あられの日記

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曽我の里史跡めぐり

2017年02月15日 13時21分56秒 | 箱根・小田原周辺
2.12の梅散歩の続きです。昼食を二宮尊徳遺髪塚で済ませお散歩再開。

道々石仏や道祖神が点在してる。上の画像は唯念行者の名号碑ほか石造物群
唯念(1789−1880)は相模・伊豆・駿河にかけて各地に念仏講を組織し、阿弥陀如来の名号を唱える事の功徳を説いて、多数の信者を指導しました。上の画像には唯念行者の特徴ある筆で、「南無阿弥陀仏」と大書し、このように阿弥陀如来の名号を彫るので、名号碑または念仏塔といいます。(ふるさと探訪『曽我の郷めぐり』より)
県道72号線を松田方面へ。
道々梅干し屋さんが点在してた。梅を使って作る商品が並んでいたので、小型瓶の梅酒を購入。これでお土産は大丈夫。

梅干屋さんのそばに東光院さんがあった。入口にいわれありそうな木札があったのでよって見た。
見所は石幢(せきとう)型六地蔵と徳本(とくほん)の名号碑なのですが、画像を撮りそびりました。上の画像の左手前に並ぶのが肝心の六地蔵なのですが。
石幢型六地蔵は、笠付き六角柱の各面に地蔵立像を浮き彫りにし、文化2年(1805)の銘があります。もとは大山道沿いに祀られていました。
また、山門を入って左手には木造の小祠があり、中に延命地蔵と呼ばれる石造地蔵菩薩立像が祀られています。(ふるさと探訪『曽我の郷めぐり』より)
県道72号線から曽我丘陵の細道へ。なんとなく緩い上り坂を上ってると、空き地に出た。

一見どうという事のない荒れ地ですが、脇にはこんなものが出てた。

太宰治『斜陽』ゆかりの地雄山荘跡。
雄山荘は、太宰治の小説『斜陽』の舞台となった所で、その中には、この建物の内部や周辺の環境が詳しくかかれています。太宰は当時、太田静子の住むこの家に滞在し、静子から自分との関係を書いた日記を借りて「斜陽」を完成させました。(ふるさと探訪『曽我の郷めぐり』より)
数年前火災で焼失。今は空っぽの荒れ地があるのみ。しかし雄山荘のあった場所から数メートルゆくと、富士山と遠く小田原まで見える見晴らしのいい場所でした。そこから更に少し進むと、城前寺さんがあります。

城前寺さんは曽我氏ゆかりの寺です。稲荷山祐信院城前寺と称し、浄土宗芝増上寺の末寺でありました。寺には曽我兄弟及び虎御前の木造の他、兄弟ゆかりといわれる品があります。

本堂裏手の曽我兄弟(左の二基)父母の祐信・満江(右の二基)の供養塔(五輪塔)は、昭和5年(1930)にこの地に新たに作られたものです。江戸時代以降、江戸歌舞伎を中心に曽我ものが隆盛をきわめるとともに、「曽我氏ゆかりの寺」として城前寺がクローズアップされ、以来曽我兄弟にまつわる事柄の多くが、この寺に結びつけられてきたようです。(ふるさと探訪『曽我の郷めぐり』より)
併せて説明板発見:城前寺(浄土宗稲荷山祐信院)
「曽我兄弟の菩提寺で兄弟の育った曽我城の大手前にあるのでこの名がある。
建久4年(1193)富士の裾野で兄弟が父の仇、工藤祐経を討った後、叔父の宇佐見禅師は、その遺骨を携えこの地に来て庵を結び、兄弟の菩提を弔ったのがこの寺の始まりと伝えられる。
なを、この討ち入りの時、兄弟は暗夜であったため傘を燃やして松明としたので、仇討ちの日に当たる5月28日には、この古寺にならい境内で傘を焼いて兄弟の霊を慰める傘焼きまつりが行われるが類例の少ない祭りであるので有名である。
境内には、十郎・五郎・父祐信・母満江戸御前の供養墓や十郎が大磯の虎御前をしのび腰を掛け、笛を鳴らした忍石、坪内逍遥筆で歌舞伎俳優連中寄付の兄弟の記念碑のほか各種るかりの品がある。
なを、4人の墓の建つ墳丘は、曽我城の土塁跡である。」
曽我の郷めぐりの途中には、別所梅林近くの法蓮寺さんで満江御前の墓を。曽我丘陵の高い所に父祐信の宝篋印塔があります。
城前寺さんの近くの道端で見つけたのは沓石でした。

