世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(27)

2024-05-24 00:00:00 | Weblog

さて乃木将軍は、1906(M39)年1月14日に東京に凱旋している。東京市民は全市を上げて歓迎したことは言うまでもない。 

 

そして「新橋駅から宮城に向かい、参内し、明治天皇に復命書を伏奏した。」と「乃木希典と日露戦争の真実」(P254)にはかかれている。 

 

その復命書の「肝」の部分は、次の文章である。 

 

 

乃木希典 「復命書」 

・・・ 

然ルニ斯ノ如キ忠勇ノ將卒ヲ以テシテ旅順ノ攻城ニハ半歳ノ長日月ヲ要シ多大ノ犧牲ヲ供シ奉天附近ノ會戰ニハ^退路遮斷ノ任務ヲ全ウスルニ至ラズマタ騎兵大集團ノ我左側背ニ行動スルニ當タリ之ヲ撃碎スルノ好機ヲ獲ザリシカバ臣終生ノ遺憾ニシテ恐懼措ク能ハザル所ナリ ・・・

                    キョウクオクアタワザル 恐れかしこまざるを得ないこと 

 

明治三十九年一月十四日

 第三軍司令官男爵 乃木希典 

https://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/e/295cce3e0642f7b3110b693bf79869c9 

 

口語訳 

( そして、このような忠義と勇気を兼ね備えた将兵を率いていながら、1旅順要塞の攻略には半年という長期間を要し、多大の犠牲を出してしまいました。2奉天付近の会戦では、^敵の退路を遮断する任務を果たすに至りませんでした。また、3敵騎兵の大集団がわが軍の左翼後方に行動するのを見ながら、これを撃破することができませんでした。これらは私が死ぬまで悔やみ続けねばならない失態であり、天皇陛下に対しましてはまことに申し訳なく、お怒りを恐れるばかりでございます。) 

 

乃木復命書・現代語訳 (coocan.jp) 

http://daimyoshibo.la.coocan.jp/mil/nogi.html 

 

 

1,2,3,の三項目が乃木自身が非常に残念なことと、大いに悔やんでいたことであるが、「乃木希典と日露戦争の真実」(P255)には、この何処かに「攻撃力ノ欠乏ニ因リ」の九文字が伏字となっていると書かれているので、きっと^の部分に書かれていたものと思われる。そしてそこには、 

 

こんなことから乃木が官僚的軍人から敬遠されるようになったと考えられないこともない。 

そしてそれが後の陸大戦史教育にまで尾を引いていったのかもしれない。」 

 

とも書かれているが、こんなことからも乃木将軍の、のちの巷の評価が芳しくない原因の一つとなったかもしれない、とも思うものである。 

 

しかしながら乃木大将は、1906(M39)年8月に明治天皇の勅命により現役陸軍大将の身分を保持しながら、宮内庁御用掛を拝命し、翌1907(M40)年1月31日に学習院長に就任する。 

 

乃木は恐懼して軍職辞して学習院長に専念したいと申し出るが、明治天皇はこれをお許しにならず、現職をもって兼任させよとの勅命が下されたのである。 

 

日露戦争における乃木の功績は全世界に喧伝され、乃木は二十世紀初頭の世界の名将として、その名声を博した。 

・・・と「乃木希典と日露戦争の真実」(P258)には書かれている。 

 

明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御あそばされた。乃木のとってはまさに青天のへきれきであった。 

 

明治天皇ご大喪の夜、御霊璽が宮城御出門の午後八時、乃木は静子夫人とともに自刃した。 

 

(注)御霊璽ゴレイジの璽は、本文ではクルマ篇に需であるが、その字が見当たらないため、璽としておく。御魂の(やどるもの)意味と解する。 

 

Wikipediaによれば、乃木の遺書には「委細は静子に申しつけておく」と言った内容が書かれているので、乃木自刃後も妻の静子が生存することを前提としていた、と書かれているがなんとしても、妻静子の自刃には涙を禁じ得ないものである。 

 

 

さて話は変わるが、「乃木希典と日露戦争の真実」の「あとがきにかえて」(P340)には次のようなエピソードが書かれているので、紹介しておく。司馬遼太郎の人となりの一端がわかるものである。 

