世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日韓併合100年(83)

2011-05-31 10:17:09 | Weblog

この間ロシア側でも大いなる間違いが発生していた。沈旦堡と間違えてその北に位置する小樹子を攻撃し占領し、沈旦堡攻略をグリッペンベルクに報告しこれを喜んだグリッペンベルクはクロパトキンに電話で報告している。しかしそれが間違いだと判ってからはロシア軍の士気は低下した。しかし黒溝台前面(東南)から沈旦堡にかけては、激戦が続いていた。

そして1/28朝にはロシア軍も疲労が目立ち始めていた。そして日本軍も援軍が戦線を構築し始めていた。日本軍は「明29日」を期してロシア軍を撃破すべく計画されていた。しかしクロパトキンは、日本軍第2軍からの支援砲撃の報告を受け、日本軍中央部隊の第2軍、第4軍の中央攻撃ではないかと憶測をした。もともとグリッペンベルクの第2軍の攻撃には、消極的だった上にこの中央突破の不安に駆られ、1905/1/28の午後4時ごろグリッペンベルクの第2軍に対して攻撃中止と退却を訓電した、と「日露戦争 5」(児島襄のぼる)は述べている。この結果として、黒溝台は第八師団の夜襲により取り戻すことが出来たが、ロシア軍が自ら手放しただけであった。

ここに辺の事情を、司馬遼太郎の「坂の上の雲4」では次のように述べている。

「なるほど大山・児玉は、中央に兵力をほとんど左翼の火事場に移したため、それを敵に気づかれぬように偽装攻撃をわずかながらクロパトキンの中央に対してかけた。この陽動作戦(ともいえぬほどの微弱な攻撃)にクロパトキンの過敏な神経は見事に反応したのである。だから、”ひきあげて来い”と、第2軍10万を率いるグリッペンベルクに命じだのだが、しかし素人が総司令官であってもクロパトキンのような命令は出さないであろう。日本軍がロシア軍中央に攻撃をしかけてくれば、逆にそれに対して攻撃をかければ、紙を突きやぶるような容易さで日本軍の中央を潰乱カイランさせることができたのである。となれば、日本軍は自分の左翼へ駆けつけさせた数個師団を呼びもとさねばならず、それによって左翼の秋山支隊は全滅し、グリッペンベルクは一瀉千里の勢いで日本軍の本営を衝けるところであった。」

この黒溝台会戦は、日本軍53,800人(死傷9,324人)、ロシア軍105,100人(死傷11,743人)と、上記「日露戦争 5」(児島襄のぼる)には記載されているが、火砲などはロシア側が3倍近い兵力を要していたようで、まともに戦えば日本軍に勝ち目はなかった。だからこの危機は日本軍将兵の奮戦とクロパトキンとグリッペンベルクの仲違いによって辛うじて救われたものであり、グリッペンベルクはこの後1/31病気と皇帝に申請して、2/4に帰国してしまった、と「日露戦争 5」(児島襄のぼる)は述べている。

クロパトキンには、日本軍をハルビンまで引っ張り込んで壊滅させると言う案を持ち続けていたために、この退却命令に対しては、それほど残念とも思っていなかった。日本軍もそのことは十分に弁(わきま)えていた。満州軍総司令部の児玉源太郎はハルビンまで引っ張り込まれる前に、次の戦いの奉天(今の藩陽)で決定的に叩いておくことは必須であると認識していた。すでにその作戦計画は彼の手元において成案になっていた、と「坂の上の雲4」は結んでいる。

このように黒溝台会戦は、1905/1/25に始まり、1905/1/29に形の上では終了している。この頃ロシアの首都サンクトペテルスブルグでも、多くの市民がロシア軍によって殺されている。

いわゆる1905年1月22日の「血の日曜日事件」である。(ロシア暦1/9)

事の起こりは、プチロフ機械金属工場の労働者4人の解雇問題に対する抗議行動であった。

当時ロシアでも産業革命が進行し、多くの工場が作られていた。そしてペテルブルグの(日露戦争5児島襄によると)第2青十字孤児院教会兼オリガ救貧院聖書教師として、1900年に司祭ガボンが採用されている。そしてガボンは、ロシア当局の資金援助を得て、労働者サークル結成に乗り出す。これは労働組合ではなく、いわゆる「文化サークル」であった。そのため当局にとっても、好ましいものであったが、それゆえに組織は一万人規模と大きくなって「ガボン組合」と呼ばれるようになる。

(続く)
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日韓併合100年(82)

