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世の中、まちがってる、根拠なき反日キャンペーン。

相も変わらず根拠なき反日キャンペーンで、国をまとめようとする輩が存在する。

日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(26)

2020-08-31 00:00:00 | Weblog

5万年近く前に、ホモサピエンスがユーラシア大陸から日本列島に渡ってきたというのであれば、さもありなんとは思えるのであるが、渡来人が水田稲作を持って朝鮮半島から日本へやった来たことを言うのであれば、それはないことである。

話は、これと全く逆であり、日本人が朝鮮半島に渡って縄文文化を移植していったものであった。だから朝鮮半島では、日本の縄文土器や弥生土器が出土し、20基近くの前方後円墳まで存在しているのである。古代朝鮮では、統治者は日本人かそれに近い人物であったのである。

例として挙げてある言葉は、日本語が朝鮮語に取り入れられたものである。だからに日本語の発音となっているのである。このようには考えなかったのであろうか。


無数に存在しているではないか。」の文言については、言葉の事を言っているのか。これでは何を意味するのか、わからないのではないのかな。朝鮮語・ハングルと日本語が似ているから、「朝鮮から日本に多数の渡来人・朝鮮人が流れ込んできた」と言っているのか。

これこそ朝鮮人の得意とする捏造である。


反対に、日本の縄文人は長江(揚子江)の下流域の河姆渡地区にまで進出していた、ということが分かっているのである。

小生のブログの「邪馬台国とはなんぞや?(23)」(2018.09.12)では、次のように記載している事を思い起こしてほしい。



・・・・・・・・
長浜氏はこのことを、この習俗と無縁だった大和朝廷の影響力が、畿内全域に拡大していったことを暗示している、と書いている(先の書70頁、以後長浜浩明氏の「古代日本『謎』の時代を解き明かす」(展転社)を先の書と呼ぶことにする。)。

日本の入墨の習俗はどこからもたらされたものかは、必ずしも明らかではないが、黥面文身は海に入って魚などを取るために、サメなどの攻撃を避けるためのものであったもので、魏志倭人伝にも次のように書かれている。


今、倭の水人、好んで沈没して、魚蛤(ぎょこう、はまぐり)を捕う。文身し亦(ま)た以て大魚・水禽(すいじゅう)を厭(はら)う。後稍(や)や以て飾りとなす。諸国の文身各々異なり、あるいは左にしあるいは右に、あるいは大にあるいは小に、尊卑(そんぴ)差あり。


諸国の文身各々異なる」と書かれているように、各地の倭人には黥面文身の習慣があり、魏国ではその情報が共有されていたようだ。

紀元前一世紀(BC91年頃)に成立したと言われている史記に、当時の江南地方の非漢人には入墨の習慣があったと言う記述があると、先の書には書かれている。

更に次のようにも記載されている(先の書、67~68頁)。

学習院大学の諏訪春雄教授は、揚子江下流域の江南地方の馬橋文化(4千年前~2千7百年前)の時代、ここから「大量の縄文土器が出土している」と次のように書き記していた。

「直接手に取ってこの土器を見せてもらったが、私の目では、日本の縄文土器と区別がつかない程良く似ている。日本の縄文土器は、馬橋文化の出土品より古く遡るが、日本の縄文時代と江南文化との交流は興味深い研究課題である」(161)(『日本人はるかな旅4』NHK出版)

縄文時代の人たちはこの地にも進出し、入墨の風習を取り入れた可能性もある。・・・


そして先にも記述しておいたが、各地で黥面絵画の書かれた土偶が出土するようになった訳であるが、二~四世紀になると黥面絵画が発掘される地域は限られており、その間近畿地方からは一つも黥面絵画が出土していないと、先の書には書かれている(70頁)。 
・・・・・・・・・


また2020年8月13日のNO.14では、水田稲作に関して、次のように記している。

「当時の倭人は河姆渡の水田稲作を知っていたのではないのかな。縄文時代晩期にも、河姆渡には倭人はいたかも知れない、と言う事は考えられないか。」

やはり河姆渡には、日本の縄文人がある程度(人数と期間)住んでいた、と言うことである。水田稲作は、縄文人が河姆渡から持ち帰ったものである可能性が、すこぶる高くなったと言うことである。

可能性がすこぶる高くなった、ではなくて、河姆渡から持ち帰ったと断定しても良いのである。



ともあれ縄文、弥生文化という可視的な範囲で
われわれ日本人の先祖の大多数は朝鮮半島から流れ込んできたことは
否定すべくもない。


と言っているように、縄文から弥生にかけての渡来のことを想定したものであるからして、こんなことは全く有り得ないことである。
朝鮮半島から流れ込んできたのではなくて、反対に、日本列島から朝鮮半島に人や文化が流れ込んでいた、と言うのが歴史的事実なのである。

だから、金達寿氏などの朝鮮人の得意とする捏造である、といったのである。


2020.08.12のNO.13では、日本と朝鮮の稲作の開始時期の表を掲載しているが、陸稲も水稲も日本の方が相当早かったことが分かっているし、2020.08.10のNO.11では、「紀元前1万年から前5000年までの5千年間は韓国国立中央博物館の年表では空白となっており、ほとんど遺跡が発見されていない」と記述されているように、日本の縄文時代の草創期から早期に当たる時代には、朝鮮半島は無人の荒野であった訳だ。


2020.08.12のNO.13から引用、

    朝鮮            日本            中国・河姆渡遺跡
陸稲 BC1000(3000年前)  BC4000(6000年前)  
水田 BC 500         BC1000(3000年前)  BC5000(7000年前)

朝鮮での陸稲はBC1000年頃と言う事は、およそ3,000年前のことであるが、日本では先に説明しているように朝寝鼻貝塚彦崎貝塚で、6,000年前にはイネは確実に栽培されていたことが分かっているので、日本の方が韓国より3000年も早くからコメが栽培されていたことになるのである。

