世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(47)

2020-09-30 00:00:00 | Weblog

次の中国の旅行会社のネット記事には、同じ水洞溝遺跡の説明でも、彼らの功績には一切触れていない。これでは開かれているように見えても(実際は見えないが)、独裁国家中国の面目躍如と言ったところか。

よく読んでも要点がはっきりしない、と言うことがよくわかる。



水洞溝遺跡

水洞溝遺跡は中国では最も早く発掘された旧石器時代遺跡の1つです。寧夏回族自治区霊武市臨河鎮に位置し、銀川市から西へ約19km、霊武市から南へ約30km、そして河東空港から約11kmに離れた所にあります。北は内モンゴルオルドス(鄂爾多斯)市と接しており、敷地面積は7.8k㎡です。

水洞溝遺跡は黄河の1級の支流に属し、旧石器時代末期の原始人の発祥地です。寧夏の霊武市と塩池県が接する所にある宝塔から始まり、明長城の南側に曲がって芒哈図を経由し黄河の主流へと流れこんでいます。全長は60km、流域面積は950k㎡。水洞溝の幅は50-200m、深さは6-14m。両側は茶褐色のカルシウムの土が分布しています。河沿いに泉が湧き出し夥しい小さな穴が形成されていたことから、「水洞溝」と名づけられました。

水洞溝遺跡には明長城、紅山堡(明長城防衛体制の一つ)、蔵兵洞、鴛鴦湖、水洞溝村があります。水洞溝遺跡には素朴な雅丹地貌が保存され、東西の文化交流の歴史や、自然との闘いの歴史が残され、また大昔人類の繁殖と生存を記録しているため、豊富でかつ貴重な先史研究資料があります。

この遺跡は人々に今から3万年前の人類の生存の様子を見せてくれます。今まで中国が黄河地域で唯一正式に発掘した旧石器時代の遺跡です。80数年来、6回の考古発掘を行い、水洞溝で石器3万数点、古代動物の化石67点が出土されました。

その中で、水洞溝文化の基礎を構成する石製品、道具及び石器製作修理技術は、ヨーロッパ、西アジア、北アフリカのモスト、オーリニャック時期の人類の居住地の石器と同じく素晴らしいものです。とりわけ、数多くの出土された大量のワットの婁石核は、ヨーロッパの古いオーリニャック文化の形と似ています。
https://www.arachina.com/yinchuan/attraction/shuidonggou.htm


水洞溝遺跡には、次のような石碑が建っているようだ。
これは、この↓URLのもの 。
https://note.com/kodemise/n/n2f729cc85926



周口店の遺跡にある原人像



https://allabout.co.jp/gm/gc/448899/



さてここまで来たら、ホモサピエンスは達はどのようにして日本列島に渡って来たのかと言う、興味ある問題に行き着く。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(46)

2020-09-29 00:00:00 | Weblog

 また、オルドスの西南方には、かつて甘粛省の東端がふかく入りこんでいたが、その一角(慶陽=チンヤン)において、リサンは一九二〇年、いまは絶滅した動物の化石を、多量に発見した。
 さらに、その上をおおっている黄土層の下部から、いくつかの石英のかけらを見つけだしたのである。
 この石片には、たしかに人間の手で加工したあとが認められた。そうすると、ふつうの石ではない。
 人間がつくった石器ではないのか。しかも、出土した地層から考えると、いわゆる旧石器ではないのか。
 それが旧石器ならば、中国大陸にも旧石器時代から人類が住みついていたことになろう。

 もちろん、このころは北京人類の存在など、知られてはいなかった。
 周口店における原人類の化石が公表されたのは、それから六年後のことなのである。

(注)Wikipediaによれば、1921年にスウェーデン人の地質学者が歯の化石を発見しており、1929年には中国人の考古学者が完全な頭蓋骨を発掘している、と記されている。70~80万年前のものだと書かれている。シナンチロプス・ペキネンシスは旧学名で、現在はホモ・エレクトス・ペキネンシスが正式名称のようだ。