 

昭和四十年代、『産経新聞』に司馬氏の『坂の上の雲』が連載されていたとき、私はその記述の誤りを見つけ二回ほど彼に手紙を出したことがあるが、まったくの梨の礫であった。同じ頃、私は阿川弘之氏の新聞小説についても二回ほど記述の誤りを指摘したことがあるが、その都度、同氏から丁重な令状をいただき、後日出版するときは訂正いたしますとの返事があった。このことから阿川・司馬両氏の人物の差を感じていたが、このときの電話を通じての司馬氏から受けた私の印象は、きわめて良かったように記憶している。」 

 

 

また「ロシア破れたり」のP247にも似たような記述があるので、それを紹介して、このテーマを終えよう。 

 

坂の上の雲六」のあとがき(P348)の真ん中部分に 

 

人間と人生について何事かを書けばいいとはいうものの、この作品の場合、成立してわずかに三十余年という新興国家の中での人間と人生であり、それらの人間と人生が、日露戦争という、その終了までは民族的共同主観のなかではあきらかに祖国防衛戦争だった事態の中に存在しているため、戦争そのものを調べねばならなかった。とくに作戦指導という戦争の一側面ではあったが、もしその事に関する私の考え方に誤りがあるとすればこの小説の価値は皆無になるという切迫感が私にはあった。その切迫感が私の四〇代のおびただしい時間を費やさせてしまった。」 

 

とあるが、「ロシア破れたり」のP247では 

 

・・・と自信のほどを示している。しかし、これに対する私の見解は、 

「司馬遼太郎は歴史に関する学識の不十分さこの作品で露呈した。」となってしまうのだが……。』 

 

と締めくくっているが、まさにその通りなのであろう。小生がここで指摘してきた「坂の上の雲」の中にみられる齟齬のすべてが、そのことを証明している、と言うことなのでしょう。

(終わり)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(26)

2024-05-23 00:00:00 | Weblog

そんな司馬の性格から、乃木の第三軍の参謀長であった伊地知幸介少将を、間抜けで能無しとして「坂の上の雲」を書いていったものと推察できる。 

 

この司馬の伊地知評価に対して、実際の伊地知幸介は有能で才覚のある参謀であった。 

 

事実、伊地知は同期の誰よりも早く昇進している。 

 

伊地知はM12年2月に砲兵少尉に任官し、 

伊地知はM17年4月に大尉に進級しているが、同期の 

長岡外史M20年4月に大尉に進級し、さらには優等生であった仙波太郎は 

仙波太郎M19年5月に大尉に進級。伊地知の方がずっと早く進級している。 

 

伊地知はM33年4月に陸軍少将にになっているが、同期では田村怡与造の二名だけであった。 

長岡外史M35年6月に陸軍少将になっている。二年遅れである。 

 

だから伊地知幸介がばかである筈がない、と乃木希典と日露戦争の真実(P263)には書かれている。 

 

しかも乃木将軍と伊地知幸介はドイツへの留学仲間であった 

乃木将軍はM20年1月からM21年6月までドイツに留学している。その時 

伊地知ドイツにあって、いろいろ将軍の世話をしており、将軍との因縁浅からぬものがある。このような両者の人間関係からしても乃木・伊地知のコンビはむしろ理想的な人事というべきではないか。」(同P264) 

 

 

もう一つ、司馬遼太郎の大きな間違い点を指摘しておこう。これも乃木希典と日露戦争の真実(P276~P277)に書かれていることであるが、大事なことであるので、次に紹介しよう。 

 

 

まず「坂の上の雲三」(P249)からの引用を載せる。二十八サンチ榴弾砲という巨砲を旅順の乃木のもとに送る話である。 

 

 この巨砲が旅順へ送られるという驚嘆すべき知らせは、むろん電信で打たれた。長岡が、乃木軍の伊地知あてに打った電文の原文は、つぎのとおりである。 

「攻城用トシテ、二十八サンチ榴弾砲四問ヲ送ル準備ニ着手セリ。二門ハ隠顕砲架、二門ハ尋常砲架ニシテ、九月十五日ゴロマデニ大連湾ニ到着セシメントス。意見アレバ聞キタシ」 

