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新・徒然煙草の咄嗟日記

つれづれなるまゝに日くらしPCにむかひて心に移りゆくよしなし事をそこはかとなく紫煙に託せばあやしうこそものぐるほしけれ

暦とは裏腹に秋まだ浅い東博でした

2011-11-20 19:15:54 | 美術館・博物館・アート

11月17日の「久しぶりの東博のお話は匍匐(ほふく)前進」のつづき。


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東京国立博物館(東博)では、恒例の「秋の庭園開放」が行われています(12月11日まで)。
もう11月も半ばだったというのに、まだまだ緑豊かで、ちょっとだけ秋が感じられるかな?という風情でした。


ところで、東博の庭園には由緒正しい古い建物が5棟移築されていて、約2年前のこちらの記事にも書きましたように、それぞれが茶室として開放されています(もちろん有料)。
その中の一つが、上の写真で右端に写っている「転合庵」です。
この「転合庵」についての説明を東博のHPから転載しましょう。


小堀遠州(こぼりえんしゅう 1579~1647)は八条宮から茶入「於大名(おだいみょう)」を賜った際に、その披露のために京都伏見の六地蔵に茶室転合庵を建てました。1878年、京都の寂光寺に伝わっていた転合庵を、渡辺清(福岡県令、福島県知事、男爵)が譲り受け、東京麻布区霞町に移築。その後、三原繁吉(日本郵船の重役。浮世絵コレクター)へと所蔵者が変わっています。三原は茶入「於大名」も入手し、茶室転合庵とゆかりの茶入「於大名」がここで再び巡り合うこととなりました。その後、塩原又策(三共株式会社 今の第一三共の創業者)を経て、妻の塩原千代から1963年に茶入とともに当館に寄贈されました。


建物の所有者が変わるのは珍しくないけれど、建物自体が京都・伏見⇒京都・左京区⇒東京・霞町(西麻布)⇒東京・上野と移築されたというのは、なかなかのお話です。
111120_1_2 塗り壁は新調しなければならないものの、柱や梁、障子や襖、板はバラバラにして、再度組み立てられるという日本の建築物ならではの芸当ですなぁ。
都が畿内の各地を遷っていた昔も、基本的に建物はバラして、新しい都に移築していたという話もありましたっけ…。
ちなみに右の画像は、大阪歴史博物館(訪問記はこちら)に展示されていた古代の都の所在地を示すパネルです。


それはともかく、小堀遠州さんが転合庵を建てるきっかけとなった茶入「於大名(おだいみょう)」が、総合文化展で展示されていました。


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説明プレートを転載します。


茶入 銘 於大名
美濃
江戸時代・17世紀
塩原千代氏寄贈


小堀遠州が桂宮智仁親王より拝領したと伝えられ、中興名物にも取り上げられた瀬戸茶入面取手の本歌とされる茶入。遠州によって水滴形から現在の形に仕立てられ、彼の伏見屋敷の茶室転合庵に附属し伝世したが、その後離れ、明治に再び転合庵と一緒になった。


説明が難しいし、転合庵説明とは宮さんの表記が「八条宮⇔桂宮智仁親王」と一致しない(同一人物です)し、工夫の余地があると思いますゾ


とかなんとか書きながら、私、茶道具にはとんと疎くて、まさしく「猫に小判状態でした


   


なにげにボコボコといくつもの国宝が展示されている東博の総合文化展(常設展)ですが、本館1階2室は、「絵画・書跡の名品をゆったりとした空間で、心静かに鑑賞していただくため特別に設えた展示室です。当館所蔵あるいは寄託の国宝から選りすぐった作品を展示します」という触れ込みのコーナーになっています。


私が出かけた先週、ここには「大宰府公験(円珍関係文書の内) 福州公験(円珍関係文書の内) 台州温州公験(円珍関係文書の内)」が展示されていました(11月13日で終了)。


円珍というのは、第5世天台座主にして園城寺(三井寺)の初代となった智証大師圓珍のことで、「公験(くげん)」というのは、身分証明書のようなもの。


展示されていた大宰府公験・福州公験・台州温州公験は、円珍が唐に渡った時のパスポートやビザの類です。
ですから、美術品というよりは歴史資料としての側面が強い国宝といって良いかもしれません。


まず「大宰府公験」はこちら。


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何が書かれたものかといいますと、説明プレートによれば、


巡礼・修学のため唐への渡航を企てた円珍は、大宰府近くの四王寺に滞在して便船を待った。やがて新羅の商人王超等の船に便乗する手はずが整い、随行の従者とともに公式に渡航許可を得たのがこの文書である。3箇所に「大宰府印」の朱印が捺されている。


というわけで、1150年前日本国のパスポートです。

そして、福州公験と、


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台州温州公験は、


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台州温州公験の説明プレートに、

10月中旬に温州に入ったため、再び同地の役所に滞在・通過の申請を提出した。福州と同様に、文書に地元の役人が確認の文言を書き入れて、返却された。一行はさらに進み。12月初めには台州臨海郡に到着した。この後、円珍たちの求法の旅はさらに続いた。


とあるように、1150年前ビザです。


1000年以上も前の歴史上の人物のパスポートやビザが残っているとは、たいしたものですなぁ。


ちなみに、福州は現在の中華人民共和区の福建省福州市台州浙江省台州市温州あの鉄道事故(関連して、痛すぎて笑うしかないニュース)の起こった浙江省温州市のことかと思われます。


   


次に紹介する作品は、よくよく観るうちにギョッとしたこちらの作品。


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狩野探幽門下四天王の一人」だという久隅守景の筆になる「鷹狩図」で、タイトルどおり、鷹狩りの様子が描かれています。


それはいいとして、鷹が仕留めようとしている獲物は、、、


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は、は、ハクチョウ


たまたまハクチョウを襲ってしまったのかと思うと、


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ちゃんと収穫してる…

さらに、従者がニコニコしながら運んでいるのは、、、


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タンチョウ(後のはマナヅル?)…


この後、獲ったハクチョウをどうしたのでしょうか?食べたんでしょうね…


現代人からすれば信じがたい様子が描かれた作品で、今回はおしまい。

コメント
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