[閑話休題]
話を元に戻そう。ミア・ファローなどの「ジェノサイドオリンピック」論などの結果、欧米諸国でも、「北京オリンピックボイコットを働きかけて、ダルフールの虐殺を止めさせるべく、中国政府が動くべきだ。」と言う機運が盛り上がってきた。
問題は、中国の虐殺幇助はダルフールだけではないことである。南京大虐殺の虚構をプロパガンダする中国は、近隣諸国では、実際にチベットやウィグル、内モンゴルなどで民族を弾圧し、更には軍事侵攻し漢民族国家を樹立させ、土着民族を虐殺し大規模な民族浄化(エスニッククレンジング)を行っていることだ。
(4)チベットへの侵略
異民族の満州族の清王朝は辛亥革命により滅亡し、漢民族国家が形成されてゆく。
1911年の辛亥革命から1950年までは、チベットは完全な独立国であった。
1950年10月、中国共産軍は東チベットに軍事侵攻して、その独立を奪ったのである。
1949年10月、毛沢東はこれから中国を中華人民共和国と名乗る、と宣言する。
と同時に「チベットを帝国主義者から開放するために、人民解放軍を侵攻させる」と発表。
その言葉通り、
1950年3月、中国四川省より静かに侵攻を始めた。4月中頃までに3万人以上に達したと言われている。当初中国は友好的に振る舞い、道路や橋を建設していった。
そして
チベットの辺境地域を手なづけ、僧院を取り込み、情報を収集していった。
チベットは現代世界から隔絶した、昔風の穏やかな王国であった。
1950年6月、無線を傍受した中共軍はその無線基地を急襲し、東チベットの主要な町デンゴを占拠した。この時から中共軍の本格侵略が始まった。
1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を突破した。世界の目はこちらに釘付けとなった。そして中共軍は東チベットの町々を静かに占拠して言った。そして、
1950年10月、中共軍は4万人の軍隊をもって、東チベット全体に侵攻しその手に収めた。そして、軍と呼ぶにはふさわしくないチベット軍を武装解除し、その地方の長官が降伏調印書に署名する姿や、中共軍を歓迎する僧などのプロパガンダ映像をカメラに収めている。
1950年11月13日、チベット政府は誕生間もない国連に、緊急アピール文書を送る。
しかし肝心なイギリスとインドは、このアピールを棚上げにしてしまった。この成り行きは、中共にとって諸外国の反対にあわずにどこまでチベットに進入できるかを見定める一つの目安となった。そして中共は更に強引にことを進めることになる。
1951年5月23日、中京は北京において、中共チベット会議を開かせその場で、チベット代表達に「17箇条協定書」の署名を迫った。チベット代表達はダライ・ラマから派遣されてはいたが、全権を委任されたわけでもなく国璽も託されていなかった。
「17箇条協定書」の内容は、「チベットは中国人民解放軍を中央チベットに招きいれ、ラサで国防を固め、チベットは中国共産党の下に独立を享受する権利を有する。」と言うもので、チベットが中国の一部になると言う内容のものであった。
中共政府は、会議とは名ばかりで、脅迫に脅迫を重ね、協定書に署名と捺印を求めた。
中共側は、チベット代表団が国璽も持っていないことを知ると、直ちに偽の国璽と各自の判を作って署名させてしまった。
翌日、チベット代表団長は毛沢東の「全権を委任されているのか」との質問に、「委任されている」と答えざるを得なかった。更に3日後の5月26日、彼はラジオ北京を通してチベットは17箇条協定書に署名したと海外に宣言した。これによりチベットは中国の一部になることを公的に同意したと、世界に理解させることとなる。
これは中共側による脅迫とだましによる陥れである。
そして中共政府は、騙し、脅迫、特権階級などへの饗応などあらゆる手段を駆使して、僧院などの仏教勢力を取り込み、ダライ・ラマ14世にも「17箇条協定書」を半ば認めさせることに成功するのである。
以上は「中国はいかにチベットを侵略したか」(マイケル・ダナム著、講談社インターナショナル)を引用して紹介している。
