世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(69)

2020-10-30 00:00:00 | Weblog

その箇所を、一寸長いが、次に引用しておく(P161)。

「 南九州での研究歴の長い宮田栄二によれば、種子島から見つかるこうした石器類は九州南部で見つかるものと共通性が高く、3万5000年頃に九州島から大隅諸島へと南下した人々がいたことを示している。
 ところが奄美群島まで下ると、話は変わってくる。
 奄美大島にある土浜ヤーヤ遺跡と喜子川遺跡は、ともに3万年前のものである可能性が高いが、出土した石器の解釈をめぐって考古学者の意見が割れている。ほとんどは形が不規則な剥片で、九州~北海道でみられる台形様石器やナイフ形石器のと言った明確なタイプが存在しないのだが、土浜ヤーヤ遺跡の出土品の中には刃部磨製石斧の断片らしきものが3点含まれていた。刃部磨製石斧は古本州島との関連をうかがわせるアイテムだが、不定形の剥片が主体と言うのはむしろ台湾や東南アジアの旧石器文化の特徴である。
 徳之島のガラ竿遺跡で発掘された石器は、厚さ30センチメートルもあるATテフラより下の地層から出てきたので、3万年前より古いことは確実だ。しかし見つかったのは磨石すりいしと呼ばれるタイプの石器が2点だけなので、その文化の実態は良くわからない。
 このように資料がまだ限られている現状では、奄美群島のの旧石器文化の起源については不明としか言いようがない。この問題を解決するには、更なる発掘調査が必要だろう。
 さて、沖縄まで下ると、また状況が変わる。沖縄島から南の琉球の島々からは、そもそも不思議なほどに、石器が出てこないのだ。それは居住遺跡であるサキタリ洞でも同じで、ここでは旧石器時代人が、むしろ貝殻を割った貝器を多用していたことがわかった。旧石器時代の貝器は北海道~九州では知られておらず、日本初の発見である。石器はおそらくないことはないのだろうが、あまり積極的に使っていなかった可能性がある。つまり、”石器に依存しない文化”だ。
 そうなると、もう九州以北とは文化的につながらなくなってくる。沖縄地方の旧石器文化は、前述の人骨の研究も示すとおり、台湾経由で南方から伝わったに違いない。」


と言うように、この大隅諸島を除く琉球列島(南西諸島)の旧石器時代の遺跡からは、あの刃部磨製石斧などの石器は見つかっていない、様なのである。

と言うことは、この海を渡るために作られた丸木舟は、琉球列島では作られていなかった、と見るべきなのではないのかな。とすると、台湾などで作られていたと言うことかも知れない。まあ一言、「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」にはそのようには書かれてはいるが。

台湾の旧石器時代の遺跡から、この刃部磨製石斧などが発見されていれば、問題はないのであるが、そこは更なる調査などをまたなければならないのであろう。

事実、国立科学博物館の3万年前の航海の動画を見ると、この丸木舟は台湾で作った、と放映されている。それならそれで、その旨しっかりと刃部磨製石斧などの関係も含めて、記述するなり、放映するなりした方がすっきりするのではないのかな。

果たして台湾で刃部磨製石斧などが発掘されているのであろうか。

更には、宮古島から沖縄島に至る、当時としては220kmほどの海の上を渡っていった時の丸木舟は、どこで作られたものなのであろうか。それこそ台湾で作られたものを、後生大事に維持管理した丸木舟で渡っていったものなのか。

それとも宮古島で作られた丸木舟で、沖縄島まで渡っていったものであろうか。すると刃部磨製石斧は、宮古島になければならないが、琉球列島のどこからも、と言ったら語弊があるが、見つかっていないのだ。

これこそ3万年前の謎の最たるものではないのか。


先の「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」の論考では、台湾での木の伐採の写真が掲載されているが、台湾にはこのような巨大な樹木が叢生しているのであろうか。

次に紹介する論考では、台湾には適当な木が見つからず、石川県のスギを伐採して使ったと書かれている。どちらが本当なのであろうか。


(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(68)

2020-10-29 00:00:00 | Weblog

2019年予定の「本番の実験航海」
本番の実験航海の計画。与那国島は半径50kmまで近づかないと海上から見えない。
背景地図:菅浩伸 based on Gebco 08 Grid

私たちが最終的に再現したいのは、沖縄ルートの最初の関門である、台湾→与那国島の航路。この本番の実験航海は、強大な黒潮を越え、遠く水平線の下に隠れる島へ向けて、2~3日間に及ぶタフな航海になるでしょう。3万年前の舟としては、現時点で丸木舟が有力になってきています。帆は縄文・弥生時代ですら使われていた証拠がないので、旧石器時代の舟は漕ぎ舟であったはずです。このように研究と実験を繰り返した後、3万年前としてもっとも妥当なモデルを選んで本番の実験航海に挑みます。それをやり遂げたとき、祖先たちの海への挑戦の実態がわかってくるでしょう。