 リサンの調査はつづいた。一九二三年から二四年にかけては、テヤール・ド・シャルダンの協力をえて、オルドス方面をしらべまわった。
 テヤールはフランスにおける古生物学の権威である。そうして二人はオルドスの南辺を走る長城線の西端に近い水洞溝というところで、ついに確実な旧石器時代の住居址を発見したのであった。
 水洞溝の遺跡からは、たくさんの打製石器が見つけだされた。
 これらの石器をつくるにあたって、けずりとられた石片も、五〇センチの厚さの層のなかにちらばっていた。
 その全体の重量は五キロをこえた。炉のあとからは、木炭片も採集された。
 また、おそらく食用に供したのであろう、野生のロバの骨片もあった。
 さらにリサンは、オルドス砂漠のなかシャラ・オソ・ゴル)からも、太古の動物の化石といっしょに、旧石器の類を見つけだした。
 骨に彫刻をほどこした遺物まであった。これもまた疑いもなく、人類の住んでいた遺跡である。
 しかし残念なことに、当時の人類の遺骨を発見することはできなかった。
 わずかに砂漠の地表から、旧石器時代人のものかと思われる犬歯を、ひろうことができただけであった。
 オルドスの人類は、いつごろの、どのような人類だったのであろうか。
 当の人類の骨、それも頭骨のような、重要な部分が見つからなかったから、確実なことはいえない。
 しかし石器のつくりかたなどをみると、ヨーロッパ旧石器の中期あたりのものと、似かよっている。
 いっしょに出土した動植物の化石などについても、ほぼ同様のことが認められる。
 そこから、オルドス人類は、ヨーロッパにおけるネアンデルタール人と、ほぼ同じ段階のものと推定された。
 やがて中国ではシナントロプス(北京原人)が発見された。
 これはもちろん旧石器の初期に属するもので、いまから五十万年ほど前にあらわれたものと推定される。
 それにくらべると、オルドス人類はずっと新しい。
 といっても、いまから十万年あまりは隔たっているのであろう。
 何十万年といえば、気の遠くなるような長い期間である。その長い期間のあいだに、中国大陸においても、人類は住みよい環境をもとめながら、場所をかえつつ、しかも進化をつづけていったのである。
 そうして旧石器時代の末期になると、中国の北部には、春のおとずれとともに西北方のゴピ砂漠から、つめたい風が吹きこんでくる。
 このころは、地質学のうえでいう第四氷河期にあたっていた。その影響が中国にもおよんだのである。
 内陸からの風は、おそるべき量の黄色い砂塵(さじん)をはこんだ。
 それは五万年ちかくにもわたって、中国の北部に降りそそいだ。
 黄色い土は、こうして大地に積もってゆく。その高さは、ところによっては二〇〇メートルをこえた。
 いまや中国の北部は、黄土におおわれた高原となった。
 その間、人類は洞穴を住み家として、きびしい自然に対したのであろうか。
 北京の西南方にある周口店の石灰岩の丘の上部で見いだされたいわゆる「上洞」の遺跡は、そのころの人々の生活や埋葬の仕方をしめしている。
 やがて氷河時代が終わると、中国にも暖かい気候がおとずれた。
 砂にかわって、雨が降る。黄土の高原の上に、たくさんの川が流れはじめた。
 川は黄土をけずりとり、ふかい谷をつくりながら、黄土を下流へとはこんだ。
 そのなかで、もっとも大きな川が黄河である。
 大地の様相が一変したのにともなって、人類も新しい生活にはいっていった。


黄土地帯


・・・・・・・・・・・・・・

http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/W/akebono/ake8.htm


この水洞溝の遺跡の発見・発掘は、フランス人の自然科学者であった宣教師のエミール・リサンテヤール・ド・シャルダンの協力のたまものであったが、彼らの働きがなければ、この水洞溝遺跡の発見はなかったものであろう。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(45)

2020-09-28 00:00:00 | Weblog

(1) バイカル湖周辺のホモサピエンスは、ヒマラヤの北側を迂回してきた者である。(横断説
(2) ヒマラヤの南回りで東南アジアに来た者達がバイカル湖まで北上したものではない。
(3) バイカル湖周辺への定着は、2万8000年前のことである。→4万6500~4万4500年前
(4) 北極圏のヤナRHS遺跡は、3万1000年前の遺跡であるが、寒冷化に伴い2.8万年前頃に
  は人々はバイカル湖周辺まで南下してきた。→ヤナRHSは3万3000年前
(5) 1万6000年前頃の温暖期には、温暖となりシベリアに進出、そしてアメリカに渡った。
                             →1万5000年前頃
(6) この南回りのホモ・サピエンスは、オーストラロ・メラネシアンの祖先である。
(7) 東アジア人は、オーストラロ・メラネシアンとは全く異なっている人種である。
(8) バイカル湖のホモ・サピエンスたちが、東アジアへ移動してきた(1万年前頃)。
                             →4万~3万8000年前

話の筋としては、おおよそ 海部陽介氏の主張と一致しているが、如何せん時期が全く異なっている。上記の表での赤字で示した年代が、海部陽介氏の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)に記述されているものである。

当ブログの2020.09.10のNO.33では、ホモ・サピエンスの拡散の4つのブロックの地図を示したが、北ブロックから南に行くとすぐに東アジアのブロックにぶち当たる。そこでは南北ブロックの合流点としていた。

感覚的には南ルートのホモ・サピエンスたちが北上したと言うよりも、北ブロックのホモ・サピエンスたちが、何らかの理由で南下したものと思われる。即ち、モンゴルにもバイカル湖周辺で見た石刃技法による石器や骨角器や各種の装飾品(?)が発掘される後期旧石器時代の遺跡が存在しているようだ。但しはっきりしていない様だが、4万1000年前、場合によっては4万5000年前頃まで遡るかもしれない、と言われている。

そして中国に入り、寧夏回族自治区のオルドス市のすぐ南側に位置する「水洞溝遺跡」がある。
ここからは石刃技法による石器やダチョウの卵殻製のビーズなどが見つかっている。人骨は見つかってはいないが、後期旧石器時代の遺跡で3万8000年前頃の可能性がある(P104)と言われている。

