであろう。ここら辺も日本側の外交べたの一面の現れであろう、マスコミ(新聞)を味方にすることが如何に大切か、体でわかっていなかったものである。

もともと日本は講和条件として、12項目を挙げている。その12項目については、'11/7/21,NO.114を参照願いたいが、償金は、(9)日本の戦費の「払い戻し」(比較的必要条件) 露譲歩不可 として比較的必要条件となっている。日本がどうしても獲得したかった絶対的条件は全て獲得している。即ち朝鮮と満州の管理である。だから償金の獲得は、取れたらとるというスタンスだったのである。もうひとつ浦塩については、(11)ロシアの極東海軍力の制限(比較的必要条件) 露譲歩不可として、これまた比較的必要条件としていたものである。だから浦塩の占領などとの考えはある意味毛頭無かったものであろう。残念なことをしたものである。もう少し戦略的に物事を考えておく必要があったものであろう。どうしても戦費の獲得が必要なら、浦塩の攻略が必要だったのである。それは英国のエドワード七世の「浦塩を占領すればよい」と言う発想に示すように、さすがに世界に冠たる英国の英知の正しさを示すものであった。'11/7/1,NO.105参照のこと。

(14)午後3時、第十回本会議の午後の部開催。午前に引き続き細部の詰め。小村委員は、それぞれについて日本案の覚書を提示し、ロシア側はその全てに対して反対はせず「意義なし」「賛成す」との答えであった。ロシアも早くこの講和条約をまとめ上げたかったのであろう。

(15)8/29,午後5時30分、日本代表団がホテルに帰着する。日本代表団には、ロシア側と違い、笑顔はなかった。全員苦虫をかみ殺したような顔で、群集をかき分けて行進した。もちろん日本側も記者会見を持った。スポークスマンの佐藤随員の述べた言葉が印象的だった、「想えば、清国は日本の流血でロシアを追放した。この戦争で最も利益を得たのは、戦場を貸した清国だと言えるかもしれない。

(16)ホテル本館のバーでは、なんとなくロシア祝勝会に似た米露交換の集いが、開かれていた、と「日露戦争8」(児島襄)は結んでいる。そして記者たちの「反日談義」で盛り上がった。酔いに任せて、・・・・・俺は日本が嫌いだ・・・日本人が好きだと言うのは政策だ・・・米国民はロシアに同情している・・・実際のところ黄色人種と俺たちに共通点はない・・・・・。もともとアメリカは白人の国である。ルーズベルトとて白人である。だからアメリカはドイツではなく日本に原爆を落とすことが出来たのである。しかも2発も。

(17)NYタイムス紙は「ロシアの日、そしてウィッテの日」と、大見出しを掲げた。
(続く)
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日韓併合100年(134)

2011-08-18 09:24:35 | Weblog

委員ウィッテは失望し、記者たちも談判決裂を確信した。

午前9時30分、会議が始まると同時に小村委員が秘密会議を要求し応諾される。両全権委員と通訳だけとなる。午前10時秘密会談開始

(1)小村委員、8/23の提案・'11/8/9,NO.129参照(8/18の秘密合意の覚書・'11/8/3,NO.123参照)に対する回答を要求する。

(2)ウィッテ委員、回答覚書を内示する。
   ・日本側の樺太北部12億円での還付は拒否する。
   ・ロシア兵の捕虜給養費は支払うが、それ以外は拒否する。
   ・樺太北部をロシアへ無償で還付するなら、同島南部を日本に譲渡する。

(3)これがロシアの為しうる最後の譲歩である。

(5)小村委員も日本側の訓令内容を説明する。
   ・日本側の償金要求は正当である。
   ・世界平和のために、日本のサガレン占領をロシアが既成事実として承認すれば、軍費払い戻し要求は撤回する。

(6)ウィッテは「既成事実」の何たるかに疑問を持ったが、皇帝からの訓令なので、(2)が回答である。と返事。ウィッテはどうなるか判らなかったが、これで全てが終わったという心境となった、と言う。

(7)小村委員は、無造作に「では、それを受諾することにする」と回答。ウィッテは瞬時呆然として 聞き返して納得したという。ウィッテは後に「完全な勝利の瞬間だった」と回想している。時に8/29,午前10時40分

(8)午前10時55分、講和談判第十回本会議開催。秘密会議の手順に沿って進行し、講和談判は日露両全権によって承認された。

(9)正午頃、午前の本会議終了。国務次官補パースを呼び、大統領に「講和が成立した」事を連絡するよう依頼する。しかしこの伝達はなぜか遅れて、大統領はこのニュースを知る最初の人物とはならなかった。