本番への準備

黒潮の上で漕ぎ練習

星を道しるべとする方法を学ぶ漕ぎ手たち

私たちの実験航海では、3万年前の条件になるべく近づくよう、時計・コンパス・GPSなどを持たず、風・うねり・太陽・星などを使って針路を探る航海をします。安全管理のために伴走船が同行しますが、古代舟に針路や位置を教えることはしません。

漕ぎ手たちは、不慣れな古代舟を長時間漕ぎ続けるトレーニングに加え、そうした古代航海術を学ぶ必要があります。そのほか、3万年前の実態を探るために、当時の舟を作る道具や、島で人口存続するために必要な移住者数、スーパーコンピューターを使って過去の黒潮を推定する研究など、様々な研究が、多数の協力研究者のもとで進められています。

誰もが参加できるプロジェクト
スリリングな3万年前の謎解き体験を、できるだけ多くの方々と共有できるよう、このプロジェクトは、私たちの試行錯誤や失敗も含めてオープンにしています。実験の資金はクラウドファンディングなどの寄付で頂いていますが、ご支援やご寄付で「会員」になられた方には、最新情報を定期的に配信し、時に直接・間接の交流の場でご意見も頂き、プロジェクトに深く関与して頂いています。皆様ぜひ、私たちと一緒に3万年前の謎を解きましょう!
https://www.kahaku.go.jp/research/activities/special/koukai/about/index.php


3万年前の謎と言えば、「3万年前の石器(刃部磨製石斧)」を使って丸木舟を作っていたことも、その一つではないのかな。

と言うのも、種子島の遺跡からは刃部磨製石斧などの各種の石器などが発見されているが、奄美群島以南の遺跡からはそのような石器は見つかっていないのだ(P160~)。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(67)

2020-10-28 00:00:00 | Weblog

次に科博の実験航海の概要説明文も載せておこう。

3万年前の航海 徹底再現プロジェクト
https://www.kahaku.go.jp/research/activities/special/koukai/about/index.php

分かっているのは、彼らが移住に成功したこと。わからないのは、どうやって来たか。
沖縄ルート、難関の大航海の再現実験

想定される3万年前の地理と3つの渡来ルート

最初の日本列島人は、3万年以上前に、海を越えてやって来ました。それは、アフリカを旅立ったホモ・サピエンスが、陸域を越えて海にも活動域を広げながら、世界中へ大拡散した壮大な歴史の一幕。中でも島が小さく遠く、世界最大の海流である黒潮が横たわる琉球列島への進出は、当時の人類が成し遂げた最も難しい航海だったと考えられます。

「最近になって明らかにされてきた、この祖先たちの海への挑戦を、できる限り詳細に解き明かしたい――」
私たちはそんな思いに駆られて、このプロジェクトを立ち上げました。ここでは彼らの大航海を研究し、さらに海の上で再現(実験航海)することによって、未知の世界を切り開いた祖先たちの知られざる姿に迫ります。
琉球列島と台湾の主な旧石器時代遺跡と現在の黒潮の流路
背景地図:菅浩伸 based on Gebco 08 Grid

総勢60名の研究者・探検家・運営スタッフが協力する一大プロジェクト。遺跡に残っていない舟は、候補となる草・竹・木のものを試作し、海上テストを行って、絞り込んでいきます。さらに当時の地理・海流、移住者数、帆の有無など、様々な研究を進めて、3万年前の「徹底再現」を目指します。

これまでの活動

2016 草束舟の実験 与那国島

与那国島に自生しているヒメガマという草を、ツル植物で縛って舟を作りました。そして男女の漕ぎ手が、時計やGPSを持たすに、風や波などから方角を読みとって西表島を目指すテスト航海に挑みました。

2017-2018 竹筏舟の実験 台湾

台湾との共同体制の下、竹の舟の実験を行ないました。浮力・安定性と耐久性にも優れた舟ができましたが、期待したほど速度が上がらず、黒潮を越えるには課題が残りました。

2017-2018 丸木舟の実験 台湾

3万年前の石器(刃部磨製石斧)で大木を切り倒し、くり抜く実験を行なったところ、この道具で丸木舟が作れることがわかりました。これから海上での機能性をテストしていきます。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(66)

2020-10-27 00:00:00 | Weblog

3万年前の実験航海の様子は、NHKのくらし・解説に詳しいので、それを参照願う。

「『3万年前の航海』成功のカギ」(くらし☆解説)
2019年07月16日 (火) https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/371165.html
土屋 敏之  解説委員