このみじかい電文の行間長岡の意気込みがよくあらわれている。 

「意見アレバ聞キタシ」 

というのは、現地軍に対する東京の心づかいのあらわれであった。姿勢が低い。 

 ところがこれに対する乃木軍司令部の返電は、歴史に大きく記録されるべきであろう。 

送ルニ及バズ 

 というものであった。古今東西の戦史上、これほどおろかな、すくいがたいばかりに頑迷な作戦頭脳が存在しえたであろうか。 

 

司馬遼太郎は「坂の上の雲三」(P249)でこき下ろしているが、実際にはこれと異なる。 

 

 

伊地知は盛んに弾薬の増加請求の電報を、東京の大本営に打っていた。その答えとして、「こちらも弾薬は不足しているが、二十八サンチ榴弾砲ならそれなりにあるので至急おくる」と言ってた内容にものであった。 

 

それに対する答えとして、「送ルニ及バズ」などとは返電していない。   

事実は次の様なものであった。 

 

 

貴官今日の電報に対し、十五糎臼砲を除き他の攻城砲のため約二万五百発を送るはずなり、最早此以上重砲弾を送るべきものなし、偏に節用を乞う。 

 攻城砲として二十八糎榴弾砲四門を送る。九月十五日頃大連湾に到着せしめんとす。これに対し意見あればききたし 

 

二十八糎榴弾砲ならあるから使ってくれ、と言った内容のものである。 

 

これに対して伊地知参謀長は次の様に返電している。 

 

二十八糎榴弾砲はその到着を待つ能はざるも、今後のため送られたし 

 

というものであった。司馬の言う「送ルニ及バズ」なんぞと言うぞんざいなものではなかったのである。 

 

如何に司馬遼太郎こと福田定一の「偏見・独断、悪意の大きさかわかるというものである。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(25)

2024-05-22 00:00:00 | Weblog

この状況を、「乃木希典と日露戦争の真実(P240)には次の様に書かれているが、パーフェクトゲームができたのであるが、総司令部が乃木軍の兵力を増強できなかったことが誠に悔やまれることであった。 

 

かくして、奉天会戦は日本軍の大勝利により終末を見た。 

日本軍の戦闘総員は約二五万九五〇〇名、死傷者七万二九名に対し、ロシア軍は約三〇万九六〇〇名のうち死傷者六万九三名、行方不明者二万九三三〇名を出した。 

 日本軍の戦果は、捕虜二万一七九二名、軍旗三旈、砲四八門、小銃三万四〇一三挺、馬一四八九頭、その他莫大な軍需品を獲得した。 

まさに曠古の大勝利と中外にホコッテ宇野であろう。 

 しかしながら、もし、我が満州軍総司令部の作戦指導において、更によろしきを得れば、・・・それこそ史上未曾有の大殲滅戦が我々日本人の手によって実現できたはずであった。まことに惜しみて余りあるものと言わざるを得ない。 

 もしも総司令部が作戦開始に先立って乃木の意見具申を採用し、乃木軍の兵力を四個師団とし、さらに会戦の途中でその総予備隊たる第三師団を乃木軍に増強していたならば、それこそ日本海海戦に比すべき陸のパーフェクトゲームが、このとき演出されたことであったろう。 

 

 

しかしながら、何はともあれ、日本陸軍は1905年03月10日(明治38年)にロシア軍を奉天から総退却に追い込んだのであるが、真の勝利は次の日本海海戦の大勝利まで待たなければならなかった。 

 

1905(M38)年05月27日~28日の日本海海戦は、ロシアバルチック艦隊38隻中弱小艦三隻を浦塩に逃しただけで、大半の戦艦を撃沈・拿捕の大勝利であった。まさに完全試合であった。日本連合艦隊は捕獲したロシア戦艦を引率して1905(M38)年05月30日に佐世保に帰還している。 

 

この大勝利で満州への兵員・物資の輸送の海上ルートの安全が確保され、日本にとって万全の態勢となったのであり、漸く日露両国間で講和の機運が生じてきたのであった。 

 

