世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

『歴史人・邪馬台国論争』の大間違い(7)

2023-10-10 00:00:00 | Weblog

伊都国は邪馬台国の政治の中心地だったのである。そのため、「大率」が伊都国にいたのである。そして文書や賜りものなどをしっかりとチェックしたのである。これが「皆津に臨みて捜露(そうろ)し、文書を伝送して賜遺の物を女王に詣るに、差錯(ささく)するを得ざらしむ。」なのである。 

 

(9)この「皆津に臨みて」の津が不弥国である。 

不弥(ふみ)=うみ(海)=津、と言うことである。 

伊都国は福岡県糸島市の平原遺跡の周辺に存在し、奴国は須玖岡本遺跡辺りの春日市近辺であったと考えられるが、これでは離れすぎている(約20km)。 

もっと近場の海に近い所に不弥国はあったはずである。十里(4.34km)程度とすると、平原遺跡のすく近くに筑肥線の周船寺駅がある。ここは大和朝廷の主船司(しゅせんし)、今の海上保安庁の出先があったところであり、昔はすぐ近くが海であった所である。 

 

嘗ては糸島半島の付け根には「糸島水道」という水路が走っていたのであり、帯方郡の使いは、末羅国(唐津市辺り)から船で糸島水道を通過して不弥国の津に着き、そこで上陸して陸路で伊都国まで到ったのではないのかな。 

 

       糸島半島

      古代糸島水道 → 博多湾

  魏使----→→主船司(不弥国
              ←//
     平原(伊都国)  陸行
  
             高祖山(宮殿所在地、奴国) 

 

といった塩梅ではなかったのかな。 

 

以上が「歴史人、NO.154」の邪馬台国と卑弥呼に関する記述の「補完すべき点」の説明である。 

以下それらを一覧にまとめておく。 

 

「補完すべき点」 

 

(1) 女王国は倭国の最南端に位置している。 

(2)奴国は倭国の極南界に位置している。奴国=女王国(女王の居る所) 

(3)帯方郡より女王国までは、万二千里である。 

(4)対馬と壱岐の島の周囲を巡り距離を加えると、奴国までは丁度12,000里 

   となる。 

(5)水行十日、陸行一月は、共に12,000里となり、郡より女王国までの距離 

   を示している。それほどの距離である、と言うこと。単なる説明書き。 

(6)女王卑弥呼は倭国連合の女王となり、奴国に居城していた。 

(7)女王国=奴国≠邪馬台国=三十カ国=女王の都する所となる。 

(8)方角、距離、国名という順序と方角、国名距離という違う順序では意 

   味が異なる。伊都国からは放射状に辿るべきである。 

(9)不弥(ふみ)=うみ(海)=津と言うことである。糸島半島は当時は 

   島であり、半島の付け根には糸島水道があり、魏使は末羅国(唐津)か 

   ら糸島水道を通り、不弥国の津(港)に入り、陸路で伊都国へ向かった 

   筈である。 

 

まあこの程度は誰でも知っていることなので、ABCアークも「邪馬台国」と「卑弥呼」を扱うのであれば、この程度の解説はしておくべきであり、はっきりと邪馬台国と大和朝廷とは関係がない、と解説しておくべきなのである。 

 

P29などでは、邪馬台国がヤマト政権に、あたかも連なるのではないか、と思わせる書きっぷりであるが、これは大いなる間違い。邪馬台国や卑弥呼は大和政権とは何の関係もない。 

 

しからば大和朝廷の成り立ちにもっと筆を割くべきであろう。邪馬台国はあくまでも北部九州の一地方の言うなれば小さな連合国家であったわけなので、本筋論として、日本国の成り立ちである大和朝廷の成立にも「歴史人」は筆を割くべきである。 

 

念の為にここで、小生の指摘する「歴史人、NO.154」の間違いをまとめておくことにする。 

 