胸の高さくらいの場所にあり、気付きにくいので注意。
曽我五郎時致(ときむね)が病が癒えた後、自分の力を試そうとして踏んだ時に出来た足跡と言われています。(ふるさと探訪『曽我の郷めぐり』より)
併せて説明板発見:五郎の沓石
「この石は、「五郎の沓石」と呼ばれ、あるとき曽我五郎(曽我物語で有名な曽我兄弟の弟)が足を患ったが、治癒した際、自分の体力が衰えてないかと心配になり、試しにこの石の上で踏ん張ったところ、石が足形に窪んでしまったといわれ、その足形が石の真ん中辺りに残っています。
この沓石には、以前は、足を病んだ人達が祈願して治ったお礼にm草履や草鞋などのお供え物が耐えなかったと言われています」
沓石のそばにはこんな道路標識がありました。あんまり見かけない標識だよね。

大光院さんは、諸法山実相寺と称し、文明18年(1486)の起立と伝えています。本尊は木彫り不動尊。堂前には明治32年(1899)の「神変大菩薩」に石塔があります。神変大菩薩とは役行者のことで、本来は山岳修験の系譜につらなる寺でしたが、明治初頭に天台宗園城寺派に変わりました。(ふるさと探訪『曽我のさとめぐり」より)
細い道を進んでると、青島みかん取扱い業者さんがあった!近所の八百屋でよくみる青島みかんってこの辺りの名産か〜。
徒歩数分。宗我神社さんに到着。

宗我神社は辺り六村の総鎮守です。江戸時代には小沢明神の名で尊崇され、明治に入って六ケ村それぞれの鎮守をこの社に合祀し、新たに宗我神社となりました。現在の社殿は関東大震災後に復興したものです。(ふるさと探訪『曽我の郷めぐり』より)

大鳥居の横の大木の寄生木を見上げる。実はこの下に尾崎一雄文学碑があったんだけど時計を見てて見そびった。
ボチボチ下曽我駅発の時刻が気になるんです。なにしろJR御殿場線は1時間に1本程度しか運行がない。今が12時58分だから1時13分はもう無理。14時8分発を目指そう!

宗我神社さんを過ぎたら急な下り坂が出現した。あれ?こんな所にこんな急坂があったっけ?実は私はこれで4回目の曽我の郷めぐりなのですが、今回は富士山見ながら散歩したくて逆回りなので、かつて歩いた道とはいえ所々忘れてます。でもまあ白梅畑を眺めつつだらだら歩くのは楽しいから問題なし!

曽我岸の地蔵尊
旧曽我岸村には古くから村持ちの地蔵堂(もと背後の公民館の位置)があり、その本尊は石地蔵であったことからが延宝元年(1673)の村鑑に記されています。
旧来の例祭は1月23日と8月23日、これに春秋の彼岸を加えて年4回の供養が催された。毎年二戸一組の「お地蔵さんの番」が村内の米を集め、紅白のにぎり飯と煮しめを用意し、午後には堂内で村人が念仏をあげたという。明治25年の回向帳には松田町神山、中村藤沢、古怒田、風祭等40ケ村あまりの記名があり、信者は足柄平野一帯に及んでいた。
村の中心にあった地蔵堂は、村のあらゆる行事の無体であり、集会場でもあった。戦時中は一時、横浜元町国民学校の疎開児童の宿舎にもなった。昭和44年(1969)4月、曽我岸公民館として建替えられ、旧地蔵堂の地蔵菩薩・閻魔王像ほか諸仏は館内に安置されています。(ふるさと探訪『曽我の郷めぐり』&説明板より)
おっしゃ!後は瑞雲寺さんと中河原梅林だけだ!…時間あまるかも?
ここから瑞雲寺さんはちと離れてるんだけども?午後に入り雲が出て来て、富士山に雲がかかってきてて不吉だ。中河原の梅林で白梅と青空と富士山の画像がゲット出来るかどうか微妙になってきた。

ぼやいてたら瑞雲寺さんが見えてきた。瑞雲寺さんには石仏がたくさんあるのでお好きな人は要チェックです。

龍球山瑞雲寺は曹洞宗の寺で、寺伝では明応元年(1492)の創立ということです。寺号は小田原北条氏家臣の本多豊前守信親(法名瑞雲院龍球宗洞)に由るので、この頃中興したものでしょう。山内には石造物が多くあります。(ふるさと探訪『曽我の郷めぐり』より)
境内では売店が出てます。本堂では展示があったような?