2011-05-30 13:11:10 | Weblog

日本軍の布陣は、西(左翼)から秋山支隊、第2軍、第4軍、そして最右翼には沙河会戦で名を馳せた梅沢旅団の所属する第1軍が布陣していた。これに対するロシア軍は、西から第2軍、第3軍、第1軍が対峙している。秋山支隊はロシア軍の第2軍と対峙することになる。この第2軍の司令官が、グリッペンベルグ大将であった。秋山支隊は40kmの範囲をわずか8,000人で守っていたのだ。しかしそのため拠点防御方式と言う騎兵にあらざる防御布陣を強いていた。即ち軍馬共々塹壕に隠れ、夫々機関銃で防御すると言う野戦陣地を構築していた。結局はこの機関銃と秋山好古の一歩も引かぬと言う自身の置かれた立場を理解した奮戦が、この会戦を救うことになる。野戦陣地は、黒溝台に種田支隊、沈旦堡に豊辺支隊、韓三屯には三岳支隊、そして李大人屯には秋山好古であった。好古は己の騎兵偵察の情報から、満州軍総司令部に対して、「ロシア軍の大作戦の兆候」を幾度となく発信していた。またその鉄道補給の増大の様子も、イギリスなどから知らされていた。しかし満州軍総司令部はこれらの情報を無視した。ロシアの戦法は陣地を構築しつつ攻めるのが常道であり、この冬季の凍結した大地に陣地は構築できないから、攻めては来ないであろう、という安直な推測であった。しかも満州軍総司令部の総参謀長児玉源太郎も、第2回の旅順行き(1904/12/1旅順着)の後、頭の回転がいつもの通りではなかった。連日連夜のフル回転だった体が旅順行きで、一種の空白期間に置かれた様であった。しかし児玉の旅順行きのお陰で、1905/1/1旅順は陥落しているのだが。

ロシア軍でも、新たに着任した第2軍のグリッペンベルク大将とクロパトキンとの間に確執が存在した。グリッペンベルグはクロパトキンよりも10才年上であったが、クロパトキンの配下の司令官である。2人はお互いに牽制しあった。今でも攻め込みたいグリッペンベルグに対して、クロパトキンは慎重であった。そのためクロパトキンは、第2軍に対してだけ日本軍左翼への攻撃を認めた。

そして1905/1/25、第2軍のグリッペンベルク大将は10万の大軍で秋山支隊への攻撃を開始した。
報告を受けた総司令部は的確な判断が出来なかった。過小評価していた総司令部は第八師団立見尚文中将)にのみ出動を命じた。しかもそこの参謀長は激戦続く黒溝台からの撤退を命令する。黒溝台は種田大佐が守っていたが、第八師団が駆けつけるまでにはそれなりの時間が必要だった。一旦退却させてロシア軍をおびき出して包囲する考えであったが、ロシア軍はそれどころか黒溝台を再構築して居座るつもりだった。そのため第八師団は敵を包囲するどころか、黒溝台を奪い返さなければならなかった。そうこうする内に第八師団も、敵軍に猛攻を受け始める。満州軍総司令部はあわてた。手持ちの予備軍は第八師団だけで増援したくても予備はない。そのため中央部を守っている第2軍から第5師団を引き抜き、1/26夜に派遣する。更に1/27には最右翼の第1軍から第2師団の1部を派遣する。そして更に1/28には第2軍より第3師団が追加で派遣された。この応援軍は同日から秋山支隊を援護すべく、ロシア軍へ攻撃を開始する。よく言われる兵力の逐次投入となってしまった。

(続く)
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日韓併合100年(81)

2011-05-26 10:41:14 | Weblog

しかし日本軍の最大の危機は、この沙河会戦1904/10/8~10/18)ではない。次に控える「黒溝台会戦」が日本軍の最大の危機であった。日露両軍は、お互いに補給を待つ間、沙河の両岸に穴倉に篭っている(沙河の対陣)。このとき、負け戦続きのロシア満州軍は、思い切って軍を編成しなおしている。日本軍と同じように第1軍(リネウィッチ大将)、第2軍(グリッペンベルク大将)、第3軍(カウルバリス大将)に編成し、1904/10/26には極東軍総督のアレクセーエフ海軍大将は解任され、アレクセイ・クロパトキン極東陸海軍総司令官となっている。

話は戻るが、ロシアは1898/3/27清国と「旅順大連租借条約」を結び、遼東半島の25年間の租借をもぎ取り、更に大連までの東清鉄道支線建設の権利を手に入れている(2010/12/17のNO.43参照)。アレクセーエフは1899年に、この駐留軍司令官と太平洋艦隊司令長官に就任する。そしてその翌年1900/7/16には、義和団がロシア領のブラゴヴェシチェンスクに侵入したのを契機に、これを追い出しそこに居住する中国人を大量に虐殺し、更に東三省(満州)に軍を進出させる。アレクセーエフはこれらの軍功により、中将に昇進し1903年に大将に昇進し極東総督となり、満州全域の軍事・行政を牛耳ることのなる。そしてロシア国内の資本家の要請で、朝鮮への権益の獲得に乗り出したのである。そして1904/2日露戦争が始まり(2010/12/23のNO.46参照のこと)、結局は連戦連敗の責任を取り解任されたのである。黄海海戦の契機となった旅順艦隊のウラジオへの回航を命令したのもアレクセーエフ総督である。