南ルートでは石刃技法が発達していないので、アジアの北と南ではかなり異質の文化圏があったことになる、とP104には記されている。

この北東アジアでのホモ・サピエンスの人骨の発見は、ほとんどないようだ。だが中国北部の田園洞(周口店第27点)で見つかった人骨はホモ・サピエンスのもので、この田園洞人は3万9000年前のものであった。と言うことは、中国北部から朝鮮半島に石刃文化が広がった年代と重なるもので、この頃には確実にホモ・サピエンスがこの地区にまで進出していたと言うことである。そしてその先には、日本列島が存在している。そのころの日本列島には豊富な動植物が存在していたようで、日本の旧石器時代の遺跡は1万ヵ所以上存在しているのである。

更には、周口店遺跡群の山頂洞からも、1930年代に人骨が発掘されている。この山頂洞は北京原人が発掘された洞窟のすぐ上にある別の洞窟であり、3万4000~1万2000年前と諸説あると言われているが、これらの頭骨は現代東北アジア人の平坦な顔と言う特徴はないので、この山頂洞人は現代の東北アジア集団の形態特徴が進化する前の段階の人々だったのであろう、とP106~107では述べている。

現代東北アジア人の平坦な顔と言うものは、一種の寒冷地適応のカタチだと言われているので、この北ルートのホモ・サピエンスたちは、ネアンデルタール人のようには寒冷地適応前の人々だったようだ。




8 黄土文明のあけぽの
(http://ktymtskz.my.coocan.jp/E/W/akebono/ake8.htm)
 1 オルドス旧人 top

 中華民国が発足した翌年、すなわち一九一三年、ひとりのフランス人宣教師が、中国にわたってきた。
 その名を、エミール・リサンという。リサンは、ただの宣教師ではなかった。
 すぐれた自然科学者であり、とくに地質や動植物について、ふかい造詣をもっていた。
 そこで、天津(テンシン)において博物院を経営するかたわら、一九一四年からは中国の北部一帯をあるきまわり、地質をしらべたり、古い動植物の化石をあつめたり、さかんな活動をつづけたのであった。

 その足跡は、黄河の上流地方にまでおよんだ。
 黄河の流れをさかのぽってゆくと、函谷関(かんこくかん)から潼関(どうかん)をこえたところで、北へ折れる。
 つまり東流していた黄河が、そこからさきは南流している。この流れの東方が山西省であり、西方が陜西(せんせい)省である。
 そうして黄河は、陜西省と、その北につながるオルドスの砂漠地帯を大きくの字型につつんで、流れている。
 万里の長城は、このの字型の黄河の中央部を横ぎって、きずかれた。
 長城の線から北方がオルドス地方であり、そこはモンゴル高原の一部でもあった。
 リサンは、このオルドスの南辺にまで足をのばしたのである。

リサンは長城の線から北方のオルドス地方にまで足を延ばした

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(44)

2020-09-25 00:00:00 | Weblog

旧人と新人のこの違いは、音を発する喉の構造にわずかな違いがあり、ネアンデルタール人は複雑な言葉を発することが出来なかった、と言われている。これに対して、ホモ・サピエンスは
上記にもあるように複雑な言語を発することが出来たのであり、そのことは即ち物事を順序立てて考えることが出来る脳の機能に直結している、と言うことに繋がっているのである。

そのためホモ・サピエンス達は、集団で意志の疎通がうまくできたことにより、共同作業が行われ食料の確保もうまく行えたものと思われるし、衣服などの寒冷地対応も工夫していったのであろう。

上記の論考では、ヤナRHS遺跡は3万2000年前の遺跡であると書かれているが、一説には3万1000年前であるとする記述もあるが、ここでは、海部陽介氏の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)に従い、3万3000年前の遺跡としておこう。



人類の起源と人類の拡散
【人類の移動】~「歯」から推測する北東アジア人の起源 ~北上説VS横断説

麻丘東出  (  55  兵庫  ) /03/28 AM02

人類(ホモ・サピエンス)は、ユーラシア北東部(バイカル湖周辺)に移動・定着し北方適応したが、その起源には「北上説」と「横断説」がある。
北上説」は、(現在多くの研究者が考えている)最初にアフリカを出たのち、レバント(西アジア)地域からインドを経て、ユーラシア大陸を南回りで移動してきた東南アジアの集団が北上した横断説とする説。
北上したバイカル湖周辺で北方適応し(→北方モンゴロイド)、そこからシベリアにまで移動適応したのち、アメリカ大陸へ移住したと想定している。
横断説」は、北上説では遺伝性と保存性が高い「歯」からの推測と不整合があることから、レバント(西アジア)から、ヒマラヤ山脈の北側のステップ地帯やシベリアを横断したとする説。

■北方適応したのは、遺跡から推測すると2.8万年前ごろ

氷期の寒さが厳しさを増しつつあった2.8万年前ごろ、バイカル湖周辺の北緯50~60度の地域で、人々が活発な活動を繰り広げていた証拠が多くある。「2.3万年前のマリタ遺跡(リンク)やウスチ・コヴァー遺跡など」から知られているその文化は、大量の動物を狩る技術が発達し、豊かな動物資源を利用して、質の高い機能的な住居や防寒衣が作られるようになったことを下地に発展したと考えられている。
そのため、ユーラシア北東部に移動し北方適応を果たした時期は、2.8万年前頃と考えられる。