◆先週、台湾から与那国島へ5人の男女が丸木舟をこいで渡るのに成功した




 これは国立科学博物館の人類学者・海部陽介さんたちが進めてきた「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」というものです。日本人のルーツには大きな謎があり、日本各地には3万数千年前頃から急に多くの遺跡などが見られるようになります。当時は氷河期で海岸線はこちらのように今と違っていたものの、それでも日本列島の多くは大陸とは海で隔てられていたと考えられています。

 祖先はその海を越えて、こちらの3つのルートで渡ってきたことが考えられており、中でも当時大陸と陸続きだった台湾から沖縄へのルートは、海を渡る距離も長く最難関ルートだったと見られます。ただ、その手段を示す「舟」などは当時の遺跡から見つかっていません。そこで、海部さんら様々な分野の研究者と海洋冒険家や舟作りの専門家なども加わって、3万年前の技術で可能と見られる舟を実際に作って海を渡れるか検証することにしました。つまり、科学研究としての実験航海です。
 その費用は、ネット上で寄付を募る「クラウドファンディング」という手法で集めたのも新たな取り組みでした。

◆これまでは上手くいっていなかった



 当時ありえた舟は草か竹か木で作られたものだろうということで、まず2016年に草の舟で与那国島から西表島まで、翌年は竹を束ねた舟で台湾の本島から離島へ渡ろうとしましたが、うまく行きませんでした。
 この辺りの海は黒潮が南北に流れていて、3万年前もこれを横切る必要があったと推定されていますが、草や竹の舟はあまり速度が出ず黒潮に流されてしまい横切るのは難しかったのです。そこで浮上したのが丸木舟です。プロジェクトでは3万年前の石器でも丸木舟を作れることを実際に確かめ、これを使うことにしたのです。

◆先週、最後の実験航海が行われた



 台湾東岸の烏石鼻という所から与那国島まで200km以上の大航海です。人類の移住を再現しようということで漕ぎ手は男女混成チーム。シーカヤックのガイドさんなど手こぎ舟の経験豊富な5人が選ばれました。台湾の山の上からは条件が良ければ与那国島が見えるため、祖先は与那国島の存在を知っていて目指したと考えることはできますが、海上からは与那国島に約50km以内に近づかないと見えません。つまり、航海の大半は目的地は見えず太陽や星の位置などから方角を判断する必要がありました。3万年前の条件を想定し、こぎ手は方位磁針もGPSも使えないためです。ただし、安全確保のために動力付きの船が伴走し、海部さんたちが丸木舟を見守りました。




 天気や海の状態が良い日を待ち、7月7日の午後2時半過ぎ(日本時間)に出航。黒潮で北に流されることを考慮して、東の方角に向けて丸木舟をこぎます。夕暮れに近づくにつれ、北風が強く吹いて海が荒れはじめ、視界も悪くなりました。しかしその後は天候も回復し、丸木舟は順調に進み続けたと言います。翌朝には行程の半分近い100kmまで進む快調なペースでした。
 ところがその後は大きくペースが落ちます。与那国島の南海上に丸木舟が姿を見せたのは翌々日の朝でした。そして、出航から45時間後、多くの島民や観光客が待ち受ける与那国島の浜辺についに丸木舟が辿り着きました。



 GPSで丸木舟の航跡を見ると、潮流で北に流されながらも見事に与那国に向かい進んでいたことがわかります。しかし、こぎ手はこうした位置情報などは全く知らずにこいでいたわけですから不思議。なぜこうして正確に辿り着くことができたのでしょう。

◆成功のカギは「与那国への潮流のライン」?



 こぎ手のキャプテン・原康司さんによると、カギは「与那国に向かう潮流のラインに乗る」という点にあったようです。
 黒潮の流れが一番速いのは島の間ですが、与那国付近にも北向きの流れがあるので、うまくこのラインの上流側に乗れればいずれは与那国に辿り着けるというわけです。そのためには、黒潮をまっすぐ横切る東向きに約100kmこぎ進むとラインに乗れるはずで、その間いくらか流されてもこのラインのどこかには乗るので与那国に向かえる。多少はずれたとしても島が直接見える範囲に入れれば後は見て目指せばいい、というわけです。
 そのためまず台湾が見えている間や、雲が晴れて太陽や星で方角が判断できた時間に一生懸命、東に向けてこいでこのラインを目指し、後半は無理に進まず、疲労もピークだったため交代で体を休めていたそうです。その結果、翌々日の朝にはちょうど与那国島が見えてきたとのことで、原さんは「率直に言ってできすぎ。ここら辺にあるかなと思った所に島が出てきて正直びっくりした。黒潮の海という大きな力が僕たちを運んでくれたという思いがある」と話していました。運もあったし、自然の力も味方してくれた、と言えるのではないでしょうか。