さて旅順攻囲戦は1905/1/2旅順陥落で終了している。それで日本軍第3軍は満州の会戦に参加できることになった。ロシアは乃木軍の到着は、1905/2/17頃と予想していた。そしてロシア軍も再編されたことだし、乃木軍の到着前に攻勢を仕掛けることとなる。そのためクロパトキンは1905/1/9に奉天から営口まで、1万人規模のシミチェンコ騎兵支隊威力偵察に派遣した。これから始まる満州での会戦に対する日本軍の補給基地(営口)を叩くことが主目的であったが、その主目的は達成することは出来なかった。しかし日本軍の弱点が最左翼にあることを発見している。その左翼は秋山好古率いる秋山支隊が守っていたが、好古も同じ日に永沼秀文中佐指揮の騎兵挺身隊を派遣した。わずか2個中隊の176騎ほどであったが、ロシア軍の背後に潜入し、1905/2/12東清鉄道長春駅南方の新開河鉄橋を爆破している。当初ヤオメンの大鉄橋を爆破する計画であったが、ロシア側の防御が堅く爆破困難と見ると、判断良く、爆破可能と判断された新開河の鉄橋を爆破したのである。そして通信線の破壊、各拠点の破壊などでロシア軍の後方を大いに撹乱し、多大な脅威と負担を与え、この75日間に渡る永沼挺身隊の活動は日本軍の勝利に大いに貢献した。クロパトキンは永沼挺身隊の破壊活動に対して、その勢力を一万騎と誤認するほどであった。そしてこの背後での脅威が、クロパトキンをして奉天からの退却の一つの原因ともなったのである。永沼挺身隊は3/24に本隊に帰還し、第八師団で最初の感状を受けている。

永沼挺身隊の出立した同じ日(1905/1/9)、たった6騎の建川美次中尉の斥候隊が出発している。目的はロシア軍がどこで決戦を企画しているかを探るものであった。クロパトキンの決戦場所は、奉天か、その北の鉄嶺かを探るものであった。「敵中横断三百里」は、1931(S6)年に出版された少年向けの小説だが、これは建川斥候隊がモデルである。

(続く)
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日韓併合100年(80)

2011-05-25 11:04:38 | Weblog

日本軍は、第1軍が確保した安東(九連城など、今の丹東地区)から本渓胡に至る経路、ここには手押しの軽便鉄道を建設中であった。朝鮮半島では京釜線が1904/11に開通し、京城→義州を建設中であった。更には東清鉄道支線の大連→遼陽間に狭軌用に一本線路を1904/9までに追加して利用可能とした。そして第3の補給ルートは営口から遼河の水運を利用するものであった。
これは「日露戦争 沙河会戦と戦機」(http://ww1.m78.com/russojapanese%20war/shaho.html)に詳しく記述されているので参照されるとよい。ロシアはハルビン→大連の東清鉄道支線がシベリア鉄道とつながったのは、1904/9であった。しかしロシア本国から約7,000km、しかもシベリア鉄道は単線であったため、それほど余裕のある能力でもなかったようで、それなりの不便・苦労があり兵站については日本軍の方が有利であったと言う。

そんな中クロパトキンのほかにもう一人将軍、10歳年上のグリッペンベルクが1904/11に派遣されることが決まり、満州軍総司令官クロパトキンは大いに気を悪くした。そのため彼の着任前に日本軍を撃退しておこうと、1904/10/8ロシアから攻撃を開始してきた。ロシア軍の攻撃は、日本軍右翼を攻撃し、日本軍を東から西に包囲しようとする意図であった。日本軍もそれを察知し、右翼の梅沢道治少将率いる近衛後備混成旅団(予備役兵士たちによって構成された2線級部隊だった。Wikipediaによる)を配置させていたが、そこへロシア軍は3倍以上の兵力で攻め立ててきた。しかし梅沢はこの2戦級の旅団を見違えるような戦闘部隊に変貌させていた。しかしこの梅沢旅団と第十二師団第十二旅団第十四連隊は寡兵ながらロシア軍の攻撃に対して必死に反撃し、激闘3時間見事これを撃退することが出来た。しかし翌日は更に大規模な攻撃を受ける。梅沢旅団は再度苦境に立たされるが、援軍が差し向けるまで見事この本渓湖陣地を持ちこたえていた。そしてこの本渓湖陣地が勝敗の鍵を握ると見た第1軍司令官の黒木為 が援軍として派遣した日本騎兵第2旅団は、ロシア軍の側面に回り機関銃で攻撃した。このためロシア軍は大混乱に陥り、退却した。このためクロパトキンの包囲作戦は失敗する。反対に今度は、日本軍の第4軍と左翼の第2軍が、ロシア軍を包囲しようと反撃に出る。しかしロシア軍の反撃も猛烈で、度々日本軍も敗走する。しかし本渓湖での激戦に、ロシア軍が兵を集中させたため間延びし、第4軍が要衝の三塊石山を占領し中央突破を企てたため、ロシア軍は後退し10/18に沙河北岸に撤退する。日本軍は弾薬も欠乏し沙河南岸に陣地を構築して、お互いが塹壕に篭って次の春までの3か月間対峙することとなる。これが「沙河会戦(さかかいせん)」である。