一方、シベリアの北極海に近いヤナ河流域に「3.1万年前のヤナRHS遺跡(リンク)」が発見されている。ウラル北部でも4.2万年前ごろに人の居住がはじまっているらしい。ただしこれらの遺跡の証拠をもって、人々が4万~3万年前ごろから極地域へ定着したと結論することはできない。この時期は最終氷期の最終冷期へ至る前のやや温暖な時期に相当し、ヤナRHS周辺でも動物相が豊かであったが、これ以降この地域の居住条件は悪化し、やがて極地砂漠のような状態へと変化していったことが知られている。こうした条件下では、人々は南シベリア方面への避難を余儀なくされたと予測される。そして、極地域でヤナRHS遺跡に次いで古い遺跡は、氷期が終結に向かい気温が上昇してきた「約1.6万年前のベレリョフ遺跡」になる。
このことから、4万~3万年のシベリア居住は、やや温暖期の一時的定住で、極地シベリア適応するのは1.6万年前頃と考えられる。

★上記から推測すると
・[4万~3万年前頃]やや温暖期に、ユーラシア北東部、北極海に近いシベリアにまで移動。
・[2.8万年前頃]寒冷化にともない南下し、バイカル湖周辺で北方適応。
・[1.6万年前頃」最終氷期(ウルム氷期)最寒冷期のあと温暖期に北上し、シベリアに移動し定着。
・[1.6万年前頃以降シベリアからアメリカ大陸へ


■歯がヒトの進化や系統を解明する手段として有効な根拠

遺跡に残る遺体は骨や歯などの硬組織に限られる。最近では骨や歯に残るコラーゲンからDNAが分析されることが多くなっているが、よほど良質の状態でないと抽出は困難である。それに比べ、
歯は身体のなかで最も硬い組織で、遺体が長い年月にわたって地中に埋没し骨が溶失しても、歯だけは残っているケースが多い。
歯の歯冠と呼ばれるエナメル質の部分は、遺伝性が強くさまざまな形の特徴を有する。人類の歯の形態の変異は、現在知られているだけでも数十形質にも及び、歯には多様な遺伝情報があるとみなされている。
歯冠のエナメル質の部分は、幼児期の早いうちに早々に顎骨の中で形成され、成長期の早い段階で完成するため、以降の成長期の栄養状態や生活様式の影響を受ける骨に比べ、その形成において環境に左右されにくい。
これらの理由により、進化や系統について多くの情報を引き出すことが可能と、ヒトの進化や系統を解明する手段の一つとして、古くから盛んに行われてきた。

■北上説VS横断説

歯の形態からは、東南アジア北東アジアの南北の集団の間には大きなギャップがあり、両者が祖先と子孫の関係にあったとはいいにくい。
日本からはるかかなたに位置するペルーの人々は、とりまく環境が大きく異なるうえ、両者は1万年以上前に分岐した可能性があるにもかかわらず、互いの歯の特徴は極めて似ており、現在に至っても同じ歯の特徴を有している。
一方、東南アジアは日本や中国からは地理的にもずっと近いにもかかわらず、この地域の中石器時代の人々の歯の形質が大きく異なっており、オーストラリアメラネシアなどの人々と緊密な関係にあることがわかっている。このグループはアンダマンの人々とも近いことから、アフリカから南回りでやってきた現生人類に由来するという見方は妥当。
遺伝性の強いはずの歯の形態が大きく異なっている北東アジア人の由来は、東南アジアから北上した可能性だけでなく、西アジアからヒマラヤ山脈の北側のステップ地帯やシベリアを横断した「横断説」の可能性がある。

★★歯の形態から想定した人類の移動
・[12万~8万年前頃]:アフリカ→レバント(西アジア)
【1】ユーラシア大陸南回りルート
・[8万年前]レバント(西アジア)→スンダランドへ
・[?年前 ]スンダランド→東南アジアへ
・[5万年前]スンダランド→サフルランドへ(オーストラリアなど)
【2】ユーラシア大陸横断ルート(ヒマラヤ山脈北側ステップ地帯やシベリア横断
・[4万~3万年前頃]レバント(西アジア)→シベリアへ(やや温暖)。
・[2.8万年前頃]シベリア→バイカル湖周辺で北方適応(寒冷で南下)。
・[1.6万年前頃」バイカル湖→シベリア(最終氷期あと温暖化で北上)。
1.6万年前頃以降]シベリア→北アメリカ大陸へ
1万年前頃?]バイカル湖(→北東アジア)→東アジアへ
【3】ユーラシア大陸西ルート
4万年前]レバント(西アジア)→ヨーロッパへ

★歯から推測する横断説に立てば、東南アジア人と東アジア人は、その起源が全く異なることになる。
また、北方モンゴロイドと南方モンゴロイドの関係はどう説明するか?
また、アメリカ大陸へは横断ルート、日本へは南回りルートが基層とすると、日本とペルーの歯の特徴が極めて似ているのはなぜか?