従って朝鮮のコメ(陸稲)は、日本の縄文人が半島に持ち込んだものと考えても、間違いがないことでしょう。




だからこんな朝鮮から「日本人の先祖の大多数は朝鮮半島から流れ込んできた」などと言うことは、全く有り得ないのである。だから福田定一こと司馬遼太郎は、考え方が偏向している、といったのである。

ましてや「日本語」が朝鮮のハングルから分かれて成立したなどということは、全くの虚偽・捏造である。これこそ朝鮮人の得意とする偽造なのである。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(25)

2020-08-28 00:00:00 | Weblog

司馬遼太郎先生と街道をゆく 9 司馬先生とゆく琵琶湖西岸
2020-01-28 13:51:44
テーマ:
ブログ

司馬遼太郎先生と街道をゆく 9

 
日本人の血液の6割以上は朝鮮半島をつたってきたのではないか
と おっしゃる司馬先生。
 
しかし
それでは日本語と朝鮮語という言葉の違いはどうなるのか・・・・・・等々
難問百出。
 
いっぽう日本語と朝鮮語の分岐は・・・・・・・・・・・・6千年前という計算方法がアメリカにあるそう
である??

第1巻 甲州街道 長州路

 
1章 湖西のみち





 
湖西の安曇人
 
私の友人ーーといえば先輩にあたる作家に対して失礼だがーー金達寿氏と話していたとき
「日本人の血液の六割以上は朝鮮半島をつたって来たのではないか」というと
「九割 いやそれ以上かもしれない」

金達寿氏は
『三国志』のころの将軍のような風貌をほころばせながら笑った。

私はそうかもしれないと思いつつも
「それではみもふたもない」と
閉口してみせた。
 
それでは日本語のなかに語彙として痕跡をとどめている南方島嶼語をもちこんだ連中ーー黒潮に乗ってーーはどうなるのかとか
あるいは東シナ海を横切ってきた華南大陸からの連中や
またさらにこまかくいえばその連中の血液に微量ながら混入していたはずのユダヤ人やアラブ人の血はどうなるのか
といったこと
そして数量的にはいまの学説ではあまり過大に考えられないと言うにせよ
アイヌ人の血などはどうなるのか
と思ったりするが
ともあれ縄文、弥生文化という可視的な範囲で
われわれ日本人の先祖の大多数は朝鮮半島から流れ込んできたことは
否定すべくもない。

 
まず言語的に語法、音韻とも 日本語は北方系に属する。
 
朝鮮語はその地理的環境から
中国語という異質言語との接触がふかくて 一見
日本語とは遠くなっているようだが
語法の骨格は同じである。
 
現代朝鮮語のあの舌の運動のむずかしさをのぞいては
日本人は朝鮮語の生活会話(五百ほどの生活会話)をおぼえるのは
ふるい津軽弁や薩摩弁を習得する三倍程度の根気があればよい。
 
すくなくとも語法のまるで違う中国語や英語をおぼえるという

言語中枢が引き裂かれるような思いをせねばならぬのに比べると
日本人にとって雲泥の違いである。

それでは日本語と朝鮮語のそっくりな発音で似ている語彙をいくつか上げてみます。

約束 やくそく
気分 きぶん
記憶 きおく
簡単 かんたん
どうですか??
(但し朝鮮語の表記はハングルです)
やっぱり日本語と朝鮮語は一つの言葉だったんですね??

https://ameblo.jp/ara1418/entry-12570603998.html


われわれ日本人の先祖の大多数は朝鮮半島から流れ込んできたことは否定すべくもない。」などと言うことは、全くの虚偽であり、偽造・捏造であり、何の根拠もないことである。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(24)

2020-08-27 00:00:00 | Weblog

ふと湖に挟まれた湖西のさびしい道を走りながら
日本人はどこからきたのでしょうね」と
編集部のH氏がつぶやいたのも
どうせちゃんと答えがあるはずがないという物憂げな語調だった。

 
しかしこの列島の谷間でボウフラのように湧いて出たのではあるまい。
 
はるかな原始時代には触れぬほうが利口であろう。
 
しかしわれわれには可視的な的な過去がある。
 
それを遺跡によって
見ることができる。
 
となれば日本人の血液のなかの有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたことは紛れもないことである。

(この下の図を見ればわかるがこの地理的状況では韓国から日本への南下は
当然 頻繁にあったであろう)


 
その証拠は
この湖西を走る車の窓の外をみよ
無数に存在しているではないか。
 ☜ この表現は何を意味するのか?


https://ameblo.jp/ara1418/entry-12567921887.html



『となれば日本人の血液のなかの有力な部分が朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたことは紛れもないことである。』


・・・朝鮮半島を南下して大量に滴り落ちてきたことは紛れもないことである」などと勝手なことを書いているが、こんなことがまかり通るのか、と馬鹿らしくなる。今まで見てきたように、日本列島人は朝鮮半島なんぞからやって来たものではないし、ましてや大陸からやって来たものではもない。

何時の時代のことかは大切な事であるが、きっとこの滴り落ちてきたと言ったバカげた表現は、縄文末期から弥生初期の「水田稲作を携えて日本列島にやって来た渡来人」を想定したものであろう。

これは( 「街道をゆく! 湖西のみち」・週刊朝日1971 )に載っていたものと言うので、当時としては、このような考え方が一般的であったと思われるので、やむを得ないかも知れないと思われるが、それにしてもいかにも幼稚的な迎合的な物言いである。

板付遺跡が1978年(S53)で、菜畑遺跡が1980年(S55)なので、1971年に書かれたものであれば、まだこの事実は解っていなかったので仕方がないかも知れない。しかしながら日本列島にある沢山の遺跡に中に、渡来人の物と思われるものは何一つとしてない、という事は既に分かっていることであり厳然たる事実である。だから単眼的な発想に対して、幼稚的といったのである。


さて、最後のつぶやきの「無数に存在しているではないか。」の意味が分からないので、

司馬遼太郎先生と街道をゆく 9

もみてみることにする。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(23)