P22、107年の奴隷献上を107人としているが、これは160人が正しい。 

P23、「魏使倭人伝」の内容を精査していない。距離又は方角が正しくな 

    いと判断しているような記述に終始している。 

P25、箸墓古墳を、あたかも卑弥呼の墓であると表現している。箸墓古墳 

    は初期前方後円墳であり、卑弥呼の墓は大きな冢(土盛り、塚)で 

    あり、まったく異なる。 

P27、糸島市の「平原遺跡」を「平所遺跡」と間違って記載している。 

    平所遺跡は島根県松江市にある古墳である。 

P28,P37、「三角縁神獣鏡」は国産の鏡ではないかと言っているが、肝心な 

    材質への言及がない。 

P39、「箸墓古墳」の近くにある「矢塚古墳」を「八塚古墳」と間違って 

    表現している。 

P23、帯方郡から邪馬台国への行程の分析がなされていない。「郡より女王 

    国に至ること万二千余里」を分析していないのは致命的欠陥 

P29、邪馬台国がヤマト政権に、あたかも連なるのではないか、と思わせる 

    書きっぷりであるが、これは大いなる間違い。何の関係もない。 

 

と言ったところであるが、詳しくは小生のブログ「邪馬台国とは何ぞや?」(2028.08.08~)を参照願う。そこでは「魏志倭人伝」とともに、より詳しくこれらの関することが記載されている。 

 

また小生ののブログ「纏向遺跡と邪馬台国(日本古代史謎」(2022.07.04~) も参照願いたい。 

(終わり)

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『歴史人・邪馬台国論争』の大間違い(6)

2023-10-09 00:00:00 | Weblog

(1)次の文によれば、女王国は最も南に位置している。 

女王国より以北、その戸数、道里は得て略載すべきも、・・・・・」 

女王国より以北には、特に一大率(すい)を置き、諸国を検察せしむ。・」 

奴国(と不弥国)までは戸数・道里が判明している。 

 

(2)後漢書によれば、奴国は倭国の中で最も南に位置している国である。 

建武中元二年 倭奴國奉貢朝賀 使人自稱大夫 倭國之極南界也 光武賜以印綬 

『後漢書』「卷八五 列傳卷七五 東夷傳」 倭国の極南の界なり 

しからば奴国が女王の都する所・邪馬台国なのか。 

 

(3)帯方郡より女王国(邪馬台国)までは12,000里である。 

郡より女王国に至ること万二千余里。、先の解析により直線的にたどっても、邪馬台国まで12,000里とはならない。奴国までは10,600里となり合わない。 

 

(4)対海国(対馬)、一大国(壱岐)の島の周囲を巡る必要がある 

--→↓    

 ↓ これが方四百里、方三百里なのであり、島の2辺の距離を移動 

     する必要がある。

400×2=800、300×2=600、800+600=1,400里を追加する必要がある。すると 

帯方郡→奴国まで10,600里に島の周囲の距離1,400里を足すと、12,000里となり、女王国にたどり着くことが出来る。奴国に女王は都していたのである。不弥国の謎は後で述べる。 

 

(5)水行十日、陸行一月の意味は? 

水行一日は120里、陸行一日は40里なので、 

水行10日×120里=1,200里、陸行30日×40里=1,200里 

露布の原理」で10倍に誇大化して、夫々12,000里と表現したものである。 

だから、 

水行では十日程(12,000里)、陸行では一月ほど(12,000里)の距離に、邪馬台国はある、といった意味となる。単なる説明文なので、行程に含めて計算すべきではないものである。 

これが郡より女王国に至ること万二千余里。邪馬台国に至る。」で「女王の都する所」奴国まで万二千余里なのである 

 

(6)その國、本また男子を以て王と為す。住(とど)まること七、八十年、倭國乱れ、相攻伐(こうばつ)すること歴年、乃ち共に一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、能く衆を惑わす。 

と言うことは、卑弥呼は連合国家の女王となったものであり、邪馬台国=奴国=連合国家 に都していたのである。便宜的に邪馬台国=奴国としているが、邪馬台国は連合国家だったのである。しかも30カ国ほどの。厳密には、奴国=邪馬台国ではない、邪馬台国は倭国30カ国ほどの連合国家の総称である。 

