脳機能からみた認知症

エイジングライフ研究所が蓄積してきた、脳機能という物差しからアルツハイマー型認知症を理解し、予防する!

8月の右脳訓練ーふるさとノスタルジック紀行(若戸渡船)

2018年08月14日 | 私の右脳ライフ

いくよ旅館は戸畑駅前にありますが、そのまま海の方に進むとほんの2~3分で若戸渡船乗り場に着きます。洞海湾を挟んだ二つの町、手前の戸畑と湾の向こうの若松を繋いでいます。

母の実家が若松にあったので、子どもの頃よく船に乗って若松に行きました。船の旅といっても本当にあっという間。それでも電車や車に乗って小倉や八幡に行くのとは別の「旅情」を子どもながらに感じたものでした。

乗り場は若戸大橋の橋脚のすぐ下にありました。
まだ7時前にもかかわらず、乗客は自転車に乗った人も含めて10人ほど。大人料金100円。運行時間は3分。
出航してすぐ若戸大橋の下をくぐります。考えたら若戸大橋をくぐったことはあったのでしょうか?橋が開通したら車やバスで若松に行けるようになりましたから。

デッキから振り向きざまに撮りました。

何しろ3分ですから、すぐに到着。
折り返し便で帰ろうかとも思いましたが、せっかくの若松ですから、ちょっと散歩をしてみました。若松レトロとしてほんの少し光が当たっているのが旧古河鉱業若松ビル。

説明板もありました。

官営八幡製鉄所の火入れ式が行われたのは明治34年。
ここに製鉄所が建設された理由は筑豊炭田の石炭を鉄道輸送や遠賀川の水運を使って大量輸送できること。洞海湾を使った鉄鉱石搬入の利便性。そして軍事防衛上要の土地だということは、子どものころから何度も教えてもらいました。
そして「明治日本の産業革命遺産」として世界遺産登録決定された1年後に、萩の友人を訪問する機会があって、たくさん勉強をしました。大きな国の動きとともに北九州が工業化されていったことがよくわかりました。
レトロなビルをもう一つ発見。

近づいてみると、やっぱり石炭関係。

筑豊の石炭を遠賀川を使って洞海湾まで持ってきた後は、ごんぞうと呼ばれた人の力で運びあげたのです。
レトロなビル群の道を隔てたところに洞海湾の波が寄せています。石の階段がすり減るほどの荷役の上げ下ろしがあった所だとか。

葦平文学散歩の文字が見えます。小説家火野葦平はごんぞう(沖中仕)を取りまとめる玉井組の跡取りでもありました。子どものころ母が小さな声で「玉井組って気が荒いごんぞうたちの組だから」と、なんだか微妙な声音で話してくれたことをふと思い出しました。結局何が言いたかったんでしょうね。

ごんぞうの説明板


戦後、日本製鉄が解体されて発足した八幡製鉄が巨大化していく過程と、私の成長期とはほとんど重なります。確か小学校6年生の時、東洋一の高炉が「八幡」じゃなく「戸畑」に建設されたと誇らしく思ったことを覚えています。
町に勢いはありましたが、今考えるととんでもない公害の町でもありました。「七色の煙」、「死の洞海湾」などの言葉を問題視することなく使っていましたから。
八幡製鉄と富士製鉄が合併して新日鉄になったのが1970年。この年に私は大学を卒業しました。
工場の主力が千葉県君津市に移ったのでしょう、この時多くの知り合いが君津市へ移り、これをきっかけに戸畑は次第に勢いをなくしていったのだと思います。
高齢化も進み、人口も減っていってますが、落ち着いたやさしいまちに変貌した戸畑。なんといっても故郷、大好きですが、ちょっとだけ寂しい気持ちが湧き上がってくることも否めません。


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