K氏は77歳と比較的若いのだが、脳梗塞で1年前から寝たきりになってしまった。言語障害があり話が出来ない。こちらの言うことはかなり理解でき、頷いたり首を横に振ったりして意思表示をする。食事は飲み込めが悪いので経管栄養になっている。下の方はお襁褓で面倒が見られている。
苦み走ったいい男だったのだが、寝たきりになってからは、おそらく動けない話せない辛さのせいか、むっつりと眉間に皺を寄せ苦悩する哲学者の風貌になった。往診に訪れてもじろりと見るだけで笑顔はない。
幸い奥さんは健康で明るい人なので、亭主の不機嫌や手の掛かる世話をさほど苦にする様子もなくこなしておられる。
先日の往診の時、マッサージで拘縮してきた膝を伸ばされると、後が痛むようだというので、湿布を使ってみようと言うことになった。咽せない程度にほんの少しお茶を飲んでも良いと言ってあるので、飲めているかと聞くと、
「昨日は結婚記念日なので、お茶に焼酎を混ぜて飲ませてやったの」。と言われる。
「ええっ」。と驚くと
「喜んでましたよ」としれっと答えられた。患者さんを見ると声は出ないが嬉しそうに笑って居るではないか。
「ああ、そうだったの」と間の抜けた返事をしながら辞したのだが、あの歳で結婚記念日を憶えているなんてと、そして亭主が喜ぶだろうとちょっと焼酎を混ぜて飲ませてしまう老妻の大胆な気転は新鮮な驚きだった。