 

(7)魏志倭人伝では7カ国の他に、20カ国の名前を羅列している。 

今、使訳通ずる所三十国。と魏志倭人伝の冒頭にある様に、邪馬台国=倭国連合は、30カ国ほどの連合国家であった。七万余戸ばかり有り。 

7カ国とは狗邪韓国から不弥国までの7カ国を言う。 

女王国=奴国≠邪馬台国=三十カ国=女王の都する所、となるのである。 

邪馬台国というのは一個の国ではなくて、三十カ国ほどの連合国家の総称であると考えるべきである。 

 

(8)方角、距離、国名方角、国名距離の書き順の違い 

魏使倭人伝を簡単に羅列するとこのようになる。 

 

1. 南、東、その北岸・狗邪韓國到る、七千余里
2. 始めて一海、千余里、 対馬(海)國至る
3. 又南一海、千余里、一大國至る
4. 又一海、千余里、末盧國至る
5. 東南陸行、五百里、伊都國到る
6. 東南、奴國至る百里
7. 東行、不彌國至る百里
8. 南、投馬國至る水行二十日
9. 南、邪馬台國至る、女王の都する所、
水行十日、陸行一月 

 

伊都国までは、方角、距離、国名という順序だが 

 奴国からは、方角、国名、距離という違う順序になっているので、何らかの意味があると考える必要がある。 

 

結論から言ってしまえば、伊都国から放射状にたどるべきである。 

(投馬国・邪馬台国は日数表示なので、考慮外) 

 

伊都国→東行→不弥国に至る、百里 

  \東南  

    \奴国 至る、百里 

 

しかも伊都国は「郡使往来して常に駐まる所なり。」なので、帯方郡の使いの目的地なのである。だから着する所であり至るは使われていない。至るは通過するを意味するからである。 

(続く)

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『歴史人・邪馬台国論争』の大間違い(5)

2023-10-06 00:00:00 | Weblog

さてそろそろ「魏志倭人伝」の記述に従って、帯方郡から「邪馬台国」までの行程を明らかにすることにする。 

 

として、この「歴史人、NO.154」では「帯方郡から「邪馬台国」までの行程」が分析されていない。 これは致命的な欠陥である。 

 

これはすでに小生のブログ「邪馬台国とはなんぞや?」(2018.08.08~)で明らかにしているのでご承知のことと思うが、ここではそれを簡単に解説してみよう。 

 

先ず「魏使倭人伝」に沿って帯方郡から邪馬台国までの行程をたどってみることにする。 

次の様な行程となる。 

 

 

     帯方郡
 水行南  |  水行東
 4000里  | 3000里
       |__ 狗邪韓国に到る
           |   
     始めて一海 |1000余里
           |
          対海国に至る (卑狗・卑奴母離、方四百余里、千余戸)
           |     方四百里ばかり
       又南一海|1000余里 , 瀚海
           一大国に至る (卑狗・卑奴母離、 方三百里、三千家 )
            |     方三百里ばかり
        又一海 |1000余里 
           末盧国に至る ( 四千余戸、 →官の記載なし )
             \
         東南陸行 \ 500里
              伊都国に到る (爾支・泄謨觚、 千余戸 )
                 \ 
                東南\       東行   
        奴国に至る100里( 二万余戸 )--不弥国に至る100里( 千余家 )
              (兕馬觚・卑奴母離)    |(多模・卑奴母離)                                              
                        南のかた |( 五万余戸 )
                          投馬国に至る 水行二十日
                              |(彌彌・彌彌那利) 

                               ( 七万余戸 )
                              |                                                 郡より女王国に至ること万二千余里。  邪馬台国に至る  水行十日、陸行一月
              女王の都するところ(伊支馬・彌馬升・彌馬獲支・奴佳鞮)
                      その南、狗奴国有り(狗古智卑狗)

                                        

と言ったところが、先に示した魏志倭人伝の帯方郡から邪馬台国に到る行程地理となろう。すると不弥国から邪馬台国までは、水行三十日と陸行一月(三十日)と言う行程となる。孫栄健氏の邪馬台国の全解決(以後゛同書゛と表現する。) 163頁によれば、水行一日は120里・歩行の三倍、陸行一日は40里だとしているので、