 今回の実験で、古代の手こぎ舟でも沖縄の島々に渡れる可能性は実証できました。ただ、残された謎もあります。今回の方法は、与那国島の位置や黒潮の流れについて知識があったからできた面もありますが、3万年前に初めて渡った人たちはそこまで知らなかったはずです。そうすると、さらに成功率は低かったかもしれません。もしかしたら当時は大勢の人が挑んでその多くは犠牲になり、ごく一部の人だけが運良く辿り着けたのかもしれません。だとすると、なぜそこまでして祖先は挑んだのか?その動機も謎のままです
 海部さんたちは今後、実験航海のデータを詳しく分析して論文を発表する予定で、航海は終わりましたが研究者たちにとってはむしろこれからが本番とも言えます。
 今回の実験航海の成功には、人類史の謎を解く手がかりを得るという科学的意義に加えて、クラウドファンディングで多くの市民の支援を受けたり、丸木舟の製作を公開した時には子供たちの注目も集めたりして、それに対しプロジェクトの成果を情報発信して交流するなど、科学研究の手法として可能性を広げることにもつながったのではないでしょうか。またこれを見た子供たちが、科学の面白さや自然の奥深さを感じて、それが将来につながっていくことも期待したいと思います。
(土屋 敏之 解説委員)

https://www.nhk.or.jp/kaisetsu-blog/700/371165.html
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(65)

2020-10-26 00:00:00 | Weblog

ご承知の様に、与那国島の西崎イリザキの岬は、日本最西端の地である。当然そこには「日本最西端の碑」が建っている。


西崎・日本最西端の碑 いりざき にほんさいせいたんのひ

島で一番人気の記念撮影スポット。国境の島であることを実感

日本の最も西の果てにある西崎の岬。日本で一番最後に夕日が沈むのがこの地だ。展望台から見る日本で一番遅い夕日は与那国に来たら必見。与那国町観光協会では、最西端に来た証明書を発行している。この「日本最西端の証」は1部500円。観光協会以外では、生活雑貨の店ふく、オネ・マヒナ、米浜レンタカー(空港案内所)、アイランドホテル与那国、漁協空港売店、観光協会事務所(空港案内所)、民宿もすらのたまご、ひだまり工房でも発行してくれる。

https://rurubu.jp/andmore/spot/80043602

日本国 最西端之地 与那国島
 渡海の西崎の
 潮はなの清らさ
 与那国の美童の
 容姿の清らさ
日本最西端の琉歌碑
[読み]
トケヌニシザキヌ
ウスバナヌチュラサ
ドナンヌミヤラビヌ
カーギヌチュラサ
[意味]
海を隔てた地、この与那国の西崎のさんご礁に砕け散る白い波の美しいことよ、
それ以上に与那国の乙女たちの美しいことよ。
http://www.zephyr.justhpbs.jp/yonaguni_hibun.html

それではプロジェクトの五つのメニューに移ろう。


プロジェクトのこれまでの概要

謎を知るための5つの企画

① 表も裏も、「発見と興奮の全て」を知るにはこれ

「サピエンス日本上陸 3万年前の大航海」
海部陽介著 講談社

プロジェクトリーダーによる、祖先たちの謎に挑んだ実験の全記録! 個性的な仲間たちと体当たりで繰り返してきた数々の実験、現地での予期せぬ騒動、丸木舟航海の秘話、そして台湾の山から見えたものなど、他では語られていない話が満載です。実験の失敗から学び、改善を繰り返し、最後に成功させたプロジェクトの軌跡は、一読の価値あり。

② 「黒潮の海」を前に思いを馳せる絶景ポイント

記念碑と丸木舟クルー達 ©太田達也

実験航海の舞台となった、与那国島を訪れてみませんか?
そこは旅行ガイドで「日本最西端」と紹介されますが、見方を変えれば日本列島への「南の入口」。2020年3月に実験成功の記念碑が建てられた 西崎 ( いりざき ) へ行けば、眼下に広がる黒潮の海の彼方からやってきた、祖先たちに思いを馳せることができます。天気がよければ台湾が見えます。

③ 祖先たちの大航海を「体感」できる博物館のドーム (近日公開予定)

「イセ食品シアター36〇」の球体ドーム

3万年前の大航海を体験できるのは、丸木舟に乗っていた5人だけ……ではありません!
国立科学博物館の「イセ食品シアター36〇」の球体ドームに入れば、スギメの船首につけられていた3DVRカメラの映像を通して、あなたも丸木舟の航海を体験できます。仲間と一緒に、「見えない島」を見つけましょう!