1905(M38)年08月、アメリカのポーツマスで講和会議が開かれ、九月五日、日露講和条約調印、そして九月十六日、日露両軍の間に休戦が成立したのであった。 

 

ここら辺の事情(日本海海戦や講和談判)については、小生のブログ「日韓併合100年」を参照されんことを。 

 

日本海海戦の詳細は、「日韓併合100年2011.06.14~23の NO..92からNO.99を参照願いたい。 

 

そしてそれ以降にはサガレン(樺太)の占領や講和談判の詳細が記載されているので、ご参照願う 

 

またそのNO.102には駐米公使高平小五郎について「坂の上の雲6」では、悪しざまにその能力がなかったと酷評しており、 

しかるに司馬遼太郎の「坂の上の雲6」の70頁では、高平小五郎を外交官に必要な経綸の能力が無かった、と酷評しているが、これは司馬遼太郎一流の「空想」であろう。したがって「坂の上の雲」は、検証しながら読む必要がある。 

日韓併合100年」のNO.102では小生は書いているが、

すでにこの時でも「坂の上の雲」に対しては、少なからぬ疑念を(小生は)もっていたものと思われる。 

 

どうも司馬遼太郎は、ちょっとしたことを種にして、人を馬鹿にすることが好きな質(タチ)の人間のようだ。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(24)

2024-05-21 00:00:00 | Weblog

要するに、「脇役だった乃木第三軍を主役とし、鴨緑江軍・黒木第一軍にも頑張ってもらう」と言う訳である。 

三月三日~五日は、右翼の鴨緑江軍・黒木第一軍も、正面の野津第四軍も、攻撃は頓挫。勇猛果敢に前進したのはまたしても左翼の乃木軍だけである。もっとも危険な先鋒を務めた乃木軍の東京第一師団は、充満するロシア軍に錐を深くもみ込むように突入し、三月四日午前に大転湾へ進出。旭川第七師団が李官堡を占領、金沢第九師団が張士屯へ進出した。』とロシア破れたり」のP229には書かれている。 

 

乃木軍はその後、たびたびロシア軍の強襲を受け、大損害を受けるものの、  

 

三月六日、乃木大将は、奉天包囲のため、「明日以降、東進し、奉天・鉄嶺間の鉄道線路を遮断する」と決断した。 

・・・乃木大将が、「我が軍が西方から回り込んで鉄道線路を遮断する奉天片翼包囲」へと作戦を変更させたのだ。 

これに対してクロパトキンは奉天・鉄嶺間の鉄道線路を守るべく、「ロシア軍正面から主力を引き抜き、乃木軍が迫る鉄道線路の西側へ大兵力を集中」させることにした。かくして乃木軍とロシア軍は、鉄道線路の攻防を巡って、大激突となる。 

 

ロシア破れたり」のP231には書かれている。 

 

満州軍総司令部も、この状況下なすすべもなく、ただひたすら乃木第三軍の進軍を督促した。 

 

このため疲労困憊した乃木軍であったが、この鉄道を遮断すべく動き出したために、ロシア軍は堅固な高台嶺、紗河堡・万宝山要塞から撃って出てきたのである。これで、日本軍二十五万人、ロシア軍三十七万人という大舞台による奉天会戦が戦われたのである。 

 

しかしながら、「祖国防衛戦争」であるという意識と、乃木希典という類まれな大将の薫陶下にあった二十五万人の日本兵は一糸乱れず懸命に戦い抜いたのである。 

司馬遼太郎の言う『「メッケルの戦術か日露戦争の満州における野戦にどれほどの影響を与えたか計りしれない」とほめそやしているが、これは史実にまったく反する見当違いの思い込みである。』(ロシア破れたり」のP237~P238 

 

クロパトキン、乃木軍の先鋒の第一師団十万のロシア軍対等以上に戦っていたことから、三万八千人の乃木軍を十万の大軍と見誤っていた。 

 

三月九日午後五時三十分クロパトキンはロシア軍全軍に鉄嶺への総退却を命じたのである。乃木軍の猛攻により、奉天・鉄嶺間の鉄道線路を遮断され、ロシア軍の退路を断たれてしまうと恐れたのである。 