不弥国から邪馬台国までは、水行(20+10)日×120里=3600里となり、これにさらに陸行一月(30)日×40里=1200里を加えれば、4800里となる。

これに帯方郡から不弥国までの行程、10,700里を加えると(4800+10700=)15,500里となり倭人伝の言う「郡より女王国へ至ること万二千余里。」の12,000里とは全く異なってしまう。
従って 

この不弥国から邪馬台国までを直線的に計算することは、間違いとなる。

明らかに倭人伝は、(郡より女王国に至ること万二千余里。)と言っているので、何かが間違っているのである。 

さてこれより一寸した推理をしてゆくことになる。以下断りが無ければ「」内は魏志倭人伝に書かれている文である。 

(続く)

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『歴史人・邪馬台国論争』の大間違い(4)

2023-10-05 00:00:00 | Weblog

すべての鉱物中にはウラン(U)トリウム(Th)が含まれており、時の経過とともにそれらは放射壊変により鉛の同位体へと変化してゆく。この鉛の同位体の比率は地域によって異なる値を示すもので、夫々の産地の固有値となるものである。これらの値を次の様に四軸のレーダーチャートに展開すると次の様なチャートが出来上がる。 

 

 

 

イメージ的に示すとこんな図となるが、これを見ると「三角縁神獣鏡」は明らかに前漢鏡漢鏡と異なっていることがわかる。 

 

従って三角縁神獣鏡は中国で製作されたものではないことがわかる。この値を示す鉱物は神岡鉱山でとれたものだけがこのひし形の値を示すという。 

 

三角縁神獣鏡は、まさしく倭国製の銅鏡なのである。しかもこの鏡は四世紀の古墳からしか出土していないので、まさしく倭国製の鏡なのである。 

 

「歴史人、NO154」のP37には、「三角縁神獣鏡」は「国産と考えられる理由」として三つ上げているが、この材質への言及がないことには、がっかりせざるを得ないものがある。 

 

そして卑弥呼の鏡とは九州北部で出土する「内行花文鏡・方格規矩鏡」などの漢鏡である。 

 

このような大事なこともこの「歴史人」には説明されていない。 

 

 

次の間違いは、P39の「箸墓古墳と周辺の遺跡」の図の中にある。 

 

この図の中で、「箸墓古墳」のふたつ上に八塚古墳」と書かれた古墳があるが、この「八塚古墳」は「矢塚古墳」の間違いである。 

 

P41の上空から撮った写真の説明には、正しく「矢塚古墳」と書かれているし、P95の「纏向遺跡周辺図」でも正しく矢塚古墳と書かれている。 

 

この「歴史人」を出版したABCアークが作成した挿絵だけが間違っているようで、他の資料から拝借して作成したものは正しく「矢塚古墳」となっているようだ。 

 

この間違いは、一年前の「歴史人、NO.136」のP63の「箸墓古墳周辺の遺跡」図と同じもので、「八塚古墳」と間違って表記されている。結局何の注意も払わずに、間違っている資料を無造作に再使用している、と言うこと。 

 

これでは「ABCアーク」が廃れると言うことになってしまう。まともな出版社だとは到底言えるものではない。 

 

まあ今回の「歴史人、NO154」は、安直に造った「焼き直し版」で金をかけずに儲かれば良いと言った編集方針のもとに作られたもの、と見做されても致し方なかろう。これではそのうちに本当に潰れてしまうよ。 

 

この雑誌が990円もするとは驚愕ものである。ちなみに一年前の「歴史人、NO.136」は、930円である。段々と質が落ちているのに、値上がりしているということは、消費者を馬鹿にしていると判断されても致し方ないものであろう。 

 

 

一年前の「歴史人、NO.136」の「八塚古墳」と間違って表記されている件は、小生のブログ「纏向遺跡と邪馬台国(古代日本の謎)NO.12」(2022.7.19)で詳しく説明しているので、参照願いたい。 