2020-08-26 00:00:00 | Weblog

だからその書・長浜浩明氏の「日本人ルーツの謎を解く 縄文人は日本人と韓国人の祖先だった!」(展転社)の冒頭の「初めに」で、次のようなものが紹介されているのであろう。その内容に対して、一寸面食らった次第です。

「日本民族はどこから来たのでしようね
・・・・・・・・・・

日本人の血液の六割以上は朝鮮半島をつたって来たのではないのか

・・・・・・・・・・

」(「街道をゆく! 湖西のみち」・週刊朝日1971


1971年のことである様なので、司馬の英国講演の更に前のことであるので、当然板付遺跡や菜畑遺跡はまだ発見されていない。


(ケンブリッジ大学での)
司馬遼太郎・英国講演        1987年(S62) 英国日本学研究会主催のシンポジウム

街道をゆく!湖西のみち      1971年(S46) 日本民族はどこから来たのでしょうね

板付遺跡の水田遺構の発見    1978年(S53) 講演の9年前に判明
菜畑遺跡の水田遺構の発見    1980年(S55) 講演の7年前に判明

大平山元I遺跡出土の土器    1998年(h20) 世界最古の土器発掘、16,500年前のもの



あとは次のブログを参照願う。




人間道場
荒木塾
司馬遼太郎先生と街道をゆく 8 琵琶湖西岸を司馬先生とゆく
2020-01-18 13:42:32
テーマ:
ブログ
司馬遼太郎先生と街道をゆく 8
この稿では「日本人はどこから来たのであろうか・・・・・・・・・
と 自問自答する先生」

 
第1巻 甲州街道 長州路

 
1章 湖西のみち
 
楽浪の滋賀 さざなみの滋賀 8
 
日本民族はどこから来たのであろう
という想像は
我が身のことだからいかにも楽しいが
しかし空しくもある。
 
考古学と文化人類学がいかに進もうとも
それが数学的回答のように明快になるということはまずない。


 

まだ学問としては若いと言える日本語中心の比較言語学の世界になると
 
今後英才が出てきて
大きなカギヲ探り当てるかもしれない。
 
ただしいまは
まだ茫漠たる段階である。
 
なにしろどの大学にも国語学者がいるが
たとえば隣接地の言葉である朝鮮語を同時にやっているという当然の方法さえ
いまはほとんどおこなわれていない段階なのである。

 
この稿の読者の中で
一念発起してそれを生涯のテーマとしてやってみようという青年がいればありがたいのだが。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(22)

2020-08-25 00:00:00 | Weblog

 追記挿入
(注)
是川遺跡は青森県八戸市是川(これかわ)にある、縄文前期・中期・晩期にまたがる集落遺跡である。遮光器土偶が沢山出土している。国宝の合唱土偶はこの近くの風張遺跡から出土している。



超古代文明263A「是川縄文遺跡出土品(3000年前)。各種の縄文遮光土器展示、青森県八戸市」竹取翁博物館(国際かぐや姫学会)2016.7.23

https://www.youtube.com/watch?v=dY8jQw9aNGA


国宝 合掌土偶  (風張遺跡出土)

【大きさ 】高さ19.8センチメートル、幅14.2センチメートル、奥行き15.2センチメートル   
【所有者】八戸市(青森県八戸市内丸1-1-1)
https://www.city.hachinohe.aomori.jp/bunka_sports/bunka/zekawajomonnosato_hakkutsuchosa/9917.html





是川遺跡で発掘された縄文時代の木胎漆器(浅鉢)。是川遺跡は縄文晩期(3,000年前)の遺跡。木を削った木胎や植物で編んだ籃胎に漆が塗られている。(写真提供:是川縄文館

出土した赤色漆で塗られたくし。是川遺跡で重要文化財の指定を受けた遺物の963点の内、101点が漆製品である。是川遺跡の川を挟んだ対岸の風張遺跡からは国宝の合掌土偶が出土している。(写真提供:是川縄文館)


頭から脚にかけての副葬品の肩当ての部分。軸糸自体を漆で染めたと思われる。放射性炭素C14年代測定法により約9000年前の遺物と測定された。世界最古の漆製品。(北海道函館市 垣ノ島B遺跡)(写真提供:函館市教育委員会)


後期後半の小型の注口土器。全体に朱漆が塗られている。垣ノ島遺跡は、太平洋に面した紀元前7,000年~紀元前1,000年頃にわたる定住を示す集落遺跡。(北海道函館市 史跡垣ノ島遺跡)(写真提供:函館市教育委員会)

https://urushi-joboji.com/urushi/uruwashi




司馬遼太郎の本名は福田定一と言うそうで、1923年(T12)大阪市生れ。Wikipediaによれば、1936年(S11)私立上宮中学に入学し、そこで理由は定かではないが中国や朝鮮にシンパシィを抱くようになったようだ。そして今もって、中国や朝鮮なんぞにシンパシィを感ずると言うその神経がおかしいと言わざるを得ないものであるが、司馬遼太郎こと、福田定一はどんな神経を持ち合わせていたのであろうか。福田と聞くと、あの光市母子殺害事件の殺人犯の朝鮮人・福田孝行を思い出すが、福田定一も在日ではなかったのかな、と一瞬感じてしまう。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(21)

2020-08-24 00:00:00 | Weblog

司馬遼太郎は、「龍馬がゆく」、「坂の上の雲」などという名著を多数表しているので、それなりに尊敬に値する小説家と思っていたが、このような幼稚園児的な認識の持ち主だと言うことが分かり、全く以って唾棄すべき思想の一面を持っているのではないか、と言うことが分かった次第だ。


ここにも記述されているように、板付や菜畑の遺跡の発見は、司馬のケンブリッジ大学での特別講演より、7~9年も前のことである。だから縄文時代が「闇の時代」ではないことは、十分に知っていなければならないことであった。