(続く)
話を元に戻そう。ミア・ファローなどの「ジェノサイドオリンピック」論などの結果、欧米諸国でも、「北京オリンピックボイコットを働きかけて、ダルフールの虐殺を止めさせるべく、中国政府が動くべきだ。」と言う機運が盛り上がってきた。
問題は、中国の虐殺幇助はダルフールだけではないことである。南京大虐殺の虚構をプロパガンダする中国は、近隣諸国では、実際にチベットやウィグル、内モンゴルなどで民族を弾圧し、更には軍事侵攻し漢民族国家を樹立させ、土着民族を虐殺し大規模な民族浄化(エスニッククレンジング)を行っていることだ。
(4)チベットへの侵略
異民族の満州族の清王朝は辛亥革命により滅亡し、漢民族国家が形成されてゆく。
1911年の辛亥革命から1950年までは、チベットは完全な独立国であった。
1950年10月、中国共産軍は東チベットに軍事侵攻して、その独立を奪ったのである。
1949年10月、毛沢東はこれから中国を中華人民共和国と名乗る、と宣言する。
と同時に「チベットを帝国主義者から開放するために、人民解放軍を侵攻させる」と発表。
その言葉通り、
1950年3月、中国四川省より静かに侵攻を始めた。4月中頃までに3万人以上に達したと言われている。当初中国は友好的に振る舞い、道路や橋を建設していった。
そして
チベットの辺境地域を手なづけ、僧院を取り込み、情報を収集していった。
チベットは現代世界から隔絶した、昔風の穏やかな王国であった。
1950年6月、無線を傍受した中共軍はその無線基地を急襲し、東チベットの主要な町デンゴを占拠した。この時から中共軍の本格侵略が始まった。
1950年6月25日、北朝鮮軍が38度線を突破した。世界の目はこちらに釘付けとなった。そして中共軍は東チベットの町々を静かに占拠して言った。そして、
1950年10月、中共軍は4万人の軍隊をもって、東チベット全体に侵攻しその手に収めた。そして、軍と呼ぶにはふさわしくないチベット軍を武装解除し、その地方の長官が降伏調印書に署名する姿や、中共軍を歓迎する僧などのプロパガンダ映像をカメラに収めている。
1950年11月13日、チベット政府は誕生間もない国連に、緊急アピール文書を送る。
しかし肝心なイギリスとインドは、このアピールを棚上げにしてしまった。この成り行きは、中共にとって諸外国の反対にあわずにどこまでチベットに進入できるかを見定める一つの目安となった。そして中共は更に強引にことを進めることになる。
1951年5月23日、中京は北京において、中共チベット会議を開かせその場で、チベット代表達に「17箇条協定書」の署名を迫った。チベット代表達はダライ・ラマから派遣されてはいたが、全権を委任されたわけでもなく国璽も託されていなかった。
「17箇条協定書」の内容は、「チベットは中国人民解放軍を中央チベットに招きいれ、ラサで国防を固め、チベットは中国共産党の下に独立を享受する権利を有する。」と言うもので、チベットが中国の一部になると言う内容のものであった。
中共政府は、会議とは名ばかりで、脅迫に脅迫を重ね、協定書に署名と捺印を求めた。
中共側は、チベット代表団が国璽も持っていないことを知ると、直ちに偽の国璽と各自の判を作って署名させてしまった。
翌日、チベット代表団長は毛沢東の「全権を委任されているのか」との質問に、「委任されている」と答えざるを得なかった。更に3日後の5月26日、彼はラジオ北京を通してチベットは17箇条協定書に署名したと海外に宣言した。これによりチベットは中国の一部になることを公的に同意したと、世界に理解させることとなる。
これは中共側による脅迫とだましによる陥れである。
そして中共政府は、騙し、脅迫、特権階級などへの饗応などあらゆる手段を駆使して、僧院などの仏教勢力を取り込み、ダライ・ラマ14世にも「17箇条協定書」を半ば認めさせることに成功するのである。
以上は「中国はいかにチベットを侵略したか」(マイケル・ダナム著、講談社インターナショナル)を引用して紹介している。
(続く)