(続く)

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『歴史人・邪馬台国論争』の大間違い(3)

2023-10-04 00:00:00 | Weblog

この項の著者(監修・文)は駒澤大学の歴史学科の教授である瀧音能之氏だと記載されているが、きっと部下の学生などが担当したものであろう。それにしてもチェックも甘すぎると言うものであり、160人を107人と書き間違えたり平原遺跡を平所遺跡と間違えるなど、どんな監修を行っているのか、こんな間違いを見逃すとは出版停止ものである。 

 

以下のことは歴史人には書かれてはいないが、この平原遺跡の副葬品には武器などは殆ど見つからず(三種の神器と同じ、鏡・玉・剣は副葬されている)、その代わりにネックレスやイヤリング、ピアスなどと言ったアクセサリーが多いという、葬られている人物は確実に女性ではないかと考えられているのである。こんな大事なことも書かれていない、と言うことは、まことにいい加減な仕事しかしていない、と断定されても仕方がないものである。教授の瀧音能之氏の名前も廃れるというものではないのかな。 

 

だから、卑弥呼はこの平原遺跡に葬られていると考えて、間違いはないであろう。 

 

粗探しだけだと申し訳ないので、序ながら、以上の要点をまとめてみると、 

 

1. 卑弥呼の墓は15m前後の長さの塚で、(前方後円)墳ではない。 

2. 殉葬者がある。平原遺跡主噴には16人の殉葬者が葬られている。 

3. 平原遺跡主噴は、実際には、17m×12mの方形周溝墓である。 

4. 副葬品には武器は殆どなく、ネックレスやイヤリング、ピアスなどと言っ
  たアクセサリーが多い。 

5. しかも(この「歴史人」には書かれてはいないが)この主墳からは40面の破砕された銅鏡が発見されており、そのうち五面は直径46.5cmの大型内行花文鏡である。いわゆる「八咫鏡」と同類のものであろう。これら40面の鏡は内行花文鏡方格規矩鏡などの漢鏡である。これらが下賜された百枚の銅鏡の一部なのでであろう。 

6. 平原遺跡は、実際には、合計五つの墳墓からなっており、1号墳(主噴)以外からは青銅器類は発見されていない。  

 

だから卑弥呼の墓は、この平原遺跡の1号墳である、と言えるのである。 

だから邪馬台国北九州のこの近くに存在していた国なのである。 

 

 

 

さて「歴史人、NO.154」のP27の末尾P29にもには、以下のようなことも記載されている。 

 

しかし、邪馬台国を北部九州に設定するとヤマト政権の関係をどのように捉えるかという問題も残されている。 

 

だがどこにも邪馬台国とヤマト政権が関係しているなんぞと言うことは、記録されていないのであり、あくまでも邪馬台国は北部九州の30カ国の連合であり、畿内の大和政権とは関係ないものである、と考えた方がよかろう。 

 

当時畿内大和には、すでにかなりの勢力の国家が存在していたものとみて、間違いないものでしょう。なんと言っても、全長280mもの前方後円墳を作り上げることのできる力があった訳であるから。P30には「何よりも『古事記』や『日本書紀』といった日本側の基本資料に、卑弥呼に関する既述が残っていないということである。」と書いてある通り、卑弥呼は九州の北部地方の一首長に過ぎなかったわけである。だから邪馬台国が畿内にあったとか、東遷したとかいう話は全くの虚偽、作り話と断定できるのである。P31の『卑弥呼はいったい誰なのか?』の言う記述も、「戯言(ザレゴト)」の類となってしまう。 

 

さて「歴史人、NO154」の次の問題点は、P28の魏から授けられた銅鏡百枚についてである。次の様に書かれている。 

 

この時下賜された銅鏡をめぐって、三角縁神獣鏡との関係が取りざたされてきた。 

 

この三角縁神獣鏡の出土数が500~600枚になっている(560枚ほど)ので、さすがに卑弥呼の鏡だとは断定していないが、魏鏡説と倭国製とを対比させた訳の分からない論点を並べている。これは無駄な作業である。 