(ケンブリッジ大学での)
司馬遼太郎・英国講演        1987年(S62) 英国日本学研究会主催のシンポジウム

板付遺跡の水田遺構の発見    1978年(S53) 講演の9年前に判明
菜畑遺跡の水田遺構の発見    1980年(S55) 講演の7年前に判明

大平山元I遺跡出土の土器    1998年(h20) 世界最古の土器発掘、16,500年前のもの

このように、縄文時代は決して司馬遼太郎の言うような「闇の時代」などではなくて、相当進歩していた時代なのである。決して狩猟採集だけの時代ではなくて、イネも陸稲ではあるが6000年も前から栽培されていたのであるし、土器も世界でも最も早くから使われていたのである。

大平山元I遺跡は別にして、少なくとも板付遺跡菜畑遺跡の3,000年前の水田跡が発見されていたことぐらいは、知識として持っていなければならないものであった。縄文時代はだから、決して闇の時代などと確定的に言えるほどの文化の低い時代ではなかったのである。

1998年(h20)になるので司馬の英国講演の後にはなるが、何はともあれ、青森県外ケ浜町の大平山元Ⅰ遺跡と言う縄文時代草創期の遺跡から出土した土器は世界最古のものであり、世界最古の弓矢使用となる石鏃も発見されているのである。縄文時代は、文化的にも世界最先端を走っていた、ということである。

また2003年9月のことであるが、中国よりも古い世界最古の漆の器も、北海道などで発見されているのである。約9000年前の縄文時代早期前半のもので、中国河姆渡の漆器は約7500年前のものであったので、それよりも2000年ほども古いものであった。闇の時代などとたわけたことを言うよりも、日本の縄文時代は世界最先端の技術を持っていたのである。



最古の漆器[編集]

河姆渡文化時期の赤い漆の塗られたお椀。(浙江省博物館)

長江河口にある河姆渡遺跡で発掘された木弓は、放射性炭素年代測定で約7500~7400年前と確認されたことから、漆器は中国が発祥地で技術は漆木と共に大陸から日本へ伝わったと考えられていた。ところが、北海道函館市南茅部地区(みなみかやべ)から出土した漆の装飾品6点が、米国での放射性炭素年代測定により中国の漆器を大幅に遡る約9000年前の縄文時代早期前半の装飾品であると確認された[注釈 3 (2003年9月)]。縄文時代の集落と生活様式の変遷が確認できる垣ノ島遺跡(縄文早期、9000年前の遺跡)からは、赤漆を染み込ませた糸で加工された装飾品の他に、黒漆の上に赤漆を塗った漆塗りの注口土器なども発見されている。さらに、福井県(鳥浜貝塚)で出土した漆の枝は、放射性炭素(C14)年代測定法による分析の結果、世界最古の約 12600年前のものであると確認された[12]。更なる調査で技術的に高度な漆工芸品である「赤色漆の櫛」も出土、 この他に、木製品、丸木船、縄、編物、その加工に用いられた工具なども相次いで出土しており、漆工芸品も含めた木材加工の関連品が発見されている[注釈 4(2012年10月)]。こういった遺構、遺品から、日本では縄文時代早期末以降にはウルシが生育していたとされる[13]。

上記の垣ノ島遺跡から出土した漆器は2002年12月28日の深夜、8万点に及ぶ出土文化財や写真、図面とともに火災にあった。幸い形の認識と繊維状の痕跡がはっきりと視認できる部分は焼失を免れ、2004年の4月には12ページの調査報告『垣ノ島B遺跡出土漆製品の分析と保存処理』が出された[14]。
https://ja.wikipedia.org/wiki/漆器#cite_note-16


こうしてみると、如何に司馬遼太郎が頓珍漢な事を言っていたかが分かる、と言うものである。読書好きでそれなりに聡明な頭の持ち主であったようなので、もう少しましな言い方があったのではないのかな。

漆については、もう一つ参考までに資料を載せておこう。



時代を超えるうるわしのニッポン
その潤いは太古から

うるしは、「うるわし・うるおす」が語源であるという説がある。確かに、漆器の艶やかな色合いを見ると、それもあるだろうと思わせる。だが、この「うるわしのうるし」は、現代人の日常から、ずいぶん遠いところにあるようだ。

 漆椀を日々の食事に使っている人は、どれだけいるだろうか。漆塗りの重箱はあるが、使うのは正月のおせち料理のときだけという家庭も少なくないだろう。扱いが面倒だから、高価だから、デザインがライフスタイルに合わないから……。そもそも、美術館に収まっているようなものでしょう?

 使わない理由はさまざまあろうが、「実は、漆のことをよく知らない」ということが、根底にあるのではないか。

 多くの人から縁遠いものと思われている、うるし。実は、太古の時代から、日本人の暮らしとともにあった。あんなところ、こんなことに、漆は利用されてきたのだ。



世界最古は日本にあり

漆は縄文時代から使われていて、世界最古の漆器は、7,000年前の中国のものとされていた。ところが、この説が覆った。北海道函館市で、漆を使った約9,000年前の副葬品が発見され、これが世界最古のものとなったのだ。時代は下るが、福井県や青森県八戸市の是川遺跡(注)などからも、漆塗の櫛などが数多く出土している。

 椀・皿・鉢や壺、土器などの器の類、弓などの武器、櫛や腕輪などの装飾品と、縄文時代の漆製品は多岐にわたっている。そして、赤色漆製品が多く作られているのも、この時代の特徴だ。縄文人にとって赤は、特別な色だったのだろう。血や魂の色で、魔除けや復活・再生、隆盛を意味したのではないかという研究もある。

 塗料であり接着剤でもある、漆。赤い櫛は、縄文人たちが赤色顔料を作り、漆に混ぜて塗ったものだ。壊れた土器が、漆で補修されたものも見つかっている。漆工の道具類も出土していて、この時代にはすでに、現代に通じる基本的な技術が確立されていたことがわかるという。いずれにしても日常から祭祀まで、漆製品は、縄文の人たちの暮らしとともにあったということだ。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(20)

