2017年10月5日訪問。旧下鶴間宿だった大和市下鶴間ふるさと館から道なりに西へ。国道16号線から坂を下り谷底がふるさと館で、坂を上がると素敵な昔道でした。
多分だけどね、道幅と両側の農家の間取り?違うか、敷地は昔ながらという雰囲気です。ブラタモリでタモさんが地形や道には昔の痕跡が!と常に注目されてますが、まさに道が曲がってるのは、かつての昔道か川だった跡。その通りに道が曲がってるのです。まさか近所にこんな歴史感ある場所が残っていたとは!?びっくりです。嬉しいです。ちなみにこの道は昨日の記事に書いたように、矢倉沢往還こと大山詣の大山道のことです。
ゆるく曲がって続く道をゆっくり自転車を漕いでると「諏訪神社近道」という道標を発見。
む?諏訪神社さん??お参りしたことないなあ〜?と。軽い気持ちで脇道へ。
到着してびっくり!諏訪神社さんは大きかった!!もしかして、ここも昔ながらなのか!?今時の神社さんはかろうじてコンクリート製の社殿が残ってるところも多いのに??神社の敷地を丸ごとよく残せたよね?ちなみに所在地は神奈川県大和市下鶴間です。小田急線鶴間駅から徒歩圏です。国道246号線だって、国道16号線だって神社から徒歩で10分程度。便利な場所なのに、よ〜く残せたよね?よっぽど氏子さんたちの信仰が厚いのかしら?
諏訪神社基本情報
御祭神:建御名方神(たけみなかたのかみ)
諏訪大明神として多くの人に尊崇される御祭神は、名前を建御名方神という。大国主神の第2子で、兄は事代主神です。
天照大神は「豊葦原の瑞穂の国は我が子の治める国である」として、出雲の国を治めている大国主神に国を譲るよう、度々使いを出しましたが、聞き入れられなかった。そこで最後に建御雷神男之神を使いとしてたてた。この時、大国主神の長男事代主神はたまたま海に出ていたが、魚釣りから帰ってきて国土の返上を承知した。ところが次男の建御名方神は承知せす、建御雷男之神と伊邪佐の浜で力比べを行った。これが相撲の始まりと言われている。
その結果、建御名方神は敗れ、信濃国(長野県)の諏訪の海(湖)まで逃れて帰順された。そこで大国主神はやむなく国土を返上したという。これが国譲りの経緯である。
一方、建御名方神はこの地にきてから農業を興し、養蚕を教え、産業の振興に尽くされたため、国は多いに栄え土民の尊崇するところとなった。
この地、すなわち今の諏訪湖のほとりであり、ここに諏訪大社がある。大社は全国2700余と言われる諏訪神社の総鎮守であり、当社も鎌倉時代中期に分霊されたものと考えられる。従って当社は産業の神として、また武神として遠い昔から尊崇してきました。
当社の御神体は木造の男神立像です。」頂いたパンフレットより抜粋しました。
諏訪神社さんの成り立ちがよくわかりました。
最近氏子さんが新しく奉納した狛犬の模様。
本殿の木彫。
沿革:現在の本殿は明治5年7月に建立したものが、関東大震災で被災した後、昭和4年に復旧。
元は岩楯尾神社という社名だったが、太平洋戦争が勃発すると諏訪神社と変更した。
まずはお参り。さて?と振り向くと大きな木が目立っていた。大和市保存樹木 シイ(椎)
ご神木:しいの木
樹齢:二百数十年
幹周り 約3.7メートル
樹高:約16メートル
枝張り:約23メートル
帰りがけに参道入り口の鳥居の脇にある石碑をチェック。
鶴間で競馬してたんですかね?他にも石碑が幾つか。
境内の西側は広い桜林になっていた。10月5日に初訪問したので、桜の季節の様子は未見ですこの周辺だけ時間の流れが違うみたい。春にでも再訪したいです。
多分だけどね、道幅と両側の農家の間取り?違うか、敷地は昔ながらという雰囲気です。ブラタモリでタモさんが地形や道には昔の痕跡が!と常に注目されてますが、まさに道が曲がってるのは、かつての昔道か川だった跡。その通りに道が曲がってるのです。まさか近所にこんな歴史感ある場所が残っていたとは!?びっくりです。嬉しいです。ちなみにこの道は昨日の記事に書いたように、矢倉沢往還こと大山詣の大山道のことです。
ゆるく曲がって続く道をゆっくり自転車を漕いでると「諏訪神社近道」という道標を発見。
む?諏訪神社さん??お参りしたことないなあ〜?と。軽い気持ちで脇道へ。
到着してびっくり!諏訪神社さんは大きかった!!もしかして、ここも昔ながらなのか!?今時の神社さんはかろうじてコンクリート製の社殿が残ってるところも多いのに??神社の敷地を丸ごとよく残せたよね?ちなみに所在地は神奈川県大和市下鶴間です。小田急線鶴間駅から徒歩圏です。国道246号線だって、国道16号線だって神社から徒歩で10分程度。便利な場所なのに、よ〜く残せたよね?よっぽど氏子さんたちの信仰が厚いのかしら?
諏訪神社基本情報
御祭神:建御名方神(たけみなかたのかみ)
諏訪大明神として多くの人に尊崇される御祭神は、名前を建御名方神という。大国主神の第2子で、兄は事代主神です。
天照大神は「豊葦原の瑞穂の国は我が子の治める国である」として、出雲の国を治めている大国主神に国を譲るよう、度々使いを出しましたが、聞き入れられなかった。そこで最後に建御雷神男之神を使いとしてたてた。この時、大国主神の長男事代主神はたまたま海に出ていたが、魚釣りから帰ってきて国土の返上を承知した。ところが次男の建御名方神は承知せす、建御雷男之神と伊邪佐の浜で力比べを行った。これが相撲の始まりと言われている。
その結果、建御名方神は敗れ、信濃国(長野県)の諏訪の海(湖)まで逃れて帰順された。そこで大国主神はやむなく国土を返上したという。これが国譲りの経緯である。
一方、建御名方神はこの地にきてから農業を興し、養蚕を教え、産業の振興に尽くされたため、国は多いに栄え土民の尊崇するところとなった。
この地、すなわち今の諏訪湖のほとりであり、ここに諏訪大社がある。大社は全国2700余と言われる諏訪神社の総鎮守であり、当社も鎌倉時代中期に分霊されたものと考えられる。従って当社は産業の神として、また武神として遠い昔から尊崇してきました。
当社の御神体は木造の男神立像です。」頂いたパンフレットより抜粋しました。
諏訪神社さんの成り立ちがよくわかりました。
最近氏子さんが新しく奉納した狛犬の模様。
本殿の木彫。
沿革:現在の本殿は明治5年7月に建立したものが、関東大震災で被災した後、昭和4年に復旧。
元は岩楯尾神社という社名だったが、太平洋戦争が勃発すると諏訪神社と変更した。
まずはお参り。さて?と振り向くと大きな木が目立っていた。大和市保存樹木 シイ(椎)
ご神木:しいの木
樹齢:二百数十年
幹周り 約3.7メートル
樹高:約16メートル
枝張り:約23メートル
帰りがけに参道入り口の鳥居の脇にある石碑をチェック。
鶴間で競馬してたんですかね?他にも石碑が幾つか。
境内の西側は広い桜林になっていた。10月5日に初訪問したので、桜の季節の様子は未見ですこの周辺だけ時間の流れが違うみたい。春にでも再訪したいです。
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