※参照文献:「人類の移動誌」

http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=313592


この論考での結論は、概略次のようなものであろう。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(43)

2020-09-24 00:00:00 | Weblog

夥(おびただ)しい数のマンモスの骨、装飾品の中に、動物の骨で作られたケースに収められた縫い針>(マンモスの骨などで作製)、精巧な防寒着・・・現代のエヴァンキ族に継承。
 

 

 

 



道具作りと言語が脳の近い活動領域・ブローカ野と判明。目標に向かって順序立てて考えるという点で似た構造を持ち、共に進化して来た。
 


ホモ・サピエンスほどネアンデルタール人は複雑な言語道具を持てなかった。縫い針や狩りの飛び道具・アトラトル。
 

 

 
 

*


(縫い針による)極寒と(石斧による)海流の克服。~北米から南米の南端まで到達。~千年前までにハワイなど南太平洋の島々にも到達。
 
 

 

 



https://ameblo.jp/aauasks/entry-12390913753.html

ネアンデルタール人とホモ・サピエンス(例えばクロマニオン人)との違いは、複雑な言葉を発することが出来るかどうか、と言うことであった様だ。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(42)

2020-09-23 00:00:00 | Weblog

そして北極圏内にもホモ・サピエンスの遺跡が存在しいる。その遺跡の存在しているところは、ロシアのヤナ湾の北極海から僅か140kmほど内陸に入ったところである。当然北極圏である。
地図を見ると、レナ川とインジギル川の間にヤナ湾があり、そこにヤナ川が注いでいる。

ヤナRHS遺跡はそのあたりである。

炉跡も沢山見つかっており、ある発掘地点からは7000点以上の石器、1500点以上の骨角器、おびただしい数の動物の骨が発掘されていると、その書のP98には記述されている。
骨、角、象牙で作られた道具としては、槍先や錐などの他に特質すべきは、糸を通す小さな穴が開けられた縫い針が26点と、それを収納するための骨の”ケース”までも見つかっている、とP99には記述されている。

しかもアクセサリー類も豊富で、ビーズ、ペンダント、髪飾り様の象牙製品、など多数だ。

公表されている充実した信頼できる年代測定値は、なんと3万3000年前となっている。

但しその後氷期の寒さが増してくると、彼らは寒さを避けて南下したようだ。そして寒さが和らいで温暖になった1万5000年前には、再度シベリアへと出向いていった様だ。

Wikipediaによればヤナ川は2ヵ所にあるようで、当然ここで言うヤナ川は北極海にそそぐ川を言う。





https://ja.wikipedia.org/wiki/ヤナ川

次の論考には、
動物の骨で作られたケースに収められた縫い針(マンモスの骨などで作製)の写真が載っているので参考までに、ご一読願う。



NHK-Gスペシャル 「人類誕生」  2018-07-15 11:00:53
https://ameblo.jp/aauasks/entry-12390913753.html

・・・・・・・
□ なぜ極寒の地に進出できたのか?

北緯70度、ロシアの極寒の大地に、ヤナRHSという3万2千年前の遺跡が見つかった。
石器時代のホモ・サピエンスが、他の人類たちが辿り着けなかった北極圏にも進出していた証拠だ。
熱帯生まれのホモ・サピエンスにとって、極寒の地は過酷な環境であった筈。
なぜ進出し、どうやって耐えたのか。
その謎を解くカギとなる道具が、ヤナRHSから見つかった。
サピエンスは、画期的な発明品を武器に、寒い土地でも豊かに暮らしていた可能性があると言う。
サピエンスの偉大な力を明らかにする。
 

 


・・・・・・・・・・


北の方からやって来た初期の人たちの痕跡はどうか。
シベリアのストゥデョノエ2遺跡、当時は陸続きだった北海道。千歳市・柏台1遺跡・・・2万5千年前の石器・細石刃(さいせきじん)。
当時の地球は氷河期の真っ只中だったが、極北にはマンモスなど巨大動物が多く生息していた。
極寒の地で生きることを可能にした道具とは。マイナス40℃の北極圏ロシア・ヤナRHS遺跡でロシア科学アカデミー: ウラジミル・ピトゥルコ博士が発見。
 

 

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(41)

2020-09-22 00:00:00 | Weblog

先に紹介した地図によれば、バイカル湖の東側にも後期旧石器時代の遺跡が存在している。

それらの年代は、信頼性の高いものだけを選び出して年代データを見較べてみても、4万8000年前から4万年前後期旧石器文化のものだと言うので、このカラ・ボム遺跡4万6500年前と言う年代は間違ったものではなかろう。

つまり考古学的には、かなり古い時期に、アルタイからトランバイカルまで1800キロメートルに及ぶ範囲にまでホモ・サピエンスが広がっていたことが類推できるのである

と記している(P88~89)。

しかも、2014年の秋には、そのホモ・サピエンスの骨が、アルタイ山脈から西北へ1200キロメートルほどの地点のウスチイシムから発見されている。人の大腿骨の化石で、4万5000年前のものであった。

だから、予想外に古くから、アフリカから拡散したホモ・サピエンス達は、この寒冷なシベリアの地にまで広がっていたことになる。

だから海部陽介氏は、ホモ・サピエンスのシベリア到達は相当遅れるものだと思っていたので、かなりびっくりしたと言う。当然であろう。

この5万年近く前の時期は今よりももっと寒さが厳しく、森林ではなくツンドラステップが広がっていた筈だ。そして、ウマ、トナカイ、ジャコウウシ、ケサイ、マンモスなどの大型動物が闊歩していた筈だ。