 

乃木軍も砲弾を打ち尽くしてしまい、退却するロシア兵を満載した列車を阻止することができなかった。 

 

このため奥第二軍は、もぬけの空となった奉天へ難なく入城することができたが、この栄誉は乃木軍に与えられるべきものである。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(23)

2024-05-20 00:00:00 | Weblog

(19)  奉天会戦も、乃木軍の北進による北進により救われている。 

 

奉天会戦の図 

https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=8mpVyK97&id=879769511ECD0EB78D9E79B69138BF305AAB6F7A&thid=OIP.8mpVyK97GAIbIvcck-EPNwHaEu&mediaurl=https%3a%2f%2fhistory.kaisetsuvoice.com%2fimages%2fHouten-kaisen.jpg&exph=398&expw=623&q=•ò“V‰ïí&simid=608009869118033576&FORM=IRPRST&ck=125CED34DBDD13FEB65DEFEB5305EF2C&selectedIndex=0&itb=0&qpvt=•ò“V‰ïí&ajaxhist=0&ajaxserp=0 

 

 

https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=QEmCkXvW&id=E96DB7302A780C901791859E436D25B44F181EBB&thid=OIP.QEmCkXvWeGB1tN87yWo3DgHaFL&mediaurl=https%3a%2f%2fth.bing.com%2fth%2fid%2fR.404982917bd6786075b4df3bc96a370e%3frik%3dux4YT7QlbUOehQ%26riu%3dhttp%253a%252f%252fblog-imgs-69-origin.fc2.com%252fs%252fh%252fi%252fshibayan1954%252fb0012636_2105194.jpg%26ehk%3dhBId8%252f0JBOJl2q4ncmYUNmKKKNjZW4jxvDRJc7JvDSs%253d%26risl%3d%26pid%3dImgRaw%26r%3d0&exph=560&expw=801&q=•ò“V‰ïí+’n}&simid=608004616353427302&FORM=IRPRST&ck=A50FF51C5DE033A00FE1B658446F89CC&selectedIndex=0&itb=0&idpp=overlayview&ajaxhist=0&ajaxserp=0 

 

1905.2.24に、日本軍の右翼(は鴨緑江軍である。そして第一軍、第四軍、第二軍と中央に陣取り、左翼に旅順から駆け付けた乃木第三軍が布陣している。 

 

まず右翼の鴨緑江軍が動き、この後備部隊は奮戦よろしく清河城を占領する。そして第一軍と共に攻めあがると、ロシア軍は中央から援軍を差し向けた。 

 

そして三月一日には、乃木軍が四方台を占領すると、クロパトキンは正面の手持ちから援軍を乃木軍に差し向けた。 

 

これに乗じて日本軍中央の第四軍が沙河堡万宝山を攻撃するが、頓挫してしまう。この中央突破は困難となり、作戦を乃木軍の北進による奉天包囲作戦に変更せざるを得なかった。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(22)

2024-05-17 00:00:00 | Weblog

(18)  奉天会戦の「中央突破作戦」は奥羽戊辰戦争の白河城攻略戦の成功例を 

   踏襲したものであったが、司馬はこのことを知らなかったようだ。   

   ロシア破れたり」のP228。 

 

   この白河城攻略戦は、奥羽戊辰戦争での戦であり、劣勢の薩長軍が右翼 

   隊と左翼隊が夫々攻撃を仕掛けて、奥羽軍が中央から兵を左右に派遣し 

   たため、手薄になった中央を薩長の正面隊が突入して勝利した戦いであ 

   る。 

 

   奉天でこれをやろうということである。「坂の上の雲」(五)のP168 

   には次の様に書かれている。 

 

   「ただその中央突破作戦である。むろん、いきなり中央突破はしない。 

   まず、右を突く。敵は驚いてその方へ兵力を集中させるであろう。次い 

   で、ひだりをつく。敵はさらにおどろき、中央に控置してある兵力をそ 

   のほうに割くに違いない。その敵の混乱に乗じ、手薄になったいるはず 

   の中央を突破してゆく。というものであった。柔術の手に似ている。柔 

   術なら力学的合理性のみに則っているためになお単純であるが、この作 

   戦は曲芸もしくは奇術に近い。右を突き、左を突く。となれば、敵が右 

   へゆき、左へゆく。と言うことを期待したうえでこの作戦案は成立して 

   いるが、しかしながらそのように敵が注文どおりに踊ってくれるかどう 

   かである。 

 