④ 実験の現場を見る映画


航海プロジェクトの実験は、与那国島、台湾の東海岸、能登の山など各地で行われましたが、その映像記録がドキュメンタリー映画が完成いたしました。公開に向けて準備を進めております。進捗情報はこちらでお知らせいたします。

⑤ もっと深く詳しく知りたいという方は

このプロジェクトは、科学的研究の一環として行われました。ですので、その成果は、学術論文として世界へ発信していきます。論文は研究者向けですが、奥深いところにも興味がある方は、ぜひ読んでみてください。
その1:
竹筏舟の実験成果をまとめた論文で、イギリスの歴史ある考古学専門誌に掲載。こちらから無料でダウンロードできます。
Palaeolithic seafaring in East Asia: testing the bamboo raft hypothesis
※本論文は「その週の注目」としてNature誌に紹介されました。
On a model ancient raft, seafarers are up the current without a paddle
その2:
2019年の丸木舟の実験航海は、ニュースとしてScience誌に紹介されました
Update: Explorers successfully voyage to Japan in primitive boat in bid to unlock an ancient mystery
その3以降は準備中です。
https://www.kahaku.go.jp/research/activities/special/koukai/
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(64)

2020-10-23 00:00:00 | Weblog

この3万年前の航海の再現プロジェクトの実験航海の成功を祈念して、'20.3.4記念碑が建立されている。国立科学博物館が、日本最西端の地の西崎(いりざき)灯台脇に建てたものだ。
実験航海は、2019.7.7に丸木舟で台湾 台東県 成功鎮 烏石鼻(うしび)を出港して、45時間かかって225km先の与那国島に到着している。相当の困難があった筈だ。

プロジェクトの概要を載せる前に、地元の新聞社の記事を参照願う。5人の漕ぎ手の中には、台湾の人も一人含まれている。



3万年前の祖先に思いを 与那国島西崎に記念碑
2020年03月06日
地域・教育


「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」の記念碑とこぎ手たち。左から花井沙矢香さん、鈴木克章さん、宋元開さん、田中道子さん、村松稔さん、原康司さん=4日、西崎灯台脇(国立科学博物館提供、太田達也撮影)
国立科学博物館

 【与那国】人類のルーツの謎に迫り、祖先が越えてきた台湾ー与那国島間の「3万年の航海徹底再現プロジェクト」の実験航海成功を記念し、独立行政法人国立科学博物館は4日、西崎灯台脇に記念碑を建立した。「3万年前の祖先に思いを馳せることのできる、新たな観光スポットに」と期待している。

 同プロジェクトでは、旧石器時代人がどのように海を越えて日本列島に渡ってきたかを解き明かそうと2019年7月7日台湾を出航。丸木舟を45時間余り漕ぎ、225㌔先の与那国に9日到着した。

 記念碑は波の上に丸木舟が乗るデザイン。航海の様子をとらえた写真に「最初の琉球列島人は3万年以上前に黒潮の海を越えてやってきた 彼らの挑戦を知るため丸木舟の実験航海 男女5人が台湾を発ち 45時間かけて与那国島にたどり着いた」とメッセージを添えている。

 こぎ手5人の名前、台湾の出航時刻、与那国の到着時刻なども記されている。

 記念碑が建つ日本列島最西端の西崎灯台からの眺めは絶景。沖合には黒潮が流れ、好天時には水平線上に台湾が望める。

 こぎ手の1人、村松稔さん(42)=与那国町=は「ここには日本最西端の碑もある。これまで黒潮を意識してこなかったが、人類は3万年前に黒潮に乗って日本列島に入ってきた。碑ができたことで、人類の偉業があった場所として想像ができるのではないか」と喜ぶ。

 丸木舟プロジェクトチームのリーダー、国立科学博物館人類研究部人類史研究グループ長の海部陽介氏は「実験航海には意味があり、それを継承していくことが重要。豊かな自然のなかに人の歴史があることを考えてもらうきっかけになれば。黒潮の海を渡ってきた人たちがいたことに思いをはせ、深い意味を理解してほしい」と話している。
https://www.y-mainichi.co.jp/news/36206



与那国町西崎に記念碑 「人間の歴史にも触れて」 3万年前の航海プロジェクト
2020/3/7
(右から)実際に漕いだ原康司さん、村松稔さん、田中道子さん、宗元開さん、鈴木克章さんと、サポーターの花井沙矢香さん=4日、与那国町西崎(国立科学博物館、太田達也氏撮影)

 台湾―与那国間の丸木舟での実験航海「3万年前の航海 徹底再現プロジェクト」の成功を記念し、独立行政法人国立科学博物館(林良博館長)が4日、国境の海を望む日本の最西端、与那国町の西崎(いりざき)灯台の脇に記念碑を建立した。プロジェクトの代表を務めた同館の海部陽介人類史研究グループ長は「日本の最西端で海を見てほしい。祖先たちが海を渡って来たことは非常に感慨深い。沖縄の素晴らしい自然に加え、ぜひ人間の歴史にも触れてほしい」と話した。