2020-08-21 00:00:00 | Weblog

NHKディレクターの「戸沢冬樹氏」が、「確かに、大陸の漢民族は多くの民族を滅ぼしてきた。」とか「縄文人たちを皆殺しにしても不思議でもなかった。」と言ったおどろおどろした表現を使っていたが、このような大陸の歴史状況を見るに、あながちこれらの表現は誇張でもなかったのではないのかな。

きっと大量の渡来人がやって来ていたとしたら、このように日本人(縄文人)は皆殺しにされていたかも知れないのだ。

幸い日本への渡来などはなく、縄文人が自らの意志で河姆渡まで行き、水田稲作の技術を持ち帰ったものであった、と推定される。まあ当時の中国では、日本列島へ大量渡来するニーズなどはなかったものと思われるので、渡来、渡来などと騒ぐ必要はなかったと言う事である。

3000年前と言えば、中国は、夏・商(殷)・周の時代の商から周に代わる頃に該当するので、中国としても外部に目を向けているような余裕はなかった筈だ。


大分横道に逸れてしまったと言う訳でもないが、日本の水田稲作はどのように広がっていったのであろうか。

8月13日のNO.14で紹介している佐藤洋一郎氏は、日本の縄文晩期から弥生期の各地の遺跡から発見される炭化米のDNAの分析の結果、かなりの割合で温帯ジャポニカ熱帯ジャポニカが見つかることを発表している。

即ち、縄文人は水田稲作の技術を身につけても、すぐには焼き畑農法を手放さずに、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカは併存していたのである。

佐賀県の菜畑遺跡、大阪の池上・曽根遺跡、奈良の唐古・鍵遺跡、静岡県の登呂遺跡、青森の高樋Ⅲ遺跡等、枚挙にいとまがない、とその書(P60~)では述べている。

そしてP62では、次のように述べている。


即ち、日本では6000年前には陸稲が栽培されており、3000年前には水田稲作が行われていたが、両種は平行栽培されてきた。仮に弥生時代に渡来人が現れ、そのときから温帯ジャポニカを用いた水田稲作が始まったのなら、こうはならない。
縄文時代の人たちが何千年も栽培してきた陸稲に、水田稲作の要素を少しずつ加えていったからこそ、弥生時代以降の遺跡から出土する米に熱帯ジャポニカが発見されてきたのだ。従って、教科書に載っている弥生時代の全面水田風景は、実態を表していないことになる。

米作りから見る縄文から弥生への時代変化は、断絶ではなく連続だった。外部からもたらされたわずかなコメを縄文時代の人々は長年かけて増やし、品種改良を行ったと考えられる。



とすると、'20.7.28のNO.2では、”大規模な水田がつくられた”と扶桑社の『新しい歴史教科書[改訂版]』の表現を次のように伝えていたが、少し誇張しすぎた表現かも知れない。

・・・・・・・・
稲作が始まると、これまで小高い丘に住んでいた人々は、稲作に適した平地に移り、ムラ(村)をつくって暮らすようになった。人々は共同で作業し、大規模な水田がつくられるようになった。
・・・・・・・・


大規模な水田”が「全面的に陸稲から水稲に切り替わって周り全てが水田となった」と言ったことを意味するとしたら、これは明らかに実体とはかけ離れた表現となるのであろう。

まあ、そのようなことを意味して書かれている、と思われるので、これは修正されてしかるべきなのであろう。しかしこれは2006年版なので、致し方ないものである。

書き直すとしたら、「人々は共同で作業し、徐々に水田を広げていったが、それまでの陸稲も並行しで植えられていた。」とするのが適当ではないのかな。更には、考えられ得るその理由も併記すればなおよいのであろう。

何はともあれ、我々の祖先である縄文人は現実的で、とても賢かったものと思われる。水田稲作はかなりの労力を必要とするものであり、ある意味割に合わないところもあったのであろう。一足飛びには、切り替えなかったのである。

だから、このように・「米作りから見る縄文から弥生への時代変化は、断絶ではなく連続だった。外部からもたらされたわずかなコメを縄文時代の人々は長年かけて増やし、品種改良を行ったと考えられる。」・着実に切り替えていったのであろう。


話は飛ぶが、その書のP22から「司馬遼太郎の「縄文・弥生観」を嗤う」として、次のような話が載っている。一寸長いがご一読願う。


昭和六十二年(1987)、司馬遼太郎はケンブリッジ大学・英国日本学研究会主催のシンポジウムでの特別講演、「文学から見た日本歴史」で次のように語り始めた。

「正しく日本列島は、太古以来、文明という光源から見れば、紀元前三〇〇年ぐらいに、イネを持ったボートビーフルがやってくるまで、闇の中にいました。この闇の時代のことを”縄文時代”といいます。旧石器時代に続く時代で、この狩猟採集生活の時代が八千年も続いたというのは、驚くべきことです。文明は、交流によってうまれます。他の文明から影響を受けずにいると、人類は何時までも進歩しないと言うことを雄弁に物語っています」

その十年後、縄文研究で知られる小山修三・国立民族博物館教授(当時)は、縄文世界を次のように描いていた。

「縄文人はおしゃれで、髪を結いあげ、アクセサリーを付け、赤や黒で彩られた衣服を着ていた。技術レベルは高く、漆器、土器、織物まで作っていた。植物栽培は既に始まっており、固有の尺度を使って建物を建て、巨木や盛り土による土木工事を行っていた。
聖なる広場を中心に計画的に作られた都市があり、人口は五〇〇人を超えたと考えられている。ヒスイや黒曜石、食料の交換ネットワークがあり、発達した航海術によって日本海や太平洋を往還していた。その行動域は大陸にまで及んでいたらしい。先祖を崇拝し儀礼に篤く、魂の再生を信じている。ヘビやクマなどの動物、大木、太陽、山や川や岩などの自然物に神を感じるアニミズム的な世界観を持っていた」(3)(「縄文学への道」NHKブックス一九九六)