 

三角縁神獣鏡は、その材質から、神岡鉱山からとれた鉱物と同じ材質でつくられている倭国製の鏡であり、魏から下賜されたものではない。 

(続く)

 

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『歴史人・邪馬台国論争』の大間違い(2)

2023-10-03 00:00:00 | Weblog

そしてP25には、末尾で、卑弥呼の墓かともいわれる箸墓古墳」との表現があり、あたかも最古の前方後円墳である箸墓古墳が卑弥呼の墓であるかのような書きっぷりであり、しかも確信がないが卑弥呼の墓であると断定的に言っている様な感じもするものであるが、「魏志倭人伝」を読めば卑弥呼の墓は円形状であり、前方後円墳ではないことがわかる筈である。 

 

卑弥呼以て死す。大いに冢(チョウ)を作る。径百余歩、殉葬する者、奴婢百余人 

 

とある様に、冢とは小さな土盛りのことで、卑弥呼は女王であったのであるから一般の冢よりも大きな土盛りで、その径百余歩とある様に円形状である。しかも径百余歩とはバカでかい。 

 

Wikipediaによれば、魏代では一歩が約1.44mだと言われているので百歩で144m、百余歩ではおおよそ150m~160m前後の直径であろう。このバカでかい土盛りであるが、「径百余歩、殉葬する者、奴婢百余人」も「露布の原理」により十倍に誇大表示されたものであり、実際には「径十余歩、殉葬する者、奴婢十余人」となり、冢の直径は「15m前後」で殉葬された奴婢の人数も「15人前後」となり、常識的な数字となるものである。 

 

露布とは戦時広報の事であり、当時は一般向けには戦果を十倍に拡大させて発表していた慣例があり、晋王朝の祖である司馬懿が関係している露布の内容を三国志の編者である陳寿は迂闊に修正できなかったものと思われる。 

魏志倭人伝は「露布の原理」によって誇張されていたということである。 

 

事ほど左様に、この「歴史人」の書き方は、「魏使倭人伝」の分析・解釈がなされていないものである。 

 

ちなみにP25やP29で言及している「箸墓古墳」は初期の前方後円墳で、 

全長約280m、円墳の直径は約160m、高さは約30mである。決して卑弥呼と関係のある古墳ではない。 

 

卑弥呼の墓はあくまでも冢・チョウ(塚・土盛り)であり(古)墳ではない。 

 

そのような冢・チョウ(塚・土盛り)は、すでに見つかっている。 

 

それは糸島市前原町にある「平原遺跡」である。平原遺跡は糸島市前原町にある東西二つの遺跡により構成されているものである。主噴は西のもので、東西17m、南北12mで、幅2~3mの溝が周囲を巡っている。実際には「方形周溝墓」と言われる形態の墓である。 

 

ちなみに殉葬者のある墓は、この平原遺跡しか見つかっていないし、殉葬者とみられる寝た状態の遺骨が16人分発見されているので、「魏志倭人伝」の「殉葬する者、奴婢百余人」の十分の一の十数人と一致しているのである。 

 

しかしながら「歴史人」P27では、この平原遺跡のことを次の様に書いている。 

 

糸島市の平所遺跡は墳を中心とした遺跡跡として知られており、1号墳を卑弥呼の墓とみる説もある。 

 

平原遺跡」を「平所遺跡」と間違って記載しているのである。しかもご丁寧に「ひらどころ」と仮名までふってあるのである。 

 

平原平所では、大いに異なっているのである。ここで、小生は始めて平所遺跡なる言葉にお目にかかったものであり、この項の著者はよく平所遺跡の名前を知っていたものだと感心する次第である。 

 

調べてみると、平所遺跡とは島根県松江市の矢田町にある弥生時代終末期から古墳時代にかけての遺跡である。この遺跡は埴輪窯跡から出土した各種埴輪が有名であり、古墳時代の埴輪生産の様相を良く知ることが出来る学術的な価値が高い遺跡として有名である、と言うことだ。 

 