そのため、「初期ホモ・サピエンスがわざわざこんな場所へ進出したのは、もしかするとここが魅力的な狩猟場であったからかもしれないが、とにかく彼らの前には、未経験の厳しい自然が立ちはだかっていた。」と記述されている(P90)。

彼らがこのシベリア南部の厳しい自然の地に進出したのは、この食糧問題のためであったのであろう。そうでもなければ、好き好んでこんな厳しい所へは進出しなかった筈だ。

しかもヨーロッパへも進出せずに、先ずは南シベリアへ初期のホモ・サピエンスたちは進出していた訳だ。とするとヨーロッパはもっと寒かったはずだ。

それにヨーロッパには旧人のネアンデルタール人が、先住民として繁栄(?)していたから尚更だ。

この南シベリアにも、先住者としてのネアンデルタール人がいた。デニソワ洞窟で見つかった化石人骨は、DNA分析でネアンデルタール人の系列の旧人であった。

彼らは、ホモ・サピエンスたちよりも早くから寒いヨーロッパで進化してきた、と考えられている。およそ50万年もの長期に亘って、ヨーロッパを支配していた筈だ。

だから、寒さには強い身体構造に進化していた。彼らの体形は、化石から、胴長短足(脚)・腰幅が広く腕・脚は比較的短く、関節が大きくて全体的にがっしりしていた。

この体形は、身体の体積に対する表面積の割合が小さく、体熱を逃しにくくて寒冷地に適した体型だという。ネアンデルタール人は、50万年にわたってこのように寒い地域で、身体構造を進化させていたのだ。北極地方のイヌイット(エスキモー)も、このように胴長短足傾向の体形をしている、と言う。

現代のアフリカ人は、細身で腕と脚が長い体形をしているが、これは、体熱を放散しやすくするためなのだ。アフリカで誕生した初期のホモ・サピエンスはこのような体型であった。

だから、5万年前から4万5000年前頃に、南シベリアに到達したホモ・サピエンスたちは、ネアンデルタール人の様に寒さには強い体形ではなかった筈だ。

そのようなホモ・サピエンスたちが、早い時期にシベリア南部まで広がっていたと言うことは、予想外であり且つ大変興味深いことであった。

体形的に寒冷対応を果たしていなかったホモ・サピエンスたちは、よほど食糧問題に困っていたので、敢えて大型動物が闊歩していたシベリア方面へと進出していったのではないのかな。

当然寒冷地対応は、技術と文化でこれを克服していった、筈だ。

氷期のシベリアで生き抜いてゆくためには、おそらく機能的な住居と衣服、火を使って暖をとる技術、そして長く暗く食べ物が不足しがちな冬を乗り切るための食糧保存技術などが必要だったはずだ。」とP94には書かれている。

この後期旧石器文化では、中期旧石器文化(ネアンデルタール人)と異なり、石器の作り方の多様性や骨角器、装飾品の存在、そして住居の存在などで中期旧石器文化とは本質的に異なっていたという。

小生には詳しくは説明はできないが、後期旧石器時代にはそれまでにはない「石刃技法」という両刃の細長い石器から複数の石器を創り出す技法が発達している。

そうして作られた掻器や彫器は、この時代の石器である。掻器は、基本的には皮なめしの専用具である。毛皮から脂肪分をそぎとるための石器であり、石器の頭部が円弧になっておりそぎ取るに適した形状となっている。

この石器が発見されれば、毛皮のなめしが行われていたことになるものである。

彫器は、今で言う彫刻刀である。骨角器を作るための道具であり、中期旧石器時代には骨角器は存在していなかった。釣り針や縫い針、更には卵殻や骨や歯からビーズやペンダントなどの装飾品などが作られていた。この身を飾る行為は、ホモ・サピエンスの独特の行為であった。

更には洞窟の外に開けた所に、石を並べて住居(テントを張り)をつくり、炉で煮炊きや暖を取っていた。

つまりここへやって来た祖先たちは、ネアンデルタール人にはなかった技術を持ち、それで寒さを克服していったのである。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(40)

2020-09-21 00:00:00 | Weblog

みんぱくリポジトリ
国立民族学博物館学術情報リポジトリ National Museum of Ethnology Repository
東アジアにおける中期~後期旧石器初頭石器群の変
遷過程

折茂 克哉
国立民族学博物館調査報告
2002-12-20
・・・・・・・・・・・
3.5カラ・ボム遺跡における中期~後期旧石器石器群の変遷

従来,中期~後期旧石器の過渡的段階として位置付けられてきたカラ・ボム遺跡は,ここで紹介したように,一・つの石器群として捉えられるものではない。中期,後期旧石器合わせて8文化層が確認され,その変遷過程はおよそ3段階に分けられることが明らかにされた。特に注目すべきは,今まで漠然と考えられていた中期~後期旧石器の過渡的な石器群というものが,実は過渡的というような曖昧なものではなく,中期の石器群と後期の石器群とに明確に分けられたことであろう。