(注)アニミズム・animism とは、全てのものに霊魂が宿るという考え方。

次いで司馬は、「紀元前三世紀に日本列島に大きな革命がおこります。稲作が始まったのです。」と続けたが、現在の知見によれば水田稲作は紀元前一〇世紀には始まっていたと考えてよい。
今から思うと、このことが公表されたのは平成十五年(2003)だったから、この講演に生かすことはできなかったが、もうすこしましな言い方もあったはずである。
それは氏の英国講演の十年前、昭和五十三年(1978)、福岡県の板付遺跡において縄文土器だけが出土する地層から水田遺構が発見されていたからである。更に昭和五十五年(1980)から翌年にかけて佐賀県唐津市の菜畑遺跡から、より古い時代の縄文土器と共に灌漑施設を伴う水田遺構も出土した。



このブログの8月6日のNO.9で、菜畑遺跡の様子を載せているので、おおよその菜畑村の様子は想像できるのではないのかな。まあ、全面的に水田が広がっていた、と言う訳ではなさそうなので、少しは割り引いてみる必要があるかもしれない。
(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(19)

2020-08-20 00:00:00 | Weblog

中国の南京市から東北東に直線距離でおよそ70kmほど(?)行ったところに、現在は江蘇省の揚州市がある。ここで清朝軍が明国の残党と戦った時に、揚州で大規模な殺戮を行っている。1645年の揚州虐殺(揚州十日)と言われている「屠城」が行われている。80万人が虐殺されたと言われている。



再生日本21

中国4000年のおそろしさ――不気味な隣人の素顔

http://www.saisei21.jp/report/2012/report-1

中国4000年の“抗争と断絶”の歴史

 よく「中国4000年の歴史」という。しかしこの4000年の歴史は、実は繰り返される断絶の歴史、もっと言えば血で血を洗う抗争の歴史といってもよいくらいだ。
 それを象徴する言葉が「易姓革命」である。易姓革命とは、天下を治める者は、その時代に最も徳がある人物がふさわしい。天が徳を失った王朝に見切りをつけた時、革命が起きるという中国の伝統的な政治思想である。天や徳といった言葉が使われているが、実のところは新王朝が史書編纂などで歴代王朝の正統な後継であることを強調する一方で、新王朝の正当性を強調するために前王朝と末代皇帝の不徳と悪逆を強調する。それを正当化する理論として機能していたのが易姓革命の思想なのだ。そのため中国の歴史は、決して誇張ではなく血で血を洗う抗争に次ぐ抗争であり、4000年の歴史と言っても私たち日本人がイメージしているような悠久の歴史では全くない。江戸時代の儒学者であり、軍学者であった山鹿素行はその著『中朝事実』においてその点を指摘し、「中国では易姓革命によって家臣が君主を弑することがしょっちゅう起こっている。中国は中華の名に値しない。建国以来万世一系の日本こそ中朝(中華)である」と主張した。素行も説いた中国の抗争と断絶の歴史をさかのぼりながら見ていこう。


(略)


征服王朝のすさまじさ

(略)
 次は最後の征服王朝・清だ。1644年に都を北京に移した清は、中国南部に残っている明朝の残党狩りのために征服戦争に打って出る。これがすさまじい。「屠城(とじょう)」と言って、「城内の全ての人間をする」のである。こう言うと、「日本でも珍しくないではないか」と思うかもしれないが、まるで違うのである。日本では籠城するのは武士であり、城下町はその外にある。だから、仮に城内の人間がすべて殺されたとしても、それは籠城している武士だけである。しかし、中国の場合、街全体が城壁で囲まれており、屠城とは街中の市民全員を殺すことなのである。清の征服軍が行なった屠城で有名なものの一つは1644年の「揚州屠城」であるが、当時揚州は既に人口100万人の大都市であった。その都市で大虐殺が実行された。かろうじて生き残った王秀楚という人物が、『揚州十日記』という記録を残している。「数十名の女たちは牛か羊のように駆り立てられて、少しでも進まぬとただちに殴られ、あるいはその場で斬殺された。道路のあちこちに幼児が捨てられていた。子供たちの小さな体が馬の蹄に蹴飛ばされ、人の足に踏まれて、内臓は泥に塗れていた。途中の溝や池には屍骸がうず高く積み上げられ、手と足が重なり合っていた」。この記録によれば、屍骸の数は帳簿に記載されている分だけでも八十万人以上に達したという。


(略)


http://www.saisei21.jp/report/2012/report-1



また近年でも中国共産党軍は、1948年に「長春大」(チャーズ事件)という「屠城」をやっている。国民党軍に守られていた長春は、共産党軍による5ヵ月に及ぶ包囲戦のため餓死者が続出した。脱出しようとした一般人は、敢えて市内へと送り帰されている。当時7歳であった遠藤誉は、この飢餓極限状態を本にして出版している。「チャーズ中国建国の残火」である、とWikipediaには記述されている。

当時長春には日本人も大勢居たので、相当数の日本人を含む30万人が中国共産党軍に殺されている。

まあ、毛沢東は1958年に「大躍進政策」を発動し、人海戦術によるでたらめな農工業の増産計画を推進したが、大失敗して発動から数年間で2千万人とも5千万人ともいわれる餓死者を出している。この失敗により毛沢東は失脚している。

更に毛沢東は復権を狙って、1966年から”資本主義を批判し新社会主義文化を創生する”という「文化大革命」という権力闘争を引き起こした。紅衛兵などの学生運動を扇動して、政敵を蹴落としていった。これらの暴動闘争ののために各地で内乱や殺戮が行われ、社会経済は完全に麻痺した。2千万人以上が殺されたと言われている。

