世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(19)

2024-05-14 00:00:00 | Weblog

(15) 間違いの15、なぜ旅順要塞を攻撃しなければならなかったのか。 

   それは日本海軍が旅順艦隊を旅順港に取り逃がしてしまったからであ 

   る。黄海海戦で旅順湾口で待ち伏せを怠ったからである。p185~186 

 

   1904年8月10日、黄海海戦が始まる。旅順港からロシア艦隊はウラジ 

   オストクへ遁走を図ったのである。戦艦六隻・巡洋艦五隻など総勢 

   二十隻である。二時間半ほどの海戦で日本海軍は勝利するも戦艦四隻、 

   巡洋艦一隻が旅順港へ逃げ帰ってしまった。 

 

   連合艦隊作戦参謀の秋山真之が、高速の日本戦艦を旅順湾に先回らせて 

   旅順湾口で撃沈させるという「追撃戦」を怠ってしまったからである。 

   秋山真之が「艦隊決戦」という華やかな海戦に酔いしれてしまい 

   追撃戦に思いが至らなかったのである。 

  

   「それによって旅順要塞に対する陸軍の肉弾攻撃が必要になり、乃木 

   第三軍は五万九千人余の死傷者を出す。 

   しかも秋山は乃木第三軍に対し、 

   「旅順攻略に四、五万の勇士を損ずるも、さほど大いなる犠牲に非ず。 

   国家存亡に関すればなり。眼前(の日本将兵の)死傷の惨状は眼中に置 

   かず、(乃木第三軍は)全軍必死の覚悟をもって、この目的達成に勉る 

   ほか、他に策あるべきはずなし。」(『乃木第三軍岩村団次郎中佐宛て 

   明治三十七年十一月三十日付書簡』) 

   と要求した。鉄壁に卵をぶつけるような肉弾攻撃を強いられた乃木軍司 

   令部の憤怒はここにある。 

   乃木軍からすれば、 

   「どの口でいうか」 

   である。 

   この不満が、その後の陸海軍に暗い影を落とす。 

   とロシア破れたり」のP186には書かれている。これが「二・二六事 

   件」の底流にあったのであり、海軍の都合を優先して陸軍に多大な人的 

   犠牲を強いた秋山真之を私は、名将とも名参謀とも評することは出来な 

   いとも記されている。 

 

   秋山真之の海軍が確実に追撃戦を行っておれば、乃木第三軍は旅順での 

   過酷な要塞戦をしなくても済んだものであった。 

   誠に残念なことである。亡なられた勇士たちのご冥福をお祈り申し上 

   げます。 

(続く)

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