なお本渓湖陣地で奇跡的な奮戦をした梅沢道治少将率いる近衛後備混成旅団は、その奮戦振りから「花の梅沢旅団」と全軍に知れ渡り、その後、後備歩兵連隊を増強され、歩兵三個連隊編成と言う異例の大旅団となった、とWikipediaに記述されている。彼は、それまでは泣かず飛ばずであったが、もともと能力は高くいくさ運びはうまかった。いわゆる逆境に強い人物であったのであろう。しかしもしこの本渓湖陣地がロシアに突破されていたとしたら、その後の展開はどうなっていたか、予測は付かったであろう。ましてや6/15常陸丸が沈められ当てにしていた千余名の将兵の補充もなく、旅順には第3軍が張り付いて当座は身動きできない状況を鑑みると、この「梅沢旅団」の活躍によるロシア軍の包囲作戦の阻止には、相当な意義があったことであろう。何はともあれ、後備旅団を第一線に投入しなければならなかったことは、日本軍もそろそろ手一杯のところまで来ていたと言うことなのか。何はともあれ、梅沢旅団に感謝!

しかし日本軍の最大の危機は、この沙河会戦ではない。次に控える「黒溝台会戦」が日本軍の最大の危機であった。

(続く)
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日韓併合100年(79)

2011-05-24 11:56:44 | Weblog

この遼陽会戦までの進軍経路は、このURLの43頁を参照されるとよい。

http://books.google.co.jp/books?id=4uUJ3MjBNREC&pg=PA43&lpg=PA43&dq=%E6%91%A9%E5%A4%A9%E5%B6%BA&source=bl&ots=7uwADU1dHt&sig=qPdIlOuQnrzqMBKCzwVUWCQzFfU&hl=ja&ei=ZOnXTY_8NoWyvgOSkYy_Bw&sa=X&oi=book_result&ct=result&resnum=7&ved=0CEEQ6AEwBjgo#v=onepage&q=%E6%91%A9%E5%A4%A9%E5%B6%BA&f=false




ここに第1軍、第2軍、第4軍の遼陽への攻撃準備が完了することになる。しかし補給が追いつかず7月の遼陽攻撃は不可能であった。日本軍12万5千は8月には、遼陽を半円形に望む形で全軍が展開した。東から、第1軍、正面に第4軍、西に第2軍が布陣する。その西最左翼には秋山好古少将率いる秋山支隊が布陣していた。そしてロシア軍は16万(1部史料には約23万)が防衛陣地を構築して待ち構えている。

1904/8/26第1軍が白兵で夜襲攻撃を行い、ロシア第一線陣地を占領する。第4軍、第2軍も8/25猛攻で敵主力を後退させる。そして8/30,31には首山堡塁をめぐり一進一退を繰り返す。この戦いで橘周太大隊長少佐(中佐進級)が壮烈な戦死し、後に広瀬武夫と並び軍神として崇(あが)められた。

8/30夜、第1軍はひそかにし、遼陽の東側面に回りこむことに成功する。そして9/1には饅頭山などの敵陣地を攻略する。これに対してロシア満州軍総司令官クロパトキンは、日本軍第4軍、第2軍と対峙させていた部隊を1部東方の日本第1軍に振り向けた。そのため苦戦していた左翼の日本第2軍は前進することが出来た。その代わり今度は9/2第1軍がロシアの猛攻を受けることになる。

特に饅頭山は、9/2にはロシアに奪還されてしまうが、9/3今度は第1軍が猛攻を仕掛け再度奪還するなどの、こう着状態が続いたが、クロパトキンは次の奉天での決戦を考慮して、1904/9/4全軍撤退命令を出したため、日本軍は何とか遼陽を占領することが出来た。しかし日本軍も戦力を消耗しつくしていたため、追撃は不可能であった。

こうして日露主力による決戦は日本軍の曲がりなりにも勝利で終結したが、ロシアも戦略的撤退であるとして勝利宣言を行っている。死傷者は日本軍2万3,500、ロシア軍2万余とWikipediaには記載されている。

なお日露戦争に関する地図は

「日露戦争地図」
(http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/sensou_map.html)

「陸戦、海戦、軍事史料」
(http://www.sakanouenokumo.com/gunji.htm)
を参照されるとよい。



こうして日本軍は遼陽を占領し、ロシア軍は奉天(今の藩陽)に撤退した。そして両軍は夫々その地を拠点として、来るべき会戦に向けての補給と軍の整備を行っていた。
(続く)
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日韓併合100年(78)

2011-05-23 10:57:34 | Weblog

第1軍主力は1904(M37)年3月11日に鎮南浦(平壌の玄関港)に上陸し北上、そして鴨緑江渡河作戦(1904/5/1)に勝利し、5月11日には鳳凰城を占領し、遼陽へ進むための補給を待つことになる。

第2軍は1904/5/5遼東半島に上陸し、1904/5/25~5/26に金州城、南山の戦いに勝利し、大連を占領している。そして後ろから攻められることがなくなったので、1904/5/30、いよいよ満州平野へと進撃を開始する。1903/1に開通していた東清鉄道支線に沿っての北上だが、列車は全て持ち去られており、しかも日本の汽車は狭軌で使えない。