これらは毛沢東による新「屠城」と言ってもよいモノではないのかな。

今の習近平も、2013年3月に国家主席に就くと、共産党規律検査委員会の主任に据えた王岐山と共に、「腐敗撲滅運動」を展開して政敵をことごとく摘発・抹殺していった。

これも習近平現代版「屠城」ではないのかな。習近平は、今は香港に対して「屠城」を始めている。


こんなことから、もしも縄文時代末期に、大陸から大量の渡来人が日本列島にやって来たとしたら、きっと日本列島の縄文人は軒並み虐殺されていたのではないか、という推定も成り立つものと思われる。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(18)

2020-08-19 00:00:00 | Weblog

このNHKの『日本人 はるかな旅』は2000年頃までの知見に基づいて作成されているとされているが、2000年であれば、渡来人はいなかったのではないか、と言ったことが分かっていたのではないのかな。

事実、P24で先にも紹介した泉拓良・奈良大学助教授(当時)の「争点 日本の歴史1」(人物往来社 H3・1991)には、福岡県新町遺跡の支石墓に埋葬されていた人物は、予想されていた渡来人ではなくて縄文人であり、この時代にすでに水田・稲作が行われていた、と記されている。

また、(NHKはるかな旅4)では、日本には、8種類のイネの変形版のうち、a,bの2種類の変形版しか存在していないので、渡来人による大量のイネの持ち込みはなかった、渡来もなかったのではないかと言っているので、NHKは渡来はなかったと言う事も解って然るべきではなかったかな


にもかかわらず、このような見解で「NHK はるかな旅」は放送されていた訳だ。

このような見解とは、「大量の渡来人がイネを持って日本にやって来て、縄文人に置き換わって日本人となっていった」と言うものであった。

そのため「はるかな旅5」では、ディレクターの「戸沢冬樹氏」は、次のように懺悔している(その書P100~102)。

彼は、渡来人が日本列島で縄文人を駆逐して(殺戮して)、日本列島を占拠していったと解釈していた様だ。一寸長いがご一読願う。



「農耕、そしてクニ。それまでの日本列島になかった文化を携えてやって来た渡来人は、弥生時代に入って急速に列島全体に広がり、縄文人と入れ替わるように日本列島の主人公になってゆく。その過程では凄惨な殺し合いが起こっていたことも近年明らかになってきている。縄文人が一万年にわたってわが世の春を謳歌していた日本列島は、僅か数百年で渡来人に乗っとられてしまったかのような様相を呈したのである。
私たち日本人は、先住民である縄文人を滅ぼした渡来人の末裔なのか。もしそうだとすれば、日本人とは、アダムとイブ以上の原罪を負って日本列島に生き長らえてきた民だったことになる。」(27-28)(はるかな旅5)

自らをシナ人の子孫と思い込んでいた氏は、「凄惨な殺し合いをし、縄文人を滅ぼした渡来人の末裔なのか」と原罪意識に苛まれていた。

「縄文人は本当に渡来人に駆逐されてしまったのだろうか。私たち日本人の過去は、しかしそこまで血塗られたものではなかったようである。人類学の研究から、現代日本人には縄文人の遺伝子が三割程度遺されていると言うデータが出されている。この三割と言う数字が大きいか小さいかは、議論が分かれるところだろう。残りの七割の遺伝子は渡来人に由来する訳だから、縄文人はやはり多数派の渡来人によってマイノリティに追い落とされたと捉えられなくもない。
しかし別の見方をすれば、渡来人の圧倒的な優位の中でよくぞここまで勢力を保ったともいえるのではないだろうか。北米大陸やオーストラリアの先住民と白人の関係に比べれば雲泥の差がある」(28)(前掲書)

確かに、大陸の漢民族は多くの民族を滅ぼしてきた。戦後は、清朝を開いた満州族を言葉や文化もろとも地上から消し去った。
この動きは、南モンゴル、チベット、ウイグル族などの民族、言語、文化のジェノサイドと言う形で今も進行中である。従って、その彼らの祖先が大挙して日本へと渡来したのなら、それまで主人公だった縄文人たちを皆殺しにしても不思議(で)もなかった

しかし戸沢氏の祖先は、三割程度の縄文人を見逃したのだから、白人に比べればマシだった、と胸をなでおろしていた。その証拠として、「日本人には縄文人の遺伝子が三割程度遺されている」というが、その根拠が「人類学」とは意外だった。
どうやら氏は、「人類学から遺伝子の残存率が分かる」と信じているようだった。つまり、「遺伝子はDNA分析から解明する」という常識を欠落させたままフィナーレへと向かっていった。





確かに、大陸の漢民族は多くの民族を滅ぼしてきた。」とか「縄文人たちを皆殺しにしても不思議でもなかった。」と言ったおどろおどろした表現がなされているが、中国人・漢民族は元々このような性格や伝統を持った民族であった。

それが「易姓革命」(えきせいかくめい)という文化、政治思想である。

「天(あらた)めて、(か)わる」とか「姓が易(か)わって、天命が革(あらた)まる」と言ったところか。

「天命に背いて悪政を行えば、天からの命令が変わり、他の姓の天子に代わる」と言ったところか。

この場合、単に王朝や政権が代わると言う事ではなくて、前王朝や前政権に関わるすべての人たちの抹殺やその都市に住んでいる人々の抹殺が行われる、と言う事である。


小生のブログ、2008.11.15~の「ヨーロッパと日本(25~)」から、「易姓革命」に関する部分を抜粋して次の掲載するので、ご一読願う。



何はともあれ、明治維新では、天下の政権は幕府の独裁から朝廷に奉還され、貴族院と衆議院の両院を設けて帝国議会を成立させ、万機を公論で決める仕組みの上で、天皇がこれを統治した。人材の登用もなり、幕府政治から近代化へと一大模様替えを図っていった。幕藩体制から政権が朝廷に奉還され其の運営は維新政府へと返還された。

その中心には天皇制があった。天皇制があったからこそ明治維新が成就できたのである。古の神代の時代から連綿と継承されている天皇制があったればこそ、日本国全体が一致団結できたのである。天皇を頂点として、公卿、諸侯、一般民衆が日本国民として、まとまることができたのである。このことなくしては封建体制から明治近代化への脱皮は難しかったことであろう。