   「この作戦は曲芸もしくは奇術に近い」と直接的に司馬遼太郎は述べて 

   いるが、この「白河城攻略戦」を知っていれば、もう少しは違った表現 

   の仕方があったはずである。 

 

   きっと司馬遼太郎はこの「白河城攻略戦」を知らなかったのであろう。 

   ・・・とロシア破れたりのP227~P228 には書かれているが、問題は 

   奉天会戦の結末である。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(21)

2024-05-16 00:00:00 | Weblog

(17)  陸大校長の井口省吾は好き嫌いが激しく、自分の頭で考える陸大教官を 

   すべて追い出し、自分に忠実なものだけを残した。 

   ロシア破れたり」のP205~207。 

 

  機密日露戦史」を書いた谷寿夫は、校長の井口に厚遇された一人である 

  が、谷は井口の指導に従順だったために、成績上位で卒業している。自分 

  で考える学生は教官と衝突して、成績が下げられがちであった。 

 

  この谷の「機密日露戦史」はかなりの力作ではあるが、井口の影響を受け 

  更には谷の個人的見解が強く、かなり偏っているものである、とも書かれ 

  ているが、司馬遼太郎は「坂の上の雲」を幅広く日露戦史を読み込むこと 

  をせずに、もっぱらこの谷の「機密日露戦史」を種本として書かれている 

  、ともP207には記載されているので、「坂の上の雲」は(前にも指摘し 

  おいたが)間違いばかりなのである。 

 

  ロシア破れたりのP218には、 

 

  乃木は第二回総攻撃前哨戦で九月二十日に龍眼北方堡塁と水師営堡塁と 

  ナマコ山を占領し、ナマコ山からの観測による二十八サンチ榴弾砲の砲撃 

  で九月三十日から十月三十日までに湾内のロシア軍艦を廃艦同然とし、海 

  軍への約束を果たした。乃木は自分の仕事をしっかりやっているのだから 

  、旅順戦は乃木に任せておけばよかったのだ。 

 

  と記されている。しかるに「坂の上の雲」では次の様に児玉が墜(オト)とし 

  た様に書かれているが、 

  (文藝春秋社「坂の上の雲」四,S46年第15刷(P125~126)) 

 

  これは「小説を面白くするための真っ赤なウソである。 

  (ロシア破れたりのP219  

 

  『「まず、一つ」と、児玉はその第一項を口早やに言った。 

  「二百三高地の占領を確保するため、すみやかに重砲隊を移動し、これを 

  高崎山に陣地変換し、もって敵の回復攻撃を顧慮し、椅子山の制圧に任ぜ 

  しむ」 

  「二つ。二〇三高地占領の上は、二十八サンチ榴弾砲をもって、一昼夜ご 

  と、十五分間を間して連続砲撃を加え、敵の逆襲に備うべし 

 

  ロシア破れたりのP219 には、更に次の様に書かれている。 

 

  旅順攻略の原動力になったのは児玉ではなく、乃木の人格である。乃木 

  の下で戦った桜井忠温も、「乃木のために死のうと思わなかった兵はいな 

  かったが、それは乃木の風格によるものである、(誰もが)乃木の手に抱 

  かれて死にたいと思った」(『肉弾』)とはっきり書いている。 

  私は乃木を愚将だったとも思わぬし、無能だったとも思わない。 

 

  これが本意だったのである。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(20)

2024-05-15 00:00:00 | Weblog

(16)  満州軍総参謀長を引き受けていた児玉源太郎は、危うくロシア軍の罠に 

    かかりそうになったが、古参の司令官達の判断で事なきを得る。遼陽会 

   戦のことである。 

    

   ロシア破れたりのP199~201には、次の様に書かれている。 

 