乃木率いる第3軍は1904/6/6塩大澳に上陸し、各ロシア陣地を攻略しながら旅順要塞に迫ろうとしている。第3軍の旅順攻囲戦は、1904/8/19~1905/1/2の(他の要塞戦と比較すると、わずか)4ヵ月半で勝利している。遼陽会戦が、1904/8/24~9/4であったので同じ頃旅順でも激戦となっていたのである。

そして1904/6/24には、野津道貫(のずみちつら)を大将とする第4軍を編成している。大本営首脳部では、第1軍の黒木為(くろきためもと)、第2軍の奥保鞏(おくやすかた)、第3軍の乃木希典(のぎまれすけ)らの軍司令官の中では、野津道貫を筆頭格と見ていた、とはWikipediaに記載されている。そしてその言葉通りに奉天会戦では主力となっている。


と言ったところが大まかな戦況であるが、第2軍の北上に伴い、ロシア軍は旅順要塞を援護する目的で、シベリア第1軍団を南下させた。そのため第2軍とロシア軍は、遼東半島の中央部の得利寺で激突する。これが「得利寺の戦い」(1904/6/14~6/15)である。得利寺の戦いは、北進事変で名を馳せた柴五郎大佐の陣地設営による火砲と敵右翼を突く日本軍の意表をつく攻撃の結果、勝利に終わる。ロシアは極東総督アレクセーエフと陸軍司令官クロパトキンとの意見の違いがあった。クロパトキンは兵力を遼陽に温存しておきたかったが、アレクセーエフは宮廷を動かし、旅順救援に兵の1部投入を行うことになった。これはロシア軍の戦略的な失敗であったと、「得利寺の戦い」(http://www.jacar.go.jp/nichiro2/sensoushi/rikujou03_detail.html)には記載されている。しかしながらこれ以降日本軍は連勝を続けることが出来たので、ある意味重要な勝利であった。そして日本軍は三方から遼陽へと迫ることになる。

しかしながらこのとき(1904/6/15)、玄界灘を西に向かって航行していた常陸丸が、ウラジオ艦隊に撃沈され千余名の陸軍兵士が戦死している。そのため得利寺戦での勝利よりも、日本国中悲憤慷慨した。(2011/1/26,NO.64参照)
「得利寺附近の戦闘」(http://ww1.m78.com/sib/russojapanesewar.html)を参照されるとよい。

第1軍は1904/5/1に鴨緑江を渡河し、九連城、安東を占領する。そして5/11には鳳凰城を占領している。これは先に述べたが、第1軍司令官の黒木為(くろきためもと)大将は、遼陽へ進軍するには山間の要害「摩天嶺」を確保しておく必要を察知し、6/24独断専行して摩天嶺を占拠してしまう。

摩天嶺の重要性に気づいたロシア軍は、1904/7/17に2.5倍の兵力で砲撃を開始した。しかし日本軍は既に陣地構築を完了しており、頑強に抵抗し更に側面からも攻撃を仕掛けこれを撃退している。これを「摩天嶺の戦い」と言う。

そして第2軍は休むまもなく遼陽を目指して北上する。撤退したロシア軍を熊岳城で撃ち、7/9には蓋平を占領する。そして1904/7/24~7/25に営口の東、東清鉄道への橋、「大石橋の戦い(だいせっき・きょう)」で勝利し、海城へと進撃し7/31~8/4に渡る戦闘で海城を占領する。

そして1904/5/19には第4軍編成の主力となる独立第10師団を、大孤山附近に上陸させた。大孤山は鴨緑江河口より西、遼東半島の付け根部分に位置している('10/12/3,NO.33に地図あり)。そして独立10師団に後備第10旅団と第2軍の第5師団を加えて、第4軍に改編され、1904/7/31~8/1には「柝木城の戦い(せっきじょう)」でロシアシベリア第2軍を破り、奥第2軍と共に8/4には海城を攻め落とす。
(続く)
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日韓併合100年(77)

2011-05-19 11:33:17 | Weblog

1905/1/1に旅順が陥落しているが、時間を遡って満州に目を向けよう。日本陸軍はその間でも、満州へ進軍している。1904/2/9仁川沖海戦、1904/2/24~5/3旅順口閉塞作戦などで当座のロシア海軍の脅威はなくなっている。第1軍先遣部隊は1904年2月16日仁川に上陸、そして黒木為(ためもと)第1軍主力も3月11日に鎮南浦(平壌の玄関港)に上陸し北上する。そして渡河のための各拠点を確保し、砲兵を進出させ、架橋し周到な準備の下で1904/4/29鴨緑江渡河作戦を開始している。優勢な火砲の援護射撃のもと渡河作戦は順調に進み、ロシア軍の裏を書き、5月1日、艦砲射撃も加えて砲兵の援護射撃のもと、九連城陣地まで占領することが出来た。ロシア軍は安東市(今の丹東)と九連城に陣地があったが、安東地区の防御を主に固めていたため九連城は手薄であった。この戦いは日露陸戦の緒戦であり、周到な準備と圧倒的な火力のもとで優勢だった日本軍が快勝した。この緒戦の勝利と旅順港に旅順艦隊を閉じ込め曲がりなりにも制海権も確保し、将兵をはじめ国民の士気は高揚した。'10/12/3のNO.33に安東や九連城の地図がある。参照されるとよい。