 同プロジェクトは、旧石器時代の人がどのように海を越えて日本列島へ渡ってきたかを、学術的根拠に基づいた実験航海によって解き明かそうとするもの。
 全長7.5メートルの丸木舟「スギメ丸」の漕ぎ手に、日本人・台湾人を中心にカヤックのガイドなどの経験豊富な男女5人が選出。
http://www.yaeyama-nippo.co.jp/archives/11046
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(63)

2020-10-22 00:00:00 | Weblog

この南ルートのホモ・サピエンスたちは、航海術に長けていたことを以前にも述べているが、この南ルートの子孫たちも海に対しては慣れ親しんだものであった。しかしこの沖縄ルートには流れのはやい黒潮が流れているので、一筋縄にはいかなかった筈だ。

台湾からすぐ近くにある与那国島や西表島には、簡単に行けるものと思われるが、さにあらず、この間には毎秒1.5mにもなると言う黒潮が流れているので、よほど工夫しないと直近の台湾からでは流されてしまう可能性がある。だから与那国島などに行くには、台湾の南に下ったところから船を出さないといけないのだ。多分の当時のホモ・サピエンスたちは、そのような工夫をして航海していったのであろう。

台湾の山に登れば、与那国島は望見できるので、彼らはきっと遠くには島があることを理解していたのではないのかな。

そうでもしないと、与那国島などへは行き着かない。そんなこんなで、八重山列島、宮古列島へは何とか到達出来たとしても、宮古島から沖縄島へは、当時の海面が低かった海でも220kmほどの距離の航海になると言う。しかも目的地となる沖縄島は、当然見えない。

およそ3万6500年前~3万年前の当時の旧石器時代のホモサピエンス達は、卓越した航海術と相当な覚悟で、男女合わせて相当数の人数で、大航海に乗り出していったものと思われる。何と言っても、沖縄島にも旧石器時代の遺跡が沢山あるから、彼らの航海は成功裏に終わったのである。

ただ彼らの大航海は、古本州島へそれほど影響を及ぼしていない、様に見える。
それよりも3万8000年前頃に、対馬海峡を渡ってきたホモ・サピエンスたちの方が、日本列島人についてはより重要な役割を果たしたものと思われる。

だから、この対馬海峡を横断する旧石器時代の航海の実験の方が、余程価値のあるものではないのかな。

この南西諸島の島々では、後期旧石器時代の人骨と遺跡が多々発見されているため、当時のホモ・サピエンスたちはどのようにしてこれらの島にたどり着いたのかと言う疑問が湧くのも当然のことではあるのだが。

国立科学博物館の海部陽介氏は、この南西諸島のホモ・サピエンスたちの遺跡の謎を明らかにするために、台湾から直近の与那国島への古代航海の実験を行っている。3万数千年前の技術と知見で、乗り物(船)を手作りして公開実験を行っている。

そこで彼らは、当時の記述で3種類の船を造り、実験している。

(1) 草束の船
(2) 竹筏の船
(3) 丸木舟

の3種類だ。結局(3)の丸木舟だけがあの黒潮を乗り切ることが出来た、と言う。





3万年前の航海
徹底再現プロジェクト 2016 – 2019 国立科学博物館

https://www.kahaku.go.jp/research/activities/special/koukai/

実験航海成功の後もさらなる企画が進行中

ご声援ありがとうございました!丸木舟到着!(©太田達也)

実験航海でたどった航路(画像クリックで拡大します)

2019年7月9日、台湾からやってきた1艘の丸木舟が、与那国島に到着しました。舟の名はスギメ。乗っていたのは男女5人。星や太陽を頼りに針路を定める古代の航海法で、黒潮を越え、水平線の彼方にある島を目指して225キロメートルを漕ぎ切ったのです――
これは、国立科学博物館が行った実験航海。今から3万数千年前に、「最初の日本列島人」が成し遂げた大航海を再現しようとする、一大プロジェクトでした。実験活動は2019年に終了しましたが、そこから解けてきた謎をお伝えするため、5つのメニューを用意しています。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(62)

2020-10-21 00:00:00 | Weblog

先の2万年前よりも古い遺跡の列挙図から、種子島の遺跡の年代が3万5000年前と飛びぬけてと言っても良いほど古いことがわかる。

このことから、種子島へは九州からホモ・サピエンスが渡ってきたものと思われる。

もう一つ、沖縄島の人骨化石・山下町第一洞穴遺跡3万6500年前?とかなり古いものである。?がついてはいるが、対馬海峡をホモ・サピエンス達が渡った時期が3万8000年前の頃であったので、ほぼそれと同時期に、ホモ・サピエンスたちは台湾からこの南西諸島(琉球列島)へ渡っていたのではないのかな、と言う推定が成り立つものと思われる。