  「クロパトキンは・・・奥第二軍・野津第四軍が攻撃目標とした鞍山站アン 

  ザンテンのロシア南部兵団を、八月二十七日午前八時ごろ、折からの霧に紛 

  れさせて首山堡方面へと撤退させた。 

  これはロシア軍が最も得意とする戦略的退却である。 

  第四軍の司令官野津道貫は、眼前でロシア南部兵団戦闘を交えることな 

  く戦場を去っていくのを見て、首をかしげ、 

  「これは日本軍を誘い込み、逆襲に転ずる罠ではないか」と疑った。 

   

  奥第二軍でも南部兵団撤退を知ると、参謀長落合豊三郎少将が「騎兵に 

  よる偵察」を主張し、秋山好古少将指揮の騎兵第一旅団に命じて,偵察隊 

  を出動させた。・・・ところが児玉は、「クロパトキンは我が軍に恐れを 

  なして逃げ出したぞ。追撃のチャンスだ」と勝手に判断し、二十八日午前 

  五時三十分、「野津第四軍は早飯屯へ、奥第二軍は魯台子へ急進すべし」 

  と命じた。・・・しかし実際には、クロパトキンは逃げ出すどころか、…  

  総数二十二万余人の大軍で日本軍総勢十三万余人を撃滅すべく、首山堡・ 

  早飯屯・魯台子などを固め、手ぐすねひぃて待ち構えていたのだ。 

  ・・・強固な陣地が築かれ、ロシアの大部隊が待ち受けていることが分か 

  った。・・・と読み切り、野津も奥も…手前で全軍を停止させた。・・・ 

 

https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=oOrG4ZKu&id=7141E9ED28F5FEC2E9184063D1CE13744382D363&thid=OIP.oOrG4ZKuZGJ_UHBsEpzfcQAAAA&mediaurl=https%3A%2F%2Fth.bing.com%2Fth%2Fid%2FR.a0eac6e192ae64627f50706c129cdf71%3Frik%3DY9OCQ3QTztFjQA%26riu%3Dhttp%253a%252f%252fktymtskz.my.coocan.jp%252fmeiji%252fnitiro%252frosia%252fr123a.jpg%26ehk%3Dxbu3NereVsJWIf3R7fWNVPsncEqx4ULQ5UjcU9WXz4Y%253d%26risl%3D%26pid%3DImgRaw%26r%3D0&exph=406&expw=474&q=—É—z‰ïí+’n}&simid=608016526340524820&form=IRPRST&ck=FDBC256741F74584073D2817202D66CA&selectedindex=42&itb=0&ajaxhist=0&ajaxserp=0&vt=0&sim=11 

 

 

同P203にも次の様に書かれている。 

 

しかるに満州軍高級参謀井口省吾も、「ロシア軍は我が軍の武威に恐れをなし、遼陽をすててたいきゃくするのだ」と妄想し、野津や奥らの慎重姿勢に不満を募らせ、「急進命令は敵主力を包囲するためである。グズグズしては機会を失う。急げ!」と叱咤した。・・・もし参謀の井口省吾に従って作戦を立てていたら、間違いなく日露戦争は大敗北に終わっただろう。・・・ 

 

  とも、したためられている。 

 

  その後井口は陸大の教官、教頭校長を務めたが、井口が育てた後輩たち  

  は間違った戦術をとり、大東亜戦争敗戦へと引っ張り込んでしまったの 

  である。誠に悔しいことこの上ない。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(19)

2024-05-14 00:00:00 | Weblog

(15) 間違いの15、なぜ旅順要塞を攻撃しなければならなかったのか。 

   それは日本海軍が旅順艦隊を旅順港に取り逃がしてしまったからであ 

   る。黄海海戦で旅順湾口で待ち伏せを怠ったからである。p185~186 

 

   1904年8月10日、黄海海戦が始まる。旅順港からロシア艦隊はウラジ 

   オストクへ遁走を図ったのである。戦艦六隻・巡洋艦五隻など総勢 

   二十隻である。二時間半ほどの海戦で日本海軍は勝利するも戦艦四隻、 

   巡洋艦一隻が旅順港へ逃げ帰ってしまった。 

 

