2019.5.3香川県大野原・豊浜巨木さんぽ最終回。
ちょうさ会館を出発。国道11号線を東へ。道々花稲工業団地を探す。
もしかしてあれ?
花稲工業団地より先に、大きな木を見つけた。
目的の野都合神社のクスノキは樹高:30メートル、目通り幹囲7、2メートル。となると存在感は抜群です。
画像をよく見て欲しい。これが神社なの?巨木しかないんですけど〜??
ともかく側の空き地に車を止め、この木が目的の木で合ってるか確認へ。
社号標らしき石柱を見つけた。そこに野都合神社と刻んである。合ってた!
クスノキの周囲は囲んであり、直接木に触れない。
けども立派です。堂々たる存在感。
根元から少し上がったところで二股に分かれている。正面に巨木には不釣り合いなほどこじんまりとした石のお社がある。お供え品が並んでいて、現在も信仰する人がいるようだ。安心した。
もう少し、いい角度で撮影出来るポイントはないものか?と探してたら、大きな石板に「南無阿弥陀仏」と刻んである。
あれ?野都合「神社」さんだよね?南無阿弥陀仏はないんじゃないかな?とは思ったものの、神社といっても屋敷守りのごとくささやかなお社だし。つまりここって、個人宅にあった木か?もしくは村の目印的なものだったんじゃないかな〜??
さて、車に戻ろうとして、クスノキの周りの田んぼが麦秋で黄色く染まってるのに気づく。奥にはこいのぼりと赤いつつじも見える。あれ?左奥に見えてる緑の堤は、もう一つも目印の広庄池じゃなかろうか?
巨木は田んぼの中で、空にのびのびと枝を広げている。実は巨木がある環境としては珍しいのではなかろうか?少なくとも、神奈川や東京では見たことないな。この木は樹齢1000年の伝承とのこと。よく令和の時代まで残ってきたなあ。樹勢も十分。これからも元気にここに立ってて欲しいなあ。
故郷の巨木さんぽのフェナーレを、野都合神社さんの巨木で終われて大満足です。
と。綺麗に記事を書き終えたものの、ブログを書くにあたり野都合神社について再度webの海で調べたらあったよ。しかも、屋敷森にあった木という私の推測はおおハズレでした。
野都合神社の伝説:今からおよそ800年前 (1185年頃)の昔のことである。讃岐の屋島の壇ノ浦で源氏と平氏の大戦争があった。その戦いに敗れた平家の軍勢は、瀬戸内海を西に向かって長門の壇ノ浦へと逃げて行った。
この時、平家の大将平清盛の孫、知章の重臣であった左衛門佐重忠ら一族十数人の乗った船は、いつの間にか本隊の船から離れてしまった。2日間波間を彷徨っているうちに燧灘の山田(現観音寺市柞田町)の沖にさしかかった。遥か陸の方に1本のクスノキの大木が眺められた。あのあたりにはたぶん里人も住んでることだろう。早く上陸して助けを求めたいとは思ったが、戦いの傷の痛みと喉の渇きや空腹の苦しさに、誰も船を漕ぐ力もでず一同ぐったりと打つ伏してただ潮の流れに任せるばかりであった。日の暮れかかる頃、ふと気がつくと船は岸辺に漂着していた。
一族郎党の中には、既に命尽きた者もあぅったが、重忠以下残る家臣は、船から這い出し力を振り絞ってクスノキの大木までたどり着き、一同クスノキの根元に座をしめて、陰暦2月の寒い夜に平家全盛の頃を夢見つつ一夜を過ごしたのだった。
翌朝、明け方の陽光が金色に輝き、将兵の紺地錦の直衣に温かい光がさんさんと降り注いだ頃には、将兵は哀れにも命果ててしまっていた。土地の人々はその御霊を憐れみ、一族の墓をつくり「賢霊塚」と名付けて極楽往生を念じ、クスノキの老木を含む神域を「野都合神社」としてあがめた。
この霊はながくこの里人を守り、もろもろの災難を払いたもうたということである。
出典:観音寺市誌「民俗・民話・伝説編」
ふおおおおおお〜〜!!まさかの源平合戦所縁の場所だったとは!なぜに説明板を設置しないんだろ?このお話を地元民でさえ知ってるの少ないんじゃないかな?歴史は伝えてかないとダメなんだよ〜。