しかも宮古島から沖縄島までの慶良間海峡の距離は、およそ220kmほどもある(P169)。相当の距離である。

対馬海峡の朝鮮半島・対馬・九州間の対馬の両側にある当時の40kmの海峡の距離とは桁違いに長い。ここを当時のホモ・サピエンスたちは、相当の覚悟で、しかもそれなりの人数で渡航したものと思われる。

だから、ひょっとしたら寒冷期には、この琉球弧は陸橋であったのではないか、と言った説もあった様だ。

しかし大隅諸島の海深は100m前後なので寒冷期には九州と一体となっていたが、トカラ列島や琉球諸島は海深が200~500mと深いために寒冷期でも陸続きになることはなかった。

そのため奄美群島や琉球諸島には、ヤンバルクイナとかイリオモテヤマネコ、アマミノクロウサギなどの固有種が存在しており、ずっと孤立した島嶼だった。
(イリオモテヤマネコはベンガルネコの亜種ではあるが、西表島で独自進化している。)

と言うことは、大隅諸島は別にしても、この南西諸島は陸続きなどになったことは一度もないのである。

だからホモ・サピエンスたちは歩いてこの琉球の島々にやって来たのではなくて、船に乗って渡ってきたことになる。
彼らは優秀な航海者だったのである。

漂流や少人数の移住などではない。先に紹介した人骨化石の遺跡の年代で分かるように、彼らは移住してから、一万年の単位でその島々で定住生活を送っていたのである。男女を含む相当の人数での移住であった筈である。

そして沖縄島の港川フィッシャー(裂け目)遺跡から見つかった2万年前の人骨(成人男性一体、成人女性三体)から推定すると、彼らの身長は男性155cm、女性145~150cm程度でかなり小柄であった(P158~159)。

またそれは、現在のオーストラリア・アボリジニと似ていると言う。このアボリジニはホモ・サピエンスの南ルートの移動者の子孫たちと考えられるので('20.09.17のNO.38参照のこと)、港川フィッシャーのホモ・サピエンスたちは、4万8000年前頃に南ルートを移動してきた集団の末裔たちであったのであろう。

石垣島の人骨化石・白保竿根田原遺跡(2万4000年前、墓地であったらしい)から採取できたミトコンドリアDNAのタイプも、中国南部か東南アジアに由来するものと言うので、これらのホモサピエンス達は、総じて南ルートをたどった集団の子孫であるとしてもおかしくはない。

南ルートをたどったホモ・サピエンスたちは、それほど精巧な石器は使用していなかったことを以前述べている(2020.09.17のNO.38参照のこと)。

この琉球諸島に渡ってきたホモ・サピエンスたちも、石器はそれほど使っていなかったようだ。


南西諸島は繰り返しになるが、次のようになっている。

薩南諸島
 大隅諸島  台形様石器、刃部磨製石斧、炉跡、焼け石、落し穴などがあり、古本州と同じ
 トラ化列島  明確なタイプの石器の出土はない。
 奄美群島  ?

沖縄諸島    石器の出土はない
 沖縄島など  サキタリ洞では、石器でなく貝器が出土している。日本初の発見である。
 ケマラ列島
 宮古列島
 八重山列島


旧石器時代の貝器の出土は、北海道~九州では出土していないので、沖縄のものが初の発見である、と書かれている(P162)。

だから沖縄地方の旧石器文化は本州との関係はほとんどなく、台湾経由で南方から伝わったものに違いない。

そしてこの旧石器時代の沖縄文化は、沖縄止まりで古本州島へは伝わっていないので、日本人の祖先に繋がるものとはなっていない、と推定される。反対に縄文時代以降、本州方面から沖縄地方へ移住が行われているようだ。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(61)

2020-10-20 00:00:00 | Weblog

そして、南西諸島の島一覧のうち、赤字の島には旧石器時代の遺跡が見つかっている島々である。

南から、2万年前よりも古い遺跡を列挙してみると、次のようになる(P147)、と言う。


石垣島  人骨化石 白保竿根田原遺跡(2万4000年前、墓地であったらしい)
宮古島  人骨化石 ピンザアブ(3万年前?)
沖縄島  人骨化石 サキタリ洞(2万3000年前、居住遺跡、貝製ビーズ、貝殻の道具)
沖縄島  人骨化石 港川フイッシャー(2万年前)
沖縄島  人骨化石 山下町第一洞穴遺跡(3万6500年前?
徳之島  遺跡のみ ガラ竿遺跡(3万年以前)
奄美大島 遺跡のみ 土浜ヤーヤ遺跡(3万年前)
奄美大島 遺跡のみ 喜子川遺跡(3万年前)
種子島  遺跡のみ 横峯C(3万5000年前)
種子島  遺跡のみ 立切/大津保畑遺跡(3万5000年前)