いや、梅林メインで散策したので見てない!

上の画像では分かりにくいのですが、画像中央にある石碑は曽我自修発祥の地です。明治時代、小学校の制度は全国的に普及したものの、それより上級の進学は不可能に近い状況でした。瑞雲寺21代和尚は、この不備を救うための寺の本堂でこの地域の成年を教導し、明治43年(1910)ここで校舎の建設に着工しました。自修学校と称し、落成は、大正2年(1913)2月でした。
一応歴史ポイントを抑えたら、楽しみにしてたしだれ梅チェック!!

見頃!いや〜〜、2012年の訪問では見頃過ぎてて残念だったので、今回こそ!と気合いいれて来てよかった〜〜。
説明板発見:瑞雲寺
曽我梅林の中にある寺として知られるこの寺は、龍珠山瑞雲寺と号し、曹洞宗で津久井の太井山功雲寺の末寺であり、相州黒岩城主本多豊前守が、日頃帰依していた功雲寺の5世仁忠継儀和尚を招請して、明応元年(1492)に建立した名刹である。
創建当初は、現在地より東方200メートルの丘上に建立されたと伝えるが、江戸時代の後期に現在地に移されたと言う。
寺には18世紀観源大器和尚の「へえずり石」や、縁結びと子宝を授かると伝える「洗心池とめん玉弁天」があり、また曽我兄弟が父の仇を討つために願文を納めて、「十人力」を授けられたという「力不動尊」が安置されている。
この不動尊は大山不動尊の前不動で、曽我剣沢の地にあったものを江戸時代後期に当寺家に移されたものである。
なお寺内入口左側の梅林は、21世住職によって開設された当時足柄平野唯一の私学「自修学校校舎」の跡地である。
同校は明治43年7月に開設され、大正15年8月、校舎拡張のため東方丘上に移転。のち湘北中学校、湘北高校、向上高校と校名を変更した。」
瑞雲寺さんから県道72号線へ向う。道を渡ると中河原梅林に到着です。
あれ??白梅が咲いてない!新松田からバスで来た時は、中河原梅林バス停のここで下車したんだよね。あの時あった祭り会場がなくなってる??あれ?

ここから富士山方向に少し下ってるから構図はバッチリなのですが、肝心の咲き具合が今一。いや、今二つ〜〜。

ここで撮影時間15分と見積もっていたのに、早々と撤収することに。もうね。こっから先は駅に戻るしかないので、県道72号線を国府津方面にとぼとぼと…。

んでもってここが最後の撮影ポイント!しばらく富士山のてっぺんの雲が取れないか?粘ったけど諦めた!撤収〜。ってな訳で、13時45分には下曽我駅に到着しちゃった!帰りの切符を券売機で〜〜〜〜〜っ!!!
券売機が100円玉を受け付けない!窓口にカーテンがかかってて、駅員さんがいない!マジで!!梅まつり開催中なんですけど〜!!
券売機の前でうろたえてたら、私の後ろに続々切符を求める乗客が並び出した!ピンチです。
辺りを見回して「55分から取扱い再開」という張り紙を発見しました!
さすが1時間に1本のJR御殿場線です。ダンナいわく「四国の田舎の昭和の頃の駅みたいだね」だって。あの頃はのんびりしてたよな〜。今じゃ田舎の最寄駅は味気ない無人駅になっちゃったけどさ。
13時55分、ようやく券売機の硬貨投入口に100円玉が通るようになりました!こういう仕掛けがあったのね。そして14時8分発下曽我駅発に無事乗車。ちなみに、下曽我駅〜国府津経由〜小田原行き片道200円。下曽我駅〜松田駅片道200円なので、1時間に1本のJR御殿場線ですが、上り下りどっちでも乗車出来ます。最悪下曽我駅から路線バスに乗るという手もあるんで、公共交通は不便だけど車で来て駐車場探すより気楽だと思いました。

ちなみに、こちらが自分土産の梅ジャムとダンナ土産の清酒で作った曽我梅林の梅を使った梅酒です。
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