世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

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司馬遼太郎の偏見と独断、そして悪意(27)

2024-05-24 00:00:00 | Weblog

さて乃木将軍は、1906(M39)年1月14日に東京に凱旋している。東京市民は全市を上げて歓迎したことは言うまでもない。 

 

そして「新橋駅から宮城に向かい、参内し、明治天皇に復命書を伏奏した。」と「乃木希典と日露戦争の真実」(P254)にはかかれている。 

 

その復命書の「肝」の部分は、次の文章である。 

 

 

乃木希典 「復命書」 

・・・ 

然ルニ斯ノ如キ忠勇ノ將卒ヲ以テシテ旅順ノ攻城ニハ半歳ノ長日月ヲ要シ多大ノ犧牲ヲ供シ奉天附近ノ會戰ニハ^退路遮斷ノ任務ヲ全ウスルニ至ラズマタ騎兵大集團ノ我左側背ニ行動スルニ當タリ之ヲ撃碎スルノ好機ヲ獲ザリシカバ臣終生ノ遺憾ニシテ恐懼措ク能ハザル所ナリ ・・・

                    キョウクオクアタワザル 恐れかしこまざるを得ないこと 

 

明治三十九年一月十四日

 第三軍司令官男爵 乃木希典 

https://blog.goo.ne.jp/joseph_blog/e/295cce3e0642f7b3110b693bf79869c9 

 

口語訳 

( そして、このような忠義と勇気を兼ね備えた将兵を率いていながら、1旅順要塞の攻略には半年という長期間を要し、多大の犠牲を出してしまいました。2奉天付近の会戦では、^敵の退路を遮断する任務を果たすに至りませんでした。また、3敵騎兵の大集団がわが軍の左翼後方に行動するのを見ながら、これを撃破することができませんでした。これらは私が死ぬまで悔やみ続けねばならない失態であり、天皇陛下に対しましてはまことに申し訳なく、お怒りを恐れるばかりでございます。) 

 

乃木復命書・現代語訳 (coocan.jp) 

http://daimyoshibo.la.coocan.jp/mil/nogi.html 

 

 

1,2,3,の三項目が乃木自身が非常に残念なことと、大いに悔やんでいたことであるが、「乃木希典と日露戦争の真実」(P255)には、この何処かに「攻撃力ノ欠乏ニ因リ」の九文字が伏字となっていると書かれているので、きっと^の部分に書かれていたものと思われる。そしてそこには、 

 

こんなことから乃木が官僚的軍人から敬遠されるようになったと考えられないこともない。 

そしてそれが後の陸大戦史教育にまで尾を引いていったのかもしれない。」 

 

とも書かれているが、こんなことからも乃木将軍の、のちの巷の評価が芳しくない原因の一つとなったかもしれない、とも思うものである。 

 

しかしながら乃木大将は、1906(M39)年8月に明治天皇の勅命により現役陸軍大将の身分を保持しながら、宮内庁御用掛を拝命し、翌1907(M40)年1月31日に学習院長に就任する。 

 

乃木は恐懼して軍職辞して学習院長に専念したいと申し出るが、明治天皇はこれをお許しにならず、現職をもって兼任させよとの勅命が下されたのである。 

 

日露戦争における乃木の功績は全世界に喧伝され、乃木は二十世紀初頭の世界の名将として、その名声を博した。 

・・・と「乃木希典と日露戦争の真実」(P258)には書かれている。 

 

明治四十五年七月三十日、明治天皇が崩御あそばされた。乃木のとってはまさに青天のへきれきであった。 

 

明治天皇ご大喪の夜、御霊璽が宮城御出門の午後八時、乃木は静子夫人とともに自刃した。 

 

(注)御霊璽ゴレイジの璽は、本文ではクルマ篇に需であるが、その字が見当たらないため、璽としておく。御魂の(やどるもの)意味と解する。 

 

Wikipediaによれば、乃木の遺書には「委細は静子に申しつけておく」と言った内容が書かれているので、乃木自刃後も妻の静子が生存することを前提としていた、と書かれているがなんとしても、妻静子の自刃には涙を禁じ得ないものである。 

 

 

さて話は変わるが、「乃木希典と日露戦争の真実」の「あとがきにかえて」(P340)には次のようなエピソードが書かれているので、紹介しておく。司馬遼太郎の人となりの一端がわかるものである。 

 

昭和四十年代、『産経新聞』に司馬氏の『坂の上の雲』が連載されていたとき、私はその記述の誤りを見つけ二回ほど彼に手紙を出したことがあるが、まったくの梨の礫であった。同じ頃、私は阿川弘之氏の新聞小説についても二回ほど記述の誤りを指摘したことがあるが、その都度、同氏から丁重な令状をいただき、後日出版するときは訂正いたしますとの返事があった。このことから阿川・司馬両氏の人物の差を感じていたが、このときの電話を通じての司馬氏から受けた私の印象は、きわめて良かったように記憶している。」 

 

 

また「ロシア破れたり」のP247にも似たような記述があるので、それを紹介して、このテーマを終えよう。 

 

坂の上の雲六」のあとがき(P348)の真ん中部分に 

 

人間と人生について何事かを書けばいいとはいうものの、この作品の場合、成立してわずかに三十余年という新興国家の中での人間と人生であり、それらの人間と人生が、日露戦争という、その終了までは民族的共同主観のなかではあきらかに祖国防衛戦争だった事態の中に存在しているため、戦争そのものを調べねばならなかった。とくに作戦指導という戦争の一側面ではあったが、もしその事に関する私の考え方に誤りがあるとすればこの小説の価値は皆無になるという切迫感が私にはあった。その切迫感が私の四〇代のおびただしい時間を費やさせてしまった。」 

 

とあるが、「ロシア破れたり」のP247では 

 

・・・と自信のほどを示している。しかし、これに対する私の見解は、 

「司馬遼太郎は歴史に関する学識の不十分さこの作品で露呈した。」となってしまうのだが……。』 

 

と締めくくっているが、まさにその通りなのであろう。小生がここで指摘してきた「坂の上の雲」の中にみられる齟齬のすべてが、そのことを証明している、と言うことなのでしょう。

(終わり)

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