視覚的には次の地図を参照願う。


琉球列島とは




琉球列島は九州より南から与那国島まで続く小規模な島嶼が連なった列島です(台湾まで含めたものは琉球弧と呼びます)。
この列島は全体的に黒潮の影響を強く受け、また氷河期の前進と後退によって過去に形成された陸橋によって大陸と共通した種もみられ、小規模であるが故に河川が短く環境の変動が激しいなど、日本本土(北海道を除く九州以北)とは異なる独自の河川環境を有しており、そのため魚類相もかなり特殊です。

この琉球列島は生物相の違いや地質学的に更に区分することができ、
①トカラ海峡以北の北琉球
②奄美諸島、沖縄諸島を中心とする中琉球
③八重山諸島を中心とする宮古諸島以南の南琉球
の三つに分けられます。

上の三つの区分の中でも特に中琉球、南琉球の二地域は海域が黒潮によって台湾以南や北琉球以北と隔離されており、海を通じて分散する両側回遊魚の分布が種によっては他の地域と大きく異なっています。また、過去に地殻変動が多く起きた影響で河川の形態も日本本土とは大きく異なっています。

この為、近年の地球温暖化や塩分フロントの移動等の影響も有ってか、本地域では年によって生活史の一部を海で過ごす淡水魚の出現率や量に変化が見られ、度々新記録種が発見されています。

この様な現状の中、琉球列島の魚類の生活史や分散様式、正確な分布、バイオマスなど未解明な要素が未だ多く存在し、種ごとの情報の集積も求められています。

また、東アジア地域の中では低緯度に位置するため、熱帯性の外来淡水魚が定着しやすいという特性も有ります。上で述べたように本列島に自然分布する淡水魚相が混沌としている中、様々な移入種が定着することにより今迄の知見では予測できないような影響が懸念されています。

https://sites.google.com/site/ophieleotris/home/ryukyuislands
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(60)

2020-10-19 00:00:00 | Weblog

さて次は(2) 沖縄ルート、について考えてみよう。

台湾から九州・鹿児島まで、琉球列島の島々が円弧上に並んでいる。

ここはサンゴ礁から出来た島々のようで、石灰岩が豊富にあるので、人骨化石は程よく保存されている、と言う。事実沢山の人骨化石が見つかっている。


先ずは、琉球列島の島々を鹿児島県側(北)から順に、一覧表にしてみよう。琉球列島と呼ばれてはいるが、より公式的には、南西諸島と呼ばれている。書店で売られている地図上では、殆ど「南西諸島」と記載されている筈だ。

但し沖縄諸島以南の島々は沖縄諸島と先島諸島で、それらは「琉球諸島」と呼ばれている(列島ではない)。


南西諸島(琉球列島)

薩南諸島 / 鹿児島県
大隅諸島
種子島                  
屋久島
その他

トカラ列島
口の島    
中の島
諏訪の瀬島
その他

奄美群島
喜界島    
奄美大島
徳之島

沖永良部島
与論島
その他

琉球諸島 / 沖縄県
沖縄諸島
伊平屋島                      
伊是名島
沖縄島
粟国島
渡名喜島
久米島
その他

慶良間諸島
渡嘉敷島   
座間味島
阿嘉島
久場島
前島
その他

先島諸島
宮古列島
宮古島     
伊良部島
下地島
多良間島
その他

八重山列島
西表島   
石垣島
与那国島
波照間島
黒島
小浜島
竹富島
その他

尖閣諸島
魚釣島   
大正島
久場島
北小島
南小島
沖ノ北岩
沖ノ南岩
飛瀬

大東諸島
北大東島  
南大東島
沖大東島






南西諸島は、まあ、こんな具合になっている。

現在、あのバカ・チャンコロ中国が盛んに尖閣諸島沖に中国軍の海警局の公船を派遣しているが、これだけの長さの諸島を守るためには相当の人員の巡視船と自衛艦、更には航空機が必要となる。

日本も真剣に軍備増強などを考え、装備を整える必要がある。枝野のような馬鹿な無政府主義者などは、消えてもらいたいものだ。こいつらに日本を守る資格はない。

大東諸島は、南西諸島を底辺とする直角二等辺三角形(?)の頂点近くに位置しているため、この琉球列弧からは、相当離れているので、尖閣諸島と共に、今回のホモ・サピエンスの日本への渡航ルートからは外してもよい、と言うよりも外すべきであろう。
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