この鴨緑江渡河作戦(1904/5/1)の後、第1軍は遼陽へと進むことになる。そして第2軍が1904/5/5遼東半島に上陸し、5/25~26の金州城、南山での激戦を戦う事になる。そして連合艦隊は、1904/8/10黄海海戦('11/5/11,NO.71参照)、1904/8/14蔚山沖海戦をへて、乃木希典の第3軍1904/8/19~1905/1/2旅順攻囲戦となる。

その蔚山沖海戦は、ロシア・ウラジオ艦隊の巡洋艦3隻とわが第2戦隊(上村艦隊)の巡洋艦4隻との艦隊戦である。日本の商船隊は、このウラジオ艦隊に散々痛めつけられていた。1904/8/14早朝対馬の北、蔚山(ウルサン)の沖でウラジオ艦隊と遭遇する。ウラジオ艦隊はウラジオストクへ逃げ込もうとする旅順艦隊と合流すべく南下してきたのであったが、旅順艦隊は旅順港から出てきたところ1904/8/10黄海海戦で攻撃を受け、再度旅順港に引きこもってしまっていた。この情報はウラジオ艦隊には届かず、そのためウラジオ艦隊は旅順艦隊と会合することは出来ず、村上艦隊に見つかってしまう。2時間半の砲撃戦の末、巡洋艦リューリックは沈没、残りの巡洋艦グロムボイとロシアは大破し、グロムボイとロシアは方法の体でウラジオへ逃げ帰る。村上艦艇も砲弾が尽き追撃を断念する。そのため村上艦隊は引き替えし、波間に漂うリューリックの乗組員600余名を救助している。

沈みながらも砲撃を続けた「リューリック」を見て、「敵ながら天晴れである」と、上村彦之丞中将は、退艦した乗組員の救助と保護を命じたのである。このエピソードは海軍軍人の手本として全世界に伝わり、現在でもフェアプレイ精神の例として日清戦争の伊東祐亨(すけゆき)提督(当時中将)と共に、各国海軍の教本に掲載されている。また、日本海海戦では、判断を誤った東郷の指令に対して、独断専行してバルチック艦隊を追撃し、日本海海戦を勝利に導いている。これらはWikipediaに記されている。

ちなみに日清戦争での威海衛の戦いに敗れ、ジャンク船で運ばれる丁汝昌の遺骸を、伊東祐亨中将が、商船を開放しそれで運ばせたことは、'10/11/30のNO.32で、述べられている。

これ以降ウラジオ艦隊は修理も進まず、戦局に影響を与えることはなく、日本軍は日本海の制海権を確保することになり、後の日本海海戦に望むことになる。

そして満州ではは、1904/8/19~1905/1/2旅順攻囲戦を勝利して、1904/8/28遼陽会戦へと進んでゆく。

(続く)
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日韓併合100年(76)

2011-05-18 11:59:24 | Weblog

そしてスターリンは旅順要塞はセヴァストボリ要塞を6つ合わせたほどの堅牢な要塞と評したほどである。司馬遼太郎は其の著作「坂の上の雲」で、乃木大将のことを、ただ闇雲に部下を死なせた無能な将軍として描いているが、これは大いなる間違いである(と思う)。そして旅順要塞戦での日本軍の勝利は、坑道作戦の採用や勇猛果敢な日本兵、そしてそれらの兵の気持ちをひとつに纏め上げる乃木大将がいたからこそ出来た、世界に冠たる大勝利であったと言い切ることが出来る、と結論付けている。さらには、戦後乃木希典は、わずかな給料の中から費用を捻出して、なくなられた兵のために弔問の旅まで為されたのである。

凱旋後の明治天皇の御前で自筆の復命書を奉読している。その時には、天皇の多数の将兵を死なせたことに対して自刃してその罪を償いたいと奏上している。しかし明治天皇は、それを理解しつつも今は死ぬ時ではない、どうしても死ぬと言うのであれば朕が世を去った後にせよ、と諭したとされる。そして1907(M40)/1/31学習院院長を兼任することになる。これも明治天皇のお指図で、明治天皇ご自身の孫(後の昭和天皇)が学習院に入学することから、その養育を乃木に託されている。乃木は2人の子をこの戦争でなくしているので、明治天皇は、乃木に対して、自分の子供だと思って育てるように述べられたと言う。これはWikipediaに記載されていることである。

そして乃木希典は、大正元年(1912年)9月13日、明治天皇大葬の行われた日の午後八時ごろ、妻・静子と共に殉死している。乃木夫妻の葬儀は、大正元年(1912年)9月18日に行われ、十数万の民衆が自発的に参列している。その様子は、「権威の命令なくして行われたる国民葬」と表現され、また、外国人も多数参列したことから、「世界葬」とも表現されたと言う。

