あられの日記

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サプライズな品川神社

2014年01月27日 05時31分28秒 | 神社・仏閣
旧品川宿ウォークラリーのチェックポイント3つめは、品川神社さんです。

信号待ちにひっかかったから気付いたのですが、横断歩道の正面に、なにやら高い場所に人が登ってるのが見えるのです。
「あれは何?」
「あれね~。品川神社さんの富士塚よ」
「富士塚!ここにもあるんですかっ!!」
富士塚は江戸時代に流行った富士山信仰の一つの形です。つーか、ぶっちゃけ富士山に登りたいが、体力・財力から無理!でも富士山に登りたいという庶民の知恵ですね。以前、千駄ヶ谷の鳩森神社の富士塚を紹介しましたが、千駄ヶ谷の富士塚(2012年4月14日)の記事 東京のあちこちに今も現存しています。
「私、もう長い事登ってないけれど挑戦してみようかしら?」
近在の歴史好きなおばさまは意欲的。釣られて私も富士塚へ登る事に。

ちゃんと1合目から10合目まであるんだよ~。ちなみに、上の画像に写ってる石は、富士山から持って来た火山岩です。
登頂~。

高低差もあって、眺めは最高!こりぁあ登りたくなるわ~。上の画像の左右に走るのは、京急の高架です。高架の向こうにかつての東海道はありました。画像奥には、かつて東京湾の海が広がってました。
あ。説明板発見:品川神社富士塚
富士塚は、富士信仰の集団、冨士講の人々が、富士山の遥拝場所として、あるいは実際に富士山への登山が出来ない講員のために造った築山である。
品川神社の富士塚は、明治2年(1869)、北品川宿の丸嘉講社の構中300人によって造られた。神仏分離政策で一時破壊されたが、明治5年に再築し、大正11年(1922)第一京浜国道建設の時現在地に移築された。
江戸後期に盛んだった民間信仰を知る上で、大切な文化財です。<品川区指定有形民俗文化財>

富士信仰は富士山を神格化し浅間大神として信仰してるのですが、おやしろの浅間神社だってあります!
さて、富士塚の前に、品川神社の由緒を紹介しますね。
階段の下にあった説明板より。
品川神社
ご祭神:天太玉命(天岩戸の神話に登場する神様の后神 祈願成就・航海安全の神。源頼朝の勧請。
字賀之売命 お稲荷様。農業・商業・産業繁栄の神。 二階堂道蘊(どううん)勧請。
スサノオ尊 天王様。風水害除け・疫病除けの神。 太田道灌の勧請。
御由緒:今からおよそ800年程前の平安時代末期の文治3年(1187)に、源頼朝公が安房の国の洲崎明神(現・千葉県館山市鎮座 洲崎神社)の天比理乃めの命を当地にお迎えして、海上交通安全と祈願成就を祈られたのを創始とします。
やがて、鎌倉時代末期の元応元年(1319)に二階堂道うん公が、字賀之売命(お稲荷様)を、さらに室町時代中期の文明10年(1478)に、太田道灌公が「スサノオ尊(天王さま)」をそれぞれお祀りしました。
慶長5年(1600)、徳川家康公が関ヶ原の戦いへ出陣の際に当社へ参拝し戦勝を祈願され、その後、祈願成就のお礼として仮面(天下一嘗の面)・神輿(葵神輿)などを奉納されました。
また、寛永14年(1637)三代将軍徳川家光公により東海寺が建立され、当社がその鎮守と定められ「御修覆所(神社の建物の再建・修覆などは全て幕府が賄う)」となり、元禄7年(1694)・嘉永3年(1850)の二度の社殿の焼失の際には時の将軍の命により再建が行われる等、徳川将軍家の庇護を受けました。
時代は明治に移り、同元年(1868)11月には明治天皇が、新都東京の安寧と国家の繁栄を御祈願されるために当社を含んだ都内の十の神社を「准勅祭神社」と定められ、御勅使がご参拝になられ祈願されました。
太平洋戦争の時は幸い戦火を免れましたが、社殿の老朽化が進み、昭和39年(1964)に現在の社殿が再建されました。」だそうで。
さっきから気になってるんだが…。

お神楽の練習かしら?のりのいい演奏が聞こえて来る。つーか、もしかして、文化財ウォークラリーのサプライズ??何にしてもラッキーです。
あ。説明板発見:品川拍子
品川拍子は祭礼時に神輿が順光する際の囃子となる音楽で、大拍子と呼ばれる締め太鼓と、俗称トンビといわれる篠笛によって演奏される。その由来は定かではないが、品川神社太々神楽の系統に属するもので、三代将軍徳川家光が品川神社に神輿を奉納された頃に始まったと伝えられ、品川宿で成立し、当宿とその周辺地域にのみ伝承されている。
現在伝えられている品川拍子は、明治初年に嶋田長太郎が集大成したものとされ、初代家元と考えられている。
千貫神輿の渡御で有名な「北の天王様」は毎年6月7日に近い日曜日を中心とする三日間行われるが、このとき神輿の上げ下ろしや、揉んだり差したり納めたりの動作を品川拍子でするなど、他に類例を見ない特色をもっている。」なるほど~。だからちょっと変わった音楽って感じたんですね。
 
「あら。珍しい」
「ン?何がですか?」
「私、品川神社さんのお詣りには度々訪れてるけど、宝物殿が空いてるのは始めてよ~」
歴史好きのおばさまも大興奮。それはぜひとも見なければなるまい~~。

宝物殿の前には徳川の葵の御紋が!!
ところがここで残念なお知らせが。
宝物殿の中は撮影禁止です。でもボランティアさんがいらっしゃり解説有りです。ラッキー~。歴史散歩は知識を現場でどれだけ補うか?で感動度が全く違うんだよね~。
一番感動したのは、徳川家康公が関ヶ原の合戦の祈願成就のお礼として納めた天下一嘗の面(安土桃山時代 慶長5年)です。真っ赤な顔をして舌を出したユーモラスなお面で、もとは舞楽の演目の「二の舞」という舞台に用いられる面だそうで。
6月の例大祭には、このお面をお神輿の屋根につけて渡御します。これは江戸時代疫病が流行した時、ある夜「この面を神輿に付け町町を回れば疫病の苦しみから救うぞ」と神様のお告げがあり、依頼このお面をお神輿につけるようになったんだとか。
蘊蓄はともかく、お面が実際に見えただけで今回のウォークラリーに参加したかいがあるわあ~。
ちなみにですね。天下一嘗の面も撮影不可だったのですが、実は変わった絵馬~って感じたあの絵がまさにお面だったのです。これね~。

宝物殿の中には大きなお神輿が数基納めれています。
これが…。超豪華!!寛永年間に徳川家光が寄進したもの(家康とも)だとか。
お神輿に触る事は出来ませんが、横にお神輿の部品が置いてあり、それはお触り可でした。当然触ってみた。
「お・重い~~」
部品は屋根の一部と思われましたが、小さかったので片手で持とうとして挫折。すんごく重い~~。まさかの金属です。一部でこの重さとあれば、お神輿全体だとどれだけ重いのか?
お神輿には葵の御紋がいくつもついていて、将軍家のご威光が光輝いています。
長くなってきたので品川神社さんの記事は明日に続きます。
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