世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(20)

2024-05-15 00:00:00 | Weblog

(16)  満州軍総参謀長を引き受けていた児玉源太郎は、危うくロシア軍の罠に 

    かかりそうになったが、古参の司令官達の判断で事なきを得る。遼陽会 

   戦のことである。 

    

   ロシア破れたりのP199~201には、次の様に書かれている。 

 

  「クロパトキンは・・・奥第二軍・野津第四軍が攻撃目標とした鞍山站アン 

  ザンテンのロシア南部兵団を、八月二十七日午前八時ごろ、折からの霧に紛 

  れさせて首山堡方面へと撤退させた。 

  これはロシア軍が最も得意とする戦略的退却である。 

  第四軍の司令官野津道貫は、眼前でロシア南部兵団戦闘を交えることな 

  く戦場を去っていくのを見て、首をかしげ、 

  「これは日本軍を誘い込み、逆襲に転ずる罠ではないか」と疑った。 

   

  奥第二軍でも南部兵団撤退を知ると、参謀長落合豊三郎少将が「騎兵に 

  よる偵察」を主張し、秋山好古少将指揮の騎兵第一旅団に命じて,偵察隊 

  を出動させた。・・・ところが児玉は、「クロパトキンは我が軍に恐れを 

  なして逃げ出したぞ。追撃のチャンスだ」と勝手に判断し、二十八日午前 

  五時三十分、「野津第四軍は早飯屯へ、奥第二軍は魯台子へ急進すべし」 

  と命じた。・・・しかし実際には、クロパトキンは逃げ出すどころか、…  

  総数二十二万余人の大軍で日本軍総勢十三万余人を撃滅すべく、首山堡・ 

  早飯屯・魯台子などを固め、手ぐすねひぃて待ち構えていたのだ。 

  ・・・強固な陣地が築かれ、ロシアの大部隊が待ち受けていることが分か 

  った。・・・と読み切り、野津も奥も…手前で全軍を停止させた。・・・ 

 

https://www.bing.com/images/search?view=detailV2&ccid=oOrG4ZKu&id=7141E9ED28F5FEC2E9184063D1CE13744382D363&thid=OIP.oOrG4ZKuZGJ_UHBsEpzfcQAAAA&mediaurl=https%3A%2F%2Fth.bing.com%2Fth%2Fid%2FR.a0eac6e192ae64627f50706c129cdf71%3Frik%3DY9OCQ3QTztFjQA%26riu%3Dhttp%253a%252f%252fktymtskz.my.coocan.jp%252fmeiji%252fnitiro%252frosia%252fr123a.jpg%26ehk%3Dxbu3NereVsJWIf3R7fWNVPsncEqx4ULQ5UjcU9WXz4Y%253d%26risl%3D%26pid%3DImgRaw%26r%3D0&exph=406&expw=474&q=—É—z‰ïí+’n}&simid=608016526340524820&form=IRPRST&ck=FDBC256741F74584073D2817202D66CA&selectedindex=42&itb=0&ajaxhist=0&ajaxserp=0&vt=0&sim=11 

 

 

同P203にも次の様に書かれている。 

 

しかるに満州軍高級参謀井口省吾も、「ロシア軍は我が軍の武威に恐れをなし、遼陽をすててたいきゃくするのだ」と妄想し、野津や奥らの慎重姿勢に不満を募らせ、「急進命令は敵主力を包囲するためである。グズグズしては機会を失う。急げ!」と叱咤した。・・・もし参謀の井口省吾に従って作戦を立てていたら、間違いなく日露戦争は大敗北に終わっただろう。・・・ 

 

  とも、したためられている。 

 

  その後井口は陸大の教官、教頭校長を務めたが、井口が育てた後輩たち  

  は間違った戦術をとり、大東亜戦争敗戦へと引っ張り込んでしまったの 

  である。誠に悔しいことこの上ない。 

(続く)

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