なお乃木希典は、子供の頃左目を失明しており、死ぬまでそのことを話していなかったと言われている。しかしそれでも剣術、馬術は人並み以上の技量を体得しており、並みの努力家ではなかった。まさに鉄の意志の持ち主であった。東京の乃木神社には、今でも乃木大将の使った片目の双眼鏡があるという。
乃木将軍
http://www.geocities.jp/nkymsgtm/nogishogun.index.htm

乃木大将の第3軍は、1904/6/6に遼東半島に上陸し、1904/6/26に進撃を開始してから丁度210日目となる1905/1/1に旅順を陥落させている。この間の死者およそ16,000名(露約1万名)、負傷者47,000名(露約2万5千名余)に達している。
この数字は、「日露戦争 概説4」http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai2/kindai-nitiro4.html の数字に、第3軍が上陸から包囲までの間の死傷者を4,300名として、小生が追加概算したものである。



さてその間でも日本陸軍は、満州へ進軍している。1904/2/9仁川沖海戦、1904/2/24~5/3旅順口閉塞作戦などで当座のロシア海軍の脅威はなくなっている。

(続く)
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日韓併合100年(75)

2011-05-17 10:43:00 | Weblog
西で2度負けたので(クリミア戦争、露土戦争)、今度は東の満州・朝鮮(日露戦争)に手を出してきたのである。

そして第2次世界大戦では、日ソ中立条約を破棄して、突如として満州、千島、樺太と攻め日本の北方四島を不法にも占領しているのである。現在は東日本大震災の対応で日本が手一杯であると見たロシアは、択捉、国後の日本領に軍備を増強してきているのである。全く民主党政権は、鳩山と言い、管と言い、頓馬の集まりで頼りにならない。結局日本国民が民主党に騙されたと言うこと、言ってみれば平和ボケに陥り国民自身も馬鹿になってしまっていた、と言うことでしょう。この点中国もロシアと同じ穴の狢、見方によれば、ロシアより狡猾で残忍である。日本に軍備がないと見ると、尖閣どころか沖縄までも占領しかねない、そして本州も。日本も真っ当な軍備を持ち、自分の国は自分で守ることをしないと大変なことになる。ちなみにロシアはヨーロッパでも既に不可侵条約や中立条約を結んでは、相手を油断させて進攻し占領している実績がある。バルト三国やフィンランド、ポーランドなどである。

例えば、1932年のソ・ポ不可侵条約を突然破棄して1939/9/17ポーランドへ侵攻しているし、同じく、1932年のソ・フィン不可侵条約を破って、1939/12フィンランドへ侵攻している。カチンの森事件は、このポーランド侵攻時に発生したものである。同じように1940/6にはバルト三国へ侵攻している。また、1939/8/23には独ソ不可侵条約を結んでいるが、スターリンは1940/5/15付けで「対独先制攻撃計画書」を完成させている(ジューコフ参謀総長に命じて作成)。ポーランドを押さえれば、ソ連はドイツへは直接侵攻できるのである。ポーランドはドイツと15万kmに渡り国境を接している。しかし1941/6/22ヒットラーに先を越されてドイツの対ソ電撃作戦を許してしまった。スターリンはドイツのこの計画を掴んでいたが、しかもドイツの軍事力がソ連軍に比べて比較にならない程小さいことも知っていた。そのため英仏との戦いにドイツは全力投球しているためソ連には攻めてこないと、高をくくっていたものである。

そして、1991/4日ソ共同声明1993/10東京宣言をロシアのプーチンは完全に無視しているのである。ロシアとはまさに国際的合意を守らない国である、と認識しなければならないのである。だから鳩山や民主党は頓馬以上の頓馬だと言っているのである。

なぜこれほどまでして、スターリンはヨーロッパを混乱せしめようとしていたかと言うと、其の混乱に乗じてヨーロッパを「共産主義革命」に巻き込もうとしていたからである。これは「世界共産主義革命」実現の大前提であった。このことは、「正論4月号」の瀧澤一郎氏の「第2次世界大戦最大の戦犯はスターリンだった!」に詳しく記述されている。

事実日露戦争当時のロシアはソ連邦のロシアではないが、先に挙げた「ねずきちの ひとりごと セヴァストボリの戦いと旅順要塞戦」 http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-820.htmlにもあるように、満州を制圧して朝鮮半島を占領し、其の上で日本を従えて太平洋に打って出る、とロシア側の文書に記されている通りのことを実行しようとしていたのである。

さてクリミア戦争に戻ると、上記の「ねずきちの ひとりごと」によると、この要塞戦での動員数は、英仏トルコ連合軍は17万5千人、セヴァストボリ要塞守備隊は8万5千人、1854/9に連合軍がクリミア半島に上陸し、一年後の1855/9に要塞は陥落しているから、1年ががりでようやく落としたことになる。連合軍の死者は、12万8千人(ロシア側10万2千人)である。

旅順要塞は、1904/8/19の第一回旅順総攻撃から第3回総攻撃後の1905/1/1にステッセルは白旗を揚げているから、4ヶ月半しかかかっていないことのなる。しかも日本軍の死者1万5千人で、クリミア戦争のセヴァストポリ要塞戦の約1割なのである。