出土している石核の形態だけ見れば,ムステリアン文化層にも後期旧石器5-6文化層にも,ルヴァロワ型石核と石刃石核そしてその両者の中間形態のようなものがある。しかし,剥離されている剥片と石刃の割合や,石器の素材として用いられている石刃の割合は,大きな違いを見せているのである。つまり,石器群の変遷を考える上で重要なのは,ルヴァロワ技法から石刃技法が出現するという過程ではなく,作られる石器とその素材の変化によって表される石器製作技術全体の変化であることを示唆している。石器の素材となる剥片形態の変化が,結果としてルヴァロワ型石核と石刃石核の割合に反映しているのである。

ムステリアン文化層では剥片素材だった彫器や掻器が,後期旧石器5-6層では石刃素材になっていることは,両文化層の問に石器製作技術上の違いがあることを示している。ルヴァロワ尖頭器ではなく,石刃を素材として先端部に二次加工を施す尖頭器が出現することも注目される。また,石刃石核については,ルヴァロワ技法による石刃剥離だけでなく,以前には見られなかったような,盤状の石核の小口面から石刃を剥離するものが,後期旧石器5-6層で多くみられるようになり,この時期の特徴的な石核になっている。

このようなカラ・ボム遺跡の後期旧石器5-6層に代表される石器群を,デレビヤンコらの報告者は「カラボムスキー・ブラスト(Kapa60McK並n皿acT)」2)とよび,その分布範囲は,図6に示すように,シベリアのみならず,中央アジアや西アジアまで広がりを見せているとしている(πepeB朋Ko, neTpHH, Pb16照, qeBa∬KoB l 998;几epeB朋Ko, neTp胚H,Pb16HH 2000)o

・・・・・・・・・・・・

https://minpaku.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=2002&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=13&block_id=21


この地図を拡大して見ても、4のデニソワと7のカラ・ボムとの間はそれほどの距離はないように見えるが、海部陽介氏はデニソワ洞窟の発掘キャンプでの国際会議に参加していた時に、デニソワからカラ・ボムに車で訪問したのであるが、行けども行けども草原が続きなかなかカラ・ボムには着かなかったと言っている。

まあ地図の縮尺などを参考にすれば距離感覚は掴めるのではあるが、この地図で見てもデニソワとカラ・ボムは近くに見える。しかし相当な距離なのであろう。

しかもこの北緯50度の地帯は相当寒い。現在でも冬季は、マイナス15~20℃になると言うので、ホモサピエンス達がここを歩いた氷期の時期はもっと寒かったはずだ

祖先たちは、何故そんな場所へ行ったのであろうか、という疑問が湧いたと氏は述べている。

ここの地層では、「中期旧石器文化の地層の上に、後期旧石器文化の地層があるので、おそらくここで古代型人類(ネアンデルタール人だろう)からホモ・サピエンスへの交代が起こったにちがいない」と記されている(P85~86)。

そして後期旧石器文化の最下層の年代は、何と4万6500年前だと言う。これも発掘した箇所の炉跡から取り出した炭のサンプルの、放射性炭素年代測定値だと言う。かなり正確なものであろう。

これは驚くべきことで、かなり早い段階から人類は、この寒冷な南シベリアへ進出していたことになる、と記している。


ホモ・サピエンスの到達年代

(1) 4万6500年前 南シベリアへの進出
(2) 4万8000年前 アジア南部への進出
(3) 4万5000~4万3000年前 ヨーロッパへの進出



このように温暖なアフリカ大陸から広がっていったホモ・サピエンスたちは、寒さの厳しいシベリアへの進出は相当遅れてもよさそうなものを、このようにヨーロッパへ進出するよりも早く、アジアへ進出する時期とそれほど遅れてはいない、と記されている(P86)。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(39)

2020-09-18 00:00:00 | Weblog

さて、そろそろ北ルートのホモ・サピエンスたちの集団の話に移ろう。

北ルートとは、2020.09.10のNO.33で掲載した世界地図での北ブロックをめぐるルートである。

モンゴルの西の端・アルタイ山脈の北の麓を、バイカル湖方面に向かって進むルートであろう。


当時のホモサピエンス達は、現在の地図で言うと、カザフスタンからアルタイ山脈の北の麓のこの地域からは、中期旧石器時代と後期旧石器時代の各種の石器が出土するそうで、どうも一大遺跡地帯のようである。かなり専門的になるが、この地図は次のものから借用しているので、一度訪れてほしい。(4がデニソワ遺跡、7がカラ・ボム遺跡)

それによると(生噛りであるが)この遺跡は、62000年前から40000年前頃のものらしい。ロシア領に入り、バイカル湖方面に向かって歩いていったものであろう。

海部陽介氏の「日本人はどこから来たのか?」(文芸春秋社)のP85には、そこの中心遺跡である「カラ・ボム」遺跡のことが書かれている。北ルートにおける最古のホモ・サピエンスの遺跡と目されるものである。

この近くには、旧人であるデニソワ人と言う古代型人類の骨が発見されたデニソワ洞窟も、その近くにある。このデニソワ人は、ネアンデルタール人と同系列の旧人のようだ。

カラ・ボム」遺跡を海部陽介氏が訪れたときは7月だったと言うが、とても寒かったと書かれている。そこは、北緯50度に位置している。樺太の中央部分が、丁度北緯50度たから、寒い筈だ。