(10)ウィッテの秘書コロストウエツが記者団への通報役となり、ホテルウェントワースへ電話をいれる。発表文は直ちに速報板に張り出され、ホテルは上を下への大騒ぎとなる。

(11)午後零時50分、オイスター・ベイに「AP」通信社からの平和発表文の通報が届く。パースからの電報はまだ届いていない。

(12)記者たちは、償金なしの講和成立に対して、「日本の敗北」「ロシアの勝利」と評価した。例えばNYタイムス紙は「ウィッテは、ひとつずつ譲歩を重ねながら日本を償金問題に誘導して、要求を撤回するか、それとも金銭のための戦争に踏み切って世界に非難されるか、二者択一の袋小路に追い詰めた。」と報じたと「日露戦争8」(児島襄)には記述されている。

(続く)
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日韓併合100年(133)

2011-08-17 10:37:33 | Weblog

それに仮に日本が勝ったとしても「ロマノフ王朝」が崩壊してしまえば、償金も権益も入手できなくなる可能性もある。また日本が必ずしも勝つとは限らない。負けるかもしれない。

そのため、「たとえ多少の譲歩を為すも、今回講和会議を機とし平和の局を結ぶこと得策なり」との結論となった。日本は万策尽きたのである。そして「償金要求撤回による講和妥結の方針」が決定された。

明治天皇は、「日露戦争が”亡国”につながるのではないか、と深憂し、開戦決定の際は落涙して優意を表示した」と「日露戦争8」(児島襄)には記述されている。それだけに天皇陛下は、政府の決定に「満足」された。

そして、満韓の関係の要求が達成された点も考慮して「・・・たとえ償金割地の2問題を放棄するの已むを得ざるに至るも、この際講和を成立せしむ。」ただし、樺太の割譲は主張すべきであり、順を追って談判せよ、と言った内容の電文が発信された。8/28,午後8時35分であった。ポーツマスでは8/28,午前6時35分

8/28、正午過ぎ小村は、金子からAPのストーン社長の件の督促電を受ける。小村は既に談判決裂を覚悟しているので、すぐにその旨打電する。

当然だ。こんな斡旋内容は先にも述べたが、日本を馬鹿にしている。と言うことはルーズベルトも打つ手が無くなっていると言うこと、ではなぜニコライ2世の「相殺論」を日本側に伝えなかったのか、甚だ疑問の残るところである。ルーズベルトの本音は、継戦では無かったのかとも思われても仕方がない、と小生は思えるのである。それが米国の国益にかなうものであるから。

8/28、午後5時過ぎ小村は、先の(償金割地要求を放棄する)最終訓令を受け取った。当然日本全権団は悲憤慷慨した。小村だけは「多分そんなことであろうと思うていた」と冷静であった。彼には首席全権としての仕事があった。金子元法相にルーズベルト大統領への伝言を依頼した。金子は早速「特使」を派遣して、大統領に小村電のコピーを届けさせた。午後7時30分過ぎであった。

AP通信東京支局も、日本の償金要求撤回を急報してきた。そして日本側随員たちの顔色の冴えないことから、記者たちも、この新事態の発生を感知していた。午後11時過ぎ退屈な観劇からウィッテ達は帰ってきた。記者団から事情を聞いたウィッテは、それでも「償金の要求撤回が絶対条件だ」と強調し、本国へは「日本側の新提案があれば、検討すべきだ」と打電した。

ウィッテは「日本側が樺太全島を還付し、それに対して減額した代償を求めるのではないか」と推測していた。日本は「無一文の平和」を求める筈はない、無償で戦争を終結するとは思えなかった。それでもその提案は拒否せずに、交渉すべきだとの意を含ませたかった。

8/29、この日の早朝日露代表団はそれぞれ本国から訓令電を受領した、と「日露戦争8」(児島襄)は述べ次のように続けている。

小村委員は、前日の割地要求放棄を訂正して「北緯50度以南」の樺太を要求せよ、との訓令を受けた。委員ウィッテ宛訓令は、・・・・・「日本全権委員の金銭要求の声言を俟(ま)つべし」それだけであり、日本側が新提案をした場合ついてはの委員ウィッテの進言については、何もふれていない。「無償、樺太南半部譲渡」という皇帝命令に変更はない、ということである。

(続く)
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