そして第2次世界大戦でのナチス・ドイツがセヴァストボリ要塞を攻めた時には、更に死者の数は増えている。1941/9/24にナチスドイツはヤルタを制圧しセヴァストボリ要塞を包囲し、1942/6/末にようやく陥落させている。ドイツ軍35万人、死者10万人以上の10ヶ月の大激戦であった。

(続く)
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日韓併合100年(74)

2011-05-16 10:12:06 | Weblog

この文部省唱歌は、まさに旅順開城の様子を忠実に表したものである。
このURL↓には、良馬の写真もある。是非参照されるとよい。
http://www.sakanouenokumo.com/ryojunkouryakusen3.htm

乃木大将の長男勝典は、1904/5/27、第2軍に所属し南山の戦いで戦死している。そして二男の保典は、1904/11/30、第3回旅順総攻撃の203高地で戦死している。旅順要塞がなかなか落とせなかったことに、軍内部にも、また全国民にも乃木に対する非難が高まってゆく。そして乃木を第3軍司令官から更迭する案が浮上するが、御前会議において明治天皇が反対を表明され乃木の続投が決まるということもあった。

また旅順要塞は、1904/8/19の第1次総攻撃から1905/1/1の旅順要塞ステッセルの降伏まで、4ヶ月半を要している。そして15,390名の死者、43,814名の負傷者を出して陥落させたことになる。
「日露戦争 概説4」http://yokohama.cool.ne.jp/esearch/kindai2/kindai-nitiro4.html より)

「ねずきちの ひとりごと セヴァストボリの戦いと旅順要塞戦」
http://nezu621.blog7.fc2.com/blog-entry-820.html
 には、「セバストポリ要塞戦」のことが記されています。セバストポリ要塞は、ロシアの黒海艦隊の母港で当時としての難攻不落の要塞でした。そして旅順要塞と比較して、このセヴァストポリ要塞のことが記されていますので、少し小生の独断と偏見でまとめてみます。

セバストポリ要塞は、クリミア戦争と第2次世界大戦で夫々戦場となっている。

まずクリミア戦争の発端は、黒海沿岸に居住するギリシャ正教徒(スラブ人)の保護を名目に、ロシアが当時はトルコ領であったバルカン半島へ進駐したことに始まる。ロシアは1853/7モルドバからルーマニアの黒海沿岸(ワラキア)に軍を進め、反トルコ勢力と共にトルコ軍を攻めた。これを見た英・仏がトルコを支援する。1853/11には、ロシア黒海艦隊はトルコ黒海に面するシノップ軍港を攻めトルコ艦隊を撃滅し、艦砲射撃でSinopシノップの町を焼き払う(シノップの虐殺)。

バルカン半島がロシアの手に落ちると、地中海はロシアの勢力圏になりかねない。黒海からはボスポラス海峡、ダーダネルス(チャナッカレ)海峡を通ってロシアの黒海艦隊が自由に航行することになる。イギリスはエジプト(からインド)、フランスは北アフリカへの海上輸送として、地中海は重要な海上交通路であった。そのため1854/3英仏はトルコと同盟を結び、ロシアに宣戦布告する。オーストリアもロシアに抗議し、ルーマニア(ワラキア)に進駐しロシアは後退する。その後連合軍はクリミア半島のロシア黒海艦隊の基地、セヴァストポリ軍港を攻撃することになる。クリミア半島はウクライナの、黒海に突き出た菱形の半島である。その先端の西側にセヴァストポリ要塞がある。

1854/9連合軍6万はクリミア半島に上陸、1855/3にはサルディーニャ国(今のイタリア)も連合軍に加わり、さしものセヴァストボリ要塞1855/9陥落する。しかし1855/11にはトルコの東部、アルメニア国境近くのカルスKarsをロシアは占領するが、1856/3パリ条約で講和が成立し、ロシア、トルコ共に黒海に艦隊を持つことが禁止され、1861年にはサルディーニアがイタリアを統一している。

と言ったところであるが、ここで一寸要塞の話から横路に逸れてみる。

これは明らかにロシアの南下政策そのものである。スラブ人の保護とは名ばかりで、地中海への出口を確保したかっただけなのである。そのために英仏はトルコと同盟し、ロシアの頭を抑えたのである。

この20年後にロシアとトルコは、1877/4~1878/3に再び露土戦争を戦っている。'10/12/28のNO.49を参照願う。このバルカン半島での2度にわたる敗北で、ロシアは最終的には沿海州、朝鮮に目を向けてくるのである。

ロシアの南の海を目指す執念は恐ろしいほど強い。このクリミア戦争(1853~1856年)の後、ロシアは、東では1858年アイグン条約1860年の(アロー号事件による)北京条約で沿海州を手に入れ、1878年には露土戦争に結果的に負けて、1900年の義和団事件(北清事変)を口実に、再度地中海から東に目を向け、朝鮮を手に入れんがために満州に進駐することになる。そして日露戦争へと繋がって行ったのである。

(続く)
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