カラ・ボム」遺跡がある場所は、4つの国の国境が接する地点のすぐ北側だ。

即ち、西のカザフスタンと東のモンゴルが一点で国境を接し、そこへ南にはチベットがその一点に接しており、北側はロシア領だ。一点で4カ国が国境を接している地点である。そのロシア領にカラ・ボムはある。


下図によると、””がカラ・ボム遺跡で、””がデニソワ遺跡である。

オビ川の上流のカトゥニ川の上流に位置している。この地域は、ゴルノアルタイ地方と言うそうだ。



https://minpaku.repo.nii.ac.jp/index.php?action=pages_view_main&active_action=repository_action_common_download&item_id=2002&item_no=1&attribute_id=18&file_no=1&page_id=13&block_id=21



この地域からは、中期旧石器時代と後期旧石器時代の各種の石器が出土するそうで、どうも一大遺跡地帯のようである。かなり専門的になるが、この地図は次のものから借用しているので、一度訪れてほしい。(4がデニソワ遺跡、7がカラ・ボム遺跡

それによると(生噛りであるが)この遺跡は、62000年前から40000年前頃のものらしい。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(38)

2020-09-17 00:00:00 | Weblog

洞窟を訪ねる2日前、私たちはサラワク博物館で「ディープスカル」と対面した。

ふだんは館長室で厳重に保管され、めったに人目に触れることはないらしい。

館長は、白い紙箱からうやうやしく骨を取り出す。

茶褐色で薄く、何かはかなげだ。

40000年の時を超え、身内と向き合っているような気分になる。

「思ったよりきゃしゃですね。骨と骨の結合部分にまだ成人になりきっていない特徴もある」。

海部はいろいろな角度から観察し、そんな感想を口にした。


「ディープスカル」の発見現場は、半世紀前のまま残されている。

周辺では、焦げた跡や傷のある動物の骨、木の実の毒を抜くために灰とともに埋めたと見られる穴の跡もみつかった。

森で生き抜く知恵をもって暮らしていた「祖先」の姿が、目に浮かぶ。

「ディープスカル」の主は、その形態などから「オーストラリアやタスマニアの先住民に似ていたのでは」と推測されてきた。

海部や藤田が研究している沖縄の旧石器人も、同じような集団の仲間だった可能性がある。


海部は研究者になった16年前から、ニア洞窟に来るのが夢だったという。

「日本人のルーツを辿る旅で、ニア洞窟は避けて通れませんから」。



約20万年前にアフリカで生まれた現生人類は、中東からインドを経て東南アジアにやって来た。

そこからユーラシア大陸を北へ、様々なルートで日本列島を含む北アジア各地に広がっていったと考えられている。

「ディープスカル」の主は、アジアに入ってきた初期の人たち、つまり日本人の遠い祖先だった可能性がある。


午後4時ごろ、洞窟の外は猛烈なスコールに見舞われた。

雨に洗われる新緑の木々を洞窟の中から見ていると、まるで大画面のスクリーンのよう。

雨は一滴も入ってこない。

風雨を避けられる一方、十分な光は差し込んでくる。

「祖先」たちのいた場所は居心地がいい。


ただ、やがて彼らは、慣れ親しんだ洞窟を後にする。

行く先々で何が待っているのかもわからないまま、あちこちに散っていった。


海部は言う。

その好奇心と、何とかなるという自信、これがホモサピエンスの証じゃないかな」。

もし「祖先」たちがニア洞窟に留まっていたら、日本を含む東南アジアの歴史は変わっていたかもしれない。

彼らが前に踏み出してくれたおかげで、日本人はここにいる。

https://blog.goo.ne.jp/blue77341/e/0cff0f11f15c185eb4a9c0c060d4922d


ここでひとつ注記しておかなければならないことがある。

それはインドシナ半島からスンダランドに至る地域では、4万8千年から4万7千年前までにはホモサピエンスが到達していたのであるが、石器に関しては粗雑な物しか見つからない、というのだ。

岩宿遺跡でも細石器は沢山出土しているが、この東南アジアの地域における石器は、「礫器」と「不定形剥片」と呼ばれるものが主体であり、石ころをたたき割り鋭い刃のような部分を作って、こぶし状部分を握って道具として使ったものであり、またその時に出来た割れ落ちた剥片の鋭利な部分を道具として使ったものばかりであったようだ。

インドでは細石刃は出土しているが、東南アジアではこのようにある意味雑な石器しか出土していないことは、謎である、としている(P70~)。熱帯雨林であったため、吹き矢だとか網だとか言った他の道具を多用したのかも知れない。

このような、ある意味雑な石器文化は、中国南部の白蓮洞、黄地峒、台湾の八仙洞などでみられる、という(P78)。

しかしながら、北ルートでのホモ・サピエンスの石器文化は、これよりももっと洗練されたものである、と記述されている(P79)。

従って日本へ渡ってきたホモ・サピエンスたちは、北ルート主体か、南北混合チームのホモ・サピエンスたちではなかったのかな。但し海の航海術は「南ルート」のホモサピエンス達の方が長けていたのではないのかな。


(続く)
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