   連合艦隊作戦参謀の秋山真之が、高速の日本戦艦を旅順湾に先回らせて 

   旅順湾口で撃沈させるという「追撃戦」を怠ってしまったからである。 

   秋山真之が「艦隊決戦」という華やかな海戦に酔いしれてしまい 

   追撃戦に思いが至らなかったのである。 

  

   「それによって旅順要塞に対する陸軍の肉弾攻撃が必要になり、乃木 

   第三軍は五万九千人余の死傷者を出す。 

   しかも秋山は乃木第三軍に対し、 

   「旅順攻略に四、五万の勇士を損ずるも、さほど大いなる犠牲に非ず。 

   国家存亡に関すればなり。眼前(の日本将兵の)死傷の惨状は眼中に置 

   かず、(乃木第三軍は)全軍必死の覚悟をもって、この目的達成に勉る 

   ほか、他に策あるべきはずなし。」(『乃木第三軍岩村団次郎中佐宛て 

   明治三十七年十一月三十日付書簡』) 

   と要求した。鉄壁に卵をぶつけるような肉弾攻撃を強いられた乃木軍司 

   令部の憤怒はここにある。 

   乃木軍からすれば、 

   「どの口でいうか」 

   である。 

   この不満が、その後の陸海軍に暗い影を落とす。 

   とロシア破れたり」のP186には書かれている。これが「二・二六事 

   件」の底流にあったのであり、海軍の都合を優先して陸軍に多大な人的 

   犠牲を強いた秋山真之を私は、名将とも名参謀とも評することは出来な 

   いとも記されている。 

 

   秋山真之の海軍が確実に追撃戦を行っておれば、乃木第三軍は旅順での 

   過酷な要塞戦をしなくても済んだものであった。 

   誠に残念なことである。亡なられた勇士たちのご冥福をお祈り申し上 

   げます。 

(続く)

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(18)

2024-05-13 00:00:00 | Weblog

(14) 日露戦争後の陸大戦史教育の誤りについて。 

 

   それは戦史教育において、日露戦争における我が将兵の忠勇美談が大い 

   に活用されたことである。欧米に追い付けおい越せの風潮の中で、国民 

   皆兵の徴兵制度を採用して国力を高めざるを得なかった日本にとっては 

   やむを得ざることではあったが、そして「弾丸雨飛の中をものともせず 

   に、戦友の屍の山を乗り越え、銃剣をかざして敵陣地に突入するもので 

   なければ、忠勇美談の材料にはならないものである。桜井忠温タダヨシ 

   の「肉弾」がベストセラーになったように、旅順即肉弾という観念が国 

   民の中に深く定着してしまった。そしてこの肉弾と言う言葉が、国民を 

   大いに奮い起こさせ、肉弾攻撃を当然のものとして受け入れていたので 

   ある。ところが戦後国民の価値観が百八十度転換してしまうと、何であ 

   んな無茶な、馬鹿なことをしたのかと言うことに変わってしまう。」 

   「乃木希典と日露戦争の真実(p200~p201)には書かれているが、と 

   ころが「ベトンの要塞に肉弾をぶつけるとは何事か、人命軽視、無策も 

   甚だしいということになり、そんなことをやらせた乃木はけしからぬ、 

   無能と言うことになる。乃木にとってもまことに迷惑千万な話である。 

   ・・とも乃木希典と日露戦争の真実(p200~p201)には書かれてい 

   るが、こんなことから、乃木大将と伊地知参謀長の無能だという事に 

   司馬遼太郎の「坂の上の雲」は話を進めたのであり、誠に司馬遼太郎 

   という人物は罪深い人間である。 

 

   その証拠に伊地知幸介参謀長は、同期の長岡外史や井口省吾よりも三年 

   も早く中将に進級しているし、参謀副長の大場二郎中佐も同期生のトッ 

   プで大将に昇任し、教育総監になっている、とも書かれている。 

 

   真実は乃木大将が「戦上手」だったからこそ日本は救われた!「坂の上 

   の雲」は間違いばかり。とその書の帯封には書かれているが、これこそ 

   が真実なのである。 

(続く)

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