福岡県糸島市前原町平原遺跡を、島根県の松江市矢田町平所遺跡と間違えて記載するなんぞと言う「とんでも間違い」はこの世にあり得ないものであろうと思えるのである。 

(続く)

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『歴史人・邪馬台国論争』の大間違い(1)

2023-10-02 00:00:00 | Weblog

これは雑誌・『歴史人』のNO.154(2023年10月号、ABCアーク発行)に掲載されている次の論考 

 

邪馬台国論争の現在地」Page20 

卑弥呼の真説」Page30 

 

で記載されている中にみられる「間違い点」を、以下説明してゆきい。 

 

なおこのテーマは、小生のブログ「邪馬台国とは何ぞや?」(2018.08.08~)を底本としているので、ご参考までに。 

 

そこでは2018.08.09~10の二日間で「魏志倭人伝」本文も載せているので、ご参照願う。 

 

 

先ず表紙の右下に記載されている 

邪馬台国の畿内説と九州説がついに決着!?」と言う表題の説明書きの中に、「畿内説が優勢である。」との文があるが、これこそ単なる「煽り文」であり、なんの証拠もないものであり、現実には何の決着もしていない。というよりも邪馬台国は北部九州に存在していた、というのが正解であることが判明している、と言った方が(追々説明するが)よかろう。 

 

同じ趣旨のものが、P21に末尾に大きく「近年では畿内の発見が相次ぎ、畿内説が優勢である」と書かれている。これこそも「まがいもの」以外の何ものでもない。 

 

もう一つ、表紙の左部分に記載されている「卑弥呼の正体が判明?・・・倭迹迹日百襲姫命であった可能性が高い」も、大いなる間違いである。 

 

邪馬台国の所在地は興味や趣味の範疇で論ずるものでなく、優勝劣敗で論ずるべきではない。客観的に証拠立てて、所在地は論せられるべきものではないのか。 

 

P22の冒頭では「所在地論争の元凶!? 曖昧な記述も多い1級資料を読み解く」と書いてあり、しかも次では魏志倭人伝の「表現が曖昧で位置論争の原因」と書かれているので、魏志倭人伝の正確な解説にトライしているのかと思いきや、ただ単にそのうわっ面をなぞっているだけであった。読み解くなんぞは真っ赤な嘘。 

 

以下既述の間違いを羅列してゆく。 

 

さてその証拠に同P22の本文中ごろにさらに、107年には倭国王師升らが奴隷107人を安帝に献上したことも記されている。」が、これこそがその間違いの証拠である。 

107年に107人の奴隷何の疑問もなく繰り返しているが、いい加減に文章を書いているとしか思えないのである。 

 

その頁の上部には、「107年には倭国王の師升が生口160人を献じ、請見を願った後漢書東夷伝と書かれているが、こちらの方が正しいようだが、160人を107人と間違えるとはなんといい加減なことか。 

 

更には、P22の挿絵地図の「『魏志』倭人伝に記された邪馬台国までの行程」では、九州説と畿内説を説明しているが、胡散臭い説明に終始しているだけである。 

 

この疑問を解くために、P23で、 

・倭人伝の距離の記載が誤りであるとして、邪馬台国は九州にあるとし、 

一方では 

方角の記述が間違っているとして、邪馬台国は畿内にあることになる。 

 

との説明をしており、「魏志倭人伝」の内容の精査には取り組んでいない。 

 

「魏志倭人伝」は、中国の晋王朝公認の歴史書である「魏・呉・蜀」の三国の国史65巻の中の「魏国史」の中の東夷伝の「倭人の条」が該当しているもので、距離とか方角とかが間違っているなどと迂闊にも言えるものではない。それなりに精査された歴史書であるからして、距離も方角も正しいとして「魏志倭人伝」を読む必要があるのであり、その点、この『歴史人』の記載はまことにいい加減なものである。 

 

邪馬台国の所在地は「魏使倭人伝」に従って別途解説するが、今のところ北部九州の福岡平野の春日市当たりとしておこう。そこは「奴国」の中心地でもある。 

(続く)

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