中国では「易姓革命」と言う文化があるため、中国の歴史の継続性はないに等しい。易姓革命とは、「天(あらた)めて、(か)わる」と言うことで、中国の歴史は前政権(前王朝)の否定・打ち壊し、そして現政権(現王朝)の成立となるのである。その時に大虐殺が行われた。前政権に関与した人間はもちろんの事、その都の住民達も皆殺しにされている。これを現す言葉が「屠城」として中国語に存在する。いわゆる王朝が変わるたびに屠城と言う人民の虐殺が行われている。もっともひどい屠城を受けた都市のひとつが南京なのである。万人塚として骸骨が発掘されるのは、このときの虐殺の跡なのであり、日本軍の虐殺などは存在していないのである。
現代中国では、毛沢東による2,000万人とも3,000万人とも言われる大虐殺が行われている。日本にはこのような文化はない。

このように中国では政権の継続性が殆どなかったため、国民国家としてのまとまりが欠け、近代化が遅れた。そこを西洋諸国に突け込まれた。そのためそこからの影響を日本は、極端に恐れたのである。そこで日本は、支那のすばやい近代化を願って、留学生の受け入れや制度の移植などのあらゆる援助を惜しまなかったのである。

(続く)
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日本人のルーツは縄文人だ、渡来人はない。(17)

2020-08-18 00:00:00 | Weblog

その例が、山口県の響灘に面した砂浜から、300体余りの人骨が発見された土井ヶ浜遺跡にみられるのである。



豊中歴史同好会 http://toyoreki.way-nifty.com/blog/
文献史学と考古学のコラボレーション
2011.9.XX H23

「弥生文化のはじまり・土井ヶ浜遺跡と響灘周辺」展
大阪府立弥生文化博物館が会館20周年を記念して企画された
平成23年度秋期特別展
「弥生文化のはじまり-土井ヶ浜遺跡と響灘周辺-」 9月23日~11月23日

を見てきました。

大阪府立弥生文化博物館館長 金関 恕。彼と響灘との出会いは、父、丈夫氏が団長となる土井ヶ浜遺跡発掘調査に参加したことに端を発する。その出会いは、その後長く続く弥生文化探求のはじまりとなった。金関丈夫氏のことを台北時代の友人、英語教師のジョージ・H・カーン氏は「日本のダビンチ」と称していたという。


金関丈夫氏(1897-1983) 図録集序文より

上図のNO.1が土井ヶ浜遺跡である。


(あと略)

http://toyoreki.way-nifty.com/blog/2011/10/post-6469.html


この土井ヶ浜遺跡は、弥生時代前期から中期にかけての遺跡のようだ。即ち大雑把に言って、約2,300年前頃のものである。とすると、水田稲作が始まって、700年は経っているのである。どんぐりを集めて食べていた時代から、コメを中心に食べる時代へと変われば、縄文人の体格も相当変わっていた筈である。事実土井ヶ浜人は、身長も高く、顔かたちも扁平で細長く、それまでの縄文人骨と悉く違っていたのである。

そのためその書はP90~では、次のように書かれている。

九州大学の人類学者の金関丈夫(かなせきたけお)は、「土井ヶ浜の人々は、今から2000年余り前の弥生時代、新たに日本列島にやって来た渡来人に違いない」と考えたのである。しかも、中国の山東省から出土した同時代の人骨と似ていたことから、「決着した」と結論付けたのである。

しかし土井ヶ浜からは、大陸系の遺物は何一つとして出土していなかったのである。その代り、北部九州の弥生土器が出土しているのである。

このことをその書はP90~で、次のように述べている。


「その五年後、最新の研究結果を記した『よみがえる日本の古代』(金関恕(ひろし)監修小学館2007)に於いて、藤田憲司氏は金関恕氏の父君・金関丈夫氏の渡来説を軽々と否定していた。

『土井ヶ浜遺跡からは北部九州で作られた弥生土器が出土しています。種子島以南の海でしか採れない貝で作った腕輪や指輪や、硬玉性の勾玉、ガラス小玉などを身につけて埋葬された人がいます。これから、土井ヶ浜の弥生人は北部九州から来たと考えられます』(62)

大陸からやって来たのなら、その時代の山東省の土器が出土して然るべきなのに、その種の土器は出土しなかった。その代り、北部九州の弥生土器が出土したのだから、「土井ヶ浜の人々は九州からやって来た」となって当然である。」



しかしながら、2001年度のNHKスペシャルの大型企画である『日本人 はるかな旅』(日本人の起源を探究し、現代の日本人の成り立ちを追う)では、「縄文時代が終わる頃、中国大陸や朝鮮半島から縄文人とは姿形の違う人々がかつてない規模で日本列島に渡来したことが分かってきた。この渡来系の人々と縄文系の人々の融合によって、私たちにつながる“日本人”が生まれる」(第5集)と放送していたのである。(http://www6.nhk.or.jp/special/detail/index.html?aid=20011209)

ちなみに書籍化も行われ、第5巻は2002.1.31に発売されている。

日本人はるかな旅 第5巻

約2500年前、大陸から海を越えてやってきた渡来人たち。その人口増加率は縄文人のおよそ4倍。先住民である縄文人は、彼らとの対立・融合を繰り返し、先進文化を取り込みながら生きのびてゆく。やがて興るゆるやかな共同体のもとに「渡来系:縄文系=7:3」という「日本人」が誕生するまでを描くシリーズ完結篇。
発売日  2002年01月31日

https://www.nhk-book.co.jp/detail/000000806272002.html


「かつてない規模で日本列島に渡来したことが分かってきた」などと書かれているが、その分かってきた理由は書かれていない。渡来人の遺跡とか遺物は何も発見されていないのであるが、何故か「分かってきた」などと大法螺を吹いているが、虚偽の発言をして知らぬ存ぜぬである。NHKも、全く以